「随想録」
 

私の随想録 第1集


 今年に入って2、3、4の3カ月、高知新聞のコラム「閑人調」に随筆を連載しました。

 閑人調の欄名にふさわしいものにするため、極力くだけた筆放にするよう心がけましたが、そういう中にもその一つ一つに必ず、意味のある提言を織り込むことを考えました。そうなると、言いまわしをどんなに柔らかくしてみても、考え方の筋そのものは十分に練りあげ、きちんと整理しなくてはなりません。

 このようなわけで、以下九本の随想はどれを取ってみても最近の私の思考の結晶と言うことができます。そして、その都度には自分でも気付かなかったのですが、連載を終えて読み返してみると、全体を通して一つの共通点があることを発見しました。それは豊かな社会到来以後の社会をデザインしようとしていることです。

 皆さまの御批評を頂ければこれほどありがたいことはありません。 昭和56年6月
 

 甘い教師? 昭和56年2月8日

 中学に入学したてのころ、初めて英語の〃書き取り〃なるテストに出くわした。つづりが間違ったリ、ピリオドを抜かしたりするごとに「マイナス5」と赤インクで書かれる。最初のテストでは答案が赤字だらけになって戻ってきた。ちょうど20力所間違って零点!わずかにショックをやわらげてくれたのは同じ零点がもう一人いたことと、マイ十ス20点というまだ下がいてくれたことであった。

 何十年かたった現在ふと思うのは、評論と呼ばれるものの大多数がこんな調子で書かれておりはせんかということである。日本は評論家の文章でみるよりはずっとましだし、アメリカだって国中が病んでいるわけでもあるまい。100点から滅点する代わりに零点から加点していったら、採点後の答案も見た目がよくなるし、点もかなり上の方にズリ上がりはせんだろうか。

 そんな目で中国の「四人組裁判」を見たらこんな見方もできる。

 そもそも裁判とわれわれの常識で言えるものがないようなところからここまで来たのだから、法治国への足取りとしては合格。登山口から見ているともう一、二合目あたりにさしかかっているではないか。八合目や頂上からみればこれで裁判かね、と頭をかしげたくなるだろうが…、

 やれやれ相互理解とは何と難しいことだろう。厳しい採点をしたらお互いに零点同士かもしれない。

 本昔と建前  昭和56年2月18目

 観念の遊戯みたいな、なかには一肩をいからしたような建前論は、戦前にもあったし今も後を断たない。

 こう言ったからと言ってその全部がいかんと決めつけているわけではない。早い話が受付嬢に『いつもお世話になっております』と電話口で言われて悪い気はしない。それが礼節のなかに含まれているお世辞の効用というもの、それを『いい加滅なことを言うな』など咎め立てしていたら世の中は身も蓋もない。虫の好かんやつと思ってもあいさつはしたがいいに決まっている。

 それと同じようなもので、建前論も結構、人を感動させたり式典を荘重にしたりする功徳がある。結構な話でこういう知恵を大事にして行くことには異存がないどころか、大賛成である。

 ただ問題はそれが度を越す場合にある。お世辞は鼻もちならなくなり、建前論が人をしらけさせる。薬も過ぎたら毒になると同じ道理だ。

 観念論の呪縛から抜け出すには、こういう平易な道理感覚で、そこらあたりに転がっている課題を一つ一つきって行くに限る。21世紀の社会をデザインするには、まことしやかな建前論のぶっつけ合いよりも、ごく自然でわかりやすい本音をつないで行く方が堅実だ。

 人間の性を、まずは我と我が胸に手を当てて探ることから始めてみてはどうだろう。

 龍馬さんたち  昭和56年2月28日

 『龍馬さん』と私はかねがね呼んでいるのだが、その龍馬さん、司馬遼大郎の小説以来、日本全体の人物待望論の中で引き合いに出されること抜群。かくいう小生もよくそのお陰をこうむったものだ。『あなたは土佐ですか。じゃ坂本麗馬のところですね』。そんなことで初対面から私の株が二、三割は間違いなく値上がリしたなと思ったことが二度や三度のことではない。

 ひるがえって土佐ではどうか。この龍馬さん、観光の神様としてしかあまりお出ましを願っておらんじゃないかと思えてならぬ。

 何十万という封建武士団は剣術のプロみたいなものだが、その中で龍馬さんは幕末十剣士の一人に数えられている。さな子さんと恋をしたり酒ばかり飲んでいてできる道理がない。小説では力がついてからの活躍や恋のくだりが大写しになりやすいが、『坂本龍馬先生のように』と少年たちを奮起させるには、夜、乙女姉さんに鷲尾山のふもとでしごかれるところや、血の小便を出しながらけい古に励んだであろう時期を、もう少し克明に取り上げてよさそうに思う。

 龍馬さんの仲間たちももっと浮上させてよい。土佐人らしい豪勇物語としては那須信吾の道場通い、高かった土佐の学問水準をうかがわせるものとしては間崎滄浪の詩文など、幸いにして郷土史の蓄積は豊かである。地方の時代、土佐の夜明けは地方文学から、という風にはいかんものだろうか。
 

 首狩り部落の一夜  昭和56年3月8日

 ところは北部ルソン、ジープを乗り捨てて川を渡る。何ほどか歩く。一歩一歩首狩族の部落に近づいて行く私。妙な気持ちだ。もう30年前に首狩りの風習はやまったと聞いていても、いざその部落に向かいつつあって今夜はそこで泊まるのかと思うと、近づくほどに心細さが忍び寄る。あれこれ自分に一言いきかせながらも、よせばよかったという思いが心をかすめる。

 部落を挙げての歓迎の宴のさなかにも、このなかに現に首狩りをしたのがいるはずだと思ってしまう。村人の踊りの輪に入るころは酒もきいていて一時そういう〃申し訳ない思い〃が影をひそめていたが、昔の酋長の家でいよいよ寝る段になるとまた不安めいた気持ちがかま首をもたげる……。

 しかし私はこの部落を去る時、思いがけぬ感動が心の隅々まで支配しているのを覚えたのである。

 早朝目をさまして窓際に立つと、中学生くらいの年ごろの子供が道路ともつかぬ路を掃いているではないか。私が数十メートルくらい歩いて水道(?)の蛇口のあるところへ顔を洗いに行くと、もっと小さい二人の子供が、昨夜のごちそうづくりに使ったであろう鍋を洗う手をやめて私に蛇口を譲るではないか……。

 ここで礼節とか奉仕とかいう言葉があるのかどうか知らぬ。ボランティアなどという観念はまずないに違いない。それでもまるで大自然の営みのように、あるいは老荘の教えさながらに、行為は行われていたのである。

 光明天と間黒天  昭和56年3月17日

 もうずいぶん以前のことになるが何かでこんな話を読んだことがある。中国人が作ったおはなし。
 あるひなびた部落に一軒の家があった。

『ごめんください』……その声で玄関を開けたらまぶしいまでに美しい女が立っているではないか!

『旅の者でございますが泊まるところがなくて困りはてております。ご慈悲で一夜の宿を……』

 主が独身だったかどうかは忘れた。とにかくびっくり仰天したその男、身も心もそぞろに
『さあさあ、どうぞ』
『ありがとうございます。ところで私には一人の妹がおりまして、一緒にお情けにあずかってよろしうございましょうか』
こう言って門の外から連れて来た人を見たら二度びっくり、心も凍るような醜い、恐ろしい形相である。とっさの知恵のつもりで
『お見かけのように狭いところでお一人がやっとでございます』
すると美女は世にも悲しげに言った。
『実は私は光明天、妹は闇黒天と申しますが、私はこの妹と別れたら途端にあとかたもなく消えるのでございます』

話はその先どうなったか忘れたが、人生の幸福というものは光明天みたいなものかなあという思いはそれからずっと私の心を離れない。この暗示、ひっかかり過ぎると向上意欲をそれこそ雲散霧消させてしまいそうだ。過ぎたるは及ばざるが如しというあたりで収めておくか。

 薄幸の国ポーランド  昭和56年3月28日

 アフガニスタンまで送って行った子供二人が、中央アジア、シベリア全行程の予約手配を終え、いよいよ明後日にはカブールの空港を出発しようとする矢先のことだった。〃ソ連軍、チェコに進入〃の報が全世界をかけ抜けたのは…。アメリカの出方次第では世界戦争になる。子供の消息は絶える……。

 まだ19と17歳。当時のソ連旅行はそうでなくても冒険気味だった。予定通リソ連領内に向けて子供を飛び立たせるかどうか、その時ほど迷ったことはない。

 やっぱり行かせよう。運のある子なら幼い心に多くのことを映し取っていつかは日本にたどり着くだろう。そう思って予定通り決行に踏み切ったものであった。

 月日は流れて12年、そのアフガンにソ連軍が進入して来た。切ない思いで子供を見送ったそのカブールでは、ソ連兵に対する住民の命がけの抵抗が続いているという。仏跡バーミヤンヘの道が脳裏に蘇る。そこで銃を取っているであろう住民の姿が想像される。

 そんな星のめぐり合わせから、当節ポーランド情勢くらい私の気をもませるものはない。東からソ連軍、西から東ドイツ軍の戦車がポーランドに向けて殺到する。抵抗する群衆が容敏なく銃撃される。水戸黄門など現れようがない……。そんな光景が脳裏を去未するのだ。

 私にして然リ三千余万、ポーランド人の胸中や如何に。
 

 大きく狂つてはないか  昭和56年4月7日

 そんなことが、ふと、心をよぎる。言わずと知れたことだが、世の中は人々の願望通りには動かぬ。それならば一方では願望通りになるように知恵をしぼり、他方で願望通りにならない場合どうするかを考えねばならぬ。それを分けて考えたら議論もごまかしが利かなくなるはずだ。

 校内暴力問題を取り上げてみよう。概して言えば『校内暴力が起こらぬように』という課題は取り組みやすいものだからどんどん意見がでるのに、『それでも暴力ざたが起こったらどうする』という課題になると誰も触れたがらぬ。

 なぜか。
 ここまできた途端に、さてさて大変なことを言い出したものだと空恐ろしくなる。

 今の日本で一番触れにくいことに触れる羽目に自分を追いやってしまった!久しくタブー視され、言うを憚られてきた力と権威について論争の火蓋を切ることになる。その覚悟なしには筆を一歩も進められなくなったのだ。

 だが、ここまできたら前に進もうと思う。言いたいことはこうだ。やっぱり強い先生がいてくれた方がいいのではないか。権威なるものも、弁えのない暴力の前では有用ではないか。

 ついでにもう少し。男性の美徳の中から強さを抜いてはならぬ。正しく生きようとするなら強くなれ。そうしてこそ暴れるカを威服させることができる。男も女も認め合い誇りとしてきた土佐人のイメージも勇者ではなかったのか。
 

 男性を感じさせた一瞬  昭和56年4月17日

 追跡機がスペースシャトルをとらえ、点が形に変わって行くのを見つめているときであった。男性を感した一瞬というのは。

 原潜衝突事件でアメリカ国軍の風格に懸念を拭い去れないでいた私、自動車問題で米国の衰えを思い30年前、健康そのものであった米国人の気風を回想していた私、イラン人質事件以来暗いこと続き、おまけに新政権の出鼻を挫くような大統領暗殺未迷事件に見舞われたアメリカの前途にひそかな不吉感さえ感じていた私、男を感じたのはその私だった。

 次の瞬間、荒野を西進する幌馬車の情景が頭に浮かんでいた。彼らを辺境(フロンティア)に駆り立てた往年のパイオニア気質を私は思っていたのである。

 スペースシャトルのドアを開けて出て来たアメリカの〃男〃は肩をいからしていなかった。〃アメリカの勇者〃を久しぶりに見る思いであった。女性が感動しているではないか。男性が男性である。そういう男性に女牲が惜しみない賛嘆の声を放っている。

 スペースシャトルが終わった途端に私はスイッチを切った。私なりの感動の余韻を味わいたかったのである。

 子供っぽいなあとも思った。だが、すぐ『それがなぜ悪い』と反論した。そこに、長所といえば長所たる男性の特質があるのではないか。古来の大人物には型破りの楽天家が多い。日本にはそういう大バカ者がいなくなってはいないのか。

 日本の黎明  昭和56年4月28日

『朝日は昇る』と題したいところだがそれは早すぎるように思える。夜のとばりが随所に日本を覆っているからだ。

 これはドイツを見ていての感懐から、翻って思いを日本の前途に馳せての願望である。大きな戦いに敗れた二つの国だった。ともに奇跡の復興を遂げ、最近まで世界経済のけん引力と持ち上げられた両国、しかもドイツは常に日本に先んじた兄貴分だった。そのドイツがカを弱め始めた。しかも完璧な福祉に裏付けられた繁栄の頂点において……。一過性のものであってほしいと願うのだが、ドイツに住みドイツ社会の観察に没頭して最近帰国した友人はそれを否定する。絶望的だ、そう彼は断言するのである。気味が悪い。日本もその後を追うのだろうか?

 ドイツは数多い欧米先進国の中の一つなのだが、日本はアジア、アフリカ全域の中のたった一つの先進国である。がんばらねばならない。よしんばドイツが友人の言うように絶望的だとしても。日本の活力は日本だけのためのものであってはならないのだ。

 発想を転じた時、窮すれば通ずる、という言葉のあることに気付く。八方ふさがりのなかから新しいものが生まれるのだ。知性はふさがった部分を克明に描きがちだが、野性は行動の目標を直観でとらえる。知性に裏付けられた活力が理想的であるに決まっているが、今は知性過剰気味、兎にも角にも野性の持つ活力にもっと発動の場を与えるのが賢明ではないか。黎明は活力が目を覚ます時刻である。


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