伴正一遺稿集・冊子
 

外交から政治へ−国の前途に馳せる戦中派の思い−

 

 世界の国々と見比べてみると、日本では多くのことが割に順調にいっている。情勢の変化に対する日本人の対処能力も見直されている。その中で、政治の状況だけがはかばかしくない。

 北京在勤時代の私の日本像である。

 さて、その政治であるが、若い頃のように悲憤慷慨してみても、それでよくなるとは思われない。性急な行動に出てもかえって混乱を招くばかりであろうことは昭和史の前半がこれを立証している。政治は、そのように難しいものなのだ。頭で考え、口で言うような具合にはいかない。克服困難な障壁がヒマラヤの山なみのように連なっている。それほど難しいものだからこそ、多くの人々の願い通りに政治がよくならないのであって、政治家を槍玉に挙げ論難するだけでは犬の遠吠えに終ってしまう。

 ここまでたどりついてから私は更にこう考えた。

 政治の現状を一歩でも二歩でもいい、とにかく前進させようとするなら、実践の世界に飛び込むほかはなかろう。その渦の中でまずイヤというほど揉みくちゃにされるのだ。厳しいだろうが現実の洗礼を受けないことには、どこが改善可能で、どこが改善不可能かの見さかいさえつかないではないか、と。

 政治をやろう。外務省は中国で切り上げよう。郷里の土佐へ帰ろう。その決心がついたのは昨、昭和五十四年の晩夏、ところは天山山脈の中腹、天池という湖のほとりであった。

 行く手に何があるのかわからない。生い育った土佐の山河が目に浮かぶ。そして高知の町なみが……。あの人はまだあそこに住んでいるだろうか。父や母が生前世話になった人々の中でまだ元気な人も沢山いるだろう。幼ななじみの顔が浮かび、ヌーボーとしていた往年の自分自身が思い出される。土佐を出たのは太平洋戦争(大東亜戦争)勃発の一年前、海軍経理学校に合格した十六歳の時である。

 二十歳でマリアナ沖海戦、大海軍の崩れ去る姿を目のあたり見ながら二十一歳で終戦。今では懐かしくもあるてんやわんや時代は大学、司法修習生、弁護士。それが転じて外交官となったのは、追放も解け、講和条約発効もあと一月という昭和二十七年の春であった。

 天山の雪を仰ぎながらの回想である。

 年も師走の十日、大平総理訪中完了の翌日、予定通り、私は「伴公使に帰朝を命ずる」との辞令電報を手にした。

 北京空港を飛び立ったのは明けて昭和五十五年一月である。思い出深い中国在勤であった。この三年は二十八年の外交官生活のハイライトであったと思う。生き長らえただけのことはやったという確かな実感もあった。

 モスコーに向けて六日六晩走り続けたシベリア鉄道の車の震動が蘇える。シルクロード、天山での決意。見損った江南の春、最後の旅行となった〃雪の満州〃……。旅にまつわる思い出にふけりながら、私は機上の人となっていた。「どんな運命が俺を待っているんだろうなあ」。ポツンと横にいる妻にそう言ったものである。

 

 思いがけないことが帰国二日目に起こった。民社党の佐々木良作委員長や春日顧問との出合いである。党籍を問わぬ。個性を思う存分に出せ。そういう前提での出馬のいざないである。公明党が推薦に加わることはまず間違いない。社会党は予断を許さないが、ということでもあった。

 迷いに迷った。逆転の見通しは別として与野党伯仲の八○年代を想定していた当時の私である。その想定の中で政界再編成の波瀾を予測し、一議席の重みなるものを考えた。無所属立候補の意思を佐々木委員長に伝えたのは、それから半月後の二月八日、約束の回答期日を過ぎること一週間余りの後であった。

 それから四カ月半、私の身辺には生まれて初めてぶつかる未経験の局面が次々と生起した。そして六月二十二日明らかになったような運命の判定を受けたのである。

 この戦いがなんであったか。選挙で経験したことを一つ一つ思い浮べながら、いま私は、自ら求めて受けた「現実の洗礼」を頭の中で整理し、反すうしているところである。

 政治のような世界に足を踏み入れるのは止せ。やるならもっとよく準備を整えてからにしろ……。何人かの切々たる助言を私は最終的には無視したことになる。伴を見損った、と言って去って行った友もいる。

 政治をよくするのだと言ってみても、ミイラ取りがミイラになる危険は確かにある。中国公使までの伴正一のイメージは、すでに少なからず損なわれたことだろうし、これから更に手痛い傷を負うかも知れぬ。それにもかかわらず私がやめずに政治をやると言い張っているのは何故か。

 六十万有権者の存在を片時も忘れることのできない境遇……。その境遇に身を置くことなしに民主政治を考えることはできぬ。厳しいことこのうえなし。今年の初め頃には考えてもいなかったような難しい課題のあることもわかってきた。こういう開眼に続いて第二、第三の開眼もこれから期侍できる。

 政冶をよくするという決意は、こうして開眼しては挑み、また、開眼しては挑んでゆく試練の中で初めて本物になるのではないか。今こそ天山での決意が本物だったのかどうか試されている時期ではないか。

 

 私が政治に志したのには、もう一つの理由があった。それは一口に言って日本の外交に対する私の抱負である。

 外交の面で、私は今日までの日本外交をそしる考えはない。黒白をはっきりさせて国際世論をリードしようとすれば、それだけ敵を作ることになる。資源面で自給度が低く、対外依存度の高い日本経済の宿命的な脆弱性を考えれば、敵は作らないように腐心せねばならなかった。なんと釈明してみても、外から見れば八方美人に映ったであろうが、それは致し方のないところで、今までの日本外交の歩みは大筋において賢明だったと思っている。

 金を出すのが渋いというのも定評だ。二国間交渉でも、相手が実力行動に出そうになると急に態度が変るが、それまでは容易に相手の主張に耳を傾けようとしないとも言われている。国内産業を守ろうとし国内世論に気を配っていれば、そうなるのも無理はない。今まではそれで仕方がなかったと私は考える。

 しかし、このような姿勢が許されるのはある一定の段階までであり、日本はもうその段階を過ぎようとしているのではあるまいか。

 その一つとして、日本はもっと政冶的役割を果すべきだ、とする国際世論の高まりがある。国力にふさわしいリーダーシッブを持てという注文だと理解してよかろう。少なくともアジア、太平洋地域に生起する諸々の事態に対し、独自の見解に基づいてはっきり物を言うことが求められる。今までの式で、日本への影響、在留日本人の安否を見ているだけというわけにはゆかない。厳しさが全然違ってくる。

 また、政治的役割を果すことは通常、手ブラでできることではない。日本の場合、国家財政へのツケを覚悟せねばならぬし、そこから納税者の納得という問題が浮上する。

 開発途上国援助にしても、二国間交渉においても、渋い日本、さもしい日本などという印象を与え続けていていいのか。長い目で見て大損にならないかという視点が年を追って重要性を帯びつつある。ここでも納税者たる国民の理解と覚悟が求められる時代がもうやってきたと見ていい。

 ということはとりも直さず、外交の面でも政党や政治家は恰好のいいことばかり言っていてはいけない。事柄の本質をはっきり説明し、長期的な国益のためにどの程度まで短期的な利益を犠牲にする覚悟ができるか、そこらあたり肝腎のところを広く有権者に問いただしてゆかなくてはならなくなる。それは増税問題を問うのと同じように大変に勇気の要ることで、一度や二度の選挙で片のつくほど生やさしい事柄ではないだろうが、国の舵取りを誤らないようにしようとすれば、避けて通れない必要過程だと思われる。

 今後も外務省中心、あるいは外務省と関係省庁の協議を基軸にして現実の外交交渉は進められるであろうが、交渉に当る外交専門家に国民として、有権者として、納税者として、何を授権するかということが、これからの政治にとって格別に重要である。カー杯挑戦すべきだし、真の政治家なら命がけで挑戦するに値することだ。

 外交専門家であった私が、足場を政治の中に移そうと決意したのはこうした見通しがあったからである。

 四

 五十六年というこれまでの生涯の中で外交官時代は丁度その半分を占める。その間私は人間交流の面にかかわり合いを持つ時期が長かった。人間交流という局面で我ながら心血を注いでやったと思っているのが海外移住と技術協力の仕事である。この二つには永住と短期、南北アメリカとアジア、アフリカというような差異はあっても、農民やエンジニアや青年たちが異民族社会に飛び込む姿を見守る点において共通点があった。彼らにいくら覚悟ができていても、その道が担々としたものであり得る筈がない。挫折は到るところにあり、私自身、事態収拾に苦慮した思い出は数限りなくある。

 しかし、試練の克服や逞しい人間成長の実例に感動した思い出も数のうえでそれに劣らなかった。人間成長よりもっと画期的だという意味で〃開眼〃というべきなのかも知れない。異民族社会にはそれぞれに社会のリズムともいうべきものがある。そのリズム感がわかってきて、それなりのよさがあるなと感づくくらいになるあたりで、彼らはまた、それと見比べながら、自分を育ててくれた日本の社会を新しい視点から見直すようにもなる。

 山深いアジアの奥地で、私自身が選考し訓練した青年海外協力隊の隊員たちと地酒を汲み交した思い出の数々、相手は稲作からコンピューターまで、ありとあらゆる職種の若者たちだったが、話の中味は試に確かな文明論と言えるものであった。自国の文化を知らずしてなんの人間交流ぞやと言われもするが、異質な文化にじかに触れない間は人間は自国文化のなんたるかをなかなか考えるものではない。

 これから、日本でも豊かな社会の行くえについてのデザインが求められる。大陸文化や欧米文化摂取時代には範を他に求めることができたが、今度はどこを見渡しても範とするに足るまとまったモデルは見当らない。日本民族は史上初めて、その独創性を試されることになる。

 私はこれからわが国現代社会の実情に触れ初心者のつもりでそのあり様についていろいろな考え方を吸収したいと思っている。しかし、それと同時に、私自身も人間の生きざまを見る目において、経験を通じて得た独自の視点を持っていると自負しており、その独自の視点を豊かな社会以後のデザインづくりに生かすことも大きな抱負なのである。
 
 五
 
 外交二十八年の中でのハイライトは駐中国公使として北京に在った三年間である。九億という気の遠くなるような人口、それにも増してマルクス・レーニン主義の国であることとないことの差が人間交流の面でも前途を難しいものにしていると思えた。私の手掛けた仕事の中で、年々数百という留学生の受け入れ、鉄道分野を皮切りとする技術協力の展開などは、確かに画期的な意味を持つものであったが、国家体質の違い、規模感覚や流儀の違いから、人間交流がかえって不信の種をまき随所に反日感情を育む危険もある。日本人の場合、中国人に接する姿勢づくりには多分に修練を要し、それが危な気ない感じにまで上達するには、なお長い歳月を要するであろう。その意味でも、北京の三年は私にとって中国とのかかわり合いの序の口、本番はこれからだという気持を禁じ得ない。

 こういう人間の交流を裾野にして聳えているのが日中両国の国家関係である。それが、これからどういう様相で推移してゆくか。週去一世紀の概ね不幸な日中関係を回顧するにつけても、その推移が日本、中国双方の国運に深い影を落すであろうことが容易に予想される。それだけではない。アジア全体の運命を左右する諸要因の中で、日中関係くらい大きい比重を持つものが他にあるであろうか。

 日中平和友好条約締結交渉や尖閣列島問題に直接かかわり合い、ヴェトナム出兵をめぐってのやりとりにも一役を担った私としては三年のうちにでき上がった私なりの人脈を手掛りとしつつ、これから政治家として真に意味のある役割を果そうと心に期しているのである。

 

 実践体験として、長さのうえでは外交官時代に遙か及ばないが、海軍士官二年の実戦体験くらい私の人生観に影響を与え、今も与え続けているものはない。感愛性の最も強い十九歳から二十一歳の間である。死と生が抗し得ない運命によってふるい分けられ、同期の半分が死んでいった。私はそれから三十五年後の今まで生きている。

 戦とはそういうものである。この戦争は強い日本が弱い中国に攻め込んだところから始まったが、その状況を作り出した元はと言えば大正時代の対中国政策であった。

 強い日本が再現することはまずあるまい。しかし、日本が強くさえならなければそれで戦争が避けられるものではあるまい。強い国が弱い日本に攻めかかって来ないとは言えない。また、攻めかかる瀬戸際の状況が作り出されないとも言えない。その確率が東海大地震の起こる確率の仮に十分の一としても、やはりその際を想定して物を考えておかなくてはならないのではないか。その瀬戸際では、国として、屈伏するか抵抗するかの決定を迫られようし、その時になって国民投票に問うなどの時間的余裕のないことは明らかだからだ。

 ガンジー式無抵抗主義の考え方でゆくなら、侵入軍、占領軍に対して、武力抵抗こそしないが、投獄されようと殺されようと一切敵に協力しない、武力以外のあらゆる抵抗をする、場合によっては敵に利用されそうな生産設備を全面的に破壊してしまうという手もあろう。いま述べたことはほんの一つの例であり、国として、国民として、時には個人として上のほかにもいろいろの対応があり得よう。侵入軍の性格やその占領目的にもいろいろの型があることは過去半世紀のさまざまの実例が、これを立証する。軍事的に弱い日本を前提とするならそれなりに、これくらいのことはあらかじめ考えておかねばならぬと思う。

 第二次大戦を刀析れ矢尽きるまで戦った戦争体験を持つ私には、ヴェトナムやソ連の進攻に立ち向かうカンボジアやアフガニスタンの兵や民衆の戦いの日々、被占領の日々が、他人事には思えない。わが人生の回顧、世界情勢の展望につけて、治に居て乱を忘れずの思いが湧いてやまないのである。

 日本列島の主は日本人であらねばならぬ。

 七

 生来楽天的な私にも、物心ついてからの波瀾多い時代の時々、国の前途を考えて暗澹たる思いに駆られた時期があった。しかし、今の日本は違う。

 人間の物的欲望には限りがないが、大多数の国民にとって、これからの幸せは心の持ち方、高め方次第という状況に、もう到達していると考えられないだろうか。これからの課題は、今までにかち得た経済力をどう生かしてゆくかということに重心を移動させ、人間精神を豊かさの中で躍動させる方途を見出すことではなかろうか。換言すれば他の先進国にさきがけて真に闊達な生活文化を築き上げてゆくことである。

 その意味で私は徒らに危機意識を煽る一部の風潮に同調し得ない。むしろ今こそ心を静め、何が人間にとって大切なのか、人生と社会を見直すべきではないかと考える。

 こう考えてくると、今までほとんど全面的に経済的利益の面からとらえられてきた国益の概念は、豊かな社会以後に備えて、まずわが国で大幅に修正されてゆかねばならないと思う。

 それは、国民各層、老若男女の活力(ヴァイタリティ)を保持し、高めるという目的に添って国益なるものの考え方を構築し直すことである。(弁護士、昭和55年)


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