伴正一遺稿集・冊子
 

手探りの中国(「クロスロード」掲載)


 はじめに
 

 隊員だったら、あと四カ月で任期が終るところである。力一杯やってきた、隊員には負けとらんぞ、という実感はあるが、もし隊員のように任期がはっきり決まっていて、あと四カ月で終りだとなっていたら、「これではいかん」となって、今頃は「どうして最後の力走態勢に入るか」と考えているところだろう。ところが私には、はっきりした任期というものがない。これがなかなかの曲者で、ある日突如として内命がくることは常々覚悟していなくてはならないのに、そうと知りながら、やはり自分で節目は立てにくい。人間とは誠に困ったものだ。自分で自分が思うようにならないのだから……。

 もっとも今の私には、それも己むを得ないと自らを許すような事情があるにはある。区切りだ節目だということが空々しく感じるほどこの国が大き過ぎ、奥行があり過ぎるのだ。それにその巨体が、見た目にもわかる速さで変りつつある。協力隊時代には割合よく物を書いた私がこの一年有八カ月、ろくに物を書いていないのも、書かないというより書けないのだ。私の目に映ずる中国とはそんな国なのだ。

 そうは言っても協力隊時代に、任期終了隊員から無理に綜合報告書を出させていた私である。その張本人としての罪滅ぼしは意地でもせねばならぬ。こう思っていま私は、言い逃れをしたがる己の心を叱りつつ、重い筆を取ることにした。協力隊からの注文は「中国で協力隊を考える」という題で書いてくれということなのだが、でき上がりはおそらく「手探りの中国」とでもいうべき、たどたどしいものになるであろう。

 車窓

 着任して八カ月目の去年十月、私は初の国内旅行に出た。行くは〃長安の都〃今、陜西省の省都、西安である。通常ならついでにもう一つか二つの都市を訪れるところであったろうが、長安の都だけはそうしたくない。ただ長安だけを、と思い定めていた。更に、そこでは史跡以外の何物も見まい、と肚を決めていた。史跡が奈良、京都のような形で残っていようとは期待していなかったが、私はそれでもいい、ただ長安の跡に佇むだけでいいのだと思っていた。中国での初旅、西安旅行が、結果的にも、見る旅であるよりも遙かに〃思う旅〃となったことは言うまでもない。

 ただ一つ、ロマンを追う以外の目的がこの旅にあった。それは翌月の広州への旅にも共通していることなのだが「車窓から目に入るものをじっくり眺めて行こう」ということであった。

 沿線の視界は遠方の山影でもせいぜい数十キロ先まで、それ以外の田園風景なら、よく見えて数キロの範囲を出ない。確かにそんなものは広大な中国国土面積の中の、か細い線でしかないであろう。にもかかわらず、そこに展関する風景こそは、いかに部分的なものであれ、まがいもない中国、まがいもない中国人の姿である。平凡なら平凡、悠長なら悠長で、そのまま中国の真実に違いないのだ。どんなに小量でも確かなものを確かに見届けておくことが、中国という国を知るうえでは、特に重要なことではないか。就中私の場合、中国を相手の役目である。どんな時点でも、未完成は覚悟のうえで、その時々の、借り物ならぬ中国認識を持っていることが仕事上不可欠のように思えてならない。中国の田園風景に惹かれるというのも、元来そういう旅が好きだったこともあるが、上のようなところに主な理由があったのである。

 西安への汽車旅行で夜が明けたのは黄河のかなり手前であった。日が暮れたのは陝西省に入ってしばらくしてからである。克明にメモをとったということでもないので、眺め暮した一日分の車窓風景を今ここで再現することは難しいが、はっきり記憶に残っているのは、汽車が一路南下した河北、河南の大平原でも、鄭州から進路を西にとった以降の黄河南岸の丘陵、山嶽地帯でも、土地がよく利用され、手入れが行き届いていたことである。耕転機がそれほど稼動していないだけに、大変な〃人間の営み〃を感じさせる。粒々辛苦の趾が窺われるのだ。協力隊時代、いろいろな国で見て廻った農村地帯の光景が走馬灯のように次々と心に浮かんでき、土を見ただけで土に生きる人間の心がわかる、という思いを新たにしたのである。中国の場合、私の実感が当っているとするなら、人民公社やその下部機構に資力ができ良質の農業機械が十分に出廻るようになりさえすれば、この国の悲願である農業の機械化は順調にピッチを上げるのではないだろうか。

 車窓から見る農民の働く姿にも、深く考えさせられるものがあった。鍬を振い、天秤棒をかつぐ姿は髄所に見ることのできる光景であったが、強く心に追るものを感じたのは、それらの作業に若者やうら若い女性が数多く加わっていることであった。それが私には何度見ても、うらやましいくらい健康なものに見えるのである。格別その顔が朗らかだったということではない。私の住んでいる北京で朝な夕なに見る民衆の顔と、さして違っているわけでもない。それなら、健康的だなあ、という私の印象は一体どこからくるのだろう。このことは西安旅行から一年過ぎた今でも、私が考え続けているところである。われわれ日本人よりも厳しい〃生〃を生きている人々に接して隊員たちが、不思議に新鮮なものを感じる例は少なくないが、私も隊員と同じようなものを感じ、その感じの根源を求め続けることによって、人間や文明を思索しているということなのであろう。

 翌十一月の旅は広州交易会への出張であったが、私はまた汽車に乗った。帰りも汽車。多少寄り道をし、広東、湖南、江西、湖北、それに二度目の河南、河北と、沿線風景を眺めながらの楽しい旅をすることができた。当然のことながら、汽車に乗り続けてばかりいたわけではない。広州交易会では、商談の進捗状況を関係者から聴取する仕事があったし、広州と南昌で毛沢東や周恩来たちの史積を訪れた。

 波瀾に富んだ彼らの生涯に触れつつ、彼らの登場する中国近代史を知ることは、かねての望みを充たしてくれるものであった。しかし、全体として見るとこの旅もまた、結局は〃車窓から中国を眺める旅〃であったと言うことができる。自力更生の象徴とも言うべき農村基本建設の実情を随所に目撃することができたし、准河以南の、以北とは一変した地形や農業形態もよくこの目で見碓めることができた、という風に…。

 広州出張のあとは、条約交渉がらみの事情で〃厳寒の延安〃〃江南の春〃と私が心を躍らせていたゴールデン・プランは何れも流れてしまった。条約ができてしまうと今度は、具体的な日中間の案件が続々登場し、動き始め、いまの二計画も、いま一つ取っておきの〃秋のウルムチ〃もこの様子ではいつ陽の目を見ることになるのか見当がつかない。車窓に寄りかかる風景を眺め暮す旅の醍醐味は、事によったらもう遂に味わうことができないのかも知れない。そう思うと、昨年二度の旅は私にとって、忘れることのできない中国の思い出としてますます貴重なものだったことになる。

 中日友好人民公社

 昭和五十三年十月二十三日、丁度東京で日中平和友好条約の批准書が交換され条約が発効したその日に、北京の近郊に一つの人民公社が生まれた。二つの既存人民公社を合併して新公社とし、名づけて中日友好人民公社と呼ぶことにしたのである。中朝とか中・ルーマニアとか、いわゆる社会主義国との友好を名に冠した人民公社のあることは知られているが、東西ということでは西側になる、日本との友好を名乗る人民公社が生まれたということは、今までの常識からすると尋常のことではない。その数日前に、このことの知らせが中国側からあったと聞いたわけだが、その時ほど時代の変化を実感したことはなかった。「命名式」当日の中国側の顔ぶれは筆頭が陳永貴副総理、次が譚震林全人代副委員長で他に次官クラスがずらりといったところ、東アジアにおける国際政局の推移をまざまざと示す光景であった。

 そこで私の脳裡には、かすかに閃いたものがあった。それがなんであるかは、私を知る隊員やOBの諸君にはおおよその推測がつくであろう。

 命名式は野外にしつらえた会場にぎっしり人がつまっていた。楽隊もいる。舞台も設けられる。人口三万一千の、公社を挙げての祝典と言って差し支えなかろう。その夜の祝賀会も試に盛大であった。

 私は大正の末の生まれだから、物心ついたのは昭和四、五年の頃である。その時から今日までおよそ半世紀、その間に日中関係史のたどった道は変転極まりないものだった。〃不幸な時期〃の半分以上、最も不幸な時期の大部分が私の記憶の中にある。それらの記憶を、私は式典の間中たどり続けていた。

 そしてそれと眼前の華やかな光景とを対比しながら、感慨胸に追るものを覚え続けていた。

 思えば二千年と言われる日中関係史の中で、どう背伸びをしてみても日本のほうが下だった時期がその大部分を占めている。明治になってさえ、初めのうちはその時期に入れるべきだと思う。それが、あっという間に変って日本が上のようになった。第二次大戦の後しばらくは、それがまた引っくり返った格好になっていた。日中対等の時期があったとすれば、それは日清戦役の前のごく短い時期くらいしかない。

〃不幸な過去の大半〃が物心ついてからの時期にすっぽり入る私のような世代には、水に流そうと努めてもなお、容易に流し切れないものが心のどこかに残る。しかし、それはそれとして、やっとの思いでどちらも卑屈にならず、どちらも威張らない対等の関係が自然な姿で実現できる世の中になったのだ。

 感慨を覚えないでいられようか。
 生きて今日の日にめぐり合おうとは、という戦中派の感傷がこれに加わる。
 公社本部の庭には記念の植樹が行われ、廖承志筆の碑が除幕された。それには

 中日友好
 松柏長青

 ケ小平訪日の一週間、北京での日本ブームを象徴するいま一つの出来事は日本映画週間である。映画製作者協会の代表が訪日し、選んで購入してきた三本のフィルム「望郷」「北狐」「追捕」が、この日に間に合うように中国語版になって、北京のあちこちの一般劇場で上映されたのである。その開幕式には作家で有名な夏衍、それから郭沫若未亡人の于立群など著名人がどっと出席した。小坂前外務大臣の顔も見えた。その日上映されたのは「追捕」、日本名は確か「君よ、憤怒の河を渡れ」であった。スリル満点の刑事ドラマである。これには、「どうかいい映画であるように」と祈っていた私は意表を衝かれた。

 そのことについては後で述べるが、招かれて出席した日本人のほとんどが、人それぞれに衝撃を受けたであろうことは想像に難くない。

 ケ小平訪日の一週間、北京のテレビは毎日連続して副総理一行の行動を宇宙衛星中継で放映した。画面は一行と共に、近代化された日本を映し出す。普及度が限られているとはいえ、過去何年分もの量に匹敵する日本紹介を一気にこの一週間でやってのけた感じである。私は見なかったが、これと別にNHKの「今日の日本」という日本紹介物も放映されたという。「日本に学べ」という声があちこちから聞こえてくる、日本ブームの一週間であった。

 その中で時ならぬ衝撃の渦を巻き起こしたのが、先ほどの映画であった。話としてもおもしろいし、これからの日中関係を考えるうえでも一つの問題提起になるので、少しくそのことに立ち入ってみよう。まず反響から

「日本を全く知らない一般大衆は、あの映画を見て、あれが日本だと思い込んでしまうよ」
「あの映画からどんな教訓を引き出させようとしているのだろうか」
「いや、そんなに気を揉むことはない。新体制は、映画は民衆の娯楽と割り切っているに違いない。きっと、夜の映画くらいは固苦しいものをやめて楽しませようということだよ」
「しかし、追捕のほうならまだしも、望郷のほうは問題だ。なんと言ったって(サンダカンの)娼婦物語なんだからなあ」

 北京の日本人が安心して見られたのは記録映画の北狐だけだったようである。やはりこれからの日中の関係を大切にしたいと思っていれば、映画でも他の催し物でも、中国人の反響を案ずる気持になるのはよくわかる。その気持は尊いものであって、これから中国を見るセンスに磨きをかけながらも、この気持は大切にし続けるべきであろう。一言つけ加えておくと、ほかの二本ではまだ聞いていないが「追捕」は民衆の中で大変な人気で、切符を手に入れるのは街の人々にとって容易でなかったとのことである。

 ところが、私が映画を引合いに出して言いたいと思ったのは、次のようなことだったのである。

 日中平和有効条約は、いうなれば総論だ。協力隊で言えば

 民衆に
 溶け込め
 報酬を求めず

という式の基本原則に当るものである。こういう基本原則は隊員にとって重要なルールであるが、それはお経と同じように、繰り返すだけでなく肉づけをしてはじめて意味がある。同じことがこの条約についても言えるわけで、実質四条しかないこの条約を出発点として、どう各論を築き上げてゆくかがこれからの課題である。

「追捕」をサンフランシスコで見て気を揉む日本人はいないであろうのに、北京で見るときはそうはいかない。

 この一事を見てもわかるように、一つの分野で各論を構築してゆくということは容易なことではない。中国では十数年前には一年に映画を七、八十本作っていたという。それが四人組時代になって十本を切るようになった。荒廃した映画製作界をだんだんと建て直し、一九八五年には年間百二十本くらいは作れるようにしたい。これは私が映画週間開幕式の時に文化省次官から直接聞いた話である。日本から学びたいとケ小平さんも言っているし、北京にいても私自身各界の人からそう言われるのだが−−そして学ぶのはお互いにということだと私は思っているのだが−−さてそれを具体的に映画という分野で考えればどうなるのか。

 撮影の純技術面では確かに日本に一日の長があろう。しかし、映画で重要なのはその種の技術よりも映画の持つ芸術性なのではないか。その面で、十年前、二十年前ならともかく、現在あるいは将来の日本に、中国から学んで貰えるものが果してあるのかどうか。昔の名画を繰り出して見て貰うにしても到底〃子々孫々〃まで続くわけがない。そういう問題だけではない。その奥には社会体制の違いという難問が控えている。社会体制が違えば芸術性や有用性を測る物さしも違ってくる筈だ。素人の私が思いつくことを例示してこんな具合である。双方の映画分野の人が真面目に考え真面日に話し合っていったら、いくら時間があっても足りないほど考えなければならないこと、話し合わなければならないことがある筈で、そうした大変な努力の末にはじめて映画という一つの分野の各論がてき上がるのであろう。

 来年は政府ペースでの歌舞伎、京劇の相互公演が行われるが、これは「古典もの」という一つの分野と見ることができよう。歌舞伎が理解されるかどうかで数カ月あれこれと思案がめぐらされた。「出し物」の点でも、忠臣蔵と鏡獅子に決まるまでにずいぶん論議があった。日本と中国の歴史的、文化的繋りという背景の考慮が働いて、古典ものはいよいよ取り上げられることになったのだが、長い目で見ればトライアルとして位置づけるくらいでいいのかも知れぬ。というのは、この分野でもこれから考えてゆかねばならぬこと、話し合わなければならぬことが陸続として続いているからである。

 一口に文化と言うが、その中にはおぴただしい数の分野がある。福田総理の表現を借りれば、仮橋さえほとんどの分野でろくにかかっていないのが現状だ。日本と中国の間にはこのほかに経済という、これまた各論を幾つも必要としている大部門があり、経済にも文化にも属さない領域も拡がっている。時代の要請としてぼう大な数の各論構築が求められている。息の長さも長征なみと覚悟してかからねばならないであろう。中日友好人民公社命名に始まる一週間は、私にとって、感概胸に迫るものであったと同時に、長い道のりを望んで身の引き締まる思いを新たにする一週間でもあった。

 留学生

 五百人の留学生を送りたいという教育部申し入れを受けたのはほかならぬ私であった。七月二十三日のことである。その数に息を呑み込んだ私は、その席で次々に驚きを重ねることになる。種類として提示されたのは進修生、研究生、学部留学生。そこまではよかったが「学部のほうは四年間全部ですか」と、まさかと思いながら念のために聴いてみると「そうです」との返事。それでもまた半信半凝で「教養課程までやらすんですか」と聴き直す。答えは「そうお願いしたい」である。なんと思い切ったことを!

 次が専攻分野である。「科学技術方面を主として考えていますが、日本語専攻もある程度。それから数は少ないですが、社会科学系若干」、社会科学?これはまたなんという風の吹き廻しだろう。秋も終りに近づいた今頃ならそれほど驚きはしなかっただろうが、七月の時点では耳を疑うような話である。

 品質管埋不備のため欠陥品が多く大量の資材が無駄になっていることを問題視した中国政府は、まず品質管理、それに関連し進んで企業管埋にも手をつけようとするに至った。今年の秋口に入ってからの日本視祭グループには、マネージメントへの関心が急速に深まってゆく傾向が顕著に出ている。しかし、七月二十三日の時点では−−少なくとも私は−−社会科学と聞いて、人ごとながら中国のために心配したくらいであった。

 だが私がもっと驚いたのは宿舎の点であった。「個人の家庭に下宿させて頂くのも結構です」と先方は言う。「その場合でも二人一組がいいのでしょうね」とこちらが気を利かしたくらいだ。その後中国側の責任ある地位の人々から「かたまるのはよくない」とか「言葉もそのほうが早く上達する」とか言われるのを聞いているうちに、今ではもう慣れて「そんなもの」と思うようになっているが、初めての時は文字通り青天の霹靂(へきれき)であった。

 教育部から帰りの道すがら、私は先ほどの話を噛みしめていた。思えば「中国より我が国に留学する者万を以て数え……」と言われた時代があったのだ。周恩来もその一人であった。確か早稲田鶴巻町に下宿していたということを何年か前の新聞で読んだ覚えがある。その時の下宿のおばさんはどんな人だったろう。そのおばさんの人柄いかんが後の国務院総理になる人にどんな影響を与えただろうか。日本に留学した当時の中国の若者の多くが抗日戦線に身を投じたけれども、戦後日中間が正常化するまでの長い年月、この国に在って日本との間の細い糸を繋ぐのに貢献したのも主に日本留学組ではなかったのか…。

 ジーンと骨身にこたえるものがある。留学生間題!これは大事なことだ。遠く後世に影響する。〃子々孫々〃という言葉がはじめての実感をもって心に響いてくる思いであった。

 留学生の話はアッという間に日本での反響を呼んだ。総理の発言が新聞に出る。民間識者の声も伝えられてくる。平和友好条約交渉の報道に掻き消され勝ちな時期もあったが、留学生論議は、あちこちで話題となり続けているように思える。北京を訪れる各界の人々をつかまえてはこの話を持ち掛けてみているが、談ひとたび留学生問題に及ぶと忽ち話がはずんで容易に尽きるところがない。あちこちでの論議が収斂に向かいつつあるとはまだ言い難い。しかし、一つの国からの留学生問題が、国民的ともいえる関心を呼び起こしているその事実は、条約発効ブームが線香花火に終らないであろうことを暗示しているのではあるまいか。

 留学生問題についても、先ほど、各論構築上の課題として述べたような問題がある。考えようによっては、日中間の課題として最もやりがいもあるが、システム設計も難しい分野かも知れない。それは全体としては国民的基盤、部分的に言えば地域社会の基盤のうえにしか構築できないものだからである。平たく言えば教師や学友は無論のこと、〃下宿のおばさん〃から床屋のおやじさんまで関係してくるわけだからである。この分野のシステムの設計にはどうしても国民連動、地域住民連動の要素を織り込まないと設計が完結し得ないのではあるまいか。この〃連動的要素〃は、事によったら〃小さな親切連動〃と同じように、かえって難しく考えないほうがよいかも知れない。しかし、社会体制が違うということを考えに入れると、たとえばこちらは親切のつもりが、相手にとっては親切にならないことも往々にして起こり得よう。今年の九月に今日出海さんのお伴をして教育部(日本の文部省に当る)を訪問した時、話は留学生問題に終始した感があるが、劉教育部長(大臣)との間に交された〃住い〃論議には考えさせられるものがあった。

 先方が「中国の留学生は困苦欠乏に耐えることは慣れています。それはこの国の大学でひと目、学生寮をご覧になればわかって頂けます」と言うのに対して今さん曰く「しかし、日本人の心情としてお客を粗略には扱えません」。だが、先方はなかなか承知しない、今さんもおいそれとは引っ込まないというわけで、〃論争〃は容易に収らなかったのである。中国全体がまだ質素を旨としている。そういう国柄から選ばれて来るのだし、そういう国にまた帰って行く境遇の人々なのだから、やはり相手の境遇に適量の配慮をすることが必要であろう。その配慮こそが本当の親切というものではあるまいか。

 中国人留学生のいま一つの特徴は勉強熱心ということであろう。日本の学生気質からすると〃勉強のし過ぎ〃と映り、異和感の原因になる可能性がかなりある。国家の要請が双肩にかかっているという直線的な気の持ち方というものは、日本の学生たちにはついてゆけないところが確かにあるだろう。しかし、社会体制は別でも、日本にもそういう時代がかつてあったのだ。ついてゆけないなどと言わないで、感心な態度だと素直に認めても悪いことはない。そんな見方、受け取り方に出ることこそ、どんな親切よりも大切なことではあるまいか。

 いま挙げたのはほんの一例だが、社会体制に違いのあることを、良誠の問題としてわれわれはわきまえていたいものである。そのうえに、そもそも日本人と中国人との間には、われわれ日本人が考えている以上に、民族の違いからくる国民性の相違がある。このことも、お互いにできるだけ早く呑み込んでおくことが、これがら事を円滑に運ぶうえでの要諦ではあるまいか。

 十月に日本を訪れた中国教育代表団の人々は、この十年余りの中国学園の荒廃を嘆いていた。そしてその建て直しが大仕事だということを強調していた。日本からの留学生の大量受け入れが可能になるまでには、若千の年月が必要のようである。しかし、学園の建て直しができたら中国は必ず、日本留学生の大量受け入れを実行するであろう。考えてみれば、中国研究をラィフ・ワークにしていて、まだ中国の土を踏んでいない人がなんと多いことか。そういう人々、そして中国研究の卵が、年齢や体力のうえで無理な人を除き、どっと中国に向かう日もそう遠い将来のことではあるまい。そしてそれは日本における中国研究の再出発の日である。

 しかし、日本人留学生の中国派遣についても、考えておかねばならない課題がずいぶんある。現在中国にいる日本人の中で、戦前からずっといる人々を除いて、下放を体験できるのは留学生だけで、その仕事はたいていどこかの人民公社での勤労奉仕である。確かに外国人学生の場合は時間も短く、作業度にもかなり手心を加えているらしい。

 しかし、頼んでみたわけではないが、たとえば私が「下放してくれ」と言ってみても聴き容れて貰えそうにはない。手心が加えられているといっても、民衆への至近距離に迫り得ることに間違いはない。このほかに汽車で二等に乗れること、中国人と相部屋で生活できることなど、現在の中国では、留学生でない限り、外国人にはやろうとしてもできないことが幾つもある。

 問題は、こういう留学生ならではの境遇を、当の留学生がどう受け止めるかである。辛いことから少しでも逃れようとするか、せっかくの留学生の特権を、中国理解の目的に精一杯活用しようとするかだ。中国派遣留学生が選考で決まることになるとすれば、将来日本と中国の重要な掛け橋になるべき留学生は、進取の気象に富んだ人々の中から選ばれるべきであろう。留学生特権活用型である。

 社会人類学的マインドも一つの基準になっていいと思う。これがあると中国理解のうえでずいぷん助けになるだろうし、留学生活を上手に送る知恵ともなる。先のことはわからないが、今のところでは、こちらが期待するような具合に友達が作れようとは思われないし、町に喫茶店一つあるわけではない。こういう処で社会人類学的素養がどんなに役立つものであるかは、隊員やOB諸君には説明するまでもないことであろう。

 日本からかなり多くの留学生を中国に派道するとなると、選考問題以外にも数名くの、深く考えねばならぬ課題が出てくることは必定である。関係者にとっての試練は誠に大きいと言わなければならない。

 国民性

 どの国の場合でも、これほどわかっているようでわかっていないことはない。中国人の場合、特にそうであるということができる。小説家の司馬遼太郎氏が「西郷隆盛と中国は、いくら話しても尽きることがない」
と言ったそうだがうなずかされる話である。

 しかし、そうだからといって、国民性なんてのは〃まやかし〃だと投げてしまうのもいけない。確かにそういうものがあると思うし、語彙が豊富になり言い廻しの方法が発達すれば、国民性を的確に表現することが今よりは容易になるだろうとも思うからである。

 一つの例だが、中国人は勤勉か、という問いに対し、中国に一年八カ月もいて、私にはこれならという答が用意できていないのである。そうだとも言えるし、そうでないとも言える。それではまともな答になっていないが、それでいて私の持っている中国のイメージにはかなり近いのである。もっといい表現はないが、といつもそのことが頭の隅にある。

「日本人から見ると悠然としているな」
「日本語の勤勉という語感に当てはまってはいない」
「休み休みといったところも見受けられる」
「しかし、休み休みかも知れないが、倦むことなく働いている」
「コツコツ働くと言っていいのかも知れないが、この表現では着物の寸法が体にまだよく合っていない感じだ」

 今の私の語彙と表現能力では、ここらあたりが精一杯のところだ。何かもっといい形容の言葉は見つからないものだろうか……。

 私はいま、北京の外文官公寓なるものに住んでいる。日本式に言えば外交団団地だ。十三階なものだからエレベーターに乗らないわけにゆかぬ。朝の八時から夜十時まで、エレベーター・ガール(たまにはボーイ)つきである。大多数が中年の女性で、しょっちゅう人が変る。エレベーターの中で、私が気をつけて見ていると、乗って来る人がいやにエレベーター・ガールに「ニ−ハオ」を言う。実はそういう私も、前のアパートのときはやっていたのだが、引越しを機にやめてしまっている。

 向こうから何も言わないのにこちらが言うのは少々不見識ではないか、という気がしたからだ。事実、中国人のほうから先に「ニ−ハオ」を言っているのは、エレペーターでは減多にしか見受けない。理想的なのは、ほぼ同時だが心もち先方が早目に「ニ−ハオ」と言うことだろう。「ニ−ハオ」でも、暑いでも、寒いでも、なんでもいいから言葉をかけ合うことは人の世を和(なご)ませていいのだが、見識を立てながらとなると、わが公寓のエレベーターに関する限りなかなか名案が浮かばない。

 会釈の発想も悪くはない。洗練された会釈は日本文化中の秀逸だ。「ニ−ハオ」が引っかかるなら、先人の知恵にあやかって何かいいエレベーター用の知恵を編み出せないかとも考えてみたが、不見識に堕することなく和を醸し出すというのは大変な難題だ。ニコッと笑うというのも挨拶の一つだ。双方でピタリと呼吸が合って、爽やかな余韻があとまで残ったこともある。

 顔を合わせることが度重なるうちに呼吸が合いやすくなる傾向は確かにあるが、こちらの笑みが過剰だったと気がついて後味が悪かったり、相手がろくに笑み返さなくて腹が立ったりの失敗例のほうが数のうえでは多く、近頃はできるだけエレベーター内のことは考えないように努めている。夜十時を過ぎてエレペーターに乗るのは楽しい。自動式になっているので、何も考える必要がない。その小さいことからくる解放感がなんとも言えないのだ。

 自分でも興味が湧いてきて、つい長々と妙な人間関係論に脱線してしまったが、私がエレベーターの話を持ち出したそもそもの発端は、外交団の人間がやや卑屈目−−少なくとも不見識−−に中国人に気を遣っている様子があったので、何故そんなことになるのがを究明したかったし、それを通して中国人像を描き出す縁(よすが)にしたいと思ったことにある。

 まがいもなく同じ棟の同居人とわかっており、多分日本人だろうくらいの見当がついている筈の私にはニッコリともしないでいて、ビル勤務の中国人には言葉をかける。しかもそれが、かなりの大量観察の結果、一般傾向として出てきているから、私としては、これは彼らが中国人に一目おいていることの一つの証拠になると判断したのである。そう言えば国際政治や外交のうえでも中国に一目おく姿勢が、なんとなく一般傾向としてあるように思えるのである。

 私の観察が正しいとしたら、こういう現象は一体どこがらくるのであろうか。確かに、毛沢東や周恩来という傑出した人がいて中華人民共和国なるものを建立していなかったら、どの国も中国に一目をおくようにはならなかったろうし、誰も中国人に対して、彼が中国人なるが故に一目おくというようにはならなかったであろう。しかし、全くそれだけの理由で中国人は一目おかれているのだろうか。私は中国人の風貌の中に、やはり人に一目おかせるだけのものがあるのではないかと思う。

 長所の裏は短所、短所の裏は長所と言われるが、中国人は確かにチョロチョロしていない。コセコセもしていない。大陸的という言葉がいつしか中国人的風貌を示す形容詞になってきたが、これは、チョロチョロしないとかコセコセしないと言ったのでは、少なくとも書き言葉として品が無さ過ぎるし、第一長過ぎる。さればとて悠然とか泰然というと言葉が綺麗過ぎることになる。

 適当な言葉がないままに大陸の風趣にヒントを得たような、この非解説的な形容詞が生まれ、今では、中国人を形容するのにピッタリの語感を持つ言葉に成熟した。これは毛沢東につけてもおかしくないし、長安街を自転車をこいで行く民衆につけてもおかしくない。大人(たいじん)という名詞があり〃大陸的〃ほどの適語感はないが、これも中国人を語るに当ってはずせない適語の一つであろう。

 若干視点を変えてみよう。私には中国人が辛抱強い人々だと映る。中国人がジタバタしないのは、一つには彼ら独得のウィズダム(知識に対比しての英知)による認識力にもよるのだろうが、いま一つは鋼の強靱性にもたとえられる辛抱強さがあって、最悪の事態の到来に対しても精神的動揺が少ないからではないかという気がする。

 中国の民衆の顔が明るいとは見えない。無表情とも違う。街を行く無数の顔を見て暮した一年八カ月の実感を今の時点で総括するなら、それは達観した顔だ。その顔は辛抱の利く人間のみの持ち得る顔だ。この国の文章には過剰表現の傾向もあろう。時代々々の行動様式には一見跳ね上がりと見えることもある。しかし、大多数の民衆の心を最も正確に表しているものはその顔なのではあるまいか。

 吉田茂は「中国人は人生の達人だ。彼らの書き残したもの以上に人生の知恵を求めることはできない」という意味のことを言っているが、これは学問のある層だけでなく、民衆を含めた中国人全体に呈してもいい言葉ではあるまいか。

 言葉と心

 顔ばかり見て暮しているわけではなく身近にいる人々の態度も観祭してきた。それだけでなく、交渉、話合いの相手として登場してくる中国人も次第に殖えてきたし、宴席でテーブルを共にする人々も多方面にわたるようになってきた。だが、その誰とも彼とも私は日本語(たまに英語)でしか話していない。

 私はまだ中国と中国人を目で見ているだけなのだ。先方の言葉を通訳の日本語を介してしか聞けないでいる私に、中国を語る資格があるのだろうか。先方の中国語を直接私の耳で聞けたら、先方の出している音色が、意外にも多彩であることを感じ取れるのではあるまいか。条約締結以降、中国の人々はわれわれに対して、より自由な音色を出し始めたように思える。こういう個性的な音色を聞き分けるには、それだけの耳が要る。それが受信機として作用し得なくてはならないのだ。

 自分の年が恨めしくなることもある。言いわけをしてみても今までの努力不足を詰責する声が心のどこからが聞こえてくる。北京赴任の初心はどうだったのか。あわよくば、好きだった漢詩を中国語の音で味わうようになってみたいと考えていたではないか。今年の四月、ある心境の変化から、多忙を口実に中止していた中国語レッスンを、九月末になって再開した。男は言いわけをするものではない。ゆけるところまでいってみよう。それは〃各論構築の長い道のり〃と同じことだ。こちらの人の言う長征だ。そして初老の心身に鞭を当てての、隊員との力くらべ、根気くらべだ。

 私はこの稿の最初から、人間交流を念頭に置いて筆を進めてきた。福田総理の言葉で言えぱ心と心の触れ合いという課題を、と言ってもいい。それは殊更に意識して筆を起こしたというものでもない。私のライフワークとして考えていることがそういうことなのであって、協力隊にいる時も、その点では北京にいる今と全く変るところはない。一見あちこちに話が飛んでいるように見えるかも知れないが、私がこの稿の中で言ってきたことは、隊員やOB諸君の課題としていることと同じことだと思っている、隊員に語りかける心境で、私は筆を運んできたつもりである。

 確かに一つだけ、隊員やOB諸君が物足りないと思っていることがあるであろうことは私によくわかる。思い切って書いてみようかとも思った。しかし思案の末、本稿は一つの余韻を残したものにしておこうという心境になった。人間は〃心の中に在るだけの階段のもの〃を容易に口にすべきではない。こう自分の気持を整理したからだ。

 隊貝諸君の健開を祈る。
 OB諸君の成長を祈る。
(駐中国日本公使、昭和53年、「クロスロード」掲載)
 


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