伴正一遺稿集・冊子
 

庶民教育


 はじめに

モロッコを皮切りにしたアフリカ大陸、隊員歴訪の旅は、私にとって大変勉強になった旅であったと同時に、玄人の隊員に向かってずいぶんと素人からの課題を投げかけて歩いた旅でもあった。そういう旅を終えた今、私には幾種類かの包括的な形の課題が、取組み課題として浮び上がってきている。その一つが、開発途上国における職場と庶民教育ということであり、この課題と裏腹になっている仮説が「庶民教育の天才、日本人」ということである。

  生来、楽天的な私は、こつ仮説の正しさが立証されること、この日本人の天分が隊員によって自覚され、彼らの中に潜んでいる才能が次々と開花してゆく時期の到来することを青雲の志に似た気持で待ち望んでいるのである。隊員たちの才能が開花しても、自然の摂理のような形で、現地の職場には限界というものがあるかも知れない。しかし、限界があるならあるで、その限界一杯までやり抜こうという不退転の心が定まったときの人間の力は空恐しいものである。

  測量隊員と「九・九」

  首都ラバトを出発して東に向かった私は、フェズからタザにかけて四人の測量隊員を訪れた。職場訪問が終って日が暮れたあと、それぞれの町で、他の業種の隊員たちを交えての小じんまりした話合いの座を持った。沢山のことが話題にのぼった。その中の一つで、ラバトへの帰途、そしてまた、ラバトからの南下の道すがら、モロッコの風景に見入りつつ脳裡に去来したことがある。助手たちが話したおびただしい計算間違いの話である。「救い難い」と言わんばかりの隊員たちの慨嘆である。

  カリフォルニアを思わせるような広々とした耕地や沙漠状の山々を抜けて行く車中の旅は、こよなき思索のときである。私は、この贅沢な恵みの時間をこの計算能力の問題に集中して考えてみようという気になった。むろん思うように心の集中が図れるものではない。散る心を戻し戻ししながら、何しろ長い時間に恵まれて、人間の計算能力ということにつながる種々雑多なことを、いま考えてみれば短時日の間に比較的集中的に、思い出し、見直し、関連づける作業を行ったことになる。そしてその何日の、いつの時点で頭に浮かんだものか記憶が定かではないが、これは隊員へのアドバイスになるぞと思ったことがある。それが、幼い頃小学校の先生に習い、爾来この年になるまでろくに意識することさえなく恩恵にあずかってきた掛け算の「九・九」である。

  改めて口ずさんでみると「二二んが四」「二五の十」「六八、四十八」、テニオハに当る部分があったりなかったり、あっても一様でない。数字だって「二八、十六」のときは「ハチ」と言い、「三八、二四」のときは「パ」と発音する。「さざんが九」といってみたり、「さんごの十五」といってみたり、「さぶろく十八」といってみたりであって、一句を発音しやすくあしらって単語化し、全体を歌のように調子づけている。

  日本語で日本人の音感覚に合わせた九・九ができているのなら、アラビア語でモロッコ人好みの調子をつけた九・九は考案できないものだろうか。コーラン朗吟の調子もあろうし、エジプトからはやってくるアラブ歌曲の調子でもいいではないか。

  考えてみれば、われわれは何故六掛けるの八が四十八であるかということを、理論的に教えられ、理論的に理解してきたわけではない。言ってみれば一桁の掛け算は軽く歌で飛び越えてきている。歌くらいなら誰だってできないことはないだろう。こんなことがわからない、という言葉はよく専門家の隊員の口から聞かれる言葉なのだが、こと掛け算に関する限り、わからせる必要はない。覚えさせていいのではないか。

  仮にわからせることが必要だとしても、先に覚えさせておいて、後でわからせるという順序もあるではないか。例は適切ではないが、子供を躾けるのに、何故ウソを言ってはいけないか、何故朝起きたら「お早う」と言わなければならないかを、何も理屈で教えて、理屈で先にわからせておく必要はない。そういう理解は後で自然にできてくる場合が多いのであって、それで支障がなければそれでよいと思われるのである。

  一桁の掛け算、それは小さいことのようにもみえる。しかし、現実に一人の隊員がモロッコ版の九・九を考案し、鼻唄に乗って助手から労務者へ、労務者から主婦や子供へと伝ってゆくならば、モロッコ人全体の計算能力を大きく底上げすることになる筈である。そして一国の人づくりというものが、こういう小さい工夫によって促進されることがあるとなれば、そのことが次の工夫を呼ぶことにもなるのではないだろうか。

  この話を私は、廻った国のいろいろな集いで隊員たちにしたものである。

  庶民教育の知恵

  このようなことを思っているうちに、モロッコの旅が終りかける頃には、庶民教育の天才としての日本人像が、私にはかなり明確なものになってき、しばらくこれを仮説として立てておく気になったのである。

  ある人から聞いた話で、それが明治時代のことなのか、そしてずっと昭和まで続いていたのかどうかもはっきり問いただしたわけではないが、昔、陸軍の輜重兵部隊には、軍馬の手入れの仕方を数え唄か何かにして歌わしていたという。往年の補給作戦において軍馬が命の綱であったことは想像に難くないが、その大切な馬の健康管埋に手違いがあってはならない。小学校を出たか出ない兵隊たちには、下士官向けにやったような何々操典の棒暗記よりも、鼻唄を歌いながら思い出せる簡易手法のほうが確かに効率的であったに違いない。

  昔から庶民教育の代名詞のように言われてきた「読み」「書き」「そろばん」という言葉も、考え直してみると興味深い。現在、開発途上国には、この三つ揃えの合言葉はない。多分、欧米にも、これほど人口に膾炙した形で、読み書きそろばんに当る言い廻しはないであろう。いま開発途上国で民衆の教育水準がこれほど問題になっていながら、識字率という言葉があって、そろばんに当る言葉をほとんど聞かないのは、どういうことなのであろう。

 日本では、文明開化の前にそろばんは庶民教育の中に座を占めていた。しかも、そろばんは農家の主婦が機を織るのと同じような手芸なのである。何十何円ナリという音声を指先の動きに転化するだけのことなのである。わが国で発明されたものではないということは重要な問題ではない。これを庶民教育の中に取入れて普及したという点が、改めて考えさせられることなのである。旅行から帰って、訓練所で隊員候補生たちに九・九の話をしたとき、一人の候補生がそろばん普及のことを提唱した。

 「現在の卓上計算機は八千円はする。これは千円台のそろばんと格段の差であって、開発途上国民衆の手の届く代物ではない。第一、そんなことよりも電気がないところでは使いようがない。電気があっても停電だらけの地区では半身不随と同じだ」と。

 アジアやアフリカの大衆の家庭で子供に卓上計算機をあてがってやれる時代が来るのは遠い遠い先のことに違いない。この候補生のいうように、千円台のそろばんを買う資力のある人に対する限り、そろばんの普及には私も大賛成である。

 私は言った。

 「そうだな。その方法も軽く考えたほうがいいな。まず十歳ぐらいの子供に遊びとして教えてみたらおもしろいかも知れないよ。子供は覚えが早いだろうし、その中にズバ抜けてうまくなるのがいるかも知れない。そんな子を、昔で言うなら神童、今の言葉なら超能力児童に仕立てて、町中で有名にしてしまうんだな。そして、それが超能力でもなんでもないことを追い追い知らせていったら、そのうちにそろばんがその周辺には定着してしまうかも知れないよ」と。

  庶民教育には、いままでのところで述べてきたような手法開発の面と並んで、ヒントの与え方とでも呼ぶべき別の一面があるように思われる。今でも私は「あなたの得意のスポーツは」と聞かれると、水泳と剣道と答えるのであるが、四歳か五歳の時のことである。海水浴で父が「海の上でも寝られる。寝かしてやろうか」と言った。子供心に、まさかそんなことが、と思って、ええ、ええと父の話に乗ろうとしなかった。そんなら見せてやろうと父は水の上に仰向けになった。父の体は頭のてっぺんから足の爪先まで、どこも動いていない。おかしいな、水に対する私の恐怖心はこの時点で半ば取り除かれていた。

  父はこうしてうまく私をひきつけておいて、頭を後ろにそらすように指示し、私が指示通りの姿勢になるまで私を支えていて、そーっと手をはずした。本当だ、浮くではないか。これが発端で私は小学枝へ入学する頃には二百メートルくらいは泳げるようになっていた。

  次は剣道の話である。竹刀の握り方――雑市をしぼるが如く。右足――床との間に丁度紙が一枚抜き差しできるくらい。この種の教え方は、どこの国にもあることで、日本独得の技術だとは思わないが、日本の歴史の中では、こういう式の教え方に秀でた人が比較的多かったのではないがと思う。和歌や俳句などが相当厚い層に普及していたというようなことも、教え言葉の表現力を豊かにしていたかも知れない。

  隊員の仕事には、周囲の人々の意識の壁に挑まなくてはならないことが多い。九・九を歌にする式のことばかり考えていたのでは、この意識の壁に立ち向かうことはできない。この国の人々にはどういう言い方がわかりやすいのか。何か彼らになじみやすいようなたとえ話はないだろうか。ここのところのツボを呑みこませるのにうってつけの、いい格言はこの国の伝承などの中にないものだろうか。こういうことを隊員は考え続けてゆかなくてはならないであろう。

  名案浮かばず

測量の話の続きになるが、同じモロッコの古都マラケシュで、灌漑測量における図面誤差のことが話題となった。鉛筆の落し方が下手で一ミリくらいの誤差が続出する。それは現場では一メートルの誤差になってしまう。困り果てた次第というわけである。素人の私には、「そうか」とか「ウーン」とか、およそ意味のない発声で応答するしか手の出ない話題であり、当の隊員本人もただ事実を語っているだけのつもりなのであろう。しかし、この問題にヒントを与えることができたら、というじれったさを私は禁ずることができなかった。そして翌日マラケシュを出発して更に南下を続ける車の中でも、何かいい考えはないものかと考え続けた。

  ひょっとしたら、この一ミリの誤差をなくするということは、それに携わる人の「仕事に対する全人格的なアティテュード」を変えることなしには、達成不可能なのかも知れない。よしんば、それほどのことはないとしても、こういう技術の世界でニミリの誤差を縮めるということは、相当の訓練を必要とするに違いない。問題は、ただ稽古を重ねさせるだけしか方法がないのか、それとも前に述べた竹刀の握り方のように、ちょっとしたヒントを与えたうえで稽古を重ねさせることによって大幅に訓練の効率を高めることができるものなのか、ということである。

  思いは空転するばかりであった。安普請の家、下手な仕立屋の洋服、まずい吸物の味……世にいう安物の実例が過去の記憶の中から次々と浮かんでは消える。名工の作品、科学技術の粋を集めた製品……心であったり、技術であったり、その両者であったりするのであろうが、立派な物を作り出すには、それなりの要因がある。隊員が話題にした一ミリは、とりも直さずこの要因の問題ではなかったのか。協力の問題は、煎じつめれば、この要因形成の問題に尽きる。隊員はこの一ミリに二年の青春をかけていいのだ。

  一ミリの話題はいろいろのことを私に考えさせてはくれた。しかし、この問題は素人の数日の思案などで片づくほど簡単な問題ではなかったようで、鉛筆の落し方では、名案は遂に浮かばずであった。

  難関

  計算能力を高める道、技術を上げる道、そういう点について創意工夫を力説して廻った私にとって、体のすくむ思いをさせられたのは人事行政の壁の厚さであった。「技倆が上がっても彼らの実入りに変りはないのです。将来が開けるわけでもない。学歴だけがすべてを支配するのです」この趣旨のことを廻った先々で隊員から聞かされた。確かに民間からスカウトという形で、優れた技能者が収入のいい別組織に移動する現象もケニアくらいの国になったらあるとのことである。しかし、民間企業のほとんど育っていない国々では、政府機開の中での昇進ということしか、インセンティブはあり得ないように思える。その肝腎のインセンティブが存在していないというのである。

  どう考えていいのか。私は、フィリピンあたりでたまにある例を引いて「隊員の信望次第では学歴の壁を破らせることも、あながち不可能とは言えないと思うがね」と言ってはみた。フィリピンの例というのは、上司や上級官庁に信望の篤い隊員が根気よく奔走して、よくできるフィリピン人職員に破格の昇進をさせたという実例である。しかし、私がこのような例を引き合いに出しても、私自身にこのことがアフリカの国々で簡単に実現するとは思えなかった。気休め的なことを言ってその場をゴマ化しているという自責の念に駆られたものである。フィリピンには協力隊が相当根づいているという背景がある。そのフィリピンにおいてさえ、こういう実例はまれなのである。第一、今の日本にだって高卒を大卒扱いに抜擢する組織が幾つあるだろうか。

  そもそもわれわれ日本人はどういうインセンティブでこんな働き者になったのだろう。隊員たちは現地の人々のやる気のなさを嘆くことしきりであるが、そもそも日本は今でも本当に働き者ばかり揃っているのだろうか。まだ私にはわからないことだらけである。

  しかし、開発途上国におけるインセンティブの問題は、隊員たちの協力活動にとって死活の問題である。しかも大部分の隊員にとって、大卒のエリートたちに影響を与えることは可能であっても、直接の指導対象となる人々はその次の層の人々であって、インセンティブの問題は、結局、この層の人々におけるインセンティブということにしぼられてくる。そしてこの難問に解決の緒を見出すことこそが、優れた、肩の厚い中堅層を育てるという大きな課題の障壁突破口になると思われるのである。

  荷の重い課題を背負いこんだものだという気がしないでもない。評論家だったら、ここで筆をとめることができる。しかし、隊員五百人が十七カ国に展開し、後続隊員が次々と選ばれて飛び立って行く、この実践的現実の中でひるむことが許されようか。協力隊全体が、このインセンティブ問題という濃霧を前にして針路を見定めかねているではないか。

  職人気質への回帰

  帰国してから考え続けている。インセンティブの立て方には数多の先例があり、いろいろの構想も出ようが、大きく色分けをすると、金銭的な見返りによるもの、それ以外の見返り――たとえば名誉――によるもの、自己満足の形をとるものの三つになるように思える。そして最初の二つは相手国の行政にかかわるものである。かくして、今の私が最も心を惹かれ探究してみたいと思うのが、やや理想に走り過ぎているかもしれないが、隊員の力でやる可能性のある三番目の自己満足型である。

  長谷川如是閑が日本的性格としてつきとめた職人気質が回想される。これを私なりに解釈すると、当初は食うために物を作っていたのが、やがて、いいものを作ることが目的の座にのし上がってしまう境地である。そうなると金銭その他の面での見返りは、もはや目的ではなくなる。芸術とはそういうものであろう。勝負の世界にもよくそういうことがある。そしていま私が考えるのは、こういう現象はエリート層内に限られる現象なのかどうかということである。そうだとすると私の発想は無意味なものとなる。

  しかし、わが国で職人気質の人という場合、それが決してエリート層に限られていない。このことが大きく私を支えているのである。篤農、名刑事、そのほかに何々が飯より好きという人がいろいろな分野の中堅層にいた。現在では相対的にこういう人が減っているかも知れないが、拾い上げればまだずいぶんいるのではないかと思う。それと同時に、そういう性向なり素質を持った人が開発途上国の民衆の中にもいるにはいるのではないかと思う。世の中の牽引力となるのは、どこの国のいつの時代でも、多くて数パーセントなのではないか。そしてその数パーセントが、いわゆるエリート層に閉じ込められているというのは、エリート側の独善的見方ではないだろうか。

  私は、インセンティブ問題の解明に当って、見返り方式を棚上げにするつもりはない。自己満足方式もそれだけで完結するほど強力なものにはなり得ないであろう。そういう前提のもとで、私は改めて、日本の庶民層が、どういうインセンティブで仕事に励んできたのかを考え、これを開発途上国庶民層の実情と対比しつつ、かなり長期の構えで問題解明の道を歩んでゆきたいと思うのであり、その意味でかねて思いを潜めたことのある職人気質にもう一度回帰しようとしているのである。(青年海外協力隊事務局長、昭和50年、「国際協力」掲載)

 


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