伴正一遺稿集・冊子
 

温故知新

 
   行く雲

 それぞれ違った場所で、それぞれの課題に取組みながら、昭和五十年の元旦を迎えられたであろう諸君の元気な姿を思い浮べながら、新年挨拶の筆をとる。

 時の流れに元来、節はなく、節をつけて大晦日(おおみそか)と元旦を区切るのは人の知恵である。昭和四十年に始まった協力隊が昭和五十年を迎えるに当たって、何かを感じ、思いを新たにすることは、同じような意味でよいことだと思う。そんな気持で筆をとったまま、しばらく、発想を求めて行く雲を眺める。走馬灯のようにいろいろのことが心に浮かぶ。青雲の志、そういう言葉もあったなあ。しかし、なんといっても一番多く心の空間を去来するのは、昨年秋の隊員歴訪の旅の思い出である。そのときのことを帰国後何十人の人に語ってきたことだろう。しかし、語りたいことの何分の一を語り得ているだろうか。それというのも、あることを話しているうちに、そのことの、それまでに気づかなかった新しい意味を見つけ、これはいけない、迂闊(うかつ)だったと思って、そのことをもう一度新しい角度から考える。そうしていると、まるで生き物か何かのように、体験したことが成長し発育してゆくように思えてくる。隊員歴訪の中で見たこと感じたことには、どうもこの種のことが多いのだ。だから一つ一つかみしめていると、とても短時間の間には全部は語り切れないというわけなのだ。

 雲は刻々動き、形をさまざまに変える。見ている私の心の中とそっくりだ。そういうしばしのさすらいの後、年頭所感はこれにしようという気になったのが「温故知新」である。

  南と北

 多くの南の国では、飢えて死ぬという不安が人の心にないという。北の、もっと寒い国々が、今のように発展するずぅっと前、たとえば五千年前のころに、もし南北問題という問題があったとするならば、それは豊かな南と貧しい北という形のものではなかっただろうか。そうだとすれば、南北問題の意味を逆転させたものはなんだったんだろう。そこで考える。必要は発明の母という諺(ことわざ)、山本茂実先生の「腹が減らないと頭脳は始動しない」という言葉、足の速い兎がのろい亀に負けた話、そんなことに思い当たる。西郷隆盛の詩にも「幾経辛酸志始堅(幾たびか辛離を経て志始めて堅し)」という句がある。

 思いを遠い未来に馳せる。豊かになった北では、飢えて死ぬかも知れないという危惧がなくなっただけではない。南の国々と比べれば、夢のような高い水準で「食える」とか「食えない」ということばが使われている。人の心に感動がなくなり、無気力が忍びよる。北を支えていたさしもの活力が長年月の風化作用の末、朽ち果てる。ロ−マ衰亡史の再現がないと断言できるであろうか。

  珠玉のことば

 こういう空恐しいことを考えているとき、われわれの祖先が中国から学んだり自ら創出したりしながら、戒めの言葉を持っていたことに思い当たる。「治に居て乱を忘れず」「楽は苦の種、苦は楽の種」「驕る平家は久しからず」「禍福は糾(あざな)える縄の如し」「備えあれば憂いなし」「勝って兜(かぶと)の緒をしめよ」……。思えば、こういう格言が人の口にのぼらなくなったのも不思議といえば不思議なことである。うまいものを求めることと、うまく食う方法を求めることとは、車の両輪のように大切なことであるのに、うまいものを求めることに走り過ぎて、結局うまく食えなくなっているようなのが今の私たちの姿なのではないだろうか。うまく食う方法に当たるのが心の持ち方の問題であり、心の持ち方は修練を要する。いま拾い出してみた幾つかの格言は、どれをとってみても、人間が心の持ち方を修練するに当たっての巧みな方向指示機であって、長い歴史の中で創出された数多くの言葉の中でも、最もその目的に合致していた"珠玉のことば"ではないのだろうか。

 なぜそういう大切な祖先の遺産を私たちは忘れかけていたのか。それよりも、そんな大切なものを忘れるような精神状態そのものが問題で、そういう精神状態のよってきたる原因をつきとめることが、昭和五十年を迎える私たち、戦後三十年を迎える私たちにとって重要なことなのかも知れない。それさえできない状態だというのなら、私たちのどこに南の国々の人を助ける資格があるだろうとさえ思う。

  温故知新

 私が、この言葉を用いて、祖先の知恵の発掘を提唱する気になったのには、いささか背景的な経緯がある。技術協力の種々相を見ていて、海外現地の技術や資力からすると、どうも高嶺の花に終ってしまいそうなケースが少なくなかった。協力隊をお預かりするようになり、隊員たちを遮(さえぎ)っている障壁のことをあれこれ考えるようになって、私の心はいつということもなしに江戸時代に寄せられていった。この時代の知恵の中に、ひょっとしたら隊員たちの障壁を打開する秘訣が潜んでいるのではないか。そう思い始めてから、私の物の考え方に、徐々にではあるが、変化が起こってきたように思う。

 情熱という言葉を、私は、警戒して使うようになってきた。今では知恵という言葉と抱き合わせてしか、情熱という言葉が使えないほどになっている。最近、しきりに使うようになった、持続する情熱、という表現方法も、なんの変哲もない江戸時代の人々の一生を、なんとなく背景に据えた感じのものなのである。現代人はよく、刺激がなくて、ということを言う。ぜいたくな。そんなことを言ったら江戸時代の人々はどういうことになるのだ。おじいさんの野辺の送り、いつの間にか結婚して子を成すことになったこと、そんなことくらいしか刺激らしい刺激はなかったのではないか。そういう中で、少なからざる子供たちが寺小屋へ通い、寒稽古に励み、桂離官もでき、二宮尊徳のような人間も生まれ、諸々の地方工芸も完成していったのではないか。ろくな刺激もなく、身分の変更も滅多にない。そういう時代に、人々はどのようにして情熱を持ち、これを持続し得たのか。また、どういう指導をして、そういうことになり得たのか。これは興味津々(しんしん)たることである。そこには、人間の知恵の大変な宝庫があるに違いない。そしてこの膨大な埋蔵量の存在には、不思議なことにごく少数の人々しか気がついていそうにない。祖先の知恵の再発見は、何も格言ばかりには限らないではないか。

 私は、こういう背景のもとに、格言としても風格のある「温故知新」という言葉にひかれ、昭和五十年劈頭(ヘきとう)の言葉に引き出してみる気になったのである。それは隊員に向かってであり、職員に向かってであると同時に、私自身に向かって言いきかせる言葉でもある。 

  祖先の歩み

 幕末も大詰めになって、政治制度を根幹から覆すことが構想されることとなるが、江戸期の時代思潮の特色は、制度に対する改善努力よりも、人間に対する教育努力が重んぜられたことだと思う。これは儒教が最も栄えた時代であることからもうなずけることであり、いわゆる封建思想として儒教そのものとともに否定し去られたままになっている点である。確かにそのように否定し去ることが必要な時代もあったであろう。しかし、少なくとも協力隊にとっては、江戸時代を回想し見直すことが、今や必要になってきたのではないだろうか。

 江戸時代における教育は、庶民教育という点で優れていた。そして多分に、生涯教育的なものであった。さらに興味あることは、宗教から大きく足を洗っていたように思えることである。制度を変革して一挙に国全体をよくしようというようなことはしない代りに、職場とか村落社会とかいう、いわば身近いところで、個人個人を教育し、人間関係を良好にしようという、きわめて卑近(ひきん)な道を選んだことも、大変、考えさせられることである。

 儒教というものが元来そういうものだったようである。孔子には、釈迦やキリストやマホメットのような奇蹟もなく、予言もなかった。十室之邑、必有忠信如丘者焉、不如丘之好学也(十戸もある部落の中には、私と同じくらいの素質を持った人間が、必ず一人や二人はいるものだ。ただ、その規模の部落から、私と同し程度の人間がなかなか現われないのは、私並みに勉強をしないからなのだ)と、孔子自身も言っている。彼は、まったく不断の努力によって、あれだけの人になったのでである。周代封建制崩壊の過程に生まれずに、現代の日本に生まれていたら、民主主義制度のもとでの人間関係を素材にしながら、職場や通勤時間や家庭などの身近なことについて、たくさんのいい示唆をしてくれたことであろう。

 「近きより遠きに及ぼす」身近なことから、自分の努力次第で手の届くような事柄から始めなさい。「徳は孤ならず、必ず隣あり」立派な人柄というものは、一見、孤独に見えるかも知れないが、そんなことはないよ。必ず見ている人がいる。埋解してくれる人が出てくる。そういう影響力を、徳というものは持っているものなのだ。

 江戸時代に完成の域に達した工芸技術や庶民芸術には、地方産のものが多い。上方や江戸に出て刺激を受け得る境遇はなく、その道一筋に生きた人間像を随所に拾うことができる。彼らはまた、彼らの達した水準を維持するために後維者の訓練に心血を注いだ。人形浄瑠璃における鍛え方一つを見てもそのことがわかる。そういう中から師弟関係という、多分に日本的な人間関係も育っていった。

 江戸時代は短くない。いま途べたようなことは、その長い間の集積であって、おそらく地方工芸のどのひとつをとってみても、周囲から気違い扱いされる初代の労苦、売家と唐様で書く三代目の悲哀など、苦難や挫析の一つ二つを歴史に持っていないものはないであろう。こうして苦難や挫折を一つ一つ乗り越える地道な進み方をしないでいたら、徳川三百年は、文化的にも産業的にも何ものをも生まないで終っていたであろう。そして、こういう人づくり時代を持たないままで、いきなり西洋近代文明を迎えたとしたら、いま世界の驚異とされている明治百年の発展というものもなかったに遠いない。

 焼け石に水、大海の一滴、日暮れて道遙(はる)けし。このような無力感が頭をもたげてくるときに大事なことは、自分に言いきかせ、言いきかせして、勝負を捨てないようにふん張ることではないか。目標をしぼっていいのだ。近きより遠きに及ぼすという言葉は、まさにこんなときのために用意されたようなものである。二宮尊徳は、このことばを、生涯、地でいった実践者であった。ある程度その実践記録は残っているし、また、その過程で尊徳自身が書いたり言ったりした言葉も、いま私たちは読むことができる。

 こういう先達から学ぼう。自分でも知恵をしぼろう。こうして身近な一つ一つの障害を一つ一つ丹念に取り除いていこうではないか。「温故知新」とは、こういう取組み方のことである。故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知る、と読む。(青年海外協力隊事務局長、昭和50年、「JOCVニュース」掲載) 
 


トップへ