伴正一遺稿集・冊子 
 

援助の哲学


 一

 これから諸君が実践していく仕事は世界全体の中で、あるいは日本全体の中でどのように位置づけられるか。自分のやることの位置づけという意味で開発という問題を考えてみることは重要であります。しかし「なぜ援助しなければならないか」というような問題は、ここではすぐ諸君がわからなくてもいいわけで、ある意味ではそれは諸君が二年間自分自身に問い続ける問題であり、あるいは生涯にわたって問い続けるような哲学的な問題です。したがって、この講義の内容が正しいものだという前提を置く必要はありません。諸君が自由に批判し、自分の気持を整理すればよいわけです。

 諸君は評論家と違って実践者ですから、実践するにあたっては常にある程度自分の気持を整理しておく必要があります。この問題は本来生涯にわたって問い続ける問題ですけれども、実践者である諸君はその時どきの気持を整理しておく必要があるわけですから、この講義を聞いて訓練が終了する時期、赴任する時期に、その時点における諸君の能力で、この問題に対する諸君の気持に一つの整埋をしてもらいたいと思っております。

 衛藤先生は安全保障という見地で経済協力の必要性を非常に力説されました。俗っぽい言い方をすれば、武田節という唄の第二節にある「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵」ということではないかと思うわけです。武田信玄は戦国の武将の中では珍しく城を持たなかった人です。普通の館に住んでいました。信玄については川中島の合戦とか、その名将としての面がよく伝えられていますが、政治や民衆の生活向上という点でも卓越した力を発揮した人です。

 いまでも信玄堤といったものが残っています。洪水防止のために信玄がやった土木工事ですが、その技術はいまの科学からみても非常にすぐれているといわれます。その信玄が「城はいらない。人間が城だ」といったということを、衛藤先生のお話と関連させて諸君の頭のすみっこに置いてもらったほうがいいと思います。

 なにも戦国の武田信玄に限らず、こういう思想は幕末の吉田松陰にもありました。松陰が松下村塾で孟子を講義したときの講義メモが『講孟余話』という本になっており、これは岩波文庫にもなっていますが、その中で松陰は「兵は国の大事だ。しかし兵、軍備は非常に民力を疲弊させる。だから通常の軍備による国防ということよりも、むしろ城は壊してしまえ。兵はみんな農に帰してしまえ。そしてほんとうに政治が立派であれば、敵が攻めてきて一回は敵の手に落ちても、人民は自発的に立ち上がって、やがて敵を追い払うだろう」という意味のことをいっています。

 これはちょっとユートピアすぎる理想主義でしょうけれども、衛藤先生のいわれたことも、日本が今後自国の安全ということを考える場合、軍備だけが必要なのではない。莫大な国防費に回せるようなカネがあるのなら、そのカネをむしろ開発援助のほうに向けろ。「人は石垣…」ではないが、それで世界の非常に多くの人びとが日本をアプリシエイトし、日本を攻めるとか苦しめるとかいう行動に対して反対するというような気持を抱かせるのが大事なのだという話をされたのだと思います。

 それはそれとして、日本には国内問題でいろいろやらなければならない問題がたくさんあるのに、どうして外国人のことを考えるのかという議論が、ここ当分は絶えないと思います。

 そこで一つアメリカの例をとってみたいと思います。アメリカの場合、第二次世界大戦が終わったあと、うかつにも欧州からサッと兵を引いた。そのために欧州が赤化するという危険が非常に大きくなった。欧州のみならず、世界の貧困地帯といわれる地域が真っ赤になってしまうのではないか、というおそれをアメリカは切実に抱いたわけです。そうなればアメリカ自体の存立も危うくなる。そうならないためには、まず自由陣営を固めなければいけない。それがアメリカを守る道だということで最初は軍事援助をやり、次に経済援助へと進んできたわけです。つまりアメリカ国民の自由防衛という意気込みに完全に支えられて援助が行われたわけです。

 ですから当時アメリカ人は世界が赤化するのを防ぐためという旗印のもとに、ずいぶん高い税を措しみなく払ったわけです。いまのアメリカではそれが崩れつつありますけれども、戦後長い間援助の創始者であり旗頭であったアメリカは、国民の支持を得て対外援助をやったわけです。

 ちょっと脱線しますが、当時のアメリカは国防ということだけで援助をやったわけではありません。その国防という気持の奥にはアメリカ人の非常に大きな自信があったわけなのです。アメリカ人にいわせれば、デモクラシーとはAmerican way of lifeである。つまり、アメリカ的生活様式こそ正しいものであり、これが世界中に普及すれば、世界は平和になり、民主的になり、立派になる。そういう一つのゆるぎない自信と使命感をアメリカ人は持っていたのです。その使命感を裏返せば、共産主義に対する決定的な憎しみになるわけで、そういう使命感に支えられつつアメリカの防衛が考えられたわけであります。

 脱線ついでにもう一つアメリカの平和部隊に言及してみましょう。アメリカ平和部隊というのは、ケネディ大統領が大統領就任の際の目玉商品としてぶち上げた大構想です。さきほど言いましたように、当時のアメリカ人の心の中には、American way of lifeを世界中に普及することが人類を救うゆえんであるという使命感が脈々としてありました。ところが、それがどうもうまくいかない。なぜだろうと考えてケネディが発想したのが平和部隊です。

 ケネディは「アメリカ人は海外に出て行って援助しているけれども、高級車を乗り回したり、高級住宅に住んだりして民衆とかけ離れた生活をしている。だがらアメリカ人の善意が伝わらないのだ。若者が行って、そういうアメリカ的なぜいたくをかなぐり捨てて民衆の中へ飛ぴ込み、民衆と共にやっていけばアメリカの善意は伝わるだろう。そしてAmerican way of lifeが世界の民衆にアクセプトされるだろう」と考えたわけです。こういう、ゆるぎない自信があったわけです。

 あとでまたお話することになるでしょうが、American way of lifeが世界の普遍的な原理であるとする自信はやがて崩壊するわけです。いまではアメリカ人自身それが普遍的な原埋ではないということを知るようになりました。

 本論にもどって『日本の経済協力』(外務省情報文化局発行)という本を読んで諸君は、おそらく「わかったようでわからん」という歯切れの悪さを感じるのではないでしょうか。もう一息というところで歯切れが悪い。私もそう感じるのです。経済協力という題だからそうなるのです。で、ここではちょっと発想を転換して、角度を変えて考えてみたいと思います。

 違った角度というのは、援助もへチマもない。日本はいずこへ行くという日本の進路の問題として考えてみたらどうかということです。この本に各国の国民総生産(GNP)の比較をしている表があります。この表を見ますと、いまから三年前の一九七〇年の時点で(この表の中国の統計は推定数字で実際ははっきりしないけれども、仮にこれが正確だと想定すると)ビルマ以東の広大なアジア地域の中で、日本のGNPが千九百八十億ドル、約二千億ドルであるのに対して日本以外の国をすべて合計しても千二百五十億ドルにしかなりません。

 日本が圧倒的に過半数の生産量を持っているわけです。地図で見ると日本はごく小さいけれども、経済カの重みでいえば他のアジアの国を束にしても日本一国にかなわないわけです。中国も政治的には超大国ですけれども、経済力では三分の一にもたらないのです。しかし、こういう格差はますます開いていく傾向です。一九七一年の日本のGNPは二千二百憶ドル、一九七二年の速報数字では二千四百億ドルを突破しています。現在の時点では、日本を除くアジアのすべての国の生産量の倍の生産量を日本一国であげているという数字になっているでしょう。

 これは実にたいへんなことです。こんな経済的ジャイアントがアジアにいるということは、他のアジアの人びとに非常に複雑な感情を抱かせざるを得ないのです。日本がエコノミックアニマルといわれるのも、単に日本人のビヘイビアが悪いということではなく、非常に複雑な原因がからんでいるからではないかと思うのです。とにかく、これほど日本が強力になれば周囲としてはこわいに決まっているのです。昔から「喬木に風強し」といわれ、木が高くなればなるほど風当りが強くなるように、どんなやり方をしても強力な者に対しては嫉妬の感情がわいてくるわけです。現在の日本の国力というのは世界の脅威であります。

 私は時どき不吉なことを感じます。去年のNHKの大河TVドラマ『平家物語』を見た人も多いでしょうが、「驕る平家、久しからず…」というわけで、日本の進路にもなぜか不吉なものを感ずるのです。単に感じ方の問題でなく、もう少し理論的にみても現代の日本の置かれている地位というのは、下手をすると、孤立への道をまっすぐに進んでしまう危険が非常に多いと思うのです。

 歴史を比較してみても、いまの日本の状態は日露戦争が終わったころと非常によく似ているといわれます。明治三十八年までの日本はひたむきに富国強兵の旗印のもとで国づくりをやってきました。そして、強敵ロシアを破ったころから、それまで日本と同盟を結んでいたイギリス自体が「日本が強くなりすぎてロシアのかわりになったらイギリスは危うい」というように心配し出したわけです。

 そしてイギリスとの間にさざ波が立ち出すころ、日本びいきであったアメリカもいよいよ日本を警戒し始めたのです。武力的には日本は富国強兵の目標を達して強大国になったが、そのあと日本をどういうふうにもっていくかという点で非常に厳しいはめに立つわけです。そのころ伊藤博文は書簡で「日露戦争に勝つには勝ったがこれからがたいへんだ。下手をすると孤立への道を歩む」というようなことを書いています。

 日本は第二次世界大戦後の焼野が原から営々として築き上げて今日になりました。軍事力ではなくて経済力を築いてきたわけですが、私自身諸君のような年齢のころには夢想さえできなかったようなところまで、国力が上がってきました。ここで日本が孤立の道を歩むことになるかどうか。それは非常に重大な問題です。「驕る平家、久しからず…」になっては困るわけです。そういう意味で、私は現状の日本について非常に危機感を抱いているわけです。 

 しかし、危機は同時に飛躍のチャンスでもあります。飛躍のチャンスであると同時に陥穽も多いわけです。こういう感じは、私自身の四十九年の生涯において常に感じていることですけれども、日本についてあてはまると思います。日本の現状は危機感を抱かせるようなものですが、また、非常に大きな飛躍のチャンスを迎えているともいえます。現に日本のことをエコノミックアニマルといっている開発途上国も日本を警戒しているばかりではないのです。警戒や不安な気持を抱くと同時に、日本に対する期待というものも非常に強いわけてす。警戒と期待とが微妙に織りまざっているというのが今日の開発途上国の日本に対する気持だといえます。

 では日本に対する開発途上国の期待の内容はどうか。日本が第四の超大国・スーパーパワーとして世界史に登場するということは、すでに内外の一致した見方です。どっちみちもう小国ではありません。スーパーパワーとして日本が登場することは必至だというわけです。

 ところでいままでスーパーパワーとか大国といわれる国に対する常識は、強大な軍事力、政治力を周辺に及ぼし、そういう意味では悪いこともする。しかし同時に、そういう強大な軍事力、政治力を背景にしてその周辺地域の平和の維持にも役立つというものでした。大国は両刃の剣としてパワーポリティックスの中で機能してきたわけです。ですから、大国が周囲の国に干渉するということは、国際政治ではあたり前のことであり、その千渉の内容いかんによって小国は一喜一憂してきたわけです。

 しかし、戦後の日本はこれだけの国力を持ちながらも、軍事大国にはならないと全世界に明言しているわけです。ところが外国では「ほんとうだろうか」と疑って見ている。川崎製鉄の千葉の製鉄所だけでも、二、三年もあれば戦前の連合艦隊ぐらいつくってしまうだろうという国力ですから、日本はほんとうに軍事大国にならないんだろうか、という心配があるのも当然です。

 ですから日本が口でいうように、その国力を平和的な世界建設に役立てるというのであれば、日本の巨大な富をわれわれの国に実際に流してくれというのが開発途上国の期待です。そういうことであれば、それはもう旱天に待望の雨をみるようなもので、スーパーパワーとしての日本が受け入れられるわけです。現に南ベトナムなどでは、私が四年前に行ったときでも「平和になったら、次は日本だ。日本人がきてベトナムを再建してくれるだろう」ということで、百人ぐらいしか収容能力のない日本語学校に四、五百人もの志願者が殺到するという状況でした。

 日本がほんとうに開発途上国のためになるようなことをやってくれるなら、日本の力はすさまじい力である。そういう意味で日本に大きな期待がかけられているわけです。つまり、いままでの常識的なスーパーパワーとは全く達った姿で登場するスーパーパワー日本の姿を見つめている、というのが日本に対する開発途上国の気持であろうと思います。

 それともう一つ、日本人というのは、開発途上国の大部分がそうであるように有色人種であります。色の問題というのは日本にいてはちょっと理解しにくい問題ですが、開発途上国では非常に大きな意味を持っています。というのは、いまの開発途上国のほとんどは植民地ないしそれに準じた状況下にあった国々てす。そして支配勢力というのはほとんど白人だったわけです。ですから白人に対するコンプレックスというのが非常に強いのです。そういう国へ白人ならざる日本人が登場してくる、しかも巨大な経済力を持って登場してくるということは大きな意味を持つわけです。この問題はあとでまたお話しすることにしましょう。

 そういうことで、ほんとうに日本がいいことをするとなれば、現在は絶好のチャンスに遭遇しているのだといえます。

 ここでもう一度「驕る平家……」に話をもどしますと、大英帝国の最盛期というのはせいぜい一世紀で短いものでした。アメリカという史上空前の大国も、現在のアメリカと二十年前のアメリカと比べてみると、ベトナム戦争を契機に急速な変化がうかがえます。二十年前のアメリカ人がほとんど挙国一致で抱いていた使命感の強烈さを思い起こすと、全く私の個人的な見方ですが、いまは何かかげりが出始めているように思えてなりません。

 「日本が久しくあるためには…」ということは、援助とか開発とかという問題を離れても、日本人がほんとうに真剣に考えなければならない問題です。そこてアメリカの大統領だったケネディが唱えて果さなかった問題に触れたいと思います。

 ケネディは平和部隊を創設する際、こういいました。「一つのネーションはフロンティアを失ったとき下り坂になる」。フロンティアというのを、私は〃文化果つる地〃と訳しております。これが最も適訳だと思いますが、この言葉の意味は、要するに、一つのネーションが野性を失う時は果物でいえば熟れすぎて腐りかけた時だということです。

 フレッシュではつらつとしている民族には野性があって、平気でそういうフロンティアに飛ぴ込んで行き、厳しいものに挑んでいくものです。そういう精神がなくなれば、日本のこの巨大な経済力を支えている人的要素はだんだん腐蝕してしまうのだろうと思うのです。その意味で、日本民族が爛熟しないようにすることが日本の大きな政冶課題の一つでしょう。

 これだけ多くの開発途上国があり、一世紀かかるか二世紀かかるかわからないという南北問題が存在する時に、日本が早々と老い込んでしまってはいけないと思う。ちょっと理想主義的になりますが、人類全体の幸福のために、目本ははつらつとした時代を長く持たなければならないと思うわけです。

 日本の進路について考えていけば、そこから世界の問題についてヒントも得られると思います。日本の進路という、より高い次元から諸君はこれから実践していく仕事についても考えていかなけれぱならないと思います。

 

 次に援助の哲学ということについて考えてみたいと思います。この『日本の経済援助』という本が歯切れが悪いというのには理由がありますが、わかりやすくいえば「情けは人のためならず」ということなのです。援助すれば、めぐりめぐって日本の利益になるのだというわけです。

 私が外務省に入ったころ、クラス会で「外交官に誠があれば焼いた魚が泳ぎ出す」という替え歌を聞いたことがあります。外交とか外交官というと国民の間では誠実な紳士と考えられているかも知れませんが、ひと昔前までは外交の場というのは権謀術数、策略の場でありました。外交がそういうものだという常識はヨーロッパに発生した近世ナショナリズムの国益思想(ナショナル・インタレスト)と裏腹になっていました。

 ですから、そこでは道義というものは非常に影が簿いわけです。一つのネーションの安全、福祉というところに外交の至上命令があり、そのためにはよそを侵略してもかまわない。侵略がいけないといわれるようだったら侵略という形をとらずにうまいこと搾取する。そういうことがまかり通ったわけです。その極端なものが、マキャベリズム(近代初期のイタリアの宰相マキャベリが『君主論』で説いた現実主義的経済思想から転して権謀術数を旨とする政治思想一般)ですが、それは少なくとも第二次大戦までの世界の常識でした。

 ところが第二次大戦後はそれが非常に微妙に変わりつつあります。本質的にはそう変わってはいませんけれど、調子は少し変わってきております。この『日本の経済援助』にも出ているピアソンレポート(前カナダ首相ピアソン氏を団長とする調査団の報告書)なんかを見ましても、「なぜ助けなければならないか。最も単純な答は道徳的な理由、すなわち持てる者が持たざる者に分かつのは明らかに正しいからである。

 よその貧しい国々に対して関心を寄せることは、現在の新しい基本的な側面、すなわち、われわれは世界という大きな村に住んでおり、世界共同体に属していることから、当然である」とあります。こういう感じ方、考え方というのは非常に新しい思想でありまして、さきほど申し上げた近世ナショナリズムの国益思想の伝統がこのへんから少しずつ変わってきつつあるわけです。

 連帯の思想とか、ピアソン報告を貫くプリンシプルとなっているパートナーシップという考え方は、なにも「助けてやる」などということではなくて、一国の福祉思想を国境を越えて及ぼせばいいのだというものてす。大きな村に住んでいる者同士がお互いのためになるからということでやるのだ、という風になっているわけです。

 それから、第二次大戦後は自由貿易主義思想が実に見事に育ったということもあります。自由貿易主義というのは、お互いに関税を低くし合って世界の貿易を伸ばそうというものです。ガットを支える精神です。第二次大戦後はちょっとしたつまずきがもとで各国がどんどん閉鎖主義をとり、関税障壁を高くしてしまいましたので、お互いに連帯して世界貿易を伸ばそうなどということはできませんでしたが、第二次大戦後はそれが見事に実りました。

 もしその実りがなかったとしたら、日本の今日のような経済発展もなかっただろうと思います。ソ連とかアメリカとか中国とかは、広大な国土を持つ国で貿易依存が低いわけです。各国が関税障壁を閉ざしても自給自足で生きていけるのです。ところが、日本は最近の石油問題をみてもわかるように二か月か三か月で〃血〃が止まってしまいます。自由貿易がつぶれたら日本はたいへんなことになるでしょう。アメリカやソ連がそれによって受けた恩恵よりはるかに大きな恩恵を受けているのです。

 世界の開放体制も第二次大戦後のものです。その点を考えますと、人類というのはやっぱり徐々に進歩しているのだといえると思います。国益思想というのも、かつてのエゴイスティックなものから次第に「世界と共に栄える」という形のものへ少しずつ進んでいることは事実です。援助の哲学の問題として『日本の経済協力』ではそのへんまでのことを書いているわけです。
 
 国としての援助の哲学はそれでいいわけです。けれども諸君は、なにも日の丸を意識してこれから開発途上国へ出て行くわけではありません。むしろ、あまり日の丸を意識せずに行ったほうがいいわけです。ですから私はここで、私自身がもうちょっと若くて、諸君といっしょにそちら側の席に座っていると想定して、自分ならどういうふうに気持を整理してゆくであろうか、ということを考えてみたいのです。

 これから話すことは、いまの世界全体の思想を進めたものだともいえますし、また見方によっては、古くからの伝統的な日本の発想の中ですでにあったものだともいえると思います。要するに私が言いたいのは、協力隊というものは援助の部類に入っておりますけれども、諸君がこれからしようとすることは〃善〃であり、善だからするのだ、という風に気持を整理しておけばいいのではないかということです。

 むろん善にはいろいろあります。国内にいて恍惚の人の世話をしてあげるのも善です。しかし、一人の人間があらゆる善をなし得るはずはありません。人生は七十年か八十年。たとえ一千年生きたとしても、すべての善を一人の人間がやることはできません。となると、いろいろある善の中で自分に向いていることを取捨選択してやるということになります。自分の個性にも向いており、その方面なら自分に才能があるということで、いろいろな善の中から自分にふさわしい善を選んでやる。他の善は他の人がやってくれるだろうから自分は協力隊を選んだ。私でしたら、こういうふうに自分の気持を整理します。

 この点について私の好きな言葉が中国の古典『論語』にあります。その言葉は「仁の道は忠恕のみ」というものです。私の聞いた講義では〃仁〃というのは儒教における最高の道義です。〃忠〃とは自らの生命に思実なこと、俗っぽくいえば、自分自身を大事にして自分の生命を大切にするということでしょう。〃恕〃とは他の声明、自分以外の生命に対して忠実であること。私はこういうふうにその講義を聞いて「それでいい」と思っているわけです。

 人間の中には自分自身が病弱だったり不具だったりして、自分の生命に忠実に生きるだけでせいいっぱいの人もおります。しかし、身体が健康なら、自分の生命も大切にしつつ他人の生命に対しても思いを至すことができるし、そうなければならないといえます。そこではじめてバランスのとれた生き方ができるわけです。現在の日本人は世界中がびっくりするくらいの経済力を築いたわけです。そういう能力を持っており、その結果、手にした金もたくさん持っています。ですからここではやはり中国の古い言葉を借りて、忠と恕との間にバランスをとっていくべきだと思うのです。

 協力隊というのはその恕の一形態であります。つまり善です。ですからさきほど言ったように「善だからやるんだ」と単純に割り切ることができると思います。「情けは人のためならず」というのはこういう論理ではありません。あくまでも自分中心の論理です。自分の利益が最大の価値であって、情けは、その価値を手に入れるための手段にすぎないわけです。

 いまの世の中では「善だからやるんだ」という風にいうと笑われます。「情けは人のためならず」式の論法で「結局はあなたのためになりますよ」といわないと、エコノミックアニマルはなかなか納得してくれないので、しかたなしに「情けは…」といういい方をするんですけれども、私自身がもう少し若くて協力隊に参加したのだとすれば、そんな形で納得するのはいやです。むしろ「いいことだからやるんだ」という風に気持を整理したいと思うのです。

 とにかく開発とか援助に関するいろいろな議論を聞きますと、やはり得か損かという形で、利害打算の論理が通用しているように見受けます。そういうことをやっていては、常に話が迷路に入ってしまって、実践の間に合わなくなってしまうような気がします。ですから私は善の論理を諸君に投げかけてみたわけです。

 善を行うことは楽しいことです。こういうと「いや悪を行っても楽しい」という人があるかもしれません。現に『悪の愉しさ』という本もあります。特殊な局面では、そういうことがあることは私にもわかりますが、一般的にいうと、悪いことをしているより、やはり良いことをしているほうが楽しいわけです。

 それから善を行う度合というのは全くその人の力量にかかることであります。力量のない人は自分自身が他人の迷惑にならないようにうまくやってくれればいいわけで、他人に善を行おうと考えてもしょせん無理なことです。自分の力が弱ければ自分を守るのにせいいっばいです。ですから善を行おうとすれば心が正しいだけではだめで、やっぱり力を持たなけれぱなりません。ただ善人であるというだけでは、十分に善を行うことはできないわけです。その意味で自己訓練とか自己練成ということが必要になってくると思うのです。

 また、善というのは非常に簡単に善である場合もありますが、非常に複雑な形をとることもあります。善ということからスタートしても、それがたとえば一つの事業ということになりますと、早い話がいろいろな業者が群がってきて悪とも結びつきやすくなります。ですから基本的には善である行為でも、その隙間にいろいろな悪の花が咲くこともあるわけです。あとで資金協力のところでも解説しますが、日本からの援助に伴う汚職腐放も起こってきやすい。援助が開発途上国のリーダーたちをスポイルする可能性も常にあり得るわけなのです。

 したがって、動機が善であればそれですべてがいいかといいますと、そうではありません。善を行う場合にはまず動機が善であると同時に、その節々において、変な腐ったものが詰まらないように、常に一種の精神的緊張がなければならないと思います。そういうピリッとしたところがないと、歯の間に腐ったものが詰まるように、常に腐蝕が始まる危険があると思います。

 援助の哲学という点につきましては、以上のようなことを私のヒントとしてはっきり申し上げておきたいと思います。

 

 次にお話したいことは、前にもちょっと触れた、日本人が有色人種であることの意味についてです。

 実は私、これまで何十人もの外国人から「What is the secret?」と聞かれました。開発途上国の人々だけでなく先進国の人々をも含めてですが、「日本の発展の秘訣は何か?」と聞くわけてす。開発途上国の人々は普通、アメリカ人に対してはこういうことは聞きません。イギリス人に対してもそんな質問はしません。というのも、開発途上国の人たちは白人というのはそんなものだと思っているからです。白人というのは自分たちとは異質な人間なんだという潜在意識があるわけです。ところが日本人に対しては「What is the secret?」と食いさがって聞いてきます。

 どうしてだろうかと考えてみますと、ビルマ以東のアジアですと、日本人を含めて人々はみんな同じ肌の色で同じ顔つきで背も低く、一見したところ全くの同類項みたいな人間です。私などもビルマ人と間違えられたり、ラオス人と間違えられたりしましたが、諸君も現地に行ってみるとそれがよくわかるでしょう。向こうの人たちにすれば「俺たちと同種類の日本人があんなに力を持っているのはなぜか」と思う。そして日本人に対して「その秘訣は何か?」と聞くわけです。

 そういう質問を受けて、私は初めのうち自分にもよくわからないので、勤勉だからだなどとデタラメをいっていましたが、何回か同じ質問をされているうちに、「俺は日本人に生まれてよかった」と感ずるようになりました。ということは、ほとんどが有色人種の国である現在の開発途上国の国づくりに一番効果的に力になってやれるのは、われわれ日本人ではなかろうかと思い当ったからです。われわれ日本人がしっかりすれば、開発途上国の人びとは「同じような顔つきをしている日本人にやれたのだから俺たちにもできるのだ」というように発奮するのではないだろうか。

 日本の発展に何か秘訣があったとすれば、そしてその秘訣さえ開発途上国の人びとがのみ込めば、開発途上国の発展の見通しもつくのではないだろうか。彼らにとって西洋人というのは〃高嶺の花〃だったが、「日本人のやったことなら俺たちにも手が届くぞ」ということで発奮するのではないか。そういうことに思い当ったのです。

 日本人と開発途上国の人々との間にはそういうリレーションがあるわけです。有色人種という点ではアフリカ人も共通の面がありますし、かつては白人の植民地であったとか、ヨーロッパ時代にぱ同じく〃日陰者〃であったとか、似た面が多いわけです。
 
 ところで「What is the secret?」と聞く人たちの中には、明治維新のころの日本というのは野蛮人でヤシの木陰で踊りを踊っているような民族だった、と錯覚している人がいます。ですから「それが百年の間にいまのようになったのだからすばらしい」というわけです。私は開発途上国の人たちがそういうふうに誤解しているのなら、そう誤解していてもかまわないのではないかと思います。彼らが「日本が百年でやったのだから俺たちにやれないことはないのだ」という形で発奮してくれることはいいことですから。

 このことに関連して「アジアは一つなり」といった岡倉天心の言葉、あれは大ウソだと思うのですが、私はあの言葉はウソだとはいわないことにしているのてす。なぜかといいますと、昔〃石に立つ矢のためしあり〃という言葉がありました。これは中国の諺で、ある人が石を虎と見違えて弓を一所懸命引きしぼって矢を射たら、石に矢が立ったという故事からきているわけです。ところが、石だとわかってからもう一度矢を射たら、こんどは矢は立たなかったそうです。

 この諺のように人間というのは時には思い違いをしていることはいいことです。一つの人生の知恵といってもいいと思いますが、子供に「お前は絶対に偉い人になる」という暗示をかければ一所懸命勉強するということもあるわけです。ですから、開発途上国の人たちに発奮してもらうために「アジアは一つだ」といい、「日本人にやれるんだから、あなたたちにもできるのだ」といういい方をしたほうが民衆レべルの人々にはいいわけです。

 しかし、実際はどうかとなると、アジアくらい多様性に富んだ文化圏はないわけでして、ほんとうは「アジアは一つなり」というのは大ウソでありましょう。

 明治日本については『文化講座』(協力隊員への講座の一つ)でもいろいろ話があり、その時詳しいことが聞けると思いますが、明冶日本と比べると、現在の開発途上国は果報だと思うのです。明治日本というのはほんとうに涙ぐましい状況にありました。援助どころではなかった。狼みたいな列強に狙われていて、いつガバッとかみつかれ攻め滅ぼされるかわからない状態のもとで厳しい坂道を歩いてきたわけです。

『日本の経済協力』にも書いてあるように、いまでは開発途上国、南北問題について「援助とか経済協力だけではだめだ。貿易上開発途上国に特恵を与える、つまり開発途上国から買い付ける産品には特に関税を安くしたりすべきだ」などということが常識となっていますが、明治日本にとってはそれどころではなかったのです。日本からアメリカへ輪出する物にはアメリカが自由自在に関税をかけました。五○%でも一○○%でも二○○%でもアメリカの思いどおりに関税がかけられました。ですから、アメリカは日本からの輸入を止めようと思えば、いつでも勝手に止めることができました。

 ところが一方の日本は安政の仮条約以来、関税の自主権を認められていませんでした。この不平等条約が改められたのは明治末期になってからのことですから、日本は明治時代のほとんどを通じて関税の自主権を持たず、外国からの貨物に対しては、確か五%以上の関税はかけ得ないという、きわめて不平等な条約のもとで生きてきたわけです。したがって、他国の物がどんどん入ってくるわけです。そういう状況下で自国の産業を育てなければなりませんでした。通常でしたら、そのような状況のもとでは国内産業は育つ筈がないのです。

 ですから、明治日本は存立をかけて血のにじむような努力をしました。福利厚生などということはいっておれませんでした。明冶時代の農民は江戸時代の農民よりもっとひどく搾取されていたといわれています。そのころの日本には何も産業はありませんでした。日本人といえば百姓か漁師です。そういう貧しい百姓や漁師から税金を吸い上げて一所懸命に産業を育成してきたわけです。

 技術協力という面では、明冶時代にお雇い外人が日本に来ました。諸君の場合は、すべての費用を日本政府がみるわけですが、明治日本がヨーロッパやアメリカから招いたお雇い外人の費用は、いまいったような貧しい百姓や漁師から吸い上げた血のにじむような税金の中から支払われたのです。しかも、その額は当時小学校の校長の月給が五円といわれた時代に、月給二百円とか三百円とかという高給だったのです。

 当時の日本はなけなしの金をはたいてお雇い外人を招き、いろいろな部門に配置して技術吸収に努めたのてす。実に涙ぐましい努力です。当時のお雇い外人の多くが記録として残しておりますが、当時の日本の青年たちはお雇いの外人の骨までしゃぶるというような気持で、その人たちが持っているものを吸収するためにひたむきに努力したわけです。

 そういう意味からいいますと、これから諸君の行くところは日本とは雲泥の差があると思います。おそらく諸君は赴任してすぐ、果たして向こうの人たちに自分の技術を吸収しようとする意欲があるのかどうかというような形でフラストレーションに直面すると思いますが、明冶日本というのはまさにその逆の状態にあったわけなのです。

 もう一つ例を引きますと、現在日本の開発途上国に対する借款の条件が悪すぎるというようなことがいわれますが、明治時代の日本の外債の利子は八分、九分の高利でした。明治日本はそういう高利で外国から金を借りたわけです。いまの日本の借款の条件は平均三・五%ですから、明治日本が外国からいかに高利の金を借りたかわかると思います。そういう厳しい条件のもとで明治目本は全くの自力更生をやってきたのてす。「日本の発展の秘訣は?」と聞かれれば、ほんとうはそのへんにあるのだろうと思います。

 援助問題というのは考えれば考えるほどわからなくなるような問題ですが、少なくとも「What is the secret?」という質問に対しては、明治日本には涙ぐましい自助努力があったということをあげておかなければなるまいと思うのです。

 明治日本と比較的似ているのはいまの中国の自助努力です。中国はあまり外国からの借金を期待していません。大きなダムも、ブルドーザーを外国から援助としてもらって作るのではなく、何百何千という民衆がモッコをかついで作っているわけです。さすがは中国です。明治日本と匹敵するように貧しい中で歯を食いしばって、自力で行けるところまで行くのだ、とがんばっています。その力は大したものだと思います。

 明冶日本をえらくほめすぎましたけれども、現在の開発途上国に明治元年の日本を期待するということは、ほんとうは無理なことだと私は思います。明治元年の日本というのは、人間でいえば十七、八歳の吸収盛りの年齢だったと思います。これから諸君が行く国の中には、明治の日本はおろか、江戸峙代あるいは鎌倉峙代、もっとさかのぼって大化の改新時代の日本くらいだという地域も局部的には残っている筈でして、同じ国の中でもいろいろ多様性があります。

 人間いえば一歳半くらいの赤ん坊の状態の地方もあるわけです。そんな赤ん坊に自助努力などといってもだめです。ですから、明治日本を引き合いに出すのは一般的にいってちょっと無理です。もちろん局部的には進んだところもありますが。

 とにかく明治元年の日本では、いろいろな発展の基礎になる国民の教育水準をみても、国民の三分の一は読み書きができる状態でした。これは実に驚くべき数字です。現在インドが一五%といわれていることを考えてみれば、この三分の一の重みがよくわかると思います。

 冷えてしまったエンジンを暖めるのと同じようなもので、三○%を九○%に高めるのと、一五%を三〇%に高めるのとどちらがむずかしいかといえぱ、一五%を三○%に高めるほうがはるかに困難の度合が大きいわけです。ですからいまのインドの教育水準は、日本でいえば明治よりずっとさかのぼった時代の教育水準だということになります。インドの文盲がいつになったらなくなるか。今後幾世紀かかるか実に気の遠くなるような話です。

 行政とか産業についても同じようなことが言えます。焼物でも染物でも、江戸時代に発達したものでいま見てもその個性に打たれるようなものが数多くあります。江戸時代にすでにそういう地元産業が相当程度できていたわけです。資本主義の素地としてのいろいろな仕組みもかなりできておりました。手形とか為替とか頭取とかいう言葉が江戸時代にすでに用いられていたわけです。

 そして、そういう言葉はいまでも金融などで現に使われているのです。おもしろいことに、哲学の言葉には漢字をつなぎ合わせて新しくつくったものが多いのですが、簿記とか会計とかには江戸時代の用語がずいぶん残っているのです。ということは、商業資本的なものが江戸時代にすでに独自にかなり進んでいたということ
です。

 学問的にも、西洋のものこそ入っていなかったけれども、東洋的なものについては日本は大したものだったのです。一説によれば、世界中で儒教が最も現実に深く実現されたのは江戸時代であったといわれています。そういう江戸時代のアセット(資産)のうえに日本人は明冶元年を迎えたので、苦しい厳しい明治時代を立派に生き抜き、発展させてこられたのだといえるでしょう。

「日本の発展の秘訣は何か?」という問題は、援助問題を離れても、世界の課題であります。われわれ日本人が今後十年あるいは二十年かけても解明しなければいけない問題だろうと思います。(青年海外協力隊事務局長、昭和49年、青年海外協力隊での講義)
 


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