伴正一遺稿集・冊子 
 

若者とともに


 生きているという充実感

 霞ケ関を去って広尾二丁目で日本青年海外協力隊事務局の指揮をとるようになったのは、まだ風の肌寒い三月の半ばであった。それからはや二度目の桜が咲いて散った。その間に行を壮んにして送った若者の数は二八九名、その中の二三六名は自ら選び自ら訓練を施した、いうなれば手塩にかけた若者たちである。そして彼らは、ただ一人の落伍者もなく先輩隊員たちに伍して、豆をバラ撤いたように一五の開発途上国に展開している。奥地前進、そのモットーのとおりである。

 広尾の局長室にふんぞり返っていていいのか、と時どき思う。事実、就任後一回だけ海外出張をしたとき、訪問先をラオス一国に限定して隊員一人一人を訪ねて回ったとき、睡眠時間の不足や、溜めた雨水を飲むことなどが、不思議なくらい体にこたえなかったし、気にはならなかった。生きているという充実感が湧いてくるような感じであった。

 四七都道府県に拠点を持つという国内募集体制が整ったら、私は司令部にいるよりも前線に立っている時間を長くしたいものだと思う。地酒を汲み交しながら隊員と語る姿のほうが、実践部隊の指揮者としてふさわしいように思うのである。事業全体の地固めをコツコツやりながら、少しずつ体力を鍛えて、私自身の訓示に従って文化果つる地に厳しい実践の道を歩んでいる隊員たちの中へ、えらそうなことを言った本人自身が飛び込んで行ける体力的素地を作ろうと思っている。

 挫折感から希望へ

 派遣前の訓練は四カ月にわたる。四カ月という合宿方式での訓練は、実感としては相当長い訓練である。カリキュラム的な角度からみると問題にならないほど短すぎるという結論しか出ないが、校長の立場とでも言おうか、責任者の肩の重さという面での実感は、やはり長いのである。ほとんどの訓練生(隊員候補生)は社会人なのである。相手国から実務経験が要請されていることもあるが、別の意味でそれよりも重要なのは社会経験であって、日本社会の中で実社会の人間関係のままならぬことを体験したことのない人々が、異質な任地社会で、日本の場合に輪をかけた難しい人間関係に対処できるはずはない。

 卒業直後の若者を隊員に選ぶ方式であれば、募集、選考の苦労は何分の一かに一挙に軽減する。しかし、学園からの直行組をできるだけ避けて、社会人の中から隊員の大部分が選ばれているのは、協力活動の厳しい現実に目をそむけるわけにゆかないからである。とまれ、学生ではなくて社会人に訓練を施すということは骨の折れるものである。

 それも、今まで何か一つの団体や運動に属している共通基盤のある人々ではない。それどころか、学歴はまちまち、年齢はまちまち、職業までが完全にまちまちである。もう一つ加えれば、行く先がほとんど一人一人といっていいくらいバラバラである。同じフィリピンといっても、中部ルソンの稲作隊員からスールー海上のバラワン島行きの土木隊員までいる。

 教える言葉もギリギリにしぼって、スワヒリ語(東アフリカ)、ネパール語、ラオス語、マレー語などが英、仏、西などに加わる。訓練が終わったときホッとするのは、厳しい合宿訓練を終えた候補生たちよりも、訓練する側の訓練所の職員たちではないかとさえ思われるほどである。訓練は私にとって苦しかった。そしてこれからも苦しいものであり続けるであろう。その意味から広尾でふんぞり返っているという言い方は、ここで修正しておかなければならない。

 しかし、訓練は苦しいことばかりてはない。若者たちに体当たりしてみて、次第々々に気持が挫折感から希望に変わってゆく過程はなんと素晴らしいことであろう。私自身がもう若者とは言い得なくなってから、かれこれ二十年である。断絶という言葉がその間に世代の相互関係の基本のように用いられ始めた。正直なところ、一年前の私の姿勢を顧みると、とても体当たりなどという勇ましい言葉で表現できる代物ではなかった。

 おっかなびっくりとでも言おうか、及び腰もいいところであった。毎週とにかく敢行してみた講義がすんだ後、自分の部屋に帰って椅子に体を埋めた私の姿ほどみじめな姿はなかった。ガックリきて自分自身に嫌気がさしてしまう。そんな気持にならないことが三度に一度はあったであろうか。そういう状態から出発しただけに、時が経つに従って、対話というものがあり得るんだという自信めいたものが芽生え始めたときの気持は、そっとして何度も何度も噛みしめたいとでも表現したい一種の悦びであった。

 その頃から、勇み足になってはならないということを自分自身に言い聞かせながら、体当たり的なものへ一歩一歩自分の技(わざ)を練り上げていっているわけである。もちろん道は遠いのであるが、重き荷を負うて遠き道を行くということは、苦悶の道ではなく、捨て難い味のあるものである。ひょっとしたら、登山の醍醐味とは、目的の頂上に立ったときもさることながら、難所の一つ一つに取り組む心技の冴えを味わうときにあるのではないだろうかと思う今日この頃である。そして〃断絶〃という言葉は、われわれ世代が責任を回避し匙を投げた時の言い逃れの言葉ではないのか、ということを天の鞭に打たれるような痛みとして身に感ずるのである。

 一つの厳しい選択

 協力隊には「七三○日の青春」という映画がある。フィリピンを舞台にし、谷口君という漁業隊員と小笠原君という土木隊員を主人公にした映画で、なかなか感動的な映画である。その七三○日ということから私が艦隊勤務の約六三○日を連想したのは、実は建築設計でマラウイ国(アフリカ)に派遣中、交通事故で死亡した石井優君の遺骨を迎えたときである。

 いわば医療果つる地、昔の言葉でいえば瘴癘の地を主たる舞台としながら、幸いにして瘴癘のために斃れた隊員はいないが、石井君は協力隊が昭和四○年に発足して以来、一三九五名にのぼる派遣隊員の中で二人目の交通事故による犠牲者となった。
 
 立派ではあったが、胸中、協力隊に参加さえしないでくれたら、と思っておられるに違いないご両親の姿を見ると、バンダ大統領の親電や石井君の真摯さを讃えるマラウイ国朝野の哀悼の辞もやはり響きは空しかった。それでかけがえのないわが子が生き返ってくるものではない。協力隊に参加さえしないでくれたら、ということを裏返せば隊員を募集し訓練し派遣している私たちの仕事は、石井君一家に関する限り罪深き仕事であったに違いないのである。

 昔のように戦場に行くわけではない。しかし、協力隊はアジア、アフリカのずいぶん奥地にまで展開している。フロンティアといえば聞こえはいいが、その語感に忠実にこれを訳すと、文化果つる地となるのである。地球人口の三分の二を貧困と無知が覆っている。隊員の行くところは、その貧困と無知の覆っているところに外ならないのである。その七三○日は往年の六三○日には比すべくもないが、一つの厳しい道であり、険しい道であることに間違いはない。私は石井君の死によって今更のように、私のそれまでに持っていた協力隊像を徹底的に点検し直す契機を与えられたのであった。

 協力隊紹介のバンフレットの題名は

「一つの厳しい選択」

とし、冒頭の序には次のように記した。

  • 隊力隊への参加は人間交流への一つの道である。
  • それは、セミナー、親善の夕の旅ではない。しばらく現地村落の一員となり、建設現場、修理工場の人となる。
  • 地道である。そして二年の重みがある。
  • 南北間題に安易な解決はない。行動でこの課題に取り組む過程では、計画通り事が運ばないことが次次に起こる。何回か、絶望と挫折感 の中から自分を立ち上らせなくてはならない。
  • ただ、そういう自分自身との闘いを闘い抜いてゆく中に優雅さがないとは言えない。
  • 澄んだ心で見つめると、現地民衆の心は、人々が考えているよりも豊かである。
 思い上がりが消えて、心の通いが実感され深まってゆく。その喜びは、われわれ若者が、その心の奥底で求め続けているものの一つではないだろうか。人類の三分の二が自力更正の第一歩を踏み出す真のキッカケではないだろうか。

 新しい芽生え

 私は、協力隊にはこれを読んでその趣旨に賛同し、それに耐える自信のある青年にだけ応募してもらいたいと考えている。そのような青年が日本にいる限り協力隊は存在し、そのような青年がいなくなれば、その時点で協力隊は消滅するのだと思っている。現在、日本の若者は、有史以来いかなる世代も経騒したことのない悩みを持ち、いかなる世代も問うたことのない問いを自らに投げかけている。

 生きがいへの問いかけ、ひたむきに追ってゆけるものの模索、今までほとんどの民族が認めて疑わなかったものまで白紙に還して見直そうとする姿勢、そういう一連の思考が時代の風潮を形成したまま、混迷の中に光を差すような答が出ていないところに、底のない無気味さを覚え、小さくても実践に繋る道を示唆することの急務であることを痛感するのである。

 協力隊は、その意味で直ちに答を用意しているものではない。協力隊が若者に呼びかける言葉は実践への誘いである。南北問題という気の遠くなるような巨大な問題に挑んでみる気はないかということで若者とともにある。その実践に取り組んでみたら、日本の中にいては脳漿をしぼっても出てこないであろう何かの手掛りにブチ当たるであろうということである。

 協力隊は、いろいろの意味で開発途上国の国づくり、村づくりに協力することを目的としている。しかし、過去七年余の体験は協力がこちらからの一方的協力でなかったことを実証した。帰国隊員の多くが学ぶことのいかに多かったかを述懐する。彼らが協力に成功した場合というのは、現地の人々の生活意識と日本人である隊員の意識が厚い壁を貫いて交流し、その接点の渦の中から新しいものが芽生えたということである。

 率直に言ってそこまでの成功事例がザラにあるわけではない。意識の壁を超えて新しいものを芽生えさすところまではゆかなかったが、強引に日本式のやり方を現地に植えつけようとすることがいかに愚かであるかを知った、という段階の隊員のほうがはるかに多いであろう。具体的な成果は比較的少なかったとしても、大多数の隊員がアジアやアフリカのおびただしい数の地点に展開し、その土地々々の人々の心を理解して帰って来たというだけでも大きい成果であったと思う。

 協力隊事業当初の七年を人間交流だけの見地から評価するならば、はばかりながら、私は絶讃に値すると言い切りたい。現代の日本青年は再評価に値し、日本の将来に希望を持てるというのが私の感想である。私は就任後一年を経た今、明るい気持で仕事をしているのである。

 地方拠点の形成

 いま、私が取り組んでいる仕事の一つに冒頭にもちょっとふれた地方拠点の形成がある。この構想のそもそもの発端は、協力隊に参加して帰国した若者たちの貴重な体験を、どうすれば埋没させないで日本全体に浸透させ得るだろうかという設問であった。
 
 帰国した隊員たちはほとんどすべてが、協力隊参加による人間形成上の収穫を自覚しているし、その中の大多数はその体験を生かせるような職場を求めている。しかし現実には、そういう職場が見当たらないまま、時日の経過とともに、とにかく再就職ということに落ち着いてしまう傾向が多いのである。確かにどんな職場でも体験を生かす道はあるであろう。しかし、よく考えてみると、東京のようなマンモス都市の中で、まだ二十代の若者は、余ほどの幸運に恵まれない限り、巨大な機械の一部品としてしか機能し得ないであろう。

 それに比べて地方では、なお地域社会が生きている。そういう地域社会に帰って行くならば、帰国隊員がよしんばどんな仕事についていても、彼は呼びかける友人や知人を数多く持っているはずである。地域社会全体が彼に注目してくれるといってもいいであろう。呼びかけも必ずしもローカル・テレビに出なくてよい。極端にいえば言葉によらなくてさえよい。生活そのものに、落着きだとか重厚さが自然に現われていても、それは一つの影響力である。協力隊の意義が国民全体に理解されてゆく最も健全な過程とは実はこういう過程なのではないだろうか。またそのことは、地域住民の国際的視野を広げてゆく過程のうえでも当てはまるのではないだろうか。

 日本全体の進む道いかんが国の内外で問われているとき、青年が何処を目指すかに迷っているとき、帰国隊員は、地方々々の若いオピニオン・リーダーとして郷土に定着するほうが、本人にとっても、地域社会にとっても、国全体にとっても、望ましいことではないだろうか。こういう考えから、協力隊を地方々々のものとして根づかせてゆきたい。いいかえれば、いま述べたようなことが可能となる基盤形成を図りたいというのが、地方拠点形成を目指すに至った発端である。いろいろの討議、審議を経てその第一着手は選考第一次試試験を四七都道府県で実施するということに決まった。

 協力隊を日本社会の土壌に根づかせる最も健全な道として、地方々々に根づかせるという地道な道が選ばれることになったものの、その途上においても鶏と卵のような矛盾に随所に直面し、うっかりすると議論が空転して止まるところを知らなくなる。そういうようなとき、私を挫折感から救ってくれるものは、海外で仕事をしている日本青年五二○人の存在である。それが心の張りになって私の気持をいつも建て直してくれるのである。(青年海外協力隊事務局長、昭和48年、「アジア農業」掲載)


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