伴正一遺稿集・冊子
 

思い出の記

    はしがき

  思い出の記を詳しく書こうとすれば際限のないことである。短い時間で三年の生活をまとめるために、私は記述をもっぱら自己の個人生活に限った。しかも大学生としての個人生活に。それでもなお、いかに取捨選択に思い切りを要したことであろう。私は目的を殺さない限りは、能う限りの割愛を忍んだつもりである。

  次に私は、描写において客観性を守ろうとできるだけの努力をした。しかしながら、描写の対象が主として私の主観的な心理状態なのである。自分勝手に感慨にふけったり、夢みたり、張り切ったりしている姿は、やっぱりそのようにしか描写する外はないのである。多分にドラマチックな所々の記述に対して誇張のそしりあらんことを恐れつつも。

   昭和二十四年四月九日    さんさんたる春の目を浴びて    伴  正一



 私はのんびりゆこうと思う。

 終戦の涙が乾いた時、私は誰の判断をも信仰するまいと思った。信仰するつもりでなくても、他人の判断を理解しようと焦ると信仰に近づく危険がある。だから私は人の思想を理解することを急ぐことをも警戒する。それよりも、セッセと自分に湧いてくる疑問と対決してゆこう。自己の判断力をこういう方法で培ってゆく人間が少しくらいいてもいいと思う。

 私は大自然のみに忠であろうと思う。私の心には大自然が、私の心に特有な種子を蒔いてくれるであろう。私はそれに風通しをよくし日光を当てて、その成長を楽しもうと思うのである。大自然と生な社会に対して新鮮な驚異を感じ、眼をみはる素朴な気持を私は生かし続けたいのである。永遠に謎であるところの人生というものに一生涯童心で取組んでみたいのである。

 一

 大学に入ってからも、私は依然、追憶する人間であった。私にとって生涯忘れることのできない六月十九日――未曽有の感激と、深刻なる焦燥と、最大の失望と、そして死の覚悟がたった二十時間足らずの間に踵を接して起こった――の記念日以来、私は海軍時代の思い出の記を書き暮した。八月に及んでも思い出の記はやっと半年分を完了したのみであった。私はやっと厭くことができた。追憶に徹し追憶に厭くことによって、私ははじめて追憶から解放されることができた。私は遂に海軍への訣別をしたのである。

 私は新しい出発をした。私は新しく驚異の眼をみはる人間となった。

 私が下宿していたのは三島の農家であった。私はそこの十四人の家族の生活に入り浸ることにどれだけ楽しみを感じたことであろう。それは幸福なる十四人の生活なるが故ではなく、私にとって未知の世界であったからである。

 延べ百回を超えるところの三島,東京間の往復の車中で、窓外の風物と地図以外に目を向けたことは珍しかった。

 学校を放擲して三週間、東北の山河を縦横にさまよった時、私の喜悦の情は頂点に達していた。私はまたよく三島郊外の高原を愛した。ウットリするように秀麗な富士、なだらかに裾を引く箱根の諸峯、平和な盆地を引き入れた伊豆の山々、更には遠く赤石山脈の末端に消える駿河湾のなぎさ……、この大自然の懐の中で、私は全く自由奔放に考えることができた。時として真青な大空の中に私の魂は溶けるようであった。再び我に帰って地球面に目を注ぐとき、市も町も村も農地も工場も森林も牧野も河川も鉄道も道路も、一応社会を研究する緒はすべてこの眺望の下に錯綜しているではないか。

 社会! 社会! 私は今まで何百遍となく見たり聞いたりしたこの平凡な言葉を、子供が言葉を覚えた時のように珍しげに繰り返していた。
 
 

 正月の休みの数日、私は土佐の田舎をテクテク歩いていた。旧友歴訪は副目的であったこともちろんである。

 私は香長平野の文字通り到る処に、野中兼山の偉業の跡を見た。物部川を堰いてこの平野を灌漑することにより、不毛の地を一挙に沃野とした。これと同程度の業蹟を彼は土佐の到る処に残したのである。

 私が日本国民の幸福を考えるとき、この偉大なる故郷の先哲は憧れとして謎として常に私の脳裏を去来するのである。

 一月十三日、私は本当に久し振りに六法全書をポケットに入れて裁判所へ行った。六法全書が地図に代る記念すべき日になろうとは夢想だにしないで。

 二月五日に上京するまで裁判所と税務署と市役所が私の学校となった。

 上京後一カ月にしてまた帰郷したが、上の傾向はますます助長された。遂には大阪高知航路を、海商編を手に、船長からボーイまでと仲よしになって往復した。三カ月間の私の行動を可能にしたものは、第一に冷や汗級の心臓であり、次には海軍時代の実務の体験であり、第三には父の知人関係であった。

 六法全書が平均して黒くなってゆくのを楽しんでいた私は、四月三日に見合いをした。それから翌二十三年一月八日(一月五日の結婚式を終えて単独上京した日)まで結婚乃至は夫婦を中心とする親族社会という問題を、実践と併行する大きな問題として考えてきた。この十カ月余りの問、私は自己の三分の一以上のエネルギーをこの問題に費やしたと思う。

 三々九度の杯の最中に、婚姻という概念とか、身分的法律行為のことを考えていたことは偽らざる事実である。

  三

 話は本筋の昭和二十二年に戻る。

 四月の新学期から私ははじめて本格的に講義を聴いた。しかし、実務から学問ヘ、常識と実験から理論へという当世では全く反逆的な態度を現在の大学の中で貫くことは極めて困難であった。今から顧みれば、それは全く不可能のことである。技術的と思い込んでいた訴訟法においてすら、訴訟という範囲内容の皆目判明しない概念を中心に、縦横に、いわゆる総論的な理論が展開されてゆく。私は続々出現する抽象名詞を、娑婆の実体像を思い出しながらジックリ吟味する余裕のないことを心から歯がゆく思った。

 その間にただ英法二部のみが私の心理と併行した。また、現行の法律上の概念のプリミティヴな起源に触れるローマ法と、随筆的傾向に富んだ農業政策がこれに次いでいた。

 私はまた、ワイマール憲法の演習で、報告者の長いレポートと、おとなしいディスカッションを五里霧中で聴いていた。しかし、私の報告する順番はやがて旬日の後に迫ってきた。ゼロに近い私の独逸語の能力で指定された文献を読むことが遂に不可能なるを悟って、私は思案に暮れた。窮鼠かえって何を噛んだか。私は向こう一週間、耳目に触れるもの、脳裏に去来するもの、そしてあらゆる体験をすべて信書の秘密という問題に集中して、背水の陣を敷くことにした。

 不安に充ちた全く突飛な報告と、それによって意外にも醸された活発なディスカッション――その間における私の論議は全く統一のない、いわばゲリラ戦とも評すべき盲目的抵抗であった――が、教授によって整理されてゆくのを私は夢心地で感じていた。

 この日のゼミナールは背水の陣が失敗でなかったことを感ぜしめた。私は爾来ゼミナールの時間には、一つか二つの自分の判断をもって臨むことにした。ソクラテスがアテネの青年と語ったような、発生的意味における弁証法を地でゆこうとしたのである。

  四

 夏休みの前半は、日向に遠征して婚約にまで到達した時期であり、また、四月以来、東京の玄人下宿で衰弱した体力を回復する時期でもあった。

 後半は、一学期に恨み骨髄に徹した訴訟法への対策に向けられた。私はあの抽象論を不安なく聴き得る素地を作ろうとして、裁判所へ行っては訴訟記録の印象を頭につめ込んでいたのである。

 私はその間も毎日鏡川の清流の中で二、三時間を送った。河童組のおそらく最年長者であったろう。私はまた時々海へも行った。そこには、チョンマゲと袴に靴をはき、懐手にはピストルを持った坂本竜馬が黙って黒潮を睥睨している。この巨像は、私から小さいセンチメンタリズムを追放し、最も深いセンチメンタリズムのうえに立つ逞しさを教えてくれる。

  

 二学期における私の傾向を大づかみに言うならば、それは私が少し大学生らしくなったということである。
 まず十月の初め、私ははじめて民訴の講義を興味深く聴いた。確か参加的効力のところであったと思う。国法学における自然法論の国家観について、私は異常に興味と愉悦を感じた。このことは民訴における私の緒を一般化した。

 私は講義が終ると毎日二号館の屋上で、日が暮れる頃まで、その日の講義の中から二、三の印象深きものを手がかりとして考えていた。

 大東京はほとんど展望され、視野のいい時は富士、秩父、奥多摩から箱根、更には大島まで、そして筑波はもとより、あるいは三国山脈の一部に違いない山々まで見晴すことができた。

 時に私は図書館前のベンチで讃嘆すべき「天上に輝く星」を眺め、下宿の学生たちの中に帰ることを欲しなかったこともある。

 下宿で停電の多いことは私にとって幸であった。同室の学生たちが皆気分を壊してダンスや映画に行ってヒッソリした中で、私はふとんにもぐり込んだ。開放的な窓のガラス越しに大空を眺めながら。

 夢地と思索の交錯する味は懐かしい思い出である。

 私は、今でもそうであるが八、九時間の睡眠をとっている。そして、日の没している時間は原則として人の睡眠に適するものであり、夜の白みかける時に起床するのが、人の考えを自然ならしめるに最も適しているのではあるまいかと思う。私は職業等の関係が許す範囲では、なるべくこの原則に従うのがよいと考えている。

  六

 冬休みは、すべてを新しい結婚生活に注いだ。この間私は次のような考えで実践を図った。考え方が幼稚だと言って人を喘うことは不可能である。人はどこまでいっても完全ではあり得ないからである。自己の現有の能力で能うる限りの思慮を尽し、誠の心に背かない限り、その人は後悔の余地はないであろうし、また、かかる人を喘うことは許されないのではあるまいか。これこそは人を焦燥から解放し幸福なる「人生の芸術家」たらしめるものであろう。私はこれこそ自由なる意思に生きる人であろうと思う。福沢論吉に共鳴することが必ずしも曽我兄弟や大石良雄を喘う結論とはなり得ないと思うのである。史上の人物の価値評価には、時代の背景を考慮し、期待可能性の理論を準用すべきではあるまいか。

 私は、思わず陥った脱線をあえて削除しないことにしよう。

 一月十八日、母と新妻の見送る姿に祈る気持で別れを告げ、私は単身上京の旅についたのである。

  七

 試験が迫って私ははじめて本を読まねばならぬ破目に陥った。終戦以来、恐ろしさと警戒、したがって閑却の対象となっていた書物を。ノートは簡単と脱落のためほとんど役に立たないことが明らかであった。

 私は試験を戦いに比してやっと読書の苦しみを正当化した。もはや無理をせぬ主義、心境の波に乗る主義は通用しなかったのである。私は軍備の不足を痛感し、泥縄式軍備として、心境に順応しない読書のために無理を忍び、強制を己が心境に加えねばならなかった。あたかも今次大戦における英国に似て。

 私は後に、試験の失敗を知った時、学生の「富国強兵主義」の必然性をはじめてうなずくことができた。短期間の内的充実よりも長い自己の将来を袋路にしない措置を講ずることのほうが、双方の両立しないほとんど大部分の学生にとっては遙かに合埋的であるからである。そして最初は十分に意識せられていたであろうところの目的と手投の関係が、遂に一生主客顧倒したままで終る数多の悲劇を、祖国の維新この方の歴史と対照したのである。

 統一と整頓とを時期尚早と決め込んでいた私は、年老いたる父母への報告を遂に滞らねばならぬ結果を自ら招来したのである。

  八

 四月から、世田谷に間借りの愛の巣を営んだ。一年の時の自由奔放な私、二年の時の徹底的に考える私、学問的には幸福そのものだった私はすでに去りかけていた。

 私は講義の時間内で考える私になってしまった。去年の秋がことに尚古的感傷をもって懐古された。その淋しさを埋めるために、私はゼミナールに沢山出た。また聴講で日中を埋め尽した。

 高文受験のための一カ月は、私が今日までの中で最も戦時型になった時である。あの時くらい浅く学問のうえを滑り歩いたことはなかった。広く漁ることが狭く掘り下げることと相補うことはよくわかっていたし、だからこそ、かかる一カ月が送れたのでもあり、また、この目的からわざわざ六法と行政法とで受験した次第でもあるが。しかし、前年の秋を思い、前々年の頃を偲ぶと、妥協する私の姿がなんとなくあさましく思われてならなかった。

 二学期の初めには渉猟主義のついでと思って、講義を聴いていない六課目(ロ−マ法を除く)を受験した。その中二つは棄権したが、妻のつわりをめぐる悪条件下としては予想外に好成績であった。九月十八日から約十日間、私は渉猟を締めくくり往年の自由なる思索に立ち帰る一助として、法務庁の論文に応募した。この時私は意外なことを発見した。

 それは、まだほとんど学者が取扱っていない歴史的な問題を論ずる時に、判断の基礎として、主張の理由として広汎なる渉猟を必要とするということであった。それはあたかも外国語で意見を発表する時に語彙の豊富さが要請されるように。

  九

 論文を脱稿して私は久し振りの自由を喜んだ。大学生活もあと半年という感じは、私をして前年の秋に帰ることよりも、講義とゼミナールを満喫せんとする意欲に軍配を挙げしめた。

 講義は何故かしらすべて興味があった。私は相当ノルマルな学生に近づいてきていることを感じた。ゼミナールではソクラテスと語るアテネの青年を決め込んで、時に饒舌を反省せねばならなかった。

 富士の裾野から二号館の屋上へ、次いで教室と演習室へという象徴的な表現は、最も適切に私の大学生活の推移を示すであろう。

 二学期における一つの大きな問題は就職間題である。私は前述の如く、一年の夏休みに、追憶から脱却して新しいスタートを切る時に、将来何になろうかと考えた。政治家と学者が最後に決定の爼上にのぼった。その時私は政治家を選んだ。だからこそ私は、未知の問題と素手で対決する行き方を貫こうとしたのである。四十を過ぎて、持論を全面改訂することは、政治家にとっては自殺に等しいと思った。

 四十を過ぎて再出発することよりは、潔く引退を選ぶのが政治家の道であると思った。政治家は尨大な組織のうえにはじめて活動し得るものであり、彼の既成の思想は決して彼一個の所有物たり得ないからである。

 されば政治家は十年間、二十年間の最活動期において、命をも賭すべき思想的拠り所を四十近くまでの短期間に、しかも命を賭し得る程度に慎重に築き上げねばならない。

 相異なった風物と規範に支配されている相異なった社会の空気を、鉄未だ熱い若壮の日にできるだけ多様に吸うことは、世界観を最も慎重に築き上げる道ではあるまいか。

 アメリカの広漠たる一農村のアメリカ人の家庭で、一日一夜の社会関係を結ぶことは、麦飯を食い畳に起居しつつ十日間、東京の研究室に米書を繙くよりも概括的・印象的把握として、より急速かつ効果的ではあるまいか。

 かかる将来を夢みてこそ私は、自力による即成の判断力養成に執着してきたのである。

 されば私は、卒業後のことが問題となるとき、海外渡航――具体的には留学か外交宮――の夢が圧倒的に脳種を支配し、誇大妄想狂の批判を浴びるのである。差し迫る現実の就職は、この夢に至るまでの暫定的問題乃至準備的問題としてしかどうしても考えられない。私は希望を集中すべき何ものをも発見し得ずに、ただ今まで専攻した法律学を中途半端で終わらせないだけの意味で司法修習生を第一とするに至ったまでである。予備的かつ試験的気分で受けた日銀は失敗したが、最後の予備としての日本鋼管の採用試験の半ばで高文合格が確定した。

 就職問題は私をして、入学以来はじめて心ゆくばかり季節を味わうことを忘れしめた。

  一〇

 冬休みとなった。今度の休暇は最後のノンビリした帰省となるであろうと思った。私は父母の許へ一刻を争って帰った。

 七十一歳の父と六十四歳の母にとって、人生の生きがいは独り子の私が偉大になることである。また父にとって一番楽しい時は、私の帰郷を迎えて一本の晩酌を交す時であり、母にとってのそれは、私がおいしそうにご馳走を食べるのを眺める時である。

 戦争中も私は内地に帰るごとにかかる機会を最大限に作ることによって、死に対する心残りから脱却することができた。

 明日の生存が不確定なものであるという考え方、また、国を興すためには往々にして貴重なるいのちが賭せられねばならぬという考え方からすると、一刻々々の精神的債務を清さんしておくということはきわめて適切なことであり、その精神的開放のうえに、能うる限りの楽しみを満喫しておくと言うことも私の至当と信ずるところである。この点について私は、多少のヂレンマを感じつつも、きわめて容易な孝行を為し得る果報者であった。

 また、私は大学三年の間一銭のアルバイトをもしなかった。私は、私の学問が一家の綜合芸術の部分であり、かつ中枢であると考えていた。両親は独りこれを承認するのみならず、一家協力の精華としてこれを誇としていた。まして、決して豊かとは言えない生計の中から経済的負担に耐えてくれた。されば私も両親の経済力への配慮を続けながら、自己の学問の要素を殺すことは決してしなかった。

 私の今一つの幸福は「芸術」の方向と内容の決定が経済的援助の対価として拘束を受けていないことである。私は両親の献身的な努力と信頼に報いるために、必ずしも一致していないところの、私の理解と両親の内心の意思とを調和させることに少なからず努力してきたつもりである。

 冬休みの計画は法理学とワイマール憲法のレポートを完成するにあった。しかし、論文というものは余ほどのインスピレーションによる外は、追いつめられるまでは仕上がらないものであるということをしみじみ感じた。結局でき上がったものは、大学生活の簡単な思い出の記の一部分に過ぎなかった。

  一一

 上京して正月のアルコールが切れた時、いよいよ試験の近きを思った。昨年の失敗はまざまざと脳裏に再生した。

 しかし、九月のような渉猟主義でゆくことは耐え難いことであった。偉くなることを犠牲にしてはならない。偉くなったという回想なき一日の何と寂寞たることぞ。

 さりとて父母の期待にこのうえ背くことは忍び難いところであり、綜じて成績をよくすることへの関心はきわめて大きかった。

 最善の道いかん、二兎果して追い得るやの昏迷は私の念頭を去らなかった。

 私は三年の秋からはじめて課目別のノートを持ち、計画的に講義を筆記していた。そこで私は取りあえず本年度前半の全部および後半の脱洩部分について、友達のノート写しをすることにした。この大きなアルバイトは妻が一手に引受けてくれた。そして私をしてほとんど時間を割かしめることなく、これを仕上げてくれた。その間に、素朴ではあるが非常に重要な点に触れる妻の質問を喜んだ。時々私は問いつめられて一本参った。そんなとき私の喜びは一入であった。

 一月二十四日、妻は月例の都民劇場の催しに行った。今月は三越劇場の歌舞伎で、帰宅は十時近くになるというのであった。そこで私は、それまで図書館で粘って、下北沢駅で待ち合わせてやることにした。この偶然のことは前に述べた私の昏迷を実銭的に解消するよすがとなった。

 米国判例雑誌室にはガス暖炉があった。ウッカリ私は、二月初めに私が担当する英法演習の事件の索引番号を忘れてきた。そこで私は已むを得ずよい加減に判例集の一冊を拡げておいて、たまたま持っていたローマ法のノートの初めを開いた。それは綜合雑記ノートの中から切りとってロ−マ法のノートの初めに貼りつけたきわめて不整頓な部分であり、その内容は物権の公示制度についてであった。

 ノートは如何に読むべきかを考えつつ私は紙面を眺めていた。公示制度! それは独りローマ法のみの問題ではない。民法三部、商法二部、西洋法制史、日本法制史、その何れにおいても、そして独り物権のみならず債権についても、更に身分法の領域においても重大な問題として考えられているではないか。それらをバラバラに呑吐するところに暗記に疲れ、試験と法学勉強からの解放を指折り待つ学生の悲劇が生まれるのだ。

 私はこんなことを漠然と考えながら依然紙面を眺めていた。
  「権利は見ることができぬ」
 警句の如く、法諺の如く脳髄が独語した。私は曙光のようなものを感じながら小声で嘯いた。
  「権利は見ることができぬ」
 私は更に紙片にこれを書いた。

 その日の帰途の私のなんと幸福であったことよ。雑然たる鉄屑が一個の磁石によって一斉に整列するように思った。偉くなったという喜び、そして新しい研究段階に入ったというムズムズするような希望、私は一昨年の秋以来、一年一、二カ月振りに学問の"陽春来"を味ったのである。

 英法を除くすべての演習が終了していた私は、爾来毎日この判例室に入ることを楽しんだのである。

 すべての道はローマへ。日々の講義の中から法律学上のローカルな大問題を捕えてその本質を追究してゆくことが、やがてローマに上る日の素地を築くものであることを私は確信した。毎日の講義の何分の一にも足りない部分ではあっても、私は私なりにその本質に追ってゆく努力を続けた。私はその日その日の問題について、単位課目を超えた立場から小論が湧き出るまで粘った。「権利のユニホーム」「権利の誕生と成立式」、「権利の辿る一生」「訴訟と闘争」「要件事実の構成態様」「利益と権利」「紛争解決と正義擁護とをめぐる国家機能の限界」……等々、私は「自己の言葉」をもって自己の理解を進めていったのである。私は時々判例室のソファで煙草の煙を眺めながら、余りにも強い私の自我に驚いていた。褒貶何れとも定め難い、折々の我妻教授の小生評が脳裏に出没した。そしてこれらの批評を自己の生命と個性に忠なる――余りに忠なる――私に対する激励であるかの如く無意識的に解釈するところにまた、私の自我の強さが現れていると思う。

 私は天下国家については皆目見識を持たない。また、向こう十年見識を持つべきではないと考えている。全農村地帯の掌握なき長春、北平の維持が中共軍の前に如何に脆弱なものであるか。

 しかしながら、自己一身の進退において、私はなされた真撃なる数々の人の忠言を参考以上にしたことは終戦後たった一回しかなかった。終戦翌春、自己の判断なくして山内侯爵家に入ったことが失敗であったことを銘記して以来、私は常に自らの判断によって自らの運命を決定してきた。私は誠意ある忠告がしばしば重大なヒントを与えてくれたことを感謝しているけれども、自己の運命について自己ほど精密な情況判断と周到な計画を持つものではないということをしみしみと味わってきたのである。

 とまれ私は毎日六時半乃至七時まで、心境の波に乗った自由なる勉学を続けていたのである。私は、学問に果しのないことをつくづく感じた。それ故に試験に対する気持の安らかさも増してきた。私はどこかで進撃を止めて整頓に入り、大学三年の総仕上げとして法理学の論文をものしたいと思った。しかしながら、整頓すべく進撃は余りに序の口である。私は興味のままにいつまでも進撃を止めなかったのである。

 講義がすべて終ったのは二月二十二日であった。私は一通り全課目のノートに目を通す予定を組んで、まず鋒を西洋法制史に向けた。一日半の予定が四日かかったことは、私をして十二課目受験の能力を疑わしめた。法理学の論文が試験突入に至ってなおその緒につかないことは更に一抹の不安を漂わしめたのである。試験の全期間中、私は偉くなることを犠牲にしないために闘い続けた。

 私は山をかけることの一つの意味を発見した。学問には山があるということをはじめてうなずいた。学問における大小それぞれの山に対して時間と労力を分配することが情勢切迫せる私にとって唯一の進路であったからである。さもなくば私は暗記主義か盲目作戦に陥る外はないからである。

 かくして私は幾度か棄権を覚悟して試験に臨んだ。しかし、試験時間の二時間をやはり「考えよう」としたことは、結局答案のペンを走らしめることになり、逆に棄権の機会を逸せしめた。

 十七日間にわたる試験を通して、私は幸うじて初志を曲げずに闘うことができた。結果はとまれ、私の実践そのものは成功した。唯一の失敗は手形法に対する配当時間の不足であった。

 一年この方、ことに今年に入ってからの進撃期において生活に一抹の不安なく、疲労への慰めに道徳なきを図ってくれた妻に対して心から感謝している。

 ある夜私は疲れ果てて、半時間ばかり予定よりも早く帰った。暖かいものを食べさせようとしていた妻の予定を充分考慮しないで、私は妻をせき立てた。私は眠くてしようがなかったのである。おいしい肉うどんを頬張っている時は、すでに私はウトウトと眠りかけていた。

 私は妻のシクシク泣く声にハッと目を覚した。彼女の頬には涙が光っていた。
 試験の終了と共に、私は臨月に入った妻を連れて帰郷した。

 故山はいつも私を激励してくれる。人生と四つに組もうという感想と、命をもって芸術にぶつからねばならぬという感慨とを深めてくれた。

 三月三十一目、私は卒業式に出席した。
 回顧して意義深き大学生活であった。

 その春の宵、学生としての私を知ること最も深き我妻教授を囲んで、二年に垂んとするゲマインシャフトの友は談笑した。私はガンルーム時代以来、久しく味わわなかった、表しようのない気楽な愉快さにつつまれて杯を重ねていた。
 

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