2000年03月03日 (9)ナンバー・ツーの資質を目指せ(完)
2000年02月12日 (8)来し方150年とこれからの一世紀
2000年02月05日 (7)来し方150年とこれからの一世紀
2000年01月23日 (6)人命は尊いが人命至上主義は行き過ぎ
2000年01月08日 (5)軸足を、もっと実効性問題に
1999年12月11日 (4)外交は、戦況を見つめながら動くべきもの
1999年11月22日 (3)侵略と開放の併存
1999年11月13日 (2)軍紀は厳正だったと言えるか
1999年10月15日 (1)新時代の幕開けになった戦乱
新時代の幕開けとなった戦乱 1999年10月15日
大東亜戦争では、維新この方先人が営々として築き上げて来たものを根こそぎ失ってしまいました。物的なものだけではありません。明治国家以来かち得ていた名声や評価も総崩れに近い形になりました。
そうした挙句、祖国を貶(おとし)めることが知性の証しででもあるかのような、世にも奇妙な風潮が、一世を風靡するに至ったのであります。
しかしこの風潮は、それに先立つ日本精神高揚の振り子が,刀折れ矢尽きた敗戦の日を境に、凄じい勢いで反転した結果だと考えれば、全く分らないでもありません。
外敵に侵されたためしのない日本国民にとって、降伏は処女体験であり、そのことが深層心理で、深い傷を更に深くしたであろうことも見逃せません。
こうして陥った虚脱症状ではありますが、それがどれほど重症だったにせよ、敵国製の「日本性悪説」を丸呑みにしたことは,祖先や戦没の同胞に申し訳ないことであります。
さりとて今になってみれば、戦後に氾濫した祖国冒涜の言論に一々咎め立てをしていくというのも、肩に力の入れ過ぎではないかという気がしてくるのであります。
過ぐる大戦が大正後半以降の、愚かな選択の積み重ねの結末だったという感じは否めません。
しかし、強大なアメリカを主敵に、アリューシャンからインド洋に亘る広大な戦域で、陸に、海に、空に戦い抜いた3年8ヵ月の力闘は、スケールの大きさといい、戦闘内容の壮烈さといい、我が国にとって空前絶後の民族体験であったことに間違いはありません。
そんな体験を身近に持ちながらそれを、一回りも二回りもの民族的成長に繋げることができないなら、その時こそ祖先や戦没同胞に合わす顔がないというものではありますまいか。
半世紀の距離をおいて視野も開けてきました。今こそ、少しでも高い見晴らし台を求めて過ぐる戦さを展望する、いい節目の時期ではないでしょうか。
二十世紀の世界史を背景にした我々の「民族体験」が、以前よりずっと視界の利いた状況で観望できるようになって来ました。
そういう中で生まれる極く自然な規模感覚、位置感覚こそが、我々日本国民のこれからの常識的歴史観の基本にならなくては、と思うのであります。
じっくり反芻するにはこれから幾世代もの歳月が必要でありましょうが、我々の心の閃きや彫りの深さ次第では、それが即、国の進路を考えることに繋がるのではないか。今後の方向見定めにそのまま役立つようなヒントが、この極限的な重層体験のあちこちに潜んでいるのではないか、という気がしてならないのであります。
スエズ以東の広大な地域を揺るがし,アジア史転換の軸になったとも考えられるこの戦乱は,世界史に与えたインパクトの上で、二百年前のヨーロッパを揺るがせたナポレオン戦役に匹敵する、"幕開けの戦乱"ではなかったでしょうか。
そんな心境で、自ら実戦に参加した過ぐる戦さを思い浮かべ、私なりに思い続けている幾つかのテーマを拾ってお話してみたいと思うのであります。(つづく)
軍規は厳正だったと言えるか 1999年11月13日
多くの日本人は至極簡単に「戦争はいけないこと」で片付けていますが、戦争については戦時國際法という世界共通のルールがあり、そのルールに従っての戦闘行動はそう簡単に「いけない」とは言えないのです。
それにしても、昭和の日本軍には軍規の弛緩が見られ、それが日本と日本人のイメージを著しく傷つけたことは、どうも争えないことのようであります。
現に今なお日本軍の暴虐振りとしてマスコミに取り上げられている事例も、戦争が侵略戦争だったかどうかとはほとんど関係のない、軍規の弛緩や紊乱によるものが多いのであります。
それとは別に軍規というテーマは、過ぐる大戦の史実を解明して行く過程で,思わざる展開を遂げる可能性があるということも見逃せないことだと思います。
そこで、いま私が疑問に思っていることや、気になっていることを幾つか拾い上げて、これから先の参考に供したいと考えます。
その一
私が物心ついて始めて、の戦争は満州事変なのですが、その時も、そして昭和12年に始まる「日支事変」でも、敵の捕虜のことがどう報道されていたか全く記憶がなく、捕虜そのものについての問題意識も幼いとは言え私の頭になかったのです。
ここらあたり、子供の時の記憶をもとにしての勘ですから見当外れかも知れませんが、どうも明治とは様子が違うように思えてならないのです。明治だって日本の将兵にとって、敵にうしろを見せたり捕虜となることは軍人の恥でした。
それにもかかわらず敵の捕虜については、かりそめにもその扱いが万国共通のルールに反しないように、敵国からだけでなく世界から非文明国の烙印を押されるようなことがないように、いじらしいくらい神経を使っていました。
こういう努力の結果はいくつかの美談として語り伝えられていますが、最近知って驚いたのは,日清、日露の宣戦の詔勅に國際法規の遵守が諭されていることでした。昭和にはない、国を挙げての心づかいが伝わって来る話ではありませんか。
その二
非戦闘員の装いをしていて実は戦闘員である「便衣隊」なるものが盛んに出没した中国戦線で、國際ルールでは正規の捕虜の埒外にあった便衣隊を、わが前線部隊はどう扱っていたのでしょうか。また、便衣隊かどうかを見極めるノウハウは確立していたのでしょうか。
日本軍は、経済力の上では中国全土の3分の2を制圧したと言われますが、それほどまで勝ち進んだのなら、その過程で投降した敵の正規軍捕虜の数もおびただしい数に上っていたはずですが、それらの捕虜にはどういう処遇をしていたのでしょう。
論争の続いている「南京虐殺事件」については、反証の形でかなりの証拠文書が世に出ていますが、大陸戦線の全局面で実態がどうだったのかは、調べがついていないし、また調べようもないのではないでしょうか。
こういう事柄は得てして尾ひれがついたり話が大きくなったりするものですが、そうばかりも言っておれません。当時の日本人の間には中国蔑視の風潮がかなり広がっており、それが前線部隊に微妙に反映していたとしても不思議ではないからです。
その三
昭和12年、日中間に戦争の火蓋が切られた翌月、我が郷土部隊である高知の第四十四連隊(和智部隊)が初陣の羅店鎮で敵を破りました。
新聞には白兵戦で敵兵27人をたおした穂岐山中尉のことが大きく載っていました。あとから遅れて出征した剣道五段の西川先生も、同中尉に負けない手柄を立てんかなあ、と中学2年だった我々教え子仲間では話し合っていたものです。
敵軍にとどめを刺す壮烈な白兵戦。この、勇敢な日本兵のイメージが、維新この方、どれほど相手の心胆を寒からしめ、際どいところで国家の浮沈にかかわる戦闘を勝利に導いたことでしょう。でもこれはどこの国の誰からも文句のつけようのない戦闘行動だったのです。
それを戦闘行動以外で発生した(国際ルール違反の)非戦闘員殺害と一緒にして「日本軍の残虐行為」にされてはたまりません。
いわゆる日支事変では、宣戦布告もなしにあれだけの規模で攻め込んで行ったのですから、国の行為としては侵略行動だとされても仕方がありますまい。こんなとき弁解の余地はあってもしないのが、さむらい(武士)なのかも知れません。
しかし、国際ルールの上で通常なら合法であるはずの戦闘行動を、日支事変の場合に限って一切合切、ルール違反の「残虐行為」と認定するのは承服しかねます。特に同胞である日本人がそんな物の見方に同調しているさまは苦々しいかぎりです。
その四
軍規の視点で、過ぐる大戦の史実解明に取りかかろうとすると,以上の他にも敵,味方に共通する重大なテーマで、今もって思想的にも決着のついていないものがあることに気付きます。
総力戦思想から来る、非軍事施設や非戦闘員に対する軍事攻撃、例えば米軍による無差別都市爆撃や原爆投下をこれまで正当化してきたアメリカの態度など、その最たるものではないでしょうか。
第二次大戦の時点では既に、地域ごとに、また世界全体で戦争の様相が明治のころとは著しく変わって来ていたこともこ見逃すわけには参りません。
第二次大戦における戦時国際法や軍規の問題は,戦勝国、戦敗国の別なく、厳正な立場で解明して行かねばならない、奥行きの深い課題なのでありまして、今までのような日本性悪説を引きずっまま臨むことは到底許されないことであります。
侵略と開放の併存 1999年11月22日
私はパキスタン在勤時代、田中弘人大使の酒飲み相手という恰好で、大変有益な耳学問をさせて貰いました。何しろチャンドラ・ボースがシンガポールでインド国民軍を創っていた頃、その秘書官に外務省から派遣されていたという経歴の持ち主でしたから、当時のことがよく話にでたものです。
その田中大使が口癖のように言っていたのが大東亜戦争モンスター論で「あの戦争は一概に侵略であるとか、ないとか言い切れるもんじゃないよ」ということでした。
「中国大陸での戦争を侵略でないと言い張るわけにはいかんだろうが、南方作戦の方は何だかんだ言ったってやっぱり開放戦の部類に入るんじゃないかな」
大使と私と二人だけの話の中で出てくる言葉でした。日本とアメリカはどうなるのか、その点は聞きそびれましたが、日本が先に手を出したからと言って、それがアメリカに対する侵略戦争だとまで決めつけるのには、どこか不自然な、腑に落ちないものがあります。
ソ連の場合は先方がこちらに侵略してきているではありませんか。
田中大使の大東亜戦争モンスター(怪物)説は、なかなかいいところを衝いている感じで、強く印象に残っているのであります。侵略であるなしに関係なく、戦争には革命と同じように、旧いものをブチ壊して新しい時代を拓く、幕開け的な意味を持っている場合がよくあるのであります。
ヨーロッパで中世の幕を引くキッカケになった十字軍がそうでしたし、欧州大陸を戦火に巻き込んだかのナポレオン戦役も、アンシャン・レジームと呼ばれる欧州の旧体制を覆す地殻変動と捉えていいのではないでしょうか。これは田中大使のではなく、私の脳裡に浮上しているひとつの観点であります。
●ビックリするほど幼い日本の統帥観
戦前に統帥権干犯問題というのがあって、それが軍部の台頭を促す重要な契機になったことは疑う余地がありません。司馬遼太郎さんが慨嘆の余り「統帥権という化け物」という言葉を吐いておられますが、その説明がきちんとされていないため、統帥権そのものが悪いもののような誤解を一般に与えた可能性があります。
しかし野球でも、試合運びが監督の責任であるように、戦さ運びは総司令官の専決に委ねるのが経験則に基いた軍事上の通念であり、個々の作戦に関する限りその合理性に疑問が投げかけられたためしはありません。
思いがけないところで先手を奪われ敵に機先を制せられたら、何十年かけて鍛え上げた精鋭部隊も壊滅するのが戦さというもの、ミッドウェーの海戦は正にそれでした。瞬間の差で明暗が逆転する戦さ運びの際どさを考えれば、巧遅より拙速を選ぶという戦さの常道は、素人でも納得がいくでしょう。
ただ、国軍の全作戦行動に対する、国軍総司令官の統帥となると、原則に変りはなくても、文治機構による統治の態様、そのほか外交との密接な連携プレーを視野に入れた、高度に政治的な、複眼的考慮が必要になって参ります。
明治憲法は立憲君主制でしたし、昭和天皇への西園寺元老の補導もあって、天皇による国家統治は、文治機構の面では国政選挙の結果を重んじ、英国王室モデルに運用される段階にまで一時期、達していました。
ところが西園寺さんが迂闊だったのでしょうか、軍の統帥までその調子でいったものですから、軍を抑えて頂けるはずの天皇が、実際には軍に対するコントロールを失っておられたのであります。
当時では考えられるはずのない破天荒なことでも起って、仮に天皇の統帥権を内閣総理大臣に代行させるという決定でも下されていれば、それはそれでもよかったのでしょうが、そうでなかったため、行政権と統帥権との拮抗は、裁定者のないまま丸腰の負け、天下の権は帯刀組(軍部)の手に移って行ったのであります。
このように統帥権を居場所も定めないでうろうろさせることは、国家統治の上で危険極まりないことですが、戦後の日本ではそれどころか、統帥権そのものへのアレルギーから、それらのことを考えたり議論することさえ怠ってきた、と言っても過言ではありません。
恐らく神戸大震災の時点で内閣総理大臣は、自らが自衛隊の最高指揮官(昔で言えば大元帥)であることの意識も怪しいくらいで、"三軍を指揮する"自覚など全くなかったのではありますまいか。
その自覚があったら村山総理は、崩れ落ちた瓦礫の下積みになった人々のうめき声を心に聞き取って、救助作業が手遅れにならないための"作戦"を矢継ぎ早に展開したはずです。( そうすれば人命の被害は半分以下で済んだのではないでしょうか。)
総理も総理ですが、内閣詰めの英才官僚たちは何をしていたのでしょうか。
また、こんな時こそ武の素養を自負する中曽根さんでもが、間,髪を容れず官邸に乗り込んで総理の指南に当たるべきではなかったでしょうか。
仮にどこかの国から不意のミサイル攻撃を受けるようなことが発生したとしますと、何千どころか何万、何十万の人の命が統帥権発動の遅れで失われます。
「十年これを養う、一日これを用いんがためなり」という名言がありますが、年々5兆円も6兆円もの税金を何十年にも亘ってつぎ込み、この時のために育て上げてきた自衛隊が、その肝腎のときに何の役にも立たないで宝の持ち腐れになるようなことは、最高司令官たる内閣総理大臣の一瞬の不手際で現実に起り得ることなのです。
国の場合だけではありません。アメリカが国連軍に気乗り薄なのは統帥問題にこだわるからだと言われていますが、これを見ても分かるように、世界の平和を実践面からつめていく上で、統帥は極めて重要な、永遠の研究課題でありまして、この感覚抜きではどんな平和論義も実務的意味のない神学論義に終わってしまいうのでありまして、今の日本の平和論議などその適例ではありますまいか。
外交は、戦況を見つめながら動くべきもの
1999年12月11日
後でもう少し詳しくご説明申し上げますが、勝っていても負けていても戦争収拾外交というのは難しいもので、戦争になるかならないかの瀬戸際とどちこちないと言っていいのではないでしょうか。 いくら軍の作戦用兵がうまく行っても、政冶がこの外交機能をおろそかにして収拾の潮時を見誤ると、それですべてが水の泡になることは珍しくありません。
現にこうして戦争が泥沼化し、国が奈落の底まで落ち込んで行ったのがこの前の戦争でありまして、始めから収拾のめどのはっきりしない戦争だった点も含め、大東亜戦争の収拾過程は、高い史眼でこれから解明していかなくてはならないと思うのであります。
将来、国連軍や多国籍軍が作戦行動に出る場合を考えてみても、侵略兵力の制圧に一年も二年もかかっているようでは話にならないのですが、そうは言っても交戦状態の収拾は傍で見るほど容易なことではありません。
それだからこそ数年前のように、ペンタゴンあたりからでも、
Hit in a week, otherwise don't get involved
(一週間で片付かないようならそんな戦争は始めからするな)
というような極端な意見も出てくるのです。
戦争を長引かせないということに関連して、丁度いいところですので軍規の問題にひと言触れておきたいと思います。
戦争継続中には勝ち負けに従って占領ということが起こりますが、占領軍というものは占領地域の文治機構に、専制君主そっくりの形で君臨するわけですから、どんなに軍規厳正な軍隊でも二年も三年も長居していたら将兵の意識はどこかおかしくなります。何か起こらないとしたら不思議だと言っていい。
これは国連軍であろうが何軍であろうが、正しい名分の立った軍事行動であろうがなかろうが、武装集団というものすべてについて言えることであります。
日本を変えた勝者のイデオロギー
1 日本の言論界を風靡した東京裁判史観
大東亜戦争の見方をいびつなものにした元凶は、世にいう東京裁判史観であります。
東京裁判史観の特色は、法として見ても問題の多い極東軍事裁判所の判決文に、正史並みの権威を認めてきたところにあり、日本罪悪説で貫かれていて一切の反論を受け付けようとしない。
ウッカリその間違いを指摘でもしようものなら忽ち軍国主義の復活のように言われて、じ後言論界の村八分にされそうな剣幕で、その言論抑圧振りは、専制治下の国家権力も顔負けだったように思われます。
、インドのパル判事が心血を注いで纏めてくれた日本無罪の小数意見も、まともな論議の場を与えられずじまいでした。 このことについて私は、進歩的文化人と呼ばれる人々だけでなく、押しなべて戦後型オピニオン・リーダーたちの知性に深い疑問を抱かずにはいられないのであります。
しかも東京裁判史観の言論支配は五○年も続いたのだから堪りません。世代によっては幼少の頃からずっとそういう教育を受けて成長し、子の世代にも同じ教育を続けてきた計算になります。
どこが東京裁判史観の総本山なのかはっきりしないところが、昭和十年代に猛威を振るった「陸軍の総意」に似ているのですが、このような不気味な言論圧力が睨みを利かしていては、憲法で保障されている言論の自由も、こと現代史に関しては有名無実だったと言うほかはありません。
2 徹底していた精神的武装解除
東京裁判史観と並んで見逃せないのが、戦争直後アメリカが行った、日本人に対する徹底した洗脳工作(精神面での武装解除)でした。
国には軍などないのが理想だという、今から考えると、まるで現実離れした思想を、虚脱状態にあった当時の大多数の国民に浸透させようとした。
その手段も常軌を逸したものでした。
占領軍の権力で陸海軍を一兵も残さず解体し、軍の保有を禁ずる憲法を作らせ、容易なことでは改正もできないような仕掛けまでしてある。
これではどう見たって世界の常識を超えた、ウルトラ平和主義の強要としか言いようがありません。
(その証拠に、それから何年も経たない中に、他ならぬ当のアメリカから日本再軍備の話が持ち出されているではありませんか)
ウルトラ平和主義というのは、私が言い出し、はやらせようとしているコトバなので、ここで注釈をしておきます。
アメリカは日本のナショナリズムを、(常軌を逸した、あるいは行き過ぎたという意味で)ウルトラナショナリズムだと決めつけ、諸悪の根源としてその抹殺を図りましたが、そういうアメリカが日本に浸透させようとした平和思想なるものだって、普通の平和主義を逸脱した、ウルトラ平和主義だったではないかという、私なりに言わずにはおられない心情をこめたコトバなのであります。
ところがそんな現実離れの思想を日本は、占領下は仕方がないとしても、占領終了後も是正することなく受容し続けたのですから、アメリカだけを責めるわけにもいきません。
現行憲法が制定された、占領初期の昭和二一年秋頃には「日本から手出しさえしなければ戦争は起こり得ない」という錯覚を普通の人が持つくらいまで、思想改造が急ピッチで進んでいたように思われます。
内閣総理大臣が自衛権を否定する。 それに対して一般国民はどうこう言う気力もなく、よく言えば 綺麗さっぱり潔く、どうにもならない敗戦国の立場を甘受していたとも言えましょう。
この、世界に類例のないウルトラ平和主義の国家観で、将来を律するだけでなく、それまでの国の歩みを解釈して行こうとしたのですから、書かれる「国の歴史」がまともな歴史であり得ようはずはありません。なんとも特異なものになるのは当たり前です。
朝鮮戦争が始まるとその落とし子、警察予備隊なるものが占領軍の指令で作り出され、やがてそれが自衛隊になって行きます。
アメリカの身勝手さへの反発が、直接占領軍に向かってではなく、政府にぶっつけられたのが、かなり長期に亘る国会での違憲問答ですが、苦し紛れの政府答弁という印象は今も鮮明に記憶に残っています。
ともあれ、有史以来始めての敗戦ですっかり虚脱状態にあった国民の厭戦思想を受け皿に、あれよ、あれよという間に根付いてしまったのが、今も衰えを見せぬ我が国のウルトラ平和主義でありまして、憲法解釈をめぐる現在の政府見解も、基本思想はこのウルトラ平和主義の域を出ていないのであります。
あれだけの大きい戦争を、しかも刀折れ矢尽きるまで戦った後ですから、無理からぬことだとは思いますが、どうしてこんな戦争に突入して行ったのか、国を誤った人々の責任を、更めて日本人の立場から解明していかなくてはならないと痛感せずにはいられません。
軸足を、もっと実効性問題に
1999年12月11日
ウルトラ平和主義よ、さようなら
---軸足を、もっと実効性問題に---
それにしても、日本が鋒を収めたあの八月十五日から、星霜流れて既に五十有余年です。
その間、今から考えるとおかしなこと、恥ずかしくて耳が赤くなるようなことが幾つかあるように思います。
敗戦国なるが故に勝者には抗し得ず憲法に掲げたのが
「陸、海、空の戦力を保持しない」
という、町人国家宣言に等しい条項だったはずではありませんか。
それをいつの間にか、"世界に冠たる"平和宣言に見立て、臆面もなく
「平和憲法の理想を高く掲げ」
などと嘯(うそぶ)くようになるあたり、知性の問題に止まらず、国家、国民の風格を問われる振舞いではなかったでしょうか。
そうかと思うと逆に、その戦力保持禁止条項もどこ吹く風、自衛隊という名の、何故陸、海、空軍と呼ばないのか何度きいても理由のハッキリしない"実質陸海空軍"が産声を上げ、黒を白と言わんばかりのいい加減さを印象づけたまま世界有数の軍事力にノシ上がるわけですから、日本国憲法に書いてあることを本気で信用する国などなくて当然です。
そうしておいて、その自衛隊の海外不出を護憲ラインと謳いあげ、それをいかにも崇高なもののように言いふらしてきたのですから、いい気なものです。
危険を伴うお役は真っ平ご免
のホンネが見え見えなのに、そのことが自分では気がついていないのですからおめでたい話ではありませんか。
これでは諸外国の失笑を買っても仕方がありますまい。
国際協調体制の下で平和の仕事に携わっていると、ボスニア紛争が正にそうであったように、戦乱の収拾にはP.K.F.などでは間に合わなくて、重装備の戦闘部隊を投入するしかない事態が起り得るのですが、そういう乗るかそるかの大手術、國際共同作戦の話になると、どの国も多かれ少なかれ腰が引けてくるのですが、中でも日本は水際立って逃げ腰で、
「何とか話し合いで」
という、耳ざわりのいい"空砲"まがいの呼びかけでお茶を濁してきました。
こんな時にまともな対案を打ち出す能力も意欲も今の日本にはまだ出来てないのです。
長い間の平和ボケで、レッキとした知識人の間でさえ集団安全保障と集団自衛権の区別のつかない向きが少なくないのですから、それも無理からぬことかも知れません。
湾岸戦争で世界が固唾を呑んで事態の推移を見つめていた時、正念場での日本の態度が諸外国の眼に徴兵逃れ的に映ったとしても不思議はありません。
そのことを裏書するように、130億ドルという大金を拠出しながら、クエート政府が感謝を表明した国のリストに日本の名が見当たらないという、常識では考えられないようなことが起こりました。
そしてそれが、物笑いの種というか、格好の話題になって世界を駆け巡ったことは記憶に新たなところです。
憲法改正は可能なのにそうはしないで、いつまでも今までの憲法を楯に取って国際的安全保障行動への参加を拒み続けていたら、いずれその中、卑怯者国家日本のイメージが定着してしまう日がやって来るに違いありません。
日本人としてそんな不名誉に我慢がなりますか。それで先祖に顔向けができますか。
憲法を改正して集団的安全保障行動参加の道を開いたとしても、筋の通った留保をつけられないわけはないでしょう。
前大戦で日本が武力進攻した国について、あらかた怨念の消える時期をメドに行動留保することなど、至極尤もな配慮として諒承されるに違いありません。
将棋でいうあの手、この手の思案は外交に不可欠のものです。それをなおざりにして、徒らに問題を先送りし、今まで通りの言い方を繰り返してきたのが、残念ながら戦後の日本の姿ではなかったでしょうか。
20世紀の終わる今年中にはこの惰性から足を洗うキッカケをつかみたいものです。
最初はバラバラでいいから意見を出し合い、日本の名誉がかかっている問題だという共通意識だけを頼りに真剣な論議を重ねて行けば、次回に取り上げる予定の人命至上主義のようなハードルはあっても、今までにない盛り上がった論戦が始まり得るのではないでしょうか。
世界新秩序を実務的に構築することを真剣に考えようではありませんか。
それにはどうしても今までのウルトラ平和主義の呪縛から足を洗い、まともな平和主義の国家として出直すことが必要になります。そうして始めて、国連その他の場で諸外国と噛み合った議論をすることも可能になるのでありまして、これからの日本にとってこれほど重要なことはありません。
人命は尊いが人命至上主義は行き過ぎ(1) 2000年01月23日
ウルトラ平和主義、と私が呼ぶものと車の両輪で、戦後日本の平和思想を形成して来たのが、人のいのちを何物にも代え難い価値として絶対視する、人命至上主義の風潮でありましょう。
戦後アメリカが持ち込んできた人命尊重の思想は、果てしない広野に人煙稀だった建国当時が偲ばれる思想で、人が多過ぎ人命軽視に陥り勝ちだった日本には良薬と言っていいものだったと思います。ただ、持ち込んだアメリカには日本の精神的武装解除という占領目的があったため、持ち込み方が荒っぽかった。
戦勝国の威を振りかざして日本人の厭戦気分を煽り、国に尽くすことをあたかも危険思想でもあるかのように宣伝したものですから、日本人側の虚脱症状という事情もあって、「国のため」という言葉はすっかりタブーになってしまいました。
それだけでなく、その巻き添えをくらったかのように、公(おおやけ)という観念も影を潜め、日本人の物の考え方は、自分のこと、それも損か得か一色のものになるわけであります。
そんなことも裏腹になって、戦後日本の人命尊重は、本家のアメリカを通り越して、危ないと見たら逃げることを無条件で容認するようなものになっていました。
それを一挙に固め、根付かせてしまったのが、キャッチ・フレーズ作りの名人と言われた福田総理の名文句
「人命は地球より重い」
です。
ハイジャックされている人質救済のためとは言え、犯人の要求に屈してまだ刑期も終ってない連合赤軍の大物を釈放する、という違法措置が内閣総理大臣の命令で執り行われた。それを正当化するため総理自身が口にしたのが、西洋生まれのあの名文句だったのです。
表現が奇抜だし、耳ざわりがよくて覚え易いものですから、誰にも一ぺんで覚えられてしまい、それからは、「平和」や「民主主義」と肩をならべ、反論が許されない道義的権威を持つものになって今に至っているのであります。
大いなるもののために一身を顧みないということは、特に日本では、美徳の最たるものとして何世紀にも亘り受け継がれて来たものです。
これあってこそ奇跡的にも明治維新は成就したのであり、それから後の国難克服も可能だったと言えましょう。
仏法用語の「大我」というのも同じ思想に根ざす素晴らしい言葉だと思います。
「大いなるもの」と言い「大我」と言い、究極的には世界、人類というところに落ち着くのでしょうが、その手前には国があり、地域社会があり、一番近くには家がある。そのどれもが、おのれ一身の「小我」に較べて、大いなるもの、大我と呼ぶに値するものでありましょう。
しかし先に述べた戦後日本の人命至上思想はひどく絶対主義の傾向を帯びていまして、違った考え方の存在を容認する雅量は全くありませんでした。
そこで、前置きが長くなりましたがいま日本と日本人に問われている問題は、と言いますと、国もさることながら世界の平和を守るため、具体的には紛争地域の戦火を消し鎮めるために、なにがしかの日本人のいのちを危険にさらすことは是か非かという厄介な課題です。
これは難問です。
前向きに答えるには非常な勇気が要ることです。さりとて否定する論理を正直に立てようとすると、アナーキズム(無政府主義)に行ってしまう可能性が充分にあります。だからこそ我が国では、名だたるオピニオン・リーダーたちが、いまもって誰一人正面切って取り組もうとしていないのではないでしょうか。
誰だって命は惜しいし、母親なら手塩にかけた息子を戦場になど送りたくない。それは世界中どこの国にも共通する心情で、日本だけのものではありません。
しかし日本以外の国では、国をなす以上戦争は起り得るし、戦争が起これば
戦死者も出るということが、有史以来の経験則として、言わず語らずのうちに社会通念として了解されて来ています。
従って、出兵の目的が、世界平和のための"火消し"作戦参加ということになっても、日本で起こることが予想されるような、神学的な"いのち論争"が起ることは考えられません。
ところが日本は、自らの国を守るために命を危険にさらすことさえ、まだあらかたのコンセンサスが得られていないのが現状でありまして、遠いバルカンの戦火を消し鎮めるためと言ったって、からけし何のことだか分らないのではないでしょうか。
講和条約の前、アメリカのダレス特使に再軍備の話を持ちかけられた際、時の吉田総理がそれに応じていたらどうなっていたでしょう。
その時期だったら占領軍の意向で憲法の手直しはできたに違いありませんから、五千人規模でいい、軍と名のつくものさえ創設していたら、日本だって多分、とっくの昔、世界各国並みの常識が通用する国になっていたのではないでしょうか。
今どき、容易なことでは埒のあきそうにない神学論争の火だねを抱え込むことはなかったでありましょう。
しかし過ぎ去ったことをボヤいていても始まりません。 今となっては、史上いかなる国も経験したことのない"死生観に揺れる"試練の時期を経なければ、日本は各国並みの常識に合流し、それらの国々と噛み合った意見の交換をすることはできますまい。
死生観の問題は理屈だけで形(かた)のつくものではありません。
いくら「大いなるもの」を説き、人間には「命より大切なもの」があるのではないかと持ちかけても、それで説き伏せるところまでは行かないでしょう。
突きつけられている課題は、知性の領域であると同時に、武士道における死生観のように、人生を芸術と見立てたやに思える美意識の問題でもありましょう。
名誉を重んじたローマ興隆期の精神や、ノーブレス・オブリージュの言葉に残る西洋騎士道の精神にも共通したものがあるかも知れません。
そこで一つの段取り、手始めとして重要なのは、父祖が育(はぐく)み、慈(いつく)しんできた死生観を、日本人固有のすぐれた直感で読み取ろうとする、現代日本人の新たな努力ではないでしょうか。
平たく言って、生活文化の視野で捉えた「日本美の再発見」です。
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