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私の大戦回顧 1
1999年10月15日 | |
| ご意見 | 大東亜戦争では、維新この方先人が営々として築き上げて来たものを根こそぎ失ってしまいました。物的なものだけではありません。明治国家以来かち得ていた名声や評価も総崩れに近い形になりました。 そうした挙句、祖国を貶(おとし)めることが知性の証しででもあるかのような、世にも奇妙な風潮が、一世を風靡するに至ったのであります。 しかしこの風潮は、それに先立つ日本精神高揚の振り子が,刀折れ矢尽きた敗戦の日を境に、凄じい勢いで反転した結果だと考えれば、全く分らないでもありません。 外敵に侵されたためしのない日本国民にとって、降伏は処女体験であり、そのことが深層心理で、深い傷を更に深くしたであろうことも見逃せません。 こうして陥った虚脱症状ではありますが、それがどれほど重症だったにせよ、敵国製の「日本性悪説」を丸呑みにしたことは,祖先や戦没の同胞に申し訳ないことであります。 さりとて今になってみれば、戦後に氾濫した祖国冒涜の言論に一々咎め立てをしていくというのも、肩に力の入れ過ぎではないかという気がしてくるのであります。 過ぐる大戦が大正後半以降の、愚かな選択の積み重ねの結末だったという感じは否めません。 しかし、強大なアメリカを主敵に、アリューシャンからインド洋に亘る広大な戦域で、陸に、海に、空に戦い抜いた3年8ヵ月の力闘は、スケールの大きさといい、戦闘内容の壮烈さといい、我が国にとって空前絶後の民族体験であったことに間違いはありません。 そんな体験を身近に持ちながらそれを、一回りも二回りもの民族的成長に繋げることができないなら、その時こそ祖先や戦没同胞に合わす顔がないというものではありますまいか。 半世紀の距離をおいて視野も開けてきました。今こそ、少しでも高い見晴らし台を求めて過ぐる戦さを展望する、いい節目の時期ではないでしょうか。 二十世紀の世界史を背景にした我々の「民族体験」が、以前よりずっと視界の利いた状況で観望できるようになって来ました。 そういう中で生まれる極く自然な規模感覚、位置感覚こそが、我々日本国民のこれからの常識的歴史観の基本にならなくては、と思うのであります。 じっくり反芻するにはこれから幾世代もの歳月が必要でありましょうが、我々の心の閃きや彫りの深さ次第では、それが即、国の進路を考えることに繋がるのではないか。今後の方向見定めにそのまま役立つようなヒントが、この極限的な重層体験のあちこちに潜んでいるのではないか、という気がしてならないのであります。 スエズ以東の広大な地域を揺るがし,アジア史転換の軸になったとも考えられるこの戦乱は,世界史に与えたインパクトの上で、二百年前のヨーロッパを揺るがせたナポレオン戦役に匹敵する、"幕開けの戦乱"ではなかったでしょうか。 そんな心境で、自ら実戦に参加した過ぐる戦さを思い浮かべ、私なりに思い続けている幾つかのテーマを拾ってお話してみたいと思うのであります。(つづく)
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