魁け討論 春夏秋冬



これからのモラルは責任感−健康だけでなく勇気ある子に

1999年10月04日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 ●第11回 伴正一勉強会記録その1
   −新しいモラルの原点(座標軸)に責任感を(1988年2月12日)

 時間がまいりましたので、伴正一勉強会を始めます。お手元に配ってある「魁11号−新しいモラルには新しい座標軸を」がきょうのテーマです。最初に問題提起として文面を読みます。

 原子力発電に危険はない、と推進派は言う。危険が満ちているように反対派は言う。

 どちらの言うことも、聞いていて納得がいかない。

 文明の利器で危険でないものがあるだろうか。人と動物を分かつ、火、だってそうだ。火という恐ろしいものを使いこなすことから文明が始まったのではないか。

 牛を生け捕りにして使うことだって、馬を馴らして乗ることだって、手で耕し足で歩くよりはずっと危ないことだったが、人類はそういうことを一つ一つ挑んで、遂に現代のような科学技術発達の超加速化時代を迎えるに至った。そしてそれが今のわれわれの生活水準を支えていることは言うまでもない。

 だが、いま人間が手の代わり、足の代わりにまで駆使している機器の大部分は、高度化すればするほど危険度も高まるという宿命を持っている。確かに、危険度の高まりに追いすがるように、安全装備面の進歩も著しいが、まかり間違ったときの第惨事発生の恐ろしさは百年前の比ではない。そしてそういう間違いは、直接の操作や操縦にミスだけでなく、全製造過程のどの段階でも、整備点検、時としてはコンピューター管理の面で起こり得る。

 こう考えて来ると高度文明社会は、構造的に見て、互いに命を預け合って生きている世の中だと言える。その中で一人一人の責任が段々大きくなって行く。一人一人の責任感の強さが今ほど問われるときはない。

 こういう切実な時代の要請を正視する必要がある。

 一つの発想だが、この澎湃たる時代の要請を原点(座標軸)にすえ、21世紀を展望しながら、全く新しいモラルの体系を構築して行ってはどうだろう。淳風美俗は大切にしたいものだが、お説教めいた感じを与え勝ちな在来型の道徳教育では、何か時代にそぐわない、従って力不足な気がしてならない。

 釈尊、孔子から2500年、キリストから2000年が経っている。

 群馬県の山中に日航機が筒入下事件がありますね。その前に操縦ミスで大惨事になった羽田事故、そんな、身の毛もよだつような話が誰の身辺にも起こり得る。そうなると飛行機の整備に当たる人の責任感の強弱はモロに人命にかかわるし、操縦士の任命権を持つ人々が厳正な人事をやるか甘っちょろい温情主義の人事をやるかで何百人もの人が死んだり死ななくてすんだりする。それだけではありません。機体の素材や構造から始まる飛行機の製造、点検の過程でどこに過ちが発生しても恐ろしいことになります。飛行機というものが100年前の馬や駕籠の代わりに登場し、今ではほとんどの人にとってなくてはならないものになっている。汽車や自動車は勿論のことです。

 病院や工場の施設だって恐いですよ。どんなに安全装置を開発していってもその安全装置を駆使し、管理するのは人と、人の組織ですね。管理の過程でボタンを一つ押し間違えたら赤信号の代わりに青信号がともります。それがどんな大事故につながるか。昔は"女の子"という言葉があってお茶汲み程度に考えられていた。彼女の場合、大きいミスといってもせいぜいお盆をひっくり返してお茶をこぼしてしまうくらいでしょうが、いまコンピューターの操作ミスというのは、ブレーキとアクセルの踏み間違えに匹敵する。時にはガン患者と健康体とのデータのすり替えになったりもします。

 そんな具合に考えていったら文明社会は危険充満、大惨事がどこでおきるやら分からない恐ろしい世の中です。この恐ろしい世の中を恐ろしくなくするには文明から逃れるしかないが、それができない相談だとなれば、文明の力で安全装置を精一杯開発していかなくてはなりません。それと同時にもっと決定的に必要なことは人間一人一人の責任感を文明が安心できるところまで確実に強化していくことです。

 絶対に安全な、ということはあり得ないのですが、一人一人の人間の責任感を涵養(かんよう)することによって、もっと安心して生きて行ける世の中にしよう。それを道徳と呼ぼうと呼ぶまいと、新しい世の中の掟の基軸に据えてみたらどうか。その延長上に平和ということもあるんぢゃないか。こんな思いに駆られているところなんですが、そう仮になったとしますと世の中はどんな風に変わるでしょうか。

 変化が目に見えて現れるのは学校教育だと思うんです。当番制度や部会での自治体制の中で、時間を守ることから始まって生徒の責任観念を育んでいく仕掛けはいくらでも考案できそうに思えます。天災、火災を想定した特別訓練なども、責任感の涵養ということを基軸に見据えて見直してみると、常日頃から体力をつくっておくことも肝要だということになるし、それに関連して持久力とか忍耐力という徳目も大きく浮上して参ります。

 自主教育尊重が行き過ぎて甘えに堕していた学校教育の中に、鍛えるという局面が大幅に入ってくるのではないでしょうか。勇気という徳目なども、今までスポーツので世界のものみたいだったのが、誰にでも必要な徳目になる。こうなったら校内暴力なんかは勇気ある先生や生徒の存在だけで影を潜めるに違いありません。

 そしてまた、そういう生徒が大人になっていってご覧なさい。世の中の暴力は、押しも押されぬそういう市民の存在によって後退していくのではありますまいか。

 家庭教育でも、子に対する親の態度に断然筋金が入って来ると思います。ひたすら、いい学校に進めることを願う今の多くの母親の姿を思い浮かべてみて下さい。新しいモラルによるとそれでは母親失格になる。無責任な、あるいは卑怯な行動があったら厳しく叱らなくてはならない。名誉を重んずるとか、恥を知るとかいう、責任感と隣り合わせの美徳も脚光を浴びるようになる。子供の幸せというだけなら健康でさえあればいいが、多くの人の命を預かるという職責を誰が持つ、というこれからの世の中を考えると、健康というだけでなく強靱な体の子供に育てることが肝要になります。

 今述べたところは、思いつき程度でほんの入り口のところでしかないのですが、この式に想像を繰り広げてみますと、事によったら、日本が世界に誇るに足るような醇風美俗の中の重要な徳目が、かなりの歩留まりで、21世紀に向けて再評価されるのではないでしょうか。

 いま述べたことは、一つの予想ではありますが、こういった予想に大きい狂いがないとすれば、モラルは責任感を原点(座標軸)にして体系化するのがスマートぢぁありませんか。道徳教育の復活と言うんでは語感からしてよくないし、封建の遺制みたいな時代遅れのものがゾロゾロひっついて戻って来る危険もあります。


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