魁け討論 春夏秋冬



政治とカネ物語(2)

1999年09月16日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 ●新人の資金--カネで決まった私の参院選出馬

 もう二十年近くなるが、国政選挙への私の初出馬は行き当たりバッタリで 決まって行った。それができたのは、選挙というものが分っていなかったか らで、その結果、まともな神経では考えられないような思い切りが可能だっ たことも与って力があったように思う。

 早くから、というより少年のころから政治は志していた。

 外務省での仕事に一つひとつ打ち込んでいるうちに、つい二十八年が過ぎ、 決心のつくのが遅くなってしまった憾(うら)みはある。それでも考えること はよく考えた積もりだ。

 そうした熟慮の結果、まだ未練も残る外交官生活に「さらば」をする決意を 固め、(北京在勤中に退官の手筈まで整えて)日本に帰ってきたのが1980 年(昭和五十五年)の初頭だった。

 しかし、迂闊と言えばこれほど迂闊なことはないのだが、政治に身を投ず るというのに、準備体制の目安も段取りも全く立っていない。

   ケ小平の中国を自分の体験と感覚で描き上げて退官、故郷へ、というだけで、 「草鞋(わらじ)がけで歩くぞ」という覚悟はしていたが、どんな形で、どれ ほどの時間をかけるとか、その間にどれだけのカネを用意しておけば息切れせず に本番(選挙)に臨めるか、とかに頭がまわる私では全くなかった。

 言ってみれば悠長な話である。

 五十六年の人生を振り返り、死んだ戦友に顔向けのできるくらいの働きはした という、務めを終えた安堵感も感傷をそそっていた。これからは自分の人生と いう、降って湧いたような気楽さを噛みしめていたとも言える。

 こういう心境の変化というものは恐ろしいもので、選挙という不案内な世界へ の戸惑いもあって、事をなすのに「自分自身への納得」を鉄則としてきた私が、 崩れるようにその思考習性を失い始める。

   そんなところへ飛び込んできたのが、六月の参議院選挙に出ないかという、 民社党佐々木委員長の勧めだった。カネは民社持ち、発動は直ぐ、という話で ある。北京時代のかかわりはあったにせよ、紛れもない晴天のへきれき(霹靂) だ。

   そしてそれに追い討ちを掛ける形になったのが、中学の先輩,町田県議が茶飲 み話で言った次の一言である。

    「一月にねえ……。どうやったって百万は要るだろうよ。」
選挙戦の時のカネではない。国政を目指すのに必要な,常日ごろの経常経費のこと なのだ。

 このときの「どきっ」とした思いは、二十年近く経った今も忘れられない。

 武家の禄高みたいに月々払い込まれていた月給も入って来なくなる、という 自明のことさえ、まともに意識していたかどうか怪しいくらいの私には、目か らウロコが落ちるような思いだった。それまでにない臨場感、前途の厳しさへ の実感が、始めて体内に漲るひと時だった。この時の私にとって百万の響きは そんなものだったのである。

 考えてみたらカネのことだけで、どんな企画も絵に描いた餅になりそうに思 えてくる。

 どうすれば野垂れ死にをしないですむかのか、だけが問題ではないのか。

 独特のケ小平論を書き上げるとか、しばらくは無所属で行くとかいう悠長な 発想は、一瞬にして私の脳裡から消える。

 考える時間や準備期間を置く余裕などあらばこそ、民社の勧めに従って真っ 直ぐ選挙に打って出なければ,カネで息切れして政治断念の羽目に陥らないと も限らないのだ。

 絶望に近い危機感に打ちのめされていた私は、佐々木委員長から直々に

        「当選後の民社入りを条件としない」
という言葉を貰えた段階で、一つのフンギリがつくのである。

 「ボタンの掛け違い」と後々まで言われることになるこの出馬決意は,以上 のように、資金のメドさえ立っていれば、そんなに無理をして急がなくてもよ かったことなのである。

 しかし新人が政治を志して行動に移ろうとする時、通常人には目の眩むよう な巨額の資金のメドを、どうすれば立てることができるのだろうか。

 それを立てるには、何年ほど前から何をしていればいいのだろうか。

 世界的にもデモクラシー政体論は、まだそういう実証的な各論にまで説き及 んでいない。

   政治におけるカネの動きと働きは、まだ閨中の秘め事の域を出てないと言っ ていいのではなかろうか。


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