魁け討論 春夏秋冬



協力隊の原点--「ボランティア・スピリット」(5)
  隊員だったことの意味が、本当にわかるのは10年後?

1999年09月03日
 元中国公使 伴 正一

ご意見
 1998年暮れから年始めは、いわゆる2次隊とわれわれが呼ぶ隊員たちの帰国ラッシュとなります。そのうち決して多いとはいえない何人かが本誌編集室にも顔を出してくれました。「行ってよかった!」と笑顔がこぼれるのを見るとこちらもすっかり嬉しくなってきます。

 しかしこれだけで大多数の帰国隊員の心境を言い尽くせるわけはありません。

 本誌が去年の12月号で特集「逆カルチャーショック」したケースも少なくありませんし、その特集を読んで「まるで10年も日本を留守にしていたみたいな」とその書きぶりに違和感を示す人もいるわけで、同じ帰国隊員といっても思いはさまざまというところではないでしょうか。

 しかし青春の2年、その隊員体験は、それからの長い人生の中で、いろんな時期、いろんな形で反芻され、その意味を問い続けられるのではないでしょうか。

 20年前、このあたりのところを掘り下げながら、一つの見方を展開しているのが『ボランティアスピリット』、33ページの『精神的収穫の重み』です。

 隊員の多くは志願の段階だけでなく、訓練中の4カ月、そして協力活動に入ってからも、折にふれて何度も何度も、協力隊への参加が自分にとって何なのかを問い直している。

 そのことは、協力活動を終えて日本に帰ってきてからも同じかもしれない。ひょっとしたら、一生このことを問い続ける人も少なくないだろう。このことに関して興味深いのは、帰国した時点で多くの隊員が、協力活動を通じて得る精神的収穫の大きいことを述懐していることである。求めていたものを得た、あるいは、思わざる収穫を得た、というのが彼らの実感なのであろう。

 精神面での収穫なるものをいま少しく掘り下げて考えてみたい。

 まずそれは無形のものであり、計量することはむずかしい。しかし、人間にとっての価値としては、経済的なものにくらべて遥かに大きいことがある。帰国隊員のほとんどが「行ってよかった」と言っているのは、2年の奉仕期間に「失った」と思うものと、その間の協力活動を通じて「得た」と思うもの とを比較して、無形のものながら後者の重量を心に大きく感じとっているからであろう。精神面での収穫が、動機の面でも、成果の面でも、これだけ大きい比重を持つとなると、

 「それでは海外での協力活動は、奉仕とはいっても究極的には自分のためのものにすぎないのか」

という最終的な反問、極限的な課題との対決を迫られる。

 念のために言うとこの課題は、昔の諺にある『情けは人の為ならず』ということとは関係がない。協力してあげた人々から後日なんらかの形でお返しを受けたり、廻り廻って積善の余慶にあずかるようなことは、通常ありえないことだからである。

 帰国隊員が言っている精神的収穫というのは、無形でこそあれ、自分の人間形成のうえにプラスになったという、たしかな実感をともなったものなのである。

 よくよく考えてみると、以上のことは、協力隊に参加することの意味についてだけではなく、人生そのものを考える際にも、おなじように最終的な反問として登場してくることのように思われる。

 そして、その反問にたいする答は、協力隊参加のばあいでも、人生そのものについてでも、同じであって、結論的に言うと、

「他人のために尽くしながら、それが自分の人間形成に資するとして、精神的収穫と捉える」境地に到れば「自分のその行為」を、人のためと考えようが、おのれのためと考えようが、もはやどちらでもいい。

 それは、豊かになること、楽をすることが幸福になることだ、とする現代思潮からすでに足を洗っている。開眼してここに到れば、それからさきの結論は、 献身と言おうが自己満足と言おうが、それはその人なりに適切と思う形で自分の気持ちを整理しておけばよいことではないだろうか。

 ●幸せを考える

 それから20年、日本は、伴氏が指摘していた「豊かになること、楽をすることが幸福になることだ」とする現代思潮にうなされているうちに、いつの間にか今のような行きづまりに陥り、拠り所のない不安感に見舞われて来ています。

 そんな折しも、この連載がタイミングよく、原著『ボランテイア・スピリット』中の圧巻と言われる「一つの幸福論」(35ページ)にさしかかることになります。

 このくだりは隊員を描き、その活動の意味を掘り下げながら、自然に到達した一つの幸福論なんだそうですが、「見ようによっては、協力隊にいたお陰で得られた貴重な人生観で、今でもそのままの形で、自分の幸せ度を測る物差しにしている」というのが伴氏述懐の言葉です。

 人間が爽快さを感じるのは、自分の持っている機能を巧みなリズムに乗せて使っているときであろう。欲求不満にもバテ気味にもならないで適度の緊張感の下で人間機能が躍動している時である。休息が楽しいのも、右のような状態の中に間合いよく休息が織り込まれているときであろう。そして、ところどころに全力投球部分を配しながら、節目、節目で人間成長―機能発達―の成果を確認できれば、爽快さは更に倍加する。

 幸福とはこのような爽快さのことではあるまいか。

 確かに「富を築き生活水準を上げていく過程」も幸福には違いないが、「物質的な幸福」には、何時かの段階で、それ以上自分を豊かにしようとすると、どこかで他人を搾取しなくてはならなくなる時期がくる。

 人間成長の楽しみにはそのような行き詰りはない。何時までも追って行くことのできる爽快さ、幸福である。それどころか、人間は成長すればする程、その育った力で他人のためになることが多くできる。それが爽快さをさらに倍加する。「小我」から「大我」の世界を目ざすことである。

 折角のクライマックス部分ですから、その中のさらに真髄に当たりそうな大我の思想について伴氏のお考えを伺ってみましょう。
 「私にとってこの言葉の醍醐味は自他が渾然一体になっていることです。国のためだろうが、世界、人類のためだろうが、そのために自分を犠牲にするというのではない」

 「自分個人が幸せであるだけでは満足がいかないで、よりおおいなるもの、近いところでは家族、さらに広げていけば地城社会から国、そして遂には世界、人類が幸せになることが、自分にとっての幸せそのものだとなれば、それがどの段階のものであれ、もはや小我の域を脱している。これがこの仏教語への私の理解なんです」


 月刊「クロスロード」連載「伴 正一著『ボランティア・スピリット』を著者と共に読み解く」(本誌・斎藤儀子)から転載
1999年12月11日 (7)−「自分がこの国の為政者だったら」という視点
1999年11月06日 (6)−旗印の「民衆指向」が意味するところ
1999年09月03日 (5)−10年後に本当に分かる隊員だったことの意味
1999年08月13日 (4)−人のために役立ちたい
1999年07月26日 (3)−隊員は一匹狼であるべきか否か
1999年06月30日 (2)−現地の人々が隊員の活躍ぶりをせせら笑うとき
1999年06月18日 (1)−協力隊の原点--「ボランティア・スピリット」

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