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平和の仕事(2)−日米安保条約は保護国条約か?3月20日、高知市内のラ・ヴィータで開いた「平和の仕事」と題した「ふるさと講演会」のまとめです。
1999年08月04日 | |
| ご意見 | そこで、丁度いい機会ですから、暴発するかも知れない(火遊びをやりかねない)北鮮のことを思い浮かべながら、大きなところで日米安保条約の骨組みがどうなっているか見てみましょう。 細かいことは色々あってもやはり大筋では、アメリカに守ってもらう方に軸足が寄り過ぎた構図になっていますね。
私には不見識なことに思えてならないのですが、少し歴史を振り返ってみればそれも無理からぬことかも分りません。 平和に徹すると言えば聞こえはいいが、一皮むけば、弾丸の飛んで来るところへ金輪際行かないという「町人国家宣言」に外なりません。 町人でも戦費調達という形で結構カネを召し上げられるものだということは、湾岸戦争の時になって思い知らされるのですが、弾丸の飛んで来るところへ行かなくていいという「身の保全」については、憲法という「お守り」があってまだ"持つとる"。 これはカネの場合のように「ああそうですか」と簡単に思い直すわけにはいきません。一旦手に入れた"お守り"を後生大事に身から離すまいとしているわけです。 突飛なことを言うようですが、憲法第九条、短いものですからよく読んでご覧なさいませ。町人宣言と読むのが一番素直な読み方だと思いますよ。 そうした上でガイドライン論議を見たり聴いたりすると、そこにしょっちゅう出てくる「後方支援」とか「武力行使と一体にならない」とかいう用語の意味するところが手にとるように透けて見え、ハハーンと納得がいくと思いますよ。 憲法の許容範囲がどうこうと難しそうな理屈を並べ立てているように見えますが、何ということはない実際のホンネは、「そこは危ない」「ここまでなら危なくない」という話ではないんですかねえ。それも日本側だけの身勝手な線引きで、敵がそのとおりに行動する保証はありませんがね。 かつては卑怯者の行動原理とされていた「命あってのものだね」が今やホンネのところでは日本全体の行動原理になっている。 現にブレジンスキーのような著名人が「日本は保護国」と言っているのに、日本では知識人も一般国民も顔色を変える様子がない。その通りだとか、違うとかいう論議が巻き起ってもいいのに、そんな気配もみられない。 不名誉などにこだわるよりも、危険に身をさらさないことの方がどれほど重要か、という意識なんでしょうが、「身の保全」にかけては、もう元の日本人には帰れないかも知れませんね。よくもまあ、ここまで、一つの伝統的美意識が影をひそめたものです。 ところで今のアメリカは世界唯一の超大国、それと全く対等な形での軍事同盟というのは、意地の張り過ぎかも知れません。アメリカ本土がやられたからといって、日本から救援に赴くまでのことはない、というのも納得のいく話です。 しかし、日本周辺に限定して考えれば、日本とアメリカはもっと対等な関係になっているのが自然体ではないでしょうか。
集団自衛権行使は違憲という、政治がその気になればいつでも変えられる、法制局の憲法解釈を理由に、隣でアメリカの軍艦がやられているのに、日本は知らん顔をしているしかない(対敵反撃行動がとれない)。そんなことがあっていいでしょうか。 恥を知れ、日本。と言いたくなってしまいますよ。
(続く)
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