はじめに

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             ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー   事務長 林 正夫
1995年8月18日

IMGP00152.jpg 指導者という意味の「ネタジ」と尊称されたインド独立の志士スバス・チャンドラ・ボースに関する本は数多く出版されている。しかしその大部分は、ボースがインド独立に向って活躍した輝かしい時代を扱い、終戦直後に台北の松山空港で起きた悲しむべき飛行機しこにより悲惨な最後を遂げてからのことは述べられていない。臨終のことを書いた文章に、ボースがカレーライスを食べた等、とんでもないことがかかれていることもあった。

 事故後、台湾の日本軍司令部から東京の参謀本部へ、そしてインド独立連盟のラマ・ムルティ氏たちに手渡された遺骨は、敗戦直後の複雑な世相に恐れをなしたおdのお寺からも収容を拒否されたが、杉並の蓮光寺の先代住職望月教栄師に命懸けで預かっていただいたまま、今日に至っている。日本と共に戦い、しかも戦局が破綻する最後まで、その固い信念を変えることなく、われわれと行動を共にしたネタジの遺骨はいまだに祖国に還えることなく50年が経過したのである。

 昭和31年に、インド国民軍(INA)の第一師団長だったシャ・ヌワーズ・カーン氏を団長に、アンダマン・ニコバルの司政官を務めたマリク氏、ネタジの実兄スレス・ボース氏を委員とする第一死因調査団が来日した。調査団はわざわざ台湾に飛び、さらに事故当時治療の指揮をとった吉見胤義軍医以下、必死になって看護にあたった人たちにも会い、真相の解明に努力下した結果、スバス・チャンドラ・ボースの死を認めたのであった。特に団長は「帰国したら飛行機か巡洋艦でご遺骨をお迎えに来ます」といって、関係者を喜ばせたのである。

 しかしこの調査団を羽田空港に見送りに行ったその日、岩畔豪雄氏と私に向い、実兄のスレス氏が急に「ネタジは死んでいない」と言い出したのには唖然とするほかはなかった。怒ったシャ・ヌワーズ・カーン団長とマリク氏は我々に別れを告げ、先に階段を降りていったが、スレス氏は飛行機の出発時間ぎりぎりまでひとり残り「死んでいない」と言い張っていた。

 こうした実兄の発言は肉親の情や複雑なインド国内事情を反映したものなのだろう。その後、第二、第三の調査団が派遣されてきたが、結局結論の出ないままであり、ネタジのご遺骨返還の吉報を待つ我々の来たいは薄れていったのである。
 偉大なネタジを知る同士が相い集まりスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーが結集されてからも40数年賀すぎさっている。創立以来、アカデミーでは遺骨変換を願って日印両国に手を尽くしてきた。特に第二代会長江守喜久子女史は、熱意と真心からわざわざインドに渡る努力のされたが目的を達成することができなかった。第三代の会長片倉衷氏も同様に努力されていたが平成3年に逝去された。94歳の高齢であった。他のメンバーもほとんど高齢者ばかりである。蓮光寺とアカデミーのかたい絆により、毎年ボースの誕生日会と命日に慰霊祭を行ってきた。

 世の中の移り変わりと共にチャンドラ・ボースの名前を知らない人が多く、「中村屋のボース」と言われた同姓のラス・ベハリ・ボースと混同されている方も少なくない。ネタジの死後15年にあたり、たまたま江守喜久子女史の次女松島和子さんから、母堂のご遺志を継ぎボースの永代供養をという申し出をいただき、蓮光寺の住職望月康史師のご了解を得て、平成2年境内にネタジの胸像が建立された。

 さらに松島さんのご厚意により永代供養を行うにあたり、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースを知らない人々に、インド独立にかけたネタジの生涯を紹介するとともに、多くはアカデミーに参集したネタジに関わった日本人の記録を「ネタジと日本人」と題して残すことができた。その後五年を経て、蓮光寺に寄贈した本も慰霊祭に参加した多くの人々に渡りなくなったので、ネタジの50回忌を終るにあたり、再び松島さんから「改訂増補版」を新たに差作成して蓮光寺に寄贈したいとの有難い申し出があり、戦後50年の記念として新たな編集企画をインド国民軍の指導将校であった縁で村田克巳氏に依嘱して作製することにした。

 ネタジの霊の安らかならんことを祈り、日本とインド両国の友好のきずなとなれば幸いである。

 平成7年8月18日
 ネタジの50年祭にあたって
                      ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー 
                                             事務長 林 正夫

 名門弁護士の六男

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 スパス・チャンドラー・ボースは、一八九七年一月二十三日(明治三十年)、西ベンガルのカルカッタという町に、父ジャンキナート、母プラババティの六男として生まれた。当時イギリスの植民地であったインドで、ジャンキナートの弁護士という職業は社会的な尊敬を受けるものであり、ボース家の家系は何世紀もさかのぼることができ、先祖から藩王国の大臣や顧間を輩出した名家であったからなおさら尊敬され、ボース家は上流階級に属し経済的にも恵まれていた。

 父親は公務に忙しく、六男のボースと接触する時間は少なく、インドの上流階級のしきたりにしたがって、母のプラババティは子供たちの養育を使用人に任せ、スバスは彼を「ラジャ」と呼ぶ乳母のサラダに育てられた。五歳になってイギリス式の小学校に入ったが、校長は二十年もインドに住みながらヒンドゥー語やベンガル語をおぼえようともしない尊大なイギリス人で、生徒にもイギリス人の子弟が多く、教育は英語で行なわれた。後のボースの英語が本国のイギリス人も目をみはらせるほど拡張高いものであった素地はこのころから養われたものである。しかし運動神経の鈍かったボースは体操がにが手で、今で言う「いじめ」の対象にされたりもした。またボースはこの小学校時代に手ひどい人種差別を経験している。学内の少年団に加入しようとしたが、参加資格がイギリス人かイギリス人との混血に限られていたのである。このような環境から、幼年時代のスバスは感受性の強い、内気な幼年期を送ったらしい。

 宗教に関心の中学時代

 十二歳になり、ラヴェンショー中学に入ると、スバスは才能を開花させ、秀才の評判を得るようになる。この中学は自由主義的な校風で、英語だけの教育ではなくベンガル語も必修科目としていた。スバスはベンガル語やサンスクリット語で満点をとり、勉学の面白さを知り、その他の科目にも優秀な成績をあげた。校長のベニ・マドハプ・ダスは秀才のスバスをヒンドウー教の道へ導こうとし、スバスもダスの感化を受け、河岸で長い瞑想に耽ったりした。またこのころのスバスは民族主義運動に明確な閲心は示さなかったが、宗教活動の一環として友人たちと社会奉社団体を組織して、セッルメント活動に従事することもあった。

 註 サンスクリット語はインド古代の一言語。文語として長く便われた。梵語。

 一九一三年、第一次世界大戦の勃発する前年の夏、十六歳のスバス・チャンドラー・ポースは二番の成績でカルカッタ大学予科に進学した。カルカッタはベンガル地方の中心都市であり、イギリスのベンガル地方の分割統治をインド中の反対運動を無視して強行した直後であり、ベンガルでは穏健派が多数を占める国民会議とは訣別した過激派が勢力を得ていた。この過激派の行動はその後もインド独立運動に大きく影響を与えることになり、ボースの独立運動もベンガルという土壌抜きには語れないと一言う人がいるほどである。

 註 イギリスのインド進出一六○○年、東インド会社を設立、一七五七年プラッシーの戦いの後ベンガル地方に勢力を拡大した。一八五七年のセポイの反乱が始まると、翌年イギリスはインドを直轄領としている。

 精神的転機

 カルカッタ大学入学直後、スバスは精神的転機を迎える。ダスの影響もあり、ヒンドゥー教の原理主義に深く傾斜していたスバスは、哲学的・宗教的思索に耽り、ヒンドゥー教の苦行者になろうとし、忽然と大学から姿を消して国内巡礼の旅に出てしまった。考えに考えた末思い切った行動に出たスバスの青年らしいふるまいは周囲、特に面親を心配させ、修業場にいたスバスはニヵ月後に家に連れ戻されてしまう。しかしこのニヵ月の放浪は、スバスにヒンドゥーの聖者や苦行者が形式にとらわれて精神的に堕落し、現実社会に対する働きを失っていることを痛感させた。放浪の旅から帰ったスバスは宗教から政治へとその関心を大きく移したのである。

 オーテン事件で停学

 インドは第一次世界大戦にイギリス軍の兵士として百十万人の人間と三千四百万ポンドの軍需物資をヨーロッパ戦線に送った。イギリスは、戦争協力の代償としてインドに自治の範囲の拡大を約束したが、インドの総督の植民地統治機関であるインド政庁は、戦争協力を求めるだけで、自治の拡大には知らんふりをするだけだった。戦争による死亡者や負傷者の増大は「イギリス人はインド人を弾よけにしている」という噂を生むほどになり、さらに戦時経済による市民生活の圧迫はインド人の不満を高め、一九一六年にはアイルランドの独立運動にならった武力によるインド独立も辞さないというインド独立連盟が創立されている。政治に目覚めたスバスは大学で校内誌を創刊し、インド自治の討論の場とした。

 註アイルランド 十二世紀以降イギリスの支配下に置かれる。

 長い武力聞争ののち一九一三年イギリス連邦内の自治領、三七年に独立し、四七年イギリス連邦を脱退。新教徒の多いアルスター州は現在もイギリス領であり、IRAとイギリスとの間に武力衝突がしばしば起きている。

 このようなカルカッタの状況のなかで、一九一六年の一月にオーテン事件が起る。オーテンはカルカッタ大学予科の歴史学教授で、日頃からインド人蔑視の言動が目にあまっていた。そのころカルカッタで起きていた市電のイギリス人優先席撤廃運動に参加した学生をオーテンがやくざ者呼ばわりし、平手うちを食わせたことから学生の憤懣が爆発し、ついにストライキに発展した。学生とオーテンの話し合いは決裂し、数人の学生が彼を殴り、級長のポースは扇動者とみなされ、学校当4局から停学処分を受けた。ボース自身、すでに自分の人生は民衆のために捧げる決意を校内誌に発表していたが、後に自伝で「オーテン事件は私にとって大きな転機だった」と述べている。

 イギリス留学

 翌年の四月に大学に復学するとスバスは猛勉強を始め、一九一九年の五月、全学生中二番の成績で哲学科を卒業する。喜んだ父のジャンキナートは、その年の八月、過激派学生として警察から目をつけられていたポースを心配し、イギリスの大学へ留学し、インド高等文官試験を受ける準備をする決心を二十四時間以内にするように求めた。ボース自身は、イギリスのインド統治の手先となる気持ちはなく、今からイギリスに渡っても大学の新学期には問に合わないと考え、父親を安心させるためイギリスに出発した。スバスが船旅を終えてイギリスに到着したのはすでに十一月だったが、運よくケンプリッジ大学の新設の学部に入学することができた。

 ポースはイギリス人に対する新鮮な驚きを感じた。白人の召使がインド人であるスバスの靴を磨いてくれることにこの上ない喜ぴを覚えると同時に、植民地のイギリス人には見られない彼らの特質を鋭く観察している。友人への手紙で「イギリス本国人はたしかに彼らを偉大にした天性が備わっている。決められた時間まで真面目に働き、インド人が人生を悲観的にとらえようとするのとは異なり、しっかりした楽天主義をもっている。健全なコモンセンスを持ち、国益をこの上なく尊重する!」と書き送っているほどだ。

 インド高等文官への道を拒否

 一九二〇年の七月にはボースはインド高等文官試験を受け、両親には自信がないと伝えたほどだったが、九月の発表では思いもかけず合格していた。合格者はイギリス本国のインド省に勤務でき、インド人官僚として最高の地位も望める資格が得られ、最も難しい試験といわれており、後のインド首相ジャワハルラル・ネルーも最初は失敗し、二回目に合格したほどの試験である。ボースは合格を誇りに思ったが、インドの大衆のために一生を棒げる決心をすでにしており、両親の勧める
官吏への道を選ぶか深く悩んだ。父と子の間で八ヵ月の激しい手紙のやりとりが続いたが、ボースは官吏登用資格の返上をついに決意する。郷里ベンガルの革命家で、カルカッタの著名な弁護士デシュバンドゥー・チタ・ランジャン・ダスがベンガルの分割統治に抗議し、全ての地位をなげうってガンジーとともに不服従運動を組織し、その全財産を運動資全に提供した生き方を知ったためであった。

革命家の道を選ぴ、インド人学生としてはじめて官吏登用書類へのサインを拒否したボースが帰国の途についたのは一九二一年六月末のことであった。

註ネルー、P・ジャワハルラル インド独立運動をガンジーとともに達成した政治家。独立後初代の首相(一八八九~一九六四)。
 

写真(ボース家の人々)

 マハトマ・ガンジーとC・R・ダス

 一九二一年(大正十年)七月二十一日、ボンベイに船が着くとボースはすぐさまその足でガンジーのアシュラム(道場)を訪間した。手織木綿の民族衣 装の人々中に洋服姿の自分が恥ずかしかったが、ポースは一年以内にインド自治を回復できるというガンジーの考えの根拠をたずねた。ガンジーは、

 一、ここ数年間はイギリス製綿布のボイコット、国産綿布愛用運動に力を注ぐ
 二、その運動が成功すれば、インド政庁は国民会議派弾圧を強化する
 三、その時こそ法令に対する不服従運動と牢獄への行進が始められ、牢獄が満杯になれば、運動の最終段階である税金不納運動の時が来るという三つのステップを語った。

 註 ガンジー、M・K・「インド独立の父」と呼ばれる独立運動の指導者・政治家。「マハトマ(偉大なる魂)と敬称されたが、独立直後、狂信的ヒンドゥー教徒に暗殺される(一八六九~一九四八)。

 ボースが「もしイギリス製綿布のボイコット運動でランカシャーに混乱が起れば、そのショックで本当にイギリスの政府や議会はインドに自治 を許すとマハトマはお考えなのですか?」とたずねると、ガンジーは「私はそれがイギリス政府や議会を屈伏させる手段とは考えていない」と答えている。ガン ジーの一年以内に自治を獲得できるという見通しには確固たる根拠が無く、ある種の宗教的信仰のようであるようにボースには思えた。失望した様子のボース に、ガンジーはカルカッタのC・R・ダスを訪ねるようにすすめた。

 もちろんボースは自分が車命家の道を選ぶきっかけとなったC・Rウダスに会うつもりだった。長い旅に出ていたダスはカルカッタを留守にし ていた。ようやくダスに会うことができたボースはたちまちダスに魅了され、ダスこそ自分の求めていた指導者だと強く感じた。この時の様子をポースは次のよ うに書いている。

 「ダスがもう御殿のような家に住んでいなくても、やはり青年の友であり、青年の憧れを理解し、悲しみに同情を寄せるあのダスだった。私は ダスと話している間に、ここに自らが何であるかを知り、自らの持てるすべてを与え、また青年たちにどんなことでも求めることのできる人物が存在しているの を発見した」

 ダスはボースの才能と熱意を認め、ただちに国民会議派ベンガル支部の広報主任、義勇隊隊長、新設の会議派学校校長という要職に着けた。政治の世界に具体的な場を与えられたボースは精力的に活動を始める。

 註 国民会議派 一八八五年開催の国民会議に始まるインドの政党。独立後は一貫して政権を担当している。

 ハルタルとアムリツァルの悲劇(大正八年)

 弁護士として二十年以上も南アフリカでインド民族運動をしてきたガンジーが帰国したのは一九一五年だった。ガンジーの思想は、ヒンドゥー 教の源に帰り、イギリスの植民者の抑圧や弾圧に対しても暴力で立ち向かうのではなく、徹底的な自己犠牲と博愛の精神で相手の良心に訴えようとする「サチャ グラハ」運動に凝縮されている。サチャグラハは力による弾圧に打ちのめされていたインドの大衆から広い支持を取りつけ、一九一九年、戦前の自治拡大の約束 を反固にしたイギリス政府が治安維持の法律であるローラット法を成立させると、ガンジーは直接インド国民にハルタル(ゼネラルストライキ)を呼ぴかけた。 四月六日のハルタルが行なわれるとインドの町や村からは人影が絶えたが、非暴力抵抗を意図したガンジーの思惑を越えて各地で暴動化し、イギリス当局との衝 突を引き起こした。失望したガンジーは民衆の反省を求める演説を行ない、暴力の償いとして断食を行ない、ついに「サチャグラハは失敗であった」と、運動の 中止を指示するにいたった。

 パンジャプ地方の都市アムリツァルでもハルタルは成功を納めたが、その後官憲の会議派指導者の逮捕・追放に抗議するデモが行なわれ、警官 の発砲でインド人に数人の死傷者が出た。憤激した民衆が報復にヨーロッパ人を殺害し、ミッションスクールの白人女教師を暴行、重傷を負わせた。鎮圧に出動 したイギリス人は指導者の演説に集まった数万の群衆に小銃で射撃を加え、千五百人を超える死傷者が出た。このニュースは厳重な報道管制が敷かれたがインド 中に口から口へ伝わり、反英の空気は頂点に達した。

 この年の暮れ、惨劇の地アムリツァルで開催された国民会議年次大会は空前の盛り上りを見せ、立憲的手段による自治への足ががりとしてイン ド統治法を受け入れること、アムリツァルの虐殺を非難し、総督の羅免、ローラット法の撤回を要求する決議を行なった。しかしハルタルで運動の担い手をして 活動した下層中産階級や都市の労働者の代表は満足せず、これまでの指導者に代わり自分ではハルタルを失敗と考えていたガンジーの評価が高まり、翌一九二○ 年にイスラム教徒の反英運動のキラーファト運動がガンジーの説得により非暴力不服従運動に合流すると、ガンジーは次第にカリスマ的声望を得るようになっ た。

 投獄・首席行政官

 ボースがイギリスから帰国して、独立運動に加わったのはちょうどこのころだった。イスラム教徒とヒンドゥー教とを統合した反英独立運動が ガンジーを指導者として組織されようとしていた。一九二一年九月、カルカッタでダスと会議派の幹部との会談が開かれ、ポースも出席し、会議派の要人たちと はじめて接触している。この会談でダスはガンジーに積極的に協力した。ダスは戦争中治安維持のため投獄されていたベンガルの急進派を、ガンジーの非暴力不 服従運動は民族運動を弱めるものではなくかえって強めるものであると説得し、会議派に吸収することに成功した。

 十一月にイギリス皇大子がインドを訪問したが、国民会議派はボイコットしたため、皇太子はインド人の歓迎を受けることなく無人の町を視察 しなければならなかった。このボイコットを組織したのは国民会議の義勇隊であったから、カルカッタの隊長であったポースは真っ先に逮捕され、六ヵ月の禁固 刑を言い渡された。ボースの生涯における十一回に及ぶ投獄の体験の最初であった。

 一九二二年の国民会議大会は大混乱となった。議長のダスやネルーの父パンディット・ネルーは会議派のそれまでの地方議会ボイコット方針を 改め、議会内部から民族闘争を行なう戦術への転換を主張し、旧指導者と鋭く対立した。議長を辞任したダスは、会議派内に完全な自治を目指すスワラジ党を結 成する。会議派から脱退しなかったが、ベンガル地方独自の路線を歩もうとしたのである。そして翌年の総選挙ではポースは選挙運動に邁進し、ベンガル州の各 選挙区でスワラジ党は大幅に躍進し、一九一三年のカルカッタ市議会選では市議会の三分の二を制した。ダスはカルカッタ市長に就任し、腹心のボースを市の首 席行政官に任命した。この役職は市議会を代表して行政権を行便し、市議会の事務局長を兼ねるイギリス植民地に独自の要職であり、若干二十七歳のボースがベ ンガル州第一の都市の首席行政官になったことはインド国中を驚かせた。

 ビルマへの流刑

 カルカッタのイギリス当局は勢力を拡大したダスのスワラジ党を弾圧する機会を狙っていたが、一九二四年の一月に過激派の一学生が警察署長 と誤って無関係のイギリス人を暗殺するという事件が起った。学生は逮捕され、法廷の陳述で「罪の無いイギリス人を殺したことを心から後梅し、彼の霊を慰め るために自分の命をもって償いたい。そして自分の流す血の一滴一滴がすべてのインド人の自由をはぐくむ種子になればと願っている」と述べ、インド国中に広 い感動を呼んだが、結局死刑の判決を受けた。ガンジーは事件に驚愕し「犯人の愛国心は認めるが、方向は誤っている」と言明した。これに対してダスはベンガ ル地方議会で「非暴力主義は守らなければならないが、青年の自己犠牲の精神は評価すべきだし、尊敬すべきである」と発言し、議会もこの意見に賛同する決議 を行なった。

 このような空気を危険に感じたベンガルのイギリス当局は、十月二五日、暴力革命を図っているという口実でスワラジ党員の大量逮捕に踏み 切った。市長のダスは逮捕されなかったが、ボースはただちに逮捕された。慣激したダスは「市政の責任者は私である。ボースを逮捕するならなぜ私を逮捕しな いのか」と迫ったが、ダスの声望を恐れる当局は取り合わなかった。ダスは民衆にポースの逮捕は不当であると働きかけ、民衆は何ヵ月問も公判なしに収監され ているボースたちの釈放を要求する大規模なデモを実行した。実力によるポースの奪回を恐れた警察は、翌一九二五年一月、ポースの身柄をビルマのマンダレー の監獄に移した。

 マンダレーの焦熱地帯にある木造の監獄は、マラリヤやデング熱などの伝染病を媒介する蚊の大群に悩まされ、直射日光が射しこむ最悪の環境 に置かれていた。ボースはここでヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の宗教書やベンガルの文学や歴史の書物に読み耽り、インドの独立をはばむ原因の一つ である宗教的対立をいかにして解消するか、そしてインド独立運動は将来どうあるべきなのかに思いをめぐらした。

 獄中闘争で結核に

 ところが、自分の手足となるスワラジ党を徹底的に弾圧されたダスがこの年の十月に急死した。この報せを聞いたボースは激しい獄中闘争をは じめ、年末には同志たちと二週間のハンストを行ない、極度に衰弱してしまう。翌年の暮れには肺炎を起こし、呼ぴ寄せられたポースの弟で医師のスニルがボー スには結核の疑いがあると診断し、獄外療養の必要を述べると、ベンガル地方政府はボースをインド国内に移すように主張した。だがデリーのインド政庁は、 ボースの国内移送は治安の混乱を招くと反対した。そこでベンガル政府はボースをラングーンからスイスへ直接国外追放する案を提出した。ボースは「自分には 国外亡命の必要は無い」と提案を拒否したが、日に日に病状が重くなり、ついに重体に陥ってしまう。カルカッタではボースの釈放を求める民衆の行動が激しさ を増し、不穏な情勢についにイギリス当局も一九二七年五月十六日、ついにボースをインドに移してから釈放した。

 釈放後まもなく、ひとりの日本人がボースを訪れている。カルカッタに開設される日本商品館の開所式にボースを招待するため、エルジン・ ロードのボース家を訪れたのは高岡大輔である。一時間ほどの歓談で、ちょうど三十歳のボースは二十五歳の高岡に、日露戦争の日本の勝利がいかにインド人を 勇気づけ、当時八歳だったボースもアジア人の白人に対する勝利に深い感銘を受けたことを物語り、自分たちスワラジ党はガンジーのような穏便な方法ではな く、実力でイギリスをインドから追い出し、日本のような完全独立を目指すことを力説している。これが日本人とボースの最初の本格的な接触であった。

 ヒンドゥーとイスラム

netaji2.jpg 一九二七年(昭和二年)七月にインドに帰ったボースは、アッサムの四ヵ月の療養で体力が回復すると十月にはカルカッタに戻り、国民会議ベンガル支 部長に選ばれ、ダスを失ったスラワジ党の再建に精力的に取り組む運動をはじめた。ボースは、当時死傷者を出すような激しい衝突を繰り返していたイスラムと ヒンドゥーの対立解消にまず着手した。双方の民衆を公園に集め、たがいに他の宗教を尊重し、不毛な殺しあいは終りのない悲劇であると説いた結果、完全な対 立解消にはならなかったものの衝突は終息した。インド独立を阻害する原因の一つである宗教的対立は絶対的なものではなく、融和が可能だというボースの考え の根底には、この時の体験があるのかもしれない。

 註 イスラム マホメッドの始めたイスラム教を信じる人々。イスラム教の教典はコーランで、唯一神アラーを信仰し、偶像崇拝を禁ずるのが特長。

 註 ヒンドゥー ヒンドゥー教を信じる人。ヒンドゥー教はインドの土着信仰とバラモン教が融合した民族宗教で、ビシュヌ神、シバ神等を信仰する。

 宗教的な教義の差以外に、ヒンドゥーとイスラムの対立を抜き差しならなくしたのは、イギリスが分割統治の手段として両者を時代や状況によ り差別して利用したことが大きく影響している。植民地インドのイギリスに対する最初の独立戦争であるとボースが提えた一八五七年のセポイの反乱を、イギリ スはイスラムのムガール帝国再建の企てと考え、反乱の後にはヒンドゥー教徒の上流階級に英語教育を行ない、ヨーロッパ文化を与え、官吏、医師、弁護士など に登用して植民地支配機構に取込み、イスラムを排斥した。しかし、教育の普及でインド人知識階級が形成され、ヒンドゥー教徒のなかに民族意識が高まって国 民会議が自治要求運動の大きな勢力なると、イギリスは国民会議に対するイスラム教徒の不満をあおり、一九○六年に全インドムスリム連盟を結成させる。この ようなイギリスの政策はインド独立運動に深い影響を与え、インド独立に至るまで続けられた。そしてインド亜大陸には、ボースが願っていた宗教や地域主義を 乗り越えた強力なインド国家ではなく、現在のような宗教によって分割されたいくつもの国家が存在する結果となった。

 註 セポイの反乱 一八五七年、セポイ(東インド会社のインド人備兵)が、イギリスの支配に抗して起こした反乱。インド側では最初の独立戦争と位置づけている。

 巨標は自治獲得から完全独立へ

 一九二七年の十月にイギリス本国でインド統治法改正のためのサイモン委員会が設置され、「インドに自治を許すのが望ましいかどうか」を調 査、報告することになった。ところがこの委員会にはインド人は一名も参加を許されなかったため、インド人は民族的侮辱と受け取り、反対運動が急激に盛り上 がった。ロシア革命や第一次世界大戦後の社会主義や共産主義の影響もあり、一九二七年の国民会議年次大会では急進派を代表するポースとネルーが事務総長に 選ばれ、サイモン委員会のボイコットだけではなく、イギリス連邦内の自治獲得ではない完全独立を目標とすることが始めて決議された。

 しかし、完全独立の目標がイギリスとの武力衝突を招くことを恐れたガンジーは「学生大会で決議したような実行不可能の空論にすぎない」と 論評し、あわてた国民会議の既成幹部は「まずインドの自治領化を目標とする」方針を採択する。ポースとネルーの二人は事務総長辞任を申し出て、青少年運動 に専念する意志を告げたが、会議派の長老たちに遺留された。
会議派内の既成幹部と若手急進派の対立は激しさを増し、次のカルカッタ大会の開催が危ぶまれるほどになった。ポースやネルーは翌一九二八年十月、 国民会議の青年党員を結集し、完全独立と社会主義的改革を目標とするインド独立連盟を設立した。国民会議の分裂を回避するため、ガンジーが調停に乗り出 し、まず一年以内の自治獲得を要求、それが入れられない場合には会議派として完全独立を求め、大規模な非暴力非協力運動を展開するという点で合意に達し た。
 この間、タタ財閥経営の製鉄所の長期ストライキの調停に成功し、ボースは労働者層から広い指示と信頼を得て全インド労働組合同盟の会長に就任、労働者層の支持基盤を国民会議内だけでなくさらに大きな影響力を持つようになっていた。

 獄中でカルカッタ市長に当選

 一年の自治獲得期限が追ってもイギリスは具体的な返事を与えなかった。一九二九年のラホール大会で国民会議は完全独立を目標と定め、不服 従運動の方法をガンジーに一任した。ガンジーのとった戦術が有名な「塩の行進」であった。当時インドでは塩の国内生産が禁じられていた。炎暑のインドでは 塩は肉体労働者にとって大量に必要だったが、イギリスは塩の輸入関税を高める塩税改悪を実行していた。ガンジーは自分たちの手で塩を海水から作ることを運 動化しようと考え、一九三○年三月、奥地の道場から海岸に向けて二百マイルの塩の行進を開始し、同時に禁酒と外国製品のボイコットを指今した。

 インドの婦人たちが外国製品を売る店を見張り、イギリス系の商店が次々に破産するようになると、イギリス当局は激しい弾圧を加えた。かえって運動は激化し、ペシャワルなどインド各地で激しい衝突と流血の惨事が起った。

 前年の八月、革命家と政治犯に対する弾圧に抗議して逮捕され重禁固一年の判決を受けたが、その後保釈金を払って仮釈放中だったボースもこ の運動の先頭に立ち、たちまち逮捕、収監された。獄中で看守から暴行を受け一時間も失神するような手ひどい扱いを受けたが、ボースは獄中からカルカッタ市 長選に立候補し、三○年の九月、みごと当選を果たす。イギリスは三十三歳の青年市長を釈放せざるをえなかった。

 しかし、一九三一年一月二十六日、国民会議派のデリー大会で決められた「独立の誓いの日」にデモ行進の先頭に立ったボースは、手にした会 議派の旗を奪おうとした警官ともみあいになり、ふたたび逮捕されてしまう。棍棒で殴られ、右手の指を二本骨折したが、留置場では満足な手当てもされず、法 廷は六ヵ月の重禁固を宣告した。現職の市長が暴行され逮捕されたのは全インドでボースが初めてだった。

 デリー協定

 「塩の行進」を中心とする一年にわたった流血のサチャグラハ(不服従)運動の結果、ガンジーとイギリス総督の間に結ばれたデリー協定は ボースを失望させた。この協定はイギリスは全政治犯の釈放、没収財産の返還、海岸での自由製塩許可などを、会議派は不服従運動の中止、次の総督との円卓会 議への出席を約束したが、さらに重要な合意として、将来のインド政府の形態として藩王国を含む連邦制とし、外交・防衛はイギリス本国の権限とすることを約 束していた。これは自治領といってもその実態は保護国に等しいことを示していた。ボースはガンジーの一歩後退二歩前進的なやり方に不満を感じ、国内の混乱 を恐れるあまり急激な国家形態の変化を忌避しているように感じた。ネルーもこの合意に激しい抗議を行なったが、ガンジーに協定の破棄をちらつかされ、ガン ジーのやり方を黙認せざるをえなかった。この時以降、ネルーはボースとたもとを分かち急進派を離れ、ガンジーと歩みを共にするようになる。

 註 藩王国 イギリスの直轄支配を受けず、インドの土侯がイギリスに個々に従属して統治した領域。

 九月に間かれたロンドンの円卓会議にガンジーは出席したが、その主張は少数意見として冷たくあしらわれてしまう。ボースは後に「ガンジーは会議のメンバーも知らず、何の計画も持たずに出席した。聖人政治家は策謀政治家の敵ではなく。
ガンジーはイギリスに手玉にとられた。ガンジーの失敗は政治指導者と非暴力信仰の説教者のふたつを演じなければならなかったことだ」と手厳しく批判している。

 ウィーンへ

 円卓会議後、英国は国民会議派左派の根こそぎ検挙に乗り出し、ボースも三十二年二月に投獄された。電灯もない仮設の刑務所で、ポースは病 気になり、四月半ばには重病となった。七月にはマドラスの監獄に移されたが、結核を再発しており転地療養が必要であると診断された。今回はボースも医師の 勧めに従い、一九三三年二月二十三日、警官が見守る中をポンベイからヨーロッパに向けて乗船した。ポースの旅券はイギリス政府が発行したものだが、イギリ ス本国とドイツヘの渡航
を禁じていた。

 ポースはウィーンの著名な結核専門医フェルト博士のサナトリウムに入院した。ポースは数週間後には健康を取り戻し、彼の病室はヨーロッパ のインド独立運動の中心になっていた。追院後、ボースはウィーンのオテルード・フランスに事務所をかまえ、精力的に活動を開始する。ヨーロッパの知識人と 文通し、各国の外交官とも接触、インド独立へ国際的な支援を得られるように努力したのである。フランスの作家ロマン。ローランと文通し、当時のヨーロッパ で影響力のあったチェコのベネシュ外相にも会っている。また、プラハ駐在のイギリス副総領事がボースの人物に傾倒し、ボースがポーランドヘ行くことを黙認 してくれる幸運があって、ボースはポーランドからドイツにも入った。

 註 ロマン・ローラン フランスの作家・思想家で、戦争とファシズムに反対した。代表作に「ジャン・クリストフ」「魅せられたる魂」など(一九六六~一九四四)。

 ヨーロッパ制覇を望むヒトラーのドイツ政府はインド独立運動の大立者を大歓迎し、国賓待遇で歓迎しようとしたが、ドイツに借りを作るまい と考えたポースはこの待遇を辞退した。ドイツでは希望したヒトラーやナチス首脳との会談は実現しなかったが、ヨーロッパ各地を訪れたポースはローマでは ムッソリー二と会見し、インド独立に関して意見を交わした。この会見でボースは「インドの独立は社会革命を伴わなければならない」と言っていることが注目 される。独立を機会にインドの古い社会体質も改革しなければならないという構想が、すでにポースには固まっていた。

 註 ナチス(ナチ) 回家社会主義ドイッ労働著党の略称。ヒトラーを党首に三三年に政権をとる。統制経済、軍備増強、

   ユダヤ人の排斥やアーリア人種の優越を説く極端な民族差別に特長。

 エミリー・シエンクルとの出会い

 一九三四年の六月にウィーンに戻ったポースは、マドラスの監獄で書きはじめた論文『インドの闘争・一九二○~三○年』の完成を決心し、英 語の解るタイピストを紹介してくれるよう友人に依頼する。友人が紹介した女性がオーストリアの食肉工場の経営者の娘で二十六歳のエミリー・シェンクルだっ た。恋愛感情を抱いたのはエミリーが最初だったらしい。茶色の髪の小柄な、思いやりの深い母性型の女性で、タイプを頼まれたボースの論文を読み、次第に深 い尊敬の念を抱き、献身的に身の回りの世話をし、ポースの旅にも付き従い、秘書の役割も果たすようになっていった。ボースは青年時代から女性に対して ピューリタン的であり、このころのポースは旅先でもエミリーには別の部屋を取り、エミリーの愛情にはこたえようとしなかった。

 翌年の十一月二十六日、ボースは父が重病であるというカルカッタからの電報を受け取った。ただちに飛行機でカルカッタに向かおうとした が、帰国すれば逮捕すると警吉していたイギリス当局が待ったをかけた。やっとのことでカラチに到着した時、ボースを待っていたのは父の死の報せだった。 ボースの悲しみは深かったが、ベンガル地方政府が空港からただちにボースを監獄に連行しようとしていることも知らされた。しかしこのことが新聞に洩れ騒ぎ が大きくなることを恐れた当局は、ボースにカルカッタの自宅に七日間だけの滞在を許可した。

 七日問が遇ぎたとき、ポースはヒンドゥー教の定めた服喪期問である二十一目まで滞在を延長するよう願い出たが、ボースの影響力を恐れた当局は許可しなかった。傷心を抱いてウィーンヘ帰ったボースを暖かく出迎えたのがエミリーだった。

 父ジャンキナートの死を自分と同様に悲しむエミリーに、その愛情の深さを感じ、革命家には女性を愛する資格はないと考えていたボースもは じめて心を開いたのだった。ボースはエミリーとの結婚を決意した。しかし、当時オーストリアはナチスドイツの影響を受け、オーストリア人女性とインド人の 結婚はポースの活動の妨げになると心配したエミリーは、正式の手続きはとらず、表面的にはあくまでも秘書であることを望んだ。

 エミリーという伴侶を得てボースの活動は積極的に進められ、一九三六年の一月には、イギリスからの独立を武力闘争で勝ち取り、ボースがかねて強い関心を抱いていたアイルランドにドーバー海峡を漁船でわたり密航し、デ・ヴァレラ首相と会見している。

 国民会議派議長となる(昭和十三年)

 ボースのヨーロッパ滞在の問に、インドでは事態が進展していた。一九三三年、原則的にインドの自治を認める新しいインド統治法が作られ、 三七年にはこれに基づいて州選挙が行なわれる予定になっていた。会議派はこの選挙に参加することを決めていたが、内部の左右対立は激しくなっていた。ポー スの国外追放後、左派を代表していたのはネルーだった。三六年二月、ネルーが中途半端な方向に会議派を持っていくことを恐れ、投獄覚悟の帰国を決心した。

 三月二十七日インドに向かって出発したが、船がイギリス領のエジプトのポートサイドに着くと監視の警官が同乗し、ポースは旅券を取り上げ られ、ボンベイに入港するとただちに投獄され、数週間にわたり客地の刑務所をたらい回しにされてから兄の家に送られ、外出禁正状態に置かれた。ゼネストを 含む会議派の強い抗議が行なわれたが、ボースは翌年の三月までこの状態に置かれ、その間に結核を再発し、釈放されてから五ヵ月間も療養しなければならな かった。

 この間に国民会議派は州選挙に大勝した。しかし右派は州政府に閣僚として行政に加わることを望み、左派は完全自治の実現まで各州の内間に は参加せず闘争を続けることを主張し、対立は収まらなかった。ボースの政界復帰は左派の力を強め、会議派の分裂になりかねないと判断したガンジーば、翌三 八年の年次大会の議長にポースを推した。ネルーと同様、最大の反対勢力であるボースを自らの影響下に置こうとするガンジーの考えであった。議長就任を受け たボースは結核治療のため六週間のウィーン滞在の後、会議派議長候補としてイギリスを訪問し、アトリーなど労働党の政治家と会い、インド独立への理解と支 援を求めた。イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンはこの時のボースを「明朝で物静かな態度だが、インド問題では決然とした姿勢を見せたのが印象的 だ」と書いている。

 国民会議議長に当選、ガンジーと対決

 一九三八年の国民会議年次大会はボースの政治家としての評価を画期的に高めた。議長就任演説でボースは独立後のインドは農業と工業を漸進 的に社会主義化する必要があると述べ、準備のために中央計画委員会の設置を提案し、委員長にネル-を指名した。農地改車や産業の国有化、科学的経済計画、 八時間労働を掲げたポースの提案は民衆、青年層から広い支持を受け、全国遊説の会場にはいつも十万人を超える大群衆が棄まり、「ボース万歳」の声があがっ た。政治家として自信を持ったボースは次期も議長を続けることを望んだが、これはガンジーの強い警戒感を呼び起こし、二人の決定的な対立を引き起こすこと になった。

 この年の十一月、日本の商工省や外務省の特命を受けた高岡大輔は、会議派が日中戦争は帝国主義的侵略であるとして決議した日本商品ボイ コットの撤回を求め、十年ぶりにカルカッタのボース邸を訪間している。政治家としての貫禄をすっかり身につけたボースは日本が中国と戦争をはじめた意図に ついて「中国を植民地化しようとしているのではないか」という質間をし、高岡が日本は英・米・オランダなどの白人の支配からアジアを解放し、アジア人のた めのアジアを作ろうとしているのだ」と答えると、「その点はよく理解できる」と述べた。さらにボースは兄サラット邸での食事の席で「近い将来日本に亡命す ることがあるかもしれない」と述べ、高岡に日本の要人たちとのチャンネルづくりを依頼している。これは後に日本と協力しインド独立を実力で達成しようとし たボースが、具体的に日本との関係を進めようとした最初の出来事として注目される事実である。日本に帰国した高岡は外務省や参謀本部にこのボースの考えを 伝えた。

 それまで国民会議の議長はガンジーの推薦する人物を満場一致で承認するのが恒例だった。三九年の一月の大会でポースが議長に立候補し、ガ ンジーの推薦したシタマラヤを一五八○票対一三七七票で破って当選すると、ガンジーは「ポース氏は今や正々堂々と議長に選ばれたのだから、自前の執行委員 会を組織し会議派を運営すべきである。会議派は腐りはてた組織になってしまい、ふさわしくないメンバーを多数抱えている。結局ボース氏は祖国の敵ではなく 祖国の犠牲者なのだ。彼の意見では自分が最も進歩的で夫胆なプログラムを持っているという。少数派は彼の計画の成功を願うことだけが許され、それについて いけなければ会議派から脱退するほかはない」と正面からポースと対決することを宣言する。

 フォワードブロック結成、第二次世界大戦勃発

 あわてぶためいた会議派の指導者は、ポースの兄のサラット・ポースを除き、全員が執行委員を辞任した。ガンジーの隠然たる力を知らされた ポースはガンジーを訪問し協力を願ったが、ガンジーは「自分の力で議長になったのだから好きなようにやりなさい」と冷たく突き放した。そして三月の大会で は会議派は従来どおりガンジーの指導に従うという決議がなされ、ボースは四月末に議長を辞任せざるを得なくなった。後に大統領になるプラサドが議長となっ た会議派は右派が完全に主導権を握り、左派に対する追求を続け、ポースはついにベンガル州議会委員長からも追われた。

 註 プラサド、B‐R インドの政治家で、ガンジーとともに独立運動に従事し、独立後に初代大統領となる(一八八四~一九六三)。

 ボースもガンジーと対決することを決心する。会議派内に急進派をまとめたフォワードプロックを結成したのである。学生、青年労働者、農民 がこのフォワードプロックに結集し、特にベンガルでは圧倒的な支持を集めた。インド独立運動において、ボースは会議派主流との分裂も辞さない姿勢を見せ、 明確な自己の運動方針のもとに活動を開始しはじめたが、そのころ世界は第二次世界大戦を迎えようとしていた。

 戦争に備え、イギリスはイエーメンのアデンに英印軍を増派した。これに対し会議派は「インド人の同意なしにインドに戦争を負担させ、資源 を戦争に便おうとするいかなる企てにも反対する」と決議したが、イギリスはさらにエジプトやシンガポールに英印軍を増派し、九月三目ついにドイツに対して 戦線を布告した。インド総督は植民地のインドは自動的にドイツと戦争状態に入ったと発表したが、会議派の幹部すら事前の相談は全く行なわれなかった。

 ポースは第二次世界大戦を独立達成のまたとないチャンスと提えた。一九四○年回月にパリが陥落すると、イギリス帝国の勢力が弱まったこの時期こそインド人は決起すべきであると考えたボースは、ガンジーに全国民的決起の呼ぴかけを促すためガンジーを訪れた。

「全インド人が決起して自由を勝ち取るチャンスは今をおいてありません。ぜひマハトマが先頭に立って大号令を発してください」と述べるポー スに対し、ガンジーは「なぜ今でなければならないのか。イギリスはこの戦争に勝っても敗けても弱体化し、この国を支配する力を失う。その時こそ暴力を使わ ず独立が達成できる。今ことを起こすことはイギリスを背後から刺すことになる。道徳的にも政治的にも賛成できない」と冷たく言い放った。

ンド独立闘争における若きベンガルの指導者
 戦時下の逮捕で国外脱出を決心

 ボースがガンジー、ネルーといった会議派主流派とたもとを分かち、フォワードプロックを中心に独自の運動を進めようとしたころ第二次世界大戦が始 まったことは、ポースの運動に大きな影を落とした。ボースは一九四○年(昭和十五年)、カルカッタにおいてイギリスがインド支配を記念して各地に立てた銅 像や碑を実力行使で倒す計画を立てたが、実行の前日である七月二日に逮捕されてしまう。戦時中の逮捕は、戦争が終了するまでの収監を意味していた。独立運 動、フォワードプロックの活動が大切な時期を迎えるとき、獄中にいることにボースは耐えられなかった。

 そのころポースがかつて日本行きを勧め、当時の松岡外相、日本駐在のドイツ、イタリア、ソ連大使らと会い、ルートづくりをした後援者で貿 易商のララ・シャンカルラルが外国から帰り、獄中のボースに海外で活動することを勧めた。すでにシャンカルラルの活動で、日本からフォワードプロックに対 し極秘の資金援助があり、カルカッタを訪れた大橋外務次官にボースは秘密裡に会ったこともあったのである。シャンカルラルのことばと戦時中という状況か ら、ポースは国外脱出を決意する。

 まず牢獄の外へ出るため、十一月二十九日ポースは断食を開始する。ポースは見る問に衰弱し、十二月五日にはこれ以上続ければ確実に死を招くと診断されるほどになった。ボースの死が大きな混乱を引き起こすことを恐れ、イギリス当局は彼をただちに釈放した。

 保険外交員モハメッド・ジアウッディン

 家に帰ったポースは髭を伸ばしだす。一月十七日の午前一時半、黒いトルコ帽にゆったりしたイスラム教徒の服装で、二十四時間監視体制をと る警官のわずかな隙を狙い、裏口から脱出した。車は甥のシシルが運転し、夜明け前に兄サラットの長男アショカの家の近くに着いた。生命保険の外交員モハ メッド・ジアウッディンと名乗ったポースをアショカは素気なく追い返そうとした。泊まる所がないと訴える外交員をアショカはしぶしぶ家に入れた。この芝居 は召使たちの口から秘密が漏れることを恐れたための工夫であった。

 翌日ボースは監視の厳しいターミナル駅を避け、小さな駅からペシャワル行きの列車の郵便車に乗った。駅に停まるたぴに新聞の山に身を隠 し、一月十九日、アフガニスタン国境に近いペシャワルに無事に到着、その日はホテルに泊まり、翌日ペシャワル市内のアバド・カーンの家に身を寄せた。ポー スはパキスタンとアフガニスタン国境にあるハイバル峠を越える脱出コースを考えていたが、イギリスの官憲が目を光らせ突破は困難であることがわかり、自動 車で峠の迂回路を行くことになった。しかし車の手配、脱出路の研究に予想以上の時間がかかった。一月二十七日のボースの公判日が迫り、脱出作戦の責任者の アバド・カーンは気が気ではなかった。一方カルカッタの自宅では、ボースの近親者たちが脱出前に書きためたポースの手紙を毎日投函した。イギリス当局が検 閲することを予測し、ポースが自宅にいるように思わせるためである。そしてボースの失踪を当局に届け出たのは会判前日の一月二十六日であり、家人は人を 使って四方八方にボースを探すふりまでしている。

 カブールへ

 一月二十一日、現地人ガイドが見つかり、ポースは国境地帯に住むパタン族の衣装に身を包み、ペシャワルから国境へ向った。途中で車を捨 て、石だらけの砂漠を徒歩で進むのである。昼はベンガル育ちのポースもへきえきする暑さで、二、三時間も歩くと何日も歩いたような疲労が一行を襲った。夜 になりやっと小さな村に着いたが、旅篭にはろくな食べ物がなく、窓のない部屋に二十五人が雑魚寝するというひどい有様だった。

 翌日一頭のラバを手に入れた一行は、疲労の限界に達していたポースをそれに乗せ、ゆっくりとカブールヘ向かい野宿をかさね、二十四日、 やっと山地を抜け平地のアフガン人郡落に到着した。しかしそのあたりはすでにイギリスの支配地区で、街道筋筋には官憲やs密慣がうろうろしていた。一行は 銃を持つパタン族の護衛を雇い、隊商の道をジャララバードヘ向った。ジャララバードからアフガニスタンの首都カプールまでは間道を伝い、カプール川を羊の 皮袋の筏で渡らなければならなかった。カプールの近くには検問所があり、旅券をチェックしていた。ポースたちは一月の寒気の中で深夜まで検問所近くの路傍 に潜み、係官が居眠りしているわずかな隙をついて検問所を通過した。ポーズの会判日一月二十七日の午前四時だった。昼ごろカプールの町に到着し、キャラバ ンサライ(隊商宿)に宿をとった。

 ソ連大使に直訴も失敗

 カブールから目的地のドイツに向かうにはイギリスの支配する中東を通る訳にはいかず、ソ連を経由しなければならない。そこでソ連大使館と 連絡を取ろうとしたが、町の中心部を離れた場所にあったためなかなか見つからず、そのうえヨーロッパにある大使館とは異なり、各国の大使館の門前にはアフ ガン人の警官が出入りする人間を検問していた。アフガニスタンは独立国だが、当時イギリスの影響下に保護国同然であり、見つかればイギリスに引き渡される のは必死だった。そこでポースたちはソ連大使の車を待ち伏せ直接の接触をしようとした。大使館前の道路で三日間観察するとソ連国旗を立てた車は大使だけが 使用していることが分かった。

 ペルシャ語がやっと話せるラムが道路に飛ぴ出し、ついに車を止め「チャンドラ・ボース氏が大使にお願いがあります」と叫び、道端に立つ ポースを指さした。しかしソ連大使は「どこにボース氏がいるのか」とたずね、パタン族の民族衣装に身を包んだボース氏を見たが、「あれがボース氏だとどう して証明できるのかね」と言うと、車は走り去ってしまった。

 翌日アフガニスタン人の私服刑事が隊商宿を訪ねた。ボースはペルシャ語を話せないので、打ち合わせていたとうり、ラムが目も耳も不自由で 目も聞けない兄のジアウッディン、つまりポースをイスラムの霊顕あらたかなサーキ・サーヒブ寺院に連れて行く途中だと説明した。一応は納得したようだが、 翌日からも刑事は訪ねては様子を探り、なかなか出発しないのはなぜかと、しつこく付きまとった。ボースの金時計や持ち物を袖の下にしたが、それ以上隊商宿 にとどまることは危険状況だった。そこで、以前会議派の活動家で投獄されたこともあるカビウールのインド人ラジオ商ウッダム・チャンドの家をやっと探し出 した。風呂とインド風の食事でボースたちは一息つくことができた。

 イタリア外交官オルランド・マゾッタ

 チャンドがカプールのジーメンス電気商会のトマス支配人を知っていたので、ポースは芳しくないソ連大使館との接触をあきらめ、トマスのつ てでドイツ大使との面会が実現した。ピルゲル大便はボースとヨーロッパ時代に面識があり、イタリア、ソ連の大使と連絡をつけてくれたが、当時のドイツはす でにイギリスと戦っていたので、ベルリンヘの報告ではイギリスの謀略の可能性があることが書き加えられていた。ドイツ、イタリアの大使と日本の公使が協力 し、ソ連大使にボースのソ連領通過許可を求めたが、それは結局梨のつぶてに終わった。

 しびれを切らしたボースは、国境地帯に住み密輸業者とも親しい逃亡殺人犯に話をつけ、そのルートでソ連に密入国する決心をし、二月二十三 日に出登することをピンゲル大使に告げた。無謀な計画に驚いた大使はポースにイタリア大使のカロー二会うことを勧めた。カロー二大使はボースに危険な計画 をさとし、希望を捨てずに待つように助言した。結局、カブールからイタリアに帰国する伝書使をボースとすり替え、イタリア外交官に化けさせてソ連領を通 過、ベルリンに送ることになった。やっと三月十八日に車でソ連領に入り、サマルカンドから列車でモスクワを経由したイタリアの外交官オルランド・マゾッタ がベルリンに着いたのは一九四一年四月三日だった。

註 伝書使 外交文書や外交嚢を運ぶ使者。クーリエ。

5 ベルリン

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 ドイツにおけるボースの活動

 

 ベルリン日本大使館

 ベルリンに到着して一週間後、ボースはドイツ政府に覚書を提出した。この覚書でボースは、自由インドセンターを設立しラジオ放送を行うこ と、インド独立軍を組織し、アフガニスタン国境からインド国内に進攻することを求めている。当時のドイツ軍は、念願のイギリス本土上陸には成功しなかった が、四月にバルカンではユーゴを降伏させてギリシャに進撃し、五月には工-ゲ海のクレタ鳥を占領し、アフリカではイタリア軍を授けたロンメル軍団がイギリ ス軍を駆逐、リビアに進攻、イギリスの近東の生命線であるスエズ運河をうかがおうとしており、強大な勢力を誇っていた。

 しかしドイツの外務省と軍部はボースの出した枢軸国がインド独立を呼ぴかける宣言を出して欲しいという願いには、ボースが六月にチアノ外 相を訪れ要請したがイタリアも同様に冷淡な反応しか示さなかった。自由インドセンターが発足したのは十一月二日であり、二十九日にはリッペントロップ外相 との会談が実現したが、その席でボースが強く要望したヒトラ-総統との会談が実現するのはそれから半年も経ってからのことである。

 そのころ日本とアメリカは太平洋をはさんで一触即発の状態が続いていた。ニヵ月前参謀本部から「ボースの人となりを直接観察して報告せ よ」という訓令を受けていた駐独陸軍武官補佐官の山本敏大佐は、十月下句、大鳥浩大使とともにはじめてボースに対面した。山本大佐は、後にビルマで最高指 揮官としてインド国民軍を率いて戦うボースに協力する日本軍の機関の代表として、密接な関係を持つことになるが、はじめて会った時から、亡命者にありがち な卑屈さをまったく感じさせず、インド独立への厳しい闘志を秘めながら、あくまでも教養豊かな紳士としてふるまうボースの人間的魅力に魅せられてしまっ た。

 ドイツの捕虜となったインド人に向けての声明(一九四二年、ベルリン滞在中に)
 「過去百五十年間、イギリスは我々を貧困におとしいれ、我々から国民としての誇りを奪ってきたが、その結果、諸君は祖国の抑圧者の軍隊ために銃 を執り、自らの兄弟姉妹を抑圧することを助けてきた。だが、今、諸君には自由のために戦う力を結集し、祖国の解放を助け、外国の抑圧の奴隷としてではな く、自由な人間として勝利のうちに家族のもとに帰る機会が訪れている。」

 ボ-ス、日本行きを熱望

ポースは十日に一度は日本大使館を訪れた。十二月八日、ついに日本がアメリカとイギリスに宣戦布吉した。そして日本軍のマレー進攻作戦が急速に日本軍に有利に展間していた十二月二十六日いつになく緊張した面持のボースは大島大使と山本大佐に向かって語りはじめた。
「私は脱出に際し、もし日本がイギリスと戦っていたら、万難を排して日本行きを強行していた。今や日本軍のマレー占領は必死であり、ビルマからイ ンド国境に迫る日も遠くはない。私はインド独立の次善の策としてドイツで二階から目薬をさすような努力をしてきた。私はなんとかしてアジアにおもむき、祖 国インド解放のため、日本と手を携えて戦いたい。たとえ一兵卒としてもイギリスと直接戦いたい。どうかこの希望がかなうよう、日本政府へ取り次いでほし い」

 参謀本部からはボースの人物を直接観察し、報吉することを求めてきただけだったので、大鳥大使も山本大佐もボースに日本行きを勧めたこと はなかったが、ボースの真摯な申し出に動かされ、ただちに東京へ伝達することを約束した。翌一九四二年(昭和十七年)二月十五日、東アジアにおけるイギリ スの最大の軍事拠点であるシンガポールが日本軍の手に陥落すると、ボースの懇願はますます熱気を帯ぴ、毎日のように東京からの返事を促すようになってい た。

 しかし、日本からは「目下審議中」という返事が来るばかりだった。それには埋由があった。

 太平洋戦争開始にあたって、日本政府と軍郡は『対米英蘭◎戦争終末促進に関する腹案』を作成し、この戦争の基本方針はドイツ・イタリアと 協力してまずイギリスの屈伏を図り、アメリカの戦争継続意志を喪失させるように努めることであり、イギリスを屈伏させる方法としてオーストラリアとインド に政治的な働きかけや通商を破壊してイギリス本国と切り離し離反させること、ビルマの独立を促進してその影響でインド独立を刺激すると述べていた。しかし これはあくまでも「刺激すること」であり、日本軍が直接インドに進攻することを意味してはいなかったのである。

 千載一隅のチャンス

 陸軍がシンガポール要塞を攻略し、海軍がマレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブーウェールズとレパルスを撃沈した。そして真珠湾攻 撃の余勢をかって海軍の南雲機動部隊は四月六日、セイロン島を強襲、イギリスの空母一隻と巡洋艦二隻を沈め、小沢艦隊が商船十八万トンを沈めた。ベンガル 湾の制海権を手にした日本軍は、昭和十七年の五月末には当時イギリス領だったビルマの全域を占領した。

 註 セイロン インドの南にある島。スリランカ民主社会主義共和国の旧名。一九四八年、イギリスから独立した。仏教徒のシンハラ人が多い

 インド洋に日本の海軍が大挙来ることを恐れたイギリスのチャーチル首相は、五月七日、アメリカのルーズベルト大統領に、アメリカ軍が大平 洋で挑発行動をとって、日本軍の動きを牽制するよう、電報を打ち、さらに七月十七日、日本軍のセイロン島占領や東部インド進攻の恐れがあり、これが実現す ればイギリスの中東における基盤は根底から崩れてしまうと訴えている。当時スエズ運河一帯はドイツ軍とイタリア軍の制圧下にあり、喜望岬を回る航路が、イ ギリス軍の兵員、軍需物資輸送の大動脈だったのである。

 このころが、太平洋戦争を通じて、日本軍がインドに進む唯一の好機だった。ダンケルクに匹敵するビルマでの敗退の後、インド東部を守って いたのはインパール周辺に二個師団、アラカン、カルカッタ周辺に各インド師団一個ずつ、予備としてビハール州に一個師団と一個旅団があるだけだった。イン ド洋にはイギリス海軍はなく、防衛責任者のスリム中将も「日本軍が上陸してきたら葉巻を巻くように壊乱させられると思うと、ひどく落ち込んだ」と述回して いる。

 インドの中部・西部・東部には五個師団、二個英師団、一個戦車旅団、三個装甲旅団があり、中途半端な勢力では日本軍の成功は困難だった が、国民会議の議長を努め、ベンガル出身のスバス・チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍と共に進軍すれば、インド国中に独立への炎が燃え立ったに違い ないと思われる。しかし、ミッドウェイでアメリカ軍と正面決戦の準備を急ぐ日本海軍は機動部隊を太平洋に戻してしまったのである。

 揺れ動くガンジー

 第二次世界大戦中には連合国の枠内、つまり反日本の立場で反英非暴力運動を行ってきた印象の強いガンジーも、ある時期には日本軍のインド 進攻の可能性を認め、独立運動の方向を変えることを真剣に考えていた。国民会議派の指導者アザードは「スバス。チャンドラ・ボースがドイツに脱出したこと はガンジーに強い影響を与えた。ガンジーは以前いろいろな点でボースの行動を認めなかった。しかし今や彼の見方には変化が生じたのが分かった。ガンジーが ポースを称賛していることが無意識のうちに戦況全体の見方を性格づけていた。と回想している。
 四月二十二日にはガンジーは「私の確信はイギリスが整然と秩序を保ってインドを去るべきでありシンガポールやマラヤ、ビルマで冒した危験をイン ドで冒すぺきでないというものです。イギリスはインドを防衛できません。というよりは、どれほどの力を持ってしてもイギリス自身をインドの国土で守ること はできないのです。イギリスのできることは運命にしたがってインドを去ることです。そうすれば、インドはそう下手にはやらないだろうと思います」と手紙で 述べ、五月十五日の国民会議派のプライベートな集まりでは「日本と戦い、日本を妨害しているのはイギリスである。だから日本はイギリスと戦かわんと欲して いるのだ。したがってイギリスが撤退すればインドは日本と折り合うことが可能である。日本はインドに中立条約を結ぶと期待することができる。彼らがなぜイ ンドに進攻しなくてはならないのだ?しかしながら、もし日本が我々を侵略したら我々は抵抗する。私は日本を助けることはできない。自由を獲得したら中立 だ」と発言している。

 しかしこの年の六月ミッドウェイの海戦で日本海軍が大打撃を受け、大平洋とインド洋の日本軍の絶対優勢状混が崩れだすと、ガンジーの姿勢 は、アメリカ軍のインド進駐を認め、ふたたぴ連合国寄りに戻ってしまう。だが、この八月インドで国民会議派が「イギリスはインドから出て行け(クゥイッ ト・インディア)」という決議をすると、イギリスは会議派に対し大規模な弾圧を開始し、指導者は根こそぎ逮捕・投獄され、インド各地で暴動が発生する。鉄 道妨害、電話線の破壊、警察の襲撃、ポースが指導者だった会議派左派を中心に行われた。軍隊出動六十ヶ所、死傷者二千五百七十人、投獄者数は一万八干にの ぼっている。

 このころが、日本軍がインド国内に進攻するまたとないチャンスだった。後にビルマ方面軍の高級参謀となった片倉衷元少将は「もし日本軍が インドヘ進攻する機会があったとすれば、インド洋の制海権を奪う能力があり、ビルマにも優勢な陸軍航空部隊がいた昭和十七年(一九四二年)の春から夏にか けてしかなかったろう。ただし地上部隊の四個師団は、戦闘による消耗とマラリア、アメーバ赤痢など風土病で戦力は半減していたから、大本営から兵力の増派 が必要だったが」と述べている。

 ヒトラーに失望

 ベルリンのボースはこのような状況を観察し、直接的な行動に移れないもどかしさに苛立っていた。スバス・チャンドラ・ボースがベルリンか ら世界に向けて自由インド放送をはじめたのは一九四七年二月十九日であり、アフリカ戦線で捕虜になったインド兵で前年の十二月に編成された自由インド軍団 も二月十五日正式に成立したが、戦線に出動する見通しもなく訓練に終始していたが、ヒトラーの人種的偏見がインド兵の能力に疑念を抱かせ、ついにこの部隊 は実戦に参加することなく終ってしまった。

 五月二十九日、半年間待ったヒトラー総督との会談が実現したが、その内容はボースを失望させた。インド人は自力で独立を達成できないと考 えていたヒトラーは、「インドが自治政府を持つには少なくともあと百五十年はかかる」と言い、ボースが「ドイツのインド独立支援声明には軍事的意味より、 インド国民に精神的支援を送ることに意義があります」と食い下がっても、ヒトラーは「現段階ではインド問題に関する声明を出しても意味はない」という考え を曲げようとはしなかったのである。

 日本との連携へ

 すでにこの年の二月十七日、シンガポール陥落のインド兵捕虜を結集し、プリタム・シン大尉を指揮官にインド国民軍が正式発足し、東南アジ アのインド人によるインド独立連盟が活動をはじめていた。日本軍の対インド工作を担当する藤原機関の藤原岩市機関長は接触を深めるにつれ、彼らがスバス・ チャンドラ・ポースのアジア招致を熱心に望むのを知り、大本営に対し「インド人の間のボースヘの敬慕と期待はほとんど信仰に近い。ぜひ早急に招致を実現さ れたい」という要請を行なっていた。
 日本の陸軍、海草、外務省がボースの扱いを検討し、日本招致が原則的に決められたのは八月だった。長い時間がかかった一つの理由には、ラス・ビ ハリ・ポースの存在があった。やはりベンガル出身のラス・ビハリ・ボースは古いインド独立の志士で、日本亡命にあたっては民族主義運動家の頭山満の後援を 受け、官憲の追及を避けるため、新宿の中村屋の店主相馬愛蔵の娘と結婚し国籍も日本に移していた。ビハリ・ボース自身はチャンドラ・ポースの声望と力量を 十分承知しており、チャンドラ・ポースが来日すれば喜んで独立運動の指導を委ねることを明言していたが、参謀本部内には運動の分裂を懸念し、「わざわざド イツからチャンドラ・ボースを呼ばなくとも『中村屋のポース』で十分ではないか」という声が強かったのである。

 大島大使はただちにドイツとの折衝をはじめたが、チャンドラ・ボースの宣伝価値を知るドイツ側はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。 大島大使はボース自身がヒトラーと直接談判することを勧めた。ボースの強硬な姿勢を煙たがっていたためか、ヒトラーは即座に日本行きに同意した。問題は日 本に行く交通手段だった。ドイツ占領下のウクライナからソ連上空を夜間飛行し内蒙吉に着陸する案は、日ソ中立条約を結んでいるソ連上空を交戦国のドイツ機 が飛ぶことは背信行為になると考えた東条首相の強い反対にあい、イタリア機でクレタ島からインド洋を横断してマレーに飛ぶ案は航空支援施設が不安で見送ら れた。結局、ドイツのUボートに乗り、軍事技術交換のためインド洋上でランデプーする日本の潜水艦に乗り移る案が決定した。この計画には細かい打ち合せが 必要で、決行が実現するのは翌一九四三年(昭和十八年)二月になってしまった。

 再会そして別れ

 ベルリンに到着したボースの生活の唯一のうるおいは、再会したエミリー・シェンクルとの家庭生活だった。提供されたシャルロッテンブルグ の元アメリカ武官邸は、ボースの事務所を兼ねていたので、エミリーは人目に着かないように、奥まった部屋で暮らした。四二年二月、エミリーから妊娠を告げ られたボースは生まれてくる子供のためにも正式な結婚を決意した。しかしオーストリーはすでにドイツ帝国に併合され、ドイツ女性とアーリア人種以外の男性 の結婚を禁止する「民族純血法」が厚い壁となった。

 ボースは怒りに燃えたが、エミリーは冷静だった。ドイツ政府との無用な摩擦を起こすことはボースにとって不利益であり、インドの人々の感 情を考えれば、ふたりの結婚は独立運動とポース自身によい結果とはならないことを述べ、生まれてくる子供を自分ひとりで育てる決意を告げた。ボースはせめ てものエミリーヘの思いやりとして、ハッサンら二人の副官を招いてヒンドゥー式の互いに花輪を交換する簡素な結婚式を挙げた。エミリーは子供を産むため六 月ウィーンに帰り、十月女の子を出産し、アニタと名付けられた。ボースはその年のクリスマスに母子をベルリンに招き、つかの間の、最初で最後となった親子 三人の水いらずの生活を過ごした。

 ポースとエミリーの結婚はドイツにいた同志のほんの一部しか知らず、アジアに来てからのポースは一言も周囲に洩らしていない。独立運動の 指導者としての立場を考慮したためであろう。なおインド独立後の一九六一年、チャンドラ・ポースのたったひとりの子供であるアニタ・シェンクルは父のゆか りの地であるカルカッタを訪れている。

  自由インド、その問題点(ボースの論文)
      この論文は、ドイツの雑詰『ヴィー・ウント・マハト』に一九四二年八月に掲載され、
      インドでは永らく発表されなかった。外国の読者向けに書かれたものだが、現在のインド
      で読まれるべき独自の価値があるものと思われる。(ネタジ・リサーチ・ビューロー発行
      『NRBプレティン』編集者の言葉)

 新たなる覚醒

 イギリスによるインド占領は一七五七年、ベンガル・ファーストと呼ばれる地方がイギリスの手に落ちた時に始まる。占領は拡大し、最終的に は一八五七年偉大な革命の後に完成した。この革命は、イギリスの歴史家は「セポイの反乱」と記しているが、インド国民の立場からは「最初の独立戦争」であ る。初期の段階では革命は成功したが、インド人の指導者に戦略と駆引の面が欠けていたため、最終的には失敗した。イギリス側が戦略と駆引の面方で優れてい たからだ。とはいえ、イギリスは非常な困難の末、やっと勝利を得たのであった。革命の失敗後、インド中は恐怖による統治が跋扈した。インドの人々は完全に 武装解除され、イギリスはそれを現在に至るまで続けている。今では彼らはこの一八五八年の武装解除が歴史上おおいな過ちであったことを認識している。とい うのも、武装解除が広い範囲にわたるインドの弱体化と無気力化を起こしたからである。

 一八五七年の偉大な革命の失敗の後、インドの人々は一時意気消沈した。しかし世界各地の革命によって刺激され、一八八五年にインド国民会 議が結成されると、政治的覚醒が始まった。今世紀初め、ナショナリストの運動は二つの新しい方法、イギリス製品排斥と密かな反乱に展開した。先の世界大戦 の後、一九二○年代、ガンジーは新たな「市民大衆による不服従運動」の方法、武器を持たずに外国の統治を覆すことを目的とする消極的抵抗を導入した。現 在、このような運動の高まりは、インド国民がイギリスをインドから追い出す可能性を持つという新たな段階をもたらしている。

 今日の状況

 今日のインドは、イギリスがすべての人々から憎悪されている状況である。国民の大部分は現在の国際的危機を大英帝国の軛を覆すのに利用す ることを望んでいるが、国民のほんの一部分は可能なことはイギリス政府の妥協を引き出すことと考え、覆すには不十分だと感じている。道義的信念を失い、イ ギリスに協力しようというインド人は一人としていない。それ故、イギリスの支配はインド人の善意の上に安住することが不可能になり、銃剣によってのみ可能 になっている。

 多くの人々が、イギリスがインドのような巨大な国を比較的少ない武力で統治していられるのはなぜか埋解できないでいる。その秘密は、少数 とはいえ近代的な軍隊が、膨大だが武器を持たない人々を抑えることができるから可能なのである。近代的な占領のための軍隊は長期間にわたって敵対する勢力 との戦争に巻き込まれず、人民により組織され、内部から盛り上がった武力抵抗を鎮圧することが可能だった。だが、現在イギリス帝国は他国との戦争に関わ り、その力が顕著に弱体化し、インド人民がイギリスの支配をやめさせ、永遠に終らせるための革命に立ち上がることが可能になったのである。従って、インド 人民はこの闘争において武器を執り、現在イギリスと戦っている勢力と協力する必要がある。この事業はガンジ-には成すことができない。今、インドは新たな 指導埋念を必要としているのである。

 インドが自由になる時

 多くの人たちが、イギリスがインドを手放すには何が起きる必要があるのかという質間をする。イギリスの宣伝は、多くの人たちにイギリスな しではインドは無政府と混沌状態になると思わせてきた。だがそのような人たちは、イギリスによる占領が一七五七年に始まったばかりであり、占領は一八五七 年まで完全なものではなく、それまでのインドは何千年もの歴史を持つ国であることをいとも簡単に忘れてしまっている。もしもイギリスの統治以前にインドに おいて文明や文化、政治的・経済的繁栄があったとすれば、イギリスによる統治が終ればそれらは可能であるに違いない。事実、イギリスの支配下ではインドの 文化や支明は抑圧され、政治は国民の手から奪われ、豊かな繁栄した国が世界で最も貧しい国の一つにされてしまった。

 新しい地方自治

 イギリスをインドから駆逐した時、第一の仕事は新しい政府の樹立、秩序と会共の安全の確立だろう。新政府の仕事には地方自治の再構築、国 民軍の創設が含まれることが必要だ。地方自治の再構築は比較的簡単である。過去、地方自治は常にインド人の手によって運営され、最高の地位にだけイギリス 人がいたのである。この二十年間に、最高位のイギリス人にインド人が徐々に代ってきているほどだ。中央政府の総替府の閣僚の一部もインド人になっている。 一九三七年以来、地方政府では大臣はすべてインド人で、イギリス人の役人がその下で働いている。高い地位がイギリス人からインド人に代った時、インド人は イギリス人より高い能力を示している。インド人の大臣や役人はイギリス人よりもこの国に精通しており、国民の繁栄に熱意を持っている。だから、インド人が それまでのイギリス人よりも効率よく活動したのは当然である。簡単に言ってしまえば、我々は今日のインドの役所によって訓練された経験豊かな母体を持って いるので、地方自治の再構築には何の困難もないのである。自由インドの新政府は地方自治のために新たな政策と実施計画を呈示し、指導者に新たな指導埋念を 与えるだけでよいのである。

 国民軍

 国民軍の建設はこれよりは困難な仕事である。もちろん、インドは膨大な訓練され経験のある兵士を持ち、この戦争の結果、その数は増大され た。しかしつい最近まで、インドの軍隊は大部分がイギリス人によって指導され、高級将校は例外なくイギリス人だった。戦争状態のため、イギリスは数多くの インド人将校を無埋矢埋任命したが、高級将校はほんの数名にすぎない。戦車、飛行機およぴ重火器等の近代兵器は、以前はイギリス人に渡されていたが、状況 におされインド人にも渡されるようになった。そのためインド人高級将校の不足という状態は依然残り、国民軍の建設にはいくつかの困難が有在するだろう。こ のような観点から、インドの主要な問題は、国民軍の完全編成を十年以内に行うため、大量の将校をすべての階級にわたって短期間に養成しなければならないと いうことである。国民軍と共に、海軍と空軍も平行して、可及的すみやかに建設すべきである。ある期間インドが平和を享受でき、いくつかの友好国の援助が得 られるなら、国家の防衛組織の問題は満足な解決を得られるだろう。

 新国家

 将来のインド人国家の存在形態を云々すべきではない。可能なのは、ただ国家とその形態を決定する基本原則を示すことである。インドはこれ までいくつかの帝国を経験している。このことは我々は我々の政治的崩壊を招来した原因を考察し、将来における政治の再建を準備しなければならない。さら に、今日のインドの知識階級は現在の政治的諸状況と密接なつながりを待ち、深い関心を抱いていることを忘れてはならない。そしてまた、我々はヴェルサイユ 以後のヨーロッパの他の場所における政治的体験を考察すべきである。そして最後に、我々はインドの状況から何が必要であるかを考察しなければならないので ある。

 しかしながら一つのことははっきりしている。それは強力な中央政府が作られるということである。さもなければ秩序と治安が安全に保持され ない。強力な中央政府を支えるのは良好に組織された統制された全インド的政党であり、それが国民と一体化を進める最大の手投になるだろう。

 新国家は個人や団体の完全な宗教的自由を保証し、国家の宗教を持たない。政治的・経清的諸権利は全国民の間に完全に平等である。すべての個人が雇用、食物供給、教育、そして宗教と文化の自由を得た時、もはやインドには少数派問題は存在し得ない。

 新しい制度が確立し、国家期間が円滑に機能を始めれば、権力は分散され、地方政府により大きな権限が写えられるだろう。

 国家の一体感

 新国家の一体化のためにはあらゆる可能な宣伝手段、つまり新聞、放送、映画、演劇等を国が保有すべきだ。反国家的、あるいは国家を分断す る要素、イギリスの秘密機関に類するものが国内に存在するならば、それは完全に制圧されるべきである。適当な警察力がこの目的で組織され、国家の一体化に 反する攻撃は重く罰されるようすでに国土の大部分で埋解されているヒンドゥー語がインドの共通語に採用されるべきである。ヒンドゥー語による学校における 初等・中等教育、大学における高等教育は特別な現象、すなわち早期から国家の一体化の精神の涵養を可能にするだろう。

 イギリスの宣伝は、インド回教徒は独立運動に反対であるという印象を作り上げてきた。しかしこれは完全な偽りだ。国民的運動において回教 徒が大きな比重を占めているのが真実だ。現在のインド国民会議の総裁アサドは回教徒である。大多数の回教徒は反英であり、自由インドの実現を求めている。 回教徒あるいはヒンドゥー教徒の親英政党が宗教政党であることは疑いない事実だ。しかしこれらの政党は決して人民を代表するものではないのである。

 国家の一体感の上から、一八五七年の革命運動は偉大な実例である。この戦いは回教徒であるバハダール・シャーの旗の下に、あらゆる宗派の 人々が一体となって闘われた。それ以来インドにおける回教徒は国家の自由のために働き続けてきた。インドの回教徒問題、あるいはムスリム問題は、アイルラ ンドにおけるアルスター問題やパレスチナにおけるユダヤ人問題と同様、イギリスの人為的産物であり、イギリスの支配が払拭されれば消滅するものである。

 社会的諸問題

 新制度が確立すれば、インドは全神経を社会的な諸問題に注ぐことが可能になる。社会間題で最も重要なのが貧困と失業の解決である。イギリ ス統治下のインドの貧困は、イギリス政府によるインド工業の組織的破壊と科学的農業の欠如の二つの主要な原因に根ざしている。イギリスの統治以前のインド は必要な食糧と原料を生産し、衣料品などの工業の余剰生産物をヨーロッパその他に輸出していた。産業革命の出現とイギリスの政治的支配はインド古来の産業 構造を破壊し、イギリスは新たな工業の構築を許さなかった。イギリスはインドを意図的にイギリスの産業に必要な原料供給国にしてきた。その結果が数百万イ ンド人の失業であった。この結果、かつて肥沃であったインドの大地は痩せた荒地となり、現在の人口を養うことが不可能になった。貧農層の約七十パーセント が年間約六ヵ月働けないでいる。インドの貧困と失業問題を解決しようとするならば、工業化と科学的農業を国家目標にする必要がある。

 外国の統治下、イギリス人は支配者であるだけでなく、労働力の雇用者であり、インド人を悲惨な状況においた。自由インド国家は生活賃金、 疾病保険、事故による保障等の労働者の福祉を用意しなければならない。また同様に貧農層は過度の小作料と常識外の借金から解放されなければならない。

 このような点から、インドにとってArbeitdienst, Winterhilfe, Kraft duruch Freude のような労働者福祉の研究機関が非常に興味深いものである。次いで重要なのが公衆衛生の問題である。この問題はイギリスの支配下では未解決のまま取り残さ れている。幸いにも、現在のインドはイギリス人医師より優秀な資質の優れた多くの医師が公衆衛生に携わっている。国家の援助と財政的補助を与えることによ り、各種疾患の根絶におおいに貢献することが可能である。これにはインド古代の医療法であるアユールヴェーダやウナニも有効である。

 さらに、多くの地方で約九十パーセントにものぼる文盲という恐るべき問題がある。だがこの問題も、国家が財政的基盤を準備すれば、取り組 み不可能なほど困難ではない。職に就いていない教育を受けた男女が大勢いる。自由インドでは、こういった人々を国中に送り、学校や専門学校、大学の創設に 従事させることが可能だ。このような仕事や体験が、インドの国民が必要な教育組織の発展をもたらす、幸いなことに、サンチニケタンのタゴールの学校、ハル ドヴァールのグルカ教育機関、ベナレスのヒンドゥー大学、デリーのジャミア・ミラ(国立ムスリム大学)、ワルドハ近くのガンジーの学校などですでに経験が 積まれている。さらに我々にとって、イギリスの統治以前作られた教育機関も興味がある。

 筆記言語に関して私見を述べれば、現在国内に流布されているものとは異なり、自由インド政府はラテン文字の普及に努めるべきである。

 財政問題

 自由インドが大きな課題が要する資金をどのように得るかは非常に重要な問題である。イギリスは金銀を奪い、今では僅かしか残されていない が、イギリスはこの国を離れる前にそれらを再ぴ移動することは確かだ。インドの国家経済は当然金本位制を放棄し、金ではなく労働とその生産に基づく考え方 を受け入れるだろう。貿易は、一九三三年以後のドイツのように、バーター貿易(物々交換)を原則に、国家の統制下に行われる。

 計画委員会

 再建の諸問題を実行する際に、一九三八年十二月、私がインド国民会議議長の時、生活のすべての分野の再建計画を作成する国家計画委員会を開設したことが参考になる。この委員会は既に価値ある業績をあげ、その報告書は我々の将来に役立つだろう。

 藩王問題

 インドの藩王とその領地は時代錯誤なものであり、早急に廃止されるべきだ。イギリスがこの国の一体化を妨害するために保護しなければ、こ れらは相当前になくなっていただろう。藩王の大部分はイギリス政府の熱心な支持者であり、イタリアのリオルギメント運動(国家統一運動)においてピエモン トが果たしたのと同様な役割を演じようとする藩王は一人として存在しない。藩王領の人口はインドの全人口の四分の一であり、英国の統治するインドにおける 国民会議派に関係の深い大衆運動が存在する。藩王の大部分は領民と縁遠い存在であり、当然イギリスの統治と共に消滅するだろう。イギリスが藩王に近代的軍 隊の保有を許さなかったという単純な埋由から、藩王が自由インド政府に対する障害になることはない。これとは逆に、藩王が革命に参加するなら、居住地が与 えられるだろう。

 国際問係

 過去において、インド没落を招いた原因の一つに外部世界からの孤立がある。それ故に、将来インドは他の国々と密接に接触しなければならない。インドは地埋的に西洋と東洋の中間に位置し、これがインドの文化的、経済的、政治的役割を確かなものとするだろう。

 将来、現在インドの敵と闘っている三国同盟諸国と密接な関係を築くことが自然であろう。

 陸軍、海軍、空軍の建設と同様に、インドの迅速な工業化には、海外からの援助が不可欠だ。インドはあらゆる種類の機械、科学技術の知識や 設備と専門家が必要になる。さらに、国防力の建設には軍事専門家や兵器も必要だ。これらは三国同盟諸国が価値ある援助として用意できる。自由インドでは生 活水準が急速に上昇し、その結果消費は急激に増大するだろう。そして自由インドは工業製品の巨大な市場となりそれがすべての先進工業国にとって魅力とな る。

 そのかわり、インドは人類全体の文化と文明に何らかの貢献をすることができる。宗教や哲学、建築や絵画、舞踊や音楽、そしてその他の芸術 や手工芸において、インドは独自なものを世界に提供できる。このような進歩から判断するに、外国の支配という困難にもかかわらず、インドが学術と工業的発 展において大きな成果をあげるのは非常に速いと私は確信している。

 若いインドには成し遂げるべき巨大な課題がある。数多くの困難が起こるのは疑いないが、そこにはまた戦う喜ぴと光栄そして最終的な勝利がある。

 ドイツ脱出・インド洋上の避道逅

一九四三年(昭和十八年)四月二十六日、チャンドラ・ポースとドイツからただ一人同行した副 官のアビド・ハッサンを乗せたドイツ潜水艦UポートU一八○号は、日本梅軍の潜水艦イニ十六号との会合地点であるアフリカ大陸に近いマダガスカル鳥沖のイ ンド洋に到着した。付近の海上はイギリスの制海権下にあったので、会合地点到着後たった一度だけ無線連絡することに日独海軍の間で決められていた。U一八 ○号が弱い電波で送信すると、イニ十六号からただちに応答があった。イニ十六号も太平洋とインド洋を横切り、正確に会合地点に到着していた。方位を知らせ 合い、二十七日夜、両艦は近づいたが、インド洋は荒れ接舷は不可能だった。 

 波の静まるのを待つ潜水隊指令の寺岡大佐はボースの移乗はできないのではないかと不安にか られていた。その時Uポートから先任将校と信号兵の二人が激浪に身を踊らせ、必死にイニ十六号に向って泳ぎ出した。通信方法の異なる面国の発光信号や手旗 信号では意志の疎通が十分に行かないため、決死的行動に出たのだった。Uボートからは、ドイツに帰還するにはあと一日で出発しなければならないだけの燃料 しかないことが伝えられ、波が少しでも静まったら両艦の間にロープを渡し、このロープを伝いにゴムポートでポースたちを移乗させることを提案してきた。

 ゴムボートの軸先にじっと座るボースが前方のイニ十六号を見つめていると、副官のハッサン が「フカー!」と叫んだ。灰色にあれる波の間に鱶が三角の鰭を見せて泳ぎ、時折白い腹を見せるように飛ぴ跳ねた。さすがに豪胆なボースもこの時は肝を冷や した。ゴムボートがやっとイニ十六号の舷側にたどり着き、待ち構えていた水兵が手を差し伸べると、数時間も狭いボートの中で同じ姿勢をとり続けたボースは 思わずよろめいた。潜水隊司令の寺岡大佐と艦長の伊豆中佐が両脇からボースを抱き抱え、やっとのことでイニ十六号の甲板に立った。昼間は潜行し夜間は敵の 船影を避けるという航海で喜望峰を回る六千海里の旅を終え、インド独立の彼岸達成を目指し戦雲急を告げるアジアにボースが到着したのは、二月八日にキール 軍港を出てから七十九日目の一九四三年(昭和十八年)四月二十八日の朝であった。

 大役を果たしたU一八○号の姿が見えなくなるまでボースは甲板に立っていた。イニ十六号が 上陸地の北スマトラのサバン島に着いたのは八日後の五月六日だった。桟橋に光機関長となっていたベルリン大使館の陸軍武官補佐官の山本大佐の姿を認める と、ボースは桟橋をかけおり、山本大佐を抱き締め「私はこの喜ぴを天地と神に感謝する」と言って大佐の手を強く握りしめた。

 五日後の五月十一日、ボースは山本大佐などと東京へ向った。ペナン、サイゴン、マニラ、台 北、そして浜松を経由したが、ボースの日本行きは最高機密であり、ポースは途中では宿舎を一歩も出ず、髭も伸ばしたままで、「松田」という日本名を使用し た。その名前はゾロアスター教の善神で光の神MAZDAからとったものだった。

 イ26号を離艦するにあたり将兵に対する感謝の言葉
 

「この潜水艦の旅は非常に輪快だった。この旅を可能にしてくれた大日本帝国政府に多大な感謝を申し 上げたい。潜水艦司令は私と副官に旅の全行程で家庭にあるかと思わせる扱いをしていただいた。ここに司令以下すべての乗員が我々に示してくれた好誼に心か らの感謝の念を捧げたい。この艦による航毎は私の全生涯にわたり素晴らしい思い出として残るだろう。私はこの航海が勝利と平和への一歩であることを信ずる ものである。スバス。チャンドラ・ボース」

 ビハリ・ボース氏との対面

 五月十六日、東京に到着、ボースの宿は帝国ホテルに用意されていた。翌日、参謀本部情報部 長の有末精三少将に案内され、ただちに杉山元陸軍参謀総長を訪れたボースは、開口一番「日本はアッツ、キスカを占領する兵力があるのに、なぜただちにイン ドに進攻しないのですか。日本軍の支援を得て私を先頭にインド国民軍がベンガルに進攻、チッタゴンあたりに国民軍の旗を立てさえすれば、かならず全インド は我々に呼応して反乱し、イギリスはインドから出ていかざるを得なくなります」と、思うところを語った。有末少将はポースのインド独立にかける意気込みを 知らされた思いがした。インド駐在武官の経験もある杉山総長は、インド進攻作戦に以前から積極的だったが、参謀本部作戦謀では広いインドの作戦は大兵カが 必要と考え実行を躊躇していたから、返事のしように困り、かたわらの有末少将に「なにか適当な答えはないかね」と、少々困惑の体であった。

 しかし、杉山参謀総長は一時間奈りの会談で、すっかりボースの人物に魅了され、全面的支援 を約束し、激励した。その後嶋田海軍大臣、永野軍令部総長、重光外相等とつぎつぎに会談し、協力の約束を得ることができたが、陸軍大臣を兼ねていた肝腎の 東条首相にはなかなか合うことができなかった。その埋由は、インド独立連盟(IIL)インド国民軍(INA)が日本からの援助要請はしても、常に日本から の独立性を保とうとしたことと、ポースが国民会議派左派の領袖であり、社会主義的傾向を持っていると聴いていたためだったと言われている。

 東案英機首相との会見を待つポースを慰めるため、ある日杉山参謀総長はポースと星ヶ丘茶寮 に昼食をともにした。この席には二十八年前に日本に亡命し、参謀本部のバックアップでインド独立連盟総裁に就任していたラス・ビハリ・ボースも招かれてい た。これは二人のボースの関係を見定め、親和を図る意味もあった。が、スバス・チャンドラ・ボースはラス・ビハリ・ボースに対し、常に独立運動の先輩に対 する敬意を払い、階段の昇り隆りにはビハリ・ボースの手をとり、上着をかけるような気配りをし、ビハリ・ボースは乾杯の音頭はかならずチャンドラ・ボース に譲り、本国の独立運動の指導者に対する尊敬の念を表していた。この光景を目のあたりにした時の言い知れぬ安心感と感激を列席した有末少将は今もって記憶 している。

 日本、独立支援を確約

 六月十日、東条首相との会見が実現した。東条首相はボースに会うとたちまちその入物に魅せ られ、「さすがに英雄だね、頼もしい人物だ。インド国民軍を指揮する資格は十分にある」と感想を述べている。ボースにはさわやかな弁舌、高度な知識の他 に、風采、容貌、表情に独自の魔力にも似た人を惹きつける空気を持っており、たいていの人間を初対面で魅了することができた。それは若くしてガンジー、ネ ルーと並ぶ会議派の巨頭となり、大衆政治家として衆望を集めた大きな要素であった。四日後、第二回目の会談が行なわれ、率直な話し合いとなり、ボースが 「日本は我々の独立にヒモのつかない援助をしてくれますか」とずばりたずねると、東条首相は快諸し、そしてポースが傍聴した帝国議会の演説で「我々は日本 がインドの独立を援助するために、可能な限りをつくすよう、ここにかたく決意するものであります」と明確な約束をした。

 それまで秘密にされていたポースの日本滞在が六月二十日の新聞ではじめて公表され、大東亜共果圏のために戦っていると考えていた日本の国民各層にある種のセンセーションで迎えられた。この時、新聞に掲載された日本国民に対する声明で、ボースは次のように語っている。

「日本こそは十九世紀にアジアを襲った侵略の潮流を食い止めようとした東亜で最初の強国で あった。一九○五年のロシアに対する日本の勝利はアジアの出発点であり、それはインドの大衆に熱狂的に迎えられたのであった。アジアの復興にとって過去に おいて必要であったように現在も強力な日本が必要である。――インド人大衆は独立運動の埋論闘争には何らの関心を示さず、ただ一筋にインドの政治的・経済 的解放を熱望しているのであるから、当然インドの独立を支援してくれる勢力はすべてインドの友である」

 さらに六月二十一日、ボースは東京から祖国インドに向けた最初の放送を行ない、次のように呼びかけている。

「インド人たちよ、私はいま東京に在る。大戦が勃発したとき、会議派のある者は、圧力と妥協 によってイギリスから自治と独立への譲歩が引き出せると考えた。しかしイギリス帝国主義は徴動もしていない。イギリスが自発的に植民地を放棄すると期待す ることこそ真夏の夜の夢にすぎない。一九四一年から四二年に行なわれたような引き伸ばし交渉は、独立闘争を横道にそらせ、インド人の独立意識を低めるため に計画されただけだ。われわれの独立に妥協は許されない。真に自由を欲するものは、自らの血をもって戦い取らねばならぬ」

 インド独立連盟総裁・インド国民軍最高司令官に就任

 約ニヵ月の東京滞在は大きな成果をおさめ、七月二日、チャンドラ・ボースはビハリ・ボース を伴い、日本占領下のシンガポールに姿を現した。空港にはインド独立連盟やインド国民軍の首脳陣ほか大勢の在住インド人が出迎え、熱狂的歓迎をくりひろげ た。白い背広姿で飛行機から降り立ったポースはインドの少女から花輪を首に飾られ、国民軍将兵を閲兵した。

 二日後の七月四日、インド独立連盟の大会が挙行され、総裁のビハリ・ボースがチャンドラ・ ボースを新総裁に推挙すると、それは満場の拍手で承認された。新総裁として演壇に立ったチャンドラ・ポースは自由インド仮政府樹立計画を発表――インド国 民軍の最高指揮官として会場を埋めつくしたインド人に向い、「我々の前途には冷酷な戦闘が待っている。自由を手にするための最後の前進において、諸君は危 険と飢渇と苦しい強行軍と、そして死に直面しなければならない。この試練を乗り越えたときのみ、自由が得られるであろう」と訴えると、熱狂したインド人聴 衆は「自由インド万歳、ネタジ万歳」の声をあげ続けた。この時以来、チャンドラ・ボースはヒンドゥー語で「統領」あるいは「指導者」という意味の尊称であ る「ネタジ」と呼ばれるようになるのである。翌五日、マニラから飛来した東条首相とのインド国民軍の分列行進を閲兵し、ポースは将兵たちに次のように呼ぴ かけている。

「兵士諸君!これからのわれわれの合い言葉は『チヤロー・デリー』(デリーヘ進軍)としよ う。われわれのうち果たして何人が生き残って自由の太陽を仰げるか、私は知らない、しかし私は知っている。われわれが最後の勝利を得ること、そしてわれわ れの任務は、生き残った英雄たちがデリーのレッド・フォートで勝利の行進をするまで終らないことを」

インド国民軍の再建

 七月九日、シンガポールの中央公園で開かれた大衆集会には、マレー、シンガポール在住のほ とんどのインド人六万人が集まり、開始早々のスコールにもかかわらず、最後まで誰一人として帰ろうとするものはいなかった。ボースは東南アジアすべてのイ ンド人の力を結集することを訴え、インド独立のためには三十万人の兵士と三干万ドルの資金を求めた。集会が終ったとき、ポースの前のテープルには、聴衆の 差し出した紙幣や、婦人たちが身につけていた宝石や貴金属が山のように積まれていた。

 この集会で、ポースが女牲も独立の戦いに参加できるよう婦人部隊編成計画を述べると、著い 女性たちがその場で続々と志願した。この部隊は、一八五七年のセポイの反乱の指導者でジャンシー王国王妃のラクシュミーバイイーにちなみ、ジャンシー連隊 と命名され、隊長には偶然にも王妃と同名の独身の女医ラクシュミ・ソワミナサンが選ばれた。女性部隊は日本軍には想像もできなかったが、ポースは「女性ま で独立戦争に銃を執って立つというインド人の決意を示すために必要なのだと言い、この女性部隊に後方勤務だけでなく、戦闘訓練も実施した。

 このように、インド独立連盟の総裁に就任し、インド圏民軍の最高司令官となったボースは四 二年末のモハン・シン事件で混乱し、士気の低下していた国民軍の再編成に心を砕いた。ボースは国民軍を単なる部隊ではなく、インド独立軍の中核組織として 提え、幹部には時間をかけてその分担と責任を徹底させた。ボース自身は最高司今官ではあったが、軍隊内の階級は持たなかった。かつて英印軍内で階級の下 だったものが上級者の上に立つことが、国民軍内で無用の軋操の原因となっていたためであった。一九四三年八月、インド国民軍の新たな陣容が整った。

参謀長    J・K・ボンスレー大佐
作戦部長  シャ・ヌワズ・カーン中佐 作戦・計画・情報。訓練
総務部長  N・S・バガット中佐 管埋行政・ー般命令示達
後方部長  K・p・シッマヤ中佐 補給・整備
教宜部長  ジャハンジール中佐 教育・宣伝
医務部長  A・D・ロガナダン中佐

 ボースはインド国民軍の急速な拡大・整備を望んでいた。国際情勢を得るために睡眠時間を切 り詰めても海外の短波放送を聴き、情報の把握と分析に努め、周囲の者が、ネタジはいつ眠るのだろうと思うほどであった。当時の情勢について、ボースは「自 分はここにくるのが一年以上も遅れてしまった。その問に日独伊枢軸の優勢も崩れ、英米は日に日に体制を建てなおしつつある。そうなれば長い植民地統治で事 大主義に染まっているインド入はイギリスと妥協しようとする傾向が強まるのは必死だ。急がなければならない」と述べている。

 独立国家・対等の同盟軍

 七月二十九日、ラングーンに飛んだポースは、ビルマ方面軍の河辺正三司今官と面談し、「た だちに海岸沿いに、あるいは海路チッタゴン、カルカッタヘ進攻すべきです。その際はインド国民軍を先頭に立てていただきたい。われわれの旗が独立革命の聖 地ベンガルに翻りさえすれば、インド民衆はこの旗のもとに集まり、全土に反乱の火が燃えひろがり大混乱に陥るでしょう。そうなればイギリス軍も必ず逃げだ します」と、インド進攻を熱心に説いている。河辺司令官には、ボースの即時インド進攻論は無謀とも思えたが、ボースには確固たる考えがあった。方面軍作戦 謀長の片倉大佐に対し、ボースは戦略的見通しについて、次のような内容を述べた。

「この戦争を契機にインドの民衆が武装闘争・反乱に踏み切らなくてはインド独立は達成できな いことをガンジーに説いたが、ガンジーは反対したため自分は国外に脱出し、援助をドイツや日本に仰いだ。したがって反英独立闘争のためには、イデオロギー に関係なくどの国とも手を組むつもりであること。またインド国民に対する大きな宣伝効果と革命の進撃を促すため、インド国民軍を日本軍に組み入れるのでは なく、独自の作戦正面を担当させプほしいこと。そしてこの戦争が長期戦になると思われるので、インド国民軍を拡大し、精強な軍隊にしなければならないこ と。同時に国際情勢が枢軸国に不利であるため、インド民衆が連合国側に引きずられ、イギリスとの妥協を防ぐためにも、できるだけ早期にインド進攻を実行す ること、そのためにはインド国民軍がインド国内に進撃して独立旗を立て、臨時政府を樹立し、独立運動の急進派を引き込むこと。そしてこの臨時政府を日本が 支援すればその勢力はますます拡大すると」

 ボースはインド国民軍を日本の補助部隊ではなく、独立した日本の同盟軍としてできるかぎり 対等の立場を堅持することに努めた。インド国民軍の再編成が終った八月に、ボースは日本の南方総軍司令部に軍司令官寺内元師を訪ね、元師から「戦闘は日本 軍に任せていただきたい。インドがイギリスの支配から解放されれば、その時独立した領土としてあなたがたに進呈しよう」と言われたボースは「いや、われわ れは先頭を努めたいのです。インドの大地に最初に流す血はインド人の血でなければなりません」と決意のほどを述べている。

 インド国民軍が傀儡軍ではなく同盟軍の立場を確保するために、ボースはどうしても譲らな かった問題がある。それは敬礼の問題である。日本軍の中にはあまりにも形式にこだわりすぎるという声もあったが、ボースは「英印軍でも、イギリス兵はイン ド上級者に対して敬礼します。われわれはこれを勝ちとるために血さえ流したのです」と粘り、ついに認めさせたのである。

 自由インド仮政府

 インド国民軍が独立した国家の軍隊であるためには仮政府樹立が急がれた。東条首相もすでに 七月の閲兵の際に原則的同意をしていたが、ついに一九四三年十月二十一日、シンガポールに自由インド仮政府が正式に設立された。東南アジア全域から集まっ たインド人同胞を前に、ボースは独立宣言を読み上げた。仮政府は日本、ドイツ、イタリア、満州国、フィリピン、タイ、ビルマなどから承認され、二十四日、 自由インド仮政府はイギリスとアメリカに対する宣戦布告を発表、ボースが「私は諸君にこの宣戦布告を承認していただきたい。もし諸君がこの世にもっている すべてを投げうち、生命を捧げる用意があるなら、どうか起立してほしい」と叫ぶと、聴衆はこぞって立ち上がり、銃を捧げ、熱狂した「ネタジ万歳!チヤ ロー・デリー!」の歓声が響きわたった。発足当時の自由インド仮政府は次のような内閣を組織し、ボースは国家首席であると同時に首相と国防相と外相を兼ね ていた。

  大蔵大臣 A・C・チャタージ中佐
  宣伝相  S・A・アイヤー
  無任所相 A・M・サハイ
  最高顧問 ラス・ビハリ・ボース
  法律顧問 A・N・シルカル

 大東亜会議

 東京で十一月五日から開かれた大東亜会議に、ボースはオプザーバーとして出席した。出席者 は日本の東条首相、中国(南京政府)行政院長汪兆銘、満州国総埋張景恵、フィリピンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのワンワイタヤコン殿 下等であった。ボースがオプザーバーという位置を選んだのは、インドを大東共栄圏には含めないと彼の意見が日本政府の見解と一致したからであった。ボース の人物は出席した国々の人物をまったく圧倒しており、それは二日目にビルマのバ・モウ首相がインドに関する動議を提出し、満場一致で「自由獲得のためのイ ンドの闘争に、同情と全面的支援を与える」という決議を採択したのに答え三十分の演説で最高潮に達した。

 ボースはまず「この決議ははるかに議事堂の壁を越えて、イギリスの圧追下に苦しむわが幾億同胞に希望と感銘をもたらす」と演説をはじめ、最後に次のように述べている。

「インドに関するかぎり、われわれの運命は日本およぴその盟邦の今次大戦における運命と不可 分にある。インド国民軍の何人かがきたるべき闘争に生き残るかはわからない。しかし個人の生死や行き残って自由インドを見られるかは問題ではない。ただ一 つの関心は、インドが自由になるという事実、イギリスとアメリカの帝国主義がインドがら駆逐されるという事実である。本日満場一致で採決された大東亜宣言 がアジア諸民族の憲章となり、全世界の民族の憲章をなることを祈る。願わくば、この宣言をして、一九四三年以後の新憲章として世界史上に証明されんこと を」

 この演説のあと、東条首相はインド独立の第一段階として、日本軍が占領中のインド領アンダ マン、ニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させるという重要な発言を行なった。面積八一○○平方キロ、人口三万三○○○ではあったが、ここに自由インド 仮政府は自身の領土を持つ独立国家の形を整えたのである。

 IIL総裁就任演説(一九四三(昭和十八)年六月四日、シンガポールにて)

 しかし今や非暴力、不服従による運動は次の段階に移るべき時期が到来している。イギリス帝 国主義に対し、武装して立ち上がることこそ新しい組織の目標であり、目的である。これを実現するためすべてのエネルギーと武力を動員可能にするため、私は 自由インド仮政府を組織する計画である。われわれの革命が成就し、アメリカ・イギリス帝国主義者が印度から駆逐されれば、インド仮政府はその使命を終え、 インド国内にインド国民の意志により恒久的政府が樹立され、そこで仮政府は新しい政府に政権を譲るであろう。

 征け征けデリーヘ(岩原唯夫氏の資料による)

  一、征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国圏差して
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    進軍の歌ぞ高鳴る
    我等の勇士よ眦あげて
    見よ翻るよ独立の旗

  二、征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して
    征け征けデリーよ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目指して
    聞かずやあの声自由の叫ぴ
    屍踏み越え征けよ強者
    赤き血潮もてわが旗染めん
    征け征けデリーヘ母の大地へ
    いざや征かんいざ祖国目差して

 昭和十九年の春、インパール作戦の成功を予想して編成されたビルマ派遣の大本営特別班に加 わった作曲家の古関裕面氏は、ビルマのINAを見学した。この時INAの兵士たちが歌っていた歌を自ら採譜し、日本語の歌詞をつけたものが「征け征けデ リーヘ」として日本に紹介された。力強い中に民族独立の悲願がこめられ、日本の軍歌とは異なった雰囲気が伝わってくる。インド語原文は六七貢参照された い。

 曲は、東京12チャンネルの人気番組「あ丶戦友あ丶軍歌」で復元された。
  
 自由インド仮政府首席就任演説(一九四三(昭和十八)年十月二十一日)

 私は神の御名にかけて、インドとその三億八千万国民を解放することを誓う。私は死の瞬間までこの誓約を守るであろう。私はインド国民の自由のためにはあらゆる努力を傾けるであろう。さらに私はインド解放の後にもインドのためにこの一身を棒げることを誓約する。

 対米英宜戦布告(一九四三年(昭和十八年)十月二十四日、シンガポールからの放送より)

 イギリスはアメリカに助けられている。チャーチルはルーズベルトの前にぴれ伏し、援助を願っているのに、インドが他の国から援助を受けられないということはないのである。

 大東亜会議のボースについての報道(一九四三年十一月五日、東京)

 我がチャンドラ・ポースの存在はこの会議を通じて大東亜地域に大きな光輝となった。彼自身 にとっても、この一日こそ、その東亜における二年有奈余の活躍期間における最も栄あるひと時となった。後世の史家が大東亜会議そのものの歴史的価値をいか に批判しようとも、この日全インドの運命を双肩に担って立ったチャンドラ・ポースの確固たる雄姿は、決してその史眼から拭い去られることはないであろう。

 参加者:バー・モウ(ビルマ)、張景恵(満州国)、汪精衛(中国南京政府)、ワンワイタヤコン(タイ)、ポセ・ラウレル(フィリピン)、スバス・チャンドラ・ボース(インド)

 汪精衛(中国南京政府)のチャンドラ・ボース感

 私はこの程大東亜会議において自由インド仮政府主席S・C・ボース氏に会う幸運に恵まれ た。彼は会議の間は沈黙を守っていたが、最後にその所信を披瀝した。堂々たる体殖と魁偉な容貌、精力に溢れ、感動的で知力に満ちた講演者だった。彼は十一 回投獄され、断食を七回行った。これらのことが自由の戦士として彼を鍛え上げている。イギリス、ドイツで教育を受けた実に聡明な人物である。

 INA の進軍歌

   Kadam kadam barhae ja 
 

        kadam kadam barhae ja 
        khushi ke git gae ja 
        ye zindagi hai kaum ki 
        tu kaum pe lutae ja 
               tu sher Hind age barh 
               marne se kabhi na dar 
               falak talak uthake sar 
               joshe vata n barhae ja 
        himmat teri barhti rahe 
        khuda teri sunta rahe 
        jo samne tere are 
        tu khak men milae ja 
               chalo Dilli pukar ke 
               kaumi nishan samhal ke 
               Lal kite pe gar ke 
               lahrae ja lahrae ja 

 自由インド仮政府制定国歌   National Anthem (PATRIOTIC SONG) 

       1. Subh SukhChain ki barkha barse; Bharat bhag hai jaga 
          Punjab, Sind, Gujrat, Maratha; Dravid, Utkal, Banga 
          Chanchal Sagar Vindh Himala; Nila Jamuna Ganga 
          Tere nit gun gayen; tujh se jiwan paen; 
          Sab tan paye asha 
          
          Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho; Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho, 
          Bharat naam subhaga 
       
       2. Sab ke dil men prit basae; teri mithi bani 
          Har sube ke rahne wale; har mazhab ke prani 
          Sab bhed our farak mita ke; sab god men teri ake, 
          Goondhe prem ki mala 
          
          Suraj ban kar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya ho, 
          Bharat naam subhaga 
       
       3. Subh savere pankh pakharu;tere hi gun gayen 
          Bas bhari bharpur hawaen; jiwan men rut layen 
          Sab mil kar Hind pukaren; Jai Azad Hind ke nare piara desh 
          hamara 
         
          Suraj bankar jag par chamke; Bharat naam subhaga 
          Jaya ho, Jaya ho, Jaya ho, Jaya, Jaya, Jaya, Jaya Ho, 
          Bharat naam subhaga 
          
          Jai Hind 
                          岩村唯夫

 日印共同作戦-INA進軍


 二十一号作戦から「う」号作戦へ

 東京で大東亜会議が華々しく開催されたころ、太平洋と東アジアの戦況は大きく変化しようとしていた。アメリカ軍はギルバート諸島に上陸、 本格的反攻に転じようとしており、ビルマ戦線ではウィンゲート挺身旅団がアラカン山脈とチンドウィン河を越え日本軍の後方に侵入、鉄道破壊などの撹乱をは じめていた。ビルマ防衛の天険であるアラカン山脈が簡単に突破され、日本軍では英印軍のビルマ奪回作戦の拠点であるインパールを攻略し、防衛戦を西に進め る作戦が急に浮ぴ上がった。インド進攻作戦は、以前「二十一号作戦」として検討されたが、日本軍と運合国軍の戦力の差がありすぎるという理由で無期延期さ れていた。一九四三年(昭和十八年)三月二十七日にビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺中将、麾下の第十五軍司令官に牟田口中将が就任したころか ら、これがインパール作戦と姿を変え、ふたたぴクローズアップされる。

 方面軍や各師団の中には補給の困難さ、英印軍の増強、航空勢力の劣性を理由として作戦実行には多くの困難があるという声も依然として少な くなかったが、第十五軍司令官牟田日廉也中将はインパール作戦の実施を強力に押し進め、河辺ビルマ方面軍司令官も、各方面で意気のあがらない全般的戦況を インド方面の作戦で変えようと考えていた東条首相や杉山参謀総長の意向になるべくなら沿いたいという気持ちだった。六月二十四日にラングーンで以後の作戦 構想を決定する兵棋演習が実施された。本来はビルマ防衛強化を目的としていたが、演習はインド北束部の要衝インパールを攻略して防衛線を前進させる構想で 進められた。

  註 兵棋演習 地図の上で兵力や装備を表わす駒を使って行なう戦闘の図上演習、現在の戦争シミュレーション。

 そして八月十二日には大本営が作戦準備を許可し、ビルマ方面軍から第十五軍に対し「う」号作戦と呼ばれるインパール作戦の作戦準備要綱が 示され、第十五軍はマンダレー近くのメイミョウで二十五日に兵棋演習を行ない、牟田口司令官はインパール攻略のみならず、さらに北のディマプールまで突進 する構想で演習をリードした。八月二十六日、ボースは第十五軍の新参謀長久野村少将と、曽て藤原機関長としてインド国民軍と関係が深かった当時十五軍の参 謀の藤原少佐の訪問を受けた。久野村少将はドイツ駐在の経験があり、会談はドイツ語で進められ、ポースは牟田口軍司令官のインパール進攻作戦ではインド国 民軍と緊密な連合作戦を行いたいという意向を伝えられた。インド国民軍を率いてインド領内へ進軍する機会を待ちこがれていたボースが勇躍したことは一言う までもなかった。

 ちょうどこの八月、カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議で、インドと中国を結ぶビルマルート再開を目指す北部ビルマ奪回作戦 が翌一九四四年二月中句実施と決定された。そしてインドのニューデリーに東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官にはイギリスのマウントバッテン将軍が 任命された。決戦の機は熟していた。

 日印共同作戦

 十二月二十八日、南方総軍がインパール作戦決行を決め、翌一九四四年(昭和十九年)一月七日に参謀本部が認可、作戦実施命令が出された。 その日の午後、ラングーンのビルマ方面軍司今部を訪れたボースは、河辺司令官の「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」 というあいさつに、「今ここに神に祈ることがあれば、それは一日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念につきる」と決意を述べた。
                    
 当初予定されていた二月半ばの作戦開始は、参加師団の到着を待ち三月八日になった。自由インド仮政府とインド国民軍はラングーンヘ進出し、作戦 に先立ち日本軍とインド国民軍の合同幕僚会議が作られ、インパール攻略後の、占領地行政が論じられた。ボースは、これまでのように占領地に日本軍が軍政を 敷くのではなく、ただちに自由インド仮政府に警察を含め、すべての行政権を与えることを求め、これが認められた。さっそく、ポースは占領地の復興に必要な 技術者を葉め、耕作労働者や穀物の種まで用意し、さらに占領地で使う仮政府発行の紙幣の印刷まで行なっている。インド進攻を目指す国民軍は二個師団がすで に編成清みで、一個師団が編成中だった。当時のインド国民軍の建制は次のようになっている。なおインパール作戦に参加したのは第一師団だけであり、その第 一連隊の正式名称はネルー運隊だったが、将兵はスバス連隊と呼ぴ、ポースへの敬愛の情を表わしていた。

  第一師団 師団長 M・Z・キアニー大佐
   第一連隊(スバス連隊)  連隊長シャ・ヌワーズ・カーン中佐
   第二連隊(ガンジー連隊) 連隊長I・J・キアニー中佐
   第三連隊(アザード連隊) 連隊長グルザラシン中佐
   第四連隊           連隊長アルシャッド中佐
  第二師団  師団長アーメッド・カーン中佐  マレーから移動中
  第三師団  師団長ナガル中佐  シンガポールで編成中

 インド国民軍の進軍

 作戦計画の大綱は、第三十一師団がインパールの北百キロのコヒマに突進、第十五師団は東北方面からインパールを攻略し、第三十三師団の山 本支隊がパレルからインパールへ突進、第三十三師団主力がトンザンを経て南西からインパールを攻略するというものだった。インド国民軍は、第三十三師団主 力の南、チン高地のハカ、ファラム地区の守備につき、その側面を援助するとともに、第四十四、四十五師団がアキャブで展開する攻撃の目標がチッタゴンであ るように見せかける陽動作戦と呼応し、海岸沿いにチッタゴン方面に進撃することになった。ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵した。 インド国民軍の将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」の歓声で激励に応え、マンダレーヘ進発した。

 磯田中将が機関長となった光機関は作戦開始に先立って、国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。

 ある工作隊は、前面の英印軍のイギリス人大隊長が司令部に出かけて留守であるという情報を入手し、武器を持たず光機関員とともに寝返りの 説得に行った。接近し英印軍が射撃をはじめると、国民軍工作員が光機関員の前に出て、ヒンドゥー語で「日本人を殺すな!われわれインド人の独立のために 戦っているんだ!」と叫ぶと、射撃は一時は正むが、今度は声のする方に射ってくる。すると光機関員が立ち上がってヒンドゥー語で「同胞を射つな。射つなら まず俺を射て、俺はお前たちに話に行くところだ。武器は持っていない」と叫ぶ。このくりかえしに相手は根負けし、とうとう留守番のインド人副隊長の所へ案 内され、一晩がかりで日説き落とし、ついに一個大隊全部が国民軍に寝返るということも起きている。

 立体防御の円筒形陣地

 しかし、作戦開始予定日である三月八日の三目前の五日、北部ビルマにウィングート旅団の侵入が行なわれた。八十三機の輪送機と八十機のグ ライダーによる二個旅団による大規模なもので、強力な戦闘機による支援を受けていた。ビルマ方面軍の航空戦力は爆撃機と戦闘機をあわせて百機に満たなく、 大部分をウィンゲート部隊の攻撃に向けたため、インパール作戦の地上部隊に対する支援にはごくわずかしか振り向けられなかった。
 

 作戦開始直後、作戦は順調に推移し、一度はコヒマの一部を日本軍が奪ったが、英印軍は円筒形陣地を構築し、頑強な抵抗を続けた。分断包囲 されると直径十数キロの円形に集結し、中央に重砲を置き、円周には戦車と機関銃を配置して日本軍の突撃を退けようとするもので、食料・弾薬は毎日のように 輸送機で空輸するという、これまでの常識では考えられなかった空陸共同の立体的防衛戦闘法である。日本軍の各師団は険しい山中の移動のため、重砲や野砲を 持たず、山砲や重機関銃も規定の半数しか携行しなかった。三週間でインパールを攻略する予定でいたため、弾薬も最小限しか持たず、二十日分の食料しか用意 していなかった。

 スリム中将の指揮する東部インド国境を守る英印軍の基本構想は、人的損害を避け、分断・包囲にあえば円筒形陣地を構築したり後方の拠点に 後退し、満足な装備を持ずに日本アルプスに匹敵するビルマ西部の山岳地帯を越え、補給線の伸ぴた日本軍を平野部の出口で迎え撃つというものだった。シンゼ イワに陽動作戦を実施した第五十五師団の花谷正師団長は、前線を訪れた方面軍情報参謀の全富興志二少佐に、「むこうの師団長は豪気なもんだよ。毎日八時に なるときちんと天幕から出てきて、犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と苦笑しながら語っている。日本軍は食料や弾薬の補給をほとんど得られず、孤 立しているとはいえ豊富な支援を受ける円筒形陣地にてこずったのである。

 インパール作戦は牟田口中将の考えていたように二十日間で終了しなかった。第三十三師団は逃げ遅れた第十七インド師団を包囲したが、頑強 な抵抗を受け、戦車連隊などの増援を得た敵の反撃にあい、三月末に退路を開放してしまった。三月十九日に国境を突破した第十五師団は二十三日にはインパー ル東北のサンジャック前面に進出、二十九日にはコヒマヘの街道を遮断したが、英印軍の猛反撃に阻正され、それ以上進むことができず、牟田口軍司令官から前 進が遅いという叱責の電報を受けとっている。また北からコヒマに向った第三十一師団は三月二十一日にウクルルを占領し、二十二日にはサンジャック北側の高 地を攻撃したが攻略には失敗した。四月五日、宮崎少将指揮下の第三十一師団の支隊はコヒマの一角に突入したが、南西に強靱な円筒形陣地を築いた英印軍は増 援軍を加えて反撃し、両軍は死闘を繰り返していた。

 最大の敵、雨期到来

 一九四四年(昭和十九年)四月六日、戦線はすでに膠着状態を呈していたが、ポースは司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出 発した。インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関を運営する人員も同行していた。戦場の正確な状況を知ることができず、第十五軍司令部からの勇ま しい報告しか入っていなかったためだった。このころ第十五軍の司令部ではコヒマ占領が完全にできたと判断し、ディマプール進軍を命じたが、独走を懸念した ビルマ方面軍は追撃中止を命じている。戦線の近くに進出したボースは、軍司令部で聞いたのとは様子が異なるのを知り、インパール作戦の難行に気がついたら しい。五月十目、インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知ったポースは、これはイギリス軍が日本軍に対する勝利の目安をつけたためと判断し、ビルマ 方面軍の河辺司令官にあてて、インパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を打っている。

 チン高地を制圧したスバス連隊の第一大隊は五月十六日、第三十一師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けた。コヒマまでは途中にナガ山地 を越え五百キロを越す距難を踏破しなければならなかったが、祖国進軍に勇躍した国民軍は、入院中の兵士が病院を抜け出してまで参加して出発した。しかし、 補給が満足に準備されていなかったため、国民軍が進軍を開始してからは、一粒の米も支給されなかった。

 これはインド国民軍に限らす、日本軍将兵への補給も同様だったが、作戦のための移動は自動車で行ない、食料の補給は指揮官の責任で行なわ れるものと考える国民軍の将兵にとって常識を外れた現象だった。国民軍と行動を共にしていた光機関の将校は、武土は食わねど爪楊枝、補給がなければ現地で なんとかするという日本軍の考え方との板挟みになっていた。光機関の将校は大部分が中尉か少尉だったが、任務はインド国民軍に対する「内面指導」を行なう ことあるとされていた。しかしインド国民軍では単なるリエゾンオフィサー(連絡将校)として扱い、インド国民軍の要求を日本軍の上部機関に伝えることがそ の任務であると考えていたことからくる行き違いもそれに加わっていた。

 さらに日本軍とインド国民軍の行動を困難にしたのは雨期の早期到来だった。インドとビルマの国境地帯は年間雨量は八千ミリにも達し、現地 人が「虎も出歩かない」というほど強い雨が続く。道路は寸断され、乾期の小川が濁流となり、低地はたちまち泥沼と化してしまう。例年雨期の最盛期は六月か ら八月にかけてだが、この年は四月に入ると雨期が本格化し、英印軍にはプルドーザーなどの機械力があったが、日本軍とインド国民軍には人手に頼る人海戦術 しか方法がなく、補給なしで山地で行動する兵士たちの体力をさらに消耗した。

 補給なき戦い

 シャ・ヌワーズ・カーン中佐の指揮するスバス連隊は半月の雨中の難行軍の末、六月はじめコヒマの南に到着した。しかし、五月二十五日、第 三十一師団の佐藤幸徳師団長は、第十五軍から一ケ月も一発の弾丸、一粒の米も補給されないことを激怒し、「六月一日までにはコヒマを撤退し、補給を受けら れる地点に向い移動する」という電報を軍司令部にすでに打電していた。牟田口軍司令官が翻意を促したが、佐藤師団長は、「善戦敢闘六十日におよぴ人間に許 されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。――いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に 撤退を命じた。

 佐藤師団長はシャ・ヌワーズ・カーン中佐を訪れ、師団とともに撤退することを勧めたが、中佐は「自分も部下もはじめて踏んだこの祖国の地 から去ることはできない」と抗議し、「インパール攻略はいずれ再開されるから、その時に本分を尽くせ」という説得にも耳を貸さず、インド国民軍第一師団司 令部の位置まで後過し、その指揮下に復帰することを申し出た。この申し出が六月二十二日に許可されたことを聴いたポースはすぐにビルマ方面軍の河辺司令官 を訪れ、「ただちに第一線へ視察と激励のため出発したい」と伝え、危険であると引き止める河辺司令官に、「残りの国民部隊をすべて第一線に投入したい。婦 人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のためこれ くらいの犠牲は甘受し、日本軍と協力して目的を完遂したい」という決意を述べている。

 インパール作戦の中止

 雨期の最盛期の撤退行でスバス連隊は半数近い犠牲を出しながら、ガンジー連隊、アザード連隊への支援合流を目指してタムに到着したが、そ こで聞いたのは命令変更で国民軍第一師団には復帰できないということだった。シャ・ヌワーズ・力ーン中佐たちは、ことここに至っては日本軍と行動を共にせ ず、スバス連隊は独自にイギリス軍と戦おうという決心をした。電報でこれを知らされたボースがカレワヘの撤退命令を出し、スバス連隊はやっとそれに従った のである。

 パレルの英印軍航空基地正面に進出したが、追撃砲だけの装備で敵の圧倒的な砲火に撃退させられ、崩壊に瀬していた山本支隊を支えていたガ ンジー連隊とアザード連隊も、補給の少なさに悩まされていた。道路が通じていたためときどき補給が行なわれたが、十分ではなく、ヒンドゥー教徒の最高の禁 忌である水牛を殺して食べるほどだった。いったん国民軍に投降した英印軍の兵士が、「独立の大義は埋解できたが、こんな生活では将来に希望がまったくな い」という置き手紙を残して姿を消したこともあった。

 敵に退路を開放し、作戦失敗を悟った第三十三師団の柳田師団長は作戦中止を具申し、牟田日軍司令官から指揮権を剥奪され、すでに五月九日 に解任されていた。重病の第十五師団の山内師団長も五月十五日に更迭され、独断撤遇命令を出した第三十一師団の佐藤師団長も七月七日に解任された。第十五 軍は指揮下の三個師団の全師団長が作戦中に解任あるいは更迭されるという異常な事態となって、だれの目にもインパール作戦の失敗は明らかだった。ビルマ方 面軍が第十五軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退する命令が出されたのは七月十二日だったが、日本軍とインド国民軍の将兵には、陸空 からの追撃を受けながら雨中の敗走が残されていた。

 インパール作戦には約六千名のインド国民軍の将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか二千六百名で、その内二千名はただちに 入院が必要だった。四百名が戦死し、千五百名が飢餓と病気で死亡し、八百名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの七百名が行方不明となった。

 この作戦がいかに悲惨であったかはそれ以外の損害の比率にはっきりと表れている。


 インド国内の同志への呼びかけ(ボースのラジオ放送)


     一九四四年三月初旬、シャヌワーズカーン中佐の率いるINA一個連隊がハカ、ファ
     ラム地区に進み、インド国内に進出した。この呼ぴかけは、三月二十日、ボースが
    ラングーンから自由インド放送を通じインド国内の同志に対して行なったものである
 自由インド仮政府の率いるインド国民軍は、日本草軍との密接なる強力のもとに、聖なる使命に出発した。日印同盟軍が国境を越えインド進軍を開始したこの歴史的な瞬間にあたり、自由インド仮政府は次のように声明する。

 一八五七年の戦いにインド軍はイギリスの侵略軍に敗れたが、インド民衆はイギリスの支配に精神的には降伏はしなかった。非人道的な抑圧や強制的な 武器剥奪にもかかわらず、インド民衆はイギリスの支配に対して抵抗を継続し続けた。宣伝、煽動、テロ、サボタージュといった手段、そして武力による抵抗、 あるいは最近のマハトマ・ガンジーに指導されたサチャグラハの不服従運動により、単に独立闘争を継続しただけでなく、自由獲得の目的に向かい、大きな前進 を遂げている。

 この大戦が始まってから、インド民衆と指導者はイギリスから平和のうちに自由獲得のためにあらゆる手段を尽くした。しかし、イギリスは帝 国主義戦争遂行のためのインドの支配をますます強化し、あらゆる搾取と非道な抑圧によりインドを巨大な軍事基地化し、オーストリア、アメリカ、重慶、アフ リカから軍隊を呼び、疲弊したインド民衆にさらに耐えられないほどの負担を課し、インド各地にこれまでにない飢饉を発生させている。

 インドを戦火の災害から救う最後の試みとして、マハトマ・ガンジーはイギリス政府に対し、インド独立の要求を認め、インドから撤退するこ とを勧吉した。しかしイギリスはガンジーや数万の愛国者の投獄でこれに答えた。イギリス政府の非道はガンジー婦人の獄死にその極に達した。

 悪化する一方のインドの状況を目にしたアジア在住三百万のインド人は、祖国解放のため国内で戦うインド民衆に積極的に呼応参加するため厳 粛な決意をした。いまや政治目的のためにインド独立連盟が設立し、インド解放の軍隊であるインド国民軍が編成され、一九四三年十月二十一日には自由インド 仮政府が樹立した。インド国民軍は着々と準備を整え、一九四四年二月四日にはビルマのアラカン地区において祖国解放の闘争を開始した。

 この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーヘの進撃を続けている。大東亜戦争開始以来、歴史に較 べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでな く、英米帝国主義のアジアからの僕滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し 全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。

 いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めてい る。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド 人のインド建設のための援助を決定している。

 自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。

 自由インド仮政府は、兄弟たちがわれわれの解放を目指す日本とインドの両国に対し直接、間接に援助を与えることを要請する。自由インド仮政府は、全インド人が組織的サボタージュによって敵の戦争遂行を阻止し、自由獲得の闘争が一日も早く達成されることを要請する。

 さらにわが兄弟である敵陣営のインド人将兵が、暴虐な支配者のための戦いを拒否し、すみやかにわが陣営に参加することを要請する。われわ れは、イギリス政府に勤務するインド人官吏が、聖なる戦いにおいてわれわれに協力することを要請する。われわれはインド民衆が英米の手先でないかぎり、恐 れるものは何もないことを保証し、解放地区には自由インド仮政府を樹立し行政を行なうことを保証する。
 自由インド仮政府は、同胞のインド民衆に対し、英米の飛行場、軍需工場、軍港、軍事施設から遠ざかり、われわれの敵撃滅の戦いの巻き添えにならぬように勧告する。
 兄弟姉妹諸君、いまや待ち望んだ自由実現の絶好の機会が訪れている。諸君がこの機会を利用しその任務を遂行すれば、自由は遠からず達成されるであろう。この重大なときにあたり、インドはインド人がその義務を果たすことを期待しているのである。
 ジャイ・ヒンド!
                                 自由インド仮政府首席
                                 インド国民軍最高司令官
                                   スバス・チャンドラ・ボース


 ジャンシー連隊隊員への特別教書
           (一九四四年五月十四日INAの女性軍に向けての手紙による声明)



 姉妹たちよ
 ラニ・オプ・ジャンシー連隊の編成は、われわれの自由への戦いの歴史において独自の重要性を持つ事柄である。インド国民軍の兄弟たちと同様、皆 さんは祖国に奉仕し、祖国の自由のために戦うためにやってこられた。家庭から離れ、母なる祖国を変えるための祭壇に命を捧げて欲しいと求めたことに、私は 重大な責任を感じている。この責任から私は連隊の活動と進歩に常に関心を抱いてきた皆さんの上に神の加護があらんことを、そして永遠に栄えある祖国の自由 への戦いで価値ある役割を果たされんことを私は日夜祈り続けている。すべての父、はは、保護者たちが我々の手の中にある娘たちが安全であるかと気遣うよう に、私はこの連隊を見守り、育むことに努めてきた。この重大な責任は皆さんの全面的な協力があってはじめて私に可能だ。そのためには、皆さんも祖国インド の真の娘として義務を達成できる教靱さを授かるように日夜神に祈り続けなければならない。これまで皆さんが成し遂げた成果から、私はジャンシー連隊が成功 への道を切り開き、インドの自由のための戦いの歴史の中で確固たる場所を占めるであろうことを確信する。今インドが必要としているのは一人のジャンシーに おけるラニではなく、何千のラニが必要であると、これまで何度となく語ってきた。貴女がたのすべて、貴女方の一人一人が、フランスの不滅と名声に貫献した ジャンヌ・ダルクと同様に、そしてバラト・マタのためにジャンシーのラニ・ラクシュミ・バイと同様に祖国のために働くことを願う。その名誉と栄光は、貴女 がたがインド解放のために喜んでその命を捧げる時、はじめて得られる。その日は、貴女がたが兄弟たちと同様に祖国のために血を流した峙、はじめて訪れるこ とを銘記して欲しい。そのためには、軍事的、精神的な厳しい訓練がともに必要である。ラングーンからジャンシー連隊の最初の前線派遣が既に開始されてい る。さらに大規模な部隊が、来るべき攻勢で前線に進出し、積極的に参加するため、昭南(シンガポール)で移動可能になるのを、熱心に、待ち切れない様子で 待機している。過去二十年間、私はインドの女性たちが成し遂げたものを知っている。インドの女性たちに不可能な任務、不可能な犠牲的行為は存在しないこと を私は知っている。それが、私が貴女方に満幅の信頼を置く理由に他ならない。それが、ジャンシー連隊を編成するという歴史的段階に踏み出すことを確信する 埋歯に他ならない。貴女がたの一人一人が、それぞれにこの信頼を私と分かちあうことを確信している。今行なわれている貴女がたの訓練、貴女がたの将来の成 功、そして勝利を私は望んでいる。
   ジャイ・ヒンド
   一九四四年五月十四日
                       ビルマの総司令部において
                                     スバス・チャンドラ・ポース

 インドを生かすために死を



       「今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生か
      すために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由ヘ
      の路は、殉教者の血で固められるからだ」とネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは、一九四
      四年七月四日、ネタジ週間の最初の日に駆けつけたビルマ在住のインド人の巨大な群衆
      を前に宣言した。
       感動的な七十五分の演説で、ネタジは自由への戦いに人と物を限りなく差し出すことを
      めた。その一年の運動の進展を振り返り、近い将来に向っての運動の必然性を説いたこ
     の演説の間、途方もない熱狂と荒々しい喝采が沸き起こった。以下はその演説からの抜粋
     である。(サラト・ボース・アカデミー発行 『ネタジ資料集一九五八年版』 編葉者の言葉)

 友よ、十ニヵ月前、新たな総動員と総犠牲の計画が塔東南アジアのインド人に提出された。今日、私は諸君に過ぎし一年の運動の進展の成果と来たるべき一年に諸君に求めるものを呈示したい。

 しかしその前に、我々が自由への勝利に至る輝かしい機会を持っていることを諸君は理解して欲しい。現在イギリスは世界規模の戦争に巻き込 まれ、多くの戦線で敗北に次ぐ敗北を重ねている。敵は相対的に弱体化し、自由への我々の闘いは五年前に比べ非常に楽なものとなっている。これは神が授けた 百年に一度のこの上ない好機である。我々は祖国をイギリスの軛(くぴき)から解放する好機を完全に利用しなければならない。

 私はこの戦いの結果に大いなる希望を待ち、たいへん楽観している。というのも私はただ単に東南アジアの三百万のインド人の努力だけを頼り にしているからではなく、インド国内において巨大な運動が進行中であり、解放に近づくため祖国の数百万の人々が最大の協力と献身を準備しているからだ。

 不運にも、一八五七年の偉大なる戦い以来、敵が隙間なく武装しているにもかかわらず、祖国の人々は武装を解除されてきた。この近代社会に おいて、武装解除された国民が武器、それも近代的な武器を持たずに自由を勝ち取ることは不可能である。だが、神の佑けと寛大なる日本の援助により、東アジ アのインド人は武器を獲得近代的軍隊を建設できることとなった。

 さらに東アジアでは、インド国内でイギリスが盛んに工作を進めている宗教的なあるいはその他の差別が全く存在せず、東インドのインド人は 自由を勝ち取ろうとする一人の人間のように一致団結している。今、我々の闘争を有利に押し進める状況と、すべてのインド人が解放の代償を進んで支払おうと している理想的状況に我々がいるのは当然なのである。

 総動員計画に基づき、私は諸君に兵士と、資金と物資を求める。兵士に関して、私は既に満足できる志願があったことを喜ぴをもって伝えたい。

 志願兵は東アジアのあらゆる場所、中国、日本、インドシナ、フィリピン、ジャワ、ボルネオ、スマトラ、マラヤ、タイ、ビルマから参集している。

 私が抱いているただ一つの不満は、ビルマにおけるインド人の人口を考えると、そこからの志願兵が多すぎるに違いないだろうという点だ。

 諸君はこの地域から将来においてさらに多くの志願兵が出るように努力していただきたい。

 資金について、私は東アジアのインド人に三千万ポンドを求めた。そして実際にはそれ以上を受け取り、申し出からは将来の資金の流れが確実であることを確信している。

 インド国内における二十年以上の活動の経験で、この地で私はそれ以上の成果をあげることができた。私は諸君が差し伸べてくれた心の篭った協力に感謝の意を表したい。と同時に、我々の前途にはさらに責務が横たわっていることに注意を促したい。

 諸君は兵士と資金と物資の動員計画に偉大なる努力と熱意を注ぎ統けていただきたい。そうすれば物資の供給と輸送の問題の解決は満足できるものとなるだろう。

 次に解放された地域の管埋と再建にあらゆる分野に多くの男女が必要である。我々は、敵がビルマの特定の地域から撤退する際、地域の人々がそこにいられなくするため、無情な焦土作戦を採る状況に備えなければならない。

 最後に、最も重要な、前線に兵士を増援し物資を補給する問題がある。さもなければ我々の望むインド進攻は不可能である。

 諸君のうち、後方で活動を続けるものは、東アジア特に解放戦線の基地を形成するビルマを決して忘れてはならない。基地が強力でなければ、 戦闘で勝利を得ることは決してできない。この戦いは単なる二つの軍隊の戦闘ではなく「総力戦」であることを忘れてはならない。わたしがこの一年間にわたっ て東アジアにおける「総動員計画」を特に強調してきた埋由である。

 諸君が基本的に後方をしっかりやって欲しい別の埋由もある。それは、きたる数ヵ月間、私と内閣の戦争委員会は、インド国内における革命の 情勢のためにも、前線における戦闘に全精力を傾けたいと願っていることだ。当然それには、我々が不在でも、基地の円滑な中断することのない活動が保証され なければならない。

 友よ、一年前私は諸君にいくつかの要求を行い、「総動員計画」が成就すれば「第二戦線」を諸君に与えると言った。私はその約束を履行した。わが勇敢なる部隊は日本軍とともに戦いに続く戦いで敵を圧倒し、現在愛する母国の神聖な地で勇敢に戦っている。

 目の前の責務におおいに働いてほしい。私は諸君に兵士と資金と物資も求め、おおいに得ることができた。今、私はさらに多くを求める。兵土と資金と物資は、それだけでは勝利や自由をもたらさない。我々には勇敢なる行為と英雄的な行動に燃え立たせる原動力が必要である。

 諸君が生きて自由インドを見ようと願うのは完全な誤りである。それは、今、勝利が我々の手の届くところにあるからだ。今、誰一人として生き残って自由を楽しもうという願いを持ってはならない。我々の眼前には以前として長い戦いが存在している。

 今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生かすために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由への路は殉教者の血で固められるからだ。

 友よ、我が解放戦争の同志諸君、今日、私は諸君にただ一つものを、至上のものを求める。私は諸君に血を求める。敵の流した血に報復するには血以外にはない。血のみが自由の代償となり得るのだ。私に血を与えよ、私は諸君に自由を約束する。


 三たぴ東京へ 

 一九四四年(昭和十九年)十月、ラングーンに帰ったボースは、インパール作戦後に就任した木村兵太郎ビルマ方面軍司令官がビルマ西部を放棄し、イ ラワジ河の線で英印軍の攻勢を防ごうとしていることを知り、インド国民軍第二師団を協カさせることにした。そしてインド国民軍の首脳に対し、「この敗勢に あって、なお日本軍と肩を組み提携を続けることに疑問を持つ向きもあるだろう。しかしいま日本軍を裏切れば、われわれは景気の良いときだけ日本軍と手を組 んだというそしりを受ける。また武装闘争を続けることが、英印軍にわれわれの不退転の決意を悟らせ、インド人兵土をイギリスの支配からわれわれの側に走ら せることになる」と説得した。

 サイパンが七月に陥落し、東条内閣は小磯内閣に交代していたが、ボースはインド国民軍の増強や武器供給などを煮詰めるため、十一月一目、 三度目の東京訪問をした。十一月三日、日比谷公会堂で『スバス・チャンドラ。ポース閣下大講演会』が催され、ポースは会場を埋めつくした日本人に対し二時 間を超える演説を行なった。ポースは「自由インド仮政府は東亜にあるインド人の人的・物的資源を総動員して、日本との共同の戦争目的に向って生死をともに しようとしている」ことを強調し、演説が途中で中断されるほどの拍手喝采を受けた。

 この東京訪問には、自由インド仮政府の権威確立の目的もあった。日本は前年十月の仮政府樹立直後に板政府を承認していたが、まだ外交使節 の交換をしていなかった。ポースが日本の軍部を説得し、日本政府は公使を派遣することを認め、翌年二月、蜂谷輝雄公使がラングーンに赴任した。公使交換に より名実ともに独立政権として地位を確立するというボースの狙いは、蜂谷公使が臨時政府派遣ということで天皇の信任状を持たなかったために不完全だった が、ある程度達成されたといえよう。また、ボースはそれまでは日本からの無償の援助は断り、仮政府や国民軍の経費を受け取る場合には借用書を発行していた のを政府間の正式協定にしようとした。日本政府も認め、新たな一億円の借款協定が内定した。日本の関係者の中には、形式的なことにこだわりすぎるという非 難の声もあったが、ボースにとって自由インド仮政府の独立性の明確な確保は、将来を考えると何よりも重要なことだった。

 束京滞在中、ボースは失脚した東条前首相を私邸に訪れ歓談し、病の床にあったビハリ・ボースを訪問した。このときチャンドラ・ボースの手 を握り、「ネタジよ、君の力で私の生涯の悲願だったインド独立を達成して欲しい」と涙を流して告げた病床のビハリ・ボースはそのニヵ月後に亡くなってい る。さらに、マレー、シンガポールなどの優秀なインド人青少年からボース自身が選ぴ、将来のインド国民軍の幹部として日本に学んでいた留学生を陸軍士官学 校や航空士官学校に訪れ、「ビルマ戦線に加わりたい」と言う留学生たちに、「諸君はまだ幼いのだから落ち着いて勉強しなさい。それがやがて祖国に役立つ日 が必ず来る」とさとしている。つけ加えれば、このインド人留学生と日本人の結ぴつきが、後に日本のスバス・チャンドラー・ボース・アカデミーの設立、アカ デミーの長い活動の原点となっている。

 イラワジ会戦

 ラングーンに戻ったボースは、これまで日本軍の補助的戦力をして扱われることが多かったが、イラワジ河防衛ではマンダレーとプロームの中 間正面を主力として担当するインド国民軍の拡張と再編成にとりかかった。ボースの呼ぴかけに応えた東南アジア各地からの志願者を加え、イラワジ会線に臨む 一九四四年(昭和十九年)十二月末のインド国民軍は次のような編成となった。

  第一師団  師団長シャ・ヌワーズ・カーン大佐
    第一遊撃連隊 連隊長は師団長の兼任
    第二遊撃連隊 連隊長I・J・キアニー中佐
    第三遊撃連隊 連隊長グルザラシン中佐
  第二師団  師団長アジス・アーメド大佐/シャ・ヌワーズ・カーン大佐
    第一歩兵連隊連隊長S・M・フセイン中佐
    第二歩兵連隊連隊長P・K・サイガル中佐(師団長代理)
    第四遊撃連隊運隊長G・S・ディロン少佐
  第三師団  師団長G・R・ナガル大佐  マレー北部で訓練中
    第六歩兵連隊連隊長A・I・S・ダラ中佐
    第七歩兵連隊連隊長グルミットシン中佐
    第八歩兵連隊連隊長ビシャンシン中佐

 国民軍の主力は第二師団で、新編成の歩兵連隊は兵員を六百人増員し二千六百人とし、追撃砲と重機関銃を装備し、どうやら野戦を行なえる形 になった。一九四五年(昭和二十年)一月に英印軍がイラワジ河に追ると、インド国民軍第二師団はマンダレーとエナンジョンの中間にあるポパ山を中心に布陣 し、日本軍の第二十八軍の防衛する右翼部分を担当することになった。

 ポパ山の戦闘

 第二師団はポパ山に向け七百キロの徒歩行軍を開始した。師団長のアーメド大佐が出発前日のラングーン空襲で負傷しショックで寝込んでし まったため、サイガル中佐が師団長代理となり、二月二十三日北方の第二十八軍司令部に到着した。第二十八軍では、インド国民軍は英印軍並みの優秀装備と考 えており、独立した作戦を任せるつもりでいた。しかし実情を知っている第二師団の先任連絡将校の桑原少佐が、第二師団の砲兵大隊は現在マレーに残っていて この作戦には間に合わず、重火器も八十一ミリの追撃砲が最大で、重機関銃が少々ある程度であり、小銃の弾薬も一人当たり二百発しかないという説明に、日本 軍参謀たちが驚いた。第二十八軍にも国民軍に分け与えられる弾薬はまったくなかったからだった。

 二月十日ごろ、ミンギャンで陣地構築中の第四遊撃連隊は、有力な英印軍に備えパガンの守備を急に命じられた。十二日にパガンに到着した が、陣地をつくる暇もなく対岸から砲撃を受けた。翌日の偵察部隊の攻撃は退けたが、十三日には戦爆連合と砲兵を伴う本格的渡河攻撃を受け、その夜に連隊は 壊乱状態となり、ポパ山の国民軍第二師団司令部には五百名がやっとたどり着いただけだった。

 ディロン連隊壊滅の報を間き、インパール作戦の失敗は自分が陣頭に立たなかったからと考えたボースは、第一師団長に任命したシャ・ヌワー ズ・カーン大佐を伴って戦線に向った。すでに主要街道はイギリス軍機が跳梁し、夜間しか進めなかった。メイクテーラの近くでは戦車部隊が接近しており、空 からの攻撃も激しくなった。周囲の者が後退を進めたが、ボースは「戦況の不利な時ほど最高司令官が前線に赴かなければならない。私がいまポパ山で第一師団 を陣頭指揮して戦死しても、独立運動の精神はインド人の中に力強く残る。ここで最後の決戦をしなくてはならない」と言い張った。シャ・ヌワーズ大佐が、ポ パ山も猛烈な爆撃を受けて行るという情報を入手し、危険だから思い止まるように説得し、ボースもやっと後退に同意した。

 二月末、ポパ山にはインド国民草の第二歩兵連隊が到着し、第二十八軍から派遣された干城兵団の一個大隊も到着し防衛体制が整った。インド 国民軍はポパ山周辺で遊撃戦を展開し、いたる所で敵斥候と衝突したが、敵の斥候は積極的な戦闘を挑まないで後退するのが常で、初陣の第二歩兵連隊の士気は おおいに高まった。ところが、三月のはじめに師団司令部の作戦参謀以下五名の将校が敵に走るという事件が起った。サイガル中佐は、味方の少ない兵力、貧弱 な装備が敵に知られることを予想し、用心深い英印軍を不安な状態に置くため、敵の占領地に絶えず遊撃部隊を送って撹乱した。戦車を伴った五百の敵がポパ山 正面に攻撃をかけてきたが、断崖の地形を利用し、二個小隊で丸一日がかりで阻止、撃過したこともあった。

 三月中旬には干城兵団と密接に協力し、インド国民軍はパガン方面に攻撃前進している。このような協力関係は、ポパ山の日本軍とインド国民 軍の将兵の間に友情をはぐくんだ。インパール作戦の教訓から、インド国民軍への食料補給は光機関によってどうにか行なわれたが、弾薬の補給はどうすること もできず、サイガル中佐に「いま手持ちの弾薬は二時間分しかない。射ちつくした後はどうなるのか。攻撃なら銃剣突撃もできるが、弾薬なしの防衛戦闘が成立 するのか」と聞かれた桑原少佐が答えに窮するというのが補給の実状だった。

 ラングーン攻撃

 四月一目に、ポパ山北方の敵の補給基地の攻略を命じられた干城兵団とインド国民軍第一師団は攻撃を開始した。しかし頼みの十五センチ榴弾 砲が爆撃で破壊され、北からの英印軍有力部隊の反撃も受け、攻撃は挫折し、翌日レジに後過し防御に転じた。三日には英印軍が戦車と砲兵を使用し本格的攻撃 をはじめ、国民軍は丸々一昼夜もちこたえたが、四日に大隊長が部下を率いて逃亡したため、戦線はついに崩壊した。

 シャ・ヌワーズ・カーン師団長は部隊を再編成し攻勢を試みようとしたが、四月八日にビルマ国軍が日本軍に反乱したことを知り、十四日、ポ パ山からの撤退を決意する。シャ・ヌワーズ大佐は各地で戦闘を交えながら十八日にイラワジ河東岸に到着したが、翌十九日、イギリス戦車部隊の奇襲を受け、 師団は四散した。その後、サイガル中佐は部下と共に潜伏したインド人部落をイギリス軍に包囲され、爆撃を恐れた村人の説得で降伏する。シャ・ヌワーズ・ カーン大佐はプロームで自分の部隊がモールメンに向かったのを知り、ディロン中佐とあとを追ったが、五月十八日イギリス軍に包囲され、交戦ののち補らえら れた。

 ちょうどそのころ、イギリス軍戦車部隊は首都ラングーンに追り、四月二十日、ビルマ方面軍はラングーン放棄を決意し、ボースにもモールメ ン撤過するよう要望した。だが「喜ぴも悲しみも将兵と分かちあい、勝利の時も苦難の時も常に将兵と共にあるのが最高司令官だ」と考えていたボースは「部隊 を置き去りにして逃げられない」と要望を拒絶した。またビルマ方面軍は、インド国民軍は現在地で武装解除し、兵器弾薬を日本軍に引き渡し、各自の身の振り 方は各自の自主判断に任せるよう提案したが、ボースは「国民軍は完全武装のまま自分が障陣頭指揮し、最後までイギリス軍に抵抗し、抵抗力が尽きたときはじ めて降伏し、イギリスの手でインドに連れて行かせる。そして捕虜になった兵士の日から、祖国の民衆にわれわれがいかなる理想のもとに何をしてきたかを語ら せる。それが独立への火種を残すことになる」と、厳しくこれを拒否している。

 しかし仮政府閣僚が撤退を進言し、国民軍軍医部長のロガナンダ少将が、国民軍の撤退とインド人民留民の保護を責任をもって引受けると申し 出たため、ボースはついに撤退を受け入れた。だが、国民軍の武装解除には絶対に武装解除はしないこと、後退してくるジャンシー連隊の到着を確認してから出 発することは決して譲ろうとはしなかった。四月二十四日、ポースは仮政府閣僚、国民軍司令部要員、ジャンシー連隊とともに、ペグーからモールメンを目指 し、トラック十二台でラングーンを出発した。翌日、燃えさかるペグーを通過したが、それはイギリス軍戦車部隊が到着するわずか一日前だった。

 ペグーを出てまもなく、ワウ川にさしかかると橋が破壊されていた。日本軍の輸送指揮官が「ぐずぐずしているとイギリス軍に追い着かれる。 いかだで渡りましょう」と言うと、ボースは「男はいかだでもいいが、ジャンシー連隊の隊員はみな良家の子女で水泳の心得はないだろう。戦争だから敵弾に 当って死ぬのはやむをえないが、一人だけでも溺死させては親兄弟に申し訳が立たず、私の政治生命も終りになる。橋が修理されるまで待とう」と言い、全員が 渡り終わるのを待って先に進んでいる。二十七日のシッタン河の渡河でも、ボースは同様にしている。イギリス軍の急追を心配した同行の光機関長磯田中将が ポースに真っ先に渡るように言うと、ポースは「とんでもない、ジャンシー連隊の娘たちが全員渡り終えるまで絶対に渡河しない」と答え、光機関のシソタン支 部が探してきたトラックに乗るように磯田中将が言うと、「これからはジャンシー連隊と一緒に行動する。私は部下を捨てて逃げたバー・モウとは違う」と、婦 人部隊の先頭を歩きだした。

 五月三日、モールメンに着き、九日にはタイのバンコクに向け出発した。やはりジャンシー連隊や国民軍全員が汽車やトラックで出発するのを見届けてからだった。

 ソ連との提携案

 一九四五年(昭和二十年)五月二十五日、トラックと汽車と馬車を乗り継いでボースはバンコクに到着した。あらゆる面で情勢は決定的に変化 していた。インド国内では、釈放されたガンジーはムスリム連盟の指導者アリ・ジンナーと会談を繰り返していた。ジンナーの要求は独立に際し、イスラム教徒 の多い地域にヒンドゥー教徒とは別の国家をつくることだった。ボースはラングーンからの放送を通じ、「ガンジーはヒンドゥーの代表としてではなく、全イン ド人民の代表としてジンナ-と話し合わなくてはならない」と述べ、イスラムとの分難により独立運動の分裂を図るイギリスの策謀に乗らないよう注意を喚起し ていた。しかし、五月にドイツが降伏すると、イギリスのチャーチル内閣は自治付与の妥協案を六月に発表し、ネルー、アザードなど会議派の指導者たちを釈放 し、六月末にはインド人各派の代表をシムラに集め、自治政府のメンバー選定協議を開始した。

 ボースの警戒した中途半端な独立が実現されようとしていた。ボースは「形式的独立ではなく、武力闘争を通じて古い社会の枠組みを壊さなけ れば、インドの後進性は打破できない」という考えを変えず、イギリスの甘言に乗せられ独立闘争を放棄しないように訴えた。しかし、釈放された会議派の指導 者たちは、「ボースは日本の傀儡であり、イギリスの譲歩に応えず、派閥的感情からネルーやアザードを攻撃している」と言う非難を繰り返していた。

 すでにインド国民軍はビルマから撤退しており、東からのインド進攻は不可能だった。しかしボースの手もとには、残在兵力の他に、マレー半 島で訓練中だったインド国民軍第三師団が無傷でタイに移動中であり、約二万の兵力があった。ボースは、国民軍を中国北部に移動し、臨時政府を北京、上海、 天津のいずれかに置き、ソ連大使館と密接な連絡をとり、中央アジアからインドヘ進攻するという壮大な構想を考えていた。ドイツ敗戦後の世界は英米とソ連の 対立が激化することは必死だから、イギリスの敵であるソ連だけが武力によるインド独立闘争を支援する可能性がある国だと考えたからである。

 ポツダム宣言

 しかし日本軍の大本営は、すでに戦争の終結を有利にする作戦以外を考える余裕はなかった。六月十八日、ボースのもとに参謀本部情報部の高 倉盛雄少佐が大本営の考えを説明するために派遣され、臨時政府と国民軍は南方総軍の指揮下で行動するように求めた。ボースは納得せず、会談は夜中の三時ま で続けられ、根気よく説明を繰り返す高倉中佐の説得に、ボースはしぶしぶ大本営の希望に沿うことを認め、タイにいる国民軍すべてがサイゴンに後退したの ち、臨時政府の閣僚とともにサイゴンヘ移ることを決心した。

 八月十一日、マレ半島中部のイポーで第三師団の訓練をしていたボースに根岸思素通訳がタイ駐在の坪上大使からの極秘書簡を持参した。直接 ボース自身に手渡すように命じられていたが、なぜか封が開いており、根岸通訳が目を通すと日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏することが英文で記さ れていた。「天皇の大権」を表すprerogativeという単語があまり使われないことばなので辞書で確かめたことを根岸通訳はいまでも記憶している。

 ボースは「またアトミック・ボムでも落ちたのか」と言いながら読むと、師団長に訓練中止を命じた。連合国の短波放送を開くボースは数日前 から知っていたようだ。日本の降伏を信じられない根岸通訳が「何かの謀略ではないでしょうか」とたずねると、「いや、明白な降伏だ」と答え、さらに「天皇 陛下が降伏の命令を出されるだろうから、日本人としては従うしかないだろう。しかし安心しなさい。陛下は退位されるかもしれないが、その場合は摂政を置け ばいい。日本は絶対に滅びない。しばらくは占領されるだろうが、独立も回復できる。しっかりやりなさい」とはっきりと根岸通訳を励ますほどだった。

 最後の飛行

 ただちにシンガポールに戻ったポースは、根岸通訳に日本からの借款の残りを南方開発金庫から引き出すように命じた。国民軍将兵と仮政府職 員の退職金に充てるためだった。危急の際にも沈着さを示すボースに根岸通訳は感服した。解散したジャンシー連隊のタイ出身の二名の女性が汽車に乗り遅れた ことを知ると、駅に行って列車に乗り込むところを確認させてから、ポースは南方総軍と協議するため空路サイゴンに飛んだ。

 南方総軍の寺内総司令官を訪れたポースは、ソ連行きの飛行機の手配を要請した。提供された飛行機は双発の九七式重爆撃機で、関東軍参謀副 長に就任する四手井中将のほか、連絡のため東京に向かう七名の日本軍将校が同乗し、ポースたちに提供された席は二座席しかなかった。仮政府の主要閣僚の同 行を予定していたボースは慣慨したが、副官のハビブル・ラーマン大佐一人を同行することにしたが、他の閣僚や国民軍首脳が次の飛行機で後を追うという確認 がとれるまで動こうとしなかった。

 八月十七日の夕方、九七式重爆がサイゴン飛行場の滑走路を走り出すと、一台の車が走りよってきた。仏印のインド人が寄進した貴金属や宝石 を積んだ車がこちらに向かっているという知らせだった。三十分後財宝を積めた二個の重いトランクが機内に積み込まれた。定員を三名もオーバーした機は滑走 路いっぱいに使って、午後五時サイゴンを離陸した。

 台北、松山飛行場にネタジ・ボース死す

 二時間後、サイゴンとハノイの中間のツーランに着陸し、機の重量を軽くするため操縦士が六丁の機関銃と弾薬を降ろした。翌十八日の早朝、 機はツーランを飛ぴ立ち、正午すぎ台湾の台北にある松山飛行場に到着した。ポースたちは天幕の中で昼食をとり、搭乗員たちは機体の点検をして燃料を補給し た。エンジンテストをしたが異常はなさそうだった。ソ連軍がすでに旅順を占領したことが知らされ、千八百キロ先の予定地大連に暗くならないうちに到着する ため、午後二時に機は雄陸した。

 離陸直後、ハビブル・ラーマン大佐は轟音を聞く。敵機による攻撃かと思ったが、左側のエンジンのプロペラが吹き飛ぴ、ショックでエンジン が外れた音だった。たちまちバランスを失い、飛行場のはずれに落ちた機は二つに折れ燃え上がった。ラーマン大佐が「後ろから出ましょう」とボースに叫び、 転がりでたとたん爆発が起き、大佐は地面に叩きつけられた。顔をあげたラーマン大佐の目に、火炎に包まれてこちらに歩くボースの不動明王のような姿がう つった。全身にガソリンを浴ぴ、頭から血が吹き出していた。

 南門の陸軍病院で治療を受けたが、ボースの容態は絶望的だった。インドの独立を日本との協力により、実力で達成しようと闘ったスバス・チャンドラ・ボースが最後に息を引き取ったのは一九四五年八月十八日の午後八時だった。


 随行したハビブル・ラーマン大佐の覚書



 ネタージ・スバス・チャンドラ・ポースは今世紀のインド亜大陸が生んだ自由を求めてやまない最も偉大な革命の闘士であった。彼は一九四二年から 一九四五年にかけ、東南アジアにおいてダイナミックな自由独立の闘いを起こしたが、不幸にもその最終的結果を目のあたりにすることなく、一九四五年八月十 八日残酷な死の招きによりこの世を去った。この自由と独立の闘いはインドにおける外国の支配を徹底的に粉砕し、一九四七年八月十四日、独立国家インドとパ キスタンをもたらしたのである。

   
 彼は若いときに祖国の独立のために働こうと決心し、英国留学中、インド高等文官への道を拒否して、政治の世界に足を踏み入れた。間もなく彼はそ の時代の自由独立の闘士として第一級の人物とみなされていたが、軍事史を含む歴史の鋭い研究家でもあった。特に第一次世界大戦後のさまざまな従属国がどの ようにして独立を達成したか研究し、最新の知識を得るためヨーロッパ各国を訪れている。彼はガンジーやネールを含むインド人指導者の「しばし待て、まず見 てから」という方針には反対の立場だった。それは、大英帝国は第二次世界大戦で必ず崩壊するから、インド人はこの戦争の与える機会を逃さず、おおいに利用 すべきであると考えたからである。この観点から、彼は一九四二年カブールからドイツヘ脱出し、一九四三年四月には六十三日間の厳しい潜水艦の旅の後マラヤ に到ったのである。

  
 彼は、自由と独立の戦いはその外部に二つの要素、つまり国民政府と国民軍が必要不可欠であると堅く信じ、まず日本政府の絶大な支援の下、東アジ アの二百万インド人の支持で「インド独立連盟」として知られる政党を組織したのち、その二つを組織した。自由インド仮政府をつくり、その下に軍民からなる インド国民軍を置いた。彼は不撓不屈の精神と偉大な組織力の持ち主であり、東宙アジアのインド人からの資金、労力、資材など、あらゆる支援を受けることが できた。彼は自分たちの手で獲得できないものだけを日本軍の援助に頼るという考えだった。彼は大きな人間的魅力があり、民間人、軍人を問わず、その頃東ア ジアに住む数百万のインド人の心を鼓舞し、人々は彼の指揮下では自由と独立の戦いのためにはすべてを、生命をも捧げようと決心した。インド国民軍が前線で 示した評価は、独立運動に対する確固たる思誠心と献身が示している。
  
  四
 彼は仕事に対して疲れを知らない人間でした。東アジアのすべての国の政府と国民から高い尊敬を払われました。私は、このことを一九四四年十一月の日本訪問における総埋大臣を含む指導者たちとの会談から証言することができます。

  五
 この短い覚書では、極東における独立運動の詳細を語ることはできません。そこで、私のかかわった一九四五年八月の最後の日々について述べることにします。

 当時私は参謀次長であり、シンガポールに司令郡を置く二万三千のマラヤ方面の部隊の指揮官でした。一九四五年八月十四日、日本降伏の報せを受け取り、ただちに今後の行動を協議する自由インド仮政府の閣議が開催されました。この席上、ボース氏は次のように言われました。

 「友人たちよ、この未曾有の危機に際してひと言述べたい。それは決してこの一時的な失敗に気を落としてはならないということだ元気を出 し、勇気をもって進もう。インドの運命の岐路にあってわれわれは一刻もくじけていてはならない。前途に横たわる試練と苦しみに耐え抜こう。そうしてこそ極 東における我々の闘いが祖国の人々に真の展望をもたらすことができる。この使命を果たすことができれば、全国民を独立への炎と化し、インドに対する外国の 支配を揺るがすことができる。その時こそ我々の努力が報われることを確信する。もはやインド国民の自由を束縛する力は地上には存在しない。この切迫した試 練のなか私は諸君と共にいるであろう」

  六
 この閣議で、日本政府と協議のためボース氏を翌日東京に派遣すべきだという決定が行なわれた。一九四五年八月十五目の朝、ボース氏はハビブル・ ラーマン、S・A・アイヤーを含む数人の将校を伴い、空路東京へ向った。途中、我々はバンコクに立ち寄り、シンガポールで飛行機を乗り換えた。ボース氏と 私だけが東京へ向かう日本軍の高級将校と一緒の重爆撃機に搭乗できた。八月十七日午後一時三十分ころトュレーヌヘ着き、翌十八日に台湾の台北に小休止のた め着陸した。燃料補給後、搭乗機は東京への最後の航路へ離陸した。空中で十分も経たないうち、実然鼓膜を破らんばかりの大音響がし、機は錐もみ状態にな り、あっという間もなく機首から大地に叩きつけられ、燃料タンクが破裂し、機は火に包まれ、ポース氏と私は火をかいくぐって外へ飛ぴ出した。機外に出る と、ボース氏の服に火が着き炎と格闘しているのが見えた。私は跳んで行って、火を消すと地面に寝かせた。ポース氏は頭部を深く傷つけ、そこからひどく出血 しているのがわかった。全身に深い火傷を負っていた。私は傷が浅く逃げ出せていた。次の会話はその時のポース氏と私の間のものである。

 ボース   「君は大丈夫かね。傷がひどくなければいいが」
 ラーマン 「軽い傷で逃げ出せました」
 ボース   「私はこの事故から生き延ぴることはできそうにない。国へ帰ったら祖国の人たちに私が最後まで祖国の自由のために戦ったと伝えてほしい。今やなにものも祖 国を縛り付けておくことはできない。我々は闘いを続けなければならない。間もなくインドは自由になるだろう」

  七
 私は、ボース氏のような未だ使命を果たさなければならない自由の戦士が目的の成就を見ることなく、なぜこのような運命にあったのか信じられな かった。間もなく我々は救急車で近くの日本の陸軍病院に移され、そこで軍医の手で治療を受けた。幸いにも私はずうっと意識があり、病院のベッドはボース氏 のすぐと隣だった。ボース氏は少し話したが、その間ほとんど意識を失っていた。日本の軍医はできるかぎりの手当てをしたが、非運にも午後八時三十分、ボー ス氏は息を引き取った。彼の突然の死は私を打ちのめした。彼の遺体をシンガポールヘ飛行機で送ることが不可能であることがわかり、私も列席し、遺体は軍礼 に則り火葬に付された。十二名の乗客のうち、四手井中将を含む六名が即死し、野々坦中佐、青柳操縦士、河野少佐、坂井少佐と私の五名が幸運にも生き残っ た。

   八
 一九四五年九月五日、私は坂井、中宮、林田氏とともに遺骨を東京へ運んだ。日本で、すでにサイゴンから来ていたアイヤー氏、ラマ・ムルティ氏、 当時日本に住んでいた少数のインド人が立ち会って、遺骨は蓮光寺に預けられた。九月十九日まで私は日本に残り、日本人の心からのもてなしを受けた。十九 日、私は藤原中佐、磯田中将を含む日本軍の将官、外務大臣とともに、歴史的なINA裁判に出廷するため、米軍機でデリーヘ向かい日本を発った。
  九
 歴史的な裁判の進展に伴い、インド国民軍の働きが明らかになり、すべてのインド国民の一人一人を亜大陸の知られざる歴史に 熱狂させた。裁判の進行とともに、自国の自由のために戦う権利は道義的に正統なものであることが明らかとなった。侵略による外国の支配者も、インド国民の 鼓動の高まりを聴き、祖国の自由のために戦った数千の将兵の自由を認めざるを得なくなった。時の政府も、ボース氏がインド国民軍と同志たちに残した最後の 言葉が予想した愛国心の盛り上がりを突き崩すことはまったくできなかった。大英帝国は、支配力が弱まり、インド国民がイギリス人が母国に帰ることを要求し ていることを認め、インドをインド人の手に返すことを決めたのは一九四七年八月十四日のことであった。インド国民軍とその指導者、そしてあらゆるインド人 がすべて自由の身となった。

 ボース氏が自分自身の国で、生涯にわたる長い自由への戦いの成果を見ることなくこの世を去ったのは、実に大いなる悲我々がポース氏の生存 を願っていることだろうか。もしそうであれば、ボース氏はインド政界において偉大なる位置を占めているに違いないからである。また、今日のインドとパキス タンの苦渋に満ちた関係よりも親密なものとなっていたであろう。ボース氏は最も賢明で公平な指導者として知られていた。彼のともした自由への炎はさらに大 きく燃え上がり、いかなる時代にも、地球上のすべての自由を求める戦士たちの道を明るく照らし続けるに違いない。

 そして、ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。これらの国々はすべてが日本に対し感謝の念を抱いているのである。


  ハビブル・ラーマン大佐の回想


 病院を過院したハビブル・ラーマン大佐が日本の将校に突き添われてサハイ家に送られてきた。健康状態について語った後、ハビブル・ラーマン大佐はネタジ とともにした最後の飛行の経過を詳細に語った。ハビブルは面手と顔、頭に火傷を負い、まだ包帯が巻かれていた。顔はやつれ、貧血気味だった。カーキ色の毛 の戦闘服、半ズボンに乗馬靴を身に着けていた。これはサイゴンで最後に見たものか、それに類似していた。席に着いてから五分以上の沈黙の後、アイヤーとハ ビブルは八月十七日午後十五分にサイゴン空港で別れてからのすべての出来事について話し始めた。

 ハビブルは、低い慎重な口調で夢のような話を始めた。

 サイゴンを発ってから約二時間でトウーランに着陸し、その夜はそこに足止めされた。翌早朝、再ぴ離陸し、台北空港には午後二時ごろ到着した。

 飛行機が燃料を補給している間に、我々は食事をし、出発に備えた。私は、寒いところを飛行するので暖かいものに着替えるよ う、ネタジにも勧めたが、ネタジはそうしなかった。ネタジは勧めを笑い、暖かいものに着替えるのを急ぐ必要はないと言った。ネタジはカーキ色の戦闘服にズ ボンを身につけており、毛の衣類に代えるためそれらを脱ぐのを急がなかった。半時間後、我々は飛行機へと歩いて行った。飛行機が難陸したのは午後二時三十 分だった。たしかに滑走路を二、三百フィート走った。飛行場の一番端だった。空中に浮んだのはわずか一、二分だった。

 突然轟音がした。地上で何か起こったのか? 私は敵の戦闘機が我々が台北飛行場を離陸するのに照準を合わせ、一斉射撃を行い命中したのかと考えた。

 操縦士はどうすべきなのか?強行着陸は出来ないのか? さもなければ飛行機が破壊するのでは? 現実はあたりに敵機はなかった。後に、左側エンジンのプロペラの羽板が壊れたことを知らされた。

 左側のエンジンが稼働していなかった。右側のエンジンだけが働いていた。もう機体が揺れ、操縦士は右側のエンジンで機のバラ ンスをとろうとしていた。またたくうちに高度が落ちた。振返ってネタジを見たが、ネタジはまったく平静だった。飛行機が長い飛行を終え、完璧な着陸をしよ うとしている時以上に落ち着いていた。しかしネタジの顔にはこれ以上はない心配の表情があったのは確かだと思う。

 その時何も考えられなかったことが今では不思議だ。しかし最後の時が数秒後だと考えたことは確かだ。二、三秒も発たないうちに飛行機は機首から墜落し、そしてしばらくして全てが闇に包まれた。

 二、三秒後に意識を取り戻し、荷物が私の上に崩れ落ち、火が私の方に向っていることに気づいた。後方の出口は貨物で閉ざさ れ、前方の出口へは火の中を突っ切って行かなければならない。ネタジは頭を負傷していたが、火から逃れようと私の方へ後部出口から脱出しようと足を懸命に 動かしていた。だがそれは出来なかった。逃げだせる隙間は一センチもなかったからだ。だから私はネタジに「アーゲセ ニクリエ、ネタジ」(前から脱出して ください、ネタジ)と言った。

 彼は状況を認めると、既に崩れ落ちている機首を抜けて逃げようとした。両手で火を払い除けていた。ネタジは外へ出て立ち止まり、十フィートか十五フィート離れた私の姿を心配そうに探していた。

 飛行機が墜落した際、ネタジは木綿の軍服の上から燃料の飛沫を被り、燃えている機首から出ようとする時それに火が着いた。彼は燃えている服のまま立って、腰の周りの戦闘服のベルトを外そうと懸命だった。

 私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。

 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。

 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの憐に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。

 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がるこ とが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的 なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。

 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。
 
 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を口にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブ」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブがここにおります)と言いました。

 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国 の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。イン ドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。

 それがネタジが私に言った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。

 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機 を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行 するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北で の火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。

 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタ ジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行 く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。

 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの 遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れ て行かれたのはそのわずか二日後だった。

 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の 祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おう とした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。そ の数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。

 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。

 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの憐に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。

 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がるこ とが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的 なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。

 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。

 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を日にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブ」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブがここにおります)と言いました。

 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国 の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。イン ドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。

 それがネタジが私に行った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。

 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機 を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行 するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北で の火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。

 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタ ジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行 く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。

 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの 遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れ て行かれたのはそのわずか二日後だった。

 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の 祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等の手で杉並区の蓮光寺に密がに移された。その 寺には何人かの日本の高級軍人がいた。戦争についての話し合いがされ、骨壺はその寺の住職の厨子に入れられた。骨壺は現在その寺の安全な管埋の下に置かれ ている。


  昭和63年調査時点の、医師本人手害きの死亡診断書



   死亡診断書
 氏名   チャンドラボース
 死因   全身火傷 三度
 死亡年月日   1945.8.18. 
 原因   1945.8.18.午前.台北松山
      飛行場に於て、チャンドラボース氏
      が搭乗していた飛行機墜落事故
      により、飛行機燃焼し、全身に第三度
      の大火傷を負うた。
 経過  直に台北陸軍病院南門分院に
      入院し全身の火傷に対する処置。
      輸液。サルファ剤内服。鎮痛剤。
      病院の全機能を集中して治療に当ったが、
      同夜十一時すぎ、永眠された。

  上記の通り証明します
    1988.8.13.
   宮崎県北諸県郡高城町大字高城町338
     医師  吉見 胤義  印


 
 スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後
                     元陸軍大尉光機関 塚本 繁   


 飛行機事故
1・事故発生日時 1945年(昭和20年)8月17日午後4時頃
2・事故登生場所 台湾・台北松山飛行場
3・事故飛行機の種類 第3航空軍の97式2型(Sally)重爆撃機
4・事故機の乗員
  主席操縦士 滝沢少佐・副操縦士 青柳准尉
  副操縦士 沖田与志雄曹長・無線技師 富永技官
  四手井綱正中将・野々垣四郎中佐・坂井忠雄中佐
  河野太郎少佐・高橋岩男少佐・新井啓吉大尉
  スバス・チャンドラ・ポースINA最高司令官
  ハビブル・ラーマン大佐
        搭乗位置略図          ●:死没者
                           ○:負傷生存

   〇沖田曹長        ●富永無線技師
   
   ●青柳准尉        ●滝沢少佐 
   
   〇新井大尉        ●四手井中将
   
   〇河野少佐       (〇)野々垣中佐(上部機関銃座に搭乗)

   ●ネタージ        〇坂井中佐

   〇ラーマン大佐      〇高橋少佐

5,事故の概況

 台北、松山飛行場における搭乗機の休憩時問は約二時間で、この間に給油とエンジンの整備を行った。

 エンジンの点検は主として主席操縦士の滝沢少佐を中心に、河野少佐と地上整備司令中村大尉により行われた。

 河野少佐の左側エンジンがおかしいという申し出に対して、滝沢少佐は二回にわたりエンジンのテストを実施し、その結果異常なしと確認した。

 全員機中の人となり(参考略図参照)、爆撃機は大連に向けて出発することになった。

 飛行機はいよいよ出発態勢となり、滑走を始めた。 

 滑定路の長さは八九○メートルであった。重爆撃機の離陸の場合は普通滑走路の大体中間くらいまで滑走したところで機尾が地面を離れるので あるが、この時は滑走路の約四分の三走ったところ(六六六メートル)でやっと機尾が地面より難れたと中村大尉(地上整備司令)は語っている。

 飛行機が急上昇に移ったとたん、すさまじい爆発が起こり、機は右に傾き、プロペラとエンジンが吹き飛んだ。

 そして飛行場の端から約10~20メートルの地面に突っ込んで炎上した。すなわち、機は大きく右側に傾いて機首から地面に激突し、前部から発火したのである。

 乗員のうち、上部機関銃座にいた野々坦中佐が最も運がよく、ほとんど無傷で地上に投げ出され、坂井中佐、高橋少佐、新井大尉は墜落と同時に気を失ったが、まもなく気がつき燃えさかる機内から脱出した。

 河野少佐はほぼ中央に乗っていたが、沈着な少佐は、周りがどうなっているかを観察した。

 飛行機が墜落した時、その衝撃で燃料タンクが河野少佐とボースの間に落ちた。河野少佐はうしろを振り向いてみたが、このタンクがじゃまになって、ポース氏の姿を見ることはできなかった。しかし、前の座席の状態は確認できた。

 四手井中将は後頭部に裂傷を受けて即死、滝沢主席操縦士は握っていた操縦棹が顔に食いこんで即死、青柳副操縦士と富永無線技師は胸を強打して出血していた。(両名とも病院収容後死亡)

 この間にも炎はますますひろがり、熱気に耐えられなくなった河野少佐は、機の頭部にあるプラスチックの覆いを破って、そこから飛ぴ出した。両手と両足、額に火傷を負っていた。

 墜落して燃え出した機体は、前半分が折れていた。出入口の扉は荷物や破損した機体の部品で閉ざされていたので、そこから脱出することはできなかった。

 ボース氏は炎に包まれた前部の折れ口に向って炎の中を走りぬけた。ラーマン大佐もボース氏のあとから走った。

 重傷を負ったポース氏は、他の負傷者と共に、台北市の陸軍病院南門分院に運ばれた。

 院長は吉見胤義軍医大尉で、ほかに医師二、日本人およぴ台湾人の看護婦、三十名の衛生兵が勤務していた。運び込まれた時、ボース氏の容態は非常に悪かった。

 吉見軍医によれば、
「彼の全身がひどい火傷を受け、灰のようなねずみ色になっているのを見た。彼の胸は焼けていたし、その顔ははれあがっていた。彼の火傷は最もひど いものだった。火傷の度合は第三度の重火傷であった。目もはれあがれ、視力はあったが、目を開けているのは容易ではなかった。腹部には出血はなかった。運 ぴ込まれた時は、気は確かであった。ひどい熱を出していた。体温は三十九度もあったし、脈拍は一分間に一二○、心臓の状態も悪かった」

 ポース氏の診察をした吉見軍医は、明朝まで持たないだろうと診断した。しかしできるかぎりの治療を実施した。 午後七時~七時半頃にポー ス氏の容態は悪化し、脈拍が衰弱してきた。吉見軍医はボース氏にヴィタカンフォールとデイジタミンの注射をし、さらに刺激剤を与えたが、心臓と脈拍は回復 しなかった。吉見軍医は死亡証明書を書き、死因を第三度火傷と記入した。

 ボース氏の死亡に立ち会った者は、吉見軍医、鶴田医師、ラーマン大佐、中村通訳、看護婦二名、憲兵およぴ衛生兵それぞれ一名の計八名であった。

6.爾後の處置

 ボース氏の死は直ちに台湾軍司令部に伝えられ、軍司令部からは永友少佐が派遣された。
 翌八月十九日、台湾軍司令部はポース氏の遺体は飛行機で東京へ送るようにとの、大本営からの電報を受けとった。しかし続く電報で、遺体は東京へ運ばないで台北で火葬するように命令が変更された。

 八月二十日、ポース氏の遺体は台北で火葬されることとなった。
 火葬は台北市営の火葬場で行なわれ、ラーマン大佐、、水友少佐、中村通訳らが立ち合った。

 九月五日、台北南飛行場に坂井中佐、ラーマン大佐、中宮少佐と林田少尉の四名が集合、ポース氏の遣骨を東京に護送するための飛行機に乗り込み、福岡の雁の巣飛行場に向った。

 その夜は遺骨と遺品を西部軍司令部に保管してもらい、東公園の偕行社に一行は宿泊した。
 翌日、一行は二班に別れラーマン大佐と中宮少佐は飛行機で、坂井中佐と林田少尉は列車で東京に向った。

 午後三時博多発の列車で坂井中佐と林田少尉と護衛の渡辺伍長と兵二名の四名が乗車した。
 九月七日午後六時頃、東京駅到着、午後十一時頃、坂井中佐と林田少尉は大本営に遺品と遺骨を運ぴ週番司令木下少佐に二つの箱を渡し、その管埋を委任した。

 木下少佐は、明朝当直参謀にその旨を伝えて、大本営が責任をもって一切を取り計らうと確約した。

 翌朝、二つの箱の管埋は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝坂井中佐は再ぴ大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。

 大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任 者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた。

 三十分ほどしてムルチ氏は丁度東京に来ていた同志のアイヤー氏といっしょにやってきた。
 こうして九月八日朝、大本営の正面入口で、ボース氏の遺骨は高倉中佐の手から、ムルチ氏、アイヤー氏、両氏に引き渡された。

 ムルチ氏邸に運ばれた遺骨は、安置台の上におかれ、花と線香が手向けられた。当時日本の士官学校へ留学しておったインドの青年達が遺骨のお通夜をした。

 インド独立連盟としては、ボース氏にふさわしい盛大な葬儀を行ないたかった。しかし米軍の日本占領の処置は着々と進んでいた。人目を引く葬儀は敵対行為と見なされる恐れがあるので、葬儀はごく内輪に杉並区の蓮光寺で行なうことにした。

 参列者は、ムルチ氏を始めインド独立連盟に関係のある人々とその家族、インド放送の関係者、インドの青年達(士官学校留学生)などで、大本営を代表して高倉中佐も参列した。

 日本の習慣では、普通、遣骨は持ち帰るのだが、インド独立連盟と日本軍当局は、しばらく遺骨を寺で保管してほしいと頼んだ。そこで蓮光寺の望月師は、遺骨が正式の機関に引き取られるまで、ボース氏という偉人にふさわしい礼を尽くして遺骨を保管することを承諸した。

 こういういきさつで、その後も毎年八月十八日のボースの命日に光機関の関係者、日本軍の関係者等ゆかりの者達が集まり、蓮光寺の望月氏の導師で、ボース氏の霊を弔い続けている。
 本年は三十三回忌(一九七八=昭和五十三年)の法要を盛大に挙行したのである。


  スバス・チャンドラ・ボース氏の遺骨について

                             蓮光寺住職望月教栄   


 昭和二十年九月十五日午前八時頃、堀の内妙法寺役僧が当寺に来られ、秘密の内に、同年八月十八日台北飛行場にて死亡した印度独立軍最高軍司令官 チャンドラ・ポース氏の葬儀を依頼された。当時世情不安にて、妙法寺住職並近隣諸寺は種々の事由から悉く拒絶されたが、蓮光寺住職は変ってゐるから是非引 受て貰いたいといふ相談である。私は霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。其の結果同月 十八日午後八時、ボース氏の遺骨を当寺に持参して葬儀を挙行することになつた。

 参列者は参謀本部の平服軍人、ボース氏親衛隊員、サハイ夫人、アイヤ氏、ムルテイ氏、木村日紀氏、其の他印度人、日本人約百名が参集した。

 其の後印度人が参拝に来寺したが、極秘故遺骨保全に苦労し、日夜心身共につかれ、寺務に支障を来たした。昭和二十五年サンフランシスコ平 和会議の頃になると、ボース氏の事が新聞報導せられる様になり、印度代表部チェトル氏と共に外務省儀典課長田村幸久氏が当寺に見えられ、ポース氏の遺骨に 参拝した。同年五月、六月にボンベイ情報官アイヤ氏調査に来られ、再度来寺、トラベル一等書記官も来寺、貴下の行動如何によつては日印関係の紛乱する事が あるかも知れぬ故自重されたいと言い、ボース氏の為めに身命を賭したことを感謝し、最上の敬意を示した。ラウル大使が来朝し再参来寺し、諸事よろしくと頼 まれた、私も昭和二十八年二月下旬にラウル大使と会見し、ポース氏の遺骨に対し指示を求めた処、利欲に利用する事、不純な策動に乗る事、其の他の目的に利 用するのは全部拒否する方針である。但し貴下主催する分には構はぬと言つた。

 昭和二十八年十一月二十七日、私は印度首相ネール氏へ手紙を出して如何に処理をすべきかを尋ねた処、昭和二十九年月十二日に極秘の内に、 ネール首相代埋として大使館より二人来寺し、葬儀及遺骨に関する私の努力に対し絶大な感謝を示し、その所置に関しては骨に私の誠意を信じ、私を信頼して当 分之を回向して預り呉れと云はれた。

 昭和三十一年五月三十日、チャンドラ・ポース死因調査委員会に呼ばれ、当時の模様を聞かれた(詳細は印度政府発行調査記録にあり)後三人 の委員は直ちに当寺に参り遺骨に焼香供養した。スレス・チャンドラ・ボース氏は涙を流し、立ち上る事すら出来ず、私も共に泣き手を取り自動車へ乗せ帰らせ た。

 昭和三十一年十月十二目に外務省より報告書が届いた。要約すると「委員会が挙げている証拠が本事件に関連するほとんどすべてを綱羅してい るので、承認さるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故の為め不慮の死を遂げ、現在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。 このボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、道当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに永年にわたり大いなる崇敬の念をもつて遺骨の保護に当つて来ら れた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい」と。

 以来、昭和三十二年八月十八日、ボース氏十三回忌大法要を挙行す。列席者はインド大使館員外務省、其他多数。
 昭和三十二年十月十三日、ネール首相来寺親しくボース氏遺骨に参拝、私に感謝の意を表した。
 昭和三十三年十月四日、プラサット大統領来寺参拝敬意を表した。
 昭和三十四年十二月四日、シン印度大使参拝し敬意を表す。


 44年間異国に眠るネタジの遺骨

(1989年7月17日パトリカ紙記事)


 デリー支局発七月十六日、全インド自由戦士協会の代表幹事シール・バドラ・ヤジー、シャール・ブシャン、事務総長のV・L・ サンダー・ラオ氏と自由インド協会総裁のP・S・ウトゥリ大佐、事務局長のS・S・ヤダウ氏は、本日当地において政府に対し、全インド戦士協会とインド国 民軍協会とともに一九九○年一月二十三日までに、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの聖なる遺骨を日本がら帰還させることに協力するよう合同で要請し た。これは祖国解放の指導者に対し国家的栄誉を讃えること、彼を記念するシャヒード・スマルク(記念館)の建設の機会に行うものである。声明は「わが国の 国家的指導者の遺骨がこの四十四年間も国家的栄誉も示されないまま異国の地に置かれているのは不幸と言わなければならない。連邦政府は議論の余地があると して依然として遺骨の償還に乗り気ではない。一九四五年八月十八日の台湾の飛行場における事故によるネタジの死亡は、政府が派遣した二度にわたる調査団に よって確認されている」と述べている。

 さらに声明はハビブル・ラーマン大佐が遺骨を東京に運ぴ、それを日本の大臣や軍の高官、インドの人々が受け取ったと述べている。遺骨 は黄金の厨子に収められ、東京の蓮光寺の住職の手に委ねられ、現在もこの住職と東京のスバス・チャンドラ・ポース・アカデミーの信頼の下にそこに置かれた ままである。

 二期にわたりインド国民会議の議長に選ばれ、九ヵ国から承認された自由インド仮政府主席であり、インド国民軍の最高司令官で あったネタジが、一九四五年八月十八日、台湾の台北飛行場における事故により死亡したことは厳然たる事実である。事散後ネタジは南門にあった日本の陸軍病 院に運ばれたが、その地で院長の吉見胤義軍医大尉によって死亡が宣せられたのである。



 ネタジの偉大さについて

               マハトマ・ガンジー   
             (1947年1月23日ネタジ51回目の誕生日に寄せたマハトマ・ガンジーの言葉)


 我々がネタジの生涯から引き出すことができる最大の教訓は、彼が同士の人々に一体化の精神を注ぎ込んだことである。その結果、同士たちはすべて の宗教的、地域的障壁を乗り越えることができ、共通の理由から血を流したことである。彼独自の業績は歴史のページのうえで彼を不滅にするだろう。インドに 帰ってきたネタジの後継者たちが私に会った時、すべてが例外なく、ネタジの感化が彼らの上に輝き、インドの自由を獲得するというただ一つの目的のために働 くことを言ったのである。いかなる宗教的、あるいは地域的差異に対する疑念も、彼らの心に影を落としていなかった。

 ネタジは偉大なる資質、偉大な能力を持つ人物だった。彼は広い学識と知的能力によりインド高等文官試験に合格したが、職務にはつかなかった。イン ドに帰国した彼は、デスバンドゥー・ダスの影響下に入り、その後カルカッタ市の主任行政執行官になった。後に彼はインド国民会議の議長を二期にわたり務め たが、記すべき彼の活動の最大の業績は、カブールから歩いて祖国を脱出し、イタリー、ドイツなどの国々を経て、最終的に日本に到着するという国外における 活動である。外部の人々が何を言おうとも、現在のインドにおいて、彼の国外脱出が犯罪であると考える者は誰一人として存在しないことを私は断言する。タル サイダスが「真に有能な人物に汚点は有在しない」と言うように、ネタジの名前をその国外脱出のために非難することは不可能である。彼が自身の軍隊をもって 初めて立ち上がった時、彼はその数は重要でないと考えていた。その人数がどれだけ少なかろうと、自由インドのために最前を尽くして耐え抜くであろうと、彼 は考えたのだ。

ネタジの最高、最大の業績は、カーストや階級の違いを払拭したことにある。彼はただ単にベンガル人ではなかった。彼は決してカースト的に考 えることはなかった。彼の下のすべての人々にあらゆる違いを忘れさせ、一つの熱意に燃え立たせたのは、一人の人間として行動するということだったのであ る。


 偉大なる世界的人物、ネタジ

                    ビルマ連邦首相ウー・ヌー 
 (1957年1月23日ネタジ・スバスーチャンドラ・ボースの生誕61年記念式典に寄せられた言葉)

 ネタジは我々の時代の偉大なる人物の一人である。若い学生として才能は光り輝いていた。早くから宗教的情熱をたぎらし、成長しては、祖国の人々の貧困とインドは自由ではないという事実をより深く考えるに至った。

 青年時代、内部に抱いた葛藤は広がり続けた。当時もっとも羨望されたインド高等文官試験を目指し、彼は合格した。彼の内部の葛藤はさらに 鋭さを増した。彼は高等文官の地位に着き、外国支配下の行政に奉仕したくなかった。家族、友人の熱心な勧めを振りきり、植民地官僚にならず、祖国と祖国の 人々に自分自身を捧げる決心をしたのである。

 インドに彼の足跡が記されるまで長い時間はかからなかった。数年のうちに彼の名は全インドに知れわたった。自由に対する彼の犠牲的精神は、インド国民会議の議長に選ばれることにより認められたのである。

 インドからヨーロッパヘ脱出し、そして日本に到る彼の物語は今ではよく知られている。ネタジはインドの解放を早めようと決心していた。

 彼は自由インド仮政府の指導者となり、インド国民軍の基礎を確固たるものとし、「チヤロー・デリー」のスローガンが人々の日に昇った。

 ネタジは力強い人間性の所有者だった。彼は高い知性と強い指導力を併せ持つというたぐい希な人物だった。戦争中、ビルマにいる頃、私は彼 を知る機会に恵まれた。彼が常に根底に持ち続けたただ一つの理念がインド独立であった。彼はインドの自由に向って遭進し、そのためにはどのような犠牲もい とわないことを決心していた。

 彼の簡明さは彼の力強さと一体になっていた。彼は人々からもっとも敬愛された人物であり、それは彼の個性と人格が人々にもたらしたものである。何ものにもまして、彼はいずれの国においても誇り得る戦う勢力を創り上げたのである。

 ネタジはインド独立の戦いにおいて巨大な役割を果たしている。ネタジの行動は多くの自由を求める国々を鼓舞し、これからも鼓舞し続けるで あろう。ネタジは希に見る偉大なインド人であるばかりでなく、世界的に偉大な人物なのである。挨拶を贈る機会を得たことを私は大変光栄に感じております。


 昭和十九 年、東南アジア在住の優秀なインド人青少年が、将来のINA幹部となる教育を受けるため、ネタジに選ばれ、日本の陸軍士官学校や航空土官学校などで勉学に 励んだ。戦後各国に散らばりそれぞれの分野で活躍したが、日本を第二の故郷と思っている点は共通している。留学生の一人だったD・ダサン氏から本書のため に寄せられる支章を中心に、留学生関係の資料をまとめた。

 1.INAにおける教育・訓練機関
インド航空機長 D・ダサン

 インド独立連盟総裁に就任したネタジ・スバス・チャンドラ・ボースはただちに組織の再編成を行った。機構をいくつかの局、インド独立連盟の効率 的な運営のための人事、採用を任された人事局、東アジア中から応じた志願者をインド国民軍が受け入れるまで収容しておく、これまでの青年局を吸収した訓練 局も必要だった。これまでの青年局長が訓練局長となった。

 志願者の訓練は三段階に分けられた。第一段階は、志願者は家庭や職場を離れず朝か夕方の訓練を受ける。第二投階は、志願者は東アジア各地に設けら れたキャンプに入り、二十四時間訓練の下におかれた。第三段階で志願者は兵営に収容され、INAの一人前の兵士へと教育された。総合的動員計画の見地か ら、ネタジ・スバス・チャンドラ・ポースは若者だけでなく、年齢に関係なく戦闘可能な肉体を持ったすべての人々を求めた。そのために青年局が訓練局に吸収 されたのである。訓練はIAIと構成員の訓練に責任を負っていたマラヤ支部からの指示で各地にあった支部などの下部組織のアザドスクールの終了生が当っ た。当然、出来るだけ朝方か夕方の二、三時間の訓練が地方の下部組織の責任で行われた。さらにそこには六ヵ月間のINA将校訓繰課程も置かれた。

 最初の正式キャンプ(訓練施設)は一九四三年八月十五目頃、マラヤに設けられ、その費用は全額マラヤが負担した。さらに最高度の教育のた めに特別キャンプが必要だった。そのため三つのキャンプがシンガポールとクアラルンプールのアザドスクール、ラングーンのスワラジ青年訓練所が既に作られ ており、その他に百人の志願兵を訓練するペナンのアザドスクールが一九四三年八月初めに造られた。N・ラガーヴァンを所長として運営されていたペナンのヒ ンド・スワラジ訓練所はさまざまな理由から閉鎖された。後にこれは志願具の訓練キャンプに再編成された。その後日本軍は謀報員の養成に関心を余り示さな かったため、司令官にはスバス・チャンドラ・ボースによりスワミ少佐が任命された。ビルマにも同様のスワラジ訓練所が設置された。

 以上の他に、
 一、ラングーンにあった商業高校を情報要員訓練施設に変えた、
 二、ラングーンのカウベ訓練所を同様の情報要員訓練施設とした、
 三、ラングーン、ロアスのW/S訓練所、
 四、メイミョウの青年訓練施設、
 五、ラングーン、シンガポール、メイミョウのラニ・ジャンシー連隊のキャンプがある。

 これらのなかにペナンのサンディ技術学校、R・S・アワスティの担当した無線操作を教育するウスマン・クラウス・キャンプがある。また、 ビルマのティンガニウムにはプロパガンダのための学校、ミュルガロンには空挺学校が置かれた。後期教育は、一九四二年、INA総司令部内に地図解読とイン ド史が研究施設で行われた。第三LTAA連隊のメホール・ダス少尉がこのような訓練に当った。彼は一九四四年にアラカン山系におけるJIFの作戦に従事 し、ビルマでINAの少佐として捕えられた。同様に、以前バハワルプール第一歩兵旅団の大尉だったシャウカット・アリ・マリクは一九四四年春のアッサム戦 線でINAの情報班の中佐として作戦に参加した。

 高度教育の必要性

 スバス・チャンドラ・ポースはINAを直接命令下において、若い者たちに高度な国防教育が要ることを痛感した。それは日本で、日本軍中枢の同意 を得てはじめて可能だった。それには留学生(士官候補生、あるいは幼年学校生徒)が日本語と日本の文化をよく識るため約六ヵ月間の二つの一般教育の準備が いった。K・S・キアニによれば、スバス・チャンドラ・ボースはINAでは用意できない海軍と航空の訓練を若者に受けさせることを特に望んでいた。ボース は、最高度の軍事教育を日本の東京で受ける候補生四十六名を採用する決心をした。一九四三年九月に厳格な試験が始まった。これは若者たちの間に三十五名の 第一期生に加わろうと空前の興奮をまき起こした。最年少の候補生は十四歳だった。

 東京への出発

 最初の留学生が一九四四年の二月、シンガポールから東京に発ったとき、ラングーンにいたスバス・チャンドラ・ポースは次のようなメッセージを留学生たちに伝えた。

「親愛なる子供たちよ、私自身に息子はいないが、諸君は母国インド解放という、人生において最高の目的を私と共に持っているから、自分自身 の息子や娘以上に身近である。私の魂は常に君たちと伴にあったし、将来も常にそうだ。神が諸君を守りますように。    ジャイ・ヒンド!」

 また別の手紙ではボースは留学生からの手紙の返事として次のように言っている。

「諸君からの手紙を受け取り、大変よく学んでいることを知りとても幸せだ。諸君たち全員が日本滞在から最大の効果を得ようとし、母国にふさ わしい息子として自由インドに帰ろうと決心しているのは大変うれしい。諸君は、最後の血の一滴までインドの独立を守る兵士になるべく高度な訓練のために出 かけている。その間、アラカン、カラダン、インパール、コヒマの戦場で戦うインド国民軍将兵の英雄的、自己犠牲の行動は、諸君のすべてが全生命をもって後 に続くべき輝かしい先例である。諸君は十代にもかかわらず、家庭や両親、兄弟、姉妹のもとを離れ何千マイルも離れた日本へ旅し、これから何年間かを過ごそ うとしている。我々と肉体は何千マイルも難れていても、諸君は常に私の心の中にいる。
 昭南に諸君を送った時たくさんの話したいことがあった。しかし、諸君と別れることが私を圧倒し、語ることが困難だった。別れを告げるために二月 に昭南に戻りたいが、インド・ビルマ国境付近の軍事行動のために不可能だ。将来、私は諸君からさらに遠くへ雛れなければならないだろう、あるいはそうなら なくとも、手紙を書くことは出来る。しかし諸君は手紙を書くチャンスがあればいつでも私に書いて欲しい。私はどこにいても諸君のことを思い、諸君の成功を 祈っている。
 日本にいる間、毎日インド国歌を歌い続けてほしい。そして朝晩に祖国インドのさらに価値ある息子となるように祈ってほしい。                          ジャイ・ヒンド
                                                             一九四四年六月十八日
                            インド国民軍最高司令官スバス・チャンドラ・ポース」

 留学生たちへの祝福

 一九四四年七月十四日、すなわち南・東アジアにおけるインド独立連盟の総裁就任一周年に当って、ネタジ・S・C・ボースは東京で訓練を受けている留学生に手紙を書いている。もっとも力をこめて礼儀について述べている。以下に紹介する。

「親愛なる少年たちよ
     諸君は常に私の心の中にあり、
     諸君を誇りに思い、
     諸君を信頼している。
 私は、諸君が自由インドとなっているインドに戻る日、つまり諸君がインドの独立の守り手として立派な兵士として帰国する時を待ち望んでいる。
 諸君は日本における自由インドの代表である。諸君は目本で自分自身を自由インドの戦士として鍛えるためにいる。日本にいる間、諸君は日本の文化と文明の最高のものを摂取して欲しい。
 諸君がインドの偉大さと光栄の守り手であることを憶えていて欲しい。          ジャイ・ヒンド
                                        スバス・チャンドラ・ボース」
 
 日々の祈り

 ネタジから留学生に宛てて書かれた手紙は彼らに影響を与えた。留学生にとってボースはネタジであるだけでなく愛情を捧げる保護者だった。日々の祈りで留学生たちは次のことを繰り返した。

  私は常に自由インドに忠誠を尽くす。
  私は常にネタジ・スバス・チャンドラ・ボースに忠誠を尽くす。
  私は常に言葉と行動において純粋である。
  私は常にすべてのインド人を兄弟として接する。
  私は常に最初から最後までインド人であることを忘れない。
  私は常にインドを代表していることを忘れない。
  私は常にわが国が私の行動で判断されることを忘れない。
  私は常に自由インドの名前に値する礼儀にかなって身を処すことを忘れない。
  私は常に祖国の名誉と尊厳を支持する。
  私は常に祖国のためには全てを、生命をも捧げる用意がある。
  万能な限りなく慈悲深き神よ、私に勇気と強さを与え、ネタジと自由インドの信頼される僕として花開かせ給え!

  インキラプ 万歳!
  自由インド 万歳!
  ネタジ 万歳!

 日常の通信

 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは常に留学生たちに手紙を書き、留学生の生活状態に気を配っていた。別の手紙では次のように書いている。

「諸君の中に私の記憶が常に生き生きしたものであるように。私は諸君に愛情を注ぎ、諸君に完全な信頼を置いている。君が一人前の兵士となった時、諸君は我々の国をあらゆる危険から守る任務につかなければならない」

 ネタジ・スバス・チャンドラ・ポースはインド独立連盟のあらゆる施設で留学生に対するのと同じように生活状態に気を配った。インド独立連 盟の後方司令部の副官ジョン・ティヴィ将軍によれば、一九四四年十月九日付の東京世田谷区上北沢の興亜同学院にいる留学生に宛てた手紙で、総司令部は東京 にいる留学生に関するニュースは全て、彼らの一通の手紙であっても伝えるようにと言っている。留学生たちは、少なくとも一人が毎月一通の手紙を書くほど だった。手紙には日常生活に加え、ネタジが知りたいと思われる身近な事柄、人々や、文化、出来事や経験など、細々したことが書き綴られていた。

 こういったことが、留学生にネタジが一人ひとりを心配し、日本にいる仲間だの留学生全てを気にかけている印象を与えた。留学生たちは、自分たちの情報がラングーンのインド独立連盟の総司令部と同様、東京のIILの地域委員会の議長にももたらされることを望んでいた。

 東京へ

 四十六名の留学生は、全て士官教育のために二度に分けて東京に送られた。第一陣は三十五名、第二陣は十名だった。不幸にも留学生の一人、ビシャ ン・シンは航行中の船が敵の作戦により沈められた際に溺死した。日本に到着するまでに船旅は七週間以上もかかった。第一陣がシンガポールを発ったのは一九 四四年二月十八日で、東京に着いたのは四月七日だった。

第二陣は八月になってからで、十名の留学生は二千五百人以上の日本人乗客と一緒だった。その船にアメリカ海軍の魚雷が一発命中し、船は沈没 した。わずか百名が生き残ったが、留学生の一人が生命を落とした。船が転覆してから生存者は南支那海に三時間半ばかり浮いたまま残され、生存者のうちのあ るものは米軍機の機銃掃射で殺戮された。九名の留学生はフィリピンで治療を受けるまで、日本軍将校と共に何日間か歩かなければならなかった。そしてそこで 船に乗り、留学生たちは救われたのだった。留学生のために東京への特別機が用意された。その後、補充された一名の留学生はシンガポールから空路東京へ飛ん だ。

 東京の士官学校に入る前に、留学生は準備教育のための特別訓練施設(興亜同学院)に入り、日本語、数学、科学、歴史、そして基礎的な軍事 訓練を受けた。シンガポールを発つ前に、留学生はインド史、日本語、インド文化といった教育を軍事教育や肉体訓練とは別に約三ヵ月間受けていた。三十五名 が陸軍士官学校で、十名が陸軍航空士官学校で、その他の国の留学生と共に教育を受けた。中国、インドネシア、フィリピン、タイ、蒙古からの留学生たちがい た。日本での訓練は少々厳しく、時には耐えられない程の時もあったが、留学生たちは一九四四年の暮れにネタジ・スバス・チャンドラ・ボースが東京を訪問 し、彼らの進歩に満足した時まで、不平も洩らさず苦しみを堪え忍んで精進した。

 終戦とネタジの死

 留学生の面倒をみた士官学校の梅田大尉、航空士官学校の加藤大尉は留学生の行動に強い印象を受けている。訓練は不幸にも日本の降伏により突然終 りを告げた。日本の降伏は一九四五年八月十五日の正午発表され、留学生に強い衝撃を与えた。留学生たちは、次にどうしたらよいのかまったく判らなかった。 航空士官学校の何人かの日本人将校が、翌十六日航空士官学校の留学生に、(降伏に)抵抗するグループが出来れば参加するかと接近してきた時、すべての留学 生が同意したが、事態はその方向に進まず、彼らは八月十八日、身の回りの荷物を手にラマムルティ氏の家に収容され、そこで台北で起きた航空機事故の報せと ネタジの死を知った。このことはもうひとつの衝撃を留学生たちに与えた。士官学校留学生はミセスA・M・サハイの家に到着していたが、数日後荻窪に大きな 家が見つかり、アメリカ軍に逮捕されるか、インドへ帰国するまでをそこで過ごした。

 八月二十日過ぎ、別の飛行機でS・A・アイヤー氏が東京に到着しサハイ家で暮らしはじめ、彼の存在が留学生に落ち着きを与えた。一週間後、ネタ ジの最後の飛行に同行したハビブル・ラーマン大佐がサハイ家にやってきた。彼はそれまで台北の飛行機事故で受けた傷の治療のため東京の病院に入院してい た。

 一九四五年八月十五日の降伏の後、自由インド政府の高級将校と閣僚は、ネタジはハビブル・ラーマン、S・A・アイヤ-、アビド・ハッサ ン、デブ・ナト・ダスの他数人と共に東京に向うべきであるという決定をした。一行は飛行機で東京へ向ったが、途中バンコックとサイゴンで足止めされた。サ イゴンで、ネタジとハビブル・ラーマン大佐は日本軍の将校を東京へ運ぶ重爆撃機へ乗り移った。サイゴンを離れてから、一行はインドシナ北部のトゥーランで 一晩を過ごし、八月十八日の早朝飛行機は台北へ向った。燃料補給のために着陸後、出発は十四時四十五分だった。飛行は空輸のため二百~三百フィート滑走距 難が増え、たいへん難しいものとなり、プロペラが失われ、機は飛行場のはずれに墜落した。

 八月二十三日、東京のラジオはネタジ、ハビブル・ラーマン、四手井中将や日本人将校を運ぶ飛行機が台北で墜落し、四手井中将と操縦土の他 数名が死亡したことを伝えた。ネタジとハビブル・ラーマンは重傷を負い、重度の火傷を負ったネタジはその夜病院で亡くなった。ハビブル・ラーマン大佐によ ると、ネタジの遺体は、東京あるいはシンガポールに輸送する手立てがないため、火葬に付された。

 一九四五年九月七日、ラマムルティ、S・A・アイヤーの二人は遺骨返還のため陸軍参謀本部に来るように、さらに、ハビブル・ラーマン大佐は火傷と負傷のため全身を包帯で巻かれており、ネタジの遺骨は台湾がら届けられていることを告げられた。

 翌日二人は参謀本部を訪れ、どうしてよいか判らずに待った。二人はポーチの下に立っていた。数人の将校を伴ったひとりの大佐が、ネタジの遺骨の 納められた壺を両手でうやうやしく捧げ、静かに階段を降りてきた。将校がまずアイヤー氏の頸に幅七、八インチの白布を輪に結び、大佐が壺をそこに置き、ア イヤー氏は骨壺を両手でしっかり抱えた。

 遺骨はまずラマムルティ家に運ばれた。ラマムルティ夫人は高いテープルを用意し、両側に香を焚き、壺の上にはネタジの小さな写真を置いた。これ らは夫人やその妹のムルティ、弟のジャヤ・アイヤー氏の心づかいだった。皆とても長い時間、顔を合わせながらショックを受けた状態で沈黙していた。ネタジ が生きているのではという願いはアイヤー氏の手渡した骨壺が完全に吹き飛ばした。しかし、それぞれの中には、ほとんどがネタジの遺骨は本物ではないのでは という感じを持って、憂鬱なドラマが展開していた。全ての出来事が現実ではないような空気がそこにはあった。壺の中の遺骨はネタジのものではなく、ネタジ はまだどこかに生存しているという願いだった。
 祈祷をすませると皆部屋を出た。三日後、遺骨は荻窪のサハイ氏の家に移された。その間、留学生たちはラマムルティ、サハイ家を見張り続けていた。

 留学生たちの戦後

 留学生たちはサハイ夫人、江守夫人とその家族に救けられ、勇気づけられた。アイヤー氏、ハビブル・ラーマン大佐、ラマムルティ氏もまた留学生のもとを訪れ、できるかぎりの援助をした。こういった状態が十一月の初めまで続いた。

 アメリカ軍当局は陸軍大学に置かれた移動のためのキャンプで留学生たちに報告書を求め、留学生たちの一団は飛行機でマニラに移送された。 アメリカ軍の話によれば、自らの自由のためイギリスに対し戦った点で罪に問われることはないだろうということだった。マニラにおいて留学生たちはアメリカ 軍からオーストラリアおよぴイギリス当局に引き渡された。オーストラリア、イギリス当局は、留学生たちが彼らに対して戦ったINAの一員であり、日本で訓 練を受けていたことをつかんでおり、軍の管埋下に置くためHMSヴェンテックス機で香港へ輸送した。

 香港では全員がスタンレー刑務所に収容された。収容期間は短かったが、対応は厳しく苛酷で、食物も与えられなかった。一九四五年の十二月 のある日、留学生は船に載せられ、一九四六年一月始めマドラスに到着した。船は香港から上海、ジャカルタ、シンガポールを経由しマドラスに着いた。留学生 たちはアンダマン島に収容されるのではないかと心配した。マドラスでいくつかの手続きの後、軍と警察当局は一九四六年二月の最初の週にすべての留学生を釈 放した。

 マドラスの収容所にいる留学生たちは親切で理解に満ちたソシアル・ワーカーの訪問を受け、釈放の時にはマドラスのウッドランドホテルでレ セプションが開かれた。マドラスでは留学生たちはINAの捕虜たちとは隔離され、ペラムプール集中キャンプに収容されていたが、最終的には拘禁状態から釈 放され、自らの好む場所に行けることになった。INAの捕虜の釈放を求めるさまざまな団体が組織され、援助が拡がった。

 若く、インドでどう暮らしたらよいか、自らどう進めばよいかが大きな問題だった。人生の進路や生活の方策を適正な指針なしに、もう一度模索しなければならなかった。インドの人たちが示した暖かい財力と世話はたいへんなものだった。

 将来を確立するため、最後の戦いがさまざまな方向に向って続けられた。ネタジの兄、サラット・バブ・ボースはジャダルプール工科大学で勉 学できるように取り計らい、留学生の何人かはそこですばらしい自由な教育を受けた。約十名がエンジニアリングの方面を選ぴ、その分野で成功を収めた。二名 が陸軍に入りすぐれた将校となり、一名はインド空軍に入り高級将校となり、のちには空軍武官を勤めた。五名が民間航空にパイロットあるいは管理部門に入り 成功している。残りの多くは仕事を求めてマレーシア、シンガポールに、一名はロンドンに行った。留学生たちはおおいに働き、自分自身の人生を築き上げた。 サラット・ボース、何人かの新聞人、数多くのINA将校、そして留学生の両親たちの援助を得たことが、留学生たちの将束を実りあるものにした。
 
 留学生たちを語る言葉

 梅田大尉・・陸軍土官学校の教官

 彼らはどこの国であろうとも誇りに出来る素晴らしい素質を持った少年の集団だった。

 P・K・サイガル大佐

 留学生たちは知力に優れ、熱心で、教育するにふさわしい健全な肉体の少年たちだった。日本で教育を受ける間、教師陣はその進歩ぶりに大変驚かさ れており、私が彼らの多くと会ったのは戦争が終り本国へ送還されて来た時だったが、彼らが困難な状況であるにもかかわらず決して落胆していなかったことを お伝えできるのはとてもうれしい。私は、彼らがそれぞれに歩んださまざまな人生で成功を収めるのを誇りに思って見つめていた。

 G・S・ディロン大佐

 ネタジは、一九四三年七月五日のインド国民軍に対する初めての閲兵で、この軍隊には二つの責務があることを言明している。まず初めに自由のため に戦うこと、自由を獲得した後は自由インドを守ることである。「INAは士気の高い近代的軍隊にならなければならない。INAの将校は自由インド参謀本部 を構成するのにふさわしくなければならない」という言葉は、ネタジが、東京の軍の教育機関で留学生たちを熱心に教育する協定を日本政府と結んだ目的と同一 線上にあった。
 幸運にも、日本の陸軍土官学校で将校教育を受けるために、ネタジに個人的に選ばれたものがインド国民軍東京士官候補生(INA Tokyo Cadets)として知られるようになった。そしてネタジは彼らを「わが息子たち」と呼ぴ、扱ったのである。 後に私は彼らの何人かに会った。あるものは素晴らしい職につき、あるものは生活のために努めていたにもかかわらず、だれもが愛国心を体現していた。
 こういった共通した特長が留学生たちにはある。彼らは日本で教官たちから異国での生活を楽しく過ごせるよう、暖かい、愛情に満ちた援けを得た。 また江守家の人々がこれとは別の形で留学生たちを心をこめて援けた。戦後留学生のある者たちは日本で教育を受けるため、あるいは観光、あるいは公用で訪 れ、江守家の人々に再会している。

 留学生たちは日本を第二の故国と感じている。困難な裁判で勝利を得るまで、日本人のある人たちは留学生の国を援けたのである。

 留学生たちは日本から帰国した時、日本と日本の人たちから得たたくさんの楽しい思い出によって、日本に行く時より恵まれていると感じてい た。留学生たちは、熱心に彼らを援け、忘れられない生活や体験を豊富に写えてくれた日本政府と国民に、水遠に恩義を感じ、インドと日本の国民が平和と繁栄 のために互いに助け合うことを願っている。そして留学生たちは、江守夫人と家族、日本の軍人や関係者、四十五年以上にわたり親愛するネタジ・スバス・チャ ンドラ・ボースの聖なる遺骨を守られた蓮光寺の先代と現在の住職に感謝の念を抱いている。ジャイ・ヒンド。インドと日本の友情を永遠に。ネタジは一九四四 年十月、日比谷ホールで我々は共に泳ごうと言っている。そしてさらに、私たちがうまく泳げるか溺れてしまうかは日本の国家の運命と伴にあると語った。

 留学生たちはインドに帰国するに際しても数多くの人たちの世話になっている。ここに感謝の意を表わしたい。

 (イ) 昭和五十二年八月十六日 朝日新聞 社会面より

  戦後さわやか 下宿のおばあちやん
    アジア留学生五十人世話 学資や結婚の相談も
                   渋谷の江守喜久子さん「大切なのは愛情よ」

 おばあちゃんと留学生とのつながりは、戦時中にさかのぼる。
 インド独立運動の志士チャンドラ・ボースが、日本にきた時、インドの若者四十五人も、陸軍士官学校へ留学した。異境の若者を食事に呼んだりして暖かくもてなしたのが、始まりだった。
 敗戦の日は、学徒出陣で四国にいた長男を訪ねていた。東京へ戻ると、自宅は焼け落ちていた。焼け跡へインドの士官学校留学生がきた。国からもってきて大事にしていた白いクツ下二足を差し出した。「ポクのあげられるものはこれしかないんです」
 おばあちやんは、岐章の医師の家の末娘に生まれた。東京に出て、女子美術に通っているうち、いま日活の相談役をしているご主人清樹郎氏(七六) とめぐり会った。ふたりとも学生だった。学生結婚のハシリとなる。「主人が六回も放校されたというんで、そこが気に入っちやったのよ。」もともと、不遇の 留学生の面倒を見る下地はあったのかもしれない。
(中略)

 タイの子供は二、三ヵ月で送金がなくなった。おばあちやんは、三年間、学資と生活費の面倒をみてやった。水産学校へ通っている子がどうも成績が悪い。「親から遺言で頼まれた。何とか卒業させてやってほしい」と校長を口説き落としたこともある。
 
(ロ) NHK国際放送  「東京だより」 昭和五十二年十一月二十六日放送より
  アジア留学生と共に
           
       江守喜久子さんを取り上げたラジオ番組があった。NHKが短波で世界各国に向けて放
       送していた「東京だより」であり、その放送台本が江守喜久子さんの遺品として残されて
      いる。放送はベンガル語班の手で行われ、留学生だったドット氏も出ているが、残念なが
     ら氏の発言は日本語で書かれた台本には入っていない。肉声で語る江守さんのことばに、
        その人柄が良くあらわれている。ナレーションと江守さんの言葉を中心に紹介する。

 東京の原宿通り。明るい喫茶店や、ショーウィンドウーに最新流行の服を着飾った店が並んでいます。晩秋、プラタナスの枯葉が歩道を黄色に 染めています。その落葉を踏んで着い男女が笑いさざめきながら通りすぎていきます。しかし、三十五年程前、同じこの通りを軍靴の音を響かせて通って行った 人たちがいました。第二次大戦に出征していく兵士達の行進だったのです。

 兵士達の固い表情は、しかし、通りの途中でやわらぎます。小休止が命ぜられ、待ち溝えていた婦人達の手から兵士ヘ、次から次と紅茶の入っ たカップが渡されます。通り沿いに住む一人の女性が、兵士に少しでも慰めを与えようと、近所の婦人達に声をかけ、このサービスを始めたのです。その女性 が、今日御紹介する江守喜久子さんです。

 一九四四年のある日、江守さんを一人の軍人が頼みを持って訪れて来ました。インドから来た、四十五人の若者たちに、紅茶を御馳走してやってもらいたい、とうのです。

 その年、スバス・チャンドラ・ボースさんが日本に来朝しました。四十五人は彼を慕い、日本軍の特殊教育機関で学ぶためにインドから共に来た青年達だったのです。

 青年たちをもてなしてから暫くたって、江守さんは戦災で焼け出され、一家は知り合いの家へ疎開しました。そんな或る日、一人のインド人青年が訪ねて来ました。そして一足の白い靴下を差し出してこう言うのです。

「紅茶、ありがとうございました。おばさんがこんな風になってしまってお気の毒です。僕は何もしてあげられないけれど、せめてこの靴下を受け取ってください」

 その青年は江守さんの紅茶を飲んだ人達の一人だったのです。
 その時を思い出して江守さんは――

「そのことから、私は、膚の色も違うし、敵か味方かも分からないような人だけれど、本当に心は良い子だと思ってね、国の違いなんて無いんだと感じたんです。皆、同じ気持ちの持ち主なんだから、世界中が仲良くすべきだ、って思ったんです」

 そして、そのインド人青年が江守さんの世話した最初の留学生になりました。彼の名はドット。今も日本に住んで、しばしば江守さん宅を訪れます。

 このドット氏がきっかけとなって、江守さん宅には、インドだけでなく、各国からの留学生が集まるようになりました。三十年以上の年が流 れ、江守さんも七十五歳になりました。何人の留学生と接してきたのか、あまりに多すぎて、今では分からなくなってしまったそうです。江守さんの所で留学生 生活を送った人達は、故国で、または日本に残って、それぞれの分野で活躍しています。故国に帰った人々は、機会をみつけては訪ねて行く江守さんをあたたか く迎えてくれます。インドを旅して、かつての留学生の家にとまった時の、こんな思い出があります。

「寝ているとソーッと人が入ってくるの。最初は吃驚しました。寝たふりをしていると、それは昔の留学生の奥さんだったの。その人は何も言わ ず、私の頭の上でじっと手を合わせて、暫くそうしたままでいて、又そのままそっと出ていきました。それほどまでに感謝してもらっているのかと、私はとても 嬉しかった」

 留学生を世話するといっても、簡単なことではありません。最初のうちは言葉も良く通じませんし、またどんな食べ物が好きなのかも分かりません。そのために、江守さんはこんなことを思いつきました。

「何を食べるか分からないから、缶詰をいっぱい用意しておくんです。それをいちいち指差しながら、ユー・ライク?って尋ねていく。そうすると一つは留学生が食べられるものがあります。昔の留学生が最近訪ねてきて、あのかんずめはまだあるか、って尋ねるんですよ」

 江守さん方に下宿する留学生は、単に江守さんから世話を受けるばかりではありません。門限は必ず守らなければなりませんし、他人に迷惑をかけるような、無責任な行動は固く禁じられています。これらの規則を破った学生たちを、江守さんは容赦なく叱りつけます。

 留学生はまた、江守さんの家の用事をしなければなりません。家の中の撮除や食器の後片づけ、時にはそれぞれのお国料理を作ること。おかげで、私は居ながらにして世界中の色々なお料理が楽しめるのよ、と江守さんは笑います。

 ともあれ、以上のことから分かるように、江守さんと留学生達は、母と子のようなものです。実際、江守さんは学生達をさして「あの子」と愛情をこめて呼ぴます。

 私達が江守さんを訪ねた時、元留学生でベトナム人の女性が遊ぴに来ていました。彼女は日本に来て、日本人の男性と恋をしました。江守さんは彼女の親代わりになって、男性の面親と話をし、2人を結婚させました。幸せな彼女に軽口を叩きながら、江守さんも嬉しそうでした。

 またこんなこともありました。ある留学生の家庭の事情から、送金が途絶えてしまったのです。見かねた江守さんは、その留学生の生活費から学費まで、一切の面倒を引き受けました。江守さんの親心に支えられて、その留学生は無事に日本での留学生活を終えることができました。

「本当に留学生を可愛がってあげなければ――。自分の子供と考えればいいと思うんです。自分の子を外国に出した親の気持ちになってみること です。留学生を世話するのは決して一方的なことではありません。こちらもずいぶん助けられたり、楽しい思いをさせてもらうことも多いんです。利害関係では ないんですから、お互い助けつ、助けられつ、両方が歩み寄ろうとする気持ちが絶対必要です」

 留学生だからと言って、特別扱いするのもいけない、国は違っても同じ人間なのだから、心さえつくせば必ずお互いが理解し合える害と江守さんは説きます。

 第二次大戦が終り、インドからの最初の留学生たちも、ほとんどインドへ帰っていきました。いよいよ帰国という時、江守さんは彼らから、一 つの頼みを託されました。既に亡くなっていたチャンドラ・ポースの霊を日本で慰めてあげて欲しい、ということでした。心よく引き受けた江守さんはそれ以 来、ボースの誕生日と命日の年に二回、お墓参りを欠かしたことはありません。数えてみれば、もう七十回近くも墓参を続けたことになります。

                       (この段落は、放送の台本では線が引かれ削除されている)

 最後に江守さんは、故国に帰っていったかつての「子供たち」、そしてこれから新しくやってくる「子供たち」にこう呼ぴかけました。

「日本にきたら、、私を訪ねてきて。皆に会いたいのよ。あなたがいくら偉くなっても、ここではちっとも偉くないの。ここなら、誰でも、何でも、気楽に話せるんです」

(ハ)  天声人語 朝日新聞
 江守喜久子さんのことを書く。生涯、アジアの留学生たちの面倒を見続けた人だった。東京・渋谷の江守家から巣立った留学生は三百五、六十人にのぼるという。*戦前に世話をした若者の中には独立運動の志士チャンドラ・ボースもいた」
 江守さんにはいちどお会いしたことがある。「わたしんとこはもう、むちゃくちゃなのよ」といった時の楽しそうな笑顔をおぼえている。居候の留学 生にインドネシアやベトナムの料理をつくらせる。さら洗いをさせる。江守さん自身のせんたくものまで、押しつける。買物のお供に連れて行く。平気で悪日雑 言をあびせる。
 それはもう、老母と息子、あるいはわがままいっばいのお婆ちやんと、お婆ちやん思いの孫、といった関係だったらしい。そのかわり江守さんはとこ とんまで居候留学生の世話をした。病気の青年の医療費をもち、時には学費までだした。家の仕事を手伝わせては、小づかいを与えていた。おばさん(江守さ ん)は実の母以上だった」という元留学生もいる。
 インドに帰った青年は、結婚式のときに江守さんを招いた。インドの空港に降り立った江守さんは新聞記者にかこまれた。青年は名家の出身だった。 たとえ名家のおぼっちやんでも、江守家では掃除、せんたくをさせられたのである。留学生だから特別扱いにする、ということはなかった。人問何士の率直なつ きあいを大切にする人だった。
 肝硬変で入院したときは、かつて「おばさん」と呼んだ留学生たちが交代でつめかけ、深夜までつきそったという。しかしこの六月、江守さんは亡くなった。七十五歳だった。「留学生に愛情をもつ政治家が少ない」とよくいっていたそうだ。

(後略)*部分は「天声人語」の執筆者の勘違い。チャンドラ・ボース本人を江守家で世話したと言う事実はない。

 スバス・チャンドラ・ボース九十歳の誕生日一月二十三日を記念して、第六回インターナショナル・ネタジ・セミナーがカルカッタで開かれ、印度留学生の教 官としての立場から招待を受けた。実は一九八一年と八二年にも招待を受けたことがあるが、結局いけなかったので三度目の正直で、仕事もやめて暇になったこ ともあり、最後のチャンスと思い切って参加することに決心した。昨年八月十八目、チャンドラ・ポース・アカデミーが、ポースの命日に行った蓮光寺の法要に 参加し、この世紀の革命児の英雄的な生涯に接したが、四十年も経っても遺骨が日本の片隅に僅かな人々によって祭られるばかりで、本国での顕彰もままならぬ 現況に同情と悲憤を覚えたこともあり、少しでもお手伝いできればとの気持ちもあった。幸い海外旅行友の会のご協力により諸事万端手配を受け、一月二十一日 出発。シンガポール航空SQ07便で壮途についた。

 生来の不精者、不勉強で特に語学力、会話力不足は、前二回の海外旅行で骨身に染みていたところだが、行けば教え子もいることだしと、その協力を当 てにした図々しさで押し切り、真冬のインドへのイメージのまま、防寒上衣も見送りの女房に持たせて返し、背水の陣を布く。途中シンガポールで若干の手違い があり、インド着は二十二日の十四時頃になった。空港には主催者のボース博士直々の出迎えを受け、VIP扱いで税関もフリーパス、誠に順調な滑り出しで あった。

 ホテルに着くとオーストラリアから来た教え子のハルチャラン・シン・ヴィリックとも会い、いよいよ心強い。

 一月二十三日より二十六日にわたる四日間のセミナーは、カルカッタの中心部ボース通りにあるネタジ・ハウス(ボースの生家、史蹟で一般公 開されている)で行われた。第一日はインド大統領と西ベンガル州知事が出席、テレビにも中継される国家的行事の感があったが、会場はハウス内に仮設急造さ れたトタン屋根の大会場で、一般の参加者もあり千人近く大聴衆であった。今回はわざわざ西独からネタジ・ポースの令嬢夫妻、西独のエミリ夫人との間に生ま れた長女アニタ・パス博士(大学教授)はじめ、アメリカ、カナダ、バングラデシュ、日本(小生)からの代表が壇上に並んだ。インド国歌演奏の中に大統領が 到着して会が始まった。まず、ネタジ・ポースとビルマ戦線インパール作戦等で苦楽を共にした自由インド国民軍第一師団長M・Z・キアニー大佐(最近死亡) の未亡人ナシュア夫人と娘さんに、大統領から表彰の記念品を送られた。それを度切りに夫人の謝辞、大統領、州長官の演説に続いて、西独を始め各国の代表の スピーチが続いた。小生も五分間であったが、日本代表として留学生を通じて知ったボースの印象を、教え子ガナの通訳で、日本語で話した。
 
 健在なりインド国民軍歴戦の勇士

 今回のインド旅行を通じて得た最大の印象は、四十年前の大東亜戦争によって培われたインド国民軍と日本軍との間に生まれた戦友愛である。セミ ナーの間や、また夜のディナーパーティーで、「少ししか目本語を知りません」と前置きして、積極的な自己紹介を受けた目の鋭い英国紳士風のサイガル大佐、 情熱の塊のような白髪のディロン大佐のお二人から受けた純一無雑の友情と親愛の情は、永久に忘れることの出来ない思い出である。この二人と知合っただけ で、インドに来た甲斐があったと感じた次第である。インドの留学生の教育に携わったとはいえ、野戦の経験皆無の小生にとっては、南方作戦の知識は殆どな かっただけに、自己紹介されてもどんな人か全然知らぬままキョトンとしている他はなかった。この二人がインパール作戦の後、日本軍と悲運を共にした勇敢な 歴戦の勇士であり、歴史の証人とも言うべき両指揮官にお会いできたことは望外の幸せで、四十年経った今でも変わらぬ戦友愛を見せられ、感激の極みであった。
                                      (一九八七年五月発行「借行」より)
 

(1992年8月28日調査、INA東京留学生の住所氏名左記著書より)
                                           Netaji Centre,Kuala Lumpur:NETAJI SUBHAS CHANDORA BOSE

  R・M・アンナマライ(アナマレ) インド・タミールナド州カライクデイ在住
  アタール・モハメッド       准将 パキスタン在住死亡
  アヌプ・シン・クマール      一九五○年代早期に死亡
  R・S・ベネガル         インド・カルナタカ州バンガロール在住、空軍中佐
  ビモール・デヴ          ビルマ海軍死亡
  ビシャン・シン          一九四回年、日本へ赴く途中死亡
  S・K・チャタジ         一九八二年、カルカッタにて死亡
  N・G・チョウドリー       マレーシア、クアラルンプール在住
  D・ダサン            インド・マドラス在住、インドエアライン機長
  K・ドレーサミ          一九九二年死亡
  A・R・ダッタ          ニューヨーク在住、ラマ海運社長一九九○年、アメリカにて死亡
  V・ガナパシィ          インド・タミールナド州在住
  G・ガナパシィ          一九八八年クアラルンプールで死亡
  D・ガナラジャン         インド・ケララ州在住
  M・ガンディナサン        マレーシア、クアラルンプール在住
  A・K・ゴーシュ         マレーシア、セランゴール在住
  M・ガンジー・ダス        一九四六年、インドにて死亡
  A・K・グプタ          一九五○年、ランチにて死亡
  ハルバンス・シン・クマール    インド・ニューデリー在住
  B・カーマカール         ニューデリー在住、航空機長
  S・カーマカール         インド・ビハール州ジャムセドプール市在住
  C・P・クリシュナン       インド・ボンベイ在住、エア・インディア機長
  N・カルッピア          一九八八年、インドにて死亡
  K・D・メノン          マドラス在住、インド。エアライン機長
  P・L・メイヤッパン       インド・タミールナド州カライクデイ在住
  R・メイヤッパン         インド・ポンベイ在住
  P・K・ミトラ          准将一九七五年死亡
  N・C・ムケルジー        マレーシア、セランゴール在住
  V・ナタラジャン         シンガポール在住
  V・ナチャッパン         インド・タミールナド州マドラス在住
  C・P・ナラヤナン        英国キングストン在住、エア・インディア機長
  R・B・ナイドゥー        インド・ボンベイ在住
  スクビール・シン・ニンドラ    インド・バンジャブ在住、PSEB総支配人
  K・ナヴァラトナム        ー九四九年、パトナにて死亡
  K・ラビンドラナート       マレーシヤにて死亡
  P・K・ラジャン         アフリカにて死亡
  M・K・ラマクマール       インド・トリヴァンドラム在住、陸軍少佐
  ランジット・ダス         インド・ボンベイ在住、航空機長
  ロバート・S・プロスパー     東マレーシア・サラワク州ミリ市在往
  R・K・セカール         一九九二年マドラスにて死亡
  S・B・シャルマ         シンガポール在住
  S・P・シャルマ         イギリス、ミドルセックス、ハロー在住
  S・V・シャルマ         イギリス、ロンドン在住
  C・I・テヴァール        カナダ・ストーモント郡在住
  H・S・ヴィリック        オーストラリア、シドニー在住
  S・S・ヴィリック        オーストラリア・メルボルン在往      留学生離日記念アルバムより R・M・アナマレ(Anamalai)
      
      オバサン!
      アナタハ オカァサンノ カハリニ オカァサントシ
      オトオサンノカハリニ オトォサントシテ ソゥトコマツテ
      イルトキ ワレワレ ヲ ヒジョウニタスケテイルノハ
      マコトニ アリガトゴザイマス ドゥモアリガトゴザイマス。
      ハツコウ イチユウ
                              アルエム アナマレー
                              サンムガナダプラム
                              ラマナド ケン
                              ミナミ印度
                    (原稿の日本語のまま)


 長い年月 を経た今でも、インド自由闘争に参加した当時の記憶は昨日のことのように真新しい。当時の体験、印象、関係、訓練などが一体となって、私の人生に永遠の思 い出として生き続ける。それらの全てが、責任感の強い、祖国に役立つ、真の市民を作り出す気運を醸していた。この点で、私は多くの人に支えられて今目に 至った。大東亜戦争の勃発当時、私は高校を卒業し医大に進んでいた。父の意志を継ぎ医師になる情熱に燃えていた。しかし戦争の勃発が私の人生を変えた。戦 争に私は目覚め、それ以来この偉大な目的、つまりインドの自由の為の戦いに身を捧げる決心をした。

 時を期して偉大なインド人自由闘士が現れた。それは自分 の苦難を顧みず、インド人に尽くす、高貴で偉大な聖者、哲学者、指導者であり企画者S・C・ボースの出現だった。彼の名はインド全域ならず世界に知られ た。私は躊躇なく私の人生を彼に捧げる決心をした彼は敏速に手を打ち、旧英国軍インド部隊と各地の人材からインド国民軍を組織した。彼は短期間に人望を得 て、何時でも参戦できる軍隊を作り上げたのだ。彼はまた自由インドの行政を管理できる人材の獲得に乗り出した。その結果四十六人の若者が選出され、日本の 最高軍事教育機関で訓練を受けることになった。最終的に三十五名が陸軍士官学校ヘ、十名が空軍士官学校へ送られた。この計画は日本が連合軍に降伏し挫折し た。

 ビルマ、マレイシア、シンガポール、その他の東南アジア諸国に散らばっていたインド国民軍の軍人関係者は、戦後旧植民地で植民地政策を続行した英 国軍の戦争捕虜となった。日本で訓練を受けていた幹部候補生も同じ運命にあった。若く、未経験で、未知の国に残ざれた我々は頼る術がなかった。我々は祖国 を遠く離れた異国に置き去りにされた。終戦の終日後、台北でネタジ・スバス・チャンドラ・ボースが航空事故で悲劇的な死を遂げて以来、日本滞在の幹部候補 生たちの命は運命に任せられた。その時、失意の底にいる我々に思わぬ救いの手が差し伸べられた。それは江守夫人と娘の和子女史だった。彼女らはこの困難時 に食料及ぴ必需品を供給してくれた。特筆すべきは、江守夫人がインドの交換留学生だけでなく、困っていた他の国からの留学生にも国境を隔てた救助をしたこ とだろう。彼女の援助は文化の壁を越えた、個人の貴い心から出ていた。自分と家族の食料に瀕していたときに、彼女はインド人の幹部候補生を始め、外国人の 為に食料を提供してくれたのだ。我々が出来ることは、彼女に愛と尊敬の念を捧げることだけだった。彼女こそ我々にとってフローレンス・ナイチンゲールであ り、マザー・テレサだった。我々が"おばちやん"と呼んだ彼女こそ、偽りなく我々の母だったのだ。日本の戦後の状況に身を置いて考えれば、事の子細は見え るだろう。外国兵を助ける危険は大きく、それに対する未知の恐怖は計り知れなかった。しかし、被女は日々欠かさず我々に必需品と愛を届けた。彼女は我々の 面倒をみることを日本人の道徳的義務と考える日本人だった。

 我々幹部候補生は一九四四年の年頭に来日した。日本全体が桜の花に覆われ、残雪は見たこともない美しい風景で我々を迎えた。日本人は礼儀 正しく、勤勉だった。正に日本が精神的に一番高揚している時だった。物資は乏しかったが、日々に立ち向かう勇気、戦争に勝利する断固たる決心は我々を励ま した。

 ネタジは我々を選ぶとこう言った・・日本へ行け、そして訓練を通して武士道精神に基づく日本文化の最高峰を学ぴ取れ。我々は目前の偉大な 訓練と艱難に燃えてい・・・・・・我々の訪れた都市は最高調にあった。我々の会った人たちは例外なく、人身に宿る最良のもの、精神、命、心を一語に具体化 した"精神"という言葉で語った。勇気ある決意、勤労精神、愛国心、力の団結、社会への信頼、全てを共通目的と人類の為に自己を犠牲にする精神がそこに あった。我々は教官、教師、同僚らと衣食を共にし、愛と信頼を得た。これらが苛酷で苦しい訓練をやり抜く環境を提供した。(物的な)要求は二次的なものと なり、生き、学び、同朋につくし、自由を獲得するために長い困難な戦いを挑むことが最重要になった。

 戦争の中途から日本は連合軍の空襲を集中的に受けるようになり、日夜、都市が焼け野原になっていった。美しい国が我々の目前で瓦礫と灰に 変わっていった。日本を出港する我々の心は、未完成の使命、失われた戦い、打ち砕かれた希望で悲しく沈んでいた。我々に助力を借しまなかった日本の友人た ちは厳しい冬を前に、さらに最悪な状態にあった。この混乱の最中に帰国した我々は、真の友人を作ったこと、またその人たちの助力と愛情を決して忘れないだ ろう。江守夫人は我々の母、本当に思いやりと愛情に富んだ母親になった。彼女はもはやこの世にいないが、我々は日々の祈りに彼女を忘れたことはない。その 一人として、私も被女を尊敬と感謝と愛の念で思い起こさずにいられない。また彼女の魂が永遠の平和を得るように祈らずに床についたことはない。

 日本に対する我々の愛着は、成長期の我々の過ごした場所であったことからも、非常に強く、常に再来日して当時を思い出したい熱望がある。 この夢は大きくとも、ただ願望するだけで成就する簡単なものではない。東京に我々の指導者の遺骨が敬虔に安置されていることからも、日本は我々の心に近 い。この思いは近く、現実に遠い東京こそ、我々の本当の巡礼の地なのだ。尊敬の念を欠かさず、四十余年に渡り位牌を神聖な場所に祭ってくれる日本人に心か ら愛着を感じる。インド国民と政府が怠った全てを日本人は尊敬の念を持って実行してくれた。思えば一九四五年、ネタジの遺骨が日本へ運ばれ、在日インド人 に手渡されたとき、彼らは(いつの日か)インドに持ち帰るまで、(とりあえず日本に)位牌を安置する場所を見つけることができなかった。ここでも(日本人 の)善良で寛大な申し出があり、適切な場所が得られた。蓮光寺の老師、ネタジと交際のあった有末将軍、藤原将軍、木村将軍、林氏のような日本軍将校、その 他のインド自由独立戦闘の関係者、寺院関係者、外務省と他の政府機関、そして取り残されたインド留学生の連絡を通して運動に協力した江守夫人らが、ネタジ の遺骨を管埋するためにスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーという協会を創立した。これらの偉大な人々の精神は一行や、一ページ、また一冊の書物でも 表すことはできない。この精神だけでも、世界が渇望する国際埋解を成就できる。彼らは国際理解の種をまいたのだ。われわれは今、その芽が日を追って強く育 つことを祈る。

 江守夫人の逝去後、息女夫妻がこの貴い仕事を引き継がれた。ご夫妻は目の黒い内に遺骨がネタジの母国へ移され、そこでこの偉大な人物に相 応しく、正式に埋葬され、墓碑に奉られることを望んでいる。われわれもこれを望むこと久しい。しかし望みと祈願に反して、誰もこれを実行する者がいなかっ た。インド国民は江守家に負うところが大きい。母堂の意を継いで、和子女史と夫君は、五十年も以前に着手したこの仕事を完成させるためにインド人幹部候補 生や他のインドの指導者たちと接してきた。時は満ちた。スバス・チャンドラ・ポース・アカデミーの会員も老齢になり、健康状態もすぐれない今、彼らも自分 たちが生きている間に遺骨がインドに戻ることを望んでいる。彼らがやらねば後世の者でやる者はいないだろう。

 この高貴な事業の外に、松島和子女史は昔のインド幹部候補生を日本へ招待し、式に参列するようとりはかられた。彼女は一九九二年に、我々 幹部候補生を日本へ招待し、第二次大戦後の荒廃から立ち上がった新しい日本を我々の目で見る機会を与えてくれた。一九九○年に、彼女は数人のインド国民軍 将校とネタジ師の甥であるセシール・ボース博土を東京へ招待し、寺院内のネタジ像の開幕式を行った。この厚意の中に、インド人に対する日本人の気持が鮮明 に表れている。日本滞在中、ネタジ師の甥であり、師のカルカッタ脱出計画に参加したボース博士は、遺骨が寺院に敬虔に葬られているのを自らの目で見届け た。その場に参列していた私も、遺骨をインドに持ち帰れないことを深く恥じ入った。我々はインドの政治状況が変わり、この行為が許容される日を待ってい る。その時が来るまで、我々は皆様方に過去五十年間そうしていただいたように、遺骨を守ってもらうしかない。一九九二年に一二名の旧幹部候補生が日本を訪 れ、日本人が勤勉と忍耐で築いた、新しい、繁栄する日本を見た。これは日本人だけではなく、人類の誇り得る国だ。私もその一員だったので、他のメンバーの 反応についても確信を持って代弁できる。松島女史と夫君の手厚いご好意で、マレーシアとインドから訪れた留学生たちは、最高のホテルに滞在し、これ以上な い厚意と待遇を受け、生涯忘れられない思い出を作った。短い滞在期間に、遠隔の地まで観光旅行が組まれ、巡礼地の蓮光寺を訪れ、また懐かしい士官学校で昔 の先生、教官、友人に会い旧交を暖めることができた。願わくば、戦時中最高の士官学校で訓練を受けた候補生は今でも真の友人であり、称賛者であり、日印間 の絆として存在することを知ってほしい。この点に関しては、故江守夫人と現代の若き松鳥夫人が常に支柱となって支えてくれた。最後に我々の真の気持を詩 人、タゴールが一九○五年に詠んだ"我々は日本精神の袖髄を真に讃える"という言葉で締めくくりたい。今日の日本は日本人の血と洋の結晶であり、誰もそれ を取り去ることはできない。私は日本人がこの世界を、人類が一つになり、幸せな大家族として住める、幸福と繁栄の地になるよう助力してくれることを望む。
 

 素晴らしい日本の想い出

                      元座間陸軍士官学校インド人候補生 M・ガンディ
ナタン 私は一九四三年(昭和十八年)にネタジ・スバス・チャンドラ・ボースによって日本で軍事訓練をうけるために選ばれた四十五人の印度人候補生の一人 でした。日本での訓練が終れば、インド国民軍(INA)の将校の階級を与えられることになっていました。私どもはシンガポールで若干の教育の後、船で日本 に向い、一九四四年(昭和十九年)の春に日本に到着しました。

 日本では、東京・上北沢の興亜同学院で六ヶ月間、士官学校入学準備のための教育訓繰を受けました。興亜同学院での教育期間中に私どもはしばしば日本各地を訪問、見学して日本人と一緒に生活するための十分な機会を与えられました。

 一九四四年の秋に三十四人の他の候補生と共に座間にある日本の陸軍士官学校に入校し、私どもインド人候補生の専任教官となられた梅田実大 尉の指導のもとに教育訓練が開始されました。大尉は自分の国のために死ぬことを恐れないような堅固な軍人に育てるため訓練に非常な骨を折られました。

 日本で生活したのは僅か二年間でありましたが、私どもインド人候補生に対して小された日本人の愛情やご厚情そして親切なもてなしは、私に 非常に強い印象を与えてくれました。それで日本は幾度も訪問したくなるような私の第二の故郷だと思われるようになりました。日本の人々はわれわれが行った ところでは何処でも暖かく歓迎して恰も自分の子供や兄弟のように待遇してくれました。私どもが混雑した列車で旅行の際、座って楽にゆきたいような時、座席 を私どもに譲ってくださる人々の例など沢山ありました。

 日本中に厳格な食料配給が統制されていた時でさえ、私どもはそのような時代なのに特別食料供給を受けていました。私どもが日本人の友人た ちの御宅を訪ねた時、私どもは何時も大切なお客さんのようにもてなされました。到る処で私は、日本の両親たちが、子供たちを幼ない頃からきぴしく教育し養 育している姿を観て大変強い印象を受けました。

 また他のことはさしおいても日本人が自分の国家の統一団結のためにもつ愛情や日本人が与えられた仕事には何でも最善をつくして努力する決意に私は非常に深い印象を写えられました。

 私は私の指導教官から、彼らが「日本精神」と呼ぶ忍耐の心について学びました。

 われわれは困難な状況に直面する時は何時でも「頑張れ」と何度も何度も繰返し教えられました。私が日本人から受け入れたこの「さむらい (武士道)精神」は私の人生で大変困難な問題に遭った時、それに打ち克つことに役立ちました。そして私の仕事に成功することを助けてくれました。
 私は日本人の教官に教えてもらったことや、愛情と親切なもてなしで接して下さった総ての日本人に対して、私の感謝の気持を誇りをもって心から申上げます。一九九五年四月五日誌(村田訳)
 

  I・N・Aの憶い出
                                      H・S・クマール

 私は一九四一年にはマレーシアで学校の生徒でした。インドのラホールのパヴリック・スクール時代から歴史に深い関心を持っていました。日 本がロシアに勝ったことを学ぴ、アジアの力がヨーロッパの勢力を撃破したことに感動しインドがイギリスの支配から解放されることに情熱を燃やし希望を抱き ました。一九四二年には日本は東南アジア全域を征服しました。それでインド独立斗争に破れ、日本に亡命してインド独立連盟を組織していた我々の偉大なラ ス・ビハリ・ボースはインド独立運動の本部をシンガポールに置きました。

 私は一九四二年にインド独立運動に参加し、北部マレーの青年部長として活動していました。
 一九四三年に偉大な指導者で政治家のネタジ・スバス・チヤンドラ・ボースが現われ「自由インド仮政府を設立し、日本を始め多くの国がら承認され ました。ネタジはインド国民軍(INA)の最高司令官になり、INAの志願兵を募集しました。私はその募集に応じたところ、ネタジ・S・C・ボースによっ て、日本の陸軍士官学校で軍事訓練を受ける候補生に選ばれました。それで東南アジア全体から選ばれた他のインド人四十四人と共にシンガポールで日本での教 育を受ける準備のための日本語の勉強や軍事訓練を受けたのです。

 一九四四年に船で日本に送られる途中アメリカ空軍や潜水艦の攻撃に遭ったが無事東京に着き、興亜同学院に収容され、そこで陸軍士官学校のカリキュラムが理解できるように日本語や日本の歴史などの教育を受けました。

 一九四五年一月、陸軍士官学校に入学が認められ、アジア各地からやってきた若者たちと一緒に日本の士官候補生と全く同様に教育されました。それはまさにアジアの進軍を思わせるものでした。

 興亜同学院に在学中に、私たちは、江守夫妻の東京の邸宅で大変お世話になりました。江守さんの家族は私たちと同じ年頃の和子さんと君子さ んという二人のお嬢さんがおられました。私たちインドや他の国の留学生たちは江守さんから家族の一員のようにもてなされました。開放された家庭の中で愛情 や食物を与えられ自分の家に居るような安らぎを与えて頂きました。ゴット・ペアレントの江守御夫妻から一九四五年八月十五日の戦争終結から同年末インドに 帰国するまで私共の生活が最も困難な時代に私共に愛情を注ぎ安心を与えられ生きる希望を与えて下さいました。

 日本の士官学校では尊敬するネタジ・S・C・ボースの指導のもとに自由なインド独立国家を樹立するという崇高な大義のために私共の生命を 捧げる運命にあることを教育され刺戟を受けた。私は「神風パイロット」と一緒に入浴していたことは生涯決して忘れることはできません。明日は飛行機に乗り 再ぴ帰らないのに、日本の大義のために犠牲となることに恐怖も感ぜず静かに毅然として入浴していた私どもの年代の若いヒーローたちでした。

 私は一九九二年十月二十三日東京の偕行社で行なわれる祭典に出席できるように松島和子さんから招待を受けた幸運なインド人候補生の一人で す。インドに帰国して以来、四十七年ぶりの東京でした。戦争が終り帰国するまでの間、私共のゴッドマザーであった江守さんの娘さんの松島さん御一家の御好 意によるもので夢のような現実でした。忘れがたい教官だった梅田大尉との邂合、一緒に訓練を受けた候補生たちと会食、ネタジ・ポースの遺骨を安置した蓮光 寺や、靖國神社への参拝、驚くほど繁栄した東京の街の観光、懐しさや楽しさで一杯でした。一九九五年九月二十三日の五十年式典には日本政府企業が招待して くれないかなどと考えたりしました。再度松島さんに招待を期待することは適切ではないと思ったのです。私は参加できなくても祭典の期間は心の中で参加する つもりです。(村田抄訳)

1995年5月31日 元光機関員ネタジ専属連絡員 根岸忠素
アジアに忽然と現れたボース

岩畔機関ビルマ支部に出向中、急電を受け急きょ昭南(シンガポール)に赴いたのが昭和18年5月14日。陸軍の重爆撃機に便乗しガラン飛行場に着くと、出迎えの機関員に伴われ郊外の千田司政長官の私邸に案内された。

戦前から辱知の千田さんへのごあいさつもそこそこに申し渡されたのは、まだ秘密の段階だがと断って「近々インド会議は領袖のチャンドラ・ ボースを迎えることになった。君も知っているだろう大物中の大物ゆえ慎重に対応せねばならぬ。そのためには身辺のお世話と諸々の連絡役にしかるべき日本人 を配属すべく、軍、外務と話し合ったが人選に行き悩み、司政長官に一任ということから君を思いついたわけだ」と言われた。

ことの重大さに驚き、その任ではありませんと辞退すると「もう遅い。そんな余裕はない。ボースは両三日中にも到着する。自分のそばに居ることだし、誠心誠意つかえればいい、なまじ出過ぎた振る舞いをして忌避されるようでは困ると抵抗できなかった。

その夜は千田邸に泊まり、翌朝、長官に伴われて「光」機関本部で申告もそこそこに機関長山本大佐、千田長官と私の3人はスマトラ西北端のサ バン島に向かった。そこで2カ月も前にボースを乗せたUボートが南仏の軍港から大西洋を南下し、喜望峰を遠く迂回してマダガスカル島の沖で日本海軍の潜水 艦に移乗、あす午前中に到着するという。

占領地区とは思えないこの軍港の岸壁で待機する時の私の心境は、正直なところついこの1年半前までは、6年にわたったカルカッタに続き3年 間を上海ですごしたことから日中和平恢復を願う一方、地元の華字紙に「威爾斯親王号(Prince of Wales)、堂々星港(Singapore)入港」と写真入りで載り、また米大統領の日本天皇へ親電の記事に、戦争にはなるまいと思っていた矢先に12 月8日未明、鋭い砲声(第三艦隊旗艦、出雲が英砲艦ペテル号を撃沈)に目を醒ますと、時を移さず海軍陸戦隊に出頭を命じられて、初めて開戦と真珠湾奇襲成 功のニュースを知り、ブロードウエーマンションの翻訳室に回された。

1週間も経ないうちにプリンス・オブ・ウエールズ、レパルス撃沈の第一報が入り、「お見それしました」の気持ちに一変して、いまさらのごとく実戦となってのサイレントネイビーの底力に頭が下がる思いであった。

年が明け本社から南方出張の電令を受けたのは戦線の進展に対応するためで、とりあえずバンコクに向かう東亜海運の貨物船に乗り込んだ。本船 には乗客は私だけで、すでに迷彩が施され、船尾に木製の疑砲があるだけ、それまでに秘匿された邦船遭難の例を語る船長の面持ちは不安と緊張に満ちていた。

本船は途中、アモイとスワトウ、広東に寄港しただけでバンコクに到着。三菱商事の支店に赴くと陥落したばかりのラングーン行きを申し渡され た。すでにバンコクから陸路、ラングーン入りしている三菱グループに合流すべく、座席を取り外した小さなAT輸送機で追及、ミンガラドン飛行場に着いて初 めて見る占領地は勤務の合間に麻雀を楽しんでいる者もいるのどけさは余裕であろうか。支店の開設を急いだ。現地採用のクラークのほとんどがインド人であ る。もっぱら軍のご用を承る物資菟集積出に携わるうちに岩畔機関の要請を受け私が派遣されたのが奇しくご縁の始まりであった。

徴用を受けたのは三井グループから中山氏(東京外語大インド語学科卒)と日棉グループから和田氏(戦前日棉カルカッタ支店経験者)の3人 で、温厚な塚本中尉の配下に入った。この間落下傘でインドに送り込む諜者の訓練で二度、スンゲイパタニ(マレイ)、ビンジェイ(スマトラ)で境大尉、木田 中尉、仲嶺軍曹と苦労をともにした。

ミッドウエー開戦やガダルカナル撤退の悲報は詳しくは知らされず、海軍がアンダマン・ニコバル諸島を占領し、セイロンのツリン・コマリーに 迫り、空母ジョーゼットシャー、巡洋艦ホーキンスも沈められた。またジャバ沖海戦で撃沈された米重巡洋艦オーガスタは上海浦江で見慣れていたから切実感が あった。

目の当たりにした日独海軍によるこの離れ業に直面して前途に光明を感じたわけであるが、千田長官はしからず。「マレー沖海戦で超弩級戦艦が飛行機で沈められることを教えてしまった」と前途の不安を漏らされていた。

戦前カルカッタの映画館で上映の終わりに英国国歌の吹奏に併せてユニオン・ジャックを翻したロドネー、ネルソンの両巨艦が航進するシーンが 映し出され、統治国の威容を見せ付けていたが、それを上回る超弩級戦艦、自慢のポンポン対空機関砲を備えたプリンス・オブ・ウエールズ語を空からの爆弾と 魚雷だけで沈められたとあればなおさらである。

三井物産の千田さんとボース

千田さんは幼時は熊本育ち。名門・済々コウ(學の下が黄)から東京高師附属中学を経て、日露戦争後にコマーシャリズム華やかなりしころに東 京高商を卒業して三井物産に入社。若くしてシアトル支店勤務の後、ポーランド支店長からカルカッタ支店長に栄転。期するところあって気心のしれた英人ブ ローカーと組んで千田バーネット商会をカルカッタに設立。支店をラングーン、シンガポール、サイゴン、スマトラと東京に設け、貿易を主体にゴム園、製鉄所 も経営する事業家として先覚者であったが、見込み取引の蹉跌から倒産の憂き目に遭った。

さぞや無念と思われるのは長男に図南雄と名付けたことからもうかがえる。氏のインド観は多分にイギリス人Iを通してのものと思われるが、こ とインドに関するかぎり氏をおいて他にない存在。かつてインド駐在武官の時代から旧知の杉山参謀総長に請われて南方総軍付司政長官に招聘されたのであろ う。

こんな感情が去来しながらいまや遅しと待機するほどに満々たるインド洋のかなたに忽然と姿を現した伊号潜水艦は航しながら近づき、鑑橋の ハッチが開き、寺岡司令に誘導されて長身のボース氏が甲板に姿を現し、秘書のハッサン氏が続いた。両人は背広姿で髯鬚茫々、禿げ上がったボース氏の頭が印 象的であった。母国を脱出、2年振りにアジアの土を踏んだのである。

ボース氏と山本大佐の両人が駆け寄るように相擁して再会を喜び合うシーンが劇的であったが、私の最初の驚きは基地司令部の宿舎に入った時から早くも起きたのである。

2カ月以上を費やし窮屈な潜水艦での航海、昼間潜航、夜間浮航の末にやっとたどり着いた地上で一休みもせずに、ボースと山本機関長とはドイ ツ語で、千田長官とは話は英語で延々2時間以上にも及んだ。ドアが開かれたままの食堂にはすでに午餐の用意が整い、食卓には色鮮やかなマンゴー、パパイ ヤ、マングスチンの類が山と盛られているのに、ボース氏はこれに一瞥も与えない。

食卓に就いたボース氏は姿勢正しく静かに飲み物、食べ物を口に運んだ。居住性の悪いUボートから日本の潜水艦に移ってほっとしたことや、ゴム・ボートで移乗する時に見た鮫の話から、潜望鏡でとらえた敵大型油槽船への攻撃を控えたことなどを淡々と話した。

食後にシャワーと午睡を取った後、足慣らしの散策に誘ったとき、ボース氏が途中でインド人とすれ違うのを極度に警戒した。搭乗者東京着の発 表、宣言のタイミングを効果あらしめるためである。散歩中にちょっとした出来事があった。一見インドネシア人とおぼしき老婆から、たどたどしい日本語で声 を掛けられた。身の上話を聞くと、この女性は、日露戦争当時、バルチック艦隊の動勢を探るべく、この地に派遣された三井物産シンガポール支店勤務員の馴染 みのカラユキさんがこの地に取り残されて在住民と結婚して今日に至ったとのこと。物産のカルカッタ支店長であった千田さんとしては、これに似た手段を講じ て当時の三井物産上海支店長の山本条太郎や森格のことなどを思い合わせて感慨も一入であったであろう。

宿舎に戻り手兵さんの手で整髪、髭を剃り落としたボース氏は本来の颯爽、堂々たる恰幅に戻った。

翌日、一行5人はMC型特別機で途中ペナンを経由、東京に向かった。防諜と一日も早い東京入りが望まれたからである。もっぱら航行の万全を 期し、仏領ツーラン飛行場に寄り小憩。次は海南島の海軍飛行場に降り、基地宿舎で一泊、翌日マニラに飛び、さらに一泊した。ボース氏の疲労回復と占領地の 模様を見て置いてもらう配慮からであった。

マニラでは海軍武官府だけを訪れ岡司令に挨拶、ボース氏は日本海軍の協力を謝した後、車で海岸一帯の市中を一巡して兵たん旅館になっている マニラ・ホテルに入りくつろいだ。武官府の計らいで脱出時のままに遺されたいるマッカーサー司令官の居室を見せてもらった。それは執務室も兼ねる4階の全 フロアを占めるもので、マントルピースの上にかの大山元帥の署名入り写真が置いてあった。察するにマッカーサー司令官の父君も軍人で、日露戦争中には従軍 観戦武官であった史実に照らせば、マッカーサー将軍の心中もまたさぞや複雑だったろうと思われた。ルネタ公園を散策中、ホセ・リサールの記念碑の前に深々 と低頭、瞑目していたボース氏の姿はいまも忘れられない。

次の日は台湾に向かった。ここで台北ホテルに一泊し、最終コースは九州南端の陸軍飛行場と各駅停車並みの安全飛行を続け、本州の浜松飛行場 に着いた時はすでに日没に近く、市中の陸軍指定旅館に入った。ボース氏、ハッサン氏も初めての純日本風旅館で総檜の風呂に入り、浴衣に丹前を羽織り、畳の 座敷で二の善付きのご馳走は後にも先にもただ一度の体験である。傍らの脇息を女の枕と勘違いしたハッサン氏の早とちりを生半可な知識は危険とボースが笑い ながらたしなめる場面もあった。日本に来たという安堵感であったであろう。

明くる日はいよいよ東京入り。快晴の空を機は富士山の頂上を眺めて飛び、立川飛行場に安着。大本営参謀尾関中佐らに出迎えられ帝国ホテルに 直行した。ボースは2階のスイートルームに、ハッサン氏と私が隣接の部屋、それに続いて機関長、千田長官となっていた。ボース氏が私までが匿名となってい るのは発表になるまでの秘匿措置であった。

ホテルで待機していたのは参謀本部の有末少将はじめ軍令部、外務省、新設の大東亜省、その他の当事者たちで、その中で戦前のカルカッタ時代に旧知の柿坪参事官、深井事務官(戦後それぞれ駐仏大使、駐パキスタン大使)にお会い出来たのは心強かった。

たちまち日本に知れ渡ったボースの名

ボース氏がこの時まで日本とほとんどつながりがなかったのは、反英闘争に明け暮れる氏にとり、日本をかつて攻守同盟まで結んだ英帝国主義の 追随者と見なしていたからであろう。それはこれまでの会食の席でのスピーチにも、幼時期に日露戦争での日本の勝利に興奮したこと、岡倉天心の「東洋の目覚 め」を読んで心打たれたり、ベンガル人の詩聖タゴールから聞かされることに触れる程度であったことからもうかがえたが、満州事変後の日本には関心を深め、 インド国民会議派の議長時代にカルカッタ市長のザカリヤ氏やマドラス州宣伝大臣らを中国、日本に派遣して情勢調査に当たらせたことは私自身がボース氏から 直接聞いていた。

そんなボース氏に日本を知ってもらうべく、東京着後の日程は盛り沢山なものであった。ボース氏は終始、熱心に理解吸収に努め、疲労の様子も見せぬばかりか、質問もまた手厳しく、歌舞伎では筋の説明で私のほうが突っ込まれ恥をかく始末であった。

ラス・ベハリ・ボース氏との初会見も早々に実現した。初対面ながら志をおなじうする両人が同郷のベンガル語で語り合う情景は傍目にも涙ぐま しいものがあった。この間におけるボース氏が終始謙虚の姿勢を崩さなかったことも忘れられない。この晩両ボース氏をお招きする有末参謀の宴席が築地の「新 喜楽」で設けられ、和やかな一夕となった。日本髪の芸者も侍る賑やかな盛宴で、ボース氏がベンガリ語で語るのを隣のラス・ベハリ・ボース氏が達者な日本語 で通訳する珍しい場面も見られた。

結核の既往症を持つボース氏の健康が気遣われたが、慣れない和食も酒も啖々と口に運び、芸妓の仕舞や気さくな有末少将の隠し芸に微笑んで眺め、注がれた酒盃は必ず干して聊も姿勢を崩さなにボース氏であった。

東條首相との会見が遅れたのは、首相がそれまでインド独立連盟のいざこざや、ボース氏が左翼思想の持ち主ではとの疑念からと言われていた が、初対面でボース氏の態度、風貌、弁舌に魅せられたらしく、会見が上首尾であったことは通訳の大役を果たされた千田長官直々の話である。ボース氏の東京 出現が公表され、帝国議会を千田長官と私がお伴をして傍観した折りにアンダマン・ニコバル群島譲渡の用意があることに触れたことや、公約通り仮政府樹立の 直後に昭南を訪れ、クリケット広場でINA閲兵式に臨んだことで東條首相を信頼、高く評価していたようである。面と向かってイエス、ノーを分かり合えるの は首相しかなかったであろうし、一方で参謀総長や軍令部長との会見に物足りなさを感じたのも想像できることである。

ボース氏東京入りのニュースがラジオ、新聞、雑誌で一斉に報道されると内外の記者はもとより枢軸国の在日使臣らが続々ボース氏を訪れた。繁忙を極めたボース氏はこれを精力的にさばき、インドのボースの名は覚えやすさも手伝ってたちまち老若男女に知れ渡った。

シンガポールに自由インド仮政府樹立

1カ月あまりの東京滞在の後、昭南入りとなって、これにラス・ベハリ・ボースが加わり、途中の着陸を極度に省いて昭南のガラン飛行場に着く と光機関のほか、南方総軍、インド独立連盟、INA幹部の出迎えを受け、両ボース氏はたちまち花束、レイガーラントに埋もれてタラップを降り、かねて用意 されていた郊外カトンの公邸に入った。この二階建ての宏壮な邸宅は後庭が入り江に面した2000坪の敷地があり、母屋のほかにサーバント・クオーター、車 庫、門衛の舎屋も整っていて、ここが公邸とインド独立連盟本部(まもなく仮政府庁舎)を兼ねることになる。裏のベランダからは停泊中の重巡洋艦「足利」の 雄姿も望見された。ここには侍医兼副官のラジユー軍医中佐、副官ラワット大尉のほかに家扶としてベンガリのシュレン・ボース氏が住み込み、私にも母屋一階 の一隅にバスルーム付個室があてがわれた。身分は光機関連絡官(liason officer)となっていた。

時を移さず、ラス・ベハリ・ボース総裁の招集で開催された独立連盟をはじめとするキャセイ劇場を借りきっての大集会では、こんなにもいたの かと驚くほどのインド人で埋まり、演壇に立ったベハリ・ボース氏は老齢と病躯による総裁としての不行き届きを詫びるとともにこのたびチャンドラ・ボース氏 を迎えるまでの苦心と経緯に触れた。この後、インド独立連盟総裁の座をチャンドラ・ボースに譲ることを提案、「みなさんご異存は」との問いかけに満場の拍 手がこれに応えた。壇上に導かれたチャンドラ・ボース氏の挨拶と宣誓のスピーチに歓呼の声、拍手の音がしばし鳴りやまぬ雰囲気のうちにみごとな総裁禅譲が なされたわけである。

ベハリ・ボース氏は独立連盟最高顧問に推され、しばらく昭南に逗留した。

矢継ぎ早に開催された二度目の大集会で早くも自由インド仮政府樹立とINAを傘下に収める宣言が行われて、東亜在住のインド人の気勢が最高 潮に達したものこの時期であった。「ネタジ」という称号を耳にしたものこの時からである。極めて限られた時代の人物に用いられる表現でマハトマ(ガン ディー)、ヒューラー(ヒットラー)、デューセ(ムッソリーニ)、ゼネラル・シモ(蒋介石)の類であろうか。メーム・バリューのすごさに驚かされた。

ネタジを首班に戴く仮政府の各大臣、幕僚が選ばれた。INAの総司令官は軍人でないネタジの兼務、仮政府の国旗は本国の三色旗中央部の糸車 に代えて襲いかかる猛虎の図柄。東條首相から寄贈されたネタジ専用機の機首にもこの図柄が描かれ、戦後に出版されたネタジ伝記もの「Rampant Tiger」の題名の刊行本のカバーにもこの絵があった。

公邸でのネタジの起居は几帳面そのもので、朝食こそまれに自室に運ばせることがあっても昼食も晩餐も属官たちと一緒の食卓にきちんとした服装で臨んだ。食事時が唯一ネタジがくつろげる時で、属官たちは緊張気味にネタジの高説を拝聴するといった風であった。

私にも語りかけ、時々冗談まじりにからかわれることがあって、三度に一度ぐらい私がやり返すと呵々大笑するネタジに一瞬遅れてほかの連中も笑い出す場面もあった。相好を崩す時に見える氏の特徴である門歯の隙間が愛嬌的で親しみを感じさせるのであった。

ネタジは世の秀才型にありがちな宵っ張りの朝寝坊の例外ではなく、事と次第では徹夜も辞さぬ頑張り屋で、常住坐臥、思索に耽るタイプ、格調 高い英語での会話、演説は嫌みのないインド人流のイントネーションで、その体躯、容貌と相俟って迫力に満ち好感が持てた、祖父の代からのインド風の語調。 音吐朗々、切々と聴衆に迫り愬えて已まぬものがあった。私が知るかぎり、大正、昭和にかけての永井柳太郎と中野正剛の中間を行くものと思われた。否、それ 以上のものであろう。

公邸には日本側要人の来訪者も少なくない中には、どうかと思われる人物も混じり、観察眼がまた鋭く、折り目正しいネタジは会見が済むと辞去 しる客人を必ず玄関まで見送るのが常であった。出ない時は先方の地位、身分に関係なく、私だけに見送らせることから、その辺の眼力の鋭さには恐れ入ったも のである。ある時のことである。たまたま公館に私がかつて在営中の元中隊長の来訪を受けた。彼は「蒋介石のおかげで大佐になったよ」と挨拶されたほど気さ くな人柄で、積もる話のあと、ネタジに伺いをたてると「お逢いしよう」ということになった。応接間であらためて茶菓を運ばせての面接時間をつくっていただ いたがかりか、署名入りのポートレート写真を贈り、ご自身も玄関まで見送るという丁重さに人情細やかなネタジの一面があった。

仮政府としての権威、対面保持を期するネタジの挙措行動にはいささかの落ち度もない。最初に起きたもめ事が日本軍将兵との敬礼事件だった。 総軍、INA双方の指示不徹底から起きたトラブルで、これにはネタジも頭を悩ませた。INAに指示したのは了解通りに行動し、徒な抵抗を慎み「毅然(きぜ ん)とFace Majorせよ」と示達したのである。千田長官も「聞いたことがない英語」といっておられたが、戦後に来日したネタジの甥、アミヤ・ボース氏にこの話をす ると「叔父は造語の天才でしたから」と聞かされ納得がいったわけである。不可抗力というフランス語から英語になったのを動詞化するあたり、さすがはネタジ である。時事新報の老記者で著述家でもある伊藤正篤氏の文面にもこれと似た辞書にない熟語が見られ、意味が通じしかも適切であったことを思うとこの種のを 新語が生まれてもおかしくない気がする。この心構えがINAに徹底して、INAが毅然たる態度を崩さず武装解除に応じたことに思い到らされるのである。

二回目の訪日は大東亜会議に列席するためでオブザーバーの資格で、ボンスレー幕僚長、チャタジ内務大臣、サハイ無任所大臣、ラジユー軍医中佐らが随行し、光機関から山本機関長、千田長官、香川参謀と私が同行した。

会議には満州国(張総理)、南京政府(汪精衛総裁)、フィリピン(ラウレル大統領)、タイ国(ワイワン殿下)、ビルマ(バーモ大統領)の各 国代表に伍して自由インド仮政府はオブザーバーの立場ながら注目を集めたのはネタジの存在であり、各国代表のしんがりを受けて行われたネタジの第一次世界 大戦の講話会議を引用してのスピーチが高く評価されている。

会議も終わり、帰途は汪精衛首班の招きを受けて南京を訪れた。中国革命の父孫文の中山陵に詣で、満漢全席の円卓での両首班の心中にはかつて の同士とたもとを分かった立場からもお互いに相通ずるものがあったであろう。ネタジの英語スピーチが華訳では半分満たぬ時間で済むのは昭南で聞いていたタ ミール語訳よりもさらに短かった。

翌日、南京を辞去、上海では陳公博市長の公賓としてキャセイ・ホテルに一泊した。ネタジにキニーネの錠剤の購入方を依頼され、三菱商事の友 人を煩わしてなんとか入手できた。インフレの上海では高い買い物になったが、こんな子細なとことにも部下の健康を案ずるネタジの心情がうかがえたのであ る。ネタジに感謝されたのは言うまでもない。

フィリピンを訪れたのもラウレル大統領の招きによるもので、クラーク・フィールド飛行場からマラカニアン・パレスに直行、小憩の後の歓迎晩 餐会は双方が通訳抜きで語り合えるのと、ラウレル大統領の明るい性格の手伝い和気藹々たる雰囲気で深更に及び、スペイン領時代からの特産、上等の葉巻で紫 煙を燻らすネタジの珍しい姿も見られた。パレスで一夜を明かした一行はさすがに起床が遅く、私一人が食堂に入ると中には大統領一人。手招きされ慇懃にあい さつ申し上げると「みなさん、お疲れのようだね」といいながらご自身でココアを注いで下さって大恐縮した。屈託のない人物である。

たちまち売り切れた仮政府国歌

昭南に戻ってからもネタジは身辺多忙を極め、仮政府の国歌が制定されたのもこの頃である。このナショナル・アンサムは詩聖タゴールの作詞に なる歌詞歌曲を進軍歌調に直されたもので、光機関が斡旋して軟盤に吹き込んだものをナイル氏が宰領して帝蓄でレコードにして大量に後送され、昭南のほかマ レー各地でたちまち売り切れインド人が愛唱するところとなった。

殉難者(マーターズ)デーが設けられ、その日はインド人は仕事を休んで集まり、慰霊の祭典を営み、ネタジの講演の後、素人演劇のジャンシ王妃やアムリッツァーの惨劇のクライマックスに場面に涙するネタジの姿が見られた。

ラニ・オブ・ジャンシ部隊の創設はいささか意表外のことながら、規模は小さくとも格好が出来上がってその閲兵式を指揮して総司令官に敬礼を 捧げる美貌の隊長ラクシュミ大尉の眼が傍観するわれわれ光機関員たちには流し目のように見え、独身同士とて愛の芽生えをささやきあったのも、しょせん取り 越し苦労であった。ラクシュミ女史は後にサイガル中佐と結ばれた。

インパール作戦に出陣したこの婦人部隊が全軍の後退に伴うシッタン河渡河の際に、ネタジが方面軍司令部、光機関長との同行を頑強に拒み、婦人部隊の渡河完了を見届けるまで、敵弾飛来する中を動かなかったことも戦場美談として伝えられた。

ネタジが滞独中、オーストリア人女性と結婚していた事実はだれ一人として知らなかったし知ろうともしなかった。三度目の訪日のときであった が、私が「戦争が長引き、一時休戦(負けるとは言えず)となっても閣下の引き渡しに応ずることは出来ないので、そうなれば身の回りのお世話をしお慰め出来 る女性も必要でしょう。いま日本には容姿教養ともに優れた婦人も余り気味です」と話すと、破顔一笑したネタジはラス・ベハリ・ボース氏のことがひらめいた のか「だれかに言われたのか」と反問された。「私なりの思い付きから」と答えると「そんなことは考えてもいない。ただ自分以上に情熱で叱咤、鞭撻してくれ る女性がおれば別。年齢、美醜、人種の如何と問わぬ」と応じながら、「イタリーの革命家ガリバルジーは夫人に尻をたたかれながらあれだけの仕事が出来た」 と語るのであった。

こんな非礼が許されるのか

自由インド仮政府樹立後、ネタジは大臣、幕僚を従えてタイ国を公式訪問した。国際夜行
列車でバンコク入りしたのが土曜日の朝、ラトナ・コーチン・ホテルに入り、日本大使館の浅田参事官から手渡された日程表を一瞥したネタジはたちま ち顔色を変え「承伏できぬ」と突き返した。最初の表敬訪問先が中村駐屯軍司令官となっているのを見て「こんな非礼が許されるか」と指摘した。参事官が「ピ プン首相は日曜日は休息日に当て、だれにも会わないので」と釈明しても「それならば日をずらす」と言われ、急きょ日程を組み直すことになるトラブルがあっ た。にもかかわらず、その後会った坪上大使とは慇懃丁重の態度に一変するネタジである。馬が合うというか坪上大使とは気心があったようである。

日本側の斡旋で仮政府の承認が次々に得られた中でタイ国だけが未承認なのをネタジは執拗に迫った。適々、バーモ首班の名が出ると「ビルマは インドから分離される以前はインドの一州にすぎなかった。バーモ氏はビルマ会議派の支部議長、自分は全インドの議長だった」と嘯(うそぶ)かれたと千田長 官から聞いている。なおこれにつながる後日談がある。戦後にタイ国のピプン首相が剃髪して托鉢僧の姿でカルカッタに逗留中、同地で会社を経営していた国塚 一乗氏(陸軍中尉、光機関軍事班、INA担当)に打ち明けられたのは、ピプン首相はインド仮政府承認の問題を閣議にかけたが、賛否両論でまとまらず、総理 一任ということになったため、自分はこれを承認した。この時、最も強硬に反対した外相が罷免されたが、この外相は日本の敗北が決定的になった時点で苦肉の 策として駐米大使に起用したそうである。英仏の植民地に挟まれた緩衝国として独立を保ち続けた弱小国でも、首相在任の世界記録保持者のピプン氏もまた並み の宰相ではない。

ネタジを怒らせたケースはこの他にもある。大東亜会議から昭南に戻った早々、光機関から南方総軍司令官への挨拶方を伝えられると、ネタジは 一言のもとにこれをはねつけ、「軍司令官が迎えに来て居られたか」と反問した。「参謀長が飛行場に見えていた」と答えると「それなら幕僚長を差し向ける」 と言って肯んじない。もめた末、晩餐に招かれていることを話すとネタジも折れて、車を連ねて寺内元帥の官邸に赴いた。機関側留守訳の手落ちと言えなくもな いが軍政が敷かれていた占領地だけにデリケートな問題である。寺内元帥は千田長官と少年時代、東京の麻布中学で一クラス違いの旧知の間柄である。総司令官 官邸に付くと玄関まで出迎えの元帥と挨拶を交わし、同語の幕僚を交えて和やかな晩餐の席となった。

信任状を持たずに赴任した蜂谷公使の引見を拒んでいたネタジもそれが届くと、参事官が東京駐在中に公式通訳を務めた柿坪正義(ケンブリッジ大の後輩)でもあり、親密に接触を保ったのであった。

機首に色鮮やかなRampant Tiger

昭和19年の晩秋、ネタジ三回目の訪日は東條首相退陣の後の小磯内閣の時である。山本大佐に代わって光機関機関長になった磯田中将、香川参謀と私が同行した。搭乗機は東條首相から贈られたMC12人乗り輸送機で機首に色鮮やかなベンガル・タイガーが描かれていた。

帝国ホテルに投宿して、約3週間の滞在となった。物資の欠乏がホテルの食事にもみられたので、せめてインド人の主食である牛酪製品だけでも と親類の明治製菓の担当技師に相談の結果、「やみ売りは出来ぬが、VIPへの寄贈であれば」ということで、カートン・ボックスに一杯詰まった現品が届けら れた。ネタジ地震でこれを受け取り、受領証を兼ねた礼状を渡して、現品はしばらく部屋の片隅に置かれたままになっていた。およそ20日ほど経ってから中身 を知る随員から目配せされ、私からネタジに申し上げると「忘れていた。なぜ早く言わなかった」と詰められ、至急陸軍士官学校に届けるように頼まれた。心打 たれた随員たちの顔がいまも瞼に浮かんでくる。ネタジは随員とともに東京着後、早々に陸軍士官学校を訪れ、派遣したインド人留学生たちに会っている。先 年、松島和子女史の招待で来日したダーサン氏ほか数人の元留学生の歓迎会に招かれ、この時のことを披露すると「憶えています。忘れるものですか」と泣かん ばかりにネタジ追慕の念を新たにしたのである。

滞京中に千田長官が長逝され、葬儀が築地本願寺で営まれた。本堂は陸海軍の将星、政府高官、政界の要人で埋まり、数々の弔辞の中で、切々と語りかけるネタジの弔辞は異色圧巻であった。視野が広かった千田長官は配膳の憂き目とインド独立の喜びに遭うことなくこの世を去った。

帰途は上海に立ち寄る都合で、福岡に一泊することになった。その晩に西部軍司令官に料亭で和食の饗応を受けた後、珍しい場面があった。宴席 でしたたか泥酔した博多芸妓が引き上げるネタジの車に足袋跣で飛び込んできた。宿で改めて飲み直す格好になり、ネタジも悪い気はしなかったと見え、差され る酒杯を悉く飲み干す酒豪振り。くだを巻く芸者の通訳に辟易していると、うるさがる様子もないネタジに「まともに通訳しているの」と言われる始末である。 後で女将から「彼女は博多一の名妓で旦那であった高貴の将軍が戦死して悶々の日々を送っている」と聞き、己の無粋さを反省しなくもなかった。

これより先の昭和19年1月末。情勢に応じて仮政府と光機関は本拠をラングーンに移した。INAの主力もビルマに移動し、光機関長は磯田中 将に代わって、昭南は独立連盟マレイ支部、機関も昭南支部となり、私は支部の政務班勤務となり、ビルマでのネタジとの接触はない。この間にネタジ母堂の訃 報を知り、私個人として弔電を送るとネタジから丁重な礼状が届き、ここにも几帳面で心ゆかしいネタジの姿があった。

インパール作戦が失敗に帰し、仮政府、INAがバンコクに後退した後、適々、公邸での側近たちと雑談の席で「敗将ウエーベルをインド総督、 オーチンレックを軍司令官にするなどイギリスも落ちぶれたものだ。田中、河辺両将を大賞に昇進させる日本陸軍も同然だ」と吐き棄てるように語ったネタジの 見識はさすがであった。正味6カ月余をお側に仕えたネタジにはおよそ人間としての欠点が見出せなかった。強いて求めれば、運動神経が鈍かった。テニスの相 手をして分かったことだが、それも稟性の資質に加え、たゆまぬ勉学と模索に明け暮れ、哲人らしさを思わせるのである。

一介の日本人の過ぎない私が、超人的なネタジの偉大さを痛感させられたのは、日本の降服が決定的になってからである。昭和20年8月11日 の午前、駐タイ坪上大使からの極秘親展書簡を、折からイポー地区で演習統監中のネタジに手渡すよう命ぜられた。適々封筒糊が剥がれていたので中を見ると 「日本政府がポツダム宣言受諾を申し入れたことをお知らせする」という内容のもので、Prerogative(天皇の大権)なる生涯忘れ得ない難しい単語 もこの時に覚えた。「重要な展書です」とネタジに手渡すと「またアトミック・ボンブか」と呟きながら開封した。目を通したネタジは静に封筒に収め指揮官に は演習継続を命じ直ちに昭南に引き返した。事態の急変は短波放送ですでに承知のように見受けられた。

公邸に戻るとネタジは直ちに閣議を召集して諸々の処置を講じた。最初に頼まれたことはチャタジー大臣に同行して、小磯内閣の時に取り決めた 日本からの借款の残額(1億円のうち8000万円余)の全額引き出しを手伝ってほしいということであった。やがて解体を余儀なくされる連盟の職員への退職 金に充てるもので、南方開発銀行で受け取り、一部はネタジの指示通り、日本も含めた東亜各地の仮政府代表者への電信送金を済ませて、残額はキャッシュ(軍 票)で大臣が持ち帰った。窓口担当の松平氏(松平駐英大使の長男、後の東京銀行副頭取)が怪訝そうに「機動部隊でも現れましたか」と問いかけたのは状況を すでにご存じであったかどうか。

次ぎに私一人に頼まれたのは、すでに解散していたジャンシ婦人部隊の兵士2人がバンコクの親元に帰るのを停車場でその乗車を見届けるよう念 を押されたことである。帰って無事発車を報告すると心底から感謝するネタジであった。2人だけになったところで「降服には何か裏があるのでは」と尋ねると 「降服は分かっている。日本軍は天皇の命令に従えばよい。天皇制は維持されるべきだ。皇太子が若すぎるなら摂政を置けばよい。日本人は優れた民族、再興を 信じている。インドも必ず独立する」と私を慰めたのである。これが破局に当面した人間であろうか。

8月15日早朝、ネタジと側近は陸重爆機で機関本部があるバンコクに向かうことになった。随行する私も軍刀を外した輜(し)重兵少尉の軍服 に着替え、亡父(軍人)の遺品である拳銃も携行した。バンコクに近づき機が急回転したので敵機の追尾かと観念したが、ネタジは平然としている。飛行場を通 り過ぎ引き返したのである。飛行場に出迎えの機関長、香川参謀に玉音放送があったことを聞かされた。南方総軍司令部との連絡のためさらにサイゴンに赴くこ とになり、機関本部はネタジとお別れの晩餐の席を設け、この地で一夜を過ごした。

明けて16日、ハビブ・ラーマン中佐、デナム・ダス氏らが一行に加わり、サイゴン着。宿舎に入り総軍参謀から伝えられたのは「四井中将を満 州に送る特別機が明朝出発するのでこれに同乗していただくことになるが、座席は2人分しかない」とのことである。(陸軍切ってのソ連通である同中将を関東 軍の降服に立ち会わすためと聞く)

この晩、ネタジは「自分はソ連に捕まり殺されるかもしれぬが、これからイギリスに盾突ける国はソ連しかない」と語る一方。随員たちは水陸両 路からでもと追及を誓う有様は、何かキリスト最後の晩餐を思わせるこのがあった。同行出来ぬ随員たちに路銀として金塊が渡されたと聞いたが、これは南方総 軍司令部の配慮によるもので相当な量であったらしい。

翌17日朝、関係者全員は飛行場にネタジとハビブ・ラーマン中佐を見送った。これがネタジとの永別となった。陸重爆機には四井中将のほかにも数名の将校が乗り込んだので、聞いてみると「転任命令を受け、1カ月も待機中」とか、何とも解せない卑怯な行為としか思えなかった。

機影が視界を去るまでわれわれは不動の姿勢を崩さず目送した後にまた私を感動させる場面が起こるのである。それは別の滑走路に停止していた 輸送機の周辺に軍人の一群が見られ、聞くと南方総軍慰撫のため御差遣の勅使、北白川宮殿下のご搭乗機がまもなく離陸するとのことである。するとキャニー大 佐が一同を整列させ、再び挙手目送の礼を払ってくれるではないか。

サイゴンの宿舎に戻り、私が改めて「パートナーが降服して申し訳ない」と詫びると「とんでもない。われわれは感謝こそすれ、寸毫も恨むなん て」と肩を抱くようにして異口同音に慰められる始末。とかく打算的なインド人をこれまで導いてきたネタジの感化力をいまさらのように痛感させられたのであ る。

ネタジ逝去の悲報を受けたのはその翌日である。総軍司令部と打ち合わせ、台北に急行するアイヤー氏を飛行場に見送った後はこれという任務も なく、機関からの司令もないまま、御役御免の面持ちで三菱商事サイゴン支店に身を寄せると、軍の要請で支店から供出する通訳要員に加えられ、市中の宿舎に 寝泊まりして英軍による武装解除に立ち会う惨めともいえる役目に回された。

比較的、行動も自由であったので連盟支部長に会うことも出来たが、彼が注意してくれたことは「気の弱い者もいて、英軍の追及にすべてを話さ ぬとも限らないから目立たぬよう行動する方がいい」とどこまでも親切にかばってくれたのである。軍通訳の仕事も済み、通訳班は軍の収容所に入れられた。幾 ばくもなく帰還第一船で帰国が叶い、民間人より早くサイゴンを離れることが出来た。それも艦齢も若い練習艦「鹿島」。主砲も取り外され収容力があり測量も リバティー船よりも速かった。

広島県の大竹に上陸して東京の留守宅が郊外に疎開しているのを知った。引揚列車は原爆投下の広島駅には停車せず、すし詰めの状態で東京にた どり着き家族と再会した。仏壇を見て老母と末弟の戦死を知り暗然たる思いであった。母は生還した2週間前、弟は約1年前に海軍特攻隊で沖縄海上で戦死して いた。

近くの荻窪に住んでいたA・M・サハイ氏夫人はネタジの最初の訪日の時に会っていた。訪問すると、日本でも長く、日本語も達者な彼女から当 時の様子を詳しく聞くことができた。彼女はベンガル州生まれ。反英運動の大先輩であるC・R・ダスの姪に当たり、ご亭主勝りの愛国者でこよなくネタジを崇 敬していた。平屋建ての日本住宅に一時ネタジの遺骨や陸軍士官学校に留学していたインド人学生を預かった女丈夫。私にも極めて好意的で本国に引き揚げ後、 しばらく借家住まいをさせてもらい助かったことがある。

ラム・ムルティ連盟支部長(仮政府駐日公使兼務)を訪ねた折り、居合わせた英陸軍のフィゲス中佐に引き合わされた。いろいろ質問を受けたも のの、その後に呼び出しがなかったのは聡明なムルティ氏がしかるべく取り繕ってくれたのではあるまいか。ムルティ氏はカーキ色、ロング・コートの軍属風の 姿であった。日ならず、ムルティ氏に伴われ堀の内、蓮光寺に安置されたネタジの遺骨を詣でた。望月住職にもお目にかかりごあいさつ申し上げた。ムルティ氏 は盛花、チーズ、バター、缶詰など盛り沢山にお供えして私もそのお裾分けにあやかった。

占領軍の財閥解体に先立ち、三菱商事と三井物産が取り潰しの憂き目に遭ったころ、いち早くバイヤーとして来日したのがインド人商人で、ボン ベイからベタイ商会、マドラスからジャピー商会、シンガポールからバジャジ商会などはいずれも親日家であった。。石川義吉氏や私の戦時中のことを知り、取 引はもちろんのこといろいろな面で助けてもらった。インド独立の第一報を知ったのもジャピー氏への電報からであった。昭和24年には日本民間人の用務上の 海外渡航が許されるようになり、インド。パキスタンに出張することができた。優先外資によるもので旅券はSCAP発給、搭乗機もフィリピン航空の直行便で あった。

12年ぶりに見るカルカッタは戦前とそれほど違っていない感じを受け、早々に感激を味わった。かつて在勤当時のクラークの連絡でネタジの甥 御さん(末弟シュレシュ・ボース氏に長男)の来訪を受け、映画館に案内された。「パイレ・アドミ」(先覚者)という題名のベンガル語のトーキーの筋はネタ ジ率いるINAの活動を盛り込んだ若い男女の恋愛物。当時のネタジの実写がスクリーンに映し出されると興奮した観衆は床を踏み鳴らして歓呼叫喚するのであ る。INA物とされるこの種の映画はインド各地のスタジオで競って制作され、皆大入り満員、ロング・ラン上映であったとのこと。戦争中のことは極力秘匿に こころがけたものの、日本人と見ると決まってネタジ存否のことを執拗に聞かれるので「must have died」と答えることにした。訪れたボンベイ、ニューデリー、カラチでも同様であった。昭和29年に三菱商事の再起が叶い、主要海外市場に拠点を設置す べく私は先陣を受けてインドへ出向くことになり本拠地をカルカッタに決めたのも私には当然の成り行きであったかもしれない。

もっともそれまでに日商、住友、江商、東棉、日棉各社は支店、駐在員を置いていたが、態勢整備はスムーズに運んだ。合併前に石川義吉氏が出 張先のアデンからボンベイに移駐してきていたことや戦前の同僚大脇氏がボンベイに駐在中で、光機関の国塚一乗氏が地元出資者を得て日印商事の代表取締役で あったことで万事好都合に運べた。光機関アキャブ支部で塚本中尉と苦労をともにした萱葺信正氏(神戸針金社員)が取引先との苦情処理のためボンベイ滞在中 であったのを三菱商事に迎え入れることが出来たのも大きなプラスになった。氏は参謀本部の委託学生としてカイロ大学に留学し、英語、アラビア語、インド語 に長じた有能の仁。三菱商事取締役、中近東監督として活躍中に不慮の事故で亡くなられたのが惜しまれる。この他、独立連盟のカクバイ・シェティ氏、ネタジ 公邸の家扶のシュレン・ボース氏、陸士留学生のチャタジーくんらにそれぞれボンベイ、カルカッタ支店に次々参加してもらえたのも大きな手助けとなった。ボ ンスレー、シャヌワーズの両将がネタジへの忠誠断ち難く、首都に留まってそれぞれ副大臣の顕職に就き、何くれとなく私どもを助けていただいた。ネタジ、光 機関につながるご縁のたまものといまなお感謝の念を禁じ得ない。

6年余にわたった在勤中、要人に会う度に「ネタジの日本人秘書」と言われるのには閉口した。私はその都度、これを否定して「とんでもない。 あんな偉い方の秘書なんて務まりますか。単なるボトル・ウオッシャーに過ぎません」と答えることにした。ボトル・ウオッシャーとは階級意識の強い英印軍に 存在する当番兵の助手の呼称で国塚氏から教わった。横綱のふんどし担ぎのさらに下の「越中ふんどし洗いひと」とでもいいたいところだった。

インパール作戦をネタジの慫慂(しょうよう)に結びつける説があるが、私はそう思いたくない。前々からネタジが「日本軍がビルマに進攻した ときになぜあのまま追従しなかったのか」と口惜しがって、「ガンジーのクイット・インディア・ディマンドも、それを予想しての彼一流の布石であったのに」 と幕僚たちに語っていた。また光機関の粟田義典氏がビルマのタウンジで牟田口師団長と面接した折り、粟田氏の質問に「インド進攻など容易に考えてもらって は困る。ビルマまでは騎虎の勢いで行けたが相手はいま身構えている。インドに攻め入るには海陸両面からするものでなければ勝ち目はない。イージー・ゴーイ ングな後方参謀の具申に判を押した植田関東軍司令官のノモンハンの轍は踏めない」と戒められた。起死回生の一発長打を期待した東條首相兼参謀総長と無傷の 南方総軍と、長期の駐屯に脾肉の嘆を喞(かこ)った牟田口将軍の心境が分かる気がする。河辺方面軍司令官も片倉参謀もネタジの慰霊祭には欠かさず顔を出し ていたばかりでなく、チャンドラ・ボース・アカデミーの東京代表にもなっている。

私がつくづく感じ思うのはネタジのような人物は社会秩序が整った先進国には求め得べくもなく、それも裕福な家庭に生まれ育ち、凛性の頭脳に 優れ、最高学府までの教育を畢(お)え、定職に就くこともなく、行往座臥、一途な探求と思索に明け暮れることから現れるのではということである。度重なる 入獄もかえって勉強の助けになったのではないか。一世紀に一人出るか出ないかの智、仁、勇兼備の英傑であった。

ネタジと接触した日本人のほとんどが氏を高く評価し、よしそれが首相、大臣、大使、将軍クラスの人々であれ、当人たちがそこまでの人物でな ければ誉めたことにならない。生い立ちと学究、処世に似通ったものがある碩学、安岡正篤宣誓に会っておいてもらいたかったと思ったのは戦後のことである。 先生は第二次大戦勃発直後にヨーロッパに旅しヒットラー、ムッソリーニを乱世の英雄と決めつけ、畳の上では死ねないと著書の中にほのめかしている。

インドの独立が意外に速く実現したのも、所詮はインド人頭脳が然らしめたといえなくもないのである。イギリスはインド統治の方策上、理工系 統の教育を抑えていたため法学、医科にしか立身出世の途がないと聞いていたのが、如実に具現されたのが東京裁判のパール判事であり、ニューデリーの軍事裁 判に結びつくのである。

軍事裁判の様子を逐一伝えてくれるラマ・ムルティ氏の表情は明るく、判決が下り法廷を出た3被告があらかじめ用意された満艦飾の巨象の背に 乗せられ、狂喜乱舞する大群衆を分けてデリーの大通りを練り歩いたことを聞き、手を取り合って喜び合ったものである。デサイやネールが古い法衣を付けて闘 い抜いた勝利には、元首を戴く仮政府を樹立し領土を保有し、数カ国の承認を取り、宣戦布告したネタジの措置が大きく物を言ったわけである。

ネタジの悲業の死は洵に無念、哀悼に堪えぬも、神格化されて末永く独立インドの国民精神発揚の支えとなることを祈っている私である。宣なる 哉、昨年鋳造された1ルピー記念銀貨の表にネタジの像が刻んであるのを見て意を強くした。この上は一日も早く遺骨が故国に戻り、聖なるガンジスに流される のを切望する傍ら、その一部と松島和子刀自の篤志で作られた今世紀の偉人ネタジの胸像が末永く蓮光寺境内に安置されるのを願って已まない。(平成7年5月 31日)

              元ドイツ駐在大使・陸軍中将 大島 浩

 一九五七年十月二十七日、東京で私の存じ上げるスバス・チャンドラ・ボースの甥にああたるアミヤ・ナト・ボース氏にお会いでき、喜びに耐えませ んでした。このとき、インド独立のため勇敢に戦った戦士たちをたたえる記念式典が開催されていることを知りました。インドの人々とともに偉大なる指導者に 対する尊敬の念を表す機会を共にできることは、私にとって無上の光栄です。

 私の記憶では、一九四一年二月、私が日本の大使として初めてドイツにまいったとき、スバス・チャンドラ・ボース氏が大使館に訪ねられたのが最初で す。初めての出合いで、訪問者のインド独立に対する強い意志と燃え上げる情熱が私に強い印象を与えました。その後、何度か会い、うちとけた話のうちに、氏 が独立の最終的達成を信じていることが分かり、私はご援助することができませんでしたが、我々にできる方法があればどんなことでもお助けしたいと強く感じ ました。

 アメリカ合衆国と大英帝国に対し宣戦を布告した際、スバス・チャンドラ・ボース氏のアジアの戦場でインド独立のために共に戦いたいという 望みを抑えることは不可能でした。それを実現するためにさまざまな試みが行われたが、さまざまな障害も存在しました。まず、彼が独立運動の指導者たちと連 絡することが困難だったこと、第二にドイツの指導者たちがボース氏をドイツ国内にとどめておいたほうがよいと考えていたことです。

 当時ドイツ政府はボース氏に広大な邸宅、自動車ならびに経費を提供し、外務次官を長としてボース氏およびその一党の世話をさせていた。それとな く、彼らにあたってみると、ドイツ政府は深くボース氏を信頼し大なる利用価値を認めて、長くとどめ置かんとする意向がうかがわれた。最後の頼みの綱とし て、ボース氏はあアドルフ・ヒトラーとの直接会見の斡旋依頼しに、私を訪ねられました。ちょうど日本軍がインド国境まで進撃していたころで、ヒトラーはス バス・チャンドラ・ボース氏を国外に出したほうが賢明であると考えました。数日後、リッペントロップ外相の招きに応じ訪ねると、インド洋まではドイツ潜水 艦をもって送るから、それ以後は日本潜水艦に収容せられたしと提案された。私は、このことをお伝えしたときのボース氏の喜びの表情を今でも鮮明に思い起こ すことができます。

 このことを日本政府に申請しましたが、当時の日本においては、まだボース氏の人物も明らかでなく、また外国人を潜水艦に乗せることには海軍から 異議があって容易に決着せず、おおいに気をもんでいる中、ドイツ潜水艦出航の朝、ようやく特例としてこれを認める旨の日本政府よりの来電があり、一同ほっ としました。

 ドイツを離れるという夜、私は極秘裏にスバス・チャンドラ・ボース氏を訪ねました。十二時にベルリンを出発する直前でした。ボース氏は宿 願達成に、喜色満面コニャックの杯を上げて、到着後の抱負を語り、いわゆる志士の面目躍如たるものを感じさせられました。すでに氏は航海に同行する秘書に 特に回教徒の方を選ばれていました。これはボース氏がヒンドゥー教徒と回教徒の調和に深い関心を抱いていたことをはっきり示しています。私の記憶するスバ ス・チャンドラ・ボース氏と私のすべての事柄を語ることは不可能です。

 ボース氏の殉難は昭和二十一年初め、巣鴨刑務所において初めてこれを聞き、ベルリンでの決別を思いだし、万感胸に迫るものがありました。 しかし彼の献身と輝かしい成果はインドの人々と同様、世界中の人々に永く記憶されるに違いありません。私は、ボース氏が、インドの人々の愛国心が勝ち取ら れたものにおおいに満足していることを確信いたしております。
元陸軍大将、元ビルマ方面軍司令官 河辺正三

  スバス・チャンドラ・ボースが、当時の日本領土台湾の地に、悲しむべき奇禍によってその数奇な一生を終わってから十五年になる。この間ボースの祖国インドをはじめ、中近東からアフリカにかけての国際的大変動は、地下のボースに果たしていかなる感を懐かしめるであろうか

 彼の雄図が成って、デリーの赤い城壁に自由インドの旗が翻し得た暁には、その後二十年間独裁をもって、善後の処置を断行するというのが、ボースの 意気込みであった。もし、今の目まぐるしいアジア政局の中心インドの地に、末期の一瞬までわが日本を信じ徹したボースが、思うままにその卓絶した政治手腕 を振るったならば、これと呼応する日本の立場、否アジア全般の勢威、ひいては世界平和への貢献にいかに力強いものがあるであろうー。

 ああこのようなことは、今やはかない一老兵の午睡に過ぎぬ。しかし、我々がインドをみ、インド人を思うとき、何としてもまず映じ来るものが、ネタージ・ボースの巨像であることは、彼を知る者のやむを得ないところであろう。

 しからば何が彼の影像をかくも深く我々の心底に刻み付けたか?

 彼の全人格を流れる至誠である。当時の情勢に天機を看破し同盟側に立って祖国の自由奪還に烽火を上げた彼は、戦局の推移が志と違い、ついには破たんに至ってもなお、盟邦に対する誠実を変えずして終わった。この一事をもってしても、だれか敬仰の念を禁じ得ようか。

 さらには彼の鉄石のごとき信念である。不服従運動を堅持するマハトマ・ガンジーの師恩にさえもあえて背き、武力をもって断固決起した彼の決意はまさに牢固不動、これまた周囲を感動せしめずにはおかなかった。

 そしてこれらの根底を成すものが、彼の祖国愛の熱情であった。不惜身命、一点の私心なきその祖国愛はまことに、燃ゆるごとき概があった。

 時に利あらず。彼の雄図は非運の終局をみたのにもかかわらず、祖国インドに偉大なものを残している。同様に彼の巨大なる影像は、日本人にとって永くインド民族との間の結合の鍵となってとどまることを信ずる。

 かくて我らは繰り返して叫びたい。ネタージは我ら日本人の心に永久に生きると!

              元陸軍少将・元岩畔機関長 岩畔豪雄

 昭和20年というえば申すまでもなく。我々の祖国が降伏した年であるが、その年の4月、ビルマでは有力な英印軍が我々のビルマ方面軍を圧迫し、4月23日にはビルマにおける最高指揮官キムラ大将を始め、方面軍の連中は首都ラングーンを棄て、モーンメルに退いた。

 ラングーンはたちまち混乱状態に陥り、我軍の補給廠は暴民に襲撃されて、兵器、被服、糧秣もほとんど奪われてしまった。

 この頃、私が参謀長であった第28軍はブローム-ラングーン道に沿う地区に残されて、南下する敵を支えていたが、4月24日の夕方、はか らずも小川三郎中佐の来訪を受けた。小川中佐はかつて私が岩畔機関長としてインドの独立を援助していたころからの同志であるが、ながくインド国民軍尾顧問 を務め、彼らの信望を一身に集めていた典型的な軍人であった。

 その小川中佐が私に対する土産だといってトマトジュースの缶詰を持参した上で、23日から24日にわたるラングーンの模様を話してくれた。その話の中で最も印象的だったのがネタージのことであった。

23日、木村大将が飛行機でモールメンに去った後、小川中佐は方面軍の意図を体してネタージを訪れ、至急ラングーンを発ってモールメンに撤退するよう勧告したところ、ネタージは姿勢を正して「余としては婦人部隊をラングーンに残して撤退することはできない」と答えた。

 小川中佐はいたく感激して、すぐ引き返し、方面軍司令部に掛け合ってトラック4台を入手し、24日未明、婦人部隊80数名をシッタン河の渡河店まで送り届けた後、再びネタージを訪ねたところ、彼もようやく撤退に同意したそうである。

 なおネタージはラングーンて隊に先立ち、ロガナダン軍医少将を長とする舞台を欄軍に残して、英軍に降伏せしめ、英印軍の中においてインド独立の思想を普及する任務を授けたということであった。

 この話をもたらしてから、24日の夜遅く私の司令部を辞し去った小川中佐が25日未明、ラングーンを発ってシッタン河の渡河点に向ったこ ろにはすでに敵がペグー付近に迫っており、小川中佐ははからずもこの敵と衝突して名誉の戦死を遂げたのであった。今になって思えば、小川中佐の話に表われ ただけのネタージでも、その非凡さを物語るに十分である。彼は単に人格が立派であっただけでなく、見識も高邁であったし、抱負経綸も卓越していた。特にイ ンド独立に対する情熱は抜群であった。

 その彼が今もし生きていたら,インドとパキスタンは分離していなかったに違いなく、またインドと日本とは同盟国のような友好関係を結んでいただろうと惜しまれてならない。

              元陸軍中将・元光機関長 磯田三郎

 昭和十九年初め私は「光」機間長を拝命、大本営及陸海軍省、外務省、大東亜省等と連絡の上、寺内総指令官に申告指令を拝受したる後、二月十日 頃、蘭貢に赴任、「ポース」首席と初対面をしてから終戦直後に当る八月十七日面貢で御別れする迄、ーカ年半余りの間、大体行動を共に致しました。

 斯くて色々な場面におけるネタージーの御壮容は、彷彿として目前を去来し、彼の朗々たる音吐と、相手を説得せねば己まない力強い調子は今尚耳朶に 残って居り、真に感無量のものがあります。私の脳裏に深く刻み込まれている多くの印象の中から、「ポース」首席の第三次訪日に関する思出のごく概略を述べ 度いと存じます。

 訪日の目的は、小機内閣及大本営の首脳即ち小磯首相、杉山陸相、米内海相、重光外相兼大東亜相及梅津、及川両総長等と親しく面接、東案前 内閣の対印政策を、豪も変更することなく踏襲すると云う日本政府の真意を確めると共に、日印借款協定の締結、会便の派遣、INAの装備の増強に関する要請 等でありました。

 一カ月に亘る滞京間、私も彼と大抵同席し、折衝などに当ったので、彼の堂々たる態度、公明正大な精神、祖国の独立に対する百析不撓の熱意 と、努力には、頭の下るものがありました。この様に行事が山積し多忙を極めたにも拘わらず、彼は寸暇を利用して盟友知己を訪れ、同志の死に衰伸の誠を捧げ るなど温情溢れる友情を披瀝致しました。

 即ち印度独立運動の先輩である盟友ラス・ビハリ・ボース氏を病床に見舞い、親しく慰間し、その快復を祈った。また東条前首相を私邸に訪 れ、お互に胸襟を開いて懐旧談に耽った。この熱識と人情のこもった訪間は、今尚その御遣族を大変感激させて居る次第である。先年首席の死因など調査のため 来朝された彼の御令兄に対し、東条勝子未亡人から親しく涙ぐんで述べられた謝辞は非常に私の胸を打った。

 尚東亜来着以来、首席と行動を共にした干田司政長官逝去の悲報に接するや、彼は直に遣族を弔間、次で小生が委員長となって築地本願寺で催 された葬儀に参列、声涙倶に下る弔辞を述べられ遣族等をいたく感動させた。また青少年指導に、特に熱心な首席は、興亜同学院を訪れ、青少年留学生の学修状 混を親しく視察し、その優秀な成績に満足して懇切な訓辞を写えた。またこの訪日に先立ち、光機関から伝えられた勲一等旭日章贈呈の内意を、首席は独立達成 後、部下と共に頂き度い旨を述べて、固辞した如きは、その名利に活淡な一端を示すものと思われる。

              前衆院議員・元岩畔機関員 高岡 大輔

 私が初めてネタジを知ったのは、昭和二年(一九二七年)だった。それはカルカッタに創設された日本商品館(The Indo-Japanese Commercial Museum)の開館式当日のことであった。獄舎にあって、カルカッタ市長に当選したネタジは、堂々たる体躯で会場を圧したものだった。たしか、彼はその 時三十歳の壮年であった。私はそれから時折ネタジを訪れたが、いつもネタジの部屋には、同志たちが葉まって独立運動を話し合っていた。

 昭和十三年(一九三八年)の秋、私はその頃衆議院議員だったが、国民使節としてインドを訪れた。その時、ネタジはインドの独立を語り、日本を訪れ たいとの希望を述べた。ネタジと会うにはイギリス官憲の目を逃れなければならなかったので、二、二回話し合ったが、それにはずいぶん苦労した。

 私はそれからプラサド、ネルー、ガンジーと、国民会議派の首脳陣はもちろんのこと、各界の人々を訪ねて、翌年の春に帰朝した。

 当時、国民会議派として、日貨排斥を決議していたが、その撤回には同派の議長であったネタジがおおいに努力してくれたことを特記しておきたい。

 私が昭和十八年(一九西三年)の春、帝国ホテルで極秘裡にネタジと会ったときは、しばし、二人は声も出ないほどの感激であった。やがて二 人で帝国ホテルを出て、タ闇の追る日比谷公園に遊ぴ、宮城前広場まで歩を移した。歩きながらネタジはインドからドイツヘ、ドイツから日本までの苦心談をポ ツポツと語ってくれた。

 歩きながらネタジは二重橋前まで来ると、皇居はどの方向かと訪ねた。そして皇居に向って日本式の最敬礼をした。二人は無言のまま堅く手を握り合った。

 日曜日の夕方のこととて人通りも少なく、誰一人としてネタジには気づかなかった。一力月あまり、極秘の裡にネタジの大活躍が続いた。そして六月十八日、帝国ホテルにおけるネタジの歴史的記者会見が行われたのである。

 それからのネタジについては、読者はあまりにも知っているであろうし、私の思い出もつきるものではない。ただ一言付記したいことは、ネタジが今も健在であったなら、インドと日本の間係は大きく違っていたであろうということである。ネタジの不慮の死が借しまれてならない。

              元光機問員 林 正夫

 「ネタジ」とは、インド語で「指導者」という意味の尊称である。だから「ネタジ」と言われるインド人はスバス・チャンドラ・ポース氏の他にもい る筈である。しかるに「ネタジ」といえばチャンドラ・ボースー人に限られているのは、彼の傑出した偉大さが「ネタジ」の持つ意味を決定づけているからであ ろう。私がスバス・チャンドラ。ポース氏の名前を初めて聞いたのは昭和七年であった。先年カルカッタ市長に選ばれた被が、市長自ら独立運動の急先鋒として 示威運動に参加して逮捕され、釈放されるや、たちまち祖国独立のために挺身する火の玉のごとき情熱を知り、若き血をたぎらせたものである。


 昭和十六年になると、私も本格的にインド独立運動に身を投ずるようになったが、その頃は中村屋のラス・ビハリ・ボース氏やデス・パンディ君等と、 インド問題で夜の更けるのも忘れて語り合ったことも一度や二度ではなかった。あの頃の同志も今は既になく、思えば感慨深いものがある。

 その頃ネタジは入獄中の身であったが、世界の大勢とインドの立場は、もはや一刻も座視するに耐えず、彼は断食によって自己の容態を悪化させ、仮出獄を強要せしめて、ついにインドからベルリンヘの決死的脱出を決行したのである。

 昭和十七年、日本軍のシンガポール占領にともないインド国民軍は編成され、インド独立連盟と呼応して、いよいよデリーヘの道へ本格的な進 撃が開始されることになった。この時、昭和十八年四月、インド洋上でドイッ潜水艦より日本の潜氷艦に劇的な移乗を決行して、極東の一角に姿を現したチャン ドラ・ボース氏こそ、インド民衆の尊敬と思慕を一身に集めた、他に比類なき指導者であった。

 昭和十九年三月、ビルマ、ラングーン郊外ミンガラドンに集結したインド国民軍の進撃にむかって最高司令官チャンドラ・ボースは、将兵を閲兵して約一時問に亘る大熱弁をふるった。

 「いまや吾々は祖国インドの自由と独立をめざす絶好の機会を得たのである、この千載一遇の好機に吾々は日本軍と協力して自由と独立の崇高 なる目的達成の為め全力を尽して戦わねばならない、それが祖国インドヘの最大の責務である、その吾々の一挙一動はインドに苦吟する五億の同胞が驚異と大き な期待を抱いて注視していることを知らねばならない、そして吾々のこの固き決意と自信を持って進撃する時、必ずや自由インドの独立は達せられるであろう、 面して今こそ印度国民軍に与えられた任務は甚だ重大であり且つ此の上なき名誉でなければならない、願くば各自悔を残すことなき最善の責務を達成し独立イン ドの一日も早からんことを祈る」とのネタージの火の如き情熱からほとばしる此の劇的な熱弁に武者振いをせぬ兵土は一人もなかった。実に意気天をつく盛んな 実に感慨に満ちた出陣式であった。此の火の如き熱弁を聞いた私も身震いする程の感動を覚えた、そしてこの時のネタージの勇姿を今も私は忘れることは出来な い。

 戦時中、光機関員として苦楽を共にした私は、国民軍の将兵がネタジの命に服する様子は、生死を超越して劇的であったことをしばしば感じて いる。これほどの崇敬と信望を集めていたネタジなればこそ、複雑なヒンドウー教、回教の対立を解消して、一つに融合させることも出来たのである。これこ そ、不可能を可能にした一大事実であり、彼以外にはとうていなし得ることではない。戦後、インドとパキスタンに分裂してしのぎを削っていることでも、これ は容易に立証できることである。この偉人が飛行機事故によって幽明を異にしたことは、インドだけでなく、日本にとっても、実にかけがいのないマイナスであ ることを思い、返すがえすも残念でならない。
(昭和三十五年五月七日スバスーチャンドラ・ポース・アカデミー発行『ネタージ』より)

              野口 米次郎(一九西三年六月二十日)
断食は最後の切札であった
ガンジーは立派に魂の偉力を示した
私どもは彼に讃歌を称えた
だが彼は英の不法を親上に責めるのみだった
彼は蛮英の鉄鎖を断つことができなかった
彼は私共の称賛に聾して、再ぴ狭い暗空の結跏に退くに至った
彼は呪文に託して地上魔を払わんとした
彼は余りにも清僧でありすぎた
チャンドラ・ボースよ!私の君に間わんとする所は、インドの今後だ
貴国の対英離反、これは事実だ
日本は貴国を助けるであろう、これも事実だ
だがこれは間題の解決ではない
ただ両者の意志の一致にすぎない
鴫呼!印度はどうして英を屠るつもりだ
この食婪な障害をどうして殺除するつもりか
敵は貴国に障して壕を掘り、塞を高く連ねて剣を磨いている
今や貴国はいかに立つか
日本はいかに国を助けるか
潮は高まり風は吹く
峙局は刻々に切追して来る
印度人よ、決意の卿等を呼ぶを間かないか
卿等の生命はなぜ行進の息吹となって八裂しないか
日本は卿等の蜂火と蛩音に答える用意は出束ている
起て印度人よ、新しい峙代は卿等の突撃を待っている
機は光線の抱をつくって渦巻いている
印度人よ、いざ勝利をめざして出陣に急げ
              元陸軍中将 有末 精三

 私が日本陸軍大本営第二部長として着任したのは、一九四二年七月であった。その頃の戦勢ではドイツ軍と日本軍が、印度洋で握手しようというよう な意気込みで、したがってインド革命解放の志土スバス・チャンドラ・ポース氏を、是非東亜に迎えたい希望が切実であった。同氏は当時ドイツにおられた。私 は一九四三年二月シンガポールに行き、ラス・ビハリー・ボース先生(インド独立の志士で日本に亡命後もこの運動に生涯を棒げられた)に逢い、是非とも、ス バス・チャンドラ・ポース先生を迎えたいというインド人全部と、さらに目本軍関係者(光機関)の希望をまとめて帰京した。その後ドイソ側や海軍側とも交渉 してようやくそれが実現、同年初夏の候、はるばるドイッの潜水艦でアフリカ沖を回って、インド洋で日本の潜水艦に乗り移って東京にこられた。

 その時私は初めて先生の馨咳に接した。その上品な温容、そして烈烈たる気塊、初対面ですっかりその人格に敬服してしまった。当時の参謀総長杉山元師や首相東条大将等も、たしかに先生に逢われてからの感想は、私のそれと似かよったものが多かったとうけたまわりました。

 その時に私の印象に残っていることが二つある。

 第一に、この日の戦争の勝敗についての感想を聞いた。もちろん日本側が勝つとの判断であったが、その理由は日本に人が多いということ、つ まりマンパワー、人の質と量に非常な期待をかけておられたことである。その説明に「人」が総てを決定する要素であり、さすが革命、民族独立運動に一生を棒 げておられる先生の信念の程を察して、言い知れぬ感激に打たれた。

 第二は、その祈、ラス・ビハリ・ボース氏と杉山元師、田辺参謀次長と私の五人が星ケ丘茶寮での会食の時の印象である。

もともとラス・ビハリ・ボース先生は相当の年長者であり、ことに日本におけるインド独立運動の先覚者であり、そのうえこの度の光機関関係の インド側の代表者でもあった。その上にスバス・チャンドラ・ポース先生を迎えるので、我々関係者の間に、このお二人の間がいかがかと密かに心配していたの だった。したがって、この会席の席次等も十分留意して、円卓にしつらえた程であった。しかるにお二人ともよく打ち解けて、お互いに肩のこらない相互の尊敬 で、いかにも和やかに、しかも紳士的なよい会食で終った。

 終ってから立ち上がるとき、スバス・チャンドラ・ボース先生はビハリ・ボース先生の手をとって立ち上がらせ、その上きわめて自然にその外 套を着せて上げられた。この光景を見て、私は本当に同志として大望を抱き、共に闘われる御兄弟のように感じ、その好い印象は今もってわすれることができな い。

 思えば一九四五年夏、スバス・チャンドラ・ボース先生は、雄図半ばにして台湾上空での飛行機事散で亡くなられた。しかもその時はインド独 立どころか、友邦日本が敗戦の憂き目に呻吟しておったので、さぞや無念にこの世を去られたことであったろう。あれから十五年、その問に祖国インドは独立を 勝ち得、友邦日本も漸次復興の途を辿っている。先生の霊もいささが慰められるのではないかと思われる。(昭和三十五年五月七日スバス・チャンドラ。ボー ス・アカデミー発行『ネタージ』より)

              元陸軍大佐・光機問ビルマ支郡長 北部 邦雄

 ボース氏がドイッから潜行して、初めてラングーンにこられたその日、飛行場から私の宿舎に午後一時やって来られて、初めてお会いしました。当峙 私の機関にはたくさんのインド人が協力していたが、ボースさんは「そのインド人はただ今から全部私の指揮下に入れるから承知してもらいたい」と一言われ た。

 私はそこで「もちろん結構ですが、ポースさんは今来られたばかりで、まだインド側の組織や機構は何も出来ていないから、そういうものが整備するに 従って、逐次インド側に渡すことにしましょう」と言うと、ボースさんは「否、ただちに渡してもらいたい」と言われる、私は「そんなことをすると一時私の方 でやっている情報の蒐集その他の仕事がある期間ストップするから困る」というようなことで、午後一時頃から夕食もせず、七、八時問も話をしたが、お互いに 自説を主張して結論を得なかったが、ボースさんの熱心なことと、自説を固守する意思の鞏固なことには感心をした。

 午後九時頃になって、「タ食を共にしたいと思うが何を食べますか」と聞くと、「すき焼きをご馳走になりたい」と言われた。ポースさんはイ ンド教徒であるから牛肉は禁物の筈であるのにと、心中吃驚したのであったが、これはボースさんがインド人に、インド独立のためには宗教を超越してインド教 徒や回教徒が一致団結する必要があることを、実行において示しておられるのだと感心をさせられた。

 ボースさんがインド人を集めて反英とインド独立を説かれる会場にしばしば同行した。ボースさんはインド人に向って「力のある人問は力を、金のある人間は金を、知識のある人は知力を出して英国と戦え」と、実に名調子の熱弁であった。

 わずか二、三十分にして全聴衆に催眠術にでもかかったような感動を与え、あるインド夫人のごときは、自分の身につけていた指輪、ネックレ ス、イヤリングという風に、全部の宝石類を机の上に置いていった。全く数十分の演説で、人を裸にするようなこんな名演説家は見たことがない。(昭和三十五 年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー登行『ネタージ』より)

元陸軍少佐元ビルマ方面軍参謀 前田 博(旧姓嘉悦)

 私がネタジに接した最初は一九四三年ラングーン飛行場においてであった。その年、ネタジの主催する自由インド板政府がシンガポールからビルマ に、インド進攻作戦に呼応するために前進し、その閣僚と共に飛行場に着陸したのであった。当時私はビルマ方面軍にあって、光機関との間に仕事の関係から絶 えず連絡があったため、ネタジのラングーン到着を出迎えその一行を仮政府庁舎に案内したのでした。

 その時ネタジから握手を求められた私は、ネタジの偉大なる体躯、聡明なる風貌のなかに満々たる闘志を秘めた眼光に、少なからず威圧を受けると同時 に、何となく「この人なら‐‐」という信頼感と尊敬の念が涌き起こったことを覚えている。世紀の偉丈夫という言葉がいかにもぴったりという感じであった。

 インパール作戦の諸準備の進行に伴い、私はインド国民軍との作戦関係について、しばしば連絡の機会をもったが、ネタジが方面軍司令官河辺 大将と会見されたときは、ネタジの発言は一に祖国の完全独立のための激しい、烈々たる願望を吐露された以外は何ものもなかったようであった。

 その次の機会はインパール作戦の準備がようやく完成しつつあったとき、自由インド政府およぴインド国民軍との問に、インドの地を作戦に よって占拠した場合の処埋について最終的に会談したときであった。方面軍からは河辺方面軍司令官、中参謀長、片倉高級参謀に、私が随員のような役目で参列 いたしました。

 会談の主な内容は「印度占拠地処埋要綱」、すなわち純作戦面においては日本軍がインド国民軍を指揮に入れて統御するが、こと行政面におい ては一切自由インド板政府の施政下に置く、という取り決めであったと覚えている。この会談による取り決めは、インパール作戦の悲惨なる結未によって、つい に空文と化してしまった。

 インパール作戦の進展に伴い、ネタジはその本拠をメイミョウに前進させたが、作戦の敗退と共に彼はついに祖国の土を踏むことなく終ってし まった。作戦中、彼は死をも顧みず、ただひたすらに祖国の土を踏みたいと念願していたように聞いているが、彼が終戦と共に台湾の地に散華したことを考える と、彼の希望通りマニプールに進出させ、彼の独立の念願こそは叶わぬまでも、そこで祖国独立の尊い柱になったほうが、どんなにか彼にとっての喜ぴであった ろうと借しまれる。

 終戦後、私はビルマの地にあって軍の復員、戦争裁判の弁護あるいは証人として出廷するなど、最後の引揚船で帰ったが、在緬中しばしばインド人将兵と語り合う機会を得たが、ネタジの死を信ずるものはついに一人もいなかった。

 たしかに、ネタジは生きている。独立インドの数億の全民衆の心の中に。(昭和二十五年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタージ』より)

              陸軍少佐・光機関員・インド国民軍第二師団連絡将校 桑原 嶽

 光機関とは、日本が戦争中に行った対インド工作の実行機関です。日本軍はいろいろな国に対していろいろな工作をやっています。その工作も、いろいろなルートでやっております。ことインドに関してはすべて光機関一本に絞ってやりました。海軍も外務省も、対インド工作はすべて光機関にやらせるという ことで了解しておりました。

 藤原機関(F機関)

 昭和十六年九月末、参謀総長から藤原岩市少佐に、タイ国に潜入して将来の作戦に関してのインド工作をやれという特命がありました。この、 俗に「F機関」と呼ばれた藤原機関が、後の光機関になるものです。F機関のメンバーは将校六名、下士官一名、軍属四名の合計十一名です。この十一名が、開 戦直前のタイ国に、外務省の嘱託や商社員に身分を隠して潜入しました。十一名の藤原機関の任務は当初は単にインドだけでなく、マレー人工作、華僑工作、さ らにはスマトラ工作までという広いものでした。

 開戦直後のマレー作戦が終了してからこの藤原機関が岩畔機関というものになり、その後一年を経て光機関に変わるわけです。昭和十九年一月 にこの光機関がインパール作戦の前に南方遊撃隊司令部というものに改編されますが、二十年一月には解散してふたたび光機関に戻るという曲折を経ています。 南方遊撃隊司令部は、インパール作戦終了の前後では性格を変えており、一概に「光機関」といっても、五段階の歴史を持っているわけです。

 第一段階の藤原機関は小さな機関で、その性格は戦場謀略、具体的に言えばインド兵の切り崩しです。当時のアジアにおけるイギリス軍は、全 体の七十パーセントがインド人将兵が占めており、そのインド兵を切り崩すことが大きな任務でした。バンコクに藤原機関が潜入した頃のタイは日本とイギリス の秘密戦の部隊で、タイ自身がどちらに付くか分からないような情勢でした。幸いにタイには「インド独立連盟」(IIL)という秘密結社があり、日本大便館 付武官の田村大佐と連盟のプリタム・シンの間にコネクションがあり、藤原少佐がこれを引き継ぎ、戦争開始後のインド工作をやる基礎準備をします。

 このようにして始まったマレー作戦では、プリタム・シンが積極的に参加してインド兵の切り崩しをやります。たまたまアロルスターという町 を日本軍が占領したとき、英印軍に約一個大隊の集団投降が起きます。アロルスターの町の治安状態が悪かったため、捕虜の中からインド兵を葉め、棍棒などを 持たせ、町の治安維持に当らせました。この時の指揮官がモン・シンで、この治安部隊というか、警察部隊がインド国民草の始まりです。日本軍と行動をともに していく問に、このモン・シンが「俺はインド国民軍を作ってインド独立のために戦う」と言う決意をします。彼はイギリス軍の大尉ですから、その行為はイギ リスに対する明自な反逆行為です。さらに新婚早々の妻をインドに残していたため、相当煩悶しますが、ついにインド国民軍を正式に作ることになります。日本 軍の山下奉文軍司令官の承認を得、正式にインディアン。ナショナル・アーミー(Indian National Army)が組織されました。

 マレーでは、地形の関係もあって、敵の中央を突破すると後方に多くの敗残兵が残ります。逃げ場のなくなった敗残兵、特にインド兵はこちら の投降工作に応じ、捕虜は雪ダルマ式に増え、それをまた利用するので、マレー作戦における戦場謀略は非常に成功を収めました。シンガポールが陥落したと き、インド兵は約五万人おり、イギリス兵やオーストラリア兵とは隔難して、すべて藤原少佐の管埋下に置かれました。このとき藤原少佐、プリタム・シン、モ ン・シンの三人が、シンガポールのファラパークという競馬場で大演説をしています。

 岩畔機間

 その後、藤原機関は岩畔機関に発展、解消しました。機閲長は岩畔豪雄大佐で、それまでのようなわずかの将校の小さな所帯ではなくなり、非 常に規模の大きい組織になりました。岩畔機関が発足した当峙は、日本軍がもっとも景気の良いときで、ビルマ戡定作戦が四月にほぼ終り、海軍の南雲艦隊がセ イロンを空襲し、インド洋の制梅権を目本軍が握り、戦線が西に向っており、当時ロンメル将軍の率いるアフリカのドイッ軍が東に進み、面軍がインドで手を結 ぶのではと言われるほどでした。

 岩畔機関長の下に、総務班長兼情報班長に牧達夫中佐、政務班長と特務班長には現役の代議士である高岡、小山の各氏、宣伝班長は斉藤中佐、 総勢二百名ほどでした。開戦前の岩畔さんは陸軍省軍事謀長で、野村吉三郎駐米大便が何とかアメリカと戦争を起こさずにすむようにといった立場で行ったとき についていっており、開戦前に帰国し、現実に見たアメリカの強大さを国内でそれとなく話したことから、南方に連隊長として出されました。そのような方です から政治家や、代議士との交際もあり、政治的手腕のある方です。

 一九三九年に第二次世界大戦が始まると、大英帯国を構成していたインドは自動的に参戦しましたが、第一次世界大戦の苦い経験からガンジー やネールは参戦に非常に反対します。これにかまわずイギリスはインド人を兵士として戦線に送り、インドを兵鈷基地にする政策を強引に実行し、インド国内は 物情が騒然とし、ガンジー、ネールなど、インド独立の志士が次々に投獄されるという状態の中で、インド独立の気運が持ち上がっていました。

 その頃東南アジアには約二百万人のインド人がいたのですが、日本に亡命し「中村屋のボース」として知られていたラス・ビハリ・ポースは、 そのインド人を結集するということで、昭和十七年四月、アジアのインド独立運動の有力者を集め、後に「山王会談」と呼ばれる会議を開きます。これはインド 独立運動を現地のインド人の手でするための準備であり、五月下句にバンコクで大会があり、そこで正式にインド独立連盟(IIL)ができ、ビハリ・ボースが 総裁になります。
 
 ところが、これがインド人の難しいところなのですが、戦前から神戸や横浜などにいた日本在住インド人と、上海、香港、タイ、マレー、シンガポー ルなどのインド人の問に確執が起きていました。海外のインド人にしてみれば、日本に長くいて日本の国籍を取ったラス・ビハリ・ボースがIILの総裁になっ てもどこかに「日本人の傀儡ではないか」という気待ちがあったのでしょう。

 シンガポールの陥落でインド人捕虜は約五万人になり、これをインド国民軍に入れることになります。モン・シンはインドのデラトンの士官学 校を出た正規の陸軍将校ですが、捕境のなかにモン・シンより先任の将校が大尉から中佐まで二十人もおり、働きにくいだろうということで岩畔さんがモン・シ ンを少将にしてインド国民軍の最高指揮官にします。ところが、ラス・ビハリ・ボースとモン・シンはあまり仲が好くなく、モン・シンが「ビハリ・ポースは日 本の傀儡だ」と一言い、ビハリ・ボースは「モン・シンは統率力がない」と言うように、さらにぎくしやくするようになります。このような背景でギル事件が起 こります。

 インドの名門出身で、イギリス本国の士官学校を出たギル中佐はインド人捕虜のなかで最先任者でした。モン・シンとの関係を考慮し、岩畔機 関長はギル中佐に別班を作り、ビルマで対インド謀報工作をさせます。ところが、ギル中佐の片腕の少佐が工作の途中でインドに逃げ帰り、インドからの逆宣伝 に利用され「インド国民軍なんてものは傀儡にすぎない」とか、こちらの内情をデリー放送で暴露する事件が起こります。以前からギルは敵に通じているという 憲兵の情報があり、ついに岩畔大佐はギル中佐を憲兵隊に引き渡し、彼は終戦まで監禁されてしまいます。これがギル事件です。

 この事件が大きなきっかけでモン・シンがおかしくなり、ビハリ・ボースとの間もうまく行かなくなって、モン・シンは昭和十七年の暮に国民 軍最高指令官を解職され、大尉に戻されます。インド国民軍は、形式的にはインド独立連盟の下にあり、総裁のピハリ・ポースが解職する形ですが、実際は岩畔 機関長が言い渡し、モン・シンは終戦までシンガポールの近くの小さな島で軟禁状態に置かれることになります。このモン・シン事件でインド国民軍が非常に動 揺し、一時は反乱を起こすのではないかと言われるまでになります。当時の岩畔機関の軍事班長小川少佐などの努力で国民軍を納得させ、イギリスの正規の士官 学校を出た、人望の厚いポンスレー少佐を長にして国民軍の再建が図られ、国民軍は一応のまとまりがつきました。しかしボンスレー少佐は生粋の軍人であり、 「インド国民軍は今のままではダメだ。自分ではどうにもならないから、ドイツにいるスバス・チャンドラ・ボースを呼んでくれ。彼が来ればまとまるだろう」 と主張し、ドイツからチャンドラ・ボースを呼ぶ計画が本格化します。

 光機間から南方軍遊撃隊指令部へ

 このモン・シン事件の後、岩畔大佐は第二十五軍の軍政部長に転任し、後任にはドイツの日本大使館武官補佐官で、スバス・チャンドラ・ポー スと面識もあった山本敏大佐が着任し、機関の名前も「光機関」というようになります。チャンドラ・ボースが昭和十八年五月、ドイッの潜水艦から日本の潜水 艦に乗り移り、スマトラ北郡に上陸したチャンドラ・ボースを山本大佐が迎え、いったん東京に行き、ビルマに戻ります。そして七月にチャンドラーボースがビ ハリ・ボースからインド独立連盟(IIL)の総裁を引継ぎ、同時に自由インド仮政府を組織して首席に就任し、インド国民軍(INA)の最高指揮官となりま す。それまで曖味だったインド独立連盟とインド国民軍の関係が、チャンドラ・ボースが政府も含めた三つの組織の長を兼ねることで、完全に一本化されたわけ です。

 インド独立運動において重要な役割を果たした国民会議派のなかで、ガンジー、ネール、チャンドラ・ボースは三巨頭ですが、インド独立を目 指すことでは一致していましたが、その手段は異なっていました。ガンジー、ネールは不服従、非暴力による運動で独立運動を闘おうとしましたが、チャンド ラ・ボースは武器を手に力で独立を勝ち取ろうとしました。チャンドラ・ボースをドイツからアジアに移すことは政治工作の大きな成功でした。そしてチャンド ラ・ポースがIIL、臨時政府、INAを把握すると、インド国内における活動と政治力に自信があったのでしょう、「自分が武力でインドに入ればインドの独 立はたちどころにできる」と考え、武力闘争に自信を持ち、当時の東条総埋に「インド進攻作戦をやってくれ」と働きかけるようになります。このような背景が あり、日本軍のインドに対する方針が軍事工作中心へと変わります。それを実際に行なった機関が光機関であり、南方遊撃隊司令部です。
 
 昭和十八年の秋頃、日本軍のなかに遊撃戦の思想が重視されるようになり、日本軍の戦う各地で遊撃部隊が編成され、ビルマにもつくられます。しか し、当時のビルマ国内は治安が良く、ビルマ国内で遊撃戦をする必要はありません。インド進攻作戦の際に、インド国民軍をビルマからインド国内に入れて遊撃 戦を担当させるという考え方が生まれ、それを支援する役割を果たすために南方軍遊撃隊指令部が生まれます。ですから南方軍遊撃隊司令部は自前の部隊を持た ず、遊撃戦はインド国民軍がする形です。

 司令官には、INAの最高司令官チャンドラ・ボースの相手としてふさわしい将軍として磯田三郎中将が任命されます。磯田中将は開戦時にア メリカ大便館付武官として野村吉三郎大便を直接補佐され、長い外国勤務を買われたのです。司令部には、幕僚部として参謀部、副官部が、実行機関として軍事 部と政治部があり、参謀長はなく、高級参謀には光機関長だった山本大佐が就任します。南方軍遊撃隊司令部の役割はインド国民軍の遊撃戦の指導ですから、そ の実行を担当する軍事部が主体になります。軍事部長は北部大佐で、従来の光機間の要員だけでは足りませんから中園大陸、満州方面から中野学校出身者や一般 の将校下士官が多数集められます。総勢五百名という膨大な機関です。当初の構想は、インドのマニプール州の首都インパールを占領し、自由インド板政府をそ こに進め、INAの墓地として、インド内に遊撃戦を展開していくというものでした。

              元陸軍大尉・光機開員 遠藤 庄作

 チャンドラ・ボース氏(以下「ネタージ」と敬称で呼ぶ)はシンガポールに到着早々、まずインド国民草戦闘力の増強に乗り出した。

 まずガンジー運隊(キアニー中佐)をタイ緬国境のジットラに進駐させ、戦闘訓繰に適進させることになった。私は、光機関員として部下数名と共に同行して、同連隊と起居を共にすることになった。

 ネタージが最高指揮官になってからの国民軍将兵の士気は見違えるほど一変した。兵一人一人の目の色が生き生きとしてきたことがはっきり分 かった。私は同連隊の将校とはほとんど顔見知りであり、兵はこちらの顔は大体知っているようであった。朝、インド国民軍の軍服を着た私が兵舎の近くを散歩 すると「ジャイ・ヒンド」と、遠くから挨拶をしてくれる(今まではあまりないことであった)。こちらも何か挨拶すると、親しげに話をして、「チャターを食 べていけ」と言う。そして各人の顔がいかにもうれしそうに見えた。}人の指導者が一人一人の兵の心にこれほどまでに影響力があることに対し驚き入った。

 ジットラ進駐後四力月して、ネタージが連隊の巡視に見えた。私もお共することが出来た。ちょうど午前中に、途中の首府アロルスター市の広場で一般インド民衆を集めて、インド独立に対する演説を行った。
 数干の群衆は熱狂した。ネタージは祖国の独立について諄諄と説いていった。とても分かりやすく、一人の人に話すように親切であった。少年の、青年の、そして老婆の一人一人の目を見つめて話をしていた。

 演説が終ったとき、独立資金の募集が始まった。私は今でも忘れることの出来ないのは、献金が本当に自然に、しかも僅かで恥ずかしそうに、 しかも進んで拠出されているのを見たことである。その時、痩せたはだしの老婦人は、神のお守りでもあろうか、頸の飾りを出してネタージに手渡した。ネター ジはその老婦人の手を取って何か話したようだった。きっと心に期するものが湧き上がって来たのであろう。

 午後兵舎に見え、ただちに巡視が始まった。兵にしてみれば、我らが指導者を初めて●唄尺の間に接するのである。ネタージは連隊長の説明を 聴きながら、まったく一人一人の兵の目を見て廻った。兵舎から帰るときは、全将兵が「ポース・ジャイ」「チヤロ・デリー」を叫んで見送った。ネタージは車 の中で瞑目してうなづいていた。

 その日、ネタージはペナン島に行き、私にも同行を求められた。自分の部下がお世話になっているのでお礼のためという心積もりであったろうと思われる。

 夜、ネタージの許をお訪ねすると、ネタージはご自分で煙草を取り出して進め、自分でライターを点けてくれた。一国の首席が一中尉にサービ スをされるのである。この人は真に偉い人だと思った。色々と世話になっていることを述べられた後で、たまたま「連絡将校として、あなたの見た兵力はどうで すか」と間かれた。私は「今日、あなたの見られた兵たちの目の輝きで、私の少ない小さな戦闘経験であるが、支邦正規軍に勝り、シンガポールで戦った英印軍 よりはるかに上である」旨を答えた。ネタージは「ありがとう。私も今日は兵舎を訪れてそう信じていた」と言われた。まったく部下将兵を信じ切っていること がはっきり伺うことが出来た。

 ネタージは、民衆に対する情熱と責任を心の奥深く蔵して、現実の現象をしっかり見つめて進んだ人だと思う。

             陸軍大尉・インド国民軍特務隊及ぴ情報隊指導将校 村田 克己

 スバス・チャンドラ・ポース氏の名をはじめて深く印象づけられたのは、彼の著書「インドの闘争」(Indian Struggle)を読んでからである。昭和十七年頃、私が大東亜戦争の意義を植民地解放と民族独立の闘いに求めて、盛んに植民地の民族運動の歴史を読んでいた頃である。

 この著書の中でボース氏は、インドの聖雄と呼ばれたガンジーに対して「英国の恐るべき敵たるとともに、英国の最もよき警官になった」と痛罵し、ネールに対しても忌憚ない批判を浴ぴせていた。その急進的、熱情的な態度がきわめて印象深かった。

 昭和十八年暮、私はインド国民軍特務隊及ぴ情報隊の運絡将校(Liason Officer)となったが、しばしばボース氏の熱烈な演説を見たり間いたりするに及んで、激しい革命の志士ぶりに、英雄とはかくのごときものかと感嘆し た。たまたまインパール作戦発起の前夜、インド国民軍最高司令官のボース閣下に招かれ食事を共にして私を激励されたことがあった。向い合って間近に見る ボース氏は、私の先入観念と違って、まったく温顔英知の学者肌の人物であった。

 ポース閣下は、歴史、風俗、生活様式の違う異民族と共に生活する私の苦労に感謝の意を述べられて、「アジア民族解放のため、一層の努力を期待したい」と激励し、「大学で何を専攻したか」とか、「インドの事情について研究したことがあるか」とか、いろいろ質問された。

 最後に、困った事があれば言ってくれ」ということだった。私は「素直に言って、日本の給養はインド人の嗜好に合わないために困る」と、特 に牛肉の問題を出したところ、ポース氏は「インド独立が達成されなければ、インド人の幸福は勝ち取れない神もインド独立のためならば牛を食うことすら許さ れる。ネタージは、インド独立のためにはスキヤキも食っている。ネタージが許すから、何でも食うように言ってほしい」と述べられた。独立の達成に一生を捧 げ、インドの独立を至上命令とする英雄の昂然たる気迫が伝わってきた。

 インパールの戦いに敗れて敗走千里、昭和二十年四月二十四日、ビルマ方面軍司令部は急にモールメンに退却した。このころ私は光機関から整理されて軍指令部にいたが、四月二十六日夜、ラングーンを発ってモールメンに向かった。

 この退却行の途中ワウ附近でインド国民軍婦人部隊(ラニ・オブ・ジャンシー連隊)と共に退却していくボース史に逢った。雨の中を、ボース 氏は兵隊と共にトラックの後押し、荷物の揚げ降ろしをしたりして退却していった。昨日までのインド国民軍最高司令官ボース氏が、今日はあわてふためく日本 軍の無秩序な退却行の中で揉みくちゃにされているのを見て、私は思わず「ボース閣下、ご期待に添い得ず残念でした。ご健闘を祈ります」と声をつまらせ、思 わず涙した。明治十年の敗将西郷南洲を想い出させられたのだ。

 ボース氏は私の感傷を叱咤するかのように、「勝利の日まで闘争だ!ジャイ・ヒンド」と、悲痛な叫びをされた。満々たる闘志、いかなる局面にいてもくじけぬ聞志に、私は深く心うたれるものがあった。忘れ得ぬ光景である。

             元大本営陸革参謀中佐 高倉盛雄

 私は、インパール作戦直後の昭和十九年七月、参謀本部第七謀(支那課)から第四班(主務謀略)に移った。前任者(尾関中佐)から引き継いだ重要 業務は、インド工作というよりもインド国民軍(INA)の再建工作だった。当の相手は、失意のスバス・チャンドラ・ボース氏であった。ボース氏は、インド 政界でネール氏と争ってドイッ亡命中、潜氷艦で日本に迎えられ、ネタジといわれた人である。

 この国民軍は、南方戦線のインド人俘虜で編成された部隊に始り、戦局の進展と共に雪達磨式に増え、統制のとれたINAとなってデリーヘ!を叫んで 立上った。国民軍は昭和十八年九月一日正式にシンガポールで編成され、寺内南方軍総司令官の指揮下に入り、その用法に基いて逐次再編装備されて、大本営の インド工作骨幹の部隊となった。

 ビルマの第十五軍(久野村参謀長藤原参謀)は、同年八月二十六日ボース氏に軍の「インパール作戦計画」を打ち明け説明した。この作戦計画 は、実は牟田口指令官に反対する小畑参謀長を更迭までして計画した因縁づきのものだ。デリーを目指す国民軍には干載一遇の作戦であり、ボース氏宿願達成の 作戦だった。

 インパール作戦は中央の認可をえて、翌十九年三月に開始された。しかし軍の補給が続かず、インパールを指呼の間にして挫折した。国民軍は遊撃に特務工作に情報収集に敢闘したが、ビルマに後退せざるを得なかった。

 国民軍のインド再進入の企図は、英印軍急追の前に実現されることなく、翌二十年八月十五日の日本軍の終戦を機に完全に水泡に帰した。ボー ス氏は終戦直後祖国の独立を胸にソ連国境に向ったが、神は味方せず途中八月十八日台北における飛行機事故で雄図空しく潰え去った。まさに大悲劇の終幕だっ た。

 氏の遣骨は東京に運ばれ、中野の蓮光寺に安置された。氏の胸像はボース・アカデミーの手で三年前にこの寺に建てられた。来年(平成七年)は氏の逝去の五十周年を迎える。

 顧みると、私は(参本第二部長)有末中将に随行して、インパール敗戦再興lインド再進入を期し来日するボース氏を、昭和十九年十月三十一 日羽田に出迎えた。インド工作担当の光機関長磯田中将が同行していた。ボース氏は昼問は関係方面への表敬に忙しく、参本側(有末・永非・高倉)との要談 は、連夜帝国ホテルの暗い電灯下で行われた。案件の自由インド仮政府と国民軍との強化については、光機関・軍政・外交要員・インド士官候補生教育受入れ等 は話合はスムースに進んだ。
 
 仮政府派遣代表部の蜂谷公便、柿坪書記官の人事もみられた。しかし国民軍の装備強化となると、国軍が南方総軍で編成され、現地軍の指揮下に運用 されているので殊に南方への補充補給も意のようにならない現在の戦局上、現地軍の自由裁量にまつしかない。ボース氏はいたたまれず、自己破滅をおそれて南 方総軍の頭越しに東京直訴となったものだろう。東京としてはボース氏には悪いが、総軍にお伝えしますと逃げるしかない。だが東京は、ラース・ビハリ・ボー スのときから肩入れし統けていたのに、余りに素っ気なくては正義が通らない。

 ここでわが方の弱り目を正直に胸襟を開き過ぎては、破滅に通じる。国民軍に希望だけは持たせたい。ビルマ正面の英印軍の反攻を前に、内輪 同士の勝負にもならない熾烈な駈引きだっときた。国民軍は、目指すインド独立戦のためにビルマに健在させたい。この重要な秧にネタジのビルマ不在一ケ月は 許されない。しかも連日の対日交渉は、成果が装備の強化につながらずむしろ失意に近い。彼が精魂を便い果たし空しい心を抱いての帰還を、十一月二十九日羽 田に見送る私たちの心中は複雑だったそのときを回顧しては心が傷む。殊に終戦直後の八月十八日-(私は軍便髄員としてマニラに出発の前日)ー氏がインド独 立を期して亡命のためソ満国境に向って飛行中、不幸台北で不慮の死を遂げたこととも問連し重なり合って、悔恨の情は深く私の心を苛む。

 さて、昭和十九年のインパール作戦の失敗は、大本営に大衝撃を与えた。一方インド仮政府にとっては、英の桎梏から祖国インドの解放、独立 実現工作の一頓挫だった。ネタジの失望落胆は察するに余りがある。本作戦後のビルマの戦局は氏の心をいよいよ暗くする。彼は東京からビルマ帰還と共に、ビ ルマ方面に身の置きどころもないような空虚感に襲われてきたのではなかろうか。

 時も時、昭和二十年四月二十目、木村ビルマ方面司令官から「ラングーン撤退」を申し入れられる。そのときの氏のショックはどんなものだっ ただろうか。失望の余り東京亡命をいい出したとしても決して無埋はない。しかし大本営は、東京亡命は困る、あくまで寺内さんと一蓮托生だとする。これは日 本式発想だ。インド独立は、日本一辺倒とは限らない。「南」と「東京」とに失望したボースに、柔軟な彼独特の構想があっても非難すべきではない。彼の選択 肢の中に依然ソ運が存在するならば、先ずソ満国境に向わせていいのではなかろうか。よく話し合えというのが東京の意向だった。

 その他大本営には、ビルマに連絡すべき多くの事がある。そこで急ぎ「南方連絡班」(杉囲・高倉・晴気・中山)を派遣することになったので あった。しかし、搭乗機の手配は困難で、六月一日立川発は二日に延期され、しかも乗機は練習機となる。福岡では乗機捜しになんと一週問を空費した。私たち はやっと十日に上海に飛ぴ、広東・昭南と乗り継いで十七日にやうやくバンコックに着いた。国民軍はすでにタイに後退していた。またビルマ方面の戦局は急追 し、英印軍は五月二日ラングーンを占領したので、敵機の跳梁下にタイからビルマには幸じて夜間の潜行が許されるのみとなった。私は一行と別れてタイにとど まることにした。

 そして直ぐにバンコック内の光機関を捜し求めて磯田中将を訪ね、その日にポース氏と対談することができたのは幸いだった。真夜中の十二時から会談は三時間続けられた。氏は東京亡命を固執せず、ソ満国境行きが了承されたのでホッとした。

 だが、結果的には図らずもそのことがボース氏の死につながった。

 私はバンコックで杉田大佐らの帰来を待ち、また帰途昭南で寺内元帥に、ボース氏の亡命予定を報告して、了承を得た。

 南方連絡班は沖縄方面の戦局を案じつつ、嘉義・上海経由で七月二日福岡に、同四日には所沢に帰着した。一ケ月に及ぶ生死を度外視した空の旅はここに終り、無事任務を果たして七月五日総長・次官に、翌六日には大臣局長に復命した。

 私は終戦直後の八月十八日、しかも私ら軍便のマニラ飛行の前日、ボース氏の乗機の事故による死亡を知り愕然、思わずウオッ!と絶叫した。 まさに晴天の霹靂だった。氏は亡命のためこの日、南方総軍から関東軍に転任の四手井中将と重爆機に同乗し、昭南から台北経由新京に向った。その途中台北飛 行場で離陸直後、一方の発動機がすっ飛んで乗機は墜落した。

 これが一世の英傑ボース氏の最後となる。もしボース氏の東京亡命が実現するか、あるいは私たち南方連絡班がバンコック到着前に遭難し、氏 が別の行動に出たとしたらその死は避けられたかもしれない。しかし、「もし」は歴史にタブーだ。それは、歴史そのものが直実だからである。思うにインパー ル作戦は氏の宿題であり、すべてであった。氏はインパール作戦に全希望を托し、総力を結集した。だが、不幸作戦は失敗した。またインパール後、ビルマの戦 局は好転しなかった。彼はソ連にはかない夢を托して、台北飛行場の露と消え去った。奈りにも哀れな英雄の末路だった。

 ネタジの遺骨・遺品は、台湾軍の林田少尉が宰領して九月七日陸軍省に着いた。私は霊安所に奉安して翌八日インド独立連盟東京支部長のラー ム・ムールティ氏に引き渡した。被はインド国民軍の士官候補生を引連れて陸軍省に出頭した。ポース氏の葬儀は、英・米軍を慮って九月十四日に、うちうちの 関係者の手によって、しめやかに蓮光寺で厳かに執行された。

 なお氏の遺骨は、いまだに祖国インドに帰ることができず中野の蓮光寺に眠る。‐平成六年十月三十一日記‐

元陸軍軍医大尉・台北陸軍病院南門分院長 吉見胤義

  飛行場の事故現場から緊急輸送されてきたネタジ・スバス・チャンドラ・ポースの身体は、文字通り全身火傷で、頭から足の先までいぶし銀の色に変 色しておりました。外科的な処置のため、ただちに手術室に運ぴ込まれました。この問、ネタジの唇からは痛みを訴える一言葉はひと言も発せられませんでし た。

 ネタジは体躯堂々、六フィートを超す偉丈夫でしたが、彼の意思の力も肉体と同様、鉄のように強固なものでした。まさにインド独立のために心身を捧 げた人物にふさわしい姿です。リンゲル注射、輸血、強心剤などできるかぎりの手当をいたしましたが、その甲斐もなく、その夜最後の息を引き取りられまし た。

 その夜を想い起し、偉大な人物を失ったことを非常に残念に思います。

 今はただネタジの具福を心から祈るぱかりです。

              元陸軍少佐 河野大郎

 「巨星墜つ」と言う言葉がある。ポース氏の場合、南の空に燦然と輝くサザンクロスがその中心を失ったのにたとえられるかも知れない。ポース氏が本当に偉大な人物であったということを識ったのは戦後のことである。

 ボース氏の兄さんや国会議員やその他の諸々の人がインドから来られた。そして口々に「ポースは本当に死んだのか?」と言われる。そしてその人たちからボース氏に対する信仰的な尊敬の言葉を聴いているうちに、惜しい人を失ったものだという気持ちが次第に強くなった。

 生きていられたらインドの歴史も変わっていたに違いない。ネール時代ではなくボース時代が築かれていただろう。
 
 しかし彼は死んだ。私が彼について言えることは、サイゴンから台北までの短い旅についてだけなので、古い記憶をたどり、事故に至った状況をお伝えしてポース氏のご冥福を祈りたいと思う。
 
 昭和二十年七月二十日、私はジャワ島のマランで航空本部への転勤命令を受けた。当時の戦況はご承知の通りであるが、五月の発令が七月に届いたの だから、その混乱ぶりも想像できると思う。あれこれの曲折があったのち、サイゴン経由で帰ることになり、八月四日サイゴンについた。軍の宿舎がいっぱいで 入れないため、朝日新間サイゴン支局長の前田義徳氏(後のNHK会長)に頼んで、その宿舎に泊めてもらった。やがて終戦を迎え、複雑な気持ちで内地への便 を待っていた。

 八月十七日、南方総軍の白川参謀から十八日の飛行機でチャンドラ・ボース氏を大連に送り、その後東京に帰るようにとの連絡を受けた。十八 日正午出発の予定がなぜか遅れ、飛行場でだいぶ待たされた。四手井中将の後ろ、ボース氏の横はガソリンタンクがあって、ボース、ラーマン両氏の所は狭い通 路になっていた。

 飛行機は97式I型で、ラチエーの可変ピッチプロペラ(三葉)を付けていた。搭乗者が多いので、重量の関係上、私たちはスーッケース一個だけとして、あとは捨てた。積載可能量は1500キロ、その内私たち13名だけでおよそ980キロになるだろうと判断したためである。

 やがて数名の見送りを受けたポース氏等が到着した。飛行経路はサイゴン、トウーラン屏東、台北、大連、東京と決定し、午後四時近く離陸した。さして広くないサイゴン飛行場であるが、わたしたちの飛行機は滑走路をいっぱいに便ってやっと難陸した。

 しかもプロペラの回転数は3100近くまでオーバーしていた(このエンジンの最大許容回転数は2800であった)。この時、私と滝沢はまだまだ重いということを強く感じた。

 午後7時トウーラン飛行場に着くまで、機上ではボース氏はラーマン氏と地図を広げながら、今後のコースを語りあった。見送りにきたのは同 志たちであることは、二人が快活に語るところだったが、なぜか大連以後のことになると口が重かった。英国の手を逃れてソ連へ入ることが、話がついていると はいえ、不安がつきまとっていたのかもしれない。

 トウーラン飛行場では憲兵少佐の出迎えを受けて海岸近くのホテルに入った。私と滝沢君は飛行機の側に残り、点検と重い飛行機について考え た。まず機関銃一、二丁と実弾2000発は、敵に遇ったら最期と考え、降ろした。その他、爆弾倉を開けてみると内地送りの土産品やそのた他諸の不用品が ぎっしり入っていたので、すべてこれらを降ろしてしまった。これだけでも500キロを超えていたことだろう。

 点検を終って私たちがホテルに帰ったのは午後8時20分を過ぎていた。他の人たちは夕食が終り、ポース氏は人目を避けて、奥まった自室で 休んでいた。明日の出発については、敵機の出現を考えて午前5時と決めた。トウーラン最後の夜、私と滝沢君は夜更けまで話し合った。今後のこと日本の復興 のこと等、そして今後20年経たなければ日本は再ぴ立ち上がれないだろう-‐と、私たちの意見は一致した。南方最後の夜、椰子の葉蔭に星が美しく光ってい た。

 運命の日、18日午前5時、トウーランを出発した。重量を滅らした機は軽やかに屏東に向かう。天候は快晴だし、機は快調である。午前11 時頃、屏東が見えてきた。が、突然、無線がソ連の旅順進駐を伝えた。そこで、協議の結果、台北に直行し、できれば本日中に大連に向かうことを決めた。正午 に台北に着いた。ポース氏の来ることは知らされていないらしい。飛行場大隊の将校と協議し、二時大連に向けて出発することとした。天幕の中で簡単な食事を 取る。あとで考えれば、これが最後の会食になった。ただポース氏は途中が寒かったので毛のセーターを出して着込んでいた。青みがかった制服に黒の短靴、戦 闘服という姿であった。

 2時少し前、滝沢少佐がエンジンテストをした。私は外でこれに立ち合った。ガソリンは2000リットル満タンである。左のエンジンに若干 の振動を感じたので、機に乗り込みもう一度テストを繰り返したが、今度は何も異状が感じられなかった。この時、もう少し慎重であったらと、今では考えられ るのだが‐‐。

 2時、離陸。高度20メートルくらいに達したとき、左前方に大きな音を問くと同時に左エンジンが飛ぴ散り、機は大きく右に傾いた。「事故 だ。火を出してはいけない」という感覚が私たちの頭の中を走った。「スイッチを切れ」と叫ぴながら私は立ち上がろうとしたが、落ちる機の遠心力はそれを許 さない。滝沢君は傾いた機を立て直そうとしたが、失速に近い機はまったく自由が効かない。

 機は右翼から地面に叩きつけられ、そして火を吹いた。ぶつかりながら、後ろから荷物が飛んでくる。そして騒ぎが静まった時、機は三つに折 れ後ろは見えない。周りを見まわすと、四手井中将は後頭部を割って即死。滝沢君は操縦提が顔に食い込んで即死、青柳君はうつぶせている。機関係の下士官は どうなったか判らなかった。

 そのうちに熱くてたまらなくなった。火が機を包んでいる。たまらなくなった私は天蓋を破って脱出した。処が、落ちた所が飛ぴ散ったエンジ ンの跡なのでガソリンが強く吹き出している。それを頭からかぶってしまった。上着を脱ぎ、転がって火を消す。顔も手も足も焼けた。火が消えてもしばらく ポーッとして草の上に寝ていた。野々垣氏の私を呼ぶ声が間こえる。返事をしたかどうか覚えていない。

 すると突然、まったく突然という感じで、燃えさかる火の中から素裸の大男が飛び出してきた。靴をはいただけの素裸で、身体のあちらこちらから血が流れていた。それがボース氏だった。

 これが私がボース氏を見た最後でした。病院についた後、私はすでに目が見えなくなっていた。その後を聞いた。「サイゴンの同志諸君によろしく伝えてくれ」という言葉を残して。

              元陸軍少尉 林田達雄

(台湾軍司令部参謀部付林田達雄陸軍少尉は、昭和二十年九月五日、ポースの遣骨・遺品を台北から東京へ運んだ)

  一九六四年夏のある日、中村嘉一氏がひょっこり私を訪ねてきた。中村氏はポースの臨終の枕元にいて遣言を聞き、軍医とともに最後を看取った元台 湾総督府外事郡の通訳である。戦後、印度政府派遣の事故調査団が来日した擦、おもに証人として喚間されお会いして以来、同じ福岡市内に住んでいることがわ かったが、その後中村さんのお宅を訪ねたのは二、三度しかない。七十九歳の中村さんはあまり町に出られず、郊外のお宅で悠悠自適、バラ作りなどにいそしん でおられるので、本当に久しぶりの対面であった(林田氏のことば)。以下はその時の会話である。

林田 相変わらずお元気そうで何よりです。最近もインドの人たちが来福の折りには招待を受けられたそうですね。

中村 そうなんですよ。その時に私がチャンドラ・ボース氏の最後の時の話をしたんですよ。そうすると相手は目を輝かして 「もっと詳しく話をしてくれ」と言うんです。そこで調査団が来日したときの私の証言メモがあるといったら、「ぜひ一晩だけ貸してくれ」というのです。家ま で取りに帰って見せてやったら、「これを書き写すからしばらく貸してくれ」です。とうとう香港からインドまで持って帰ったんです。しばらく経ってから丁重 な礼状とともに送り返してきましたが。

林田 やはり、それだけボース氏の最期というか、真相がインド国民に知られていないということなんですね。

中村 その通りです。インドの相当のインテリの間でも真相はよく知られていない。だから林田さん、あなたがその真相を具体的 にまとめられたということは重大な意義があるんです。私なんかも歳だから驚くほどのスピードで記憶が薄れていく。あと数年も経ったら関係者が死んだり、記 憶が不正確になったりで、とてもボース氏の真相をまとめることなんかできやしない。あなたも今回の資料集めや執筆については随分苦労されたようですが、本 当にご昔労様でした。私も当時の関係者の一人として、また日印両国の親善を心から祈る日本人の一人として厚くお礼申し上げます。

林田 そうおっしやられるとまったくお恥ずかしい次第です。調査固が来日したとき、団員の一人であるボース氏の実兄等から中村さんは「ぜひインドに来てくれ」と招待されたのでしょう?

中村 ええ、そうなんです。しかし私はもう七十九歳を迎えて、とても外国へは行けない。だから林田さん、この記録をまとめたら、ぜひ私の代りという意味でもインドヘ渡って、ボースの崇拝者であるインドの民衆に、偉大な愛国者ボースの死の真相を伝えてください。

林田 はい、よくわかりました。あなたのご意思に添うよう最大の努力をいたしましょう。ところで、中村さんはいつごろから総督府にお勤めでした?

中村 昭和二十年が終戦ですから、その二年ほど前からです。実は、私は若い頃真珠貿易商として二十年ばかりアメリカ生活をしたものだから英語が解る。それで外事部の渉外担当者としてお手伝いしていました。

林田 すると東南アジアの各地から要人たちが日本へ向かうとき、必ず台北に立ち寄って中村さんのお世話になったというわけですね。

中村 世話をしたというと口はばったいが、いろいろお手伝いさせていただきました。ボースさんの他にもフィリピンのラウレル 大統領やビルマのバー・モウ国家首席などはよく存じております。とにかく、みなさん旅の途中に立ち寄られるわけだから、気分をゆったりしていただいて、 「台湾はいい所だった」という印象を持ってもらうために誠心誠意ボーイ役を務めたというわけです。

林田 ボースさんとは何回くらいお会いになりましたか?

中村 そうですね、最後の時を含めて三、四回くらいでしょう。もちろん、最後の時は墜落事故があってから急に呼ぴ出されたのですが-‐。

林田 すると、他の時はボース氏は何時も台北の鉄道ホテルに泊まられたのですね?

中村 そうです。いつもインドヘの土産品の買物係をおおせつかりました。それも相手の性別、年令、それに何人分ということだ けおっしやって、みつくろって揃えてくれというわけです。私はデパートに行って適当な物を店の者に選んでもらう。そしてペンー本に至るまで領収書をもらっ てボースさんに渡しました。あの方もきちんとした方でしたから、ずいぶん私を信頼してくださいました。

林田 するとボースという方は相当謹厳な方でしたか?

中村 いや、いつもニコニコして冗談ばかり飛ばしておいででした。スキヤキが好物で、いつかも一緒に夕食をしたあとで、私が 「まだ何か召し上がりますか?」と言ったら、「スキヤキを食べたい」というお返事でしょう。「スキヤキですか?」と驚いて間い返したら、「ミスター中村、 私はあなたのように小さくはない」と言われて、二人で大笑いしたことがありましたよ。

林田 ところで、ネタジの臨終の場にあなたがおられたことは私の本でも触れているのですが、その他に彼の最後についてお話しいただけることがありますか?
中村 ひどい火傷であるにもかかわらず、彼の日からは苦痛の言葉やうめき声がまったく出ませんでした。同じ部屋の日本人将校たちはうめきや痛みに 耐えるくらいなら殺してくれと叫んでいました。ポース氏の気高い沈黙がたいへん印象的でした。このことはポースさんが最後の瞬間まで意識がしっかりされて いたことをはっきり物語っているのではないでしょうか。

林田 その通りです。中村さんは、ボースさんが四つのことを口にされたのをうかがわれたということですか。

中村 ええ、そうです。吉見軍医がネタジに遣言や言い残したいことがあれば聞いておくようにとおっしやったのです。あからさ まに聞けませんから「何かして差し上げられることはありませんか」と遠回しにお聞きしました。ポースさんは「あとから私の部下が来るのでよろしくたのむ」 と言い、「四手井中将の具合いはどうか」とたずねられ、「頭に血が昇ってきたようだ」と言って、「しばらく眠りたい」とおっしやいました。吉見軍医が注射 しますとボースさんはいぴきをかきはじめ、まもなく息を引き取りました。

林田 一九五六年に調査団が来日したとき、あなたはネタジの実兄に会われてお話になったのでしたね?

中村 ネタジについて知っていることを全部話しました。それからインドと日本の過去や将来の関係について話し合いました。私 は「日本文化の源はインドから来ている証拠をご覧に入れましょう」といって、お兄さんをその建物の屋上につれていき、隣のお寺の屋根を見せました。お兄さ んは「私の国と同じですね」といってたいそう喜ばれました。それから、私が常々考えている国際結婚について、「私どもの関係を確かなものにするいちばん良 い方法は両国の若者の血を交流させることです」と言いますと、お兄さんは「そこまでは賛成できませんね」とおっしやったんです。私は今でも国際結婚が世界 の平和を築く一つの方法だと信じているんですよ。
              元陸軍少将・ビルマ方面箪参謀 片倉衷

 一九四五年十一月、私は沢田廉三、松本俊一の各氏とINA軍事裁判の証人としてニューデリーに召喚された。被告はシャヌワーズ、ディロン、サイガルの三幹部であるが、実質的にはINA独立運動の究明であった。

 前国民会議議長デサイ氏を首席弁護人とし、ネール、ジンナーの面巨頭までが、ネタジとの政敵関係を離れての特別弁護である。被告人も抑留被疑者た ちもいずれも烈々たるインド独立解放の志士である。インド国民は連日独立解放の歌を運呼し、全インド国民の独立解放への悲願は日増しにかきたてられた。

 一九四三年七月、チャンドラ・ボース氏は宿願ようやく成り、インド解放準備のためラングーンに飛来した。当時河辺正三将軍の暮僚であった 私は、その受け入れ体勢の確立に、北部光機関ラングーン支部長等と協力して準備に忙殺されたが、七月末日ポース氏は河辺将軍と会見することとなった。

 氏はまず自らの草命運動の生涯の遍歴を述べ、インド独立は、結局、武力聞争なくしては達成し得ざること、右信念からガンジー、ネールと決 別せる経緯を語り、今やインド解放軍の総師として進軍する決意を披瀝して、日本軍の協力を要請した。その双眸にひらめく牢固たる決心、全身に漲る熱情は、 河辺将軍以下を深く感動せしめ、欣然協力支援を約した。

 同年秋、仮政府をラングーンに樹立して、反英独立の旗幟を鮮明にし、日本軍とはあくまで協同作戦の立場をとり、連合参謀部の設置、友邦軍 としての相互敬礼の交換、自主的放送実施等、努めて自主的措置が講ぜられた。烈々たる気魄、滴る愛情は、たちまちにしてINA将兵の士心を獲得し、万難を 排して祖国解放への進撃を始めた。私も裁判証言において正義と信義に立脚し、何らの躊躇なく日本軍の協力支援の立場を陳述しえた次第であった。

 レッドフォート夜半の喊声は潮のごとくニューデリーヘと進む。「ジャイ・ヒンド」のネタジの雄叫びは一波万波全インドヘ拡がって行った。 レッドフォートの暁は、インドの黎明を迎えた。全身革命の斗魂に満ちた添う颯爽たるネタジの英姿を眼前に彷彿として、私の感懐はいまなお限りなく続くので ある。(昭和三十五年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタージ』より)

1960年4月18日 江守喜久子

 不思議なご縁と申しましょうか、一介の主婦である私が「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の副会長に推されて発足3年目を迎えて、再度インドを訪れることになりました。

 私とインドとのつながりは、偶然といえば偶然、戦時中、明治神宮の鳥居のそばで、通りすがりの兵隊さんにお茶を接待したことがあります。このこと は新聞にも度々出ましたが、当時、日本に身を寄せていた親日派の印度留学生たちと知り合ったのも、お茶の接待がきっかけでした。

 彼等は何れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともにその夢も崩れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれらの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が広がりました。

 私は驚いて、早速官庁に奔走し、嘆願運動を続け、印度留学生を家近くのアパートに収容してお世話をすることにしたのです。45名の異国の青少年(16歳から23歳)のお世話をするということは、食糧事情の困難な折とて、並大抵のことではありませんでした。

 終戦となった日より、11月3日、彼等を印度に帰還させるまで、当時の苦しい社会情勢を考えると、よくもそれに耐えられたとわれながら驚 くばかりです。民族を超えての人間愛というか、とにかく、この若人たちを救わなければならないという、一途の信念であったという気もいたします。

 ボースさんの御遺骨が密かに東京のサハイさんのお宅に運び込まれ、人知れず、ささやかな供養が営まれたのもそのころです。当時の情勢から 私は供養に加わることは遠慮すべきであると思い、蔭から先生の冥福を祈りました。ところが供養が終わってから、留学生たちは口々に「おばさん、ネタージは 僕たちの希望と光でした。どうかネタージの供養をつづけてやって下さい。お願いです」というのです。

 印度の若い知識層は、ネタージに対してどのような共感と尊敬を寄せていたか、この若き情熱には、切々と胸に迫るものがありました。以来、この印度の偉大な志士、ネタージの気高い魂の眠る蓮光寺への墓参と供養は、今日までつづけさせていただいております。

 一昨年(1958年)の10月のこと、ネール首相の来日の時、留学生のダーサンという方と、ネタージの甥のアミヤナ・ボースさんが来られて、
 「印度にはサラト・ボース・アカデミィという会があります。日本にもこれと同じ会が発足して、日印間の文化的結びつきができれば、こんな喜ばしいことはないのだが・・・」という懇請の意味の言葉がありました。

 そこで私は、故人と特に関係の深かった渋沢敬三先生、大島浩先生、河辺正三先生、岩畔豪雄先生方と御相談し、早速御同意を得て、ネタージの誕生日に当たる1月23日に「ネタージを偲ぶ会」を催す運びとなったのであります。

 50数名の方々とその席上での相談の結果、全員賛成、ここに「スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー」の発足を見るに至りました。

 この会はネタージに縁故の深い方々の集まりで、ネタージの高潔な人格を通して、日印間の文化的、精神的な交流を来かめることを目的にしたものであります。

 ささやかな会合で、まだ事業らしい事業もしていませんが、ネタージの御遺骨を国家管理に移すこと、身命を抛って祖国の独立のためにつくされたボース先生を思うとき、1日も早く先生があんなに愛された祖国の土に、御遺骨を埋めて差し上げたいと切に思わずにはいられません。

 それから、8月18日の御命日には法事を営むこと、1月23日の誕生日に「ネタージを偲ぶ会」を催すこと、ネタージに関する資料を集めることなどに微力を尽くしています。

 昨年、私はマミアナ・ボース氏の御招待を受け、会議出席後かつての留学生たちを訪問して、1カ月ばかり印度の各地を旅行しました。初めて 接するカルカッタ、ボンベイ、ニューデリー、アジャンタ、タシマハール、プナの士官学校など一人旅の私を心から迎えてくれました。わけても若いころからの 憧れであったアジャンタへの旅が、こうしたいきさつから実現しようとは想像もできないことでした。

 何年かぶりで出逢ったかつての留学生たちは私を歓迎ぜめにして、涙の出るような感激でした。

 特に印象が深かったのは、先生が起居されていた部屋が、印度独立のため旅立たれた、その日のままの姿で残っていることでした。きちんと整 頓されたベッドにも書棚にも、また平素の通り置かれてある靴、スリッパにも、先生在りし日の香りが染み込んでいるようで、薄暗い部屋ではありましたが、先 生の生前の静かで清らかな日常が偲ばれて、一世の英傑の末路と思い合わせて一抹の哀愁を覚えるのでした。この建物は今では、図書館、資料室などに利用され て、先生の遺徳を偲ぶよすがとなっています。

 印度旅行中に、サトラ・ボース・アデミィからネタージ会館設立援助について懇請がありました。先生はカルカッタに住まわれるようになったときから、この土地を国民的な霊場として、公的な慈善事業に利用することを祈願しておられたようです。

 独立運動のため、潜行万里の苦難の旅につかれたのも、このカルカッタからです。先生にとってゆかりのある土地に、ネタージ会館が建立されることはまことに意義の深いことと思います。

 現在この建物のある土地は、ボース氏の兄上の所有でありますが、会館建設のために提供されることになっております。この会館から生ずる収 入は、ネタージ・バーワン霊場の維持、サラト・ボース学院、アザド・ヒンド病院車サービス、ネタージ研究所の諸経費にあてるため、寄付することになってい ます。

 複雑な印度政情とはいえ、かつえは同盟国に指導者であられ、高潔なる人買う社であった先生を崇拝するあまり、私は4月19日、日本を出発して、再度印度、セイロンへ旅立ちます。

 この旅行の目的は、もちろんインド政府に先生の御遺骨を速やかにお迎えしてほしいと懇願するためです。またネタージ会館設立の寄付金につ いても特に相談してきたいと思っています。セイロンの留学生やかつての45人のあの人たちの幾人かと逢うのも、私の心に秘めたよろこびの一つであります が・・・。出発に前夜4月18日しるす。(1960年5月7日 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行「ネタジ」掲載)