ネタジのこと
              元陸軍少佐元ビルマ方面軍参謀 前田 博(旧姓嘉悦)
 私がネタジに接した最初は一九四三年ラングーン飛行場においてであった。その年、ネタジの主催する自由インド板政府がシンガポールからビルマに、インド進攻作戦に呼応するために前進し、その閣僚と共に飛行場に着陸したのであった。当時私はビルマ方面軍にあって、光機関との間に仕事の関係から絶えず連絡があったため、ネタジのラングーン到着を出迎えその一行を仮政府庁舎に案内したのでした。

 その時ネタジから握手を求められた私は、ネタジの偉大なる体躯、聡明なる風貌のなかに満々たる闘志を秘めた眼光に、少なからず威圧を受けると同時に、何となく「この人なら‐‐」という信頼感と尊敬の念が涌き起こったことを覚えている。世紀の偉丈夫という言葉がいかにもぴったりという感じであった。

 インパール作戦の諸準備の進行に伴い、私はインド国民軍との作戦関係について、しばしば連絡の機会をもったが、ネタジが方面軍司令官河辺大将と会見されたときは、ネタジの発言は一に祖国の完全独立のための激しい、烈々たる願望を吐露された以外は何ものもなかったようであった。

 その次の機会はインパール作戦の準備がようやく完成しつつあったとき、自由インド政府およぴインド国民軍との問に、インドの地を作戦によって占拠した場合の処埋について最終的に会談したときであった。方面軍からは河辺方面軍司令官、中参謀長、片倉高級参謀に、私が随員のような役目で参列いたしました。

 会談の主な内容は「印度占拠地処埋要綱」、すなわち純作戦面においては日本軍がインド国民軍を指揮に入れて統御するが、こと行政面においては一切自由インド板政府の施政下に置く、という取り決めであったと覚えている。この会談による取り決めは、インパール作戦の悲惨なる結未によって、ついに空文と化してしまった。

 インパール作戦の進展に伴い、ネタジはその本拠をメイミョウに前進させたが、作戦の敗退と共に彼はついに祖国の土を踏むことなく終ってしまった。作戦中、彼は死をも顧みず、ただひたすらに祖国の土を踏みたいと念願していたように聞いているが、彼が終戦と共に台湾の地に散華したことを考えると、彼の希望通りマニプールに進出させ、彼の独立の念願こそは叶わぬまでも、そこで祖国独立の尊い柱になったほうが、どんなにか彼にとっての喜ぴであったろうと借しまれる。

 終戦後、私はビルマの地にあって軍の復員、戦争裁判の弁護あるいは証人として出廷するなど、最後の引揚船で帰ったが、在緬中しばしばインド人将兵と語り合う機会を得たが、ネタジの死を信ずるものはついに一人もいなかった。

 たしかに、ネタジは生きている。独立インドの数億の全民衆の心の中に。(昭和二十五年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー発行『ネタージ』より)


 
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