ポースさんに対する思い出
              元陸軍大佐・光機問ビルマ支郡長 北部 邦雄
 ボース氏がドイッから潜行して、初めてラングーンにこられたその日、飛行場から私の宿舎に午後一時やって来られて、初めてお会いしました。当峙私の機関にはたくさんのインド人が協力していたが、ボースさんは「そのインド人はただ今から全部私の指揮下に入れるから承知してもらいたい」と一言われた。

 私はそこで「もちろん結構ですが、ポースさんは今来られたばかりで、まだインド側の組織や機構は何も出来ていないから、そういうものが整備するに従って、逐次インド側に渡すことにしましょう」と言うと、ボースさんは「否、ただちに渡してもらいたい」と言われる、私は「そんなことをすると一時私の方でやっている情報の蒐集その他の仕事がある期間ストップするから困る」というようなことで、午後一時頃から夕食もせず、七、八時問も話をしたが、お互いに自説を主張して結論を得なかったが、ボースさんの熱心なことと、自説を固守する意思の鞏固なことには感心をした。

 午後九時頃になって、「タ食を共にしたいと思うが何を食べますか」と聞くと、「すき焼きをご馳走になりたい」と言われた。ポースさんはインド教徒であるから牛肉は禁物の筈であるのにと、心中吃驚したのであったが、これはボースさんがインド人に、インド独立のためには宗教を超越してインド教徒や回教徒が一致団結する必要があることを、実行において示しておられるのだと感心をさせられた。

 ボースさんがインド人を集めて反英とインド独立を説かれる会場にしばしば同行した。ボースさんはインド人に向って「力のある人問は力を、金のある人間は金を、知識のある人は知力を出して英国と戦え」と、実に名調子の熱弁であった。

 わずか二、三十分にして全聴衆に催眠術にでもかかったような感動を与え、あるインド夫人のごときは、自分の身につけていた指輪、ネックレス、イヤリングという風に、全部の宝石類を机の上に置いていった。全く数十分の演説で、人を裸にするようなこんな名演説家は見たことがない。(昭和三十五年五月七日スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー登行『ネタージ』より)


 
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> ネタジのこと 前田(嘉悦)博