9 スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日



 随行したハビブル・ラーマン大佐の覚書



 ネタージ・スバス・チャンドラ・ポースは今世紀のインド亜大陸が生んだ自由を求めてやまない最も偉大な革命の闘士であった。彼は一九四二年から一九四五年にかけ、東南アジアにおいてダイナミックな自由独立の闘いを起こしたが、不幸にもその最終的結果を目のあたりにすることなく、一九四五年八月十八日残酷な死の招きによりこの世を去った。この自由と独立の闘いはインドにおける外国の支配を徹底的に粉砕し、一九四七年八月十四日、独立国家インドとパキスタンをもたらしたのである。

   
 彼は若いときに祖国の独立のために働こうと決心し、英国留学中、インド高等文官への道を拒否して、政治の世界に足を踏み入れた。間もなく彼はその時代の自由独立の闘士として第一級の人物とみなされていたが、軍事史を含む歴史の鋭い研究家でもあった。特に第一次世界大戦後のさまざまな従属国がどのようにして独立を達成したか研究し、最新の知識を得るためヨーロッパ各国を訪れている。彼はガンジーやネールを含むインド人指導者の「しばし待て、まず見てから」という方針には反対の立場だった。それは、大英帝国は第二次世界大戦で必ず崩壊するから、インド人はこの戦争の与える機会を逃さず、おおいに利用すべきであると考えたからである。この観点から、彼は一九四二年カブールからドイツヘ脱出し、一九四三年四月には六十三日間の厳しい潜水艦の旅の後マラヤに到ったのである。

  
 彼は、自由と独立の戦いはその外部に二つの要素、つまり国民政府と国民軍が必要不可欠であると堅く信じ、まず日本政府の絶大な支援の下、東アジアの二百万インド人の支持で「インド独立連盟」として知られる政党を組織したのち、その二つを組織した。自由インド仮政府をつくり、その下に軍民からなるインド国民軍を置いた。彼は不撓不屈の精神と偉大な組織力の持ち主であり、東宙アジアのインド人からの資金、労力、資材など、あらゆる支援を受けることができた。彼は自分たちの手で獲得できないものだけを日本軍の援助に頼るという考えだった。彼は大きな人間的魅力があり、民間人、軍人を問わず、その頃東アジアに住む数百万のインド人の心を鼓舞し、人々は彼の指揮下では自由と独立の戦いのためにはすべてを、生命をも捧げようと決心した。インド国民軍が前線で示した評価は、独立運動に対する確固たる思誠心と献身が示している。
  
  四
 彼は仕事に対して疲れを知らない人間でした。東アジアのすべての国の政府と国民から高い尊敬を払われました。私は、このことを一九四四年十一月の日本訪問における総埋大臣を含む指導者たちとの会談から証言することができます。

  五
 この短い覚書では、極東における独立運動の詳細を語ることはできません。そこで、私のかかわった一九四五年八月の最後の日々について述べることにします。

 当時私は参謀次長であり、シンガポールに司令郡を置く二万三千のマラヤ方面の部隊の指揮官でした。一九四五年八月十四日、日本降伏の報せを受け取り、ただちに今後の行動を協議する自由インド仮政府の閣議が開催されました。この席上、ボース氏は次のように言われました。

 「友人たちよ、この未曾有の危機に際してひと言述べたい。それは決してこの一時的な失敗に気を落としてはならないということだ元気を出し、勇気をもって進もう。インドの運命の岐路にあってわれわれは一刻もくじけていてはならない。前途に横たわる試練と苦しみに耐え抜こう。そうしてこそ極東における我々の闘いが祖国の人々に真の展望をもたらすことができる。この使命を果たすことができれば、全国民を独立への炎と化し、インドに対する外国の支配を揺るがすことができる。その時こそ我々の努力が報われることを確信する。もはやインド国民の自由を束縛する力は地上には存在しない。この切迫した試練のなか私は諸君と共にいるであろう」

  六
 この閣議で、日本政府と協議のためボース氏を翌日東京に派遣すべきだという決定が行なわれた。一九四五年八月十五目の朝、ボース氏はハビブル・ラーマン、S・A・アイヤーを含む数人の将校を伴い、空路東京へ向った。途中、我々はバンコクに立ち寄り、シンガポールで飛行機を乗り換えた。ボース氏と私だけが東京へ向かう日本軍の高級将校と一緒の重爆撃機に搭乗できた。八月十七日午後一時三十分ころトュレーヌヘ着き、翌十八日に台湾の台北に小休止のため着陸した。燃料補給後、搭乗機は東京への最後の航路へ離陸した。空中で十分も経たないうち、実然鼓膜を破らんばかりの大音響がし、機は錐もみ状態になり、あっという間もなく機首から大地に叩きつけられ、燃料タンクが破裂し、機は火に包まれ、ポース氏と私は火をかいくぐって外へ飛ぴ出した。機外に出ると、ボース氏の服に火が着き炎と格闘しているのが見えた。私は跳んで行って、火を消すと地面に寝かせた。ポース氏は頭部を深く傷つけ、そこからひどく出血しているのがわかった。全身に深い火傷を負っていた。私は傷が浅く逃げ出せていた。次の会話はその時のポース氏と私の間のものである。

 ボース   「君は大丈夫かね。傷がひどくなければいいが」
 ラーマン 「軽い傷で逃げ出せました」
 ボース   「私はこの事故から生き延ぴることはできそうにない。国へ帰ったら祖国の人たちに私が最後まで祖国の自由のために戦ったと伝えてほしい。今やなにものも祖国を縛り付けておくことはできない。我々は闘いを続けなければならない。間もなくインドは自由になるだろう」

  七
 私は、ボース氏のような未だ使命を果たさなければならない自由の戦士が目的の成就を見ることなく、なぜこのような運命にあったのか信じられなかった。間もなく我々は救急車で近くの日本の陸軍病院に移され、そこで軍医の手で治療を受けた。幸いにも私はずうっと意識があり、病院のベッドはボース氏のすぐと隣だった。ボース氏は少し話したが、その間ほとんど意識を失っていた。日本の軍医はできるかぎりの手当てをしたが、非運にも午後八時三十分、ボース氏は息を引き取った。彼の突然の死は私を打ちのめした。彼の遺体をシンガポールヘ飛行機で送ることが不可能であることがわかり、私も列席し、遺体は軍礼に則り火葬に付された。十二名の乗客のうち、四手井中将を含む六名が即死し、野々坦中佐、青柳操縦士、河野少佐、坂井少佐と私の五名が幸運にも生き残った。

   八
 一九四五年九月五日、私は坂井、中宮、林田氏とともに遺骨を東京へ運んだ。日本で、すでにサイゴンから来ていたアイヤー氏、ラマ・ムルティ氏、当時日本に住んでいた少数のインド人が立ち会って、遺骨は蓮光寺に預けられた。九月十九日まで私は日本に残り、日本人の心からのもてなしを受けた。十九日、私は藤原中佐、磯田中将を含む日本軍の将官、外務大臣とともに、歴史的なINA裁判に出廷するため、米軍機でデリーヘ向かい日本を発った。
  九
 歴史的な裁判の進展に伴い、インド国民軍の働きが明らかになり、すべてのインド国民の一人一人を亜大陸の知られざる歴史に熱狂させた。裁判の進行とともに、自国の自由のために戦う権利は道義的に正統なものであることが明らかとなった。侵略による外国の支配者も、インド国民の鼓動の高まりを聴き、祖国の自由のために戦った数千の将兵の自由を認めざるを得なくなった。時の政府も、ボース氏がインド国民軍と同志たちに残した最後の言葉が予想した愛国心の盛り上がりを突き崩すことはまったくできなかった。大英帝国は、支配力が弱まり、インド国民がイギリス人が母国に帰ることを要求していることを認め、インドをインド人の手に返すことを決めたのは一九四七年八月十四日のことであった。インド国民軍とその指導者、そしてあらゆるインド人がすべて自由の身となった。

 ボース氏が自分自身の国で、生涯にわたる長い自由への戦いの成果を見ることなくこの世を去ったのは、実に大いなる悲我々がポース氏の生存を願っていることだろうか。もしそうであれば、ボース氏はインド政界において偉大なる位置を占めているに違いないからである。また、今日のインドとパキスタンの苦渋に満ちた関係よりも親密なものとなっていたであろう。ボース氏は最も賢明で公平な指導者として知られていた。彼のともした自由への炎はさらに大きく燃え上がり、いかなる時代にも、地球上のすべての自由を求める戦士たちの道を明るく照らし続けるに違いない。

 そして、ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。これらの国々はすべてが日本に対し感謝の念を抱いているのである。


  ハビブル・ラーマン大佐の回想


 病院を過院したハビブル・ラーマン大佐が日本の将校に突き添われてサハイ家に送られてきた。健康状態について語った後、ハビブル・ラーマン大佐はネタジとともにした最後の飛行の経過を詳細に語った。ハビブルは面手と顔、頭に火傷を負い、まだ包帯が巻かれていた。顔はやつれ、貧血気味だった。カーキ色の毛の戦闘服、半ズボンに乗馬靴を身に着けていた。これはサイゴンで最後に見たものか、それに類似していた。席に着いてから五分以上の沈黙の後、アイヤーとハビブルは八月十七日午後十五分にサイゴン空港で別れてからのすべての出来事について話し始めた。

 ハビブルは、低い慎重な口調で夢のような話を始めた。

 サイゴンを発ってから約二時間でトウーランに着陸し、その夜はそこに足止めされた。翌早朝、再ぴ離陸し、台北空港には午後二時ごろ到着した。

 飛行機が燃料を補給している間に、我々は食事をし、出発に備えた。私は、寒いところを飛行するので暖かいものに着替えるよう、ネタジにも勧めたが、ネタジはそうしなかった。ネタジは勧めを笑い、暖かいものに着替えるのを急ぐ必要はないと言った。ネタジはカーキ色の戦闘服にズボンを身につけており、毛の衣類に代えるためそれらを脱ぐのを急がなかった。半時間後、我々は飛行機へと歩いて行った。飛行機が難陸したのは午後二時三十分だった。たしかに滑走路を二、三百フィート走った。飛行場の一番端だった。空中に浮んだのはわずか一、二分だった。

 突然轟音がした。地上で何か起こったのか? 私は敵の戦闘機が我々が台北飛行場を離陸するのに照準を合わせ、一斉射撃を行い命中したのかと考えた。

 操縦士はどうすべきなのか?強行着陸は出来ないのか? さもなければ飛行機が破壊するのでは? 現実はあたりに敵機はなかった。後に、左側エンジンのプロペラの羽板が壊れたことを知らされた。

 左側のエンジンが稼働していなかった。右側のエンジンだけが働いていた。もう機体が揺れ、操縦士は右側のエンジンで機のバランスをとろうとしていた。またたくうちに高度が落ちた。振返ってネタジを見たが、ネタジはまったく平静だった。飛行機が長い飛行を終え、完璧な着陸をしようとしている時以上に落ち着いていた。しかしネタジの顔にはこれ以上はない心配の表情があったのは確かだと思う。

 その時何も考えられなかったことが今では不思議だ。しかし最後の時が数秒後だと考えたことは確かだ。二、三秒も発たないうちに飛行機は機首から墜落し、そしてしばらくして全てが闇に包まれた。

 二、三秒後に意識を取り戻し、荷物が私の上に崩れ落ち、火が私の方に向っていることに気づいた。後方の出口は貨物で閉ざされ、前方の出口へは火の中を突っ切って行かなければならない。ネタジは頭を負傷していたが、火から逃れようと私の方へ後部出口から脱出しようと足を懸命に動かしていた。だがそれは出来なかった。逃げだせる隙間は一センチもなかったからだ。だから私はネタジに「アーゲセ ニクリエ、ネタジ」(前から脱出してください、ネタジ)と言った。

 彼は状況を認めると、既に崩れ落ちている機首を抜けて逃げようとした。両手で火を払い除けていた。ネタジは外へ出て立ち止まり、十フィートか十五フィート離れた私の姿を心配そうに探していた。

 飛行機が墜落した際、ネタジは木綿の軍服の上から燃料の飛沫を被り、燃えている機首から出ようとする時それに火が着いた。彼は燃えている服のまま立って、腰の周りの戦闘服のベルトを外そうと懸命だった。

 私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。

 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。

 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの憐に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。

 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がることが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。

 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。
 
 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を口にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブ」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブがここにおります)と言いました。

 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。

 それがネタジが私に言った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。

 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北での火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。

 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。

 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れて行かれたのはそのわずか二日後だった。

 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。

 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。

 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの憐に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。

 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がることが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。

 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。

 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を日にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブ」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブがここにおります)と言いました。

 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。

 それがネタジが私に行った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。

 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北での火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。

 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。

 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れて行かれたのはそのわずか二日後だった。

 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等の手で杉並区の蓮光寺に密がに移された。その寺には何人かの日本の高級軍人がいた。戦争についての話し合いがされ、骨壺はその寺の住職の厨子に入れられた。骨壺は現在その寺の安全な管埋の下に置かれている。


  昭和63年調査時点の、医師本人手害きの死亡診断書



   死亡診断書
 氏名   チャンドラボース
 死因   全身火傷 三度
 死亡年月日   1945.8.18. 
 原因   1945.8.18.午前.台北松山
      飛行場に於て、チャンドラボース氏
      が搭乗していた飛行機墜落事故
      により、飛行機燃焼し、全身に第三度
      の大火傷を負うた。
 経過  直に台北陸軍病院南門分院に
      入院し全身の火傷に対する処置。
      輸液。サルファ剤内服。鎮痛剤。
      病院の全機能を集中して治療に当ったが、
      同夜十一時すぎ、永眠された。

  上記の通り証明します
    1988.8.13.
   宮崎県北諸県郡高城町大字高城町338
     医師  吉見 胤義  印


 
 スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後
                     元陸軍大尉光機関 塚本 繁   


 飛行機事故
1・事故発生日時 1945年(昭和20年)8月17日午後4時頃
2・事故登生場所 台湾・台北松山飛行場
3・事故飛行機の種類 第3航空軍の97式2型(Sally)重爆撃機
4・事故機の乗員
  主席操縦士 滝沢少佐・副操縦士 青柳准尉
  副操縦士 沖田与志雄曹長・無線技師 富永技官
  四手井綱正中将・野々垣四郎中佐・坂井忠雄中佐
  河野太郎少佐・高橋岩男少佐・新井啓吉大尉
  スバス・チャンドラ・ポースINA最高司令官
  ハビブル・ラーマン大佐
        搭乗位置略図          ●:死没者
                           ○:負傷生存

   〇沖田曹長        ●富永無線技師
   
   ●青柳准尉        ●滝沢少佐 
   
   〇新井大尉        ●四手井中将
   
   〇河野少佐       (〇)野々垣中佐(上部機関銃座に搭乗)

   ●ネタージ        〇坂井中佐

   〇ラーマン大佐      〇高橋少佐

5,事故の概況

 台北、松山飛行場における搭乗機の休憩時問は約二時間で、この間に給油とエンジンの整備を行った。

 エンジンの点検は主として主席操縦士の滝沢少佐を中心に、河野少佐と地上整備司令中村大尉により行われた。

 河野少佐の左側エンジンがおかしいという申し出に対して、滝沢少佐は二回にわたりエンジンのテストを実施し、その結果異常なしと確認した。

 全員機中の人となり(参考略図参照)、爆撃機は大連に向けて出発することになった。

 飛行機はいよいよ出発態勢となり、滑走を始めた。 

 滑定路の長さは八九○メートルであった。重爆撃機の離陸の場合は普通滑走路の大体中間くらいまで滑走したところで機尾が地面を離れるのであるが、この時は滑走路の約四分の三走ったところ(六六六メートル)でやっと機尾が地面より難れたと中村大尉(地上整備司令)は語っている。

 飛行機が急上昇に移ったとたん、すさまじい爆発が起こり、機は右に傾き、プロペラとエンジンが吹き飛んだ。

 そして飛行場の端から約10〜20メートルの地面に突っ込んで炎上した。すなわち、機は大きく右側に傾いて機首から地面に激突し、前部から発火したのである。

 乗員のうち、上部機関銃座にいた野々坦中佐が最も運がよく、ほとんど無傷で地上に投げ出され、坂井中佐、高橋少佐、新井大尉は墜落と同時に気を失ったが、まもなく気がつき燃えさかる機内から脱出した。

 河野少佐はほぼ中央に乗っていたが、沈着な少佐は、周りがどうなっているかを観察した。

 飛行機が墜落した時、その衝撃で燃料タンクが河野少佐とボースの間に落ちた。河野少佐はうしろを振り向いてみたが、このタンクがじゃまになって、ポース氏の姿を見ることはできなかった。しかし、前の座席の状態は確認できた。

 四手井中将は後頭部に裂傷を受けて即死、滝沢主席操縦士は握っていた操縦棹が顔に食いこんで即死、青柳副操縦士と富永無線技師は胸を強打して出血していた。(両名とも病院収容後死亡)

 この間にも炎はますますひろがり、熱気に耐えられなくなった河野少佐は、機の頭部にあるプラスチックの覆いを破って、そこから飛ぴ出した。両手と両足、額に火傷を負っていた。

 墜落して燃え出した機体は、前半分が折れていた。出入口の扉は荷物や破損した機体の部品で閉ざされていたので、そこから脱出することはできなかった。

 ボース氏は炎に包まれた前部の折れ口に向って炎の中を走りぬけた。ラーマン大佐もボース氏のあとから走った。

 重傷を負ったポース氏は、他の負傷者と共に、台北市の陸軍病院南門分院に運ばれた。

 院長は吉見胤義軍医大尉で、ほかに医師二、日本人およぴ台湾人の看護婦、三十名の衛生兵が勤務していた。運び込まれた時、ボース氏の容態は非常に悪かった。

 吉見軍医によれば、
「彼の全身がひどい火傷を受け、灰のようなねずみ色になっているのを見た。彼の胸は焼けていたし、その顔ははれあがっていた。彼の火傷は最もひどいものだった。火傷の度合は第三度の重火傷であった。目もはれあがれ、視力はあったが、目を開けているのは容易ではなかった。腹部には出血はなかった。運ぴ込まれた時は、気は確かであった。ひどい熱を出していた。体温は三十九度もあったし、脈拍は一分間に一二○、心臓の状態も悪かった」

 ポース氏の診察をした吉見軍医は、明朝まで持たないだろうと診断した。しかしできるかぎりの治療を実施した。 午後七時〜七時半頃にポース氏の容態は悪化し、脈拍が衰弱してきた。吉見軍医はボース氏にヴィタカンフォールとデイジタミンの注射をし、さらに刺激剤を与えたが、心臓と脈拍は回復しなかった。吉見軍医は死亡証明書を書き、死因を第三度火傷と記入した。

 ボース氏の死亡に立ち会った者は、吉見軍医、鶴田医師、ラーマン大佐、中村通訳、看護婦二名、憲兵およぴ衛生兵それぞれ一名の計八名であった。

6.爾後の處置

 ボース氏の死は直ちに台湾軍司令部に伝えられ、軍司令部からは永友少佐が派遣された。
 翌八月十九日、台湾軍司令部はポース氏の遺体は飛行機で東京へ送るようにとの、大本営からの電報を受けとった。しかし続く電報で、遺体は東京へ運ばないで台北で火葬するように命令が変更された。

 八月二十日、ポース氏の遺体は台北で火葬されることとなった。
 火葬は台北市営の火葬場で行なわれ、ラーマン大佐、、水友少佐、中村通訳らが立ち合った。

 九月五日、台北南飛行場に坂井中佐、ラーマン大佐、中宮少佐と林田少尉の四名が集合、ポース氏の遣骨を東京に護送するための飛行機に乗り込み、福岡の雁の巣飛行場に向った。

 その夜は遺骨と遺品を西部軍司令部に保管してもらい、東公園の偕行社に一行は宿泊した。
 翌日、一行は二班に別れラーマン大佐と中宮少佐は飛行機で、坂井中佐と林田少尉は列車で東京に向った。

 午後三時博多発の列車で坂井中佐と林田少尉と護衛の渡辺伍長と兵二名の四名が乗車した。
 九月七日午後六時頃、東京駅到着、午後十一時頃、坂井中佐と林田少尉は大本営に遺品と遺骨を運ぴ週番司令木下少佐に二つの箱を渡し、その管埋を委任した。

 木下少佐は、明朝当直参謀にその旨を伝えて、大本営が責任をもって一切を取り計らうと確約した。

 翌朝、二つの箱の管埋は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝坂井中佐は再ぴ大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。

 大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた。

 三十分ほどしてムルチ氏は丁度東京に来ていた同志のアイヤー氏といっしょにやってきた。
 こうして九月八日朝、大本営の正面入口で、ボース氏の遺骨は高倉中佐の手から、ムルチ氏、アイヤー氏、両氏に引き渡された。

 ムルチ氏邸に運ばれた遺骨は、安置台の上におかれ、花と線香が手向けられた。当時日本の士官学校へ留学しておったインドの青年達が遺骨のお通夜をした。

 インド独立連盟としては、ボース氏にふさわしい盛大な葬儀を行ないたかった。しかし米軍の日本占領の処置は着々と進んでいた。人目を引く葬儀は敵対行為と見なされる恐れがあるので、葬儀はごく内輪に杉並区の蓮光寺で行なうことにした。

 参列者は、ムルチ氏を始めインド独立連盟に関係のある人々とその家族、インド放送の関係者、インドの青年達(士官学校留学生)などで、大本営を代表して高倉中佐も参列した。

 日本の習慣では、普通、遣骨は持ち帰るのだが、インド独立連盟と日本軍当局は、しばらく遺骨を寺で保管してほしいと頼んだ。そこで蓮光寺の望月師は、遺骨が正式の機関に引き取られるまで、ボース氏という偉人にふさわしい礼を尽くして遺骨を保管することを承諸した。

 こういういきさつで、その後も毎年八月十八日のボースの命日に光機関の関係者、日本軍の関係者等ゆかりの者達が集まり、蓮光寺の望月氏の導師で、ボース氏の霊を弔い続けている。
 本年は三十三回忌(一九七八=昭和五十三年)の法要を盛大に挙行したのである。


  スバス・チャンドラ・ボース氏の遺骨について

                             蓮光寺住職望月教栄   


 昭和二十年九月十五日午前八時頃、堀の内妙法寺役僧が当寺に来られ、秘密の内に、同年八月十八日台北飛行場にて死亡した印度独立軍最高軍司令官チャンドラ・ポース氏の葬儀を依頼された。当時世情不安にて、妙法寺住職並近隣諸寺は種々の事由から悉く拒絶されたが、蓮光寺住職は変ってゐるから是非引受て貰いたいといふ相談である。私は霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。其の結果同月十八日午後八時、ボース氏の遺骨を当寺に持参して葬儀を挙行することになつた。

 参列者は参謀本部の平服軍人、ボース氏親衛隊員、サハイ夫人、アイヤ氏、ムルテイ氏、木村日紀氏、其の他印度人、日本人約百名が参集した。

 其の後印度人が参拝に来寺したが、極秘故遺骨保全に苦労し、日夜心身共につかれ、寺務に支障を来たした。昭和二十五年サンフランシスコ平和会議の頃になると、ボース氏の事が新聞報導せられる様になり、印度代表部チェトル氏と共に外務省儀典課長田村幸久氏が当寺に見えられ、ポース氏の遺骨に参拝した。同年五月、六月にボンベイ情報官アイヤ氏調査に来られ、再度来寺、トラベル一等書記官も来寺、貴下の行動如何によつては日印関係の紛乱する事があるかも知れぬ故自重されたいと言い、ボース氏の為めに身命を賭したことを感謝し、最上の敬意を示した。ラウル大使が来朝し再参来寺し、諸事よろしくと頼まれた、私も昭和二十八年二月下旬にラウル大使と会見し、ポース氏の遺骨に対し指示を求めた処、利欲に利用する事、不純な策動に乗る事、其の他の目的に利用するのは全部拒否する方針である。但し貴下主催する分には構はぬと言つた。

 昭和二十八年十一月二十七日、私は印度首相ネール氏へ手紙を出して如何に処理をすべきかを尋ねた処、昭和二十九年月十二日に極秘の内に、ネール首相代埋として大使館より二人来寺し、葬儀及遺骨に関する私の努力に対し絶大な感謝を示し、その所置に関しては骨に私の誠意を信じ、私を信頼して当分之を回向して預り呉れと云はれた。

 昭和三十一年五月三十日、チャンドラ・ポース死因調査委員会に呼ばれ、当時の模様を聞かれた(詳細は印度政府発行調査記録にあり)後三人の委員は直ちに当寺に参り遺骨に焼香供養した。スレス・チャンドラ・ボース氏は涙を流し、立ち上る事すら出来ず、私も共に泣き手を取り自動車へ乗せ帰らせた。

 昭和三十一年十月十二目に外務省より報告書が届いた。要約すると「委員会が挙げている証拠が本事件に関連するほとんどすべてを綱羅しているので、承認さるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故の為め不慮の死を遂げ、現在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。このボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、道当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに永年にわたり大いなる崇敬の念をもつて遺骨の保護に当つて来られた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい」と。

 以来、昭和三十二年八月十八日、ボース氏十三回忌大法要を挙行す。列席者はインド大使館員外務省、其他多数。
 昭和三十二年十月十三日、ネール首相来寺親しくボース氏遺骨に参拝、私に感謝の意を表した。
 昭和三十三年十月四日、プラサット大統領来寺参拝敬意を表した。
 昭和三十四年十二月四日、シン印度大使参拝し敬意を表す。


 44年間異国に眠るネタジの遺骨

(1989年7月17日パトリカ紙記事)


 デリー支局発七月十六日、全インド自由戦士協会の代表幹事シール・バドラ・ヤジー、シャール・ブシャン、事務総長のV・L・サンダー・ラオ氏と自由インド協会総裁のP・S・ウトゥリ大佐、事務局長のS・S・ヤダウ氏は、本日当地において政府に対し、全インド戦士協会とインド国民軍協会とともに一九九○年一月二十三日までに、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの聖なる遺骨を日本がら帰還させることに協力するよう合同で要請した。これは祖国解放の指導者に対し国家的栄誉を讃えること、彼を記念するシャヒード・スマルク(記念館)の建設の機会に行うものである。声明は「わが国の国家的指導者の遺骨がこの四十四年間も国家的栄誉も示されないまま異国の地に置かれているのは不幸と言わなければならない。連邦政府は議論の余地があるとして依然として遺骨の償還に乗り気ではない。一九四五年八月十八日の台湾の飛行場における事故によるネタジの死亡は、政府が派遣した二度にわたる調査団によって確認されている」と述べている。

 さらに声明はハビブル・ラーマン大佐が遺骨を東京に運ぴ、それを日本の大臣や軍の高官、インドの人々が受け取ったと述べている。遺骨は黄金の厨子に収められ、東京の蓮光寺の住職の手に委ねられ、現在もこの住職と東京のスバス・チャンドラ・ポース・アカデミーの信頼の下にそこに置かれたままである。

 二期にわたりインド国民会議の議長に選ばれ、九ヵ国から承認された自由インド仮政府主席であり、インド国民軍の最高司令官であったネタジが、一九四五年八月十八日、台湾の台北飛行場における事故により死亡したことは厳然たる事実である。事散後ネタジは南門にあった日本の陸軍病院に運ばれたが、その地で院長の吉見胤義軍医大尉によって死亡が宣せられたのである。



 
トップへ
次へ 第1章 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの生涯
 10 ネタジヘの哀悼の辞