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9 スバス・チャンドラ・ボース氏の最後の一日
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随行したハビブル・ラーマン大佐の覚書
ネタージ・スバス・チャンドラ・ポースは今世紀のインド亜大陸が生んだ自由を求めてやまない最も偉大な革命の闘士であった。彼は一九四二年から一九四五年にかけ、東南アジアにおいてダイナミックな自由独立の闘いを起こしたが、不幸にもその最終的結果を目のあたりにすることなく、一九四五年八月十八日残酷な死の招きによりこの世を去った。この自由と独立の闘いはインドにおける外国の支配を徹底的に粉砕し、一九四七年八月十四日、独立国家インドとパキスタンをもたらしたのである。 二
三
五
当時私は参謀次長であり、シンガポールに司令郡を置く二万三千のマラヤ方面の部隊の指揮官でした。一九四五年八月十四日、日本降伏の報せを受け取り、ただちに今後の行動を協議する自由インド仮政府の閣議が開催されました。この席上、ボース氏は次のように言われました。 「友人たちよ、この未曾有の危機に際してひと言述べたい。それは決してこの一時的な失敗に気を落としてはならないということだ元気を出し、勇気をもって進もう。インドの運命の岐路にあってわれわれは一刻もくじけていてはならない。前途に横たわる試練と苦しみに耐え抜こう。そうしてこそ極東における我々の闘いが祖国の人々に真の展望をもたらすことができる。この使命を果たすことができれば、全国民を独立への炎と化し、インドに対する外国の支配を揺るがすことができる。その時こそ我々の努力が報われることを確信する。もはやインド国民の自由を束縛する力は地上には存在しない。この切迫した試練のなか私は諸君と共にいるであろう」 六
ボース 「君は大丈夫かね。傷がひどくなければいいが」
七
八
ボース氏が自分自身の国で、生涯にわたる長い自由への戦いの成果を見ることなくこの世を去ったのは、実に大いなる悲我々がポース氏の生存を願っていることだろうか。もしそうであれば、ボース氏はインド政界において偉大なる位置を占めているに違いないからである。また、今日のインドとパキスタンの苦渋に満ちた関係よりも親密なものとなっていたであろう。ボース氏は最も賢明で公平な指導者として知られていた。彼のともした自由への炎はさらに大きく燃え上がり、いかなる時代にも、地球上のすべての自由を求める戦士たちの道を明るく照らし続けるに違いない。 そして、ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本がはぐくんだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。これらの国々はすべてが日本に対し感謝の念を抱いているのである。 ハビブル・ラーマン大佐の回想
病院を過院したハビブル・ラーマン大佐が日本の将校に突き添われてサハイ家に送られてきた。健康状態について語った後、ハビブル・ラーマン大佐はネタジとともにした最後の飛行の経過を詳細に語った。ハビブルは面手と顔、頭に火傷を負い、まだ包帯が巻かれていた。顔はやつれ、貧血気味だった。カーキ色の毛の戦闘服、半ズボンに乗馬靴を身に着けていた。これはサイゴンで最後に見たものか、それに類似していた。席に着いてから五分以上の沈黙の後、アイヤーとハビブルは八月十七日午後十五分にサイゴン空港で別れてからのすべての出来事について話し始めた。 ハビブルは、低い慎重な口調で夢のような話を始めた。 サイゴンを発ってから約二時間でトウーランに着陸し、その夜はそこに足止めされた。翌早朝、再ぴ離陸し、台北空港には午後二時ごろ到着した。 飛行機が燃料を補給している間に、我々は食事をし、出発に備えた。私は、寒いところを飛行するので暖かいものに着替えるよう、ネタジにも勧めたが、ネタジはそうしなかった。ネタジは勧めを笑い、暖かいものに着替えるのを急ぐ必要はないと言った。ネタジはカーキ色の戦闘服にズボンを身につけており、毛の衣類に代えるためそれらを脱ぐのを急がなかった。半時間後、我々は飛行機へと歩いて行った。飛行機が難陸したのは午後二時三十分だった。たしかに滑走路を二、三百フィート走った。飛行場の一番端だった。空中に浮んだのはわずか一、二分だった。 突然轟音がした。地上で何か起こったのか? 私は敵の戦闘機が我々が台北飛行場を離陸するのに照準を合わせ、一斉射撃を行い命中したのかと考えた。 操縦士はどうすべきなのか?強行着陸は出来ないのか? さもなければ飛行機が破壊するのでは? 現実はあたりに敵機はなかった。後に、左側エンジンのプロペラの羽板が壊れたことを知らされた。 左側のエンジンが稼働していなかった。右側のエンジンだけが働いていた。もう機体が揺れ、操縦士は右側のエンジンで機のバランスをとろうとしていた。またたくうちに高度が落ちた。振返ってネタジを見たが、ネタジはまったく平静だった。飛行機が長い飛行を終え、完璧な着陸をしようとしている時以上に落ち着いていた。しかしネタジの顔にはこれ以上はない心配の表情があったのは確かだと思う。 その時何も考えられなかったことが今では不思議だ。しかし最後の時が数秒後だと考えたことは確かだ。二、三秒も発たないうちに飛行機は機首から墜落し、そしてしばらくして全てが闇に包まれた。 二、三秒後に意識を取り戻し、荷物が私の上に崩れ落ち、火が私の方に向っていることに気づいた。後方の出口は貨物で閉ざされ、前方の出口へは火の中を突っ切って行かなければならない。ネタジは頭を負傷していたが、火から逃れようと私の方へ後部出口から脱出しようと足を懸命に動かしていた。だがそれは出来なかった。逃げだせる隙間は一センチもなかったからだ。だから私はネタジに「アーゲセ ニクリエ、ネタジ」(前から脱出してください、ネタジ)と言った。 彼は状況を認めると、既に崩れ落ちている機首を抜けて逃げようとした。両手で火を払い除けていた。ネタジは外へ出て立ち止まり、十フィートか十五フィート離れた私の姿を心配そうに探していた。 飛行機が墜落した際、ネタジは木綿の軍服の上から燃料の飛沫を被り、燃えている機首から出ようとする時それに火が着いた。彼は燃えている服のまま立って、腰の周りの戦闘服のベルトを外そうと懸命だった。 私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。 次に私が憶えているのは、自分が病院でネタジの憐に横にされていたことだ。墜落の十五分以内に軍の救護班が駆けつけ台北市の病院に直行したことは後になって知った。病院に到着直後、ネタジは意識不明の重体だった。 ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がることが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。
ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。 それがネタジが私に言った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北での火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れて行かれたのはそのわずか二日後だった。 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等私は彼に駆け寄りベルトをはずすのを手伝おうとした。この時、私の両手が焼かれた。ベルトをいじりながら彼を見上げ、鉄板で打ちのめされ火に焼かれたネタジの顔に、私は心臓が止まりそうになった。その数分後ネタジは意識を失い台北飛行場の大地に横たわった。 私も困憊しネタジのすぐ横に行き横になった。他の人たちがどうだったかほとんど知らない。遭難した飛行機の残骸とあたりに一面にばらまかれた我々搭乗著が悲惨な光景を呈していた。
ネタジはしばらく意識を取り戻したが、また昏睡状態になった。私はそうひどく傷や火傷を負っておらず、どうにか立ち上がることが出来たので、足を懸命に動かしやっとのことでネタジの方に行くことが出来た。日本人はネタジを救おうと超人的な努力をした。しかしそれはすべて内科的なものだった。病院に運ぴ込まれて六時間後、つまり一九四五年八月十八日午後九時、ネタジは静かに息を引き取った。 あなた方に、私にとってでなく、ネタジにとっての六時間の死への苦痛を説明することは不可能だ。この六時間の間に、身をよじる程の苦痛があったはずだが、ネタジは一度も苦痛を口にしなかった。短い言葉を出すだけで、ネタジの意識はずうっと薄れていた。 そのような瞬間に、ネタジがハッサンの名前を日にした。近くに座っていた私は「ハッサン ヤハン ナヒ ハイン、サプ、マイン フン、ハビブ」(殿下、ハッサンはここにはおりません。ハビブがここにおります)と言いました。 ネタジははっきりと死を覚悟していた。臨終のほんの少し前、ネタジは私に「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。私は生涯を祖国の自由のために戦い続けてきた。私は祖国の自由のために死のうとしている。祖国に行き、祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。インドは自由になるだろう。そして永遠に自由だ」と言った。 それがネタジが私に行った最後の言葉だ。私は打ちのめされてしまった。私はどうなってもかまわなかった。何も興味を引かなかった。日本人たちは私をなだめ最善を尽くし栄養をつけるため食物を摂らせようとしたが、それはまったく役に立たなかった。 話せるまでに回復したと感じた時、私は彼らに出来ればシンガポールへ、それが問題外であれば東京へネタジの遺体を運ぶ飛行機を用意するよう頼んだ。そうすると約束してくれた。みなが最大限の努力をしてくれたと私は思っている。しかし彼らはネタジの棺を飛行機に運ぴ込むには実行するうえで困難があることを伝えた。さらに、ネタジの遺骸を運ぴだせないなら早急に火葬の用意をすべきだといった。彼らは私に同意を求めた。私には台北での火葬に同意する他に道はなかった。葬儀は病院が用意し軍の礼儀に則って神社で行われ、ネタジの遺骨は壺に納められ神社に安置された。 傷はなかなか治癒しなかったが、健康状態はゆっくりと回復したので、私はこれ以上の入院は一日も望まず、出来るだけ早くネタジの遺骨を東京へ運ばなければならないことを日本側に述べた。私を台湾から東京へ輸送するのが問題で、日本軍の司令部の頭痛の種だった。台湾から日本へ行く船も飛行機もなかったから、日本軍には私を船で運ぶか飛行機にするか決められなかった。私は日本に行く輸送を望み続けた。 東京へ着く望みがなく、三週間が過ぎた。突然、台北を立つ患者輸送機が一機あり、席がとれたことが知らされた。私はネタジの遺骨を持ってその飛行機で東京へ到着したのは九月六日だった。私は秘密保持のためただちに東京の郊外に連れて行かれ、最初にネタジの遺骨と私が都内に連れて行かれたのはそのわずか二日後だった。 留学生たちはラマムルティ家でネタジの遺骨に三日三晩の通夜を行った。遺骨がサハイ家に移されてから、そこでさらに三日間の祈りが捧げられ、九月十四日の夜、遺骨は留学生やアイヤー氏、サハイ氏とその子供たち、ラマムルティと家族等の手で杉並区の蓮光寺に密がに移された。その寺には何人かの日本の高級軍人がいた。戦争についての話し合いがされ、骨壺はその寺の住職の厨子に入れられた。骨壺は現在その寺の安全な管埋の下に置かれている。
昭和63年調査時点の、医師本人手害きの死亡診断書
死亡診断書 氏名 チャンドラボース 死因 全身火傷 三度 死亡年月日 1945.8.18. 原因 1945.8.18.午前.台北松山 飛行場に於て、チャンドラボース氏 が搭乗していた飛行機墜落事故 により、飛行機燃焼し、全身に第三度 の大火傷を負うた。 経過 直に台北陸軍病院南門分院に 入院し全身の火傷に対する処置。 輸液。サルファ剤内服。鎮痛剤。 病院の全機能を集中して治療に当ったが、 同夜十一時すぎ、永眠された。 上記の通り証明します 1988.8.13. 宮崎県北諸県郡高城町大字高城町338 医師 吉見 胤義 印 スバス・チヤンドラ・ボース氏の最後 元陸軍大尉光機関 塚本 繁
飛行機事故 1・事故発生日時 1945年(昭和20年)8月17日午後4時頃 2・事故登生場所 台湾・台北松山飛行場 3・事故飛行機の種類 第3航空軍の97式2型(Sally)重爆撃機 4・事故機の乗員 主席操縦士 滝沢少佐・副操縦士 青柳准尉 副操縦士 沖田与志雄曹長・無線技師 富永技官 四手井綱正中将・野々垣四郎中佐・坂井忠雄中佐 河野太郎少佐・高橋岩男少佐・新井啓吉大尉 スバス・チャンドラ・ポースINA最高司令官 ハビブル・ラーマン大佐 搭乗位置略図 ●:死没者 ○:負傷生存 〇沖田曹長 ●富永無線技師 ●青柳准尉 ●滝沢少佐 〇新井大尉 ●四手井中将 〇河野少佐 (〇)野々垣中佐(上部機関銃座に搭乗) ●ネタージ 〇坂井中佐 〇ラーマン大佐 〇高橋少佐 5,事故の概況 台北、松山飛行場における搭乗機の休憩時問は約二時間で、この間に給油とエンジンの整備を行った。 エンジンの点検は主として主席操縦士の滝沢少佐を中心に、河野少佐と地上整備司令中村大尉により行われた。 河野少佐の左側エンジンがおかしいという申し出に対して、滝沢少佐は二回にわたりエンジンのテストを実施し、その結果異常なしと確認した。 全員機中の人となり(参考略図参照)、爆撃機は大連に向けて出発することになった。
滑定路の長さは八九○メートルであった。重爆撃機の離陸の場合は普通滑走路の大体中間くらいまで滑走したところで機尾が地面を離れるのであるが、この時は滑走路の約四分の三走ったところ(六六六メートル)でやっと機尾が地面より難れたと中村大尉(地上整備司令)は語っている。 飛行機が急上昇に移ったとたん、すさまじい爆発が起こり、機は右に傾き、プロペラとエンジンが吹き飛んだ。 そして飛行場の端から約10〜20メートルの地面に突っ込んで炎上した。すなわち、機は大きく右側に傾いて機首から地面に激突し、前部から発火したのである。 乗員のうち、上部機関銃座にいた野々坦中佐が最も運がよく、ほとんど無傷で地上に投げ出され、坂井中佐、高橋少佐、新井大尉は墜落と同時に気を失ったが、まもなく気がつき燃えさかる機内から脱出した。 河野少佐はほぼ中央に乗っていたが、沈着な少佐は、周りがどうなっているかを観察した。
四手井中将は後頭部に裂傷を受けて即死、滝沢主席操縦士は握っていた操縦棹が顔に食いこんで即死、青柳副操縦士と富永無線技師は胸を強打して出血していた。(両名とも病院収容後死亡) この間にも炎はますますひろがり、熱気に耐えられなくなった河野少佐は、機の頭部にあるプラスチックの覆いを破って、そこから飛ぴ出した。両手と両足、額に火傷を負っていた。 墜落して燃え出した機体は、前半分が折れていた。出入口の扉は荷物や破損した機体の部品で閉ざされていたので、そこから脱出することはできなかった。 ボース氏は炎に包まれた前部の折れ口に向って炎の中を走りぬけた。ラーマン大佐もボース氏のあとから走った。 重傷を負ったポース氏は、他の負傷者と共に、台北市の陸軍病院南門分院に運ばれた。
吉見軍医によれば、
ポース氏の診察をした吉見軍医は、明朝まで持たないだろうと診断した。しかしできるかぎりの治療を実施した。 午後七時〜七時半頃にポース氏の容態は悪化し、脈拍が衰弱してきた。吉見軍医はボース氏にヴィタカンフォールとデイジタミンの注射をし、さらに刺激剤を与えたが、心臓と脈拍は回復しなかった。吉見軍医は死亡証明書を書き、死因を第三度火傷と記入した。 ボース氏の死亡に立ち会った者は、吉見軍医、鶴田医師、ラーマン大佐、中村通訳、看護婦二名、憲兵およぴ衛生兵それぞれ一名の計八名であった。 6.爾後の處置 ボース氏の死は直ちに台湾軍司令部に伝えられ、軍司令部からは永友少佐が派遣された。
八月二十日、ポース氏の遺体は台北で火葬されることとなった。
九月五日、台北南飛行場に坂井中佐、ラーマン大佐、中宮少佐と林田少尉の四名が集合、ポース氏の遣骨を東京に護送するための飛行機に乗り込み、福岡の雁の巣飛行場に向った。 その夜は遺骨と遺品を西部軍司令部に保管してもらい、東公園の偕行社に一行は宿泊した。
午後三時博多発の列車で坂井中佐と林田少尉と護衛の渡辺伍長と兵二名の四名が乗車した。
木下少佐は、明朝当直参謀にその旨を伝えて、大本営が責任をもって一切を取り計らうと確約した。 翌朝、二つの箱の管埋は当直参謀の高倉中佐に引きつがれた。この日の朝坂井中佐は再ぴ大本営に出頭して高倉中佐に会い、高倉中佐がボース氏の遺骨と遺品を受け取ったことを確認した。しかし大本営はこの受領について、受領書も授受記録も作っていなかった。 大本営参謀部はこの遺骨と遺品をインド独立連盟の手に渡すのが最も適当と考えた。そこで高倉中佐は直ちに東京にあるインド独立連盟の責任者であるラマ・ムルチ氏に電話で連絡して、大本営に出頭して遺骨と遺品を受け取るよう依頼すると共に、ムルチ氏邸に自動車を差し向けた。 三十分ほどしてムルチ氏は丁度東京に来ていた同志のアイヤー氏といっしょにやってきた。
ムルチ氏邸に運ばれた遺骨は、安置台の上におかれ、花と線香が手向けられた。当時日本の士官学校へ留学しておったインドの青年達が遺骨のお通夜をした。 インド独立連盟としては、ボース氏にふさわしい盛大な葬儀を行ないたかった。しかし米軍の日本占領の処置は着々と進んでいた。人目を引く葬儀は敵対行為と見なされる恐れがあるので、葬儀はごく内輪に杉並区の蓮光寺で行なうことにした。 参列者は、ムルチ氏を始めインド独立連盟に関係のある人々とその家族、インド放送の関係者、インドの青年達(士官学校留学生)などで、大本営を代表して高倉中佐も参列した。 日本の習慣では、普通、遣骨は持ち帰るのだが、インド独立連盟と日本軍当局は、しばらく遺骨を寺で保管してほしいと頼んだ。そこで蓮光寺の望月師は、遺骨が正式の機関に引き取られるまで、ボース氏という偉人にふさわしい礼を尽くして遺骨を保管することを承諸した。 こういういきさつで、その後も毎年八月十八日のボースの命日に光機関の関係者、日本軍の関係者等ゆかりの者達が集まり、蓮光寺の望月氏の導師で、ボース氏の霊を弔い続けている。
スバス・チャンドラ・ボース氏の遺骨について 蓮光寺住職望月教栄
昭和二十年九月十五日午前八時頃、堀の内妙法寺役僧が当寺に来られ、秘密の内に、同年八月十八日台北飛行場にて死亡した印度独立軍最高軍司令官チャンドラ・ポース氏の葬儀を依頼された。当時世情不安にて、妙法寺住職並近隣諸寺は種々の事由から悉く拒絶されたが、蓮光寺住職は変ってゐるから是非引受て貰いたいといふ相談である。私は霊魂には国境はないのみならず、死者に回向することは仏法に従事する僧侶の使命だと感じ、即時快諸した。其の結果同月十八日午後八時、ボース氏の遺骨を当寺に持参して葬儀を挙行することになつた。 参列者は参謀本部の平服軍人、ボース氏親衛隊員、サハイ夫人、アイヤ氏、ムルテイ氏、木村日紀氏、其の他印度人、日本人約百名が参集した。 其の後印度人が参拝に来寺したが、極秘故遺骨保全に苦労し、日夜心身共につかれ、寺務に支障を来たした。昭和二十五年サンフランシスコ平和会議の頃になると、ボース氏の事が新聞報導せられる様になり、印度代表部チェトル氏と共に外務省儀典課長田村幸久氏が当寺に見えられ、ポース氏の遺骨に参拝した。同年五月、六月にボンベイ情報官アイヤ氏調査に来られ、再度来寺、トラベル一等書記官も来寺、貴下の行動如何によつては日印関係の紛乱する事があるかも知れぬ故自重されたいと言い、ボース氏の為めに身命を賭したことを感謝し、最上の敬意を示した。ラウル大使が来朝し再参来寺し、諸事よろしくと頼まれた、私も昭和二十八年二月下旬にラウル大使と会見し、ポース氏の遺骨に対し指示を求めた処、利欲に利用する事、不純な策動に乗る事、其の他の目的に利用するのは全部拒否する方針である。但し貴下主催する分には構はぬと言つた。 昭和二十八年十一月二十七日、私は印度首相ネール氏へ手紙を出して如何に処理をすべきかを尋ねた処、昭和二十九年月十二日に極秘の内に、ネール首相代埋として大使館より二人来寺し、葬儀及遺骨に関する私の努力に対し絶大な感謝を示し、その所置に関しては骨に私の誠意を信じ、私を信頼して当分之を回向して預り呉れと云はれた。 昭和三十一年五月三十日、チャンドラ・ポース死因調査委員会に呼ばれ、当時の模様を聞かれた(詳細は印度政府発行調査記録にあり)後三人の委員は直ちに当寺に参り遺骨に焼香供養した。スレス・チャンドラ・ボース氏は涙を流し、立ち上る事すら出来ず、私も共に泣き手を取り自動車へ乗せ帰らせた。 昭和三十一年十月十二目に外務省より報告書が届いた。要約すると「委員会が挙げている証拠が本事件に関連するほとんどすべてを綱羅しているので、承認さるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故の為め不慮の死を遂げ、現在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。このボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、道当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに永年にわたり大いなる崇敬の念をもつて遺骨の保護に当つて来られた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい」と。 以来、昭和三十二年八月十八日、ボース氏十三回忌大法要を挙行す。列席者はインド大使館員外務省、其他多数。
44年間異国に眠るネタジの遺骨 (1989年7月17日パトリカ紙記事)
デリー支局発七月十六日、全インド自由戦士協会の代表幹事シール・バドラ・ヤジー、シャール・ブシャン、事務総長のV・L・サンダー・ラオ氏と自由インド協会総裁のP・S・ウトゥリ大佐、事務局長のS・S・ヤダウ氏は、本日当地において政府に対し、全インド戦士協会とインド国民軍協会とともに一九九○年一月二十三日までに、ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの聖なる遺骨を日本がら帰還させることに協力するよう合同で要請した。これは祖国解放の指導者に対し国家的栄誉を讃えること、彼を記念するシャヒード・スマルク(記念館)の建設の機会に行うものである。声明は「わが国の国家的指導者の遺骨がこの四十四年間も国家的栄誉も示されないまま異国の地に置かれているのは不幸と言わなければならない。連邦政府は議論の余地があるとして依然として遺骨の償還に乗り気ではない。一九四五年八月十八日の台湾の飛行場における事故によるネタジの死亡は、政府が派遣した二度にわたる調査団によって確認されている」と述べている。 さらに声明はハビブル・ラーマン大佐が遺骨を東京に運ぴ、それを日本の大臣や軍の高官、インドの人々が受け取ったと述べている。遺骨は黄金の厨子に収められ、東京の蓮光寺の住職の手に委ねられ、現在もこの住職と東京のスバス・チャンドラ・ポース・アカデミーの信頼の下にそこに置かれたままである。 二期にわたりインド国民会議の議長に選ばれ、九ヵ国から承認された自由インド仮政府主席であり、インド国民軍の最高司令官であったネタジが、一九四五年八月十八日、台湾の台北飛行場における事故により死亡したことは厳然たる事実である。事散後ネタジは南門にあった日本の陸軍病院に運ばれたが、その地で院長の吉見胤義軍医大尉によって死亡が宣せられたのである。
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10 ネタジヘの哀悼の辞 |