7 インパール作戦(昭和19年1月−10月)


  日印共同作戦−INA進軍

 二十一号作戦から「う」号作戦へ

 東京で大東亜会議が華々しく開催されたころ、太平洋と東アジアの戦況は大きく変化しようとしていた。アメリカ軍はギルバート諸島に上陸、本格的反攻に転じようとしており、ビルマ戦線ではウィンゲート挺身旅団がアラカン山脈とチンドウィン河を越え日本軍の後方に侵入、鉄道破壊などの撹乱をはじめていた。ビルマ防衛の天険であるアラカン山脈が簡単に突破され、日本軍では英印軍のビルマ奪回作戦の拠点であるインパールを攻略し、防衛戦を西に進める作戦が急に浮ぴ上がった。インド進攻作戦は、以前「二十一号作戦」として検討されたが、日本軍と運合国軍の戦力の差がありすぎるという理由で無期延期されていた。一九四三年(昭和十八年)三月二十七日にビルマ方面軍が創設され、方面軍司今官に河辺中将、麾下の第十五軍司令官に牟田口中将が就任したころから、これがインパール作戦と姿を変え、ふたたぴクローズアップされる。

 方面軍や各師団の中には補給の困難さ、英印軍の増強、航空勢力の劣性を理由として作戦実行には多くの困難があるという声も依然として少なくなかったが、第十五軍司令官牟田日廉也中将はインパール作戦の実施を強力に押し進め、河辺ビルマ方面軍司令官も、各方面で意気のあがらない全般的戦況をインド方面の作戦で変えようと考えていた東条首相や杉山参謀総長の意向になるべくなら沿いたいという気持ちだった。六月二十四日にラングーンで以後の作戦構想を決定する兵棋演習が実施された。本来はビルマ防衛強化を目的としていたが、演習はインド北束部の要衝インパールを攻略して防衛線を前進させる構想で進められた。

  註 兵棋演習 地図の上で兵力や装備を表わす駒を使って行なう戦闘の図上演習、現在の戦争シミュレーション。

 そして八月十二日には大本営が作戦準備を許可し、ビルマ方面軍から第十五軍に対し「う」号作戦と呼ばれるインパール作戦の作戦準備要綱が示され、第十五軍はマンダレー近くのメイミョウで二十五日に兵棋演習を行ない、牟田口司令官はインパール攻略のみならず、さらに北のディマプールまで突進する構想で演習をリードした。八月二十六日、ボースは第十五軍の新参謀長久野村少将と、曽て藤原機関長としてインド国民軍と関係が深かった当時十五軍の参謀の藤原少佐の訪問を受けた。久野村少将はドイツ駐在の経験があり、会談はドイツ語で進められ、ポースは牟田口軍司令官のインパール進攻作戦ではインド国民軍と緊密な連合作戦を行いたいという意向を伝えられた。インド国民軍を率いてインド領内へ進軍する機会を待ちこがれていたボースが勇躍したことは一言うまでもなかった。

 ちょうどこの八月、カナダのケベックで行なわれた米英統合参謀長会議で、インドと中国を結ぶビルマルート再開を目指す北部ビルマ奪回作戦が翌一九四四年二月中句実施と決定された。そしてインドのニューデリーに東南アジア連合軍司令部が設置され、司令官にはイギリスのマウントバッテン将軍が任命された。決戦の機は熟していた。

 日印共同作戦

 十二月二十八日、南方総軍がインパール作戦決行を決め、翌一九四四年(昭和十九年)一月七日に参謀本部が認可、作戦実施命令が出された。その日の午後、ラングーンのビルマ方面軍司今部を訪れたボースは、河辺司令官の「いよいよ日本軍とインド国民軍が手を携えてインドに進軍するときがきた」というあいさつに、「今ここに神に祈ることがあれば、それは一日も早く祖国のために私の血を流さしめたまえの一念につきる」と決意を述べた。
                    
 当初予定されていた二月半ばの作戦開始は、参加師団の到着を待ち三月八日になった。自由インド仮政府とインド国民軍はラングーンヘ進出し、作戦に先立ち日本軍とインド国民軍の合同幕僚会議が作られ、インパール攻略後の、占領地行政が論じられた。ボースは、これまでのように占領地に日本軍が軍政を敷くのではなく、ただちに自由インド仮政府に警察を含め、すべての行政権を与えることを求め、これが認められた。さっそく、ポースは占領地の復興に必要な技術者を葉め、耕作労働者や穀物の種まで用意し、さらに占領地で使う仮政府発行の紙幣の印刷まで行なっている。インド進攻を目指す国民軍は二個師団がすでに編成清みで、一個師団が編成中だった。当時のインド国民軍の建制は次のようになっている。なおインパール作戦に参加したのは第一師団だけであり、その第一連隊の正式名称はネルー運隊だったが、将兵はスバス連隊と呼ぴ、ポースへの敬愛の情を表わしていた。

  第一師団 師団長 M・Z・キアニー大佐
   第一連隊(スバス連隊)  連隊長シャ・ヌワーズ・カーン中佐
   第二連隊(ガンジー連隊) 連隊長I・J・キアニー中佐
   第三連隊(アザード連隊) 連隊長グルザラシン中佐
   第四連隊           連隊長アルシャッド中佐
  第二師団  師団長アーメッド・カーン中佐  マレーから移動中
  第三師団  師団長ナガル中佐  シンガポールで編成中

 インド国民軍の進軍

 作戦計画の大綱は、第三十一師団がインパールの北百キロのコヒマに突進、第十五師団は東北方面からインパールを攻略し、第三十三師団の山本支隊がパレルからインパールへ突進、第三十三師団主力がトンザンを経て南西からインパールを攻略するというものだった。インド国民軍は、第三十三師団主力の南、チン高地のハカ、ファラム地区の守備につき、その側面を援助するとともに、第四十四、四十五師団がアキャブで展開する攻撃の目標がチッタゴンであるように見せかける陽動作戦と呼応し、海岸沿いにチッタゴン方面に進撃することになった。ボースはラングーンから戦線に出発するすべての部隊を閲兵した。インド国民軍の将兵はいっせいに「チヤロー・デリー」の歓声で激励に応え、マンダレーヘ進発した。

 磯田中将が機関長となった光機関は作戦開始に先立って、国民軍の志願兵で編成した工作隊を各方面に進出させた。英印軍の配置を探り、気候、地形などの作戦情報を入手し、食糧確保のための住民工作がその任務だった。

 ある工作隊は、前面の英印軍のイギリス人大隊長が司令部に出かけて留守であるという情報を入手し、武器を持たず光機関員とともに寝返りの説得に行った。接近し英印軍が射撃をはじめると、国民軍工作員が光機関員の前に出て、ヒンドゥー語で「日本人を殺すな!われわれインド人の独立のために戦っているんだ!」と叫ぶと、射撃は一時は正むが、今度は声のする方に射ってくる。すると光機関員が立ち上がってヒンドゥー語で「同胞を射つな。射つならまず俺を射て、俺はお前たちに話に行くところだ。武器は持っていない」と叫ぶ。このくりかえしに相手は根負けし、とうとう留守番のインド人副隊長の所へ案内され、一晩がかりで日説き落とし、ついに一個大隊全部が国民軍に寝返るということも起きている。

 立体防御の円筒形陣地

 しかし、作戦開始予定日である三月八日の三目前の五日、北部ビルマにウィングート旅団の侵入が行なわれた。八十三機の輪送機と八十機のグライダーによる二個旅団による大規模なもので、強力な戦闘機による支援を受けていた。ビルマ方面軍の航空戦力は爆撃機と戦闘機をあわせて百機に満たなく、大部分をウィンゲート部隊の攻撃に向けたため、インパール作戦の地上部隊に対する支援にはごくわずかしか振り向けられなかった。
 

 作戦開始直後、作戦は順調に推移し、一度はコヒマの一部を日本軍が奪ったが、英印軍は円筒形陣地を構築し、頑強な抵抗を続けた。分断包囲されると直径十数キロの円形に集結し、中央に重砲を置き、円周には戦車と機関銃を配置して日本軍の突撃を退けようとするもので、食料・弾薬は毎日のように輸送機で空輸するという、これまでの常識では考えられなかった空陸共同の立体的防衛戦闘法である。日本軍の各師団は険しい山中の移動のため、重砲や野砲を持たず、山砲や重機関銃も規定の半数しか携行しなかった。三週間でインパールを攻略する予定でいたため、弾薬も最小限しか持たず、二十日分の食料しか用意していなかった。

 スリム中将の指揮する東部インド国境を守る英印軍の基本構想は、人的損害を避け、分断・包囲にあえば円筒形陣地を構築したり後方の拠点に後退し、満足な装備を持ずに日本アルプスに匹敵するビルマ西部の山岳地帯を越え、補給線の伸ぴた日本軍を平野部の出口で迎え撃つというものだった。シンゼイワに陽動作戦を実施した第五十五師団の花谷正師団長は、前線を訪れた方面軍情報参謀の全富興志二少佐に、「むこうの師団長は豪気なもんだよ。毎日八時になるときちんと天幕から出てきて、犬をつれて円形陣地の中を散歩してござる」と苦笑しながら語っている。日本軍は食料や弾薬の補給をほとんど得られず、孤立しているとはいえ豊富な支援を受ける円筒形陣地にてこずったのである。

 インパール作戦は牟田口中将の考えていたように二十日間で終了しなかった。第三十三師団は逃げ遅れた第十七インド師団を包囲したが、頑強な抵抗を受け、戦車連隊などの増援を得た敵の反撃にあい、三月末に退路を開放してしまった。三月十九日に国境を突破した第十五師団は二十三日にはインパール東北のサンジャック前面に進出、二十九日にはコヒマヘの街道を遮断したが、英印軍の猛反撃に阻正され、それ以上進むことができず、牟田口軍司令官から前進が遅いという叱責の電報を受けとっている。また北からコヒマに向った第三十一師団は三月二十一日にウクルルを占領し、二十二日にはサンジャック北側の高地を攻撃したが攻略には失敗した。四月五日、宮崎少将指揮下の第三十一師団の支隊はコヒマの一角に突入したが、南西に強靱な円筒形陣地を築いた英印軍は増援軍を加えて反撃し、両軍は死闘を繰り返していた。

 最大の敵、雨期到来

 一九四四年(昭和十九年)四月六日、戦線はすでに膠着状態を呈していたが、ポースは司令部をメイミョウに前進させるため、ラングーンを出発した。インパール占領に備え自由インド仮政府の行政機関を運営する人員も同行していた。戦場の正確な状況を知ることができず、第十五軍司令部からの勇ましい報告しか入っていなかったためだった。このころ第十五軍の司令部ではコヒマ占領が完全にできたと判断し、ディマプール進軍を命じたが、独走を懸念したビルマ方面軍は追撃中止を命じている。戦線の近くに進出したボースは、軍司令部で聞いたのとは様子が異なるのを知り、インパール作戦の難行に気がついたらしい。五月十目、インド本国でとらわれていたガンジーの釈放を知ったポースは、これはイギリス軍が日本軍に対する勝利の目安をつけたためと判断し、ビルマ方面軍の河辺司令官にあてて、インパール攻略の強行とインド国民軍の増強を改めて強調する電報を打っている。

 チン高地を制圧したスバス連隊の第一大隊は五月十六日、第三十一師団支援のためコヒマヘの転進命令を受けた。コヒマまでは途中にナガ山地を越え五百キロを越す距難を踏破しなければならなかったが、祖国進軍に勇躍した国民軍は、入院中の兵士が病院を抜け出してまで参加して出発した。しかし、補給が満足に準備されていなかったため、国民軍が進軍を開始してからは、一粒の米も支給されなかった。

 これはインド国民軍に限らす、日本軍将兵への補給も同様だったが、作戦のための移動は自動車で行ない、食料の補給は指揮官の責任で行なわれるものと考える国民軍の将兵にとって常識を外れた現象だった。国民軍と行動を共にしていた光機関の将校は、武土は食わねど爪楊枝、補給がなければ現地でなんとかするという日本軍の考え方との板挟みになっていた。光機関の将校は大部分が中尉か少尉だったが、任務はインド国民軍に対する「内面指導」を行なうことあるとされていた。しかしインド国民軍では単なるリエゾンオフィサー(連絡将校)として扱い、インド国民軍の要求を日本軍の上部機関に伝えることがその任務であると考えていたことからくる行き違いもそれに加わっていた。

 さらに日本軍とインド国民軍の行動を困難にしたのは雨期の早期到来だった。インドとビルマの国境地帯は年間雨量は八千ミリにも達し、現地人が「虎も出歩かない」というほど強い雨が続く。道路は寸断され、乾期の小川が濁流となり、低地はたちまち泥沼と化してしまう。例年雨期の最盛期は六月から八月にかけてだが、この年は四月に入ると雨期が本格化し、英印軍にはプルドーザーなどの機械力があったが、日本軍とインド国民軍には人手に頼る人海戦術しか方法がなく、補給なしで山地で行動する兵士たちの体力をさらに消耗した。

 補給なき戦い

 シャ・ヌワーズ・カーン中佐の指揮するスバス連隊は半月の雨中の難行軍の末、六月はじめコヒマの南に到着した。しかし、五月二十五日、第三十一師団の佐藤幸徳師団長は、第十五軍から一ケ月も一発の弾丸、一粒の米も補給されないことを激怒し、「六月一日までにはコヒマを撤退し、補給を受けられる地点に向い移動する」という電報を軍司令部にすでに打電していた。牟田口軍司令官が翻意を促したが、佐藤師団長は、「善戦敢闘六十日におよぴ人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。――いずれの目にか再ぴ来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と返電し、師団に撤退を命じた。

 佐藤師団長はシャ・ヌワーズ・カーン中佐を訪れ、師団とともに撤退することを勧めたが、中佐は「自分も部下もはじめて踏んだこの祖国の地から去ることはできない」と抗議し、「インパール攻略はいずれ再開されるから、その時に本分を尽くせ」という説得にも耳を貸さず、インド国民軍第一師団司令部の位置まで後過し、その指揮下に復帰することを申し出た。この申し出が六月二十二日に許可されたことを聴いたポースはすぐにビルマ方面軍の河辺司令官を訪れ、「ただちに第一線へ視察と激励のため出発したい」と伝え、危険であると引き止める河辺司令官に、「残りの国民部隊をすべて第一線に投入したい。婦人部隊のジャンシー連隊も同様です。われわれは戦いがいかに困難であり、どんなに長引こうとも、いささかも士気に変わりはなく、独立の大義達成のためこれくらいの犠牲は甘受し、日本軍と協力して目的を完遂したい」という決意を述べている。

 インパール作戦の中止

 雨期の最盛期の撤退行でスバス連隊は半数近い犠牲を出しながら、ガンジー連隊、アザード連隊への支援合流を目指してタムに到着したが、そこで聞いたのは命令変更で国民軍第一師団には復帰できないということだった。シャ・ヌワーズ・力ーン中佐たちは、ことここに至っては日本軍と行動を共にせず、スバス連隊は独自にイギリス軍と戦おうという決心をした。電報でこれを知らされたボースがカレワヘの撤退命令を出し、スバス連隊はやっとそれに従ったのである。

 パレルの英印軍航空基地正面に進出したが、追撃砲だけの装備で敵の圧倒的な砲火に撃退させられ、崩壊に瀬していた山本支隊を支えていたガンジー連隊とアザード連隊も、補給の少なさに悩まされていた。道路が通じていたためときどき補給が行なわれたが、十分ではなく、ヒンドゥー教徒の最高の禁忌である水牛を殺して食べるほどだった。いったん国民軍に投降した英印軍の兵士が、「独立の大義は埋解できたが、こんな生活では将来に希望がまったくない」という置き手紙を残して姿を消したこともあった。

 敵に退路を開放し、作戦失敗を悟った第三十三師団の柳田師団長は作戦中止を具申し、牟田日軍司令官から指揮権を剥奪され、すでに五月九日に解任されていた。重病の第十五師団の山内師団長も五月十五日に更迭され、独断撤遇命令を出した第三十一師団の佐藤師団長も七月七日に解任された。第十五軍は指揮下の三個師団の全師団長が作戦中に解任あるいは更迭されるという異常な事態となって、だれの目にもインパール作戦の失敗は明らかだった。ビルマ方面軍が第十五軍のインパール作戦を中止し、チンドウィン河の線まで撤退する命令が出されたのは七月十二日だったが、日本軍とインド国民軍の将兵には、陸空からの追撃を受けながら雨中の敗走が残されていた。

 インパール作戦には約六千名のインド国民軍の将兵が参加した。チンドウィン河に到着したのはわずか二千六百名で、その内二千名はただちに入院が必要だった。四百名が戦死し、千五百名が飢餓と病気で死亡し、八百名が衰弱してイギリス軍の捕虜となり、残りの七百名が行方不明となった。

 この作戦がいかに悲惨であったかはそれ以外の損害の比率にはっきりと表れている。


 インド国内の同志への呼びかけ(ボースのラジオ放送)


     一九四四年三月初旬、シャヌワーズカーン中佐の率いるINA一個連隊がハカ、ファ
     ラム地区に進み、インド国内に進出した。この呼ぴかけは、三月二十日、ボースが
    ラングーンから自由インド放送を通じインド国内の同志に対して行なったものである
 自由インド仮政府の率いるインド国民軍は、日本草軍との密接なる強力のもとに、聖なる使命に出発した。日印同盟軍が国境を越えインド進軍を開始したこの歴史的な瞬間にあたり、自由インド仮政府は次のように声明する。

 一八五七年の戦いにインド軍はイギリスの侵略軍に敗れたが、インド民衆はイギリスの支配に精神的には降伏はしなかった。非人道的な抑圧や強制的な武器剥奪にもかかわらず、インド民衆はイギリスの支配に対して抵抗を継続し続けた。宣伝、煽動、テロ、サボタージュといった手段、そして武力による抵抗、あるいは最近のマハトマ・ガンジーに指導されたサチャグラハの不服従運動により、単に独立闘争を継続しただけでなく、自由獲得の目的に向かい、大きな前進を遂げている。

 この大戦が始まってから、インド民衆と指導者はイギリスから平和のうちに自由獲得のためにあらゆる手段を尽くした。しかし、イギリスは帝国主義戦争遂行のためのインドの支配をますます強化し、あらゆる搾取と非道な抑圧によりインドを巨大な軍事基地化し、オーストリア、アメリカ、重慶、アフリカから軍隊を呼び、疲弊したインド民衆にさらに耐えられないほどの負担を課し、インド各地にこれまでにない飢饉を発生させている。

 インドを戦火の災害から救う最後の試みとして、マハトマ・ガンジーはイギリス政府に対し、インド独立の要求を認め、インドから撤退することを勧吉した。しかしイギリスはガンジーや数万の愛国者の投獄でこれに答えた。イギリス政府の非道はガンジー婦人の獄死にその極に達した。

 悪化する一方のインドの状況を目にしたアジア在住三百万のインド人は、祖国解放のため国内で戦うインド民衆に積極的に呼応参加するため厳粛な決意をした。いまや政治目的のためにインド独立連盟が設立し、インド解放の軍隊であるインド国民軍が編成され、一九四三年十月二十一日には自由インド仮政府が樹立した。インド国民軍は着々と準備を整え、一九四四年二月四日にはビルマのアラカン地区において祖国解放の闘争を開始した。

 この戦闘における日印同盟軍の成功によって、いまやインド国民軍は国境を越えデリーヘの進撃を続けている。大東亜戦争開始以来、歴史に較べるもののない日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、自由獲得の戦いに参加することを可能にした。日本政府は単に自己防衛のために戦うだけでなく、英米帝国主義のアジアからの僕滅を期し、さらにインドの完全な無条件の独立を援助するものである。この政策に基づき、日本政府はインド独立闘争に対し全面的支援を与える用意があることをしばしば表明し、自由インド仮政府樹立をただちに正式に承認し、アンダマン、ニコバル諸島を委譲したのである。

 いまやインド国民軍は攻撃を開始し、日本軍の協力を得て両軍は肩を並べ、共同の敵アメリカ、イギリスの連合国に対し共同作戦を進めている。外国の侵略の軍隊をインドから駆逐しないかぎりインド民衆の自由はなく、アジアの自由と安全もなく、米英帝国主義との戦争の終焉もない。日本はインド人のインド建設のための援助を決定している。

 自由インド仮政府は、インドの完全解放の日まで、日本の友情とともに戦い抜くという厳粛な決意をここに表明する。

 自由インド仮政府は、兄弟たちがわれわれの解放を目指す日本とインドの両国に対し直接、間接に援助を与えることを要請する。自由インド仮政府は、全インド人が組織的サボタージュによって敵の戦争遂行を阻止し、自由獲得の闘争が一日も早く達成されることを要請する。

 さらにわが兄弟である敵陣営のインド人将兵が、暴虐な支配者のための戦いを拒否し、すみやかにわが陣営に参加することを要請する。われわれは、イギリス政府に勤務するインド人官吏が、聖なる戦いにおいてわれわれに協力することを要請する。われわれはインド民衆が英米の手先でないかぎり、恐れるものは何もないことを保証し、解放地区には自由インド仮政府を樹立し行政を行なうことを保証する。
 自由インド仮政府は、同胞のインド民衆に対し、英米の飛行場、軍需工場、軍港、軍事施設から遠ざかり、われわれの敵撃滅の戦いの巻き添えにならぬように勧告する。
 兄弟姉妹諸君、いまや待ち望んだ自由実現の絶好の機会が訪れている。諸君がこの機会を利用しその任務を遂行すれば、自由は遠からず達成されるであろう。この重大なときにあたり、インドはインド人がその義務を果たすことを期待しているのである。
 ジャイ・ヒンド!
                                 自由インド仮政府首席
                                 インド国民軍最高司令官
                                   スバス・チャンドラ・ボース


 ジャンシー連隊隊員への特別教書
           (一九四四年五月十四日INAの女性軍に向けての手紙による声明)



 姉妹たちよ
 ラニ・オプ・ジャンシー連隊の編成は、われわれの自由への戦いの歴史において独自の重要性を持つ事柄である。インド国民軍の兄弟たちと同様、皆さんは祖国に奉仕し、祖国の自由のために戦うためにやってこられた。家庭から離れ、母なる祖国を変えるための祭壇に命を捧げて欲しいと求めたことに、私は重大な責任を感じている。この責任から私は連隊の活動と進歩に常に関心を抱いてきた皆さんの上に神の加護があらんことを、そして永遠に栄えある祖国の自由への戦いで価値ある役割を果たされんことを私は日夜祈り続けている。すべての父、はは、保護者たちが我々の手の中にある娘たちが安全であるかと気遣うように、私はこの連隊を見守り、育むことに努めてきた。この重大な責任は皆さんの全面的な協力があってはじめて私に可能だ。そのためには、皆さんも祖国インドの真の娘として義務を達成できる教靱さを授かるように日夜神に祈り続けなければならない。これまで皆さんが成し遂げた成果から、私はジャンシー連隊が成功への道を切り開き、インドの自由のための戦いの歴史の中で確固たる場所を占めるであろうことを確信する。今インドが必要としているのは一人のジャンシーにおけるラニではなく、何千のラニが必要であると、これまで何度となく語ってきた。貴女がたのすべて、貴女方の一人一人が、フランスの不滅と名声に貫献したジャンヌ・ダルクと同様に、そしてバラト・マタのためにジャンシーのラニ・ラクシュミ・バイと同様に祖国のために働くことを願う。その名誉と栄光は、貴女がたがインド解放のために喜んでその命を捧げる時、はじめて得られる。その日は、貴女がたが兄弟たちと同様に祖国のために血を流した峙、はじめて訪れることを銘記して欲しい。そのためには、軍事的、精神的な厳しい訓練がともに必要である。ラングーンからジャンシー連隊の最初の前線派遣が既に開始されている。さらに大規模な部隊が、来るべき攻勢で前線に進出し、積極的に参加するため、昭南(シンガポール)で移動可能になるのを、熱心に、待ち切れない様子で待機している。過去二十年間、私はインドの女性たちが成し遂げたものを知っている。インドの女性たちに不可能な任務、不可能な犠牲的行為は存在しないことを私は知っている。それが、私が貴女方に満幅の信頼を置く理由に他ならない。それが、ジャンシー連隊を編成するという歴史的段階に踏み出すことを確信する埋歯に他ならない。貴女がたの一人一人が、それぞれにこの信頼を私と分かちあうことを確信している。今行なわれている貴女がたの訓練、貴女がたの将来の成功、そして勝利を私は望んでいる。
   ジャイ・ヒンド
   一九四四年五月十四日
                       ビルマの総司令部において
                                     スバス・チャンドラ・ポース

 インドを生かすために死を



       「今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生か
      すために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由ヘ
      の路は、殉教者の血で固められるからだ」とネタジ・スバス・チャンドラ・ボースは、一九四
      四年七月四日、ネタジ週間の最初の日に駆けつけたビルマ在住のインド人の巨大な群衆
      を前に宣言した。
       感動的な七十五分の演説で、ネタジは自由への戦いに人と物を限りなく差し出すことを
      めた。その一年の運動の進展を振り返り、近い将来に向っての運動の必然性を説いたこ
     の演説の間、途方もない熱狂と荒々しい喝采が沸き起こった。以下はその演説からの抜粋
     である。(サラト・ボース・アカデミー発行 『ネタジ資料集一九五八年版』 編葉者の言葉)

 友よ、十ニヵ月前、新たな総動員と総犠牲の計画が塔東南アジアのインド人に提出された。今日、私は諸君に過ぎし一年の運動の進展の成果と来たるべき一年に諸君に求めるものを呈示したい。

 しかしその前に、我々が自由への勝利に至る輝かしい機会を持っていることを諸君は理解して欲しい。現在イギリスは世界規模の戦争に巻き込まれ、多くの戦線で敗北に次ぐ敗北を重ねている。敵は相対的に弱体化し、自由への我々の闘いは五年前に比べ非常に楽なものとなっている。これは神が授けた百年に一度のこの上ない好機である。我々は祖国をイギリスの軛(くぴき)から解放する好機を完全に利用しなければならない。

 私はこの戦いの結果に大いなる希望を待ち、たいへん楽観している。というのも私はただ単に東南アジアの三百万のインド人の努力だけを頼りにしているからではなく、インド国内において巨大な運動が進行中であり、解放に近づくため祖国の数百万の人々が最大の協力と献身を準備しているからだ。

 不運にも、一八五七年の偉大なる戦い以来、敵が隙間なく武装しているにもかかわらず、祖国の人々は武装を解除されてきた。この近代社会において、武装解除された国民が武器、それも近代的な武器を持たずに自由を勝ち取ることは不可能である。だが、神の佑けと寛大なる日本の援助により、東アジアのインド人は武器を獲得近代的軍隊を建設できることとなった。

 さらに東アジアでは、インド国内でイギリスが盛んに工作を進めている宗教的なあるいはその他の差別が全く存在せず、東インドのインド人は自由を勝ち取ろうとする一人の人間のように一致団結している。今、我々の闘争を有利に押し進める状況と、すべてのインド人が解放の代償を進んで支払おうとしている理想的状況に我々がいるのは当然なのである。

 総動員計画に基づき、私は諸君に兵士と、資金と物資を求める。兵士に関して、私は既に満足できる志願があったことを喜ぴをもって伝えたい。

 志願兵は東アジアのあらゆる場所、中国、日本、インドシナ、フィリピン、ジャワ、ボルネオ、スマトラ、マラヤ、タイ、ビルマから参集している。

 私が抱いているただ一つの不満は、ビルマにおけるインド人の人口を考えると、そこからの志願兵が多すぎるに違いないだろうという点だ。

 諸君はこの地域から将来においてさらに多くの志願兵が出るように努力していただきたい。

 資金について、私は東アジアのインド人に三千万ポンドを求めた。そして実際にはそれ以上を受け取り、申し出からは将来の資金の流れが確実であることを確信している。

 インド国内における二十年以上の活動の経験で、この地で私はそれ以上の成果をあげることができた。私は諸君が差し伸べてくれた心の篭った協力に感謝の意を表したい。と同時に、我々の前途にはさらに責務が横たわっていることに注意を促したい。

 諸君は兵士と資金と物資の動員計画に偉大なる努力と熱意を注ぎ統けていただきたい。そうすれば物資の供給と輸送の問題の解決は満足できるものとなるだろう。

 次に解放された地域の管埋と再建にあらゆる分野に多くの男女が必要である。我々は、敵がビルマの特定の地域から撤退する際、地域の人々がそこにいられなくするため、無情な焦土作戦を採る状況に備えなければならない。

 最後に、最も重要な、前線に兵士を増援し物資を補給する問題がある。さもなければ我々の望むインド進攻は不可能である。

 諸君のうち、後方で活動を続けるものは、東アジア特に解放戦線の基地を形成するビルマを決して忘れてはならない。基地が強力でなければ、戦闘で勝利を得ることは決してできない。この戦いは単なる二つの軍隊の戦闘ではなく「総力戦」であることを忘れてはならない。わたしがこの一年間にわたって東アジアにおける「総動員計画」を特に強調してきた埋由である。

 諸君が基本的に後方をしっかりやって欲しい別の埋由もある。それは、きたる数ヵ月間、私と内閣の戦争委員会は、インド国内における革命の情勢のためにも、前線における戦闘に全精力を傾けたいと願っていることだ。当然それには、我々が不在でも、基地の円滑な中断することのない活動が保証されなければならない。

 友よ、一年前私は諸君にいくつかの要求を行い、「総動員計画」が成就すれば「第二戦線」を諸君に与えると言った。私はその約束を履行した。わが勇敢なる部隊は日本軍とともに戦いに続く戦いで敵を圧倒し、現在愛する母国の神聖な地で勇敢に戦っている。

 目の前の責務におおいに働いてほしい。私は諸君に兵士と資金と物資も求め、おおいに得ることができた。今、私はさらに多くを求める。兵土と資金と物資は、それだけでは勝利や自由をもたらさない。我々には勇敢なる行為と英雄的な行動に燃え立たせる原動力が必要である。

 諸君が生きて自由インドを見ようと願うのは完全な誤りである。それは、今、勝利が我々の手の届くところにあるからだ。今、誰一人として生き残って自由を楽しもうという願いを持ってはならない。我々の眼前には以前として長い戦いが存在している。

 今、我々はたった一つの願いを持たなければならない――その願いとは、インドを生かすために死ぬという願いである――殉教者としての死に正面からぶつかることで、自由への路は殉教者の血で固められるからだ。

 友よ、我が解放戦争の同志諸君、今日、私は諸君にただ一つものを、至上のものを求める。私は諸君に血を求める。敵の流した血に報復するには血以外にはない。血のみが自由の代償となり得るのだ。私に血を与えよ、私は諸君に自由を約束する。



 

 
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 8 イワラジ作戦(昭和19年10月−20年8月18日)