5 ベルリン(昭和16年4月ー昭和18年4月)


  
 ドイツにおけるポースの活動

 ベルリン日本大使館

 ベルリンに到着して一週間後、ボースはドイツ政府に覚書を提出した。この覚書でボースは、自由インドセンターを設立しラジオ放送を行うこと、インド独立軍を組織し、アフガニスタン国境からインド国内に進攻することを求めている。当時のドイツ軍は、念願のイギリス本土上陸には成功しなかったが、四月にバルカンではユーゴを降伏させてギリシャに進撃し、五月には工−ゲ海のクレタ鳥を占領し、アフリカではイタリア軍を授けたロンメル軍団がイギリス軍を駆逐、リビアに進攻、イギリスの近東の生命線であるスエズ運河をうかがおうとしており、強大な勢力を誇っていた。

 しかしドイツの外務省と軍部はボースの出した枢軸国がインド独立を呼ぴかける宣言を出して欲しいという願いには、ボースが六月にチアノ外相を訪れ要請したがイタリアも同様に冷淡な反応しか示さなかった。自由インドセンターが発足したのは十一月二日であり、二十九日にはリッペントロップ外相との会談が実現したが、その席でボースが強く要望したヒトラ−総統との会談が実現するのはそれから半年も経ってからのことである。

 そのころ日本とアメリカは太平洋をはさんで一触即発の状態が続いていた。ニヵ月前参謀本部から「ボースの人となりを直接観察して報告せよ」という訓令を受けていた駐独陸軍武官補佐官の山本敏大佐は、十月下句、大鳥浩大使とともにはじめてボースに対面した。山本大佐は、後にビルマで最高指揮官としてインド国民軍を率いて戦うボースに協力する日本軍の機関の代表として、密接な関係を持つことになるが、はじめて会った時から、亡命者にありがちな卑屈さをまったく感じさせず、インド独立への厳しい闘志を秘めながら、あくまでも教養豊かな紳士としてふるまうボースの人間的魅力に魅せられてしまった。

 ドイツの捕虜となったインド人に向けての声明(一九四二年、ベルリン滞在中に)
 「過去百五十年間、イギリスは我々を貧困におとしいれ、我々から国民としての誇りを奪ってきたが、その結果、諸君は祖国の抑圧者の軍隊ために銃を執り、自らの兄弟姉妹を抑圧することを助けてきた。だが、今、諸君には自由のために戦う力を結集し、祖国の解放を助け、外国の抑圧の奴隷としてではなく、自由な人間として勝利のうちに家族のもとに帰る機会が訪れている。」

 ボ−ス、日本行きを熱望

ポースは十日に一度は日本大使館を訪れた。十二月八日、ついに日本がアメリカとイギリスに宣戦布吉した。そして日本軍のマレー進攻作戦が急速に日本軍に有利に展間していた十二月二十六日いつになく緊張した面持のボースは大島大使と山本大佐に向かって語りはじめた。
「私は脱出に際し、もし日本がイギリスと戦っていたら、万難を排して日本行きを強行していた。今や日本軍のマレー占領は必死であり、ビルマからインド国境に迫る日も遠くはない。私はインド独立の次善の策としてドイツで二階から目薬をさすような努力をしてきた。私はなんとかしてアジアにおもむき、祖国インド解放のため、日本と手を携えて戦いたい。たとえ一兵卒としてもイギリスと直接戦いたい。どうかこの希望がかなうよう、日本政府へ取り次いでほしい」

 参謀本部からはボースの人物を直接観察し、報吉することを求めてきただけだったので、大鳥大使も山本大佐もボースに日本行きを勧めたことはなかったが、ボースの真摯な申し出に動かされ、ただちに東京へ伝達することを約束した。翌一九四二年(昭和十七年)二月十五日、東アジアにおけるイギリスの最大の軍事拠点であるシンガポールが日本軍の手に陥落すると、ボースの懇願はますます熱気を帯ぴ、毎日のように東京からの返事を促すようになっていた。

 しかし、日本からは「目下審議中」という返事が来るばかりだった。それには埋由があった。

 太平洋戦争開始にあたって、日本政府と軍郡は『対米英蘭◎戦争終末促進に関する腹案』を作成し、この戦争の基本方針はドイツ・イタリアと協力してまずイギリスの屈伏を図り、アメリカの戦争継続意志を喪失させるように努めることであり、イギリスを屈伏させる方法としてオーストラリアとインドに政治的な働きかけや通商を破壊してイギリス本国と切り離し離反させること、ビルマの独立を促進してその影響でインド独立を刺激すると述べていた。しかしこれはあくまでも「刺激すること」であり、日本軍が直接インドに進攻することを意味してはいなかったのである。

 千載一隅のチャンス

 陸軍がシンガポール要塞を攻略し、海軍がマレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブーウェールズとレパルスを撃沈した。そして真珠湾攻撃の余勢をかって海軍の南雲機動部隊は四月六日、セイロン島を強襲、イギリスの空母一隻と巡洋艦二隻を沈め、小沢艦隊が商船十八万トンを沈めた。ベンガル湾の制海権を手にした日本軍は、昭和十七年の五月末には当時イギリス領だったビルマの全域を占領した。

 註 セイロン インドの南にある島。スリランカ民主社会主義共和国の旧名。一九四八年、イギリスから独立した。仏教徒のシンハラ人が多い

 インド洋に日本の海軍が大挙来ることを恐れたイギリスのチャーチル首相は、五月七日、アメリカのルーズベルト大統領に、アメリカ軍が大平洋で挑発行動をとって、日本軍の動きを牽制するよう、電報を打ち、さらに七月十七日、日本軍のセイロン島占領や東部インド進攻の恐れがあり、これが実現すればイギリスの中東における基盤は根底から崩れてしまうと訴えている。当時スエズ運河一帯はドイツ軍とイタリア軍の制圧下にあり、喜望岬を回る航路が、イギリス軍の兵員、軍需物資輸送の大動脈だったのである。

 このころが、太平洋戦争を通じて、日本軍がインドに進む唯一の好機だった。ダンケルクに匹敵するビルマでの敗退の後、インド東部を守っていたのはインパール周辺に二個師団、アラカン、カルカッタ周辺に各インド師団一個ずつ、予備としてビハール州に一個師団と一個旅団があるだけだった。インド洋にはイギリス海軍はなく、防衛責任者のスリム中将も「日本軍が上陸してきたら葉巻を巻くように壊乱させられると思うと、ひどく落ち込んだ」と述回している。

 インドの中部・西部・東部には五個師団、二個英師団、一個戦車旅団、三個装甲旅団があり、中途半端な勢力では日本軍の成功は困難だったが、国民会議の議長を努め、ベンガル出身のスバス・チャンドラ・ボースの率いるインド国民軍と共に進軍すれば、インド国中に独立への炎が燃え立ったに違いないと思われる。しかし、ミッドウェイでアメリカ軍と正面決戦の準備を急ぐ日本海軍は機動部隊を太平洋に戻してしまったのである。

 揺れ動くガンジー

 第二次世界大戦中には連合国の枠内、つまり反日本の立場で反英非暴力運動を行ってきた印象の強いガンジーも、ある時期には日本軍のインド進攻の可能性を認め、独立運動の方向を変えることを真剣に考えていた。国民会議派の指導者アザードは「スバス。チャンドラ・ボースがドイツに脱出したことはガンジーに強い影響を与えた。ガンジーは以前いろいろな点でボースの行動を認めなかった。しかし今や彼の見方には変化が生じたのが分かった。ガンジーがポースを称賛していることが無意識のうちに戦況全体の見方を性格づけていた。と回想している。
 四月二十二日にはガンジーは「私の確信はイギリスが整然と秩序を保ってインドを去るべきでありシンガポールやマラヤ、ビルマで冒した危験をインドで冒すぺきでないというものです。イギリスはインドを防衛できません。というよりは、どれほどの力を持ってしてもイギリス自身をインドの国土で守ることはできないのです。イギリスのできることは運命にしたがってインドを去ることです。そうすれば、インドはそう下手にはやらないだろうと思います」と手紙で述べ、五月十五日の国民会議派のプライベートな集まりでは「日本と戦い、日本を妨害しているのはイギリスである。だから日本はイギリスと戦かわんと欲しているのだ。したがってイギリスが撤退すればインドは日本と折り合うことが可能である。日本はインドに中立条約を結ぶと期待することができる。彼らがなぜインドに進攻しなくてはならないのだ?しかしながら、もし日本が我々を侵略したら我々は抵抗する。私は日本を助けることはできない。自由を獲得したら中立だ」と発言している。

 しかしこの年の六月ミッドウェイの海戦で日本海軍が大打撃を受け、大平洋とインド洋の日本軍の絶対優勢状混が崩れだすと、ガンジーの姿勢は、アメリカ軍のインド進駐を認め、ふたたぴ連合国寄りに戻ってしまう。だが、この八月インドで国民会議派が「イギリスはインドから出て行け(クゥイット・インディア)」という決議をすると、イギリスは会議派に対し大規模な弾圧を開始し、指導者は根こそぎ逮捕・投獄され、インド各地で暴動が発生する。鉄道妨害、電話線の破壊、警察の襲撃、ポースが指導者だった会議派左派を中心に行われた。軍隊出動六十ヶ所、死傷者二千五百七十人、投獄者数は一万八干にのぼっている。

 このころが、日本軍がインド国内に進攻するまたとないチャンスだった。後にビルマ方面軍の高級参謀となった片倉衷元少将は「もし日本軍がインドヘ進攻する機会があったとすれば、インド洋の制海権を奪う能力があり、ビルマにも優勢な陸軍航空部隊がいた昭和十七年(一九四二年)の春から夏にかけてしかなかったろう。ただし地上部隊の四個師団は、戦闘による消耗とマラリア、アメーバ赤痢など風土病で戦力は半減していたから、大本営から兵力の増派が必要だったが」と述べている。

 ヒトラーに失望

 ベルリンのボースはこのような状況を観察し、直接的な行動に移れないもどかしさに苛立っていた。スバス・チャンドラ・ボースがベルリンから世界に向けて自由インド放送をはじめたのは一九四七年二月十九日であり、アフリカ戦線で捕虜になったインド兵で前年の十二月に編成された自由インド軍団も二月十五日正式に成立したが、戦線に出動する見通しもなく訓練に終始していたが、ヒトラーの人種的偏見がインド兵の能力に疑念を抱かせ、ついにこの部隊は実戦に参加することなく終ってしまった。

 五月二十九日、半年間待ったヒトラー総督との会談が実現したが、その内容はボースを失望させた。インド人は自力で独立を達成できないと考えていたヒトラーは、「インドが自治政府を持つには少なくともあと百五十年はかかる」と言い、ボースが「ドイツのインド独立支援声明には軍事的意味より、インド国民に精神的支援を送ることに意義があります」と食い下がっても、ヒトラーは「現段階ではインド問題に関する声明を出しても意味はない」という考えを曲げようとはしなかったのである。

 日本との連携へ

 すでにこの年の二月十七日、シンガポール陥落のインド兵捕虜を結集し、プリタム・シン大尉を指揮官にインド国民軍が正式発足し、東南アジアのインド人によるインド独立連盟が活動をはじめていた。日本軍の対インド工作を担当する藤原機関の藤原岩市機関長は接触を深めるにつれ、彼らがスバス・チャンドラ・ポースのアジア招致を熱心に望むのを知り、大本営に対し「インド人の間のボースヘの敬慕と期待はほとんど信仰に近い。ぜひ早急に招致を実現されたい」という要請を行なっていた。
 日本の陸軍、海草、外務省がボースの扱いを検討し、日本招致が原則的に決められたのは八月だった。長い時間がかかった一つの理由には、ラス・ビハリ・ポースの存在があった。やはりベンガル出身のラス・ビハリ・ボースは古いインド独立の志士で、日本亡命にあたっては民族主義運動家の頭山満の後援を受け、官憲の追及を避けるため、新宿の中村屋の店主相馬愛蔵の娘と結婚し国籍も日本に移していた。ビハリ・ボース自身はチャンドラ・ポースの声望と力量を十分承知しており、チャンドラ・ポースが来日すれば喜んで独立運動の指導を委ねることを明言していたが、参謀本部内には運動の分裂を懸念し、「わざわざドイツからチャンドラ・ボースを呼ばなくとも『中村屋のポース』で十分ではないか」という声が強かったのである。

 大島大使はただちにドイツとの折衝をはじめたが、チャンドラ・ボースの宣伝価値を知るドイツ側はなかなか首を縦に振ろうとはしなかった。大島大使はボース自身がヒトラーと直接談判することを勧めた。ボースの強硬な姿勢を煙たがっていたためか、ヒトラーは即座に日本行きに同意した。問題は日本に行く交通手段だった。ドイツ占領下のウクライナからソ連上空を夜間飛行し内蒙吉に着陸する案は、日ソ中立条約を結んでいるソ連上空を交戦国のドイツ機が飛ぶことは背信行為になると考えた東条首相の強い反対にあい、イタリア機でクレタ島からインド洋を横断してマレーに飛ぶ案は航空支援施設が不安で見送られた。結局、ドイツのUボートに乗り、軍事技術交換のためインド洋上でランデプーする日本の潜水艦に乗り移る案が決定した。この計画には細かい打ち合せが必要で、決行が実現するのは翌一九四三年(昭和十八年)二月になってしまった。

 再会そして別れ

 ベルリンに到着したボースの生活の唯一のうるおいは、再会したエミリー・シェンクルとの家庭生活だった。提供されたシャルロッテンブルグの元アメリカ武官邸は、ボースの事務所を兼ねていたので、エミリーは人目に着かないように、奥まった部屋で暮らした。四二年二月、エミリーから妊娠を告げられたボースは生まれてくる子供のためにも正式な結婚を決意した。しかしオーストリーはすでにドイツ帝国に併合され、ドイツ女性とアーリア人種以外の男性の結婚を禁止する「民族純血法」が厚い壁となった。

 ボースは怒りに燃えたが、エミリーは冷静だった。ドイツ政府との無用な摩擦を起こすことはボースにとって不利益であり、インドの人々の感情を考えれば、ふたりの結婚は独立運動とポース自身によい結果とはならないことを述べ、生まれてくる子供を自分ひとりで育てる決意を告げた。ボースはせめてものエミリーヘの思いやりとして、ハッサンら二人の副官を招いてヒンドゥー式の互いに花輪を交換する簡素な結婚式を挙げた。エミリーは子供を産むため六月ウィーンに帰り、十月女の子を出産し、アニタと名付けられた。ボースはその年のクリスマスに母子をベルリンに招き、つかの間の、最初で最後となった親子三人の水いらずの生活を過ごした。

 ポースとエミリーの結婚はドイツにいた同志のほんの一部しか知らず、アジアに来てからのポースは一言も周囲に洩らしていない。独立運動の指導者としての立場を考慮したためであろう。なおインド独立後の一九六一年、チャンドラ・ポースのたったひとりの子供であるアニタ・シェンクルは父のゆかりの地であるカルカッタを訪れている。

  自由インド、その問題点(ボースの論文)
      この論文は、ドイツの雑詰『ヴィー・ウント・マハト』に一九四二年八月に掲載され、
      インドでは永らく発表されなかった。外国の読者向けに書かれたものだが、現在のインド
      で読まれるべき独自の価値があるものと思われる。(ネタジ・リサーチ・ビューロー発行
      『NRBプレティン』編集者の言葉)

 新たなる覚醒

 イギリスによるインド占領は一七五七年、ベンガル・ファーストと呼ばれる地方がイギリスの手に落ちた時に始まる。占領は拡大し、最終的には一八五七年偉大な革命の後に完成した。この革命は、イギリスの歴史家は「セポイの反乱」と記しているが、インド国民の立場からは「最初の独立戦争」である。初期の段階では革命は成功したが、インド人の指導者に戦略と駆引の面が欠けていたため、最終的には失敗した。イギリス側が戦略と駆引の面方で優れていたからだ。とはいえ、イギリスは非常な困難の末、やっと勝利を得たのであった。革命の失敗後、インド中は恐怖による統治が跋扈した。インドの人々は完全に武装解除され、イギリスはそれを現在に至るまで続けている。今では彼らはこの一八五八年の武装解除が歴史上おおいな過ちであったことを認識している。というのも、武装解除が広い範囲にわたるインドの弱体化と無気力化を起こしたからである。

 一八五七年の偉大な革命の失敗の後、インドの人々は一時意気消沈した。しかし世界各地の革命によって刺激され、一八八五年にインド国民会議が結成されると、政治的覚醒が始まった。今世紀初め、ナショナリストの運動は二つの新しい方法、イギリス製品排斥と密かな反乱に展開した。先の世界大戦の後、一九二○年代、ガンジーは新たな「市民大衆による不服従運動」の方法、武器を持たずに外国の統治を覆すことを目的とする消極的抵抗を導入した。現在、このような運動の高まりは、インド国民がイギリスをインドから追い出す可能性を持つという新たな段階をもたらしている。

 今日の状況

 今日のインドは、イギリスがすべての人々から憎悪されている状況である。国民の大部分は現在の国際的危機を大英帝国の軛を覆すのに利用することを望んでいるが、国民のほんの一部分は可能なことはイギリス政府の妥協を引き出すことと考え、覆すには不十分だと感じている。道義的信念を失い、イギリスに協力しようというインド人は一人としていない。それ故、イギリスの支配はインド人の善意の上に安住することが不可能になり、銃剣によってのみ可能になっている。

 多くの人々が、イギリスがインドのような巨大な国を比較的少ない武力で統治していられるのはなぜか埋解できないでいる。その秘密は、少数とはいえ近代的な軍隊が、膨大だが武器を持たない人々を抑えることができるから可能なのである。近代的な占領のための軍隊は長期間にわたって敵対する勢力との戦争に巻き込まれず、人民により組織され、内部から盛り上がった武力抵抗を鎮圧することが可能だった。だが、現在イギリス帝国は他国との戦争に関わり、その力が顕著に弱体化し、インド人民がイギリスの支配をやめさせ、永遠に終らせるための革命に立ち上がることが可能になったのである。従って、インド人民はこの闘争において武器を執り、現在イギリスと戦っている勢力と協力する必要がある。この事業はガンジ−には成すことができない。今、インドは新たな指導埋念を必要としているのである。

 インドが自由になる時

 多くの人たちが、イギリスがインドを手放すには何が起きる必要があるのかという質間をする。イギリスの宣伝は、多くの人たちにイギリスなしではインドは無政府と混沌状態になると思わせてきた。だがそのような人たちは、イギリスによる占領が一七五七年に始まったばかりであり、占領は一八五七年まで完全なものではなく、それまでのインドは何千年もの歴史を持つ国であることをいとも簡単に忘れてしまっている。もしもイギリスの統治以前にインドにおいて文明や文化、政治的・経済的繁栄があったとすれば、イギリスによる統治が終ればそれらは可能であるに違いない。事実、イギリスの支配下ではインドの文化や支明は抑圧され、政治は国民の手から奪われ、豊かな繁栄した国が世界で最も貧しい国の一つにされてしまった。

 新しい地方自治

 イギリスをインドから駆逐した時、第一の仕事は新しい政府の樹立、秩序と会共の安全の確立だろう。新政府の仕事には地方自治の再構築、国民軍の創設が含まれることが必要だ。地方自治の再構築は比較的簡単である。過去、地方自治は常にインド人の手によって運営され、最高の地位にだけイギリス人がいたのである。この二十年間に、最高位のイギリス人にインド人が徐々に代ってきているほどだ。中央政府の総替府の閣僚の一部もインド人になっている。一九三七年以来、地方政府では大臣はすべてインド人で、イギリス人の役人がその下で働いている。高い地位がイギリス人からインド人に代った時、インド人はイギリス人より高い能力を示している。インド人の大臣や役人はイギリス人よりもこの国に精通しており、国民の繁栄に熱意を持っている。だから、インド人がそれまでのイギリス人よりも効率よく活動したのは当然である。簡単に言ってしまえば、我々は今日のインドの役所によって訓練された経験豊かな母体を持っているので、地方自治の再構築には何の困難もないのである。自由インドの新政府は地方自治のために新たな政策と実施計画を呈示し、指導者に新たな指導埋念を与えるだけでよいのである。

 国民軍

 国民軍の建設はこれよりは困難な仕事である。もちろん、インドは膨大な訓練され経験のある兵士を持ち、この戦争の結果、その数は増大された。しかしつい最近まで、インドの軍隊は大部分がイギリス人によって指導され、高級将校は例外なくイギリス人だった。戦争状態のため、イギリスは数多くのインド人将校を無埋矢埋任命したが、高級将校はほんの数名にすぎない。戦車、飛行機およぴ重火器等の近代兵器は、以前はイギリス人に渡されていたが、状況におされインド人にも渡されるようになった。そのためインド人高級将校の不足という状態は依然残り、国民軍の建設にはいくつかの困難が有在するだろう。このような観点から、インドの主要な問題は、国民軍の完全編成を十年以内に行うため、大量の将校をすべての階級にわたって短期間に養成しなければならないということである。国民軍と共に、海軍と空軍も平行して、可及的すみやかに建設すべきである。ある期間インドが平和を享受でき、いくつかの友好国の援助が得られるなら、国家の防衛組織の問題は満足な解決を得られるだろう。

 新国家

 将来のインド人国家の存在形態を云々すべきではない。可能なのは、ただ国家とその形態を決定する基本原則を示すことである。インドはこれまでいくつかの帝国を経験している。このことは我々は我々の政治的崩壊を招来した原因を考察し、将来における政治の再建を準備しなければならない。さらに、今日のインドの知識階級は現在の政治的諸状況と密接なつながりを待ち、深い関心を抱いていることを忘れてはならない。そしてまた、我々はヴェルサイユ以後のヨーロッパの他の場所における政治的体験を考察すべきである。そして最後に、我々はインドの状況から何が必要であるかを考察しなければならないのである。

 しかしながら一つのことははっきりしている。それは強力な中央政府が作られるということである。さもなければ秩序と治安が安全に保持されない。強力な中央政府を支えるのは良好に組織された統制された全インド的政党であり、それが国民と一体化を進める最大の手投になるだろう。

 新国家は個人や団体の完全な宗教的自由を保証し、国家の宗教を持たない。政治的・経清的諸権利は全国民の間に完全に平等である。すべての個人が雇用、食物供給、教育、そして宗教と文化の自由を得た時、もはやインドには少数派問題は存在し得ない。

 新しい制度が確立し、国家期間が円滑に機能を始めれば、権力は分散され、地方政府により大きな権限が写えられるだろう。

 国家の一体感

 新国家の一体化のためにはあらゆる可能な宣伝手段、つまり新聞、放送、映画、演劇等を国が保有すべきだ。反国家的、あるいは国家を分断する要素、イギリスの秘密機関に類するものが国内に存在するならば、それは完全に制圧されるべきである。適当な警察力がこの目的で組織され、国家の一体化に反する攻撃は重く罰されるようすでに国土の大部分で埋解されているヒンドゥー語がインドの共通語に採用されるべきである。ヒンドゥー語による学校における初等・中等教育、大学における高等教育は特別な現象、すなわち早期から国家の一体化の精神の涵養を可能にするだろう。

 イギリスの宣伝は、インド回教徒は独立運動に反対であるという印象を作り上げてきた。しかしこれは完全な偽りだ。国民的運動において回教徒が大きな比重を占めているのが真実だ。現在のインド国民会議の総裁アサドは回教徒である。大多数の回教徒は反英であり、自由インドの実現を求めている。回教徒あるいはヒンドゥー教徒の親英政党が宗教政党であることは疑いない事実だ。しかしこれらの政党は決して人民を代表するものではないのである。

 国家の一体感の上から、一八五七年の革命運動は偉大な実例である。この戦いは回教徒であるバハダール・シャーの旗の下に、あらゆる宗派の人々が一体となって闘われた。それ以来インドにおける回教徒は国家の自由のために働き続けてきた。インドの回教徒問題、あるいはムスリム問題は、アイルランドにおけるアルスター問題やパレスチナにおけるユダヤ人問題と同様、イギリスの人為的産物であり、イギリスの支配が払拭されれば消滅するものである。

 社会的諸問題

 新制度が確立すれば、インドは全神経を社会的な諸問題に注ぐことが可能になる。社会間題で最も重要なのが貧困と失業の解決である。イギリス統治下のインドの貧困は、イギリス政府によるインド工業の組織的破壊と科学的農業の欠如の二つの主要な原因に根ざしている。イギリスの統治以前のインドは必要な食糧と原料を生産し、衣料品などの工業の余剰生産物をヨーロッパその他に輸出していた。産業革命の出現とイギリスの政治的支配はインド古来の産業構造を破壊し、イギリスは新たな工業の構築を許さなかった。イギリスはインドを意図的にイギリスの産業に必要な原料供給国にしてきた。その結果が数百万インド人の失業であった。この結果、かつて肥沃であったインドの大地は痩せた荒地となり、現在の人口を養うことが不可能になった。貧農層の約七十パーセントが年間約六ヵ月働けないでいる。インドの貧困と失業問題を解決しようとするならば、工業化と科学的農業を国家目標にする必要がある。

 外国の統治下、イギリス人は支配者であるだけでなく、労働力の雇用者であり、インド人を悲惨な状況においた。自由インド国家は生活賃金、疾病保険、事故による保障等の労働者の福祉を用意しなければならない。また同様に貧農層は過度の小作料と常識外の借金から解放されなければならない。

 このような点から、インドにとってArbeitdienst, Winterhilfe, Kraft duruch Freude のような労働者福祉の研究機関が非常に興味深いものである。次いで重要なのが公衆衛生の問題である。この問題はイギリスの支配下では未解決のまま取り残されている。幸いにも、現在のインドはイギリス人医師より優秀な資質の優れた多くの医師が公衆衛生に携わっている。国家の援助と財政的補助を与えることにより、各種疾患の根絶におおいに貢献することが可能である。これにはインド古代の医療法であるアユールヴェーダやウナニも有効である。

 さらに、多くの地方で約九十パーセントにものぼる文盲という恐るべき問題がある。だがこの問題も、国家が財政的基盤を準備すれば、取り組み不可能なほど困難ではない。職に就いていない教育を受けた男女が大勢いる。自由インドでは、こういった人々を国中に送り、学校や専門学校、大学の創設に従事させることが可能だ。このような仕事や体験が、インドの国民が必要な教育組織の発展をもたらす、幸いなことに、サンチニケタンのタゴールの学校、ハルドヴァールのグルカ教育機関、ベナレスのヒンドゥー大学、デリーのジャミア・ミラ(国立ムスリム大学)、ワルドハ近くのガンジーの学校などですでに経験が積まれている。さらに我々にとって、イギリスの統治以前作られた教育機関も興味がある。

 筆記言語に関して私見を述べれば、現在国内に流布されているものとは異なり、自由インド政府はラテン文字の普及に努めるべきである。

 財政問題

 自由インドが大きな課題が要する資金をどのように得るかは非常に重要な問題である。イギリスは金銀を奪い、今では僅かしか残されていないが、イギリスはこの国を離れる前にそれらを再ぴ移動することは確かだ。インドの国家経済は当然金本位制を放棄し、金ではなく労働とその生産に基づく考え方を受け入れるだろう。貿易は、一九三三年以後のドイツのように、バーター貿易(物々交換)を原則に、国家の統制下に行われる。

 計画委員会

 再建の諸問題を実行する際に、一九三八年十二月、私がインド国民会議議長の時、生活のすべての分野の再建計画を作成する国家計画委員会を開設したことが参考になる。この委員会は既に価値ある業績をあげ、その報告書は我々の将来に役立つだろう。

 藩王問題

 インドの藩王とその領地は時代錯誤なものであり、早急に廃止されるべきだ。イギリスがこの国の一体化を妨害するために保護しなければ、これらは相当前になくなっていただろう。藩王の大部分はイギリス政府の熱心な支持者であり、イタリアのリオルギメント運動(国家統一運動)においてピエモントが果たしたのと同様な役割を演じようとする藩王は一人として存在しない。藩王領の人口はインドの全人口の四分の一であり、英国の統治するインドにおける国民会議派に関係の深い大衆運動が存在する。藩王の大部分は領民と縁遠い存在であり、当然イギリスの統治と共に消滅するだろう。イギリスが藩王に近代的軍隊の保有を許さなかったという単純な埋由から、藩王が自由インド政府に対する障害になることはない。これとは逆に、藩王が革命に参加するなら、居住地が与えられるだろう。

 国際問係

 過去において、インド没落を招いた原因の一つに外部世界からの孤立がある。それ故に、将来インドは他の国々と密接に接触しなければならない。インドは地埋的に西洋と東洋の中間に位置し、これがインドの文化的、経済的、政治的役割を確かなものとするだろう。

 将来、現在インドの敵と闘っている三国同盟諸国と密接な関係を築くことが自然であろう。

 陸軍、海軍、空軍の建設と同様に、インドの迅速な工業化には、海外からの援助が不可欠だ。インドはあらゆる種類の機械、科学技術の知識や設備と専門家が必要になる。さらに、国防力の建設には軍事専門家や兵器も必要だ。これらは三国同盟諸国が価値ある援助として用意できる。自由インドでは生活水準が急速に上昇し、その結果消費は急激に増大するだろう。そして自由インドは工業製品の巨大な市場となりそれがすべての先進工業国にとって魅力となる。

 そのかわり、インドは人類全体の文化と文明に何らかの貢献をすることができる。宗教や哲学、建築や絵画、舞踊や音楽、そしてその他の芸術や手工芸において、インドは独自なものを世界に提供できる。このような進歩から判断するに、外国の支配という困難にもかかわらず、インドが学術と工業的発展において大きな成果をあげるのは非常に速いと私は確信している。

 若いインドには成し遂げるべき巨大な課題がある。数多くの困難が起こるのは疑いないが、そこにはまた戦う喜ぴと光栄そして最終的な勝利がある。
 


 
トップへ
次へ 第1章 ネタジ・スバス・チャンドラ・ボースの生涯
 6 チャロー・デリー(昭和18年5月−12月)