イスラームスケッチ(4) ―コーランを詠ずる
2001年12月06日(木)
 ラマダーンもやっと三分の二が過ぎた。私も休み休みではあるが断食をしている。一日の断食は考えるほど難しくない。しかし、それを一ヵ月「つづける」ことが大変なのだ。正に「忍耐」の訓練である。

 ラマダーンはかように「苦しい」月なのだが、実はそれ以上に「楽しい」月でもある。日々の夕食が本当に楽しみなのだ! 町角にはこの期間中、特別許可をもらった食べ物の出店が並び、夕方になると「お持ち帰り」のビニール袋を提げた人々で賑わう。

 家に帰ると親戚が集まっていることもあり、ホテルやレストランではブカ・プアサ(一日の断食明け)のビュッフェ・プロモーションもある。屋台で夜風にあたりながら親しい友人とお腹一杯食べるのもよい。呼んだり、呼ばれたり、こうしてムスレムたちは断食期間中、夜の食事を楽しむのである。

 最近は非イスラーム教徒も便乗するようになった。以前はラマダーンはムスレムだけのものだったが、この頃は他の民族も招待して一緒にブカ・プアサをし(夕食を共にし)、断食の意義やイスラームのこころを理解してもらう努力もなされている。

 ラマダーンの間は断食をするだけでない。身も心も清くする時だ。喧嘩はもちろん、人の悪口を言ったり、邪な心を持つことも御法度。エッチな雑誌を見てもいけません?!心身のオーバーホールをする時なのです。

 夜の特別礼拝の後や朝早く目が覚めた時は『コーラン』を読む(詠ずる)べし。ラマダーンの間に全編を読み通すことが望ましい。

 私も遅蒔きながら、今、『コーラン』の日本語訳(岩波文庫、『コーラン』上中下)を読んでいる。故司馬遼太郎氏が「インドやイスラムを含む東西の哲学の全き理解者」と評した比類ない学匠、故井筒俊彦氏が約50年前に8年かかって訳した大作である。だが、困ったことに一寸読んでみても、正直言ってよく分からない。先行する二つの聖典、『旧約聖書』と『新約聖書』の基礎知識がないことも一つの理由だろう。

 しかし、今はそうも言っていられない。分かっても分からなくても断食明けまでに一度は読み通してみようと思っている。『コーラン』はきっと目で読んで理解するものではなく、原語のアラビア語で朗誦してこそ、神の声を感じることができるのだろう。目に留まった一節をお届けする。

家畜 ―メッカ啓示、全165節 より

95 本当にアッラーこそ、穀粒や棗椰子の核を割って、生なきものから生あるものを引き出し、生者から死者を引き出し給うお方。さ、これがアッラーだ。それなのに、汝ら、どうして邪道に陥るのか。

96 暁の空を裂くのも(アッラー)、夜を設けて休息の時とし、太陽と月を設けて(時刻の)計算の便をはかって下さったのも(アッラー)。これはみな偉い賢い神様のおとりはからい。

97 また汝らのために星々の座を定めて、陸上でも海上でも暗闇の中を行くときの道しるべにして下さったのもこの御神。このように我らはいろいろと神兆(神の無限の権能をあらわす証拠)を明示して、もののわかる人々に解きあかしておる。

98 また汝らをただ一人の(祖先)から作り出して、宿を決め、置き場所(母の胎内を指す)を定めて下さったのもこの御神。このように我らはいろいろと神兆を明示して、もののわかる人々に解きあかしておる。

99 また天から水を降らせて下さったのも(アッラー)。その(水)で我ら(ここで急に人称がかわるが同じアッラーを指す)はあらゆる草木に芽を吹かせ、更にその(芽)から青葉を出させて、そこからぎっしり粒のつんだ穂を出させ、また棗椰子からは花づとから枝もたわわの椰子の実りを、またそのほかには見はるかす葡萄の園、かんらんの実、それに石榴、互いに似たものあり、似ぬものあり。汝ら、よく見るがよい、みなそれぞれに実をつけて、熟したさまを。まことに、信仰ある人々にとっては、これこそまぎれもない神兆(奇蹟)ではないか。

 


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