マレーシアの中のインド(2) ―ディーパバリー
2001年11月8日(木)
  もうすぐディーパバリーである(11月14日)。昨年はMIC(マレーシア・インド人会議)党首サミー・ベル公共事業相主催のオープンハウスに行った。会場の雰囲気から、インド系の人々が社会・経済的にマレー系、中国系に比べて、より難しい問題を抱えていることを垣間見るような思いがした。
 さて、今日は一昨年の「ディーパバリー」に関するコラムを再掲する。

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 一時帰国から戻って、久しぶりにハイウェイをドライブして大学へ行った。車から見える美しい緑の風景は、1ヵ月前と少しも変わらない。いや、変わらないかのように見える、と言った方がいいだろう。常夏の国の自然はいじわるだなぁ、と思った。「時の流れ」という大きな摂理を、その変わらぬ美しさで覆い隠しているのだから。

 まだ日本に心の一部が残っていた私は、その朝の母からのe-mailにまた郷愁を誘われていた。

 「貴方がいた間は穏かな秋でしたが、今朝は木枯らしが吹き始めました。東北では小雪・・・の話も出ています。店先の真黄色に色づいた柚子にはっとしました。私たちの悲しみ(弟の死去)とは関係なく、大自然は初秋から晩秋へと移っているのですね」

 私は日本の四季は時が刻々と刻まれていくことを万人にさとす「無言」の神だと改めて思った。

 ふと気づくと、高速道路の料金所にさしかかっており、「ディーパバリーおめでとう!」というマレー語の大きな横断幕が目に飛び込んできた。私は淡いノスタルジアからはっと我に返り、マレーシアのカレンダー、太陰暦の世界に強く引き戻されたのだった。

 ディーパバリーはヒンズー教の最も重要な祭りで、インド系の少ないサラワク州とラブアン連邦直轄区を除き、国民の祝日となっている。今年のディーパバリーは11月7日の日曜日にあたり、翌8日が振替え休日となった。

 ディーパバリーはインド人にとって正月にあたるもので、正義の象徴である「光」を祭り、善を迎え入れる日である。インド系コミュニティーでは、家族、親戚、友人が互いの家を訪問し合う。マレーシア・インド人会議党首のサミー・ベル公共事業相のオープンハウスには、首相や副首相夫妻らの他、大勢の一般市民も訪れた。

 夕暮れ近く、ヒンズー寺院巡りを思い立った。まず、百年以上の歴史を有するチャイナタウンのスリ・マハ・マリアマン寺院を訪ねた。林立するクアラルンプールの近代的なビルと古き時代の町並みを残す、ちょっと猥雑でゴミゴミしたチャイナタウンの谷間に、その極彩色のヒンズー寺院はあった。皆お祈りを済ませた後だったのだろうか、意外にも人影が少なく、薄暮の中にヒンズー文化がぽつんと物悲しく立っているという感じだった。

 蓮の花の木彫りの大きなドアの前にはバナナの葉で編まれた暖簾のような飾りがかかっていた。玉串につけられた真白い和紙の飾りに似ているな、と思った。

 日本の文化が間接的にインド文化の影響も受けていることなどに思いを馳せながら、靴を預けて境内に入ると、モスクの構造に似た、吹き抜けの建物が空間を占拠していた。モスクが偶像を排してシンプルさと清潔さに徹しているのとは対照的に、このヒンズー寺院には人や動物の形をした極彩色の神々が彫刻や絵画の形をとって、柱や天井などそこら中に祭られていた。

 手足を水で清めた後、ひんやりしたタイルの床に腰を下ろし、しばし、祈る人々や無為に時を過ごす人々の姿を眺めた。線香とはまた異なるエキゾチックな香の匂いが甘い風に運ばれていく。なるほど、南国ではモスクやヒンズー寺院は「一服の涼」を無料で提供してくれる「有り難い」ところだと思った。時々、上半身裸で白いサロンを巻いたヒンズー教の僧侶と思しき人が、参拝者に請われて不思議な祈りを捧げていた。床にうつむけにひれ伏して、祈る男性もいた。

 4年前、私はこの寺院で行われた結婚式に招かれたことがある。元の職場の掃除婦、ヨガムさんの娘が結婚した時だ。

 ヨガムさんは私とあまり年が違わなかったが、生活苦のせいか、髪は真っ白で、60歳を越えているように見えた。交通事故で怪我した歯も治療ができず、歯抜けのままだった。多くのインド人女性労働者と同じように、いつも半袖のブラウスにバティックのサロンを着ていた。

 私は朝、給湯室の掃除をしているヨガムさんに会うと、いつも「おはよう!」と声をかけた。すると、彼女は茶碗を洗っている手を慌てて拭いて、私の方にきちんと向き直して「奥様、おはようございます」と手をを合わせて深々と挨拶してくれた。そのうち、私たちスタッフもタミール語を少し覚え、「ナルマ?(お元気ですか)」「ナルメ(はい、お蔭様で)」「タニクルチャチャ?(もう、お茶は飲みましたか)」などとやり取りをするようになった。ヨガムさんは、とても嬉しそうだった。 

 ある年のディーパバリーの時、寸志を包んで彼女にあげた。すると彼女はいきなり私の汚い靴もとにひれ伏して礼の気持ちを表現した。私は、ショックを受けた。ヨガムさんと私の間に一挙に「階層」という大きな隔たりができてしまったように思えたからである。その時、私はインド人社会にはカーストという身分制度があることを思い出した。

 ある日、私の机の上に見慣れぬタミール語のカードが置かれてあった。ヨガムさんの娘の結婚式の案内状だった。マレー人の結婚式には何度もよばれたことがあったが、インド人の結婚式は初めてだった。生憎サリーを持っていなかったので、パンジャビ・ドレスを着て出席した。

 家庭の事情というものは他者にはわからないものだが、その日の結婚式はヨガムさんの日常からはとても想像できないような盛大なものだった。「シック」という色彩感覚とは正反対の目眩がしそうな艶やかな色取の服装をした人々が寺院に溢れていた。数人ではあったが、中国系やマレー系の姿も混じっていた。

 太鼓や長笛の演奏とともに、ジャスミンの花、バナナやペナンの葉、黄菊、ココナッツ、米、サフラン、香油、赤や灰色の粉、水、火などを使った煩瑣な儀礼が延々と続いた。そして、儀式の後、インド料理の大盤振る舞いがあった。

 前の仕事を終えて帰国する時、ヨガムさんを昼食に誘った。彼女はいろいろなことを話して聞かせてくれた。私たちはマレー語で話をした。給与は確か、300リンギット位(1万円足らず)だと言っていたように思う。でも、毎朝早起きをして、ヒンズー寺院にお参りをし、夜も欠かさずヒンズー教の本を読んで、感謝の気持ちで日々を送っていると言っていた。贅沢な生活がこの世では手の届かぬところにある人々にとって、宗教は「文化」であり、生活の「楽しみ」や「喜び」であることを改めて教えられた。

 チャイナタウンを出て、帰りにクアラルンプールの「六本木」と言われるBangsar近くのヒンズー寺院にも立ち寄ってみた。かっては薄汚れていて、中に入るのがためらわれたその寺院も、今では改修され、こざっぱりした聖所になっていた。ディパバリーの日に二つのヒンズー寺院を巡って、私はマレーシアのインド系コミュニティーもまた、この国の経済発展の恩恵を受けていることを実感した。    (1999年11月14日)

 

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