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 青葉茂れる桜井の・・・
2001年04月14日(土)  
 
 「一日千秋の思いでお帰りを待っています」
 
 3月中旬、母より「千秋の思い」と件名のついたEメールが届いた。父の病状と母の心境を伝えたものだった。この「千秋の思い」という言葉は私を動かした。それはどんな泣き言よりも娘には「こたえる」母の一言だった。
 
 「これは、一刻も早く帰った方がいい!」 直感という名の電流が体内を走った。
 
 翌日私は勇気を出して学科長に会い、予定より一週間繰り上げて休みを取らせてほしい旨頼んだ。大切な会議を欠席するのは気が引けたが、友人が「マレーシア人は家族のことについては理解があるから大丈夫よ」と元気づけてくれた。
 
 数日後、私は悲愴な思いでスパン国際空港を飛び立った。
 
 父は3月初めから高知市のT病院に入院していた。新しい治療方法のお蔭で、それまで数ヶ月間、夜も眠られぬ程苦しんだ痛みは和らいでいたものの、体の循環が悪く、弱々しかった。食も進まず、ウトウトすることが多かった。帰った日から私は母に代わって毎日病院に通い、夜遅く帰宅した。
 
 父の病室がある「緩和ケア」と名づけられたフロアは、応接コーナーや和室、キッチンなどの設備も整っていて、病院の匂いのしない明るく清潔な空間だった。医師も看護婦もみな丁寧でやさしく、その姿は眩いほどだった。私は日本の医療制度に抱かれた父の姿にまずは安堵した。
 
 一週間後、父は思いがけず退院することになった。痛み止めの麻酔薬を四六時中小さな針で体内に吸収する治療方法が軌道に乗ったので、在宅療養が可能になったのである。「訪問看護」という制度があって、週に2回看護婦が来てくれ、薬を補給し、お風呂にまで入れてくれるという。医師も時々患者を「訪問」してくれるとのこと。何と有り難いことだろう!
 
 そう言えば昔は「往診」という医療の形があって、医師と患者とその家族との間の人間的な触れ合いの中で、病気が癒されていた。私は日本の医療が、地方都市において、良き方向に向かって回帰しつつあることを喜んだ。
 
 3月31日、ちょうど庭の桜が満開の、よく晴れた春の日に父は本籍地の自宅に戻って来た。車椅子に乗ってではあるが、見舞いのために東京から帰省したばかりの嫁や孫に付き添われて庭の土を踏んだ父は幸せそうだった。それまで、父と二人っきりで頑張ってきた母にとっても、夢のような良き日だったに違いない。
 
 その夜、父はとても「ハイ」だった。大家族の賑やかさが「しあわせ感」を増幅させていた。普段は「重い」話しかしない父が、「軽み」の境地に達したのか、ウイットに富んだジョークを飛ばし、孫たちにも受けていた。そのことを冷やかすと、父は近年見たこともないようなエビス顔で「明日ありと思う心のあだ桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」と私たちを諭した。
 
 家の改修は既に始まっていた。車椅子の生活になった父のために、西洋式のドアは和式のスライディング・ドアに、風呂場の床は車椅子がそのまま入る高さになっていた。備品としては人が乗ったまま縁側から車椅子を出し入れするスロープ、医療ベッドや入浴用の車椅子などなど。これらは昨年から始まった「介護保険」でカバーされるとの母の説明に、健康保険制度さえ整っていないマレーシアで暮らす私は目を丸くした。
 
 父は車椅子に乗って、早速納戸の整理を始めた。これまでに書いてきた印刷物、おびただしい「思索」メモ、小学校時代からの教科書、古本、選挙に出た時にお世話になった方々の名簿や名刺、祖父の時代からのアルバムや古文書など、住まいを転々としてきた我が家にしては不思議なほど、実に多くの「古いもの」が残っていた。父はそれらの中から「掘り出し物」を持ち出して来ては、子や孫を召集して「解説」をするのだった。はじめて家系図なるものを紐解き、先祖の話を聞いた上で、自分たちの名前を書き加える作業も行なった。
 
 それは大都会で「個」として生きてきた私たちが、故郷で「家」というものについて考える時でもあった。その過程で私たちは「江戸」、「明治」、「大正」、「昭和」という日本の歴史を「父」や「祖父母」の物語として、より身近なものとして感じるようになった。
 
 二週間半の滞在中、私は父の「介護」と父の「一生の集大成の手伝い」とを車の両輪のようにして走らせた。人間の一生の総仕上げというのは家族の大きな共同作業だと思った。
 
 父と娘、母と娘の時間は瞬く間に過ぎ、別れのときが近づいた。私の心は動揺した。母は「またもとの木阿弥になってしまうのね」と目を潤ませていた。
 
 私はふと、母方の祖父が夏休みの終わりに私たちが東京にもどる日が近づくと「お名残じゃのう」と言って決まって口ずさんでいた歌を思い出し、大声で歌ってみた。楠正成と正行親子の別れの歌である。
 
   青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
   木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと
   忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か
 
   ・・・・・(略)
 
   共に見送り見かへりて 別れを惜しむ折りからに
   またも降り来る五月雨の 空に聞こゆるほととぎす
   誰か哀れと聞かざらむ あはれ血に泣く其の声を
 
 出発の朝、庭を眺めると桜の木にはもう花の姿はなく、代わってまわりの緑が大地の息吹に突き上げられ、萌え始めていた。別れが「秋」ではなく、「新緑の季節」であったことは救いであった。
 
 「またすぐ帰るからね」と言い残して、私は再び機上の人となった。関空で、母が持たせてくれた筍と蕗のちらし寿司のお弁当を開けると、溜まっていた大粒の涙がポロポロとこぼれ、折角の錦糸卵を濡らしてしまった。
 
 日本とマレーシアの間の5千数百キロという距離が今回ほど遠く感じられたことはなかった。
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