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目 次

  はじめに
1.北海道が独立したら-進化する思考実験
 ■真冬の夜の夢
 ■中央依存という虚構
2.明治の国境画定-19世紀に始まる近代国家
 ■庇護なきエゾ地 北海道命名の必要榎本武揚の箱館共和国
 ■琉球王国の併合 小笠原諸島
3.国家をリシャッフルする-普遍性を失った統一国家
 ■公海上にみる初夢 太平洋上のヨットが独立宣言
 ■国家の分割 シンガポール/バングラデシュ/東チモール/ケベック州の住民投票
 ■国家の統一 三つの中国と香港・マカオ返還
 ■まぼろしの国家 1990極東共和国/五族共和構想
4.国家の三要素-国の所有者の権限
 ■国家の理念 国王とデモクラシー/都市国家/宗教国家
 ■通貨の役割 通貨と小切手/香港の通貨/地域通貨
 ■軍隊の存否 スイス民兵/小国の軍隊/戦争をやめた国々
 ■民族の構成 新五族共和の夢/ロシア系日本人誕生/移民が支える起業家精神
5.国家機能の再検証-権力の腐敗防止策
 ■首長の任期 アメリカ大統領の三選禁止/長野県の知事三選禁止条例案
 ■首都の機能 南アフリカの機能分化/米国各州の首都
 ■究極の税制 租庸調と物納/地租/所得税と間接税
 ■地方の行政 自治体の由来/自治の境界線
6.民営化国家論-国家独占の終焉
 ■エネルギー自立 脱石油戦略/石炭復権/風力と小型水車/太陽電池王国
 ■通信無料の原則 CATVと共同アンテナ/企業・自治体がプロバイダー
 ■義務教育の放棄 寺子屋と藩校/修道院と大学
 ■郵便と宅配便 飛脚と郵便馬車/民営化ドイツポスト
 ■交通インフラ 路面電車の復活/バスとタクシーの融合/有料道路の終焉
7.反逆する地方政府-模索する自己主張
 ■高知県の減反反対/東京都の外形課税/長野県の脱ダム
8.国家の消滅と民族自決-緩やかな統合へ
 ■スイス統治の英知 究極の地方自治制度
 ■ソビエト連邦崩壊 中国の分割?/帝国の崩壊/どうなるアメリカ
 ■EU成立と分権力学 自由貿易圏構想/協同組合国家
9.おわりに-北海道独立論を読んで
 ■明石コラム/平岩コラム/板垣論文

はじめに

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「北海道が独立したら」というコラムを農水省の部内誌に書いたのは1995年2月のことだった。円相場が1ドル=79円に達したのはその年の4月である。ニューヨークのプラザホテルで為替調整によって貿易収支の歪みを調整することで合意してから10年で日本円はドルに対して三倍になっていた。アメリカを中心に構造改革を求められ、国内からは円高に悲鳴を上げる声が噴出していた。新聞記者はもちろん多少のことでは動じない官僚たちにも相当な危機感があった。

 ガット(現世界貿易機関=WTO)の協議で日本がコメ市場の一部開放をようやく決断したのが前年の12月だった。頑としてシステムを変えようとしない勢力が日本社会の中枢にいるかぎり、この国の将来はない。誰もが分かりつつも変革のボタンを押す人がいない。失敗の責任を誰も負いたくない。そんな時代がかれこれ20年以上続いている。

 そうだ。変革と考えるからややこしくなる。発想を変えてみると「もうひとつの日本システム」をつくるアイデアが湧いてきた。「独立」である。
 
 独立を考え出すと、わくわくするような世界が目の前に広がり始めた。

 というより、国家とはなにかという諸々の疑問が頭をもたげてきた。国民、領土、通貨といった大きな要素から安全保障、地方自治、言語、税制など挙げだしたら切りがない。例えば言語一つ取り上げても公用語としての言語、教育現場で使う言語などがあり、一つの国家内にすむそれぞれの民族をどう位置付けるかという問題に発展する。税制では昔々学校で習った租庸調を思い出し、納税はお金だけでなく労力で支払うことも可能なのではないかといった発想がよぎる。

 その後、海外でも国家とは何かを考えさせられる動きが頻発した。一九九七年には、カナダのケベック州が独立の可否を問う三回目の住民投票を行った。僅差で独立反対が独立派を上回ったが結果が反対だったら、20世紀の終わりに新しい国家が生まれていたかもしれない。インドネシアでは2002年5月、東チモールが分離独立した。またイギリスではブレア労働党政権がウェールズとスコットランドに議会開設を認め、スコットランドには徴税権をも付与したから大事だ。反対にイギリスの植民地だった香港は1997年7月1日、施政権を中国に返還したが、中国は香港に一国二制度を適用し、五〇年間の高度の自治を与えた。そもそも中国には「台湾独立」という爆弾を抱えたままである。

 日本は「単一民族」で国境を海で囲まれているため有史以来国境の変更がないとされる通説もよく考えてみれば疑問が多いことが分かった。アイヌは明らかに少数民族だし、明治以降日本の版図に入ることが確定した小笠原諸島ではアメリカ人たちが「自治」を行っていた。明治以前の日本国は300以上の藩に分かれていて言語はおろか独自の紙幣を発行しているところもあった。江戸時代の日本という枠組みは、藩そのものが国家に近い形で存在し、それぞれが徳川政権に忠誠を誓っていたにすぎないのだ。

 徳川慶喜が大政奉還してからも、会津藩を中心に奥羽列藩同盟や榎本武揚ら幕臣による箱館共和国宣言があるなど明治政府の初期には一歩間違えばいくつかの「日本」が誕生していた可能性だってあったのだ。

真冬の夜の夢

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 しんしんと冷え込む2月下旬の夜、若い農水省の役人とビールを傾けていた。省内ではなかなか天下国家を語るチャンスがないと嘆く人だから、当然、日本国のあり方に話が及ぶ。空の缶ビールが10本も並んだころ、彼は突如としてひらめいた。

 「国を出て、国を作ればいいんだよ。そうしたら日本の規制から逃れられる」
 「自治体の独立だな」
 「そうだ。大前さんが道州制なんていって連邦制を提唱しているけど、規制緩和ひとつできない政府がそんな大胆なことできるはずがない。万一やっても何10年かかるかわからない」

 1ドル=100円という円高が続けば、農業どころかハイテク産業だって崩壊しかねないというのがお互いの問題意識だから、急にビールのピッチが上がっ た。1ドル=500円ぐらいの為替交換率を実現したら、一人当たりGNPは5000ドル前後(当時NIESは1万ドル前後)となる。

 「教育水準が高くて日本語が通じる投資国」として売り出せば、NIES諸国より有利な地位になる。もしかしたら農業だって国際的競争力を回復できるかも しれない。当然ながら国からの補助金は切れるが、海外投資導入のためのインセンティブを作れば資金はある程度、外国に依存できる。

 まず「日本国憲法は武力の行使を認めていないし、知事の要請がないと自衛隊は出動できない。だから一方的独立をしても自衛隊は何もできない、簡単な住民投票で独立できそうだ」という点で一致したことだ。

 さらに杯を重ねた。アメリカも英国の規制から逃れるため分離独立した。日本だって徳川時代の諸藩は半独立状態で独自の通貨を持っていたり軍隊を持っていた。当初、沖縄などは明国にも使節を送っていた。
 そこでどこが一番独立しやすいか考えた。彼はつぶやいた。

 「北海道だな」

 うん、経済規模としてもほどほどだし、何より道路などインフラ整備が比較的進んでいるのは有利だ。高速道路や新幹線はまだまだだが、ハブの役割を果たせ る24時間体制の滑走路4000メートル空港の存在は大きい。農業も本土のように反当たりなんてけちな単位を持ち出さなくて済む。

 市場開放で「将来がまっくら」といっている雪印乳業も明るい光がさす。室蘭中心の鉄鋼関連も息を吹き返すこと請け合いだし、主力の紙パルプ産業どころ か、ひっとしたら炭鉱も復活するかもしれない。ビールがなくなって水割りに移ったころ、僕たちの間で北海道国の未来は輝きはじめ、具体的国家作りに入っ た。

 そもそも本土のがんじがらめの規制から逃れるための国作りだから、北海道国のキーワードはアダム・スミスに立ち返って「レッセ・フェール」となる。政体は大統領制を中心とした連邦国家とすることに決まった。

 なぜ連邦制かといえば、ほかの本土の自治体が参加しやすいように考えたからである。ワシントン・アップルと競争したければ青森県だってすぐに参加でき る。秋田県が「あきたこまち」をカリフォルニア米と同じ土俵で戦わせる意思があれば連邦政府は歓迎する。国名は決まっていないが「連邦」をつけることだけ は譲れない。いずれ国民投票の対象になるだろう。

 北海道のいいところはまだ開拓精神が残っているところだろう。そもそもアメリカと同様に本土で食えなくなった移民で発展した地域だ。首都は札幌でなく、 中心の旭川に置き、札幌はニューヨーク並みに経済の中心として残ればいい。最高裁は帯広、議会は函館が候補地として上った。三権分立だ

 国語はどうすればいいのか。彼は当然ながら日本語を主張した。国旗はアイヌの神様である「ふくろう」をあしらうことを条件に公募する。国家は札幌オリン ピックの歌となったトワエ・モアの「虹と雪のバラード」が適当だろう。僕たちは18世紀後半のワシントンやジェファーソンのように国の将来を語り続けた。

 通貨名だけは決まった。「ピリカ」。美しいという意味のアイヌ語だ。補助通貨は「マリモ」でもいいが今後の検討課題として残った。大切なのは通貨の切り下げだけだ。切り下げなくして独立のメリットはまったくない。産業の競争力を回復できないからだ。僕が口火を切った。

 「1ドル=300ピリカ程度だろうか」
 「そんなに北海道経済が強いはずがない。貿易黒字のもとになるハイテク企業や自動車工場なんてなんいだから」
 「それもそうだ。そうすると1ドル=500ピリカぐらいかな」。
 「そんなもんだろう」
 「もうそうなったらすごいことが起きるぞ。牛乳なんてのは日本で1リットル40円ぐらいで売れることになる。価格破壊のダイエーなんて真っ青だよ」
 「それはおもしろい。北海道の独立は本土の生活者の生活水準のレベルアップにも役立つというわけだ」
 「問題は本土の政府が、ウルグアイ・ラウンド農業合意を続けるかぎり関税はめちゃくちゃに高い水準のままだからな」
 「そんなことはない。そもそも乳製品の保護は北海道を中心とした生産者が求めたものなのだから、そこが独立したらもはや高関税を維持する意味はなくなる」
 「どうなるか分からないけど、一挙に国際競争力を回復することだけは確かだ」

 もめたのは初代大統領と閣僚メンバーだった。北海道が独立すれば、本土の政党再編に乗り遅れた横路知事はいずれ戻ってくるだろうが、この人だけは地元を 捨てたのだから権利落ちにしたい。個人的には新しい器には新しい人材が必要だから、岩国哲人あたりが立候補すれば当選するのではないだろうかとも考えた が、やっぱり出戻りでも横路大統領なんてことになるのだろうということで落ちついた。

 独立の日時は、1995年閏8月しかない。中国では古来、閏8月に革命や政変、天変地異が起きると信じられている。戦後50年の8月15日はちょうどい い区切り。本土と50年も付き合えばいいだろう。それに右肩上がりの本土の経済は終わり、これから地方への補助金が増えるような状況ではないから潮時だ。

 宮沢りえも早く、りえママに引導を渡して自由になればいいのに。なんちゃって。  果てしない議論が続き、やがて東の空を白ずんできた。そしてはっと、目が覚めたら自宅のベットに横たわっていた。 (1995年02月28日 伴武澄)

 こんなコラムを農水省の部内誌であるAFF1995年4月号に書いた。反応はいろいろあった。それこそ「夢みたいなこと書いて」といった意見もあったが大方は好意的に受け止められた。農水省の記者クラブでは「こんな議論をAFFの紙面を借りて続けられたらいい」との議論も出た。

「農水省広報室はそれぐらいの度量があってもいい」

とある記者が言い出し、広報室長を呼んで趣旨を話した。もちろん酒が入っての勢いである。新聞記者というものは常日頃、政府批判ばかりで、自らアイデアを出すよう教育されていない。記事はいつも「不偏不党」を要求され、決して記者個人の意見を開陳する機会に恵まれていない。

 朝日新聞とか、毎日新聞には「記者の目」とか、大きな紙面が用意されているではないかという反論もあろうが、大勢の記者がいるなかでそうそうチャンスが巡ってくるわけではない。また、あまり荒唐無稽な論旨を展開しては記者の沽券にかかるとばかりに、怒りを抑えた筆致にならざるをえない。
 だから酔えば自然、「企業の論理やデスクの判断を抜きに本音を語る紙面がほしい」という議論となる。面白半分で書いた「北海道が独立したら」がそんな反響を生んだ。若い農水省の役人もまんざらでない気分になったようだった。

 まじめな広報室長はそれなりに社内議論をしてくれたらしく、翌日「やっぱり編集権は農水省にあるので、記者クラブに紙面をお貸しするわけにはいかないと判断しました」と断りに来た。

「そんなら」と奮起したのが東京新聞の記者だった。
「伴記者の意見で突然、為替切り下げを実施したら北海道はハイパーインフレに襲われる。でも規制緩和の手法としてはとんでもなくおもしろい。幸い、5月号は僕が書く順番だから、実現不能だとの視点から論争に参加しよう」
と言い出した。若い農水省の役人と僕はまたにんまりした。

「北海道が独立したら」という話は、官僚の間ではあまり評判はよくない。というよりも完全に無視された。心のなかでおもしろいと思っても表立って肯定できないのが役人の悲しい性だ。

「北海道が独立したら」のコピーは友人のジャーナリストの平岩氏にも見せた。
 しばらくたって「面白いからいろいろな人にファックスしたよ」と電話をもらった。
「島根県でシンクタンクを主催している人が会いたいといっている。上京した折りに会ってください」というのだ。

「いやいや、単なる面白半分の発想ですから。あれ以上なにも脳味噌のなかにインプットされていないですよ」と返事しておいたが、新宿では大いに受けた。平岩氏が主催している「AR会」という水滸伝の中の梁山泊のような集まりでは特に評判がいい。四国新聞の論説委員は一面下段の「一日一言」に通貨問題にからんだ話題で北海道通貨の「ピリカ」を取り上げてくれた。仲間がまた友人にフックスしてくれたりして、「北海道独立」は〝全国的〟に広がった。そしてそこでも勉強会を開こうということになった。といってもメジャーになったわけではない。依然として夢のなかのまた夢のような話だ。

 一九九五年二月。寒い寒い冬の議論からわれわれはスタートした。酒に酔ってはいたが、ちゃらんぽらんな気持ちから独立論を持ち出したのではない。現在の日本が抱える閉塞感やサラリーマン、主婦が日々苛立っている状況から脱するにはどうしたらいいのかを議論してきた到達点だった。
 もちろん二人はそれなりに真剣だった。まず、心配となったのは北海道がこれまで手にしてきた本土からの財政支援がなくなってほんとうに生きていけるのかという疑問だった。

1992年度の北海道財政
 
歳入総額  2兆7625億円  歳出総額  2兆7547億円
地方税 5376億円  教育費 6458億円
国庫支出記 6597億円  土木 5364億円
地方交付金 7799億円  農林水産 4318億円
地方債 2675億円  総務費 7497億円
地方贈与税 501億円  公債費 2151億円
 使用料 279億円
 民生費 1582億円

 若い農水省の役人に言った。
「あんたはいっぱい情報を引き出す立場にあるのだから、ちょっと実現可能な話なのか調べてよ」と調査を依頼した。

 やはり役人は毎日深夜まで机に張りついていなければならないから、調査は滞っている。若い役人が一番心配しているのは北海道が独立して財政が回るのかという疑問だった。確かに2兆7000億円の歳出に対して地方税収は5000億円強しかない。倹約しても2兆円以上も穴埋めするのは現実的に不可能だ。

 翌日、農水省の隣りにある政府刊行物センターに足を運んだ。何か手掛かりになる資料はないかを探すためにだ。すぐ目についたのが『95年日本の国勢』という「国勢社」が出版した統計資料だった。価格は2800円もした。内容的には総務庁を中心に政府が発表した資料を再録したものだから、それぞれの資料は「共同通信の記者です」と省庁を回れば、広報課でただで入手できるものだ。しかし、これは共同通信社の仕事ではない。北海道独立の仕事に金銭的に日本国政府に頼るわけにはいかない。

 この『95年日本の国勢』という本で、一九九二年の北海道の財政を調べてみたら、面白いことに突き当たった。北海道で徴収される所得税や法人税など国税の年間収入が実に1兆5000億円以上もあるのだ。

 次の表を見てほしい。北海道は都道府県で国税の収納総額は9番目に多い。上の北海道の歳入のうち、国庫支出金はいわゆる補助金。地方の公共事業や農業事業に対して一定割合を政府が補助する仕組み。地方交付金は個人所得税や法人税など国が徴収した税額のなかから三二%を地方に支給することが法律で決められている。そんな国からの収入が合わせて一兆四〇〇〇億円もあるが、本当は下の表の通り、そもそも北海道の住民が支払った税金が国を通じて還流しているにすぎない。

1992年度北海道の国税収入
  
国税収納済総額  1兆5035億円
源泉徴収 5828億円
申告所得税 1281億円
法人税 3017億円
相続税 323億円
消費税 1993億円
ガソリン税 980億円
酒 税 789億円

 財政学をかじった程度では、地方交付税交付金の名称は知っていても本当の意味は分かっていない。ただ単に個人所得税と法人税、相続税の合計の32%を地方の財力の応じて再分配する仕組みと覚えているだけだ。

 この交付金をもらえる自治体を「交付団体」といい、もらえない自治体を「不交付団体」という。自治体からすると「交付団体」の名称はあまり名誉なものではない。いつまでも親から援助を受けている学生のように実際は肩身の狭い思いがあるからだ

 東京都など豊かな自治体は一切もらえないが、沖縄県や高知県などは過分の配分を受けている。例えば高知県は、4000億円規模の年間予算を持っているが、地方税でまかなっているのはほんの400億円でしかない。あとはこの交付税と補助金、そして多くの場合まだ足りないため県債(借金)を発行して財源をまかなっている。

 本当は、企業があり、住人がいるかぎりどこの自治体でも県内で徴収される法人税や所得税がある。国税分を上回る交付金をもらっているのならば不名誉だが、交付金が下回るのだったら胸を張って受け取っていいものなのだ。

 とにかく北海道の税収を子細に検討すると、道内で上がる法人税や所得税などの国税を合計すると、ほぼ国から交付される地方交付税交付金などに匹敵する税収があり、その規模が北海道の予算に戻ってくる金額よりも多いということが分かった。北海道は財政の面で決してひ弱ではない。現在の支出をしても十分に税収は足りており、東京などの富裕な自治体の世話になっているわけではないのだ。

「それ見たことか。北海道の財政は見掛けほど悪くはない。お金の面では独立してもそんなに困らない」
「政府の発表ばかりから見ているとことの真相が見えなくなるんだな。われわれも物事を逆さから見る発想を身につけなければいけないな」
「そりゃそうだ。大勢に従っていたのでは改革者とはいえない。コペルニクスは中世のヨーロッパで信じられていた天動説をひっくりかえした人物として有名だけど、彼が偉いのは、地球が太陽の回りを回っていようが、太陽が地球の回りを回っていようが普通の人々にとってどちらでもいいことをあえて主張したところにあると思わないか。コペルニクスの勇気のおかげで、地球人は近代科学が発展する大きな分岐点に立つことになる」

 こんな会話を期待して同僚にこの話をすると「市町村の予算はまた別個に必要だからまだまだ問題があるよ」との忠告された。

「そうだ。そんな簡単に北海道の財政が運用されているはずがない。そんなに財政的に豊かだったら北海道を特別扱いして北海道開発庁を設置する必要もないはずだ」と妙に納得した。

 頭が少々混乱気味だったが、昼下がりに農水省に若い役人を訪ねた。
 若い役人は席にいなかった。役人は朝の出勤は遅いが夜遅くまで役所で働く。働くというよりも「役所に住んでいる」という表現がぴったりだ。霞が関の役人から村役場まで役人の多くは出勤するとすぐにサンダルに履き替える習性がある。冬になるとさらに背広を脱いで前ボタンのセーターかチョッキに着替える。ふつうのサラリーマンは緊張感を保つためにネクタイを締めるが役人の習性がまったく逆である。役人も同様にネクタイを締めるが、役所に入ると妙にくつろぐのだ。だから「住んでいる」という表現がとても似合う。

 ともあれ、若い役人はコピーをどっさり抱え込んで席に戻ってきた。また会議だったようだ。長めの昼食が終わるとどこの役所でも会議が相次ぐ。

「それでどうだったんだ。北海道の財政は」
 この表を見せると若い農水省の役人はうなった。
「北海道はこんなに税収があったのか。もっと中央が助けなければやっていけないのかと思っていた」

 次いで同僚が指摘した市町村への財源の疑問についても氷解した。
「市町村への補助金もすべて道予算を経由するから心配はない」との判断だ

 若い農水省の役人は「悪いけど高知県や島根県ではこうはならないと思う」と付け加え、がぜん目を輝かせた。しんしんと冷え込む二月下旬の深夜の会話が若い農水省の役人の脳裏に蘇ってきたのだった。

「結論を先にいえばオーケーだな。政府は国民から税金を徴収して再配分しているのだから、地方単独で徴収する地方税と国税を合計して、47都道府県で平均すれば国民が負担している税金と受けているサービスはイコールでしょう。多く負担している自治体があれば少ないところもある。これまで政府は地方税の収入だけを見て『お前たちはまだ自立していない』と恩を着せていただけなんだ」
「うん。すごく分かりやすい議論だ」

「財政的に残る問題は国立大学であるとか、国営農場だとか。あと国道、空港管理など純粋に政府が所管している経費だ。独立するとなくなる。ここらの総額がどれくらいあるか調べる必要がある」

 今回は昼間だから、酒は入っていない。知的に独立北海道の財政状況を議論している。先立つものが確かだと安心感がある。国家を運営する最大の問題は財政基盤の確立である。

 戦後、アジア、アフリカ諸国が相次いで独立し、1960年代初頭にはインドのネルー、インドネシアのスカルノ、中国の周恩来、ガーナのエンクルマが声高に「AA(アジア・アフリカ)時代の到来」を叫んだが、尻つぼみになった。まさに経済的な自立ができなかったためである。

 まして1980年代後半からのアジア諸国が経済活性化した現在に、政治的なスローガンだけで国家を独立させようとしても誰もついてこないだろう。中国の社会主義市場経済という実態をみるまでもなく、まさに経済が政治を引っ張る時代の真っ只中にある。

 われわれはどうも泥沼に足を取られたようだ。
 冒頭から刺激的なやりとりを紹介したが、多くの人には「そんな簡単に国家などというものがつくれるものか」という反論もあろうかと思う。そんな疑問に答えるために北海道という地方の成り立ちから解き明かしたいと思う。

 本州の北のエゾ地を「北海道」と呼ぶようになったのはそう昔のことではない。明治以降、正式に日本の版図に加えることになり、新たな名称が必要になっ た。1869年(明治2年)、古来からある南海道、東海道という地域名にならって「北」の「海道」だから「北海道」と呼ぶことに決めた。日本人にとって、 それまではあの広大な地域を総称する呼称がなかったことは驚くに当たらない。

 名付けの親は松浦武四郎である。江戸末期にエゾ地の探検家として名を馳せた。明治政府の役人としての最初の仕事が後世に「北海道」という名をのこ したのだから大変な名誉である。武四郎が選定した呼称に「日高見道」「北加伊道」「海北道」などがあったとされるが、このうち「北加伊道」が採用され、 「加伊」(かい)が「海」に代わった。カイとはアイヌが自らの地を呼んだ呼称である。  


 古来、「北海道」はエゾ地とか、北州、十州島などと呼ばれていた。旧10国が置かれ、渡島(おしま)、後志(しりべし)、胆振(いぶ り)、石狩、天塩、日高、十勝、釧路、根室、北見の地名はあった。室町時代以降、本州の商人がアイヌとの貿易のため移り住んだが、藩が置かれたのは江戸時 代。ロシア人がエゾ地にやって来て日本に通商を求めるまでの歴史は数行で書くこともできる。あくまで日本人の関心の程度はそんな程度だったはずだ。  

 漠然とした概念では日本だったものの、箱館周辺の松前藩の外側は、中国風にいえば「化外の地」だったのである。アイヌが居住する地は征服するには自然が厳しく、江戸時代までの日本人にとって興味の対象であっても損得勘定がはたらく空間ではなかった。  

 当時、国境線がさだかでない「化外の地」は世界にいくらでもあった。 極東では樺太や千島列島、中国にとっての台湾も似たようなものであった。アラスカなどはロシア帝国が探検していったん獲得した版図を「化外の地」として米 国に売却した話はだれもが知っていることであろう。いまさら、100年以上も前の話をしても仕方がないかもしれない。しかし、19世紀の帝国主義時代に突 入する以前の世界の国境の概念には現在では考えられないほどの無邪気さがあった。  

 話を戻す。明治維新後、政府はエゾ地に新たな呼称を必要とした。新政府が、広大な未開拓地を新行政区に加えたからだ。正式に北海道とされたのは1869年(明治2年)である。  

 開拓のための役所を設置しようとしたとき、いい呼称がなかった。とにかく「北海道開拓使庁」という役所がこの年、設置された。そして旧佐賀鍋島藩主の鍋島直正(閑そう)が初代長官に就任した。続いて1886年、政府直属の行政機関、北海道庁が置かれた。 

 驚くなかれ、北海道には開拓使庁は置かれたものの、実は知事がいなかった。それも戦後、地方自治法が施行されるまで、中央政府の長官が北海道を 監督した。戦前の知事はいまのように選挙で選ばれることなく、政府が任命したから実体はそんなに変わるものではないが、どちらかといえば総督府が置かれた 植民地の台湾や朝鮮と似たような地位に置かれ続けた。1948年、北海道はようやくほかの都府県並みの自治体となった。  

 長々と、「化外の地」について述べた。北海道が歴史的に他の日本の地域と違う扱いを受けてきたことを強調しておきたかったからだ。

  新撰組の土方歳三が最期を函館(箱館)で迎えたことはあまり知られていない。徳川慶喜が大政奉還した後、旧幕臣が五稜郭にこもって新政府にたてついただけでなく、北海道の独立まで画策していた。画策したのは土方ではない。榎本武揚である。江戸城無血開城によって行き場を失った旧幕臣の一部は関東平野に散らばり、榎本武揚に率いられた一部は江戸湾に浮かぶ幕府艦隊に移った。清国が東洋艦隊を建造するまで、この艦隊は東洋一を誇っていた。

 司馬遼太郎の「燃えよ剣」に沿って「艦隊北上」の段を再録する。仙台伊達藩の説得に失敗、旧幕臣数千名を引き連れて開陽丸で箱館に向かうシーンである。

 榎本が函館へ行こうと思った最も小さな理由は、かつて行ったことがあるからである。
 最大の理由は、北海道を独立させ、函館に独立政府を作ることであった。
「外国とも条約を結びます。そうすれば京都政府とは別に、独立の公認された政府になるわけです」
 その独立国の元首には、徳川家の血すじの者を一人迎えたい、というのは歳三はすでに仙台で榎本からきいている。
「政府を防衛するのは、軍事力です。それには京都朝廷が手も足も出ないこの大艦隊があります。それに土方さんはじめ、松平、大鳥らの陸兵」
 ほかに、と榎本はいった。
「かの地には、五稜郭という旧幕府が築いた西洋式の城砦がある」。
 徳川家に血縁者を元首とする立憲君主国をつくるのが、榎本の理想であり、その理想図は、オランダの政体であったろう。
 そのほか、榎本が函館をおさえようとした理由の最大のものは、函館のみが、官軍の軍事力によって抑えられていない唯一つの国際貿易港であった。
 長崎、兵庫、横浜はすべて官軍におさえられ、その港と外国商館を通じて、官軍はどんどん武器を買い入れている。
 函館のみは、公卿の清水谷公考(きんなる)以下の朝廷任命の吏僚と少数の兵、それに松前藩が行政的におさえてはいるものの、それらを追っぱらうのにさほどの苦労は要らず、まずまず、残された唯一の貿易港である。
 外国の商館もある。
 ここで榎本軍は外国から武器を輸入し、本土の侵略をゆるさぬほどの軍事力をもち、産業を開発して大いに富国強兵をはかり、ゆくゆくは、現在静岡に移されてその日の暮らしにも困っている旧幕臣を移住させたい、と榎本は考えている。
「土方さん、いかがですか」
と、榎本は 血色のいい顔に微笑をのぼらせて、得意そうであった。榎本は楽天家である。
なるほど、かれが知り抜いている国際法によって外国との条約も結べるだろう、経済的にも立ちゆくだろうし、軍事的にもまずまず将来は本土と対等の力をもつにいたるかもしれない。
「三年」
 榎本は指を三本つき出した。
「三年、京都朝廷がそっとしておいてくれさえすれればわれわれは十分な準備ができる」
「しかし」
と歳三は首をひねった。
「その三年という準備の日数を官軍が藉(か)さなければどうなるのです」
「いや日数をかせぐのに、外交というものがある。うまく朝廷を吊っておきますよ。われわれは別に逆意があってどうこういうのではないのだ。もとの徳川領に、独立国をつくるだけのことだから、諸外国も応援してくれて、官軍には横暴をさせませんよ。私がそのように持ってゆく」
 艦隊が北海道噴火湾のすべりこんだのは戊辰一〇月二〇日。鷲ノ木という漁村。函館占領は一一月一日。明治二年五月一一日。五稜郭総攻撃。六日後に陥落した。箱館政府はたった半年の命だった。(1997年11月10日)


 榎本武揚が託した新国家の夢
 榎本武揚は一八六八年(明治元年)一二月、箱館の五稜郭に新政府を作った。榎本は、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城が気に入らなかった幕臣を幕府の軍艦に乗せて、函館に乗り込み、五稜郭を占拠して徹底交戦に備えた。

 清朝の中国平定に反発、台湾の台南に渡って清と最後まで戦った明の遺臣、鄭成功に似ていないこともない。が、いかんせん、戦力は弱すぎた。たった二〇〇〇人で薩長土肥に抵抗しようとした。それでも翌明治二年五月、明治新政府の総攻撃を受けて降伏するまで約六カ月立てこもった。明治政府の総大将は、薩摩の黒田清隆である。明治二二年の大日本国憲法が発布された時の内閣総理大臣である。

 五稜郭は幕府が北の守りを固めるために作った最初で最後の西洋式城郭である。完成は一八六四年、オランダに築城の技術を学んだ伊予大洲藩士、武田斐三郎(あやさぶろう)が設計、指揮をとった。大阪の緒方洪庵の適塾に学び、江戸では佐久間象山の門下である。
 話が余談にそれたようだ。どうでもいいことでもあるが、背景は知っていなければならない。問題は、榎本の五稜郭占拠の意図である。本当は、明治政府との徹底交戦だけが、目的ではなかったという説が強い。後に北海道開拓やメキシコ移民に力を入れるように、当時の榎本にとって旧幕臣の生活の場をつくり出す必要があった。

 五稜郭に立てこもるうちに北海道を開拓して彼らの生きる場にしようという考えが生まれても不思議ではない。しかも徳川家を再びまつり立てるのではなく、アメリカ合衆国にならって共和制の国家を樹立させようとしていたふしもないわけではない。
 しかし、あくまでも推測にしかすぎない。日本から離脱して新しい国の枠組みをつくろうという事例をなんとか歴史の中から導き出そうとする作業のなかで、ふと、五稜郭占拠のことを思い浮かべた。

 アメリカ大陸で相次ぐ国家建設
 国家をつくろうなどという発想は、だれでもが思いつくものではない。政治が乱れ、経済が混乱に陥ったときは、だれでもが政府を作り替える必要性を説く。しかし、それはあくまでも同じ国家の枠組みの組み換えでしかない。
 榎本が天才だったとは思わない。オランダ留学で学んだ経験が彼にそう考えさせたのだ。時はまさに欧米列強が帝国主義に入る直前だった。アメリカはその一〇〇年前に、英国から独立した。南米に渡ったスペインやポルトガルの子孫たちは中南米に相次いで独立国家を建設した。

 現地人はいたのだが、ヨーロッパの移民たちは自分たちに都合のいい国家像を植民地という新世界に見いだした。一九世紀の南北のアメリカ大陸で進行していたのは、広大な空間に理想国家を形成する動きでもあったはず。
 特にアメリカは、ドボルザークが「新世界」で表現したようにヨーロッパで適えられなかった夢を実現する場でもあった。われわれは、移民と難民とはまったく違うことを知っておく必要があろう。ともに生まれ育った祖国を後にする点では同じだが、移民の場合は、目指すべき新天地が明確で、はっきりした意思がある。

 榎本は、そんなヨーロッパの新しい息吹をオランダ留学で感じ取っていたはずである。榎本の眼に映った北海道はまさに新生、日本にとっての「新世界」だったのではなかろうか。

 選挙で選ばれた箱館共和国
 榎本武揚が立てこもった五稜郭での攻防は多くのエピソードを残しているが、なかでも注目したいのは、総裁や閣僚を「入れ札」、つまり選挙で選んだことである。経緯は知らない。とにかく、世襲以外で自分たちの代表を選んぶ行為は、明治政府でも憲法発布まで二二年の長い年月を待たなければならない。

 だが、箱館では、明治元年に自分たちの代表を選挙で選ぶ集団があったことは注目に値することであろう。総裁選挙の結果は、榎本が一一五票でトップ、次点は松平太郎で一四票しか入らなかった。その時「新共和国」が誕生した。

 以下はその新政府閣僚である。(かっこ内は徳川幕府での最終肩書)
 総 裁  榎本武揚(軍艦奉行)
 副総裁  松平太郎(陸軍奉行並)
 海軍奉行 荒井郁之助(海軍奉行、順動丸艦長)
 陸軍奉行 大鳥圭介(歩兵頭)
 同 並  土方歳三(新撰組)
 会計奉行 榎本対馬
 同     川村録四郎
 開拓奉行 沢太郎左衛門(開陽丸艦長)
 函館奉行 永井尚志(若年寄)
 同 並   中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎次郎  
 松前奉行 人見勝太郎
 海陸軍裁判役頭取  竹中重固  
 軍船頭   甲賀源吾

 永井尚志は幕府時代は将軍のそばに仕える若年寄り。榎本が長崎海軍伝習所に学んだ時代の総監督、つまりかつての校長である。しかも閣僚のほとんどは榎本より年上だった。(1997年9月21日)

 ホテルシップは陸上か海上か?
 10月に友人の結婚式で長崎に行った。披露宴はホテルシップ・ヴィクトリアだった。会場が海上だったなんてしゃれにもならないが、船のホテルというのに初めて泊まった。廃棄された青函連絡船を改造したなかなかすてきなホテルだったが、寝る前にここは陸上なのか海上なのか考えてなかなか寝付けなかった。翌朝、ホテルの人に聞いた。

 「このホテルに住所がありましたよね。このホテルは陸の建造物になるのですか、それとも最初は船だったのだから今でも船としての法律が適用されるのですか」
 「難しい質問ですね。一応、この船はホテルとして陸の一部になったのですが、横浜の氷川丸のようにコンクリートで固めてあるわけではなく、係留中なので船でもあるのです」

 その後調べたわけではないが、サンフランシスコの友人がヨットで生活しているのを思い出した。水道も電気も完備していたし、郵便も届いていた。嵐の夜の揺れさえ我慢すれば取り立てて不便もない生活を送っていた。

 アメリカでは老後をキャンピングカーで過ごす人たちが多くいるし、好きこのんでヨットを住居とする人たちも少なくない。東京でも1960年代まで水上生活者がたくさんいたし、つい最近まで香港のアバディーンにはジャンク船を住み家にする民が密集していた。

 だが、日本や香港の水上生活者にはどうしても貧しいというイメージがぬぐい去れなかった。実際、貧しかった。香港では公営住宅を建設して彼らを陸上に住まわすよう努力したため、現在のアバディーンのジャンク船は単なる観光資源としての風景でしかない。

 1990年代、ベトナムのホーチミンの河口に登場したのはまさに船のホテルだった。当時のベトナムには外国人用ホテルなどなく、オーストラリアの投資家 が殺到する日欧米のビジネスマン向けに「配船」した。ドイモイが失敗したらすぐに撤退できるのも「投資」のメリットだった。

 16世紀に栄えた琉球王朝は陸ではなく、東シナ海を生活の場とし、中国、日本、朝鮮、ルソン、安南をまたにかけて富を築いた。われわれは陸上で住み、経済を営むことを固定観念にしすぎているのではないか。長崎でそんなことを考え出していた。

 公海上の仮想オフショア株式取引所
 長崎のホテルシップでどうしても気になったのは、日本という規制だらけの社会はひょっとしたら陸上だけの束縛かもしれない。海上に出れば、規制から逃れられるかもしれないという思いつきである。

 【日刊「SOHO'S REPORT」】というメールマガジンの最新号にすごい思いつきが掲載されていたので内容を紹介したい。筆者はカナダ・バンクーバーに住む杉浦雄一郎さん。「ヨットのクリスマスデコレーション」というタイトルだ。

    近所にヨットハーバーがある。クリスマスシーズンになると、そこに停泊しているヨットに色とりどりの電球で飾られ、林立するマストがクリスマスツリーの森のようになる。
     
    --------------(中略)---------------

  実はバンクーバーにはヨットで生活している人は少なくない。友人におんぼろの小型ヨットで生活している学生もいるし、日本から大型ヨットのクルーとして 太平洋を超えてカナダにやってきて、そのまましばらくそこに住み着いていた日本人女性も知っている。前に勤めていた会社の社長も家族さえ許せばヨットで生 活をしたいと口癖のように言っていた。

   バンクーバーのヨットハーバーの停泊料は東京都内の駐車場代以下。ヨット自体も小さいものであれば自動車と同じくらいの価格だ。セーリングするのに船舶 免許もいらないのでヨット人口はとても多い。ヨット好きが高じて、ヨットに住み着きたいという人が出てくるのも不思議ではない。

   8年程前、知り合いがきちんと製本された分厚いビジネスプランを見せてくれた。パラボラアンテナを積んだ大型ヨットで国家の規制を受けない公海上にでか け、衛星通信によるオフショアの仮想株式取引所を開きたいという彼の夢がそこにつまっていた。その後それが実現したという話は聞かないが、なんともわくわ くするような話だ。

   サイバースペースは今が大航海時代。新しい可能性、理想のライフスタイルを求める冒険者が仮想世界の海へ次々と出航していく。読者の皆さんの中にも99年は出航の時と考えている方も多いのではないのだろうか。

 究極のボーダーレス経済
 この公海上の仮想株式取引所という発想はなんともすごい。「沈黙の艦隊」というマンガで核保有の潜水艦が仮想国家として登場し、先進国に対して宣戦布告 をする物語を展開して話題を呼んだ。この潜水艦は単に軍事組織として存在をアピールしたが、同じころ経済を主体とした仮想国家の発想がカナダにあったので ある。

 8年前、香港企業がアジアで第一号の衛星テレビ放送を立ち上げたころ、アメリカの実業家が南太平洋のトンガ王国の王女様に対して台湾向けサービスを主体 とした衛星を打ち上げる構想を持ちかけていた。通信衛星は赤道の上に国連が決めた軌道があり、加盟国それぞれが軌道の「枠」を持っていた。国連から「除 名」された台湾はその「枠」がなく、技術があっても衛星を打ち上げる権利がなかったのだ。

 当時、ロシアが国際価格の半分以下で衛星打ち上げ事業を立ち上げていた。構想ではこの衛星はトンガ国籍、運営会社はアメリカ人、衛星はロシア製、使うのは台湾人だった。このマルチ国籍の衛星事業を「究極のボーダーレス事業」と題して記事にしたことがある。

 衛星は国連の取り決めで国籍があるが、実は公海上を航行する船舶にも国籍があり、「無法」は許されないことになっている。しかし、株式取引所のない小さな国と提携すれば、公海上の自由国家の誕生も夢ではない。

 今日は1年を回顧するつもりでいたが、過去を振り返っても仕方がない。新聞、テレビがうんざりするほど回顧してくれているので、萬晩報は1999年の初夢を今年最後のコラムとしたい。

 杉浦さんのホームページはhttp://www.sohovillage.com/
 メールは yuichiro@activewave.com 
 日本にいると国家が分裂したり、くっついたりすることはいかにも理不尽なことのように聞こえるが、世界史はまさに民族の融合と離反の歴史だったはずだ。
 一番最近の例では旧ユーゴスラビアからのセルビアはクロアチアの離脱がある。残されたボスニア・ヘルツェゴビナではセルビア人と回教徒が血で血を争う悲惨な戦いを繰り広げているが、クロアチアは統一ドイツがまっさきに承認、セルビアとともに独立国としての既成事実作りが進んだ。

  バングラデシュ、シンガポールは分離独立国家
  インドは1947年、イギリスが統治を放棄するにあたり、パキスタンとセイロン(現スリランカ)に三分割され、1971年にはパキスタンから東部のバングラデシュが独立して結局、四つの"インド"に分かれることになった。インドとパキスタンの間に存在するカシミールの帰属はいまだに解決していない。スリランカでは支配民族のシンハリにタミール系が反発して武力闘争を展開している。

 分離独立の成功例としては、マラヤ連邦(当時)からのシンガポール離脱がある。1963年にイギリスから独立したマラヤ連邦は、マレー人と中国系、そしてインド系住民の統合を図ったが、人民行動党を率いるリークワンユーが1965年、中国系住民の比率が高かったシンガポールの独立を宣言した。以後、両国は別々の通貨を持ちながら独自の開発を進めた。シンガポールは人民行動党という一党による開発独裁政策を押し進めて、いまや頭脳労働を重視した東南アジアの金融や研究開発拠点としての地位を不動のものにした。マレーシアは、外資導入など自由化がやや遅れたものの、東アジアの経済発展の波に乗り中進国としての立場を固めつつある。

 インドネシアは、1975年に一度独立宣言した東部のチモールを翌年併合したが、東チモールは結局、2002年、国連の監視の元に独立を達成した台湾は中国共産党に大陸を追われ、政治的な理由から独立は宣言していないものの、以来四八年間にわたり「中華民国」という実質的な「政治実体」としてその存在を世界に主張し続けている。

  三つの中国・台湾・香港
 香港は1997年7月に中国に返還されたが、返還後も50年間は現在の自由主義済が続けられることになっている。中国、台湾、香港はそれぞれ政治、経済のシステムはまったく違うものの、「三つの中国」と並び称される場合は、「市場主義型社会主義」「開発独裁」「レッセ・フェール」の三つの体制が特徴を生かしながら平和裏に併存する姿を好意的に表現したもの。決してマイナスイメージを抱いているわけではない。もちろん中国共産党も台湾の国民党も中国統一を標榜しているが、通貨価値の高い台湾ドルや香港ドルからの投資は中国にとってありがたいし、台湾や香港の資本家からみれば、中国大陸は安い労働力を活用できる魅力的を投資地域なのだ。

 台湾に香港と同様、一国二制度の導入を提案している中国に対して、台湾当局は台湾の政治実体としての存在を認めない限り「統合」はないとしている。政治的に厳しい対立関係にありながら経済的にはこの一〇数年、極めて良好な関係を維持しているといって間違いでない。

 台湾の国際的地位は、国連への再加盟こそ狭い門となっているが、すでにAPECの主要メンバーであることに間違いはなく、李登輝総統による「休日外交」を通じた東南アジア諸国との関係は良好である。経済のボーダーレス化が進むなかで東アジアにゆるやかな中華連邦が生まれる日はそう遠くない。鄧小平亡き後の中国としてはもはや時を急ぐ要因はなくなり、当面、この良好な経済関係や欧米との外交関係を損なってまで台湾を武力開放する意思はなさそうだ。

 25年前までアメリカだった沖縄
 日本自身の歴史を振り返っても明治維新このかた百数十年、国境は大きく変動した。幕末の日本の領土は、樺太(サハリン)や千島列島、沖縄の位置づけすら危うかった。幕末の一八五四年に締結した日露和親条約ではエトロフ島以南の千島列島が日本領土となり、樺太は日露雑居の地とされた。しかし、樺太の帰属をはっきりさせるため1875年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を改めて結んで、日本は樺太を放棄した。しかし、30年後、日露戦争後のポーツマス講和条約では樺太の南半分を奪回した。南樺太は明治以降、「雑居の地」の地位を経て約40年間、日本領として過ごし、その後、現在まで50年ロシア領だったことになる。

  沖縄は清国が宗主権を主張していたが、1871年の日清修好条規によって日本領土に確定した。

 翌72年、琉球の尚泰王は琉球藩主になり、琉球藩は七年後に消滅して沖縄県として日本の版図に組み入れられた。約400年、東シナ海に雄飛した琉球王朝は消滅し、第二次大戦の敗戦の1945年まで66年間、日本だった。

  明治維新の一時期1868ン年に、幕臣、榎本武揚は海軍副総裁として函館の五稜郭に立てこもって北海道独立を画策したこともあった。徳川幕府は北海道に松前藩を置いたが、松前藩が全土を制圧していたわけではない。塞外の地としての認識しかなかった北海道はそれこそアイヌとの「雑居」の地だった。明治以降、各地からやってきた開拓団の手によって開発され、事実上、日本領に組み入れられていった経緯を忘れてはならない。

 まことしやかに語られた極東共和国
 ソ連が崩壊、中央アジア諸国などが分離独立した時、東シベリアではロシア革命直後に一時的に存在した「極東共和国」にならってロシアからの独立がまことしやかに語られた。沿海州からイルークーツクにいたるまでの広大な地域が、「独立して日本に宣戦布告し、ただちに日本に降伏する」というシナリオだった。経済が破綻したロシアの下ではロシア極東の将来はないと判断した指導者たちが「日本円の経済圏」の組み入れられる最短の道としてそのシナリオがあったという。仮にそうなっていれば、北方領土問題は「新しい主権国家」との外交交渉で一気に片づいていたはずである。

  敗戦後の日本にしても、1968年の小笠原や、1972年の沖縄返還を振り返れば、20年前まで日本のなかに米国的システムが厳然として存在していたのことが思い起こされるだろう。米国施政下の沖縄では教育こそ日本語で行われていたが、車両は左側通行だったし、税制も米国と同じだった。そこには「平和憲法」も食糧管理法もなかった。泡盛はタイ米で作られ(復帰後も特例で輸入が認められている)、人々はカリフォルニア米を食べていた。バカ高いビール税もなかったから、ビールはBudweiserでたばこはPeterStyvasonの方がうまくて安かった。

 離脱の難しさ
 一方で国家からの分離を主張して、長年闘っている勢力もある。カナダのケベック州はフランス系住民が多いことから、州政府を構成するケベック党はカナダからの独立を要求している。人類そのものが民族の分離と統合の歴史だったといえるし、古代は勇猛果敢な部族による地域平定、王朝時代のヨーロッパでは王族の婚姻や戦争による国境の変更があり、近代では帝国主義国家による植民地経営があった。国家が分離したり統合したりしてきた経緯は主に民族や宗族、そして宗教の違いによることが多かった。お互いに武力の優位性を誇示した時代である。しかし二〇世紀に入るとこれに共産主義と自由主義といった主義主張によるものが加わる。ここでは、核兵器の登場によって現実の戦争の危険性より軍事力の優位をめぐって軍拡競争が繰り返された。しかし、ソビエト連邦の崩壊により国家の枠組みを規定してきた条件が大きく変化した。  

 僅差で独立を逃したカナダ・ケベック州

  三つの中国・台湾・香港
 香港は1997年7月に中国に返還されたが、返還後も50年間は現在の自由主義済が続けられることに なっている。中国、台湾、香港はそれぞれ政治、経済のシステムはまったく違うものの、「三つの中国」と並び称される場合は、「市場主義型社会主義」「開発 独裁」「レッセ・フェール」の三つの体制が特徴を生かしながら平和裏に併存する姿を好意的に表現したもの。決してマイナスイメージを抱いているわけではな い。もちろん中国共産党も台湾の国民党も中国統一を標榜しているが、通貨価値の高い台湾ドルや香港ドルからの投資は中国にとってありがたいし、台湾や香港 の資本家からみれば、中国大陸は安い労働力を活用できる魅力的を投資地域なのだ。

 台湾に香港と同様、一国二制度の導入を提案している中国に対して、台湾当局は台湾の政治実体としての存在を認めない限り「統合」はないとしている。政治的に厳しい対立関係にありながら経済的にはこの一〇数年、極めて良好な関係を維持しているといって間違いでない。

  台湾の国際的地位は、国連への再加盟こそ狭い門となっているが、すでにAPECの主要メンバーであることに間違いはなく、李登輝総統による「休日外交」を 通じた東南アジア諸国との関係は良好である。経済のボーダーレス化が進むなかで東アジアにゆるやかな中華連邦が生まれる日はそう遠くない。鄧小平亡き後の 中国としてはもはや時を急ぐ要因はなくなり、当面、この良好な経済関係や欧米との外交関係を損なってまで台湾を武力開放する意思はなさそうだ。
 まことしやかに語られた極東共和国
 ソ連が崩壊、中央アジア諸国などが分離独立した時、東シベリアではロシア革命直後に一時的 に存在した「極東共和国」にならってロシアからの独立がまことしやかに語られた。沿海州からイルークーツクにいたるまでの広大な地域が、「独立して日本に 宣戦布告し、ただちに日本に降伏する」というシナリオだった。経済が破綻したロシアの下ではロシア極東の将来はないと判断した指導者たちが「日本円の経済 圏」の組み入れられる最短の道としてそのシナリオがあったという。仮にそうなっていれば、北方領土問題は「新しい主権国家」との外交交渉で一気に片づいて いたはずである。

  敗戦後の日本にしても、1968年の小笠原や、1972年の沖縄返還を振り返れば、20年前まで日本のなかに米国的システムが厳然として存在していたのこ とが思い起こされるだろう。米国施政下の沖縄では教育こそ日本語で行われていたが、車両は左側通行だったし、税制も米国と同じだった。そこには「平和憲 法」も食糧管理法もなかった。泡盛はタイ米で作られ(復帰後も特例で輸入が認められている)、人々はカリフォルニア米を食べていた。バカ高いビール税もな かったから、ビールはBudweiserでたばこはPeterStyvasonの方がうまくて安かった。

 北海道に託す「新五族共和」の夢

 日朝中英の四カ国語を駆使する趙利済氏の夢
 一九九二年四月末から五月初旬にかけてピョンヤンで北東アジア開発会議(豆満江開発会議)が開催され、一三〇人の参加者とともに列車で豆満江のロシア国境まで旅した。豆満江にかかる鉄橋の上立ち、感極まったハワイ大学東西センター副理事長の趙利済氏が演説した。

「いまわれわれの立っている豆満江は、数年前までここは軍事境界線だった。しかし今、東西冷戦の長いトンネルを抜け、この地で民族を超えた経済開発がはじまろうとしている。そんな歴史的地点にいまわれわれはいる。そしてわれわれは日本海を対立の海から開発の海にしなければならない」

 忘れもしない。英語でしゃべり、一人で日本語、朝鮮語。中国語に翻訳した。四月とはいえまだ寒風吹きすさぶ川面にミスター趙の声が響き、終わると大きな歓声がわき起こった。その場にはロシア、アメリカ人、ドイツ人もいた。歓声は参加者それぞれの感慨を意味していた。筆者はどういうわけか「五族共和」という死語を思い出していた。趙氏は京都市生まれの元在日韓国人、アメリカ国籍を取った。中国での研究生活も長かった。まさに豆満江開発の申し子のような人だった。

 一九九〇年代に入って、豆満江開発が急浮上した時期があった。日本、韓国、北朝鮮、中国吉林省、極東ロシア。それにハワイ大学のシンクタンクが加わり、ロシアと中国、北朝鮮の三カ国の国境地帯に流れる豆満江流域に多国籍による経済開発区を創設しようとする構想だった。新潟の民間組織である日本海圏経済研究所の故藤間丈夫代表とハワイ大の趙利済氏が旗振り役となって各国に参加を呼びかけ、国連開発計画(UNDP)も強力な支援体制を組んだ。三〇〇億ドルの巨大プロジェクトがスタートしようとした

 北朝鮮はその前年、先鋒と羅津を含む東北部を自由貿易経済特区に指定し、孤立主義から外資導入へと大きな政策転換を始めていた。豆満江会議で一番はしゃいでいたのは韓国からの民間人だった。豆満江への投資は単なるビジネスを超えて南北統一の悲願への大きな前進になるはずだった。しかし、まもなく北朝鮮による核兵器開発疑惑問題が持ち上がり、豆満江開発計画は急速にトーンダウンした。

 特定国の利権が存在しない「新五族共和構想」
 筆者が興奮したのは、ひょっとしたら「五族共和」がこの地で実現するかもしれないという期待からだった。日本と韓国の技術と資金、北朝鮮と中国の労働力で北朝鮮、中国、ロシアにまたがるあらゆる資源を開発するという構想にはかつてないロマンがあった。もちろん日米韓の巨大資本の姿も見え隠れしていた。

 この「新五族共和構想」にはかつての満州国のように特定国の利権は存在しない。それぞれに夢があった。北朝鮮と極東ロシアにとっては経済開発と外資導入が目的だった。中国吉林省は日本海へのアクセス確保が至上命題、韓国は南北統一、日本海岸の日本の自治体には新たなフロンティアに映った。この地に「新五族共和」による繁栄がうち立てられれば、歴史上稀に見る多民族互恵開発が進められる可能性があった。

 興奮気味で帰国した筆者は上下二回の企画記事を書き「新五族共和構想」というタイトルをつけた。しかし豆満江開発同様、このタイトルはお蔵入りとなった。当時の経済部デスクは、満州国を連想させる「五族共和」の四文字は前向きの開発計画には似つかわしくないという判断をした。南北朝鮮、日本、中国、ロシアの五カ国でいいネーミングだったといまでも考えている。

 実は筆者らによる北海道独立論の素地としてこの豆満江開発があり、「新五族共和」はこれからの極東アジアの在り方を考えるうえで欠かせない重要な理念のひとつだと考えている。独立北海道のフロンティアは環日本海とオホーツク海であることはまぎれもない。

 豆満江開発は、「北東アジア開発会議」として趙利済氏を中心に地道な意見交換が続いている。独立北海道は外国人にも住みやすい国家を目指すことは以前レポートした。当然ながら南北朝鮮、中国、ロシアが優先される。地域国家として北海道はこの海域での交流がもっともっと必要で、理解をますます深めなければならない。(1998年3月8日)