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イギリスで考えさせられた「運動会」

1998年10月04日(日)
  松野 周治


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 1996年6月のある日、娘2人が通っている小学校で「運動会」があるというので、夫婦で見に行った。1年間のイギリス滞在の中で、学校教育の違いをさまざまな面で感じさせられたが、「運動会」(スポーツ・デイ)もその一つだった。

 ●プログラムはなく、「天国と地獄」もかからない
 プログラムは事前に配られない。競技種目を手書きした紙が、観客席のパイプ椅子の上に置かれてあったのだろうが、風で飛んで地面に落ちている。少し汚れているがそれを見ると、競技は短距離走と縄跳び走の2種目で、それぞれ個人とリレーの部、予選と決勝があるらしい。団体演技は無い。

 一面緑の広いフィールドは普段とほとんど変わっていない。本部テントや入場門、生徒と観客を分けるロープは見あたらない。いつもと違うのは、観客用の椅子が並べられていること、少し波うってはいるもののまっすぐの白線が芝生の上に引かれていること、ラインの向こう側(生徒と観客の反対側)に一つの机と椅子が置かれてあり、そのそばに自動車が1台置かれてあることくらいである。

 椅子には一人の先生がマイクを持って座っており、マイクのコードは小さな自動車につながっていて、小さなスピーカーが我々の方に向けられていた。

 椅子の先生が、種目の名前と、これから走る子供の名前を一人一人紹介すると、「運動会」は始まった。入場行進、来賓挨拶等は全くない。「天国と地獄」等のレコードもかからない。

 ●リレーも含めて競技へのエントリーは自由
 校長先生は、生徒と一緒に応援している。少し発音しにくそうだったが、我が家の上の娘も名前を呼んでもらって走った。上位者は、「ファイナリスト」のワッペンがもらえる。彼女は個人、リレーの両方に出て、たくさんつけてもらったが、おかげで短時間で何回も走ることになった。そのワッペンは彼女のアルバムに大切に貼られている。

 後から本人に聞いたが、リレーも含めて競技へのエントリーは自由で、生徒の希望によって決まったそうである。イギリスで「運動会」は強制でなく、競技に参加しない自由があった。そして、参加すれば決勝まで行い、個人の成績ははっきりさせる。

 全ての競技が終わっても閉会式はなく帰ろうとすると、「スポーツ・デイ」はまだ続いている。今度はフィールドのあちこちに子供たちが分かれて、わいわい言いながらさまざまな「運動」をしている。ウサギ跳び、幅跳びなどは我々にもおなじみだが、ジャガイモを入れる麻袋に両足をつっこんでのジャンプレース、同じくジャガイモのスプーンレースなど、お国柄が出ているのものある。

 しかし、単なる遊びではなく、子供たちはめいめいカードを持っていて、それぞれの種目について自分の記録を書き込まなければならない。ただし、全部の「運動」ではなく、自分がやりたいものを最低3つ以上、とのことである。計測係は先生だけで足りず、父母のボランティアも加わるが、子供同士でもやっていた。

 ●とにかくリラックスしている
 気がつくと、フィールドの端に机が出ていて、子供たちがジュースをもらっている。のどが渇くと飲みにいけることになっていたらしいが、別に時間は決められていないようだ。一人1回のはずなのに、何回も飲ませてもらった男の子がいたらしい。そういえば、前半の競争の時にも、観客席のおじいさんが孫を呼びとめ、「エネルギー補給や」と言って、何回もチョコレートをあげていた。

 子供たちは、走るときは必死だが、とにかくリラックスしている。生徒席と言っても椅子はなく、疲れてくると芝生に寝そべり、顔だけ上げて応援している子供たちが増えてくる。先生が注意するのは、前に出すぎて競技の邪魔や危険になる場合だけである。ロンドンから1時間かけて義姉が、姪たちの様子をビデオカメラに収めに来てくれていたが、友達その他が集まってきて、カメラを覗く。中にはカメラを使わせてもらった子供もいたらしく、ビデオの一部は芝生や雲の画像になってしまった。

「運動会」は全校一斉ではなく、高学年が午前中、低学年が午後であった。それぞれ半日は普通の授業が行われていたが、休憩時間にはフィールドに出てきて見物していた。全校生徒が約300人という規模も関係しているが、「運動会」の時間は高学年で約2時間半、低学年で2時間弱であった。

 ●簡素化が必要な日本の学校行事
 9月中旬に帰国すると、子供たちにはすぐに日本の運動会が待っていた。残暑の中、連日の練習、とりわけ団体競技は短期間でみんなに追いつかなければならない。入場行進、準備体操を含め、どうして日本の学校では、軍隊まがいの団体行動訓練、音楽や笛に合わせた一斉行動の練習をいまだに重視しているのだろうか。

 その一方で、子供たち一人一人の存在や意志は重視されていない。個人競技であっても、我が子がどのレースに参加しているのか、近くに走ってきて胸のゼッケンを見るまではわからない。挙げ句の果てには、一つのレースが半分すむかすまない内に次のレースのピストルがなり、トラックの上で何組も走らされている。回転寿司と同じにされてはたまらない。もちろん、競技や演技に「参加しない自由」はない。

 もうそろそろ「運動会」のあり方を見直されなければならない。戦時経済、高度成長期の団体行動万能主義の時代はすでに終わっている。一クラスの人数の削減や、フレキシブルな教員組織の導入も視野に入れた先生の数の増大とともに、学校行事を思いきって簡素化し、先生も子供も不必要なストレスを減らし、本来の社会目的である学習にもっとゆとりを持つてあたるべきではないのか。(Matsuno Shuji)


 筆者が30年前、通っていた南アフリカの英国教系のミッションスクールの運動会も同じでした。静かで簡素でも、母親たちの差し入れのケーキやクッキーはおいしかったように覚えてます。(伴 武澄)

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