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新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース

1998年08月26日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 スバス・チャンドラ・ボースの話を続けて紹介した。実は日本にはもうひとりの革命家ボースがやってきていた。大正時代のことである。ラース・ベハリ・ボースといい、中村屋のボースとしても知られていた。夏のお話として中村屋を語りたい。

08月14日「杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨」、08月15日「スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還

 文化が花開く時代背景にできた新しいパン屋

 中華饅頭で有名な中村屋本店は新宿駅に近い新宿通りに面している。高野フルーツパーラーの隣りで、そのむかしは辺りを新宿角筈と呼んだ。信州安曇野出身の相馬愛蔵が経営するパン屋「中村屋」が文京区から引っ越してきたのは1907年ごろだった。時代は日露戦争直後である。

 論壇は主戦論と不戦論に分かれ、国家の在り方をめぐり激しく論争を繰り返していた。黒岩涙香が主宰する「万朝報」(よろずちょうほう)が主戦論に転じ、不戦論を戦わせた幸徳秋水らは袂を分かち、1903年に平民新聞を発刊した。その社会主義者たちの多くが大逆事件で死刑になったのが1910年。文芸界では島崎藤村が「破戒」を書き、社会問題を鋭くつく自然主義が主流を占め、夏目漱石や森鴎外といった理知的な作風ももう片方の流れを形成した。

 演劇界では新派がようやく登場し、美術界でも西洋画に日本画の技法を取り入れた横山大観が脚光を浴び、パリ帰りの高村光太郎や荻原守衛がヨーロッパの作風を紹介した。大正デモクラシーはもうちょっと後の時代である。文化が花開くそんな時代を背景に当時、まだ貨物駅しかなかった新宿に新しいパン屋が開店した。中村屋が当時の日本社会を映す「サロン」だったことは意外と知られていない。

 「中村屋」の由来は、相馬愛蔵が妻の病気療養のために上京、新たな生活のために文京区に買ったパン屋の屋号だった。1901年12月。愛蔵が32歳のときである。あんパンは銀座・木村屋がつくったが、中村屋はあんの代わりにシュークリームのクリームをパンに入れた。そのクリームパンも瞬く間に評判となった。

 しかし世間の新宿・中村屋への理解はクリームパン止まりである。中村屋の名物はこのほかにも月餅とカレーがある。月餅は中国の革命家・孫文と相馬家との交友から生まれ、カレーライスはインドの亡命革命家ラース・ベハリ・ボースをかくまったところに起源がある。

 芸術家と文芸家と革命家のサロン

 相馬愛蔵の妻である良は、仙台藩の家老の娘で、明治女学院や横浜フェリスで学んだハイカラ娘だった。そのころの明治女学院では、北村透谷や島崎藤村が教壇に立っていた。安曇野の村にオルガンを初めてもってきた。愛蔵もまた、東京専門学校(早稲田大学の前身)に学び、札幌農学校で近代的養蚕業を身につけて故郷に帰った。だが新しい明治の息吹の中で育った良が信州安曇野の養蚕家の生活に満足できるはずはなかった。愛蔵が東京に出てきたのは妻の影響なのである。

 安曇野での生活で良が見出したのは彫刻家としての荻原守衛の才能である。中村屋が新宿に店を移してからの相馬家は千客万来だった。内外を問わず芸術家と文芸家と革命家のサロンのような場所だった。面白いのは思想的に右翼から左翼まで様々な人が出入りしたことである。だれもが良を慕って中村屋に集った。というより中村屋のパンのお得意先で、良の呼び名は「おかみさん」「おかあさん」「マダム・パン」「マーモチカ」などいろいろあった。来る人のそれぞれの思い入れがあった。

 中村彝、中原悌二郎、国木田独歩は大久保に住み、角筈には幸徳秋水、堺枯川が、淀橋には福田英子ら社会主義者がいた。パリから帰国した荻原守衛もまた角筈にアトリエをつくって中村屋に入り浸り、相馬愛蔵と故郷を同じくした小説家の木下尚光もまた中村屋をめぐる物語に欠かせない役者の一人だ。

 中村屋の夕食はいつも子供たちと使用人が一緒というのが愛蔵の主義だった。そして客人がいつも団らんを潤した。食卓を囲んでの団らんは新聞記事の政治の話題から文芸まで幅広かった。百家争鳴とはこのことで、誰かが話題を投げかけ、主に良が合いの手を打って議論を深めた。

 インドの革命家をイギリスから守ったおかあさん

 そんな中村屋にラース・ベハリ・ボースがやってきたのは1914年のことだった。ベンガル生まれのボースはカルカッタの英国系の大学を中退して、インド解放運動にのめり込んだ。1915年に計画していたラホール蜂起の首謀者として指名手配され、インド初のノーベル賞詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚と偽って日本に潜入した。

 やがてボースの日本滞在は同盟国である英国の知るところとなった。英国の抗議を受けた外務省はボースを国外退去にした。しかし、日本を去るはずだった1914年12月1日、ボースはあいさつを理由に訪れた頭山満宅から姿を消した。孫文の片腕として中国革命に奔走していた宮崎滔天や日露戦争後の三国干渉に憤慨して黒竜会(右翼団体のひとつ)を結成した内田良平などの協力でボースの身柄は密かに中村屋に移されていたのだった。

 当時のマスコミはこぞって日本政府によるボースの国外退去処分を大きく報道し、政府の弱腰を糾弾した。相馬愛蔵もボースに同情した一人だった。たまたまパンを買いに来て慣れ染みとなっていた内田良平の友人に「ボースをかくまってもいい」と語ったのがきっかけとなり、インドの革命家のための隠れ家として新宿のパン屋に白羽の矢が当たった。

 良は親身になってインドからの「黒いお客さん」を世話し、明治女学院でならった英語が初めて役に立ったらしい。まだ28歳のボースは良を「おかあさん」と呼んだ。良にとってもボースの逗留は新鮮な発見の連続だった。

 ボースが語るには「インドが勇気づけられたのは日露戦争での日本の勝利だった」。生まれてこのかたこれほど大きな感激はなかったと打ち明けた。だが一方で「日本は朝鮮を植民地にしてわれわれをがっかりさせました。ヨーロッパ人と同じことを日本人もやりだしたからです」とくやしがった。こんなボースの言葉に良は不意を付かれる思いもした。

 ラース・ベハリ・ボースはやがて中村屋を離れるが、愛蔵と良の娘の俊子と恋に陥り結婚。在日インド人として頭角を現していく。中村屋の話を書きながらこの時代の日本は、アジアとの距離がいまよりずっと近かったことをあらためて感じた。。

 中村屋の物語はここで終わるのではない。ロシア革命が起きると今度はロシアの盲目の詩人エロシェンコが中村屋にやってくるのだ。

 (相馬愛蔵と良が新宿につくったサロンには現代に語り継がれていない明治・大正期の逸話がいくつもある。いつか機会があれば新宿・中村屋の続編を書きたい)

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