think kagawaの最近のブログ記事

imagesribu.jpg 日経新聞1月9日のグローバルオピニオンの欄でフランスの食品大手ダノンのCEO、クランク・リブー氏が企業経営について興味深い話を紹介している。

「海外進出や新しい事業に乗り出すと株式会社から早期に果実を求められる。しかし事業会社は金融界からの圧力で仕事をしているわけではないことを丁寧に説明すべきだ。最貧国の一つ、バングラデシュでグラミン銀行の創設者のムハマド・ユヌス氏と合弁会社を設立して乳製品の販売を始めようとしたとき、ダノンの株主総会でこう話した。「利益はでないでしょう。もし利益がでたら再投資する。仕事が創造され、それが貧困をなくすことになる」。すると99%の株主が賛成してくれた。この事業は一年で軌道に乗った。」

 ダノンの使命は「食品を通じてより多くの人に健康を届ける」ことだという。そして企業が存続するためには「環境対策、貧困解消など今の社会に求められることと合致する強い使命感を持ち続けること」が重要であるという。

 昨今のグローバリズムとかなり違う企業理念を持っていることに驚いた。ダノンの株主も「利益追求」だけが投資目的でないのだ。バングラデシュの合弁事業はヨーグルトを製造し、それを10円足らずで販売している。すでに第二工場が立ち上がっている。ソーシャルビジネスが配当を行わない。社会事業として経営することで社会的価値が高まることに満足してもらおうというのだ。

 ユヌス氏にいわせれば、世界中で貧困のために巨額の寄附が行われている。ソーシャルビジネスは配当はないが、元金は戻る。寄附は一回したらなくなってしまうが、ソーシャルビジネスはその資金を繰り返し投資できるため、「持続可能」なお金になるのだそうだ。

 日本ではユヌス氏に呼びかけでファーストリテイリングがバングラで「100円Tシャツ」をつくるということが一年ほど前に報道されていた。バングラデシュのユヌス氏の下で、新しい「資本主義」の試みが行われている。(伴 武澄)

 ダノンのフランク・リブーCEO 「新興国開拓、独自性尊重を」(日経新聞1月9日)


 

 

13nin.jpg 協同組合といっても普段は生協ぐらいしか頭に浮ばない人が多いと思う。農協も漁協も林業組合も実は非営利の協同組合によって成り立っている。原則の「自助共助」精神」はどこへ行ったか。農協の漁協も国への依存度が高いだけでない。自民党の強力な支持団体だった。逆に生協は左翼勢力の生きる糧と化している。ロッチデール原則は政治の排除だったのではないか。

 そもそも協同組合は行政ができないことから運動をスタートさせた。義務教育がない時代に教育を支えた資金は協同組合の収益だった。公的医療保険がない時代に賀川豊彦は医療協同組合の必要性を強調し自ら中野総合病院を設立した。

 その後、国家が教育や社会福祉を自らの仕事とするようになって、協同組合の影が薄れてしまった。今年2012年は国連協同組合年である。各国で多彩な行事が予定されている。日本でもJA全中が中心になってロゴマークをつくりシンポジウムも計画されている。11月には神戸でアジア大会が開かれることになっている。

 しかし、いま考えるべきはお祭り騒ぎではない。国家と協同組合のあり方に眼を開くべきである。世界的に国家財政が破綻している。その背景には社会福祉など本来、住民の自助共助で賄われるべき分野にまで国家の力が浸透したからにほかならない。国家財政が破綻したからといって、もはや教育や社会福祉が後退することは許されないが、国家によって協同組合精神が失われたのは事実である。

 いま一度、自助共助の精神を復活させ、国家への依存心をあらためなければ、人々の教育や社会福祉が壊れてしまう。そんな危機感を持つ必要があると考える。増税を阻止するにも自助共助の分野を住民の手に取り戻さなくては空念仏に終わる。

 生協2600万人、農協950万人、信金・信組1200万人、労金1000万人、医療生協2700万人。組合員数を眺めるだけで、われわれはどれほど協同組合に依存しているかが分かる。世界には人口が1000万人に満たない国家がどれほどあるか考えれば、これだけの人々が協働すれば、国家にできないことですら実現可能であると考えなくてはならない。自助共助が必要なのは教育や社会福祉だけではない。環境や食の問題も協同組合の仕事である。

 特に3.11以降、関心を呼んでいるのがエネルギー分野である。実はエネルギーの自給は過疎の地である方が有利なのである。まず支えるべき人口が少ない。次いで水と森林というエネルギー源を背後に抱えるのが過疎の山間地なのである。

生協    組合員数2621万人
農協    組合員数 949万人
漁協    組合員数 36万人
森林組合 組合員数 157万人
医療生協 組合員数2710万人
労金    構成員数 999万人(会員数57,886人)
信用金庫  会員数 931万人
信用組合 組合員数276万人
(2010年度、農協は2008年度、漁協は2009年度)

 そんな自助共助の先にあるのが、協同組合の国際的な連帯である。国家の枠組みを超えたところで教育、社会福祉、環境、食、エネルギーを考えていけばどうなるか。わくわくするではないか。世界連邦が先にあるのではない。国境を超えた協働の果てに世界連邦は自然に発生するはずだ。(世界連邦運動協会四国ブロック長・高知支部長 伴 武澄)
index.jpg 中野総合病院の前の賀川豊彦胸像がなくなっていると聞いたのは2週間ほど前のこと。一瞬、耳を疑った。胸像は病院創立35年を記念して昭和42年に建立されたもので、その後の手入れもなかったのか、2009年に訪ねた時にはすでに眼鏡がなくなっていた。

 中野総合病院は日本初の医療組合による病院として発足した。健康保険もない時代に労働者たちの医療事情は現在とは比べることのできないほど厳しいものがあった。病気になっても医者にかかる金がない。その病気を放っておけば病状はますます悪化する。病状が悪化すれば、収入の道が閉ざされる。その悪循環が巷に横行していた。

 そんな時期に労働者の共同出資による病院をつくろうとしたのが賀川豊彦だった。賀川の構想は日本医師会の猛反対で設立が危ぶまれたが、藤沼庄平東京府知事の英断でかろうじて認可された。この医療組合の発想は燎原の火の如く全国に広がった。現在、全国に約200カ所あるJA厚生連や生協経営の多くの病院は1932年の中野総合病院の設立を契機に誕生したといって過言でない。

 そうした意味において、中野総合病院は日本の医療の原点ともいえる存在なのである。その原点の病院がなぜ、創業の父である賀川豊彦の胸像を撤去しなければならないのか。また、それに対して、どうして疑問の声が起きないのか。高知にいながら苛立たしい思いが募る。

 聞くところによると、中野総合病院は賀川なき後、娘の冨美子氏が院長として跡を継いだが、賀川をないがしろにする勢力が病院内を支配し、革命に反対した賀川精神を骨抜きにしたという。今はだれが経営しているのかも知りたくはない。

 少なくとも、賀川の胸像は中野区の公園に存在していた。病院側が薬局をつくるために、土地を買収し、産廃業者にその作業を委ねたという。知人がその産廃業者にたずねると、胸像はすでに溶融されてしまったそうだ。

 買収した土地にあったものを所有者がどのように処理しようと勝手である。しかし、中野総合病院の前の胸像はすでに歴史的意味を持つ存在であったはずである。日本が貧しかった時代に、貧しい人たちのために病院を設立した先達の偉業を象徴する存在なのである。ある意味で、文化財的存在であるともいえなくもない。

 どんな理由があろうとも、そんな胸像を安易に葬り去った中野総合病院はもはや地域医療を担う資格はない。そもそも平時に銅像が撤去された話など聞いたことがない。自らが維持できなくなったら、まず関係する組織に相談すべきである。世田谷の賀川豊彦記念松沢資料館、神戸の賀川記念館ともに銅像はないから喜んで受け入れたはずである。

 いまからでも遅くない。病院は賀川豊彦の胸像を撤去したことに対しに社会に謝罪し、猛省して胸像の再鋳造を求めたい。
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『イエスの宗教とその真理』が再販されていることを知らなかった。ミストル社の河合一充氏が、「後世に残したいキリスト教関連の古典」復刻版シリーズ第一弾として復刻したもので、以下のような解説を書いている。

 「傷つけられたる魂にイエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である」の序で始まる本書は、イエス・キリストの福音を、著者の体験を通して分かりやすく語った名著。

 賀川豊彦の行動と思想の原点である「新約聖書」を分かりやすく伝える、古典的名著(1921年初版)の復刻版です。クリスチャンでなくとも、キリスト教に関心ある人にはベストの入門書と言えます。

 大震災を機に、日本人に宗教への関心と要望が高まっているとき、復興への力と勇気、生きる希望を与えてくれることでしょう。

――賀川豊彦(1888~1960)とは――

 貧しい人々の救済と民衆のための伝道に生涯を捧げたキリスト教伝道者・社会運動家。明治42年(1909年)、神戸のスラム街(貧民窟)に移り住み、貧しい人々のために救済事業に立ち上がる。

 大正年間に、神戸で労働運動、生協の前身・購買組合運動、医療福祉運動等を創始する。広く日本の社会運動の先駆者となる。戦後、日本生活協同組合連合の初代会長。「生協の父」と呼ばれる。

 著述家・詩人としても天才的才能を発揮。彼の自伝的小説『死線を越えて』(1920年)は改造社より出版、戦前の空前のベストセラー。復刻版がPHPより出る。

 評論家・大宅壮一は言う、「賀川は明治・大正・昭和の3代を通じて、日本民族に最も影響を与えた人物ベストスリーに入る。近年日本を代表する人として、自信と誇りをもって世界に推挙したい」。

 事実、20世紀において世界で最も知られた日本人は"カガワ"であった。彼の偉大さは今も記憶から消えない。

 【復刻版】 イエスの宗教とその真理 賀川豊彦

 河合一充 くだん日記
shisenwokoete.JPG 内田樹『日本辺境論』(新潮新書)の中で学んだのは、エンゲルスが『空想から科学』で三人のユートピアン(空想的社会主義者)を描き、その中でロバート・オーエンはその一人としていることである。

 「ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的変革が必要なとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志をもった人々です」「その人たちの身銭を切った実験の後、累々たる思想的死骸の上にはじめて風雲に耐えそうなタフな社会理論が登場してくる」「日本の世界に向けて教化的メッセージを発信した例を私は知りません」

 読んでいて思い出したのは賀川豊彦である。賀川に対してこういう分析を与えればぴったりくる。世界に向けて教化的メッセージを発信した唯一無二の日本人ということができよう。

 賀川の業績の一つはスラムにおける救貧活動である。キリスト教による救霊からはじまり、幼児教育、医療活動に進み、労働運動にまで発展。その後の社会事業のコングロマリットの発想の原点となった十数年をそのスラムで過ごした。「いま、最もキリストに近い人」と言わしめ、キリスト教の世界では誰もが納得した。

 もう一つは彼の社会事業の中核となった協同組合運動の著書『Brotherhood Economics』を1936年にニューヨークのHarper社から出版したこと。協同組合を社会論として構築しただけでなく、それを国家論、世界論にまで高めた。21世紀になっても世界連邦は夢物語としてしかとらえられていない。その世界連邦を協同組合で構築しようという壮大なロマンが1930年代に賀川によって語られていたことは伝えられ続けなければならない。

 そういう意味でスラムでの苦悩を描いた私小説『死線を越えて』(Before the Dawn)は世界的な文学であり、『Brotherhood Economics』は世界的な経済書になるのだと考えたい。


賀川豊彦は、労働運動、農民運動、平和運動など、さまざまな社会運動に先駆的に関わりましたが、とりわけ協同組合運動はそれらを包含する大社会運動でし た。それは生産、販売、信用、保険、共済、利用、消費などの事業をとおして展開される壮大な社会改良運動であるとともに、人と人を結ぶ人格的・内面的価値 に基づく精神的運動でもありました。賀川が「協同組合文化」 と呼ぶゆえんです。われわれは、これをひとつの契機として、現代社会における協同組合のあるべき姿を探求したいとねがっています。

第三回フォ一ラム 定員先着120名
(事前申し込みは必要ありません)
日時:2011年11月25日(金) 14: 00 ~ 17 :00
会場・労働金庫会舘9F大会議室
司会:加山久夫 (賀川豊彦記念総沢資料館館長)
挨拶.:石橋嘉人 (社団法人全国労働金庫協会理事長)
挨拶:田原憲次郎 (全国労働者共済生活協同組合連合会代表理事理事長)

講演1 小林正弥(千葉大学大学院教授)
       「友愛公共社会を創る~いま協同組合を考える~」
講演2 ;浜田陽(帝京大学准教授)
       「共有文明と卜ヨヒコ・カガワ~新たなる協同組合文化をもとめて~」

 財団法人国際平和協会の会長をしています伴武澄です。2年前の賀川豊彦献身100年記念事業東京プロジェクトの広報委員長をしていました。本職は共同通信社の記者でしたが、5月に定年で辞めて郷里の高知に帰りました。

 私が賀川豊彦のことばかり話すので、よく「伴さんはクリスチャンですか」と聞かれる。去年から「はい、賀川教徒です」と答えることにしている。先月の神 戸の賀川記念館の西義人さんと話していて、まさに「賀川教徒」で意気投合したばかり。イエスの友会はかなりの「賀川教」と聞いていますので、この研修会に 参加できることをありがたく思っています。

 ムハマッド・ユヌス

 2009年の賀川豊彦献身100年記念事業の圧巻は神戸プロジェクトが招聘したバングラデシュのムハマッド・ユヌス氏との出会いでした。マイクロクレ ジットといって、貧しい人々に小額のお金を貸して「起業」させた人です。いまではグラミン銀行となって世界的知識人、経済人の一人でもありますが、もとも とはチッタゴン大学の先生でした。農村の貧困に直面してアメリカで学んだ近代経済学がバングラデシュでは役に立たないことを知らされたのです。
 衝撃的だったのは「バングラデシュには雇用という概念がない」という一言でした。現在、学生たちは就職難で苦 しんでいます。働く人々は失業という憂き目にもあっていますが、バングラデシュは失業以前の状態であるようなのです。日本は大変だといってもまだまだ恵ま れている国なのです。グラミンは「農村」という意味なのだそうですが、バングラデシュではグラミンが戦前の賀川豊彦と同じ一つの価値なのであります。

 プラティープさんというタイのスラムで救済活動をしている女性とも出会いました。彼女自身がスラムで暮らしろくに勉強できなかったのですが、15、6歳 でスラムに寺子屋をつくり、子どもたちの教育を中心に活動をしていますが、阪神淡路大震災のとき、困っている日本の友だちのためにと募金活動した400万 円を神戸に送ってきました。スラムの人々が第二の経済大国の人々に寄付したのです。貴重なお金だと思いませんか。

 ソウルでは、韓国のクリスチャンが献身事業に合わせてシンポジウムを開催しました。そのシンポジウムのニュースは聨合通信社を通じて日本にも転電されました。賀川精神は日本だけでなく世界各地でいまも行き続けていることに驚くというより感動に近いものがありました。

 献身事業が続いた2009年は毎日のように新しい出会いや感動がありました。めくるめくという表現がぴったりでした。参加者の多くが「わくわく」しているということを話しました。賀川が友だちの輪を次々と広げてくれるのです。

 献身事業の前年、リーマンショックが世界をかけめぐり、日本でも「貧困」が課題となりました。献身事業が始まると徳島新聞のコラムニストは「時代が賀川を呼んだ」と書きました。

 アフガニスタン戦災孤児

 昨年はアフガニスタンでも賀川を実践していた人物と出会いました。生井隆明さん。心の病に取り組むセラピスト。6年間カブールに滞在してアフガニスタン の戦災孤児のお世話をしていました。国際平和協会としてこの先何を活動の中心としていくか模索していた時期でしたが、生井さんの活動を支援することは大き な意義のあることだと思っています。ユヌスさんやプラティープさんとの出会いがなかったら生井さんへの共感も生まれなかったかもしれません。

 どうやって生井さんを支えるか、とりあえず生井さんがもう一度、アフガンでの活動の足場ができるよう支えようと考えました。生井さんの講演会を全国規模 で開催し、会場で寄付を募る。東京と四国で計3回開催し、順調に寄付金も集まり始めた矢先に東日本大震災が発生してしまいました。
 とりあえずアフガンのプロジェクトはいったん休憩し、東北で何かできないか模索中です。

 国際平和協会

 私の賀川との出会いは10年ほど前にさかのぼります。財団法人国際平和協会の理事に就任したことがきっかけでした。そもそもは休眠状態にあった国際平和 協会を環日本経済のシンクタンクにしようという話があり、実際にお金を出す人が現れて、経済評論家で環日本経済を提唱していた金森久雄さんを理事長にして 多くの人が集まりました。

 しかしお金は一ヶ月で途絶えてしまい、「こんなはずじゃなかった、やめた」と相次いで脱会してシンクタンク構想はもろくも崩れてしまいました。

 そんな中で私だけは事務局にあった「世界国家」という古い機関誌に釘付けになっていました。国際平和協会は世界連邦の実現を目指すために1945年に設 立された財団でありました。機関誌には毎号、賀川が執筆し分かりやすく、世界連邦の必要性や可能性について解説されていました。
 第一印象は「すごい人」がいたんだなという程度でしたが、仲間が次々とやめていく中で私だけはやめませんでした。賀川のことをもっと研究したいというのが本音でした。

 賀川純基さん

 まもなく上北沢の賀川豊彦記念松沢資料館を訪ねました。杉浦さんという学芸員にあいさつをすると「純基がいますので、呼んできます」と裏に入りました。 純基さんは2時間ほど初対面の私に賀川豊彦の話をしてくれました。中でも印象的だったのは「賀川の先見性」という話と、純基さんのつくった「事業関連図」 でした。

 先見性ではいくつかの詩と「空中征服」という小説で説明してくれました。1920年代に新聞に連載されたその物語は大阪の「公害」問題でした。この小説 はものすごく面白く読みました。太閤さんが出てきたりレーニンが出てきたり奇想天外な形で物語が進行するのですが、その中で大阪市の行政を民間委託に出す という発想まで出てくるのです。

「事業関連図」ではこんなにも多くの事業を展開しその多くが今も生きている。企業でいえばこれは「コングロマリットだ」と直感しました。

 驚きは「リズム時計」と「高崎ハム」の歴史でした。時計博物館を訪ねたり、日本のハムの歴史書も読むはめとなりました。それぞれに日本産業の近代史が書 けるのではないかと直感しました。リズム時計は戦後に農村時計製作所として埼玉県に産声を上げています。農村部の雇用の確保が不可欠だと考えていた賀川が 若いときから胸に抱いていた夢の一つでもあります。スイスにならって農村部に精密機械工業を興したいと考えていたのです。

高崎ハムは立体農業からの発展です。御殿場に設立した農民福音学校で養豚業を始めハムをつくろうと、当時、ハム・ソーセージづくりの第一人者だった大木市 蔵氏に御殿場の青年を送り込みハムづくりが実現します。その青年が高崎の産業組合に請われて誕生したのが高崎ハムです。ともに賀川が考えた農村の自立策の 中から派生した企業だといえましょう。

 私にとって重要だったのは「自立」というキーワードでした。賀川が生きた時代には国や自治体に依存する余力はありませんでした。すべて自分たちで一から 始めなければならない時代だったのです。その時代と比べるとわれわれの時代はずいぶんと豊かになっていますが、逆に「自立心」は希薄になり、「依存症」の 方が強くなっているなあという印象が強いです。

 ロバート・オーエン

 オーエンは空想的社会主義者といわれました。賀川がオーエンに連れて行ってくれました。国際平和協会の理事の一人がスコットランドのグラスゴーで「賀 川、賀川」いっている牧師がいるというので会いに行きました。ロバート・アームストロングという牧師でした。少年時代に家にあった「Kagawa」という 英語の本を読んで賀川のスラムでの献身に感動し、牧師になろうと決意したそうです。戦争中で適性国の人物を敬うことは難しかったが、賀川は特別だったそう です。

 その牧師は「昨日来ればよかったのに、グラスゴー大学で賀川に関するシンポジウムを開きました」というのです。戦前、戦後、賀川は2度グラスゴーを訪ね ています。いくつかの古い新聞記事もみせてもらいました。賀川はイギリスやスコットランドでも聖者だったのです。そのころ、「Three Trumpet Sounds」というアメリカのハンターの書いた本があることも知りませんでしたから、驚きの連続です。賀川にますます傾倒することになりました。

 そのグラスゴーから電車で1時間のところにニューラナークがあります。オーエンが最初に繊維工場をつくったところです。現在は世界遺産になっていまし た。ロッチデールの協同組合運動の原型はオーエンの手ですでにニューラナークの繊維工場で始まっていたことをかの地で知りました。

 賀川の著作の「自炊」

 2001年に国際平和協会の理事になってから賀川教徒になるまで約10年の私の軌跡を話しました。現在、賀川の著作の復刻を計画しています。お金がかか らないように電子本とすることまで決めました。賀川豊彦全集はすべて背表紙を裁断し、各ページをスキャンし、さらにOCRをかける作業が続いています。ど の本を出版するかが検討中ですが、日々、発見の連続です。歴史や宗教をこんなに見ることができるのか、そんな驚きを繰り返しながら作業をしています。賀川 の先見性を見る思いです。賀川は社会運動家として世界の人々をうならせました。それだけではない。歴史家、哲学者としての賀川からさらに学びたいと思って います。(8月1日、イエスの友会の研修会での講演要旨)

   関東大震災が起きた9月1日を控えて賀川豊彦が同震災で活躍したことを見直す報道が相次いでいる。日本生協連合会の渉外広報や賀川豊彦記念松沢資料館、 そして鳴門市賀川豊彦記念館へメディアの取材がきているという。共同通信が26日配信し、地方紙各紙に掲載されて記事を転載する。
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 徳島ゆかりの社会運動家・賀川豊彦7 件(1888~1960年)が、関東大震災の復興支援に当たる決意を表明した詩の掛け軸が27日までに見つかった。賀川豊彦7 件記念・松沢資料館(東京都世田谷区、加山久夫館長)が確認した。全集などにも収録されておらず、賀川の受けた衝撃と、救援への使命感を物語る貴重な資料 だ。

 【写真説明】賀川豊彦が関東大震災の惨状を見て救援の意思を表明した詩の掛け軸=東京都の賀川豊彦7 件記念・松沢資料館

 掛け軸は「血がこみあげてくる、永遠に若いおまへの血が、おまへの血は私の血だ、おまへは死んだ、そして私等は甦らされた、誠におまへの途は尊い途で 有った 私ハおまへの為めに六千度の太陽の熱を受ける」という詩に、「一九二三年九月 賀川豊彦7 件」の日付と署名がある。

 同館によると、3月に古書店から購入し調べていた。押された落款は賀川が当時、活動拠点だった神戸で使っていた印であることが分かった。賀川の揮毫(き ごう)は勢いのある崩し字が多いが、この書では楷書体。目の病気にかかっていた賀川が、ていねいに書いたか、妻のハルなど身近な人が代筆したと同館は見て いる。
 詩の「おまへ」は、目上の人を呼ぶ尊敬表現で、牧師の賀川がキリストによる罪のあがないと復活に重ねて、東京や日本を指したとみられる。

 賀川は23(大正12)年9月1日に起きた関東大震災の翌日、材木などを船に積み神戸を出港。東京に入り、被災状況やニーズを調べ数日後、神戸に戻っ た。その後、約1カ月間、西日本各地で義援金を集めるため講演。10月から東京・本所で、炊き出し、布団や衣服の配給、入浴サービスなどを始めた。被災者 の自立支援のために立ち上げた事業が現在、信用組合、病院、社会福祉法人などに発展している。

 掛け軸は10月31日まで、同館の特別展で展示されている。

 鳴門市賀川豊彦7 件記念館の田辺健二館長は「関東大震災でいち早く被災地に駆け付け、精力的に救援活動を行った賀川の思いが読み取れる。困難から逃げずに真正面から立ち向 かうプラス思考の考え方だ。東日本大震災が発生したこの時期に発見された意義は大きい。震災復興への励ましのメッセージになる」と話している。
  「自炊」が話題になっている。キンドルやiPadなど読書用の端末が数多く販売されているが、肝心のソフトが日本ではない。所有する書籍の背を思い切って 「裁断」し、両面スキャナーにかけてPDF化すれば、自前でデジタルブックが完成する。日本では書籍のデジタル化が圧倒的に後れており、業を煮やした個人 が「自炊」することが流行っているそうだのだ。数カ月前の毎日新聞夕刊の一面トップで「自炊」が取り上げられていた。それまで「自炊」という言葉は知らな かった。

 ひょんなことから、松沢資料館で製本用の大きな裁断機を発見、同所にあった複合複写機で試してみた。5年前に購入した古本の賀川豊彦全集である。とりあ えず『死線を越えて』三部作が入っている14巻。作業はものの30分で終わった。帰宅してから、PDFファイルにOCRをかけて検索可能にした。
 ここまでやっておけば、篤志家がたぶんさらに「デジタル化」を進めてくれるだろうという期待もある。年内に全集24巻(といっても2巻欠如)のPDF化 を終える計画である。松沢資料館と神戸の賀川記念館と相談して賀川研究家や賀川ファンにとって使い勝手のいい利用方法を考えたい。(伴 武澄)

 賀川豊彦全集14巻は試験的に献身100年記念事業オフィシャルページで読めるような状態になっています。
 ぜひご覧下さい。 

 太陽を射るもの ttp://www.yorozubp.com/books/14taiyowoirumono.pdf
 壁の声きく時 ttp://www.yorozubp.com/books/14kabenokoekikutoki.pdf

編集

 2012年国際協同組合年全国実行委員会の第1回会合が8月4日に開催された。代表には経済評論家内橋克人氏、副代表にはJA全中の茂木守会長と日本生協連の山下俊史会長が就任した。昨年12月18日開催の国連総会で「2012年を国際協同組合年とする」ことが採択されたことを受けて関係団体が集まった。

 内橋代表は記者会見で、賀川豊彦が提唱した「協同組合による人格経済」に触れて「国連の提起は、現在の市場が主語になっている社会に対し人間が市場を制御するべきとの認識が基盤になっていると思う。高い理念協同組合自身が足下を固めるというその両方の釣り合いをとりながら各地で様々な取り組みを展開したい」と述べ、この運動の根幹が「助け合いによってつくられる市民社会」にあることを強く宣言した。

 山下副代表もまた昨年の賀川豊彦献身100年記念事業に言及し「賀川豊彦日本生協連の初代会長。救貧活動に身を投じ、人格経済を唱えた賀川豊彦の協同の思想を100年に1度の危機と言われる今日、どう受け止め直しわれわれの事業の核としていくにはどうすればいいか考える契機にしたい」などと締めくくった。

 名誉顧問に就任した宇沢弘文東大名誉教授は、協同組合思想の原点に1891年にローマ法王が世界に向けて発信した文書(回勅)「資本主義の弊害と社会主義の幻想」があると紹介し「すべての人たちが協同して苦しい時代を切りひらくことを強調した重要な文書。その中心が協同。国際協同組合年は非常に意義がある」と話した。(日本農業新聞の記事を中心に編集、文責:伴武澄)

 実行委員として出席した賀川督明さんからは関係者メールで「さまざまなところから、豊彦の話を織り交ぜての発言があり、オーバーに言えば賀川豊彦の"連呼"だった」との報告があった。

 ユニクロがバングラデシュのユヌス氏のグラミン銀行と組んでソーシャルビズネスに乗り出すというニュースが毎日と読売の夕刊に出ていた。ついに日本にも本格的なソーシャルビジネスが誕生する。

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 カジュアル衣料のユニクロを運営するファーストリテイリングは、ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのムハマド・ユヌス氏率いる貧困者向け少額融資機関「グラミン銀行」と合弁会社を設立し、現地の雇用創出などを目的とする「ソーシャルビジネス」事業に乗り出す。

 13日午後、ファーストリテイリングの柳井正会長兼社長とユヌス氏が記者会見して発表する。日本企業がグラミン銀行と合弁事業を展開するのは初めて。

 ファーストリテイリングはバングラデシュなどで衣類を製造している。だが、現地の人々にとっては、価格が高すぎ、手が届きにくい。

 このため、合弁会社で、無理なく購入できる衣類を製造し、得た利益は雇用拡大につながるよう再投資、将来的に生活水準の向上や経済発展につなげることを目指す。途上国での収益を目的としないソーシャルビジネスは欧米企業の間では広がっているが、日本企業としてはファーストリテイリングが最大級の取り組みとなる。

 新川での一夜

 後に同志社大学の総長になる牧野虎次は賀川より20歳も年が上でしたが、賀川を終世、先生を呼んでいました。

 ある夏の夜、新川で 開かれた伝道集会で話をしました。集会が終わって、牧野は賀川の長屋に泊めてもらうつもりでいましたが、賀川は「君は特別待遇だ」といって2階の診療室に 案内されました。診察台の上に洗濯したてのシーツを二枚重ねてその中で寝ましたが、1時間もたたないうちに体中がチクチクしてきました。電気をつけてみる と、シーツの上に黒ゴマをまき散らしたように南京虫がうごめいていて、牧野はゾーッとしました。

 眠れないので、窓から外をみるとまた驚くべき風景に息の止まる思いをします。売春婦たちが男を引っ張り合っていました。「まるで女性サタンがゲヘナで餌物を奪い合っているとしかみえない凄い様相であった」と『神はわが牧者-賀川豊彦の生涯と其の事業』に書いています。

 賀川はただ汚くて臭い場所に住んでいたのではないのです。牧野は同じ本に次のように賀川のことを書いています。

「翌朝先生に導かれて部落内を見て回ったが、白くも頭、トラホームの子どもたちが先生を慕うて寄りそうて来るのを、一々抱きかかえるように愛撫せられる様子は、丁度伝記に読むアシシのフランシスを想わせるものがあった。先生こそ主なるキリストと共に"人々の悩みを負う"悲しみの僕であられたと思う」

 キリストがライ病(ハンセン病)患者の肌を触って治すという場面が聖書にあります。私にはできないことだとずっと思っていました。賀川が新川でやっていたことはまさにそういうことだったのです。

 私はアフリカで一夜だけ木賃宿のようなところに泊まって南京虫に数カ所食われたことがあります。南京虫との出会いはその一回かぎりです。毎日、南京虫に嚙まれる生活はとてもではありませんが考えられません。

 自由だとか民主主義だとかを叫ぶ前に人間の根本に立ち返ると普通の人間にできないことを、新川での賀川は神の御名のもとに普通にやっていたということなのです。

 賀川はよくインドガンジーと対比されました。共に魂の救済を求めて徒手空拳からスタートし、多くの共感者を得ていきました。ガンジー弁護士としてのスーツ姿をやめて、糸から紡いだガーディーというインド風の着物をまとい村から村へと伝道しました。イギリスの支配をなんとも思わなくなった人々に対してインド精神の復活を鼓舞しました。サチアグラハといって、巨大な暴力に対して無抵抗で対峙するよう人々に求めました。しかし、ガンジーの場合、インド貧困にまで救済の手を回す余裕はありませんでした。

 明治明治、昭和と貧困や病気と戦った日本人が多くいました。石井十次岡山で3000人の孤児を育てたことで有名です。石井筆子は、滝乃川学園を創設して知的障害児教育に生涯をかけて取り組みました。井深八重はハンセン病と誤診されて送られた神山復生病院で、献身的に看護する院長ドルワール・ド・レゼー神父の姿に感銘を受け、ハンセン病に生涯を捧げました。戦後には、沢田美喜エリザベスサンダースホームを創設して混血孤児2000人を育て上げました。李王朝殿下に嫁いだ李方子は韓国知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立して、援護活動に尽力しました。賀川が際立っているのは、人々を救うことだけで終わらず、どうしたらその原因を取り除けるかを考え実践したところでした。

 若き日の評論家、石垣綾子さんは『死線を越えて』を読んで賀川の元を訪ねました。弟子にしてもらおうと考えたのです。1922年のことです。初対面の賀川についてこんな言い方をしています。

「トラコーマに侵された片目には、黒い眼帯をかけている。眼帯をしていない方の目も真赤にただれ、その赤い目をじっと私に据えた」
石垣さんは賀川に新川に飛び込んできた心情と覚悟を話しました。
賀川は「あなたがここで働きたいなら、まず貧民窟を見なくてはいけませんね」
といって、近くにあるイエス団友愛救済所を案内しました。
「あなたが本当にここで生活する気なら、今夜お風呂に入っていらっしゃい。できますか」
と言われ、夕食後に賀川夫人に銭湯へ連れていかれました。
「浴槽の中に片足を入れると、底に溜まったどろどろの垢が足の裏にどろりと触った。私の身体は一瞬動かなくなった」
「これができなくては、先に進めないと私は自分を鞭打った。一旦たじたじとなった私の心は、どのように無理強いをしても、沈み込むばかりだった」
「その夜、固いせんべい布団にくるまった私は、どうしても眠れなかった。四方から貧困の臭いが発散してくる。身体にまとわりつく汚濁のぬめりが私を突きのめした」
「お嬢様の生活の苦労も知らないセンチメンタリズムだとは考えもせず、向こう見ずの真剣さで」

 石垣さんは夢破れ一夜にして新川を逃げ出したということです。この顚末は79歳の自伝回想『我が愛 流れと足跡』(昭和57年、新潮社)に詳しく書かれてあります。赤裸々な描写による貧民窟内部の極貧の実態と、それに向きあった「新川の先生」の非凡さ、とすごさを、あらためて我々に教えてくれるのです。

 賀川豊彦は1888年、回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめの子として神戸に生を受けました。4歳の時、相次いで父母を失います。純一は徳島県豪農の賀川家に婿入りしますが、本妻とは折り合いが悪く神戸でかめと生活していたのです。5歳の時に姉と共に徳島の本家に引き取られますが、父の回漕業を引き継いだ兄が事業に失敗、徳島の家産は抵当に入っていたため、すべてを失います。叔父の家に引き取られて、旧制徳島中学校(現在の徳島県立城南高等学校)に通い、1905年明治学院高等部神学予科に進みました。1907年からは新設の神戸神学校(神戸中央神学校)に通学していましたが、結核に苦しみ、医者からは「余命幾ばくもない」ことを言い渡されます。やがて「短い命ならば、貧しい人たちのために生きたい」と新川に住み込むことを決意したのでした。

 賀川が新川に移り住んだのは、1909年12月24日でした。クリスマスイブです。小さな手押し車に行李三つと竹製の小さな本棚を載せて、通っていた神戸神学校からの坂をとぼとぼ下りてきました。三畳と二畳の小さな空間は1日7銭でした。格安だったのは前の年、その家で人殺しがあって幽霊が出るとのうわさがあったからです。

 この幽霊長屋はもちろん賀川の居宅でしたが、同時に教会であり、救済所でもありました。しかし教会らしい什器備品もなく、救済所らしい設備もありませんでした。たぶん日本一小さい教会であったはずです。後に隣接していた三戸の長屋も次々と借りて、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていました。

 家賃が日単位だったのは、住んでいた人たちがみんな日ばかりで暮らしていたからです。貧民窟には木賃宿も多くありました。大部屋にたくさん の人がそれぞれの場所を占拠して住んでいました。布団のない人は宿賃のほかに布団代を払うのです。七輪を借りてご飯も自分でつくります。

 宿というといまでは旅行で泊まる場所のように考えますが、当時は家がないため木賃宿に住んでいた人が少なくなかったのです。車引きだとか日雇いの人夫は多くが木賃宿を住みかとしていましたから、貧民窟に家を借りられる人はいい方だったのかもしれません。

 新川の家はほとんどが茅屋でした。雨戸などあるはずもなく、障子もボロボロ、吹きさらしです。便所は供用で、朝などは込み合うため、結果的に大小便が垂れ流しとなり、臭気が鼻をつきます。衛生観念はゼロです。子どもたちはほとんどトラホームに罹っています。

 賀川の弟子となった牧野仲造は当時の新川の様子について『百三人の賀川伝』の中で「1909年のクリスマスイブ」と題して次のように回顧しています。

 ここに住んでいるのは病人、身体障害者寡婦、 老衰者、破産者といった落伍者でした。 家賃は1カ月5銭、薪1把2銭、木炭1山2銭、1畳間に夫婦2組で同居し4畳半に11人家族が住んでいることもあ りました。1戸当たり平均4・2人がすんでいました。職業は仲仕、土方、手伝人夫、日雇人夫、ラオすげかえ、下駄直し、飴売、団子売、辻占、屑屋、乞食な どで、児童の通学者は100人の中3人、新聞購読者は1人もなく、婦人でハガキの書ける者はありませんでした。

 そこは暴力の街で、腕力の強い者が兄貴になり、最強者が親分でした。傷害罪を犯したことが自慢の種となり、殺人罪の前科は親分の資格になるというわけでしたから、弱いものだけが苦しみつつ働いているのでした(『百三人の賀川伝』牧野仲造「1909年クリスマスイブ」)

 農村の貧困層が都市に流れ着くというのは産業革命後のイギリスでも同じだったようです。今でもマニラのマカティ地区は有名です。流れ者たちが都市の一角に貧民窟を形成したのは自然の成り行きだったのです。東京にも多くの貧民窟が生まれています。紀田順一郎横山源之助ら当時の新聞記者がおもしろがって、『日本の下層社会』『東京の下層社会』など貧民窟の体験記事を多く書いています。

 賀川の長屋にはいつも6、7人が居候していました。食事代だけでも大変です。貰い子の葬式代はバカになりません。賀川に借金を迫る者はまだ いい方で、暴力づくで金をゆする者もいました。そんな時でも、賀川は黙ってあるだけのお金を渡していたのです。まさに事件が相次ぐ日々だったのです。

 一番、悲しかったのは大切な蔵書がしょっちゅうなくなることでした。近所の奥さんが勝手に上がり込んで蔵書を持っていってしまうのです。しかし、その奥さんが警察に捕まって盗難届を出せと連絡があっても賀川は出さず、耐え続けるのです。

 賀川自身が後に「貧民窟10年の経験」に「説教する勇気を持たない」とまで語っています。

病人の世話--最初の年は、病人の世話するなど気はありませんでしたが--(中略)1ケ月50円で10人の食の無い人を世話することに定めて居たのでした。然し来る人も来る人も重病患者であることには全く驚きました。私は病人の中に坐って悲鳴をあげました。

賭博--博徒と喧嘩はつきもので、私は「どす」で何度脅迫されたか知れません。欲しいものは勝手に取って行きます。質に入れます。然し博徒淫売婦とが、全く同じ系統にあることを知って驚きました、淫売の亭主が、その女の番人であるには驚きます。その亭主は朝から晩まで賭博をして居るのであります。

淫売の標準は芸者で、博徒の標準は旦那であるのだ。芸者も、旦那も遊んで居て食へる階級である。もし貧民が遊んで反社会的なことをして悪いと云ふなら、芸者と旦那を先ず罰せねばならないのである。此処になると、社会の罪悪が今日の産業組合の根底にまで這入って居ることを思うので・・・、説教をする勇気を持た無いのである。(賀川豊彦『人間苦と人間建築』「貧民窟10年の経験」から)

 賀川はこの新川の家で、毎日5時に起きた。日曜日は5時から日曜礼拝、それから讃美歌伝道に出掛けました。路地から路地へと賛美歌を歌うのです。やがて賛美歌が日曜日の目覚まし時計のようになりました。それが終わると今度は子どもたちのための日曜学校です。お菓子が振る舞われるので子どもたちは賛美歌伝道が始まると家を飛び出して賀川の後をついて回ったのです。「説教をする勇気もない」と語る一方で賀川には小さきお弟子さんたちが何人もいました。

 「私のお弟子は三人四人
  鼻垂れ小僧の蛸坊に疳高声の甚公は私の一と二の弟子で、
  便所の口まで追いて来て私の出るのを待っている乞食の「長」は三の弟子、
  クリスマスの前の夜、出口さんのご馳走に、
  お前はしらぬが、鯱ちよこ立ちしたよ。
  お父さんとや云えぬが、テンテイと呼べる、鍋嶋のお凸は四のお弟子。
  売られて行くのが悲しさに
  うちの戸口で半日泣いた今年十二の清ちゃんは私の可愛い女弟子!
  『涙の二等分』」

 子どもたちは日ごろ、親から罵られたり、叱られたりばかりしているので、愛に飢えていました。ですから、「先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜び」(武内勝の語り)でありました。

第二章 賀川豊彦の献身

 涙の二等分

 賀川豊彦は1919年に『涙の二等分』という詩集を発表しました。無名の伝道者の詩をよく出版社が本にしたものです。神戸市葺合新川の貧民窟に入ってまもなく、「貰い子殺し」という「商売」があったことを知り、なにより悲しみました。「貰い子殺し」というのは貧困や何かの理由があって育てられなくなった不義の子どもを5円とか10円でもらって来て飢え死にさせる商売です。

 貧民窟という語は死語です。メディアでは使ってはいけない言葉の一つになっています。当時の雰囲気を伝えるためにあえて使います。賀川豊彦は『人間苦と人間建築』の中で「貧民窟10年の経験」を次のように書いています。

 明治の末期といっても「貰い子殺し」がまかり通るはずもありません。犯罪です。でも産まれたばかりの子どもの「間引き」がまだまだ社会の必要悪として横行していました。新川に入って一週間後、賀川は立て続けに「貰い子」の葬式をするはめに陥ります。

 私は最初の年に、葬式をした14の死体中、7つ8つ以上はこの種類のものであったと思います。それは貧民窟の内部に子供を貰う仲介人が有っ て、そこへ口入屋あたりから来るものと見えます。そしてその仲介人を経て、次へ次へと貧民窟の内部だけで、4人も5人も手を換へて居ります。それで初めは 衣類10枚に金 30円で来たとしても、それが第二の手に移る時には金20円と衣類5枚位になり、第三の手に移る時には金10円と衣類3枚、第四の手に移る時には、金5円 と衣類2枚位で移るのであります。之と云ふのも現金がほしいからで、それが欲しい計りに、段々いためられてしまった貰い子を、お粥で殺して、栄養不良とし て届出すものです。

 ある時、賀川は警察署で貰い子殺し容疑で検挙された産婆が連れていた乳飲み子をもらってきて育てようとしました。この子が手に小さな石を握っていたことから「おいし」と名付けました。でも長生きはできませんでした。まもなく賀川の腕の中で死んでしまいました。

 賀川豊彦の一途さの一断面を理解していただくために、その一部を掲載したい。賀川の膨大な著作は不思議なことに『涙の二等分』を含めて最近まですべて絶版となって古本屋でしか求めることができなくなっていました。

  涙の二等分

  おいしが泣いて目が醒めて
  お襁褓(しめ)を更えて乳溶いて
  椅子にもたれて涙くる
  男に飽いて女になって
  お石を拾ふて今夜で三晩夜昼なしに働いて
  一時ねるとおいしが起こす
    ............ 略 ............
  え、え、おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ
  力もないに
  こんなものを助けなくちゃならぬと教えられた私
  私も可哀想じゃね
    ............ 略 ............
  あ?おいしが唖になった
  泣かなくなった
  眼があかぬ死んだのじゃ
  おい、おい、未だ死ぬのは早いぜ
  南京虫が──脛噛んだ──あ痒い
  おい、おいし!
  おきんか?
  自分のためばかりじゃなくて
  ちっと私のためにも泣いてくれんか?

  泣けない?
  よし.........
  泣かしてやらう!
  お石を抱いてキッスして、
  顔と顔とを打合せ
  私の眼から涙汲み
  おいしの眼になすくって.........
  あれ、おいしも泣いてゐるよ
  あれ神様
  あれ、おいしも泣いてゐます!

 歌人与謝野晶子は、この詩集に序文を寄せました。

「賀川さんのみづみづしい生一本な命は最も旺盛にこの詩集に溢れています」
「現実に対する不満と、それを改造しようとするヒュマニテの精神とは、この詩集の随所に溢れていますが、私は其等のものを説教として出さずに芸術として出された賀川さんの素質と教養とを特になつかしく感じます」

 すでに与謝野晶子は賀川の貧民窟での活動に注目していました。詩人は人生や世の中の苦しみや悲しみ、時として喜びを表現する人々です。身の回りの日常を素材にして人々の心を揺り動かすのが詩です。金子みすゞの詩の世界を思い起こさせます。

 日露戦争に勝利し、明治も終わりになろうとしていたころ、日本には「貰い子殺し」などという習慣があったことに驚きを禁じ得ません。数年前、熊本市の病院が「あかちゃんポスト」と称して、お母さんが育てられなくなった赤ちゃんを引き取ることを始め、賛否両論、大きな議論を巻き起こしましたが、100年前には「貰い子殺し」は多く起こりすぎて新聞に載るほどの事件でもなかったのです。

 「おいし」を読んで私は胸をぎゅっとつかまれた思いに捕らわれました。特に「おいしも可哀想じゃが私も可哀想じゃ」の段は涙なしでは読み過ごすことができません。肺結核を患いながら貧民窟に入って自らを犠牲にしながら貧しい人たちと共に生きる。話したり書いたりすることは簡単です。賀川豊彦という人はアメリカ留学を挟んで約15年間も神戸の葺合新川地区に住み続けたのです。

 ロバート・オーエンは企業経営に関わる富の社会還元の手法を多く残した。地域通貨労働組合などもそうだが、どうしても忘れられないのは協同組合的店舗経営だった。

 協同組合は1844年代にマンチェスター郊外ののロッチデールで始まったものとばかり思っていたが、ロッチデールの人々が参考にしたのは実は、ニューラナークにあった企業内店舗の在り方だった。

 200年前の商人たちはどこでも相当にあこぎだったようである。オーエンによれば、村の店で売っていた商品といえば「高くて質が劣悪。肉 だったら骨と皮に毛の生えた程度のものばかり」だった。村民の人たちはほかに店がないことをいいことに劣悪な品質のものを高い価格で買わされていた。しか も多くの商いが掛け売りだったため、村の人々の借金はたまる一方だった。

 そうした状況は100年前の日本でも同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまりでてこないが、賀川豊彦の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても対価に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。オーエンや賀川が昨今の流通業界の価格破壊の状況を見たら卒倒するに違いない。

 ニューラナークの人々を救済するためのオーエンの答えは工場内に自らの購買部を設立することだった。そして「生活必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えた。お酒についてはオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだった。

 1813年、オーエンは工場敷地内のほぼ真ん中に三階建ての店舗を開設。工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ2割安の価格で販売した。販売したのは、食料や調味料、野菜、果物といった生活必需品だけでなく、食器や石鹸、石炭、洋服、ろうそくなどなんでもあった。

 この建物は現存しているが、当時の一般的な消費動向や2500人という工場の人口からすればとてつもなくおおきな店舗だったはずだ。

 ニューラナークでの賃金はほかと比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーの報告によると「一家で週2ポンド(40シリング)稼いだとしてラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。つまりお金の価値を高めたのである。

 やがて、村人の借金はなくなり、あこぎな店も村からなくなった。そして店舗であがった利益は前回書いた児童教育に注ぎ込まれた。

 労働者の生活改善というオーエンの発想は、多くの人々に刺激を与えた。そして彼の協同組合的考え方を発展させた人々はオーエニーズと呼ばれた。ロッチデールの織物労働者によって1830年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによってようやく「ロッチデール・エクィタブル・パイオニア・ソサエティー」設立にこぎつけた。彼らは毎週2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めた。

 10ポンドで10坪ほどの店舗を3年間契約で借り受け、16ポンド11シリングオートミール小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていた。

 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。そして彼らはこの新しい購買組織の5原則を約束し合った。この時決まった(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視-という5原則は現在の生協運動でも掲げられているものである。

 ロッチデールで始まった小さな試みはやがてイギリス全土に広がり、国境を越えて拡大した。日本で本格的な生協が登場したのは1920年のことである。賀川豊彦が8月、大阪市に有限責任購買組合共益社を設立したのが嚆矢(こうし)である。(伴 武澄)

 2004年6月初旬に一週間ほど南スコットランドを歩いた。グラスゴーの酒場で一人の日本人に出会い、ロバート・オーエンのことが話題になった。近郊にオーエンが繊維事業を始めた場所で、いまでは世界遺産に登録されているニューラナークという場所があることを知らされた。

 翌日、ラナーク行きの電車に乗り、1時間ほどで町のバスに乗り継ぎニューラナークに向かった。ニューラナークはスコットランド最大の河川であるクライド川の渓谷沿いの寒村で、200年以上前の当時としてはイギリス最大の紡績工場と従業員の生活をよみがえらせている。いまでは渓谷は緑の木々におおわれ、水の音と鳥のさえずりだけが静寂を破る。空気がとてもおいしい場所だった。

 ニューラナークの歴史は220年前にさかのぼる。紡績機械を発明したリチャード・アークラウトとグラスゴーの銀行家デイビット・デイルがこの地にやってきて「ここほど工場用地として適した場所はない」といって周辺の土地を購入し、1785年に紡績工場を立ち上げた。ワットが蒸気機関を発明したのは1765年。狭い渓谷を流れる水流がまだ動力の中心だった時代のことであるが、イングランドマンチェスターはすでに繊維産業の町として名を馳せていた。

 ニューラナークが世界的に知られるようになったのはデイルの娘婿となったロバート・オーエンが1800年に事業を引き継いでからである。オーエンはまず従業員の福利厚生のために工場内に病院を建設した。賃金の60分の1を拠出することで完全無料の医療を受けることができた。現在の医療保険のような制度をスコットランドの片隅で考え出した。

 19世紀の繊維工場は蒸気とほこりにまみれ、労働と疾病は隣り合わせだった。日本でも初期の倉敷紡績が東洋最大の病院を工場に併設したことはいまも語り継がれているが、その100年も前にオーエンは従業員の福利厚生という発想を取り入れていたのだ。

 次いで取り組んだのが児童への教育だった。当時の多くの紡績工場では単純作業が多く安い賃金雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか7歳の小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばん初等教育をさずけた。

 1816年の記録では、学校に14人の教師と274人の生徒がいて、朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることによって母親たちは家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあったが、当時、児童の就労禁止を打ち出したことでさえ画期的なことだったのだ。

 オーエンの教育でユニークだったのは、当時のスコットランドで当たり前だった体罰を禁じたことだった。さらに五感を育むために歌やダンスなども取り入れた。当時、音楽などを教えていたジェームス・ブキャナン先生はニューラナークでの教職について「人生の大きな転機をもたらしてくれた。金持ちや偉人になるといった欲求を捨てて、誰かの役に立つことで満足するようになった」と語っている。オーエンの学校にそういう雰囲気があり、教師たちも感化されたのだろう。

 オーエンはイギリス各地で起きていた労働者(特に児童)の搾取や悲惨な労働環境を目の当たりにし、「そうした環境では、不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない。優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」という考えにたどり着いた。19世紀の弱肉強食の時代に、福祉の向上こそが経済効率につながるという理念に到達していたのだった。

 それから100年以上もたった1925年にロンドンの町を訪れた社会改革者の賀川豊彦は工場労働者が劣悪な環境で働いているのに驚いた。日本と変わらないスラムが町外れに多く形成されていた。日本でもロンドンでもスラムは貧困と不衛生、そして犯罪の巣くつとなっていた。

 オーエンはニューラナークでの実践活動を理論化した『新社会観-人間性形成論』を書き、国内外を回り、議会や教会関係者から経済学者まで広く工場の労働条件改善の必要を説いた。またニューラナークでの「実践」を通して国内外で多くの理解者を得た。そして彼の経済理論は1820年の『ラナーク住民への講演』で社会主義的発想へと一気に昇華した。この講演でオーエンは「生産者自らが生み出したすべての富について、公平で一定の割合の配分を受けられる必要がある」と語りかけた。工場の福利厚生の改善だけでは満足できず「社会変革」の必要性まで打ち出したのであった。

 オーエンがその後、あまた排出する思想家経済学者たちと一線を画し、200年後のわれわれに感動を与えるのは彼が「偉大な実践者」であったということだ。賀川豊彦が100年前にスラムに飛び込み貧困と病気、さらに犯罪と戦いながら、貧困救済事業を立ち上げて名声を勝ち取った経緯と重なる部分が多くある。(続く)(伴 武澄 2004年06月20日)

 ロバート・オーエン再発見(2)

 賀川豊彦は1914年、初めてアメリカの土地を踏みます。プリンストン大学への留学で、マヤス先生らキリスト教の恩師たちの力添えによって実現しました。授業料は免除されましたが、アルバイトをしながら3年間アメリカで過ごしました。この時、アメリカ労働組合運動があるのを初めて知ったのです。労働組合運動だけでなく、多面的なアメリカを吸収しました。

 余人に真似できないのは帰国してから、また新川に戻るところです。アメリカでの留学生活は金銭的には苦しかったかもしれませんが、きれいな芝生のキャンパスの中で、寄宿舎も多分きれいなシーツがあって、伝染病などからほど遠い3年間を過ごしたはずです。よほどの決心がなければ、帰国の翌日から再び新川で貧民救済が続けられることはできません。1909年に初めて新川に入った時以上のエネルギーが必要だったはずです。

 賀川は生涯で7回渡米しています。2度目の渡米は1924年。全米大学連盟からの招待でした。スラムでの献身的活動は日本に来ていた宣教師たちによってすでに伝えられていました。

 米沢和一郎氏の欧米での調査によれば、アメリカの「Christian Century」、スイスの個人雑誌「New Wage」、フランスの「La Solidarite」などに頻繁に「スラムの聖者」として紹介されていました。

 キリスト教系の新聞や雑誌は、日本と違って読者のすそ野が広く、世界中くまなく読まれるため、その影響力は計り知れません。図書館に行けば必ずあり、教会に行けば必ず置いてあるような雑誌、新聞がです。

 シュバイツアーとある日本人との手紙のやりとりの中に「賀川」が登場するのはちょっとした驚きです。アフリカのシュバイツアーは賀川の記事を読んでいたはずなのです。キリスト教ネットワークの影響力がいかに大きいかということでもあります。1932年にア-キシリングが『Kagawa』という伝記を書く10年も前から、実は賀川の名は世界で知られていたといってよさそうです。

 2回目の訪米に戻ります。アメリカへの到着は1924年2月。滞在中の7月に「排日移民法」が成立しています。賀川にとって大きな衝撃となります。貧困に加えてさらに人種問題が大きな課題となって立ちはだかるのです。

 そのころ、サンフランシスコシアトルでは日本人の数が急増し、総人口の10%を超えるようになっていました。西海岸が日本人に占領されるという恐怖感が排日移民法成立の背景にあったことは間違いありませんが、賀川のアメリカに対する意識は「天使のアメリカ」から「悪魔のアメリカ」へと大きく修正されます。プリンストン留学時代は、学ぶべき、いいアメリカでしたが、この時ばかりは「悪魔のアメリカ」と呼んでいます。賀川は親米主義者のように語られていますが、アメリカでの講演ではアメリカでの人種差別を徹底的に批判しています。

 賀川は国際的な伝道師、社会活動家としての側面と、日本人という側面と、二つの顔を持っていました。歓迎を受ける一方で、新聞記事だとか、日々の生活がすべておもしろい、楽しい旅ではなかったはずです。その証拠に、彼がアメリカでの旅を終えてニューヨークからロンドンに向かう時に、こういうことを書いています。

「船はニューヨーク港を出た。港の入り口に立つ自由の神様は霧のために見えなかった。それは私は意味あることにとった。米国は、今、霧の中にある。自由の神像は米国には今、見えないでいる」(『雲水遍歴』1926年、改造社

 暗に排日移民法を批判した文章で、「米国国民は国民的年齢において満12歳である」とも書いています。マッカーサーが日本の精神年齢について「12歳」と言ったちょうど20年前にアメリカ人に対して「12歳である」などと書いているのには驚かされます。

 2004年6月、スコットランドグラスゴーを訪ねました。その2カ月前、「賀川、賀川」と言っている牧師さんがいるということを友人から聞きました。賀川が世界的に知られた人物だということは書物で読んでいましたが、正直言って賀川の信奉者たちが針小棒大に伝えてきた伝説でしかないと思っていました。スコットランドのその牧師さんが70歳を超えて病身であるということで、ぜひとも会っておかなければ悔いが残ると思ったのです。

 そのアームストロング氏とはすぐに連絡がとれて、グラスゴー大学の研究室で会いました。アームストロング氏は1933年生まれの71歳。温厚な面持ちに加え、芯の強さを感じさせる信念の人のように思えました。グラスゴー大学を卒業後、新聞社に勤めましたが、牧師になりたいという意志でスコットランド・バプテスト神学校に入り直し、牧師になったという経歴の持ち主です。

アームストロング氏は賀川との出会いから話し始めました。

「いささか不思議な出会いでした。その出会いによってたちまち私は賀川から多大な影響を受けるようになり、60年たった今でもそれは続いてい ます。11歳の頃、鼠蹊部の腫れ物が膿瘍に悪化する疑いがあって安静にしていた時のことでした。退屈しのぎに私は一冊の本を手にしたのですが、この本が私 を賀川という偉大なキリスト教徒に巡り合わせてくれたのです。まずその本の背に縦書きされていた『Kagawa』というタイトルに好奇心をそそられました。それはウイリアム・アキシリングという人が書いた賀川の伝記でした」

 アキシリングによる賀川の伝記の初版本が出版されたのは1932年です。賀川はまだ44歳。そんな年齢の人物が伝記に書かれることすら稀有なことです。しかも外国人の手によって書かれたのだからなおさら驚かされます。それほどまでに賀川豊彦という人物が世界の人々をひきつけたということであろうか。

 この『Kagawa』は英語の他、ドイツ語フランス語オランダ語スカンジナビア語、トルコ語スペイン語インドの方言、中国語に翻訳されました。アキシリング氏は賀川豊彦を世界に紹介するにあたって「まえがき」で次のように述べています。

 賀川豊彦の人生は、今なお進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々として横たわっている、従って、彼の伝記にペンを執ることは、早きに失すると云わなければならない。

 彼の全人生の物語を記録するという興味深い仕事は、やがては専門の研究家の手を通して永く後世に伝えられることであろう。

 この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメッセージは、その偉大なる魂と転変する現実の奥底から湧き起り、灼熱せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちている世界に真正面から挑戦した。

 即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の声をもって語る神の如き人間であり、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である。

 彼の中には相反する二つの人間性が存在している。その一つは、友人達の熱烈なる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通う人間としての賀川である。

「光は東方より」という東洋のことわざがあるが、社会的な連帯責任に対して明確なる意識をもつ西洋が渇仰している光は、すでに東洋に於いては燃え上がっている。もしこの書物が証明となって、光を西方に運ぶ役割を演ずるならば、著者の幸いはこれに過ぎない。

 アキシリング氏は、1873年、アメリカ中西部ネブラスカ州オハマ市に生まれ、28歳の時、宣教師として日本にわたり、終生、日本での伝道と社会福祉事業に尽くした人物です。その日本で出合ったのが、キリストの弟子として貧民救済にあたっていた賀川豊彦でした。太平洋戦争時は、浦和の収容所に入れられ、日本の官憲から言語に絶する取り扱いを受けたにもかかわらず、戦後も日本を離れず、日本の底辺の人々のために尽くしました。

 日本が満州事変を起こして、国際連盟から脱退したその同じ時期に、日本の聖人の物語が世界の主要言語のほとんどで翻訳され、地球規模の共感と感動を得ていたのです。今となっては不思議な感傷を抱かざるを得ません。

 スコットランドアームストロング牧師に戻りたい。『Kagawa』を読んで病身の少年アームストロングは震えるような喜びに浸ったといいます。極東の小さな国で生まれた一人の伝道者の生き様に出合い、魂を揺さぶられたというのです。

「こういう人間がいるんだ。自分もぜひこういう人間になりたいと思った。それで僕は牧師になった」

 当時は日本とイギリスは戦争状態でした。そんな時、一人のイギリスの少年の心を動かした日本人がいたのです。

クリスチャンである賀川の本質は私の心を強く打ち、もはや彼の国籍など問題ではありませんでした。賀川の伝記は読む者の心を捕らえて離さず、少年時代の私の想像力に大きな影響を与えました」

 アームストロング氏は賀川豊彦を語り出すと若さを取り戻すそうです。こんな話もしました。

「彼の人生はその祈りの実現のために費やされました。長老派の神学校に学んだ後、神戸新川貧民窟で生活しながら、路端伝道をすることになりました。そこに暮らす労働者たちの生活状態は劣悪で、路地は舗装されておらず、そこに並ぶ家屋はそれぞれわずか畳二畳程度しかありませんでした。衛生状態もひどく、不潔になって病気が発生しました。そこはまた犯罪や売春の温床でもあったのです」。

「学生伝道者として何度もそこを訪れたことがあった賀川は、神の愛について語 るだけでは不十分だ、貧民窟の住人と一体化して問題を解決する、という実践的手段をとることを通じて神の愛は現されるべきだ、と思ったのです。その結果、 賀川は住む場所のない人には住まいを提供し、病人を引き取っては看病を施したのです。彼が住まわせていた人々の中には、殺人を犯してしまい、賀川の手を 握っていないと眠りにつけない、という男もいました」。

「『貧民窟の生活を見ている時、社会の病弊がわかる』という彼の発言は、誠に深い洞察です。貧民窟における状況(労働条件、乳児死亡率、病気、売春)は、すべて相互に連結しあっている、ということに賀川は気づいていました。都市部の人口過剰により、人々は行き場を失い、貧民窟へと流れました。それはまた小作農の状況とも関係していました。彼がこれらの問題をどれほど真剣にとらえ、その答を見つけることにどれほど心血を注いだかは、後に彼がアメリカヘ行って、自分が経験したり見聞したりしたことの社会学的、経済学的意味を研究した、という事実をみればわかります」。

 アームストロング氏は「昨日来ればよかったのに」と惜しんでくれました。私がグラスゴーに着いた前日の6月5日にグラスゴー大学で「Kagawa Revisited (賀川再訪)」と題したシンポジウムを開いていたのです。実はシンポジウム参加を目指したのですが、仕事の関係で間に合いませんでした。

 アームストロング氏は1949―1950年に賀川豊彦が、イギリス各地で行った講演やその講演を聞いた英国人の話、当時の新聞報道な等について講演するため、40人以上の人から精力的に取材をしていました。

 シンポジウムには40人ぐらいしか集まらなかったと言っていたが、それだけ集まるだけでも驚きでした。しかも場所はグラスゴー大学です。賀川にゆかりのある人、生前に会ったことがある人、あるいは賀川から影響を受けた人に対して、インターネットキリスト教の新聞を通じて呼びかけると、100人近くから反応があったそうです。

 一番私が感動したのは、ある老齢の女性の話でした。看護婦さんで修道女として若いころ仕事をしていた時、グラスゴーに賀川が来ました。1950年のイギリス訪問時のはずです。

 彼女は修道院で草取りをしていました。

「そうしたら賀川がつかつかと寄ってきて、私の手をにぎって『ごくろうさん』とか何か言ってくれた。そのことがずっと私の思い出になった」

「あの大賀川に手を握ってもらった」という話をそのシンポジウムでしたらしい。ほとんど神様のように語っていたというのです。

 賀川がイギリスを訪問した当時の新聞を調べると、スコットランドの 新聞に「Kagawa Returns」という見出しで賀川の記事が掲載されていました。「もう一度来た」ということ。その前の訪英は、1936年だからその14年前である。新 聞記者たちが覚えていて見出しを「賀川リターンズ」にしたに違いない。「おお、すごいな」「戻ってきてくれた」ということなのです。

 賀川純基さんの「予見」には登場しませんでしたが、そのころ国際平和協会の機関誌世界国家」で賀川豊彦が書いた「少年平和読本-侵略者の末路」という文章を読んでいました。ロシアの作家トルストイの 有名な童話『イワンの馬鹿』をモチーフに戦争を論じたものです。こんな分かりやすい戦争論を読んだことはありませんでした。私が書く賀川の姿より、すでに 書き手としての賀川がその昔、存在していて多くの共感を得ていのだと思います。私がそのむかし感動した賀川の文章をここに転載したいと思います。

 侵略者の末路

 昔ロシアの 或る田舎に一人の貧しい百姓が住んでいました。自分の所有地が少ししかないので「もつとたくさんの土地がほしいなあ」と言い暮らしていました。すると或る 大地主がそれを聞いて「では、これから馬に乗つて、夜までの間に、ほしいと思う廣さの地面を廻つておいで。そうしたら、その地面をそつくりおまえにあげる から--」といいました。百姓は大喜びで、さつそく馬に乗って出かけました。百姓は一坪でもよけいに地面をもらおうと思い、できるだけ遠廻りしてかけて行 きました。昼が来ましたが、食事をする暇もおしく、先へ先へと進みました。気がつくと、太陽はいつのまにか地平線のかなたに沈もうとしています。けれど も、もう少し、もう少しと思って、なお先へと進みました。おなかはペコペコ喉もからからです。日はとつぷりと暮れて道さえわからなくなりました。そこで百 姓はあきらめて、帰途につきました。しかし、馬は疲れているので、いくら鞭を加えても走りません。百姓のように疲れてたおれそうです。けれども今夜中に家 に帰りつかなければ、折角、慾張つて廣くしるしをつけて来たその地面ももらえません。それで、息たえだえの中から、鞭を馬にあてて家の方へとかけて行きま した。そしてやつと家に帰りついて、やれやれと思うと同時にあまりの疲れのため、百姓の息はたえました。

 この慾ばりの百姓は、一体どれほどの地面を大地主から貰つたのでしょうか、彼の得た地面というのは、自分のなきがらを埋める六尺にも足らぬ狭い地面だったのです。

 これはトルストイの童話にある有名な話ですが、これに似た事実物語をあなたは聞かなかつたでしょうか。野心満々の政治家や 軍人が、領土をひろげ、権力慾を満足させようとして、周囲の弱い国々を侵略し、とうとう精根尽き果てて、一敗地にまみれ、自分のみか、国民全体を塗炭の苦 しみに泣かせて、却つて旧来の領土をさえ狭めてしまつたという「イワンの馬鹿」を笑えない実例をあなたは実際に知つているはずです。

 世界歴史をひもといて見ても、そこにはたくさんのいわゆる英雄偉傑が、この童話の主人公と同じ運命を辿つているのを知ることができるでしょう。シーザーハンニバルナポレオン、近くはヒツトラー、ムツソリーニなど、みなそれです。シーザーの如きは、ガリヤを征服したのを手始めに、各地に侵略してローマの版図をひろげ、一時は飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、ブルタス、カシウスのためにローマの議事堂で刺し殺され、カルタゴハンニバルも、古来屈指の名将とうたわれましたが、シピオの一戦に破れて国外に追われ、ローマ人に捕らわれるのを怖れて自ら毒を仰いで死にました。さらにナポレオンに至っては、西ヨーロッパをその馬蹄の下に蹂躙しましたが、慾張つてロシアに攻め入ろうとして成功せず、次いで、ウオターローの戦に敗れて世界征服の野望も空しく、セントヘレナの孤島に、配所の月を眺めつつさびしく生涯を終わりました。

 こうして、侵略戦争の 下手人たちの末路は古来きまっています。そして、この侵略者を出した国家は亡び、その国民は流浪することになるのです。国破れて山河あり、嘗ては世界歴史 の上に輝かしい名をとどろかせたが、今はその後さえない国や、名はあつても昔の面影をとどめない国になど、あなたがたはその幾つかを知つているでしょう。 ジヨルダンというアメリカの学者は「バビロン、アツシリアが亡び、ギリシヤ、ローマの亡んだのは、全くその国の国民が、戦争好きでこれ等の国の亡国は一つの退縮現象である」といつています。身のほどを考えずに膨れた風船玉がパチンと破裂して、しわくちやなゴムの破片を残すに過ぎないようなものです。

 しかし、ひるがえつて考えて見ますと、遠い昔の戦争はとも角、近代の戦争は侵略者のせいのみとはいいきれなくなつているのではないでしよう か。戦争の原因が、社会の進運に伴つて次第に複雑さを加えて来たからです。近隣の弱小国や未開国を侵略することには変わりはありませんが、その原因なり、 目的なりが、単なる権力慾だけではなく、たとえば、人口が増加して自国の領土内だけでは食糧が不足になつて来たとか、工業生産の原料が、自国内だけでは自 給できないとか、生産品を売り捌く新しい市場がほしいとか、そういつたいろいろの経済的原因などから、領土を拡張し、植民地を獲得しようとして戦争をしかけるものが多くなつて来たのです。

 そうしたことは、その国としては立派に理由になりますが、暴力により領土や権益を奪われる側の国家としては、たまつたものではありません。しかし今日まで、弱小国、未開国と呼ばれた国々は、常に、強い国のためにこうして蚕食されて来たのでした。

 (中略)

 帝政時代のドイツの皇后の侍医で有名な心臓の学者ニコライは、戦争に反対して獄につながれましたが、獄中で書いた「戦争の生物学」 という書物で「動物が衰退に近づく時、その動物は必ず破壊的となつて戦争を好むものだ」といつています。この人の説に誤りがなければ、人類もそろそろ終わ りに近づいたことになりそうです。もし人類が衰滅したくなかつたら、世界中が戦争を放棄して、小鳥のように平和に、仲善くしなければなりません。蟻のよう に食べものをわかちあうようにせねばなりません。

 日本は世界にさきがけで戦争を放棄しました。もうイワンの馬鹿のお話のような慾張りはコリゴリです。侵略戦争なんか桑原々々です。私たちは侵略者の末路を、いやというほど見せつけられたのですから。(「世界国家」昭和25年5月号)

 二〇〇三年一月、エース交易の機関紙『情報交差点』に「EU理念の一つとなった友愛経済の発想―キリスト教伝道者・賀川豊彦― 」という文章を書いたことがあります。ヒントはその前の年の純基さんとの会話にあったのはいうまでもありません。直感的に書いた文章が今も古臭くないのです。

 賀川豊彦欧州連合EU)誕生と関わりがあるといえば驚く向きも少なくないと思う。『死線を越えて』というベストセラー作家として知られ、貧民救済に生涯をかけたキリスト教伝道者というのが賀川豊彦という人物の一般的理解だからだ。

 世田谷区上北沢の松沢教会にある賀川豊彦記念・松沢資料館で、EC(当時)のエミリオ・コロンボ議長(イタリア首相)が日本にやってきた時、EC日本代表部が発行した1978年のニューズレターを目にした。「競争経済は、国際経済の協調と協力という英知を伴ってこそ、賀川豊彦が提唱したBrotherhood Economics(友愛経済)への方向に進むことができる」とECの理念への賀川哲学の関与が述べられていた。

 憎しみを乗り越えたシューマン・プラン

 EUの歴史は1951年、戦勝国フランスシューマン外相が占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した「シューマン・プラン」に始まる。この提案がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約の締結につながり、後のECの母胎になったことは周知の事実であるが、「復讐や憎しみは次の復讐しか生まない」というシューマン哲学はどうやら戦前に賀川豊彦ジュネーブで提唱したBrotherhood Economicsに源を発するようなのである。

 このBrotherhood economicsは賀川豊彦が1936年、アメリカロチェスター神学校からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、同年、スイスジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学でも同じ内容で講演された。

 「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、第三の道としてイギリスロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。

 賀川が特に強調したのは「近代の戦争は主に経済的原因より発生する」という視点だった。国際連盟条約が死文化した背景に「少数国が自国の利益のために世界を引きずった」からだと戦勝国側を批判し、国際平和構築のための協同互恵による「局地的経済会議」開催を提唱した。これは今でいう自由貿易協定にあたるのではないかと思う。

 その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界に宗教改革(Reformation)をもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhood Economicsこそは資本主義社会主義止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだ。

 この講演内容はまず英文でニューヨークのハーパー社から出版され話題となり、わずか3年の間にヨーロッパアメリカ中国など25カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウス??世の序文が付記されたという。

 貧困救済から世界平和へ

 『死線を越えて』という小説は大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込みキリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。

 賀川豊彦キリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、一方でコープこうべを始めとする日本での生活協同組合運動の生みの親となった。戦後は内閣参与となり、アメリカシカゴから始まった世界連邦論運動を平凡社下中弥三郎らとともに強力に推し進め、1951年には原爆被災地広島世界連邦アジア会議を開いた。この会議の精神はアジアの指導者の多くの支持を得て、1955年のバンドンアジア・アフリカ会議継承された。

 彼が単なるキリスト教伝道者でなかった背景には、徳島神戸で回船事業を経営していた父親の血を受けたとする説もある。興味深いのは神戸の貧民窟に住み込んで「天国屋料理店」「無料宿泊所」「授産施設」「子供預所」「資本無利子貸与」「葬礼部」など次々と事業を考えたことである。互助互恵の精神で衣食住から学校、職場、貸金、葬儀までを自前で経営しようとしたのである。長男の賀川純基氏が作製した「賀川豊彦関係事業展開図」によると、賀川が関係した事業でその後発展したものには「コープこうべ」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」「中ノ郷信組」「中野総合病院」など幅広い分野にまたがっている。

 賀川哲学貧困救済を基礎にしているのは、戦争も社会不安も経済的不平等に端を発していると考えたからであった。本来、宗教は魂の救済を求めるものなのだが、あえて宗教の枠を超えたところに賀川豊彦の真価がある。経済活動にまでその手を伸ばしたのは貧しい人々の自立のためであり、労働運動に手を染めたのも働く人々のまっとうな権利を回復するためであった。

 再浮上する協同組合的発想

 賀川豊彦が現代的意味を持つのは、やはり2001年9月の同時多発テロからである。90年代以降、アメリカ一国主義のもとで進んだ国際的な政治対立や貧富の格差拡大にどのように対処していけばいいのか。「仲間」であるか「敵」であるかを鮮明にすることを求めるアメリカに対して、ヨーロッパを中心にオルターナティブ的発想の重要性が唱えられており、互恵互助や協同組合的工作といった発想が再び求められているからなのである。

 昨年4月、賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市賀川豊彦記念館ができた。記念館は世田谷区上北沢墨田区本所神戸市中央区吾妻通と4カ所になった。しかし賀川豊彦に対する関心はまだキリスト教伝道者としての貧民救済の域を出ていない。

 賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。人文から科学まで幅広い見識を持ち、いまでいえば経済・社会のトータルプランナーだった。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。

1954年、賀川豊彦協同組合の中心思想として掲げた「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」という言葉は人類がまだ追い求めていかなければならない理念ではないかと思う。

 ワシントンDCジョージタウンにあるワシントンカテドラルという英国教会の教会に、日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれている。

 時代が呼んだ賀川豊彦

 EUといえば、リヒャエル・クーデンホーフ・カレルギー(1894-1972)に登壇してもらわなくてはなりません。父親はオーストリアの外交官ハインリヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵。外交官として明治期の東京に駐在しました。そこで青山光子を見初めて妻としました。リヒャエルは二人の二男として東京で生まれ、栄次郎という日本名もありました。

 クーデンホーフ家の領地は現在のチェコボヘミアにありました。当時はオーストリアハンガリー帝国の支配下にあり、そこで育ったリヒャエルが第一大戦後に「反ヨーロッパ主義」を唱えたのです。ヨーロッパ統合はリヒャエルに始まします。だからEUの父とも呼ばれているのです。

 光子はその後、フランス化粧品会社ゲラン香水「ミツコ」の名前として残っています。名前が残るぐらいヨーロッパの宮廷政治に名前を遺した人物だったはずです。何がいいたいのかといえば、EUを生んだ4分の1は光子の息子のリヒャエルであり、賀川豊彦協同組合思想も4分の1ぐらい貢献していたと考えると、EUの震源地の半分は日本にあったと考えられるということなのです。

 賀川の見直しが少しずつ始まるのは、2008年9月のリーマン・ブラザーズ・ショックからです。あっという間に金融危機が世界をめぐり多くの国で実体経済が大きく落ち込みました。多くの識者が「資本主義の暴走」を口にし始めたのです。日本では小林喜多二の『蟹工船』が思いかけずブームとなり、『死線を越えて』など賀川豊彦の著書の復刻が相次いでいます。「貧困」や「搾取」という言葉まで復活し、「小泉構造改革」が「貧困」をもたらしたとの政治フレーズがメディアを賑わしました。

 われわれが賀川豊彦献身100年記念事業を始めるにあたって、奇しくも資本主義が暴走した結果がもたらされてしまったのです。格差社会です。「今なぜ賀川豊彦なのか」ということすら説明する必要がなくなってしまったのです。

先進国資本主義の限界説が語られるようになりました。新聞紙面でも「ソーシャルビジネス」や「社会的起業」といった賀川的発想が掲載されるようになっています。ソーシャルビジネスはバングラデシュムハマド・ユヌス氏が数年前から同国で始めた救貧事業です。資本主義社会に利潤はつきものですが、見返りのない投資を求める運動を展開しています。

 不思議なことに、そんな発想に食い付く事業家がフランスにいるのです。ダノン・グループを率いるフランク・リブーです。バングラデシュにユヌス氏のグラミン銀行と合弁でグラミン・ダノン設立し、1個8円のヨーグルトシャクティ」を売り出し、それが売れて工場増設にまで到っています。

 2010年1月3日の日本経済新聞の企業面の企画記事「欧州発 新思想」ではそんな状況を「従来型の企業の社会貢献ではない。ダノンシャクティを通じて最貧国での事業ノウハウを獲得し、新興国ビジネスに役立てる。さらに時がたてば、最貧国も新 興国の仲間入りをする」と驚きとともに紹介しています。

 同じ日経の同月5日投資欄 のコラム「一目均衡」では小平龍四郎編集員が「社会起業」 についてこう書いています。

ダボス会議で知られる世界経済フォーラムは昨年来、社会起業をテーマに議論を交わしている。短期の収益を求める金融資本主義は自壊した。代替するパラダイムは何か。慈善とビジネスを両立させようとする社会企業家が、重要な役割を担うかもしれない、という問題意識だ」

「一昨年からの金融危機。資 本市場を舞台にした活動を通じて何ができるかを。世界は問い直す。社会起業や慈善など、市場の外にあると思われた倫理への競うような接近は、そうした自問への答えの一つ。社会的責任投資も同じ文脈に置ける」

 これらの記事を読んで、20年以上に三洋電機井植敏社長が言っていたことを思い出しました。

「南ベトナムが "解放"される前、われわれはホーチミン郊外にラジオ工場を経営していた。革命後は政府に接収されたが、ドイモイが始まって再びベトナムに行ってみるとその工場がしっかりと運営されていて驚いた、というより感動した。事業は資本のためにあるのではない。社会のためにあるのだということを深く思い知らされた」

 そんな話だったと記憶しています。なるほど大経営者は考えることが違うと感心したのでした。

 資本主義の代弁者だった日経新聞の記者たちが新たなパラダイムに着目していることは重要です。天国の賀川先生も喜んでいるに違いありません。資本主義が曲がり角を迎えるこの時代に触覚のよさを発揮していると思います。

 賀川豊彦松沢資料館の杉浦秀典学芸員は言います。

経済問題だけでなく、地球温暖化異常気象など環境の問題にも直面せざるをえなくなっている。これからはお金も、仕事も、環境も、分かち合いの精神でないと立ちゆかない、みんな、どこかで感じているからではないでしょうか」

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