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tagorekimono3.jpg ラビンドラナート・タゴール(1861年-1941年) ベンガルが生んだ詩人であり思想家である。岡倉天心を通じて日本とのつながりが生まれ、イギリス統治下でアジア人としての意識に目覚める。詩集『ギータンジャリ』を英文で出版したことにより、1913年にアジア人として初めてノーベル文学賞を受賞した。

 タゴールはコルカタの名門家の7人目の子として生まれたが、タゴール家は元々、東ベンガルつまり現在のバングラデシュにあった。領地シライドホの自然を愛し、若い日に度々訪れた。ボートハウスに滞在しながら川を巡り、村の農民たちの生活や祭りを知った。ベンガル文学の担い手や宗教歌謡の歌い手、吟遊詩人らと出会ったことが、その後、詩人へと変貌するきっかけとなった。

 世界的には詩人として知られるが、音楽、舞踊、演劇、絵画など幅広い分野で足跡を残したことはあまり知られていない。1898年、37歳のとき、シャンティニケタンに学舎を建設、古代の森の学園をモデルに緑豊かな学園を創設して活動の拠点とした。現在はタゴール国際大学の名で通っている。

 日本とのつながりは、1902年にインドを訪問した岡倉天心との出会いを通じてもたらされた。天心もまたインド滞在中に英文の著作『東洋の理想』をものにするなどインドに開眼する。タゴールは西洋の科学に対してアジアの精神性を強調し、アジアの文明の源流をインドに求めた天心の強烈な個性に共感したといわれる。1916年の初来日では国を挙げての大歓迎を受け、日本にタゴール旋風を巻き起こした。特に東京大学での講演「インドより日本への使信」は有名である。孫文が1925年に神戸女学院で行った「大アジア主義」に匹敵する講演である。天心はもはや亡き人となっていたが、天心が残した茨城県五浦(いづら)の六角堂を訪問、横山大観や荒井寛方ら日本画家から多くの影響を得たといわれる。

 政治的には終生、反英の軸足は揺るがなかった。1907年、イギリスがベンガル分割令を打ち出すと反対運動に参加、その時、タゴールが書いた愛国歌が集会で唱われるようになり、その一つが独立後、インド国歌となり、さらにバングラデシュ国歌ともなった。

 ガンディーとの親交は1914年、まだ南アフリカで弁護士だった時代にシャンティニケタンにタゴールを訪問したときから始まった。1930年ロンドン滞在中、ガンディーが反英闘争の一環として敢行した「塩の行進」で逮捕されると、イギリスの対応を非難、オックスフォードで後に「人間の宗教」として知られることになる連続講演を行った。1932年からガンディーが獄中で断食を行うたび、イギリス政府に抗議の電報を打ち支援した。

 晩年は日本の中国侵略に批判的となり、インド国民会議派が分裂の危機に陥った1939年、穏健派のネルーと急進派のチャンドラ・ボースとの亀裂を修復するため会談を実現させるなど尽力した。

 1941年8月7日、80歳の天寿をまっとうしたその4カ月後、日本による真珠湾攻撃で、日米が開戦した。
hose.jpg ホセ・リサール(1861年-1896年) スペイン植民地下のフィリピンで、文学を通してフィリピンをフィリピンたらしめようと立ち上がった英雄。いまも建国の父とされる。フィリピン独立革命に連座され、志半ばにして処刑された。曽祖父に日本人の血が流れているとされ、来日時に心を寄せた恋人おせいさんの肖像画がリサール博物館に飾られているなど日本との関わりも小さくない。

 スペインに対して最初の反乱「カビテ暴動」が1872年に起きた。カビテ兵器廠で働く人々が待遇改善を求めてストライキを起こしたことが引き金となって僧侶を中心に自由主義者や知識人が抗議行動を起こしたが、騒動を指導した僧侶3人が死刑に処せられたのを含めて多くの犠牲者を出した。

 リサールはマニラ南方のラグナ州に生まれた。父は中国福建省系、母はスペイン系のフィリピン人である。マニラで哲学、医学を学んだ後、スペインに渡った。留学中、この事件をテーマに最初の小説『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触れるな)をスペイン語で書いた。植民地支配の実態を明らかにし、どうしたら悲惨な支配から脱出できるかをフィリピン人に問いかけた内容で、二番目の小説『エル・フィリブステリスモ』(反逆者)でもスペインの隠された圧政の歴史を次々と暴露した。

 リサールはスペインで留学生を糾合してフィリピンに改革を求める雑誌「ラ・ソリダリダート」(団結)を発行するなどして、その名は母国はもとよりヨーロッパでも一躍、若者に大きな影響を与える存在となった。中国で言えば魯迅と孫文を合わせたような存在だったといえるかもしれないが、平和主義者でフィリピンの独立を求めたことは一切なく、母国の法的平等を求めるなど当時としても穏健派に属していた。

 しかし1892年、リサールが帰国後に「フィリピン民族同盟」の結成に着手するやいなや反逆罪に問われて、ミンダナオのダビタン島に流罪となった。カビテ暴動後もフィリピンではスペインの過酷な土地支配に対する暴動が頻発し、カティブナンと称する秘密結社までが生まれていた。カティブナンは「崇高なる人民の子の団体」という意味で、リサールの民族主義から発展して武力によって独立を求めた。

 そのカティブナンが1896年、マニラの弾薬庫を襲撃し、武装蜂起した。最初は革命軍が優勢だったが、スペイン本国から3万人の援軍が到着すると形勢は逆転、革命は一気に鎮圧された。植民地政府はこの蜂起の指導者でもなかったリサールをみせしめのために銃殺刑に処した。

 当時、日本はまだ日清、日露の戦争もなく列強の圧力の下にあり、知識人たちはフィリピンのリサールの非業の死を大きな悲しみを持って受け止めた。『ノリ・メ・タンヘレ』が翻訳出版されたり、フィリピン独立運動を主題とした多くの作品が世に出たのは当然のことだった。(伴 武澄)

kousonbunsairai.jpg なつかしいタイトルの新刊が高知の自宅に届いた。『天下為公』。宝田時雄さんが長年温めてきた想い『請孫文再来』がワープロの文字になったのは、大分前のことである。上板橋の自宅でフロッピーディスクにコピーしてもらい、30回分の文章を読んだ。これは本になると直感した。しかし、中国革命の歴史をよく知っている人でないと理解できない部分が随所にある。

「とりあえず、これをメルマガで連載しましょう。ホームページは僕がつくります」と提案した。10年以上も前のことである。萬晩報で紹介したら、1000人近くの読者が一気についてしまった。その後、『請孫文再来』は宝田さん自身の手でブログに転載され、現在に到っている。

 宝田さんのブログ「まほろばの泉」に書かれた出版にいたる経緯を以下に転載させていただく。

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昨年は辛亥革命百年ということで華人圏や、孫文に縁故のあった明治の日本人が多く取り上げられた。
さかのぼること二十年前、孫文の側近として日本人として唯一臨終に立ち会った山田純三郎の甥である佐藤慎一郎氏と夜半の酔譚のおり、歴史の必然という話題があった。

そのなかに孫文の様な人物(姿)が政治的にも、民生の上でも必要とされる時が来る、と。
それは教科書記述や歴史書となっている経過ではなく、人の心の変遷を推考して将来を描くような応答だった。

つまり、その将来を想定して、いま遺す作業が必要だった。誰に請われたわけではない、師弟のごく自然の感覚だった。

酔譚の録音テープを起すと
「先生、孫文再来を請う、こんな名前で書いたらどうでしょう」
『孫文は歴史の必然として興る。これは人の心の欲する人間像だから・・』

そんなことで書き始めた。章を追うたびに荻窪に参上し酔譚にふけた。
『年表も必要だ・・・』『写真はこれがいい・・』そう言って棚の上を探した。

それを見ながら『あの時、孫さんは・・と伯父が言っていた』と懐かしんだ

それゆえ拙書は研究者や学者の類にはない、つまりアカデミック(学術的)ではない、土着性(エスノぺタゴジー)な内容になった。それは歴史の時空を超えて吾が身を比較できるものだった。体験者から繋ぐ、それは感動感激の記述だった。

また、現代生活で自身が、これならできる、いや難しい、あるいは今の政治家や外交官との比較もできる市井の教本のようでもあった。

一応、脱稿して先生の前で朗読した。それは時間を要した。黙って聴いていた先生は「嗚呼」と声をあげた。顔はくしゃくしゃとなり落涙していた。奥さんは下を向いたままだった。津軽から満州、そして戦後の日本を見てきた先生が、涙を流した。以前、満州大同学院の二世にお話ししたとき「日本は悪いことをしたのです」と泣かれたことがあった。

喜びではない、それは人間の所作に向けた涙だった。そして『日本はもう駄目だ・・』と天井に目を向けた。

お別れしてから暫く隠していた。己の浅学さが恥かしかった。これを自身の備忘として世に出すことが堪らなくて隠していた。

ある大手の新聞社が新たな構成で出版したらどうかと促された。「いゃ・・名が出ると好きな女と歩けなくなるから・・」と巧妙にお断りして事もあった。

あるとき友人に見つかってホームページに構成された。恥かしかった。孫文の命日には一日遅れたが、アップしたら上海のサイトから掲載の依頼があった。米国からもあった。こんな面倒で難しい、しかも稚拙な考察を書き連ねる文章だが多くの読者があった。インターネットとはこんなものかと驚いたりもした。

そして辛亥革命の百年を記念して多くの友人から嘱望があった。元々、売文の輩、言論貴族と揶揄しているものが、商業出版は馴染まないし潔くない。そこで、編集ソフトを購入し、自身で紙を選定し印刷した。あるとき仕事帰りに懸命に働く人のよさそうな製本作業所が目にとまった。車の窓越しでもそれが分かった。
もちろん、その方にお願いした。
内容は佐藤氏との酔譚抜粋も付け加えて編集した。

http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t
201112171232.jpg 国王に二度即位するなどということはあまり聞いたことがないはずである。日本では大化の改新のころと奈良時代に女帝が二度即位したという歴史があるが、昨年12月13日に即位したマレーシアの14代目国王、アブドル・ハリム・ムアザム・シャー(クダ州のスルタン)は36年年ぶりに王座に復帰した人物である。

 なんでそんな不思議なことがおきるのかというと、マレーシアは建国以来、王様の輪番制を取る世界的にも珍しい政治制度が続いているからである。王様の任期は5年。9人のスルタンの中から順番で即位することになっている。任期途中で亡くなると次のスルタンが即位するから45年で一巡するわけではない。

 マレーシアは11の州から構成される。ペナンとマラッカはイギリス統治時代に直轄植民地だったため、スルタンがおらず、残りの9州にスルタンが存在していた。1957年、イギリスから独立してマラヤ連邦が誕生したとき、憲法制定委員会は国王を新たに設けて国家元首とすることを決めた。そのとき、この国王輪番制が決まった。

 この国王輪番制がどういう経緯で生まれたのか、いろいろな人に聞いてきた。もちろんマレーシアの友人にも聞いたことがあるが、誰もその経緯を語れなかった。その真相が最近になってようやく分かった。

 筆者が編集に関わっている財団法人霞山会の広報誌「Think Asis」第6号に小野沢純拓大教授が「マレーシアの国王は5年任期の輪番制」というレポートを書いてくれたためである。

 それによると、そもそもヌグリ・スンビラン州では9人の首長(ルアク)から互選でスルタンを選ぶことが続いていて、ペラ州ではまさに3つの首長の間で輪番でスルタンを選んできたという経緯があった。そうした「互選」「輪番」による統治を国家レベルに高めた結果、9人のスルタンが輪番で5年ごとに国王になるというユニークな政治制度が確立してのだという。

 マラヤ連邦の初代国王はヌグリ・スンビラン州のスルタン、アブドル・ラーマンが選ばれたが、その後、12人のスルタンが国王になり、今回83歳のアブドル・ハリムが二度目の国王に復帰したということなのだ。

imagesribu.jpg 日経新聞1月9日のグローバルオピニオンの欄でフランスの食品大手ダノンのCEO、クランク・リブー氏が企業経営について興味深い話を紹介している。

「海外進出や新しい事業に乗り出すと株式会社から早期に果実を求められる。しかし事業会社は金融界からの圧力で仕事をしているわけではないことを丁寧に説明すべきだ。最貧国の一つ、バングラデシュでグラミン銀行の創設者のムハマド・ユヌス氏と合弁会社を設立して乳製品の販売を始めようとしたとき、ダノンの株主総会でこう話した。「利益はでないでしょう。もし利益がでたら再投資する。仕事が創造され、それが貧困をなくすことになる」。すると99%の株主が賛成してくれた。この事業は一年で軌道に乗った。」

 ダノンの使命は「食品を通じてより多くの人に健康を届ける」ことだという。そして企業が存続するためには「環境対策、貧困解消など今の社会に求められることと合致する強い使命感を持ち続けること」が重要であるという。

 昨今のグローバリズムとかなり違う企業理念を持っていることに驚いた。ダノンの株主も「利益追求」だけが投資目的でないのだ。バングラデシュの合弁事業はヨーグルトを製造し、それを10円足らずで販売している。すでに第二工場が立ち上がっている。ソーシャルビジネスが配当を行わない。社会事業として経営することで社会的価値が高まることに満足してもらおうというのだ。

 ユヌス氏にいわせれば、世界中で貧困のために巨額の寄附が行われている。ソーシャルビジネスは配当はないが、元金は戻る。寄附は一回したらなくなってしまうが、ソーシャルビジネスはその資金を繰り返し投資できるため、「持続可能」なお金になるのだそうだ。

 日本ではユヌス氏に呼びかけでファーストリテイリングがバングラで「100円Tシャツ」をつくるということが一年ほど前に報道されていた。バングラデシュのユヌス氏の下で、新しい「資本主義」の試みが行われている。(伴 武澄)

 ダノンのフランク・リブーCEO 「新興国開拓、独自性尊重を」(日経新聞1月9日)


 

 

inuzuka.jpg 筆者が会長をしている財団法人国際平和協会。世界連邦を目指す団体の一つであるが、世界連邦というと誰もが「そんな夢みたいな」という顔をする。世界連邦運動協会という兄弟団体があって、実は1948年から活動を始め、全国に支部網まである。日本での世界連邦運動はこの運動協会を核に国会委員会、自治体協議会、宗教委員会がある。国会委員会は国会内に事務局をおき、会長は中野寛成衆院議員が務める。

 その国会委員会主催の講演会が12月8日、衆院議員会館で開催された。講師は元参院議員の犬塚直史氏。世界連邦運動協会の国際委員長でもある。10月にワシントンで開かれた世界連邦運動の国際理事会に参加した報告会でもあった。

 犬塚氏によると、内戦などで国民の生命 が危険に瀕している場合、国際社会が積極的に関与すべきだという意識が強まり、国連で保護する責任の役割が年々大きくなっている。またEU議会 にならって国連でも国益を乗り越えた議員総会の設立が急務であるとの認識を示した。

 21世紀に入って世界連邦運動が再評価されている背景には現在のペイズ専務理事の功績が大きい。世界のNGOに働きかけて、国際刑事裁判所を設立させ、日本もその条約を承認している。旧来の国際司法裁判所が「国家」を裁くのに対して、個人を対象に国際社会が裁く裁判所として注目されるのだ。

 以下、講演の要旨である。

 最近、注目されているのが「保護する責任」。従来、国際社会は「内政不干渉」が原則だったが、ルアンダでの虐殺を契機に意識が大きく変化した。政府が国民 を保護する能力がなかったり、保護する意思がなかったりする場合、国際社会が代わりに責任を負うというものである。2005年の国連総会で全会一致で採択 され、今年のリビア内紛では国連が保護する責任を発動した。世界連邦ができた場合は、この保護責任原則に基づいて動くはずである。

 2009年からWFMが保護する責任の事務局となっていて、2011年11月だけでも世界各地で10回もセミナーが開催されネットでも報告されている。日本に世界で起きている動きを伝えるため、日本語サイトを立ち上げたい。

 もう一つ注目してほしいのが国連議員総会(UNPA)の考えだ。現在の国連は政府代表によって成り立っているが、EU議会にならって世界や地球全体のことを考えるために、国益代表でない代表を選出しようというのである。

 すでに国連憲章22条で補助機関を設ける規定があるので、これを用いれば国連憲章の改正をしなくても議員総会は設置できると考えられている。国連議員総会 の設置に対して反対しているのが列国議会同盟(IPU)であるが、列国議会同盟を議員総会に発展させるということを提案していっても良いのではないかと思 う。

 世界連邦運動ニューヨーク本部では約4億ドルの寄附を集めたが、74%は国際刑事裁判所問題NGO連合、21%は保護する責任の国際連合へのもので、世界 連邦運動そのものへの寄附は4%に過ぎない。本部の運動は世界連邦そのものを直接前面に押し出すのではなく、国際刑事裁判所、保護する責任などのプロジェ クトで進めて成功している。

 1998年に国際刑事裁判所のNGO連合を立ち上げた時は17の団体しか加盟していなかったが、現在はなんと2500ものNGOが加盟している。世界連邦 運動のウィリアム・ペイス氏がその代表を務めているが、世界連邦であるということを前面に出してはいないので、他のNGOは中心が世界連邦とは知らないで あろう。

 2003年国際刑事裁判所が実際に設立されたのは、世界連邦運動の大きな成果である。スーダンでは元大統領が責任追及されることまで起きている。「侵略の 罪」について個人責任を追及するようになったのも大きな前進である。今後は核兵器の使用についても対象とすることを求めていくべきである。(伴 武澄)
DSC_0257.JPG クリントン米国務長官がミャンマーを訪問し、アメリカとミャンマーの関係修復に乗り出している。民主主義が行われていないと軍事政権を非難し続けたアメリカが豹変した。ミャンマーが国際社会に復帰できることは喜ばしいことではあるが、あまりにもご都合主義でなないか。長年、経済制裁を行ってきた国に対して態度を変えたのは、中国に対する牽制である。

 実はミャンマーはアジアでマレーシアに並ぶほど親日的な国である。国の成り立ちに、戦前に多くの日本人が関わってきたからにほかならない。ミャンマーの歴史を葉たる際に、イギリスがどのようにこの国を統治してきたかということを知らなくてはならない。

 そのイギリスを追い出すことに多くの日本人が関わっていたことはほとんど記憶のかなたに去っている。竹山道雄が執筆した少年向けの小説『ビルマの竪琴』すら、現在の日本人は忘れている。不思議なことに、豊かになった日本で起きているのが、アジアへの無関心なのである。

 田中正明『雷帝 東方より来る』(自由国民社)、バーモウ『ビルマの夜明け』(太陽出版社)、泉谷達郎『ビルマ独立秘史 南謀略機関』(徳間書房)を相次いで読んで、ビルマ(ミャンマー)建国の父であり、スーチーさんの父親であるアウンサン将軍に思いをはせた。

 アウンサン(1915年-1947年)はオンサンとも呼ばれたビルマ(現ミャンマー)建国の父である。学生時代から反英闘争に入り、第二次大戦では日本軍と協力してビルマ独立軍を編成、軍政の中、バーモウ首相をいただいて独立するが、日本軍が劣勢に転じると英国側に寝返る。戦後、イギリスとの独立交渉のリーダーとなる。1948年の独立を見ることなく、反対派に暗殺された。

 アウンサンが独立運動の闘士として注目されたのはラングーン大学の学生時代。運動の機関誌の編集長として活躍。過激な記事を掲載したことで中途退学を余儀なくされるが、その後全ビルマ学生連盟のリーダーにのし上がった。

当時、イギリスはビルマに自治制度を取り入れ、独立闘争の矛先を緩和しようとしたが、唯一屈しなかったのが、学生を中心とするタキン党だった。タキンとは主人という意味でビルマの統治はビルマ人によらなければならないという主張を掲げた。アウンサンもまたタキン党の有力メンバーだった。
第二次大戦が始まると、イギリスはビルマ統治を強化しようと、自治政府の閣僚も含めて危険人物を一網打尽にした。そんな中、アウンサンは中国アモイに脱出していた。

 アウンサンの反英闘争は日本軍の目にもとまり、逃亡先に逃亡したラミヤンとももに参謀本部の鈴木敬司大佐によってアモイから救出され、33人の仲間とともに海南島で「死の軍事特訓」を受ける。

 1941年、日本軍の南方進出が進む中、ビルマ独立義勇軍を編成し、陸軍の南機関のもとで、ビルマ進攻作戦の先鋒役を果たす。翌年3月、ラングーンが陥落すると義勇軍は国防軍と名を変え、43年8月、バーモウを首班とするビルマ独立に際しては28歳で国防大臣に就任する。

日本とビルマの蜜月時代は長くは続かなかった。戦争中の独立は軍政下における自治にも満たなかったため、ビルマ側の不満は到るところで噴出した。44年、インパール作戦が失敗に終わると、完全に日本軍から離れ、ビルマ共産党などと反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を組織して日本軍に反旗を翻した。

 戦後は、このAFPFLがイギリスとの独立交渉にあたったため、アウンサンの国際的知名度は一気に高まった。47年1月、一年以内に独立を約束するアウンサン・アトリー協定が結ばれたが、国論の統一は難しく、48年1月、政敵のウー・ソー派に暗殺された。

 独立を見る前に暗殺されたという点ではインドのガンジーと同様であり、日本軍に協力した面では同じインドのチャンドラ・ボースと似ている。海南島時代、アウンサンは仲間とともに日本名をもらい、緬甸(ビルマ)から面田紋次を名乗っていた。南機関の鈴木機関長もまた、ビルマ名、ボ・モージョを名乗った。33人の志士からはネ・ウィンら戦後に首相になる人物も含まれていた。

 

 
 学生時代から日本とは何かをずっと考えてきている。引きずっているのは日本にとってのアジアという存在である。少年時代に南アフリカでアパルトヘイトの洗礼を受けたことが影響しているのだと思っている。政治家も評論家も学者も戦争について「アジアへの贖罪意識」については語るが、「はたして日本がアジアなのか」という議論をずっと避けてきた。

 明治時代、西洋という対抗軸の中で多くの日本人がアジアを強烈に意識していた。「脱亜入欧」は西洋に追いつけというスローガンではあった。しかし、日本が先進国の仲間入りをした後も、人種も宗教も異なる日本について、西洋諸国が心を許す仲間になるほどにはなり得ていないし、そもそもなり得ない存在なのだろうと感じている。

 日本がアジアで信頼を得ていないのは、いつも西洋の尻馬に乗るその立ち振る舞いにあったのではないかと思っている。外交の軸足はいつだって「アメリカ」だった。かつて独自外交を目指した政治家もあったが、ことごとく悲惨な末路をたどっているのは確かである。

 「アジア」の重要性を口にしながら、重要な決定を控えると対米従属の行動を繰り返してきたのが戦後日本だった。アジアから見える日本はまだに欧米崇拝であり、アジア蔑視だったはずである。

 約20年前にアジア共同体をつくろうという動きがあった。最終局面でアメリカから「アメリカ抜きの経済体」は許さないという圧力がかかり、APECという中途半端な組織が誕生した。アジア太平洋経済閣僚会議である。台湾や香港という「国家」でない単位も加盟できるよう「閣僚会議」と命名したのは苦悩の末だった。アジアはそれほどに微妙な政治的バランスの上に成り立っていたからだ。それなのに、クリントン大統領はAPECで「首脳会議」を敢行した。結果的に台湾の総統は参加できなくなった。

 21世紀になって、ようやく東アジア共同体の発想が育まれた。アセアンの中に「プラス3」、つまり日中韓というフォーラムを形成し、東アジアの経済協力を進めることになった。アジアが互いに信頼醸成できる経済的環境が生まれたとの感慨があった。

 TPPの存在を知ったのは1年前である。菅直人首相が突然、TPP参加を表明した。そのとき、東アジアの協力の機運に真っ向から対立する概念だと感じた。

 経済力や成長力で日本を凌駕する中国と韓国の存在感は90年代とは比べられないほどに高まっている。貿易量でも日中は日米を上回るまでになっている。アメリカが大切なのかアジアが大切なのか。比較する前提も大きく変化している。そんな情勢の中で再びアジアを分断するような経済体をつくる必要はない。

 日本がもう一度、アジアに立ち戻るチャンスを見逃してはならない。TPPは日本の農業であるとかサービス業うんぬんの話ではない。日本外交がアジアに軸足をおくのかどうかという歴史的な分水嶺になるはずだ。日本抜きのTPPなど地域経済体としてまったく意味をなさないはずだ。参加国の経済規模があまりに小さすぎる。アメリカの一人芝居に終わるに決まっている。

 野田佳彦首相は何をあせっているのか。民主党の多くの反対論に抗してまでTPP参加を決断する意味はない。日本の立ち位置についてもう一度深く考えてほしい。

 萬晩報は以前から財団法人国際平和協会と提携して「アジアの意思」を提唱してきた。「アジア主義」から100年、日本を中心としたアジア主義への反省から新たなスローガンが不可欠との認識から生まれた言葉である。英語では「Think Asia」という。

 今年2011年は孫文の辛亥革命100年。全国で孫文ゆかりのニュースが発掘されている。まさに日本と中国との歴史と未来を考える年としたい。たぶん、 孫文を網羅したページは今回の萬晩報が初めてだと思う。各新聞社の事情で一定期間をすぎるとクリックしてもニュースが反映しない可能性がありますが、あし からず。【編集者=伴 武澄】

2011.10.17 辛亥革命100年 「革命の遺産恐れる中国共産党」ウォールストリートJ紙【産経新聞】
2011.10.15 中国辛亥革命 「民族」より「民権」を【毎日新聞】
2011.10.13 孫文の飛行学校設立で契約書 台湾の史料館が所蔵【共同通信】
2011.10.12 東奥日報社説「山田良政」
2011.09.26 孫文ゆかりの飛行機模型、長崎で展示 東近江市民が復元【京都新聞】

2011.10.13 岡山市で「闘う政治家犬養木堂--明治期の活躍」、孫文との交流も紹介【山陽新聞】
2011.10.12 孫文ゆかりの史跡散策/辛亥革命100周年【朝日新聞】
2011.10.10 台湾が建国100年行事 中国に民主化呼び掛け【共同通信】
2011.10.10 「辛亥革命100年」 神戸で記念企画続々【神戸新聞】
2011.10.10 中国:厳戒「辛亥革命100年」【毎日新聞】
2011.10.09 二本松で鈴木天眼資料展 孫文と交流あった明治のジャーナリスト【福島民報】
2011.10.02 安川敬一郎の孫文への資金提供、出納簿で初確認【読売新聞】
2011.10.01 孫文と庄吉展開会式に320人 長崎で1日一般公開【西日本新聞】
2011.09.30 辛亥革命と福島、つながりを研究【毎日新聞】
2011.09.22 孫文・梅屋庄吉と長崎:飛行機「翦風号」の複製展示-長崎歴史文化博物館【毎日新聞】
2011.09.10 「滔天と孫文」来月上演 荒尾市民ら練習に熱【熊本日日新聞】
2011.08.25 孫文企画展をPR 長崎県、北京でイベント【西日本新聞】
2011.08.06 日中結んだ孫文と梅屋庄吉 交流の足跡たどる企画展 長崎で10月から【西日本新聞】
2011.08.04 「孫文と九州」 3人の銅像長崎へ 梅屋夫妻への感謝形に 中国が出身地に寄贈【西日本新聞】
2011.07.27 梅屋庄吉像を上海に 長崎県「友好の象徴として」【西日本新聞】
2011.07.23 孫中山記念会理事長に就任 田崎雅元さん【神戸新聞】
2011.06.18 孫文、革命前に米国籍取得 証明文書を特別展で公開へ【共同通信】
2011.06.11 山田兄弟の生涯を冊子で/愛知大【東奥日報】
2011.05.05 孫文の足跡歩く 長崎市【西日本新聞】
2011.04.27 台湾の今昔に親しむ 金沢でフォトギャラリー【北国新聞】
2011.04.11 『孫文の義士団』 革命を信じて命をなげうった市井の人たち【共同通信】
2011.04.10 孫文の"遺産"初公開 北九州市で企画展【西日本新聞】
2011.02.09 「孫文と梅屋庄吉」で長崎振興 推進協が発足【西日本新聞】
2011.01.30 孫穂芬さん死去 孫文の孫【共同通信】
2011.02.09 "孫文と梅屋庄吉"推進協設立 官民一体、映画や特別展支援【長崎新聞】
2011.01.05 孫文の足跡紡ぐ人名録出版へ 辛亥革命100年で【共同通信】

 高知市自由民権記念館で「憲法草案の生まれた書斎」という展示が開催されている。10月16日までだから後数日で終わる。

 この8月、館内の2階にピンク色の壁に囲まれた8畳ほどの空間が誕生した。異空間といっていい。自由民権運動家、植木枝盛が憲法草案を書いたことを記念 していて、移築されたばかりである。それにしてもこんな空間で弱冠24歳の枝盛がどのようにして欧米の民権を学んだのか不思議に思った。

 高知に住み始めて5カ月がすぎる。あいさつ状には「晴耕雨読」などと格好をつけたが、はたしてこの間、自分は何をしてきたのだろうか考えさせられた。

 そうそう5月には中国・大連に旅し、旅順港をのぞんだし、霞山会の広報誌「Think Asia」の編集にも引き続き関わっているし、財団法人国際平和協会や世界連邦運動協会の会合にも頻繁に出席してきた。何もボーっとして5カ月を過ごしてきたわけではない。

 8月にはよさこいを踊った。孫文革命に尽した高知出身の萱野長知の研究を始めた。ひょんな出会いから高知県の小水力のあり方について学び始めた。安芸市 の寒村に嫁いだ小松圭子さんとの再会があった。高知工科大学で面白い音楽会に出会った。日中友好協会の高知支部の植野克彦さんが招聘した上海の画家との交 友が始まった。
 何か自分の「高知物語」が書けそうな気分になり、このごろ気分も晴れやかなのである。

 話を植木枝盛に移そう。明治14年、弱冠24歳で書いたという憲法草案を初めて読んでみた。『東洋大日本国国憲按』という。当時、多くの民権論者が憲法制定を求め、自ら草案を練った。

 枝盛の草案は当時でも最も民主的な内容だったとされる。冒頭の「国家の大則」に自由民権を説く。
・第5条 日本国家ハ日本各人ノ自由権利ヲ殺減スル規則ヲ作リテ之ヲ行フヲ得ス
・第6条 日本国家ハ日本国民各自ノ私事ニ干渉スルコトヲ施スヲ得ス

 面白いのは「連邦制」を草案に盛り込んでいる点である。律令制の国を州とし、70州による「日本連邦」を規定している。その後、皇帝、立法院、行政、司法など国もあり方を示した。全220条に及ぶ。

 枝盛は、天皇を皇帝と呼んでいるが、その権限として「皇帝ハ兵馬ノ大権」とし、「皇帝ハ国政ヲ施行スルカ為メニ必要ナル命令ヲ発スルコトヲ得」など明治 憲法同様に勅令を出す権限を与えているが、一方で「皇帝ハ人民ノ権利ニ係ルコト国家ノ金銭ヲ費スベキコト国家ノ土地ヲ変スベキコトヲ専行スルヲ得ス必ス聯 邦立法院ノ議ヲ経ルヲ要ス立法院ノ議ヲ経ザルモノハ実行スルノ効ナシ」と専制とならないよう皇帝の権限に歯止めをかけている。

 立志社 東洋大日本国国憲按(案)
 http://tamutamu2011.kuronowish.com/risshisyakennpou.htm

 早稲田大学の創立に尽力した同じ高知出身の小野梓もそうだったが、枝盛は若いころから独自のアジア主義を論じた。当時の日本の国力からして、日本が突出 した後のアジア主義は望むべくもなかった。だから欧米によるアジア侵略から守るためにアジアが連携しなければ共倒れになるという危機感を共有していたのだ ろう。欧米を「大野蛮」と言い、アジアの被抑圧からの独立振興を主張し、戦争にも反対であった。

 中国や韓国が経済的に興隆した現在と地政学が似ている。欧米の対抗軸としてのアジアを構想した点に学ばなければならないと考える。

 ありがたいことに、高知には日本や世界を考える素材がそこかしこに存在する。とここまで書いて高知新聞のコラムを読むと驚くべきことに今日10月13日は高知県詞の日なのだそうだ。植木枝盛が残した「自由は土佐の山間より発したり」にちなんで。(伴 武澄)


 孫文は1925年に革命半ばでなくなる。その前年には神戸で「大アジア主義」という有名な演説を行っており、「日本は西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか」と迫った言葉は大学時代にアジア主義を学んだ筆者にとって一生をつらぬく課題となっている。
 その孫文の辛亥革命から来年は100年となる。日本と中国で多くの行事が予定されているが、孫文を回顧すればするほど、辛亥革命に尽くした多くの日本人の物語が登場してくる。それが日中ひいてはアジアと日本の融和につながることになると確信している。
 シンポジウム「孫文の理想と東アジア共同体」
 http://xinhai-sunwen2011.org/page2_01.html

  昨夜5日、ホテルオークラで「海部俊樹君の叙勲を祝う会」が開かれ、勘三郎が舞い、中曽根康弘元首相も駆けつけるなど大盛会だった。筆者が理事をしている 世界連邦運動協会の会長をしていただいている海部さんには7月にインタビューをし、9月30日に内々のお祝い会でもお会いしているので顔見知りになってし まった。

 実は海部さんが首相だったころ、日米構造協議があり、ブッシュ米大統領との直接談判のため、ロサンゼルス郊外まで同行取材をしたことがある。政府専用機で記念撮影をした際に一言話をしたことがあるが、当時の首相が一介の経済記者の存在を覚えているはずがない。

 面白いもので7月のインタビューの際に、海部さんが最も力を入れたことを聞いたら「青年海外協力隊の設立に関わったことだ」と話した。日本が世界平和の ために尽せることを自民党青年局で話していたら、ケネディーが始めた平和部隊みたいなものを日本でもつくろうということになり、協力を求めるために全国を 行脚した話が出た。
 「実は僕の父親が二代目の協力隊事務局長でして・・」というと間髪いれず「伴正一か、覚えているよ、あんたはその息子か。その後、選挙にでたな!、民社党なんてところからでなければよかったのに・・」と懐かしそうに話してくれた。

 海部さんは昨夜の祝いの挨拶でも「日本には世界に誇る青年海外協力隊がある。自民党がイロハのイから作った政策だから自民党はもっと自信を持っていい」などと会に参加した谷垣自民党総裁を励ましていた。

 返す刀で菅直人前首相が「最小不幸社会」といったことに対して「僕はすべての国民の幸せを考えるのが政治だと思う。どうしたら幸せにできるか力の限り協力させてもらいたい」と挨拶を締めくくった。

 20年前、生意気にも「頼りない首相だ」「かっこばかりつけて」などと小ばかにしていたことを今頃少々反省している。菅さんにしても3・11の原発対応 はどうしようもなかったが、たぶんあれほどの大惨事では誰が首相であっても似たり寄ったりの対応しかてきなかっただろうと考えている。大臣ならともかく一 国の宰相ともなれば、安全保障から福祉、財政まであらゆる問題に直面し、それなりにさばいていかなければならない。それは一国民では分からない重圧なのだ と思う。

 だから首相のやることに批判をするのを止めたということではない。海部さんが青年海外協力隊をつくったというだけで日本の歴史に残る首相の一人だったといえないかと思い出しているのである。(伴 武澄)

  今年、中国の「辛亥(しんがい)革命」から100年になるのに合わせ、神戸市垂水区東舞子町の孫文記念館が、革命の指導者である孫文(1866~1925 年)と日本国内でかかわった人たちの人名録作成を進めており、今秋にも出版する。外務省の資料などから、これまでに延べ1700人をリストアップ。重複を 除いても千人以上となる見込みで、同記念館は「孫文と日本人の関係を示す貴重な資料となる」としている。(中部 剛)

 孫文は中国の革命家、思想家として知られ、1911年に始まった辛亥革命を主導した。1895~1924年の間、通算約9年日本に滞在し、多くの日本人から支援を受けた。

 神戸にも少なくとも18回訪れており、松方幸次郎や滝川儀作、呉錦堂ら実業家が資金面で活動を支えた。呉錦堂の別荘として建てられた移情閣には孫文も訪れ、現在、孫文記念館となっている。

 http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0003717642.shtml
 2011年は辛亥革命から100年の節目に当たるため、同記念館はシンポジウム、資料展を企画。人名録作成も 記念事業の一環として、09年から記念館の研究員らが外務省の資料などを丹念に読み込んでいる。人名録は支援者だけでなく、孫文の洋服を仕立てた職人ら無 名の市民も盛り込むという。

 名前のほか、孫文とどのようにかかわったかなども記述し、50音順で紹介するほか、トピックスごとに分類したり、在日華僑をまとめたりして編集する方針。兵庫県内の資料が最も豊富にあり、掲載される人名数も多くなりそうだ。

 神戸大名誉教授で、同記念館の安井三吉館長(69)は「明治、大正期の日本と中国は西洋列強に圧迫され、共通の感情を抱いていた。いかに多くの日本人が 孫文にかかわり、支援したかを示したい。また、孫文と日本人の絆を振り返ることは、今後の日中関係を考える上でも重要」と話している。

(2011/01/05 11:25)
 古い話だが、一九六〇年代、筆者は南アフリカのプレトリアに住んでいた。すれ違いざまに「ヘイ・チャ イナ」と呼ばれ、やるせない思いになった。「ヘイ・チャイナ」はアジア人に対する蔑称である。日本人が「支那人」と蔑んだように、西洋人は日本人を「チャ イナ」と侮蔑していたのである。語源はよく分からないが、黒人のことは「キャファー」と蔑称していた。

 そのチャイナが二〇一〇年のGDPで日本を抜いて世界二位になった。もはや南アでもどこでもアジア人のことを「チャイナ」と蔑むことないだろう。

 問題は中国と同じ漢字を使用する日本だ。最近とみに「支那」を使う人が増えてきた。中国が嫌いな日本人たちが中国人が嫌がる「支那」という表現をあえて使うことで鬱憤を晴らしているような気さえ感じられる。
 古来、日本人は中国を王朝名で呼んできた。不思議なことに王朝名はあっても国名はなかった。代表的なのは 「唐」である。日本への文化的影響が一番大きかったからであろうが、江戸時代になっても「唐(から)」「唐人」という呼称が残っていた。明治になってから は西洋諸国にならって中国と正式に国交を結び、もっぱら「清国」となった。「中国」という国名はまだない。

 日本にはもう一つ「支那」という呼称もあった。いつから始まったかは分からない。空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられたとされるが、一般的だっ たとは思えない。たぶん明治になって王朝名とともにその国名を特定するために「支那」が多用されるようになったのだと思っている。

 日本に亡命した革命家や留学生たちも日本での著作にで「支那」と書いていることなどから、内外ともに「支那」という表現に差別の意識はなかったはずだ。

その「支那」が差別語になったのは、日清、日露戦争以降、日本と中国の国際的地位が逆転してからのことである。一九一一年の辛亥革命で清朝が倒れ、大きな 後ろ盾を失った。翌年、中華民国の成立を宣言したが、不幸なことに中国自身は分裂状態に陥った。日本としてもあの広大な大陸をなんと呼んでいいかとまどっ たに違いない。日本国政府は一九一三年六月の閣議で「条約や国書を除いて『支那』と呼称する」と決定したほどだった。

支那という表現が日本で定着する背景にはそんな事情もあった。中国全土が一つの政権下に治まるのは蔣介石による"統一"を待たなければならなかった。

 つまり「支那」という呼称が差別的だったのではなく、日本人の意識が差別的になったのである。そのころ日本人が「中国」と呼んでいたら、「中国」という表現も「ヘイ・チャイナ」と同様に差別語になっていたかもしれない。

 そんな問題意識が長いことあって、この一〇年、中国人に出会う度に「あなたたちは自分の国をいつから中国と呼ぶようになったのか」ということを聞いてきた。多くは「何をいまさら」というような表情をする。私はこう言って畳み掛けた。

「明治時代、日本は清国と呼んだ。清国大使館があり、多くの清国留学生が日本にやってきた。会社名にも日清という文字がよく使われ、今もいくつか残っている。明治の人たちは中国という表現すら知らなかったはずです」

 そう言うと「なるほど」という顔をするのだが、肝心の「いつから」という疑問に答えてくれた人はまだ現れてこない。中国人自身、「支那」を嫌がるわりに「中国」の出現についてはあまり関心がないらしい。
 さて「中国」である。一八四二年、阿片戦争後の南京条約で漢文の「中国」が使われた事例が最初であるとの説もあるが、一般的に使われたふしはない。筆者は、「中国」の使用は日本から多くの新語彙を導入したとされる梁啓超に始まるのではないかと勝手に想像している。

 梁啓超は康有為とともに清朝の変法運動を起こしたが、改革に失敗して日本に亡命した。その梁啓超が東亜同文会の機関誌「東亜時論」第一号(一八九八年一 二月)に寄せた「論支那政変後之関係」と題したエッセー(漢文)では自国を「支那」と呼んでいたのに、その第二号では「日中国十八省」など「中国」という 表現が使われている。第三号でも、第四号でも「中国」が登場する。

 しかし一九〇五年、東京で革命期成同盟を結成した孫文や黄興らは、その機関誌「民報」に中国のことを「支那」と書いたとされるぐらいだから、梁啓超の「中国」が多く人口に膾炙されていたとはいえなさそうだ。

 辛亥革命後に成立した中華民国以降は「民国」という略称が多用された。国民党には「中国」がついていなかったから、革命後に直ちに「中国」と呼ばれたのか不明である。

「中国」が公式に使われ始めたのは、孫文が一九一八年に再起を期して結成した「中国国民党」ではないかと想像している。初期の国民党とは違う組織であるこ とを意識して「中国」が頭につけられた。次は一九二一年の「中国共産党」である。日本では「日本共産党」が誕生したように、モスクワからの指令で各国に設 立されたそれぞれの共産党に「国名」が付記されたものである。

 この時期になると中国人で「支那」を使用する人はほとんどいなくなり、急速に「中国」という表現に置き換わっていく。新文化運動・白話文運動など知識人の中に起きた啓蒙運動を通じて民族としての「中国」が自覚されていったのではないかと考えざるを得ない。

 ちなみに日本政府が正式に「中華民国」の呼称を用いるようになったのは一九三〇年一〇月の閣議決定以降のこととなる。日本が関税協定の条文中に「支那」 を使用したことに対して同年五月、中華民国政府が「無礼ノ 字句ヲ使用」「国家ヲ辱シメ」などと批判したためである。それでも「支那」がなくなったわけではない。漢字という共通文化を持つがゆえの軋轢はまだ続いて いるのである。(共同通信社 伴 武澄)
 東亜同文書書院と内山書店

 東亜同文書書院が、目薬から生まれたといえば驚く向きもあろうと思う。魯迅ら中国の新時代を築いた進歩的知識人のサロンとなった上海の内山書店もまた目薬なくして生まれなかった。戦前の日中交流史に欠かせない二つの拠点が目薬が奇縁となって生まれたことは興味深い。

 まずは、一〇〇年以上も前の東アジアの気候風土に立ち戻らなくてはならない。多くの風土病があり、伝染病も予防すらし得なかった時代、多くの人が患った のが眼病だった。埃っぽいだけでない、竈の煤が原因だったという説もある。その眼病に西洋人がもたらした目薬が効果てきめんだった。その処方をいち早く学 んだ日本はある意味で目薬の製造拠点となった。(共同通信社 伴 武澄)
 その先駆けは岸田吟香だった。岡山・美作の豪農の出身で、日本のジャーナリストの草分けの一人として知られる が、一方で「精錡水」という目薬を売り出した実業家でもあった。一八七七年、銀座に楽善堂という薬局を開店し大いに繁盛し、一八八〇年には上海そして漢口 にも支店を設けて大陸に販路を広げた。起業三年で大陸に乗り出す経営感覚は並大抵でない。楽善堂には荒尾精ら大陸に関心を持つ人々が集まり始め、楽善堂の 支店からは貴重な中国の生の情報が陸続と入り、アジア情報の拠点となる。
 一方、岸田は長岡護美、曽根俊虎らが一八八〇年に組織した興亜会(亜細亜会)を全面支援した。興亜会は後に東亜同文会に発展的に吸収される。長尾は熊本 の細川斉護の六男で外交官となり、後の子爵・貴族院議員である。曽根は米沢藩士の家に生まれ海軍士官となり、日清の相互理解を深めるために一八八〇年、東 京に中国語学校を開設した。

 荒尾は尾張藩士・荒尾義済の長男。陸軍から情報収集のため大陸に赴任し、中国貿易の実務者を養成する日清貿易研究所を一八九〇年、上海に設立した。日清 貿易研究所は陸軍の資金も入っていたが、日常の経費は楽善堂上海支店の売り上げによって賄われていたといわれ、岸田がいわばアジア主義者たちのパトロンと なっていたといってもいいのかもしれない。

 日清貿易研究所は日清戦争を機に閉鎖されるが、実質的に組織を運営していた根津一は東亜同文会を設立した近衛篤麿に請われて上海の東亜同文書院の初代院長に就任する。一九〇一年のことである。
楽善堂の支店はその後も天津、北京、重慶、長沙などへと拡大し、「精錡水」の名は大陸にとどろくことになる。この時期になると楽善堂は単なる薬売りではなくなっている。

 そもそも岸田を目薬につなげたのは横浜の米人医師へボン博士だった。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士は日本初の和英辞典『和英語林集成』を編纂する にあたり、目を患って江戸から横浜に来ていた岸田に期待した。岸田はヘボン博士の元で目の治療をしながら英語力を吸収していた。江戸末期の日本には印刷技 術が未熟だったため、ヘボン博士は岸田を上海に連れて行き『和英語林集成』は当地で印刷された。

 ちなみにヘボンは正式にはヘップバーンだったが、横浜の漁民たちが発音できずに「ヘボン博士」と呼び、しまいに本人も日本名を「ヘボン」で通すようになった。

 和英辞典編纂のお礼にヘボン博士が岸田に授けたのが硫酸亜鉛水溶液の点眼剤だった。

 面白いのは上海に書店兼サロンを経営して中国の進歩的知識人たちを支援した内山完造が中国に赴く契機となったのも同じ目薬だったことである。

 内山は岡山県の生まれで、京都で丁稚奉公をしていた時、京都教会で後に同志社総長になる牧野虎次と出会いキリスト教に入信する。そして一九一三年、牧野 の推薦で大阪の大学目薬店参天堂の上海駐在のセールスマンとなり、漢口、九江、南昌など各地で目薬を売りながら中国人との人脈を深めていく。中国行きが決 まったとき内山は「肉の躍るのを感じた」と後に述懐している。よほど中国への憧れが強かったのだろう。

 内山は上海に拠点をおきながら、商売で家にいることがほどんどなかった。書店を開いたのは結婚した妻が暇をもてあましていたからだった。初めはキリスト教関係の書籍を扱っていたが、客の求めで一般書も置くようになり、数年のうちに上海で一番繁盛する書店に発展した。

 内山書店の開店は一九一七年とされる。中国で胡適らによる白話運動が盛んとなり、内山にとっての幸運は上海がその文芸復興運動の一大拠点となったことである。

 日露戦争後、中国人留学生が大挙して日本を目指したが、第一次大戦中、日本が袁世凱政権に対中二十一カ条要求を突きつけたことにより、多くの留学生が失望し、帰国して上海に拠点を移す人も少なくなかった。

 当時、日本語に翻訳された欧米の文芸書や学術書は中国人にとっても貴重な知識源となっていた。内山書店には在留邦人だけでなく中国人インテリのたまり場になったのは自然の成り行きだった。
内山は参天堂への恩義もあり、書店が繁盛してからも一九二九年まで大学目薬を売り続けたそうだ。
たかが目薬ではあるが、点眼器に入った日本の目薬は瞬く間に中国人にとって家庭の常備薬の一つになった。中国人の衛生向上につながっただけでない、小さくて軽量でありながら付加価値の高い商品だったのである。

 荒尾らは目薬を売りながら大陸情勢の収集に努めたが、岸田に眼病がなかったら、ヘボン博士と出会うこともなく、「精錡水」は生まれていない。日中の心の 交流史を築いた内山の場合もキリスト教への入信がなかったら、参天堂の社員になって上海に赴くことはなかったはずである。歴史は必然ではなく、偶然の賜物 なのかもしれないと考えれば興味が尽きない。

  昨年、中国建国60年を記念して制作された映画「建国大業」を見る機会があった。冒頭に毛沢東と蔣介石が重慶で会する場面がある。1945年9月のことで ある。戦後の中国の経営を話し合うためなのだが、二人が孫文の遺影の前で記者会見し、「お互い孫文の教え子」と語らせるのだ。

 8月、上海万博で梅屋庄吉の孫にあたる松本楼の小坂文乃さんによって「梅屋庄吉と孫文展」も開催された。2011年の辛亥革命100年を前に孫文の再評 価はすでに始まっている。中国共産党にとっても国民党にとっても国父であることに違いはない。というより孫文を介することで中国と台湾の融和が進む。そん な予感がある。

 中国革命に登場する日本人は多い。梅屋庄吉と孫文の関係はアジア近代史の中の秘史に属する。胡錦濤総書記が昨年来日した折り、福田康夫元首相が日比谷の松本楼で夕食会を開いたことで二人の関係を知った人も少なくないはずだ。

 二人は1895年に香港で出合い意気投合する。孫文はその前の年にハワイで興中会を立ち上げたばかりの見習い医者。庄吉は孫文が最初に出合った日本人 で、香港で写真館を経営していた。後にシンガポールで映画と出会い、帰国して日活を設立するメンバーの一人となる。最初の出会いで庄吉は「君は兵を挙げ よ、我は財をもって支援する」と語り生涯にわたって事業で得た資金を惜しげもなく中国革命に投入した。

 胡総書記が庄吉と孫文の契りをどこまで知っていたか知らないが、100年以上も前の日中間の底に流れていた熱い関係をたぶん感じ取ったはずだ。松本楼では「世世友好」と揮毫した。
 話は転じて一昨年前の四月、文京区の白山神社を訪ねたことがある。白旗桜という珍しい名の桜があると知り、満開のときにぜひとも自分の目で確かめたいと思った。白旗桜は白い花弁のオオシマザクラだった。

 源氏の棟梁、義家が奥州に向かう途上、白山神社の前で桜木を見つけ、源氏の白旗をたてかけて、この地から岩清水八幡宮に戦勝を祈願した。そんな伝説から神社前の桜木を白旗桜と呼ぶようになったという。

 そんな感慨にふけっている最中、片隅にある石碑に目がとまった。「孫文」とある。なぜこんなところに孫文の碑があるのかいかぶった。碑文を読むと面白い。

「1910年5月中旬の一夜、孫文は宮崎滔天とともに境内の石に腰掛けながら中国の将来、その経綸について幾多の抱負を語り合った。そのとき、夜空に光芒を放つ一條の流星を見て、この時、祖国の革命に心に誓った」

 宮崎滔天は中国で最も知られる革命支援者の一人である。宮崎滔天全集の中に、当時、孫文は白山神社に近い小石川原町の滔天宅に寄寓していたと書かれてい る。孫文が滔天と知り合ったのは1897年のことだから、すでにこの二人も肝胆合い照らす仲だった。中国語にも翻訳されている『三十三年の夢』には孫文と の出会いから始まりともに行動した日々の思い出がつづられている。

 孫文が白山神社を訪れたのは辛亥革命の前年である。孫文は1905年、自らの興中会と黄興の華興会、蔡元培の光復会を糾合して東京で中華革命同盟会を結 成、1907年からシンガポールに拠点を移して革命資金の調達のため世界を回っていた。この年の5月、ハレー彗星が地球に最も近づいた時期である。流星に 願を懸けるのは中国でも同じだ。義家の故事にならって革命の日の到来を祈願したのだろう。

 日清戦争で日本は中国から台湾を割譲させた。にもかかわらず当時の中国の知識人たちは反日ではなかった。当時、中国には二つの支配があった。250年に 及ぶ満州族による統治の上に、西洋列強が相次いで中国の経済的支配を構築しつつあった。日露戦争で日本がロシアに勝利すると一気に日本留学ブームが訪れ た。1万人を越す留学生が集まり、日本語に翻訳された西洋の新知識をむさぼるように吸収しようとした。早稲田大学は1000人内外の中国人留学生を抱え、 早稲田鶴巻町は著名な中国人人士の集積地と化した。

 日本側にも中国とのつながりに活路を見出す人々が多くいた。政府は脱亜入欧の道をばく進していたが、日中提携を掲げる論者も少なくなかった。中国で起き ている事柄は明日の日本にも及ぶと考え、日中提携して西洋とあたらなければならないと考えていた。頭山満や犬養毅らもまた中国革命に大いなる関心を持って いた。

 1890年、東亜同文会(1898年設立)の前身となる日清貿易研究所は荒尾精らによって上海に誕生していた。荒尾は96年に急逝するが、その意思を継いだのが、宮崎滔天や津軽の山田良政らだった。
良政は、ジャーナリスト陸羯南の愛弟子。陸の意向に従い北海道昆布会社の上海支店勤務となり中国との関わりがスタート。1898年に東京で孫文と出会い、 中国革命への協力を約束する。孫文が指揮した1900年の恵州起義に参戦して日本人初の殉教者となった。良政の中国革命との関わりはたった2年だったが、 中国人たちに壮絶な印象を残した。

 良政の死後、孫文は書を残し、弘前の山田家菩提寺貞昌寺に山田良政の碑が建てられた時、「山田良政君...嗚呼人道之犠牲、興亜之先覚也、身雖殞滅、而志不朽矣」と刻印された。

 孫文は東亜同文書院の学生だった良政の弟、純三郎を重用した。純三郎もまた側近の一人として革命に身を捧げ、孫文が北京で息を引き取った際、妻宋慶齢らとともに立ち会っており、山田兄弟は中国革命烈士として畏敬の念で見られている。

 庄吉や滔天、良政の存在は日本の中国侵略史の中で埋没している。しかし、辛亥革命をともに生きた日本人が少なからずいたこともまた歴然とした史実であ る。中国の経済的台頭によって脅威論ばかりが語られる。岡倉天心が『東洋の理想』の中で「アジアは一つ」と書いたのは1903年のことである。いろいろな アジアがある中で「一つ」でありたいという願望や意思を語ったのである。東アジア共同体が語られる今日、日本でも今一度、同じ目線で辛亥革命の歴史的意義 について考えたい。(伴 武澄)

   秋以降、東アジアは風濤に激しく揺さぶられた。日中間では尖閣諸島をめぐって緊張が走った。北方領土をロシア大統領が訪問して日本側が態度を硬化させ た。韓国ヨンピョン島では北朝鮮からの砲撃があり民間人が死亡した。戦争と無縁と考えていた多くの日本人に「国防」の重要性を再認識させた数カ月でもあっ た。

 しかし、紛争とは連鎖するものなのだろうか。水面下で東アジアを揺さるマグマが動き出したのであろうか。東アジア情勢は「日本海を平和の海へ」とばかり に北東アジア経済交流を活性化しようと試みた20年前の動きと逆行し、あたかも100年以上も前の帝国主義時代に舞い戻ったような様相を示している。

 2006年の年頭に「他国を譏らない愛国でありたい」というコラムを書いた。
 http://www.yorozubp.com/0601/060111.htm
「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情で
ある。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それにしてことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」

 司馬遼太郎の小説の中の一節から、当時の中国での反日デモに対して冷静であるよう求めた。さて、萬晩報はここで一つの提案をしたい。

 世界連邦運動協会の四国地区支部は10月31日四国ブロック大会を高知市で開催し、欧州連合の発端となった欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)にならって 「尖閣諸島を国際管理してはどうだろうか」という宣言文をまとめ発表した。日中の共同管理ではない。手前みそだが、資源をめぐる争いを逆手にとり、国際的 に「共同管理」することによって管理する国際機関を「東アジア共同体」につなげる発想は斬新で各国の理解を得やすい。平成版アジアの「船中八策」ともいえ よう。

 2010年世界連邦四国地区ブロック大会宣言文

 欧州連合(EU)は欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)からスタートした。ドイツとフランス国境のアルザスにある石炭と鉄鉱石を国際管理したのが始まりであ る。アルザスは100年以上にわたりドイツとフランスによって繰り返し国境線が書き改められた。その愚を繰り返さないためにフランス外相のシューマンが 1950年に共同管理を提唱し、各国が賛同して翌年ECSCが誕生した。

 振り返って東アジアはどうだろう。資源をめぐって角をつき合わせてはいないだろうか。9月には尖閣諸島海域で日本の巡視船に中国の漁船が衝突する事件が 発生し、日中間は一気に不穏な政治情勢となった。南シナ海でもアセアン諸国が南沙諸島や西沙諸島をめぐって緊張関係を強いられている。特に日中間はここ5 年、双方の努力によってようやく不信感をぬぐい去ったばかりで、たった一つの事件によって信頼関係はいとも簡単に崩壊の危機に向かっている。双方がナショ ナリズムを高め領有権を主張し続けるかぎり、東シナ海に平和は期待できない。

 いっそのこと、シューマン外相にならって双方が領有権を「放棄」して東シナ海を共同管理してはどうだろうか。東シナ海、南シナ海、さらには日本海やオ ホーツク海は漁業を含めて豊かな資源に恵まれている。その資源を共同管理することは不可能なことではない。環境問題や生物多様性条約に見られるように、不 可能どころか、いまや国や地域が共に汗を流し譲り合わなければならない時代に来ているのではないだろうか。

 もちろん共同管理を考えることはたやすいことではない。アジアの代名詞は長い間、多様性だった。だからアジアに共同体はなじまないと考えられてきた。多 様で違いがあるから分かり合えないのではない。時代に共生や協働が求められていると言えば分かりやすいかもしれない。もはや共通点を語り合えばいいという 時代も過ぎ去った。求められているのは発想をさらに進めて「利害を捨てる」という発想だ。日本固有の領土であり譲りがたい尖閣諸島だが、ここから東アジア 共同体が生まれるという発想には夢がある。

 先人の志を受け継ぐ四国四県の仲間は、今年で37回を数える「世界連邦四国協議会総会」並びに「四国ブロック大会」をここ高知に結集して開催した。偉大 な先覚者たちの偉業に学び、四国から世界連邦運動の再構築とその実現に向けた夢を描き、共に手を携えて、その実現に向け努力してゆくことを決意し、ここに 宣言する。

2010年10月31日
第37回世界連邦四国協議会総会
2010年世界連邦四国ブロック大会

 きょう8月18日はインド独立のヒーロー、スバス・チャンドラ・ボースが台北の飛行機事故で亡くなった日である。杉並区の蓮光寺では午後1時から66回忌の慰霊祭が行われた。この慰霊祭には何回通っただろうか。

 大学時代にボースと出会い、卒業論文に「インド独立とチャンドラ・ボース」を書いたのは33年前のことである。その後一度もインドを訪れたことがない。 にもかかわらずずっと日本とアジアとの関係が気になっている。西洋のアジア支配という視点に目を転じると見えないものが見えてくるはずである。結果的に 20世紀前半の日本はアジアを広く支配する勢力となったが、その裏にあるアジア対西洋という構図があったことを忘れてはならないのだと思う。

 16日の日本の4-6月期のGDP速報値発表によれば、日本のGDPは0・4%増の1兆2883億ドル(ドル換算)となり、同期の中国のGDP(1兆 3369億ドル)を下回った。歴史的分水嶺の日を迎えたのだと感慨深い。中国のGDPはこの5年間で倍増しており、10年以内にアメリカのそれを抜くこと は間違いない。その後にひたひたと迫っているのはインド。人口では中国を下回るようにいわれるが、筆者の認識ではパキスタンとバングラデシュを加えた"イ ンド"の人口は中国を上回っており、いずれインドもまた中国に並ぶ日が来るのだと考えている。

 天国のボースはこのアジアの経済的興隆について何と語るだろうか。

 八田與一のことを書いた萬晩報のコラムを見た虫プロダクションの社員からメールが来て、八田與一のアニメーション「パッテンライ」が完成していたことを知った。というより光栄にも4月1日の試写会に招待された。

 八田與一は台湾で最も尊敬される日本人として教科書にも紹介されている。先日紹介したクリスチャン・シビルエンジニア広井勇のまな弟子でもある。
 http://d.hatena.ne.jp/kagawa100/20100306/1268627126

 パッテンライのサイトから転載したい。
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 長編アニメーション映画、南の島の水ものがたり「台湾で敬愛される日本人」の― 台湾南部の不毛の大地に命を吹き込んだ土木技師、八田與一。「パッテンライ」とは「八田がやってきた」の台湾語。半世紀を超えて現在もなお当時のままに人 々が謝辞と敬意をいだく、ひとりの男がいた...。
 国を民族を越えて、人と人との絆がもたらす、感動の実話、ついに初アニメーション映画化!!〔上映時間90分/配給:「パッテンライ!!」製作委員会〕
 http://www.mushi-pro.co.jp/ticket.pdf
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 台湾でも2009年11月13日から一般映画館で台湾吹き替え版が上映され、一般公開に先立って台南県新営市での試写会では、台南試写会では馬英九総 統、台北試写会では李登輝元総統と謝長廷元行政院長らが鑑賞した。台南県では2010年にも県内の小中学校で巡回上映会を実施する予定という。

 【萬晩報】台湾で最も愛される日本人-八田與一
 http://www.yorozubp.com/9907/990718.htm
 【萬晩報】台湾で最も愛される日本人-八田與一(続編)
 http://www.yorozubp.com/0005/000509.htm
 先日、財団法人霞山会が都内で主催した「東アジア共同体の多角的検討」というシンポジウムに出席した。日本と中国の学者が東アジア共同体の是非を議論す る場であったが、興味深かったのは出席した日本側の発言者はこの構想に「懐疑的」で、中国側に推進論が多かったことである。

 休憩中にタバコ部屋で中国担当だった元大手商社マンに質問した。
「中国語で韓国ウォンは何て言うのですか」
「ハンユアン(韓元)さ」
「元でなく、圓ではないですか」
「圓の簡体字が元だから、元です。ともにユアンと発音が同じです」
「なるほど、中国元ももともとは中国圓ですよね。日本圓は戦後に日本円となった。ということは日本も中国も韓国も"圓圏"ということができませんかね」
「おもしろい発想だ」
「そう、日本は"エン"で、中国は"ユアン"、韓国は"ウォン"。漢字で書けばどれも"圓"となる」

 日本が明治時代に通貨をつくったとき、"圓"を採用した。江戸時代は「両」だった。そもそもが中国の「圓」を使うことになったのは、貿易銀を鋳造すると き、広東省造幣局や福建省造幣局で"圓銀貨"が存在していたからだ。メキシコ銀も多くアジアで流通していた。銀貨の重さと銀の含有量は同じだったから、発 行体が違っていても問題なく流通していたのだ。

 ここまで来てなるほどと分かった方は通貨をよく知っている方だと思う。もともとアジアの通貨は"共通"だったのである。東アジア共同体を考える際に多く の日本の論者は、アジアの多様性について言及してきた。筆者は共通性に注目したい。漢字で書いて理解できる文化圏であり、箸を使う文化圏が東アジアなのだ とまず定義すれば、分かりやすい。

 西洋の多くの国がギリシャ、ローマ文明を古典として学ぶように、東アジアでは儒学を長く学んできた。明治の元勲たちは漢学の素養のうえに西洋の知識を接 ぎ木した。大学を出たわけではないのに、西洋の法制や経済体制を理解した、乃木希典や児玉源太郎も陸軍士官学校を出たはずもないのに、日露戦争で近代戦で ロシアを破った。

 韓国の先進国入り(OECD加盟)は10年以上も前のことである。中国経済もばく進中である。日本は元気がないが、まだまだ最先端国であることは間違い ない。前の世紀の代わり目に、黄禍論がヨーロッパ大陸と北米大陸で吹き荒れた。きっかけは日露戦争だった。それから100年を経て西洋が一番恐れてきた事 態がいま東アジアで出現している。

 筆者はこれを歴史の大転換期であると考えている。日中韓が対立を続けることをやめたとき、その化学反応が起きるのだろう。東アジア共同体構想はまさに大転換を引き起こす発火点であると考えたい。

 英国通貨のポンド紙幣はバンク・オブ・イングランドのほか、スコットランドの3銀行が発行している。通貨単位は同じだが、複数の図柄の紙幣が存在するの である。円、元、ウォンは通貨価値が異なるのですぐに通貨統合は無理であろうが、漢字での表記の統一ぐらいはできそうだ。それぞれ読み方は違っても漢字表 記が同じというだけでも夢があるような気がする。(伴 武澄)

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