民主主義: 2000年11月アーカイブ

2000年11月29日(水)
在独ジャーナリスト 美濃口 担


 インターネットで日本の新聞を読んでいると、「永住外国人」に地方参政権を付与する法案が今次国会で成立困難になったというニュースがあった。

 それからしばらくして朝日新聞のインターネット版を眺めていると「e‐デモクラシー」とあり、「永住外国人の地方参政権」をテーマに国会議員と識者が発 言し、読者が意見を投稿する討論会をしていた。これをダウンロードする。他にもないかとサーチエンジンに「外国人参政権」と入れると「外国人参政権に反対 する国民運動」が出て来た。これをクリック。今度は反対意見がたくさん集録されている。これらは産経新聞に掲載されたものが多い。これもダウンロードし た。

 少し前閑ができて、私はダウンロードしたものを読んだ。「外国人参政権」は10年以上前ドイツでも盛んに議論されたテーマである。私はドイツで「定住外 国人」の範疇に属するので、当時このテーマに関心があった。ドイツの議論で感じたり、考えたりしたことを思い出しながら、日本での議論についての私の感想 を今から書く。

 ●名前を変えて生きること

 問題のはじまりは、私のようにある国に色々な事情から住み始め帰国しないで定住してしまった外国人の存在である。彼らが居住するだけで参政権を持たない ことを問題と感じるかそれとも当然と思うかがキーポイントになる。定住外国人の数があまりにも少なければ例外として無視できる。また外国人は完全に「よそ 者」であり、社会の構成員と見なしていなければ、民主主義的原則を彼らに適用することなど思いもしない。ヨーロッパ諸国で定住外国人に選挙権について議論 されるようになったのはこの二つの条件と絡んでいた。ちなみに、私の暮らすドイツ社会も八百万人足らずの外国人がいて、これは全人口の10分の一近くに相 当する。これは例外として処理できる数でない。外国人も自分達の社会に暮らす以上、可能な限り同じように扱うべきという考え方が強い。(外国人に対して暴 力をふるうスキンヘッドの若者も、この考え方に対する反動という側面がある。)

 以上の二つ、数の問題と外国人を同等の社会構成員としてあつかうべきという考えが前提となってヨーロッパでは議論が始った。

 それでは、日本の議論も同じような状況から始ったのであろうか。日本は周知のように外国人就労に対して制限的政策をとっている。私達が在日朝鮮人や台湾 人を除くと定住外国人など西欧諸国と比べて本当に少ないと思われる。私達が在日朝鮮人や台湾人を除外したとする。数からいって「外国人参政権」など議論す る必要が本当にあるのであろうか。私はこの点を不思議に思った。立法段階で対象が在日朝鮮人・台湾人に限定されてしまったのも、私のこの疑問が見当はずれ でないことを物語るのではないのだろうか。

 ドイツ社会で私の周囲に無数の外国人が暮らしている。私の住居に近い順でいくとフランス人、英国人、フィンランドン人、トルコ人、ポーランド人、米国 人、朝鮮人、、、、。(日本人の私を含めて)彼らが「定住外国人」である。彼らと、自分が子供の頃から京都で見たり接したりした在日朝鮮人を同一視し、 「定住外国人」と呼ぶことなど私には絶対できない。在日朝鮮人・台湾人は旧植民地出身者、もしくはその子孫で、歴史的に見ても、また日本社会で置かれた彼 らの立場からいっても、私の周囲に暮らす定住外国人とまったく異なる。彼らの存在はもっと重苦しいものであった。彼らの立場はあの時と比べて遥かに改善さ れたかもしれない。とはいっても、今でもどこかあの当時と同じところがあるのではないのだろうか。

 私が子供の頃、彼らのなかには日本名を名乗る人々が多くいた。日本人だと思っていた憧れのプロ野球左腕投手が朝鮮人であると知らされて戸惑ったのを覚えている。また学校でも彼等は日本名を使っていた。ところが、必ず誰かが「あの人は朝鮮人で、、、」と教えてくれた。

 自分の名前を変えなければいけないということは本当に凄まじいことである。私は日本で暮らしているときはあまり考えなかったが、自分がよその国に行き、 定住外国人になってからつくづくそう思う。母親がドイツ人であるためにドイツの名前をつけておけば私の子供達もこの社会に紛れ込めないことはない。ところ が、私はそんなことを夢にも思わず、子供達に日本の名前をつけた。ところが、「在日」と呼ばれる人々の多くがそうしなかった。私はこの違いを絶対考えてし まう。

 ●「前向き言語」について

 日本社会には「在日」と日本社会の関係を改善するために彼らに地方選挙権を付与することに賛成する人も多いと思われる。もしそうなら、彼等以外の定住外 国人など本当に少ないので、「永住外国人地方参政権」などという看板をあげないで、率直にこの提案をするべきである。ところが、どうやらそうは行かないら しい。例えば上記「e‐デモクラシー」で問題提起者は冒頭で次のように述べる。

《「永住外国人の地方参政権」問題をめぐるこれまでの議論は、もっぱら永住外国人の約9割を占める在日韓国・朝鮮人を対象に行われてきました。しかし、こ の問題はいわゆる戦後処理問題としてではなく、外国人労働者との共生社会をどう作りあげるかという視点から検討すべきではないでしょうか。今後外国籍の IT技術者の登用や介護労働力としての外国人労働者の問題をはじめとして、日本が真に国際社会に開かれた国家と言えるかどうかが問われる場面も増えていく 中で、国際社会における日本の進路はどうあるべきかという問題と切り離してこの問題を考えることは適当ではありません。...》

   こうして、半世紀前子供の私にも感じられた問題が日本のメディア特有の「前向き言語」に翻訳されて、二十一世紀的問題に変わる。でも、なぜその必要があ るのだろうか。今まで「在日」の参政権については散々議論したのに、埒があかなかったからだろうか。それは、大多数日本人はこれを問題にしたくないからか もしれない。また発効部数の高い新聞ほど多数派の考えを無視できない。だから、「外国人地方参政権」という回り道を選んだ。問題にしたくない多数派に苦い 薬をオブラートで包んでのませるために、わざとこのような「前向き言語」に翻訳した。このように解釈できる。でもどんな名目であろうと問題が少しでも解決 されればそれでよい。私には最初そう思われた。

 でもこのように苦い薬をオブラートに包む態度にはどこか読者を子供扱いしているところがないだろうか。というのは、子供に「殺人はなぜ悪い」と聞かれた 母親が直接倫理的理由をあげて必死に説明するのでなく、「監獄に入れられたら、大好きなチョコレートも食べられなくなるのよ。だから悪いの」といってお茶 をにごしているようなところがどこかあるからである。

「e‐デモクラシー」で読者の投稿を読んでいるうちに私の考えが少しづつ変わり始める。というのは、読者のなかには反対者も賛成者もいるが、彼等を子供扱 いする必要など全然ない思われたからである。そこで、私は次のように考えた。この「前向き言語」に翻訳する人々こそ、「在日」のことなど問題にしたくない 多数派に属する。あるいは、問題にしたくないのか、本当は問題にしたいのかも最早考えない。彼等はヨーロッパ諸国と同じように、「外国人参政権」というハ イカラな議論をするために、「在日」朝鮮人をヨーロッパ並の「定住外国人」に格上げしただけである。

「在日」の問題は、日本が外国人の介護人やIT技術者を必要とする問題とも、あるいは日本が「国際社会に開かれた国家」になるかどうかとも直接関係がな い。例えば、(米国がやっているように、)豊かな先進国が開発途上国から有能なIT技術者を金にまかせて集めることに私は疑問を覚える。ということは、ど の問題も厄介で見解が分かれる。別の色々な問題にどんどん結びつける「前向き言語」とは次のようなことになるのではないだろうか。

 会議で私がある提案をする。かなりの人々が提案に賛成してくれている。ところが、私は次から次へと別の問題と関連させる。その度ごとに私の賛成者の数は 減るのではないのだろうか。私達はこの「前向き言語」を後に遡らせて賛成者の数を減らすこともできる。「在日」の問題は日本が敗戦して、植民地が独立した ときに発生したという意味で「戦後処理問題」かもしれない。しかし、だからといって議論をどんどん後遡らせ、「植民地化」の是非まで議論に含ませると提案 の賛成者は減っていく。

 このように議論を進める人々は、法廷でよけいなことを言い出し、その度に新たな証明義務を背負い、自滅する新米弁護士と変わらない。彼等がそのことに気 がつかないのは、多数派根性が骨の髄まで染み込んで、多数派に属する幻想を持つほうが賛成者を獲得して本当に多数派になるより重要であるからではないのだ ろうか。また反対意見を無視すれば、いつまでも仲間内にとどまれ、多数派に属する幻想を維持できる。これも理屈に合ったことである。私にはそう思えてなら ない。

 ●「国内問題である」ことの意味

「外国人参政権」議論のもう一つの前提となるのは、自分達の社会に住み、参政権を持たない人々が存在するのを不自然と感じることである。これは、私達の社 会が「民主主義」という看板を掲げているのに、参政権をもっても良いはずの人々がこの権利の行使から除外されている、これはおかしいと思うことである。

 ということは、これは参政権をすでに行使する多数派とそうでない少数派の問題である以上、あくまでもその当事国日本社会の内部問題であり、またそうあるべきである。

 十年前のドイツのテレビ討論会で誰かがドイツ定住外国人の出身国まで問題にし始め、相互主義を盾に、例えば「ドイツ人旅行者の人権侵害をした独裁国の出 身者には参政権を付与すべきでない」と発言したとする。それまでけんかしていた賛成者も反対者も一致団結して、その発言者を非難したのではないのだろう か。(日本では必ずしもそうでないことは、鈴木雅子さんが萬晩報2000年03月13日号の「在日外国人の地方参政権法案に反対する根拠」で指摘された。)

 また日韓友好のためといって与党議員の一部が法案成立にがんばっているのも本当は外交問題でないので奇妙なことである。十年前米大統領あるいはトルコ大 統領がドイツ首相にドイツに定住する自国民に参政権付与を要求したら、これはかなり角の立つ話になったと思われる。ところが、日韓首脳会談後韓国大統領が 「来年中に妥結できるよう、(故小渕首相の)指導力発揮を期待している」と表明するのを誰も異様に感じない。いつもなら「内政干渉」とか「主権侵害」とか 文句をつける人々も何もいわなかったそうである。

 以上の点は、「外国人参政権」というレッテルをはっているだけで本当はヨーロッパとは質的に別の問題を議論していることにならないだろうか。参政権の議 論で、例えば在日韓国人に選挙権を付与することは日韓友好になると思うのは、そう思う日本人が在日朝鮮人を韓国もしくは北朝鮮の代表者とどこかで見なして いることを意味する。つまり彼等がこれら二つの国家から日本に派遣されて、どこか準公務員(例えば外交官)のような存在として考えていることである。もち ろんそのような印象を受ける人々が少数いるかもしれない。でも日常生活ではそんな気持で日本人は彼等に接しているであろうか。彼等はバックグランドが異な ると思うかもしれないが、個人として扱っているはずである。これは、政治的意見と本当に私達が日常生活で抱く見解のギャップの例である。

 同じ問題を反対側から説明することができる。日本人が外国に出た途端、自分は日本を代表しているという意識にとらわれたことがないであろうか。私たちの 多くががオリンピックの選手でもないし、外交官でもない以上、この気持は本当に可笑しいところがある。外国生活に慣れるとそんな肩肘ばった意識はなくな る。私達が在日朝鮮人を準国家代表と見なすことと、自分が日本を代表している意識はコインの裏表である。

 ●「地球市民」と呼ばれる人々

上記「e‐デモクラシー」の投稿を読んでうれしかったのは巨大新聞が読者との一方通行をやめて、インターネットの強みである議論を生かす企画をはじめたこ とである。また驚くほど多くの人々がこのテーマに関心をもち意見を述べ、その論拠も十年前のドイツでの議論とほとんど同じで懐かしかった。

 また識者の先の提言などあまり気にせず、多くの人々が日本で昔から暮らしている「在日」朝鮮人に限定して論じているのも私にはうれしかった。驚くほど多 数の人々が彼等に選挙権がない現状をおかしいと感じている。ところが、そのような人々も「外国人参政権」には国籍が必要であることを指摘された途端、彼ら は「外国人」であることになり、選挙権を与えることに賛成できなくなる。そんな印象を受けた。

 日本も西欧諸国も「主権在民」であり、参政権を行使するのは国民で、国籍所持者となる。国籍は超え難いハードルである。だからこそ、外国人地方参政権付 与推進者は、どこの国でも参政権という、分割しにくい権利を何とか分けなければいけない。そのために主権行使に関連する国政選挙と、そうでない選挙、例え ば地方選挙に分けて、国籍所持していない外国人に後者の選挙権を与えようとする。ということは、定住外国人に参政権全体でなく地方選挙権だけを与えるアイ デアそのもが参政権に国籍が必要であるとする主張を認めていることである。

 ●次に定住外国人の立場から見る。

 例えば、私がドイツで市町村選挙に参加できるようになったとする。私は自分が住む町の市営プール拡張決定には一票を投ずることで参加できる。次にドイツ が戦争をする決定をしたとする。この「戦争か平和か」の決定のほうが市営プール拡張工事などより私の運命にずっと重要だ。ところが、外国人の私はこの重要 な決定からは除外されている。これはおかしいことではないのだろうか。

 ある決定を下す時、その決定に影響を被る人々、すなわち関係者の見解を聞くべきである。被る影響が強い程、そうしないといけないと私達は思っている。こ の原則に立って、私達は王様が一人で決めるシステムより民主主義のほうを選択した。そしてドイツ社会は定住外国人の私にこの考え方を適用しようとして、選 挙権を与えようとした。ところが、重要度の低い選挙権をくれるのは、この本来の趣旨に反することにならないのか。ドイツでこの議論がはじまった頃私はまず そう思った。

 このように考えると、外国人に地方選挙権だけをあたえることは中途半端な過渡期的処置、「気は心」に近い象徴的要素が濃い処置である。十年前、ドイツで は外国人地方参政権推進者にはこのような中途半端な性格はある程度分かっていた。それでも現状のままほったらしにして置くより良いと考えて、彼らは慎重 派、反対派を説得しようとしたのである。

 店の看板が同じであるからといって、どこの国でも同じ品物が買えると思うのは間違いである。外国人地方参政権賛成者も日本ではかなり異なっている。例えば、

 《私は、国だけが政治の単位だとは思いません。確かに、「外交・安全保障」というテーマに関しては、国が単位となっています。しかし、テーマによって は、都道府県が単位であったり、市町村が単位となったりしていますし、逆に、EUなどでは、国家を超えた政治単位も機能しています。テーマごとに、その参 加資格を考えることは、決して特別なことではないと思います。 》(上記の「e‐デモクラシー」に出てくる民主党代議士)

 このように「テーマごとに、その参加資格を考える」と表現した途端、私が指摘した問題点が消えてしまう。

 もちろんこの日本の政治家のように、私達は、地方自治体‐国家‐EUという具合に「政治の単位」があると考えることができる。でもこの若い日本の政治家 のように表現することで、参政権についての議論と、色々なコンクールの応募資格について議論することが質的に同じになってしまうのではないのだろうか。そ うなるのは、この発言者が歴史的にも国際政治的にも真空地帯にいるからである。というのは、多くの人々にとって国家という「政治単位」は別格的存在であ る。過去にこの「政治単位」のために数多くの戦争が起こったし、私達日本国民も半世紀前はこの「政治単位」のために大きな戦争をした。現在でも地球上のど こかで自前の国家を持とうとして血生臭いことが起こっている。この何百年前から地球上で起こっているていることを無視できる人は私にとって「火星の住人」 に近い存在であるが、日本では奇妙なことにこのような人々が「地球市民」と呼ばれる。

 ●「あたりまえのこと」をいう人々

 このような「地球市民」の立場で「前向き言語」を使う人々にとって、十年前ドイツの推進派に超え難いハードルに見えた「主権在民」も「国籍」も重要でなく、超える必要もなくなる。だから、

 《問題の本質は「参政権を認めるには国籍が前提かどうか」というより、「外国人の民族性、文化を尊重する社会をどう作るか」ではないでしょうか。》(上記の「e‐デモクラシー」の有識者)

 もちろんこのような「地球市民」に対して反論するのは簡単である。「国籍こそ参政権を認める前提である」と述べ、「国家」、「主権在民」、「国籍」、 「国民の義務と権利」といった関連する概念について、「政治学入門」に出てくるような説明をつけくわえ、付和雷同してはいけないといえば済むのである。ダ ウンロードした産経新聞に掲載された反対意見を読みながら私はそう思った。かなり糖がたった「政治学入門」の趣きがないでもないが、国家や国民の在り方が 猫の目のように変わるわけでないので、発言の多くは「あたりまえのこと」で、すなわち「正論」である。「あたりまえのこと」が冴えて見えるとしたら「地球 市民」という引っ立て役がいるからである。

 現実は「正論」通りに行かないので、普通の国ならそこから議論が始る。ところが、日本では「あたりまえのこと」をあっさり「問題の本質でない」とする 「地球市民」が議論をはじめる。そのうちに「あたりまえのこと」をいう人々が出て来て議論が終る。政治はそれとは無関係な場所で動く。これも、多くの日本 人が政治に抱く閉塞感の原因の一つになっているのではないのだろうか。

 どこの国でも保守派は定住外国人に国籍取得を求める。定住外国人を追い出すことが出来ない以上、彼らが国籍を取得すれば外国人がいなくなり、その結果問題がなくなる。でもこの場合に、問題をなくすことを問題の解決と見なすことができるのであろうか。

 それでは、なぜ定住外国人は国籍を取得しないのだろうか。手続きが面倒ということもあるかもしれない。ドイツは日本と比べて遥かに簡単であるが、それで も多くの外国人は取得しない。というのは、彼等は新しい国籍を取得することで今までの国籍を失いたくないのである。彼らがそのように思っているのは、国籍 が彼らのアイデンティティの一部になっているからである。名前もその持主のアイデンティティの一部になっている点がある。だから、私達は名前をあまり変え たくない。国籍もこの名前の場合と似ているのかもしれない。

 保守主義者は国籍を取得しようとしない外国人を一方的に非難する。ところが、問題は相互的である。というのは、国柄というべきものがあって、外国人が暮らしていて国籍を取りたくなる国とそうならない国とがある。

 私が中学生か高校生の頃だと思うが、もう亡くなった江藤淳が朝日新聞の文芸時評を担当していた。彼は渡米するが、その仕事を続ける。米国滞在もかなり経 過した頃、彼は自分がカルフォルニア州から東部にやって来た日系アメリカ人と間違われる経験をし、いかに米国が外国人であることを感じさせなくする可能性 をもつ国であるかと書いたことがある。

 この箇所をもう何十年も経ってからドイツで私は思い出した。ドイツは米国のような国ではない。私はこの国で外国人であり、日本人であることをいつもどこ かで意識し続けている。これは、ドイツが米国のような移民が建国した国ではないことと無関係でない。だから「日系ドイツ人」や「イタリア系ドイツ人」と いった表現もドイツ語として座りがよくない。この国柄は早急に変わらないと思われる。

 ●ドイツで議論が下火になったのは、、

 ドイツでは「外国人地方参政権」についての議論はすっかり下火になってしまった。EU全体の決定で、加盟国が自国に暮らす他の加盟国出身者に自治体選挙 並びに欧州議会選挙に参加させるようになったからである。これで、かなり多くの外国人がドイツで地方参政権をもつようになった。とはいっても、EU加盟国 でない域外出身の定住外国人には、特に二百万人以上もいるトルコ人には以前と同じように地方参政権がない。彼らに地方参政権を与えようとする立法化の動き は皆無ではないが、人々の関心は「国籍」に移りつつある。定住外国人が今までの国籍を失いたくないなら二重国籍を認めて国籍をとってもらう。国籍をとった ら、彼らは地方選挙だけでなく国政選挙にも参加できる。こちろのほうが、参政権を分割しないですむので、地方選挙権だけを付与するより満足のできる解決と 考える人々が少なくないからである。

 二重国籍とは、ある人がフランス国籍もドイツ国籍ももつことであるが、ドイツでも保守的な法学者は「重婚罪」のように忌み嫌う。ところが狭い空間に多数 の国家がひしめき合うヨーロッパでは国民国家最盛期においても多数あったことである。例えば、私は1968年ドイツに行くことになり、生まれてはじめても らったパスポートを知人の「ドイツ人」女性に見せに行った。すると、彼女は「私は3つあります」といって引出しからドイツ、スイス、オーストリアのパス ポートを出してくれた。現在人口八千万のドイツで数百万も重籍があると推定されている。

 この解決案によっても問題が生じるが、保守的法学者が主張するほと解決不可能ではないとされている。例えば暮らしていない国との権利・義務関係が「休眠する」ように国家間で取決めを結ぶことも不可能でない。

 このような背景でドイツの現政権は昨年在独トルコ人に参政権を与えることができるように、事実上彼らの二重国籍を認めるべく国籍法改正をしようとした。 ところが、保守派の反対にあいこの部分は修正を余儀なくされた。しかし欧州統合が国家を残すかたちで進展していく限り、十年とか二十年といった単位で考え ると、ヨーロッパは二重、三重国籍を認めることで問題を解決していくことになると予想される。

 今回「特別永住外国人」と呼ばれる朝鮮人・台湾人に対して地方参政権付与が実現しないかもしれない。「気は心」というだけの過渡的処置でも私は実現すればよいと思っていたので残念である。

 ドイツでは大きな町には外国人から選挙された外国人代表者と市議会代表者から構成される審議会があるところもある。もちろん力はないにしても、ここが市 議会決議に対して反対することは重みをもつ。(こんなこと、私が知らないだけで、もしかしたら日本の自治体でも実現しているかもしれない。)本当にやる気 があれば色々手があると思われる。

  外国の事例はそのまま日本に適用しても多くの場合うまくいかない。例えその結論に達するにしても、議論したり考えたりすることで、その外国の事例だけでな く、日本の問題の性格がよく理解できることがある。そのためにも、奇妙な「前向き言語」で議論しないほうがよいと私には思われる。


 美濃口さんにメールはTan.Minoguchi@munich.netsurf.de
2000年11月23日(木) 
萬晩報主宰 伴 武澄 TinkJapan 大塚寿昭


 11月20日の内閣不信任案をめぐる自民党内の抗争について一部のマスコミは「加藤氏の乱」と名付けた。加藤紘一氏の今回の行動に期待しわくわくした国 民からすると、これは「乱」でもなんでもない。「国民への裏切り」である。しかもこんな政治的裏切りは見たことも聞いたこともない。

 加藤紘一のホームページに11月20日夕方まで殺到した投稿メールには、政治不信に陥っていた人々の「わらをもすがる思い」が伝わっていた。間違いなく そこには加藤紘一氏の行動に対する熱い思いがあった。優柔不断といわれたそれまでの政治姿勢に目をつぶっても「いまこそ頑張ってほしい」という願いがあっ た。

 本当をいえば、加藤紘一という人物でなくともよかった。「誰でもいい、いま日本を覆う閉塞感を打ち破る突破口を開いてほしい」というような祈るような切実感があった。

 加藤氏への好き嫌いは別として、そのまま突っ走れば、たとえ内閣不信任案の投票で敗れても加藤派は21世紀初頭の日本をリードする集団として国民の支持を得られたはずだと思った。

 誰かが勇気を持って発言し、行動すれば日本が変わることが分かっていながら、どの政治家もその勇気を持ち合わせていなかった。そこへ一番慎重居士といわ れた加藤紘一が自民党主流派に反旗を翻した。ここに先週末から加藤紘一に国民的期待がわき起こったというのが今回の「政変劇」だったはずだ。

 そこまで国民がお膳立てしたのに、加藤紘一氏は最終的に闘いを回避し、わくわくしていた国民の期待にはしごを外した。利権と票だけを求める理念なき政治 家が多いこの日本でもこれほど国民を愚弄した政治家はないと思う。悲しいかな、彼らは二度と加藤紘一という人間を信用することはないだろう。

 長野県で何が起きたか。栃木県で何が起きたか。結局、加藤紘一は日本という国の中で起きている地下のマグマの動きを知る立場になかったとしかいいようがない。

 それよりも加藤紘一の言動に意気を感じて派閥を脱退した渡辺喜美代議士や政務大臣として辞表を提出した中谷元氏らの立場はどうなるのだろうか。こんな結 末を迎えるとも知らず、加藤紘一を持ち上げ、支持を訴えようとした自分自身に対して、何とも言えない屈辱感と無念さでいっぱいである。

 以上が筆者の今回の政争に対する総括である。(伴 武澄)

沈み行く泥船に戻って行った加藤氏  大塚寿昭

 この10日間あまり、国民の政治への関心度は急速に高まった。それは加藤紘一氏の言動・行動が「閉塞感漂う日本の政治に、もしかしたら新たな光がさして来るかも知れない。」という期待を持たせたからであった。

 内閣首班の首のすげ替えに期待したのではなく、自民党なるものの内包する古い体質、腐った部分との訣別ができるかも知れないということが、この加藤紘一の乱に期待した国民の思いではなかったろうか。

 加藤氏は初め、あらゆるメディアや自身のホームページを使って広く世論に訴えようとした。密室での多数派工作ではなく、世論を味方に付け ようとする姿勢がさらに共感を呼んでいたと思う。ところが、最終段階になって議場での票読みをしてみると、確実に負けているという事態になり、一気に「欠 席」という戦術にトーンダウンした。

 採決当日の各紙朝刊は世論調査の結果を公表し、いずれも過半数以上が加藤氏の行動を支持すると発表していた。また、産経Webは、18、 19の2日間でインターネットによるアンケートを実施し、短期間にも拘わらず1,444件の回答を得、読者の関心の高さを示していた。ちなみに、このアン ケートでは加藤氏の行動を支持するが81.1%、不信任案が通るとした人が66.1%であった。

このように終盤に来てさらに急速に盛り上がりを見せていた世論だが、その時になって加藤氏は永田町の中だけに眼を奪われてしまい、世論の熱気に気が付かなかったのではないだろうか。やはり彼も永田町の人、自民党の体質に呑み込まれてしまった。

 加藤氏は「欠席」を決めた時、同調する議員の前で「名誉ある撤退」と発言したそうだが、筆者の勧めた「名誉ある除名」とは雲泥の差があ る。21日夜のテレビ番組で、矢野絢也氏が「喜劇のピエロより、悲劇のヒーローになるべきだった。」と言っていたが、「名誉ある除名」と同じことを言って いると思う。

 たとえ採決の場で敗れても、盛り上がっていた世論は悲劇のヒーローをもっと後押しする方向に動いたであろう。筆者一連の「心ある自民党議員は加藤新党に糾合せよ!」「名誉ある除名を喜んで受けるだろう加藤氏」という論説は、いずれもこうなることを期待してのことだった。

 加藤氏はただ筋を通すだけでよかった、しかし彼の選んだ道はあまりにも永田町的であった。国民の多くは落胆と失望の思いに覆われた、そして自民党なる体質の支配する我が国の政治に対する不信感を強めた。

 この騒動で見せた自民党指導層のなりふりかまわぬ姿は、かつてない高い関心度で注視していた国民の前にその醜悪さを逐一見せてしまった。不信任案否決後の幹部の神妙な姿勢も、危機感を敏感に察知しているように見えた。

 「加藤紘一の乱」の結果、深く傷ついたのは自民党である。かつて不沈艦を誇った自民党も、今や沈み行く泥船にも例えることができる。加藤氏はそこに戻って一緒に沈んで行く道を選んでしまった。

------------------------------------------------------------------------------------------------
下記は、ただ一人主流派を離脱し加藤氏と行を共にした渡辺喜美氏からのメールと私の応答です
------------------------------------------------------------------------------------------------
Tue, 21 Nov 2000 21:08:18 +0900
To: Yoshimi Watanabe

渡辺喜美 衆議院議員殿
                            大塚寿昭

ご丁寧なご回答を頂き有り難うございます。
主流派と呼ばれるグループから離脱して、加藤紘一氏の唱える改革に行を共にされたの
は貴台お一人でした。改めてその勇気を讃えさせて頂きます。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」。たとえ採決に敗れても、世論は、国民は加藤氏と
そのグループを後押しするだろう。「名誉ある除名」と題した拙論はこの気持ちを皆さ
まにお伝えし、主流派内にいても志高い人々に貴台と同じ行動をとって頂きたいと思っ
てお届けした次第です。

昨晩は午前4時過ぎの加藤・山崎両議員の記者会見まで、ずっと中継を見ておりました。
土壇場にあっての判断と行動は、人それぞれの器を鮮やかに浮かび上がらせます。

今次の結末は、日本の政治及び政治家に対する国民の思いを再び倦ませる結果になりま
した。ただ一方では、問題意識を行動に移す国民も確かに増えて来ております。この国
民の思いをしっかり受け止めることのできる政治家として、貴台のこれからに期待して
おります。 匆々

-----------------------------------------------------------------------------------------------
>「加藤の乱」の顛末 平成12年11月21日 衆議院議員 渡辺喜美
-----------------------------------------------------------------------------------------------
> 松浪議員の水かけ事件で議事が中断したお粗末極まりない11月21日未明の本会議
> で、森内閣に対する不信任案が否決された。本会議開会直前に加藤・山崎派が欠席を
> 決めたあげくの結末だった。森政権護持に走る江藤・亀井派を離脱し、不信任案に賛
> 成票を投じようと決めていた私にとっては梯子をはずされた思いだった。
>
> 森擁護派の加藤派・山崎派や無派閥・無所属組への執拗な働きかけは想像を越えてい
> た。ある者には金やポストによる利益供与の甘いささやき、他の者には党除名や対抗
> 馬擁立などの恫喝が行われた。なんとも後味の悪い結果であった。
>
> 私のところには誰も説得工作には来なかった。あいつには何を言っても無駄だと思っ
> たのだろう。対外的には「不信任案には反対しない」と言ってきた私は、「日本の明
> 日を創る会」(11月20日仮称)の石原伸晃氏らと共同行動をとろうと約束してい
> たので、欠席した。一匹狼で行動しても政治的には無力であり、ここで私一人が敵陣
> にのりこんで討死しても目的を果たすことは不可能と判断したからだ。
>
> 野党提出の不信任案に棄権という形で半分同調することは与党議員として情けないこ
> とだが、逆に覚悟を決めていた賛成票を投じられなくなったという意味ではもっとむ
> なしいことだった。しかし、それ以外に私の政治信念を全うする手段がなくなってし
> まったということだ。
>
> 加藤氏が土壇場で崩れたことは、政治的には決定的な敗北である。宏池会が分裂し、
> 主流派サイドから攻め込まれた若手が悲鳴をあげ、先にビビった方が負けのチキン・
> レースに敗れた。それ以上に、インターネットやテレビを使って国民を巻き込んでの
> 決戦に臨んだのだから、期待を膨らませた国民の失望は限りなく大きい。反森陣営に
> いた我々の受けたダメージははかり知れない。
>
>《森総理は信任されたのか》
>
> では森総理は不信任否決によって信任され蘇るのか。多分それはないだろう。もはや
> 国民の心は森氏から離れて久しいし、再び上昇気流に乗ることはありえない。問題は
> 森首相のみならず自民党全体、いや日本の政治そのものが国民から見離されかねない
> 政治の危機が起こったということだ。どうしたらいいのか。答はやはりトップを変え
> ることから始めるしかないだろう。人が変われば政治が変わるのだ。
>
> 私は早くから「森さんには辞めてほしい」と言い続けてきた。最大の理由は森さんが
> 国民との間に信頼関係を築くことに失敗してしまったことである。一度失われた信頼
> は修復することは容易でない。政治は人心収攬であり、国民の心が膿んでしまったら
> 指導者としては失格なのである。ただ単に支持率が低下したとかいう問題ではない。
>
> 自民党内において「もう森では持たない」という声は多数派だったはずだ。主流3派
> の中でも本音は森退陣を願っている人は多かったと思う。現に11月7日、橋本派の
> 2期生が森退陣の声をあげたことを切っ掛けに流れが大きく変わったのではないか。
> まるであの時はオセロゲームを見ているようだった。これは森退陣に向かって一機に
> 突き進んでいくと私は内心小躍りしたものだ。
>
> それがなぜつぶれたのか。森さんが「俺は辞めない」と言ったからである。それは本
> 人の確固たる意思であると同時に、森さんにそう言うよう元気づけた人達がいたから
> である。
>
>《大事なのは原理原則》
>
> 一国の総理を辞めさせるのは容易なことではない。まず党内手続で総理である党首を
> リコール・不信任する手続はないのだ。国民から見離され、党内の支持を得られなく
> なった党首は辞任するのが当り前だからである。その常識が通用しないからこそ加藤
> 政局という事態を招いたのだ。
>
> 結局党内手続で辞めさせることができないのなら、憲法規定に従って本会議場採決と
> ならざるを得ない。国会議員は政党人である以前に全国民の代表である。誰からも命
> 令されず、誰の代理人でもなくただひたすら自らの思想・信念に従って国家国民のた
> めに尽くす政治道徳上の義務を負っているのだ。
>
> 政党の論理が常軌を逸したときはこの近代議会政の原理原則に戻るしかない。我々本
> 会議を欠席した与党議員は決して造反者などではなく、正統的な行動をしているだけ
> なのである。「派閥の前に党があり、党の前に国家国民がある」という原理原則さえ
> わかっていれば何も迷うことはない。加藤氏の失敗は派閥システムに依拠し、その温
> 存を考えすぎたことにあるのではないか。とにかく残念なことであった。

2000年11月15日(水)
ThinkJapan 大塚 寿昭


 自民党加藤紘一氏の「森内閣不信任案に反対はしない」という発言は、その後の彼の行動と併せて政界に大きな波紋を呼んでいる。

 加藤氏がこれを公に発言した大きな背景は「人格的資質を問われるような人物をいつまでも首班として担いでいては、自民党そのものが国民の信頼を失 い本当の崩壊に繋がる」という危機感からである。一方で森首相を擁護する主流派は、政策論争に持ち込み、この騒ぎを沈静化させようと目論んでいる。森派会 長の小泉純一郎氏にしても、今日(13日)の発言は政策論の調整であり、加藤氏は離党するとは言っていないと語っていた。また、12日朝のテレビ朝日のサ ンデープロジェクトに出演した、森派若手論客の高市早苗氏も同じく政策論争をしようと語っていた。いずれも問題を矮小化してしまいたいという意図が見え た。加藤氏の論点は認識しているにもかかわらずである。

 加藤氏の投げかけた問題は「人格的資質を問われるような人物を、総裁選挙という正式な党機関の決定を経ずしてトップとして担ぎ、そのまま やり過ごそうとしている自民党の体質が問われる」ということである。しかし、彼とその一派が不信任案を通過させる事態を喚起してしまったら、その後加藤氏 が自民党で首班として押されることはないであろう。党の意志に反した行動を取った人物を、それでは首相にどうぞとは自民党もできまい。

 そうなると加藤氏は離党し新しい政党を立てるしかなくなる。本人から野党に入る訳はないし、野党を代表する民主党も受け入れるには都合が悪いのである。つまり、加藤氏を首班とするには党首として迎えるくらいの形が必要になって来るからである。

 加藤新党ができた直後は相当な混乱が政界に巻き起こるであろう。そして様々な連立を模索する動きが活発になる。現連立与党側は首班指名の 過半数を確保できなくなり、無所属議員あるいは加藤派、あるいは民主党内の旧保守系議員や自由党の議員に対し、自民党への引き抜きをかけて一本釣りをする しかなくなる。一方で民主党は鳩山党首を首班にと、やはり連立工作を模索する事になるだろう。初めから加藤氏を首相にする前提で加藤新党と連立するわけに はいかない。加藤新党はしばらくの間政界の鬼っ子になるのではないだろうか。

 この加藤新党が巻き起こす波紋は野党側にも大きな影響を及ぼすことになるだろう。現在の野党連合は、ハイそうですかと加藤新党と連立を組 み加藤氏を首班指名することはできない。だがそうかと言って鳩山首相も実現できないということになると、民主党内の旧保守系や若手が黙っていないのではな いか。もしかしたら民主党も分裂騒ぎになる可能性が出てくる。民主党内のダッシュの会は健在のようだし、あまり注目はされなかったが、東京21区補選前に 民主党都連内で若手中心に都連会長更迭の動きがあった。これは臨時都連大会を開き、1票差で岩国会長を降ろし海江田新会長を選んだものであるが、ここにも 民主党若手グループに火種がくすぶっているということができる。自由党の小沢党首は、この乱戦模様に時を得たりと様々な引き抜きや連立工作を仕掛けてくる だろう。

 こうなってくると注目すべきは自民党内の若手グループである。田中真紀子議員が「派閥の枠を抜けきれないで何ができるか」と言って抜けた 後、何やら初めの勢いがすっかり衰えてしまった「自民党の明日を創る会」の若手諸君はどうするつもりなのか。もし不信任案が国会を通過すれば、政府側は直 ちに解散総選挙を打ってくるのは間違いない。そうなった時に問われるのは、密室談合で人格的適正を欠く人物を首相に担ぐような政党に居て有権者に説明がつ くかということである。 これは何も「創る会」のメンバーには限らない、心ある自民党議員諸兄全てに考えてもらいたいことであるし、彼ら自身自民党に居て選挙を戦えるかどうか、そ の決断を迫られる事態にもなるであろう。

 奇しくも、本日発表があったNHKの世論調査でも森内閣支持は17%と7ポイント下がり、不支持は68%と10ポイント上がった。野党の 不信任案提出のタイミングにもよるが、会期末(12月1日)までには提出は必ずあるだろう。この世論の状態で総選挙となれば、自民党各議員各々の当選すら 危うくなって来るだろう。

 自民党は参議院の選挙制度改革「非拘束名簿方式」の強行採決もやってしまった。これは、社会的要件、歴史的要件、世論などの背景などは何もなく、ただ今現在の政権を維持するためだけの党利党略のみで、大義名分のないまま民主主義の根幹となる選挙制度を弄んだものである。

 今問われているのは、このような旧来の体制を守るためだけに汲々としている党に、自身の政治信条を預けたまま政治家を続けるのかというこ とである。官房長官就任を蹴った小泉純一郎氏も、今は森派会長としての仕事を全うしようとしているが、蹴った事実には何らかの腹があってのことは間違いな い。YKKのもう一人の山崎氏は既に加藤支持を鮮明にしているので、小泉氏が何か新たな動きを始めてもおかしくはないと考えても良いだろう。

 今我が国は歴史上の大きな転換点にあるという認識は、国民の多くが持っていると考えて良い。こんな時にこそ政治の力が必要なのである。加 藤氏は今日のインタビューでも、国民の7,8割が思っていることを汲み取れない永田町を改めたいと語っていた。この認識を明瞭にして立ち上がった加藤紘一 氏を讃えたいと思う。加藤新党は間違いなくできることになるだろう。

 心ある自民党国会議員よ、そして野にある志を持った諸兄よ、加藤新党へ行け!(2000年11月13日)



 ■塩崎恭久氏の「半年も待っている余裕はない」との決意

 加藤氏は決して我利我欲で今回の行動に踏み切ったのではないのだと思います。単に75%の国民が支持していないという表面的な理由ではなく、本年 4月から約8ヶ月間とられてきた政策のままでは、日本が自らの自信と力と世界の信頼を回復することは無理で、確実に参議院選挙に大敗してしまう、という切 羽詰った気持ちなのでしょう。「参議院選挙で負ければ森さんから総理の座が黙っていても転がり込むのに、あせるな」とおっしゃる方が大勢おられますが、何 よりも大事なことは今の自民党、そして今の日本には、後半年余りも待っている余裕などない、ということです。いわば救国、憂国の危機感からの決起なので しょう。
 夜、仲間の代議士と意見交換をした後、加藤紘一邸ヘお邪魔し、地元での反響等を伝えて来ました。
 http://www.y-shiozaki.or.jp/oneself/index.htmlから


 大塚さんにメールはmailto:otsuka@giganet.net
2000年11月14日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄


 2000年11月12日(日)付「久しぶりに覚える政治的わくわく感」に対しては手厳しい意見が多かった。「あの顔をみてほしい」「失望しました」と いった意見をいただいたが、「何かが崩れ始めている」という指摘もあり、変化への期待感はあるものの「加藤さん」では嫌だという認識が少なくないのだと感 じた。

 しかしどうだろう。加藤氏の今回の行動の背景にある認識は、自民党の末端組織にまで「森内閣」に対する不満が鬱積しているというものだ。筆者は自 民党支持ではないが、永田町の面々だけが未辞からの保身のために森内閣を支えているとしか思えない。主流派の締め付けの中にあっても本音を語る政治家でい ることが自身の将来を決する唯一の手段であることを今一度考える必要があろう。

 日本経済は補正予算の審議の最中で政局で国政を議論する時期でないという指摘もあるが、「公共事業一辺倒の借金財政をこれ以上続けるべきでない」というのが加藤氏の一貫とした姿勢であることからすれば、まさに政治が動くべき時期なのだと考えざるを得ない。

 11月12日(日)付「久しぶりに覚える政治的わくわく感」は加藤氏へのエールを含めて加藤紘一氏のホームページ(http://www.katokoichi.org)に投稿させてもらった。【萬晩報】
 

どうも賛成できませんね 中山

 加藤氏は長期戦略をもってません。日本をどのような国にするのか国民に語ったことはありません。それに政治家としてのタイミングをキャッ チするセンスがありませんよ。日本を逼塞感が覆っていますが、しかしながら総理が替わればただちに変化が起きるというものではありません。

 今はタイミングではありません。逼塞感のために支持率が下降しているのでしょうが、森総理が重大な失政をしたわけではありませんからね。へたをすると加藤氏は政治生命を失いますね。つぎの総理はもうないでしょう。

 支持率のことばかり言っているのもセンスがありませんね。支持率は変化するし、今は誰が総理になってもたいした支持率が得られるわけじゃ ないでしょう。それにこの支持率がマスコミが誘導している要素が大きいと思いますよ。小生、べつに森総理の熱烈な支持者じゃない。そうかといって「やめ ろ」と思ってもいない。こういう人、多いと思いますがいかがです?もしこういう人にアンケートをとると、「うーん、あまり支持できないねえ・・・」と口を 濁すでしょう。これが今の支持率の本質です。

 自分が信念をもっているなら、自民党から出ればいいじゃありませんか。自民党のなかで何かしようと思うなら、やり方があるし、タイミング というものがあります。政治家のセンスのなかでタイミングほど重要なものはない。タイミングを読むのは一種の勘、生まれつきのセンスですが、加藤氏には欠 けているようですよ。

 森内閣で日本が壊れるほど日本は脆弱ではありません。むしろ、戦略のなさが長い目で見て日本を破滅に向かわせるでしょう。加藤氏は役人風ですな。決して新しい時代のリーダーの素質をもった人ではありませんよ。顔を見ればわかる。顔を。
 

田中秀征さんもきっと、ワクワク 佐々木

「加藤氏に期待」のコラム、全く同感です。田中秀征さんもきっと、ワクワクされているでしょう。
 

森さんよりは、加藤さんの方がまし 石川

石川の独断と偏見かも知れませんが、私のこれまで生きてきた経験から思うにどう考えても、森さんよりは、加藤さんの方がまし。世論、世論と みなさんが言いますが、私たちは、どのようにして世論を野中さんや亀井さんに知らせる(おしえる、わかってもらう)ことができるのでしょうか。とにかく、 加藤さんを私(たち?)が支持していることを世論に訴え、それが、世論であることを野中さんや亀井さんにわかってもらうためにはどうしたらよいでしょう か。何とかしなければ、と思うのですが・・・・・・・・
 

加藤氏では頼りないですね murayama

橋本内閣のとき 何をしましたか? 無策無力の見本でした。そして 結局は 今日の大不況に至る過程を傍観していただけでした。森首相も頂けないけれども 加藤氏よりは 愛嬌があるだけまだマシでしょう。加藤氏が首相と考えただけで 世の中真っ暗な感じです。あの風貌。 見て下さい。 招き猫そっくりでしょう。 しかも大不況を招いた招き猫ですよ。まったく ウンザリです。
 

加藤氏に声援を送りたい 村上 60歳

加藤氏の森首相への不信任表明に対し、首相は「この時期に政治の停滞は一時も許されない、加藤氏は一体なにを考えているのか」と宣まわっ た。首相自身の一連の発言や行動が現在の政治不信ひいては森首相への不信任を招来し、許すべからざる政治の閉塞感を国民に与えていることを、極めて鈍感に 見逃していると考えざるを得ない。

主義・主張のはっきりしない連立政権を数合わせの為だけに継続しようとする現政権の当事者と与党の中心人物も同様に信頼できない。政治の世 界に詳しくないので今後の展開は読めないが、なにかしら決定的な変化が起こらなければならない瀬戸際に来てしまったと感じる。もし今の権力構造が持続した らと考えると暗澹とした気分になる。

20年以上前に田中首相の退陣への決定的な記事は月刊誌が載せた。私は日々政治の記事を配信する新聞等のマスメディアが、この国を間違った方向に行かせない為の正当な論陣を張ってくれることを期待して止まない。
 

失望しました ohashi

 本日配信された2000年11月12日(日)付け「久しぶりに覚える政治的わくわく感」を読み、失望しました。報じられている支持率が下 がった(不支持率が高いから)ことだけを理由に退陣すべきだ、との発言に政治的わくわく感を感じるのはいかなる発想からでしょうか?加藤氏の発言のどの点 に「日本の将来に明るい展望を示す強力なリーダーシップが生まれる」兆しを感じておられるのでしょうか?加藤氏および加藤氏に賛同するグループが内閣不信 任案に賛成した結果、政権交替が実現しても、その限りでは強力なリーダーシップが生まれるとは考えられません。我々が目にする新聞、テレビでは報じられな い情報をお持ちなのでしょうか?次号を期待しています。
 

何かが「壊れ」はじめている  山田 

MAIL読ましていただきました。長野県知事選挙、より何かが「壊れ」はじめていることを感じてます。田中知事が上手く県政をリードしてくれることを「望む」ことを県民も求めてないと思います。

「しなやか」の言辞に秘めたメッセイージを求めたことと思います。今回は国政レベルでそれが出来ればと期待してます。しかし加藤氏にはそのイマジネイションが欠落しています。政局レベルの反乱に終わってほしくないと思いますが、期待しながらも、不安が大きいです。

この閉塞感の打開に野党は期待できません。政治主張は違いますが現状否定と打開だけはやってもらいたいと思います。役者は小沢、小泉氏と 思ってます。鳩山氏は言葉に空虚感あり、感覚がずれています。政治家の資質がありません。管氏も政治屋になりつつあるように感じてます。小沢氏は政治手法 に問題がありますがパワーはあります。
<夢>を語れる政治家の出現を望んでおります。(11.12)
 

政治は国民のものである事を明確にせよ Yonezawa

いまの森政権に一番欠如しているものは国民の民意を反映していない事、政治は自民党だけの物ではない。この点を再認識すべきである。一部の 自民党幹部だけの民意とはかけ離れた政治、将来展望、リダーシップのない院政政治にも見える政治に国民は失望している。反乱だとか、造反だとかいうのは自 分たちの驕りである。
 

加藤氏が倒閣へ立ち上がった理由 まさひろ

自民党の加藤紘一元幹事長は、倒閣の理由として、「今の森内閣のままでは、我が国が壊れていく。国際政治の中から消えていく。日本のイメージが劣化していく」と述べ、また「支持率が7、8割の内閣を支持できない」と説明している。

私は、加藤紘一元幹事長がこの時期に立ち上がったのは、決して権力闘争ではなく、純粋に日本の行く末にたいして危機意識があったからだと信 じたい。加藤氏は、国が壊れていくとか、内閣支持率を国民に訴えるのではなく、どういう点で危機的なのか国民に訴えなくてはいけない。それを代弁すると、

まず第一に、森内閣は、赤字財政による景気回復に失敗したことだ。新規国債が純税収を上回る異例の予算を組んだのに関わらず、さらに補正予 算を組まなくてはいけない現実。そして、月例経済報告でも、景気判断を2年2カ月ぶり下方修正し、今年度の国債の新規発行額も純税収を2年連続で上回るこ と事態は、失政以外なにものでもないだろう。

そして、金融や生保への相次ぐ公的資金の投入や、ゼネコンの債権放棄を野放しにしている反面、自営業者が、5月から9月まで5カ月連続で前年同月比30万人以上減少している異常事態をどう考えるのだ。
政府は、経済状況について、景気動向指数や消費者態度指数の改善を強調しているが、卸売物価指数、消費者物価指数は下落。消費支出も前年度比でマイナス。どんなに詭弁を使っても株式市場はごまかせないではないか。

第二に、政治主導への転換を主旨としてされる中央省庁再編では、大臣政務官のポストは、政治家中心ではなく、官僚中心になるという。なんと 理由は、来夏の参院戦による政治家の人手不足だというではないか。さらに積極的な方針を打ち出していた学者や民間人の採用は、ごく限られた形なるという。 こんな体制で、野放状態の公益法人の改革をアピールしているが、こんな茶番劇を堂々とする自民党は恥を知れ。
世襲で受け継いだ、お嬢さん、お坊ちゃん議員や、官僚がエサをだせば、ワンと答える族議員らはどうでもいいが、政治への志をもつ議員はこれでいいのか。政治主導の転換をすてるきか。

民間企業は、情報技術を駆使して、リストラクチュアリングを図り必死になっていて、その裏で多くの労働者があぶれて苦しんでいる。世界第9 位の人口を持つ日本は、本格的に内需主導の経済へ変換しなければならないのに、規制緩和は遅々として進めず、赤字財政の政府や自治体は、既得権益にしがみ ついている。
裸の馬鹿殿様を担いで永田町を闊歩している、既得権益にしがみつく蛭をのばなしにしていていいのか。赤字財政による税収増は見込めなく、歳出は、不節操な蛭にたかられている現状をだまってみているのか

自民党も野党も関係ない。責任を負う覚悟をもって倒閣を決意した加藤氏に続いて声をあげろ。


2000年11月12日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄


 長野県で田中康夫知事が生まれ、政治の閉塞感に一脈の光明が見えたと思ったら、自民党の加藤紘一氏がついに重い腰を上げた。森首相の退陣を求めて野党が 提出する予定の内閣不信任案に同調する構えをみせている。政局の一歩先が闇といわれているから将来を予測することはできないが、次に起こるだろう展開にわ くわくしている。加藤氏の行動に拍手をお送りたい。

 加藤氏の動きは金曜日に始まった。森派会長の小泉純一郎氏に野党の内閣不信任に同調する意向を伝えたところから始まった。加藤氏は翌11日、記者団に「ドラマが始まった」と語り、朋友の山崎拓氏も「加藤氏は退路を断った。私も同じだ」と同調する意向を表明した。

 同じ日の朝日新聞のインタビューに対して「森内閣では日本が壊れる」と現政権との決別を表明。20年前大平内閣に対する野党の不信任案決議で福田派が欠 席したことに触れ「大平さんだったら、おれが福田さんや安倍君にやられたことを君がやろうとしているのかとニコニコ笑うかもしれない」などと語り、12日 朝のNHKの番組では「不信任決議への欠席も賛成も同じだ」といった内容の説明をし、倒閣の意志をさらに鮮明にした。

 加藤氏とは一度だけお会いし、その演説を聞いたことがある。20年近く前、自民党の候補者の応援に宮沢喜一氏とともに高知県入りしたときである。当時の 加藤氏は40歳代前半。どういう話を聞いたのか忘れたが、若々しく、なによりも久々に「自分の言葉を持った政治家だ」との印象を抱かせ、こういう人が日本 の将来を担ってくれればと考えた。

 だがその後の加藤氏についてはろくなものがない。常に「勇気が欠如した政治家」といったイメージがまとわりついていた。本来、政治家は自己主張を掲げて 自ら政権をとる戦いに挑むものである。故田中角栄以来、日本の政治はこうした政治家に恵まれなかった。小沢一郎氏が自民党を割って連立政権を勝ち取った が、自ら首相にはならず、ナンバーツーとして政権をあやつろうと間違いを起こした。

 90年代の日本全体を覆う閉塞感は「どうせだれも日本を変えようとしないのだろう」というあきらめにある。日本の将来に明るい展望を示す強力なリーダーシップが生まれるならば、多少の経済の停滞や負担増には耐えられるだろう。

 われわれが求めているのは1%や"%程度の経済成長という政府公約の実現ではない。村上龍氏が「希望の国のエクソダス」で主人公の中学生に何度を語らせ た「希望」という一語なのである。IT革命、教育改革、どれをとっても役人の作文しか期待できない。それはリーダーの資質が問われているからなのだ。

 森首相が英語ができなくともパソコンを打てなくともなんら問題ない。われわれに必要なのは閉塞感から這い出るための「メッセージ」とわれわれを奮い立たせる「ミッション」である。

 4月、小渕恵三前首相が病に倒れた間隙に、当時の青木・野中・亀井・村上が密室内でかってに決めたのが森政権であることを思い出し、加藤氏が発したミッションに一人でも多くの政治家が賛同して新たな政治的活路が開かれることを期待する。


このアーカイブについて

このページには、2000年11月以降に書かれたブログ記事のうち民主主義カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは民主主義: 2000年10月です。

次のアーカイブは民主主義: 2000年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

ウェブページ