民主主義: 2000年9月アーカイブ

2000年09月27日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 陪審員制度の導入の議論がにわかに現実味を帯びてきた。政府の司法制度改革審議会が裁判の審理に一般市民が加わり、判決に主体的に関与する新たな裁判制度を設置する方針を決めたからだ。マスコミは裁判への市民参加は戦後最大の司法改革だと論じている。

 萬晩報が誕生してまもなくまだ読者が100人しかいなかった時代に筆者は陪審員制度について論じた。反響もそれなりにあったが、否定的な意見が多かっ た。それから2年半しか経ていないのに裁判への市民参加がまともに議論されている。閉塞感のある現在の日本社会を打破するひとつのきっかけになるのではな いかと思う。

 以下、2年半前のコラムを再掲し、読者の意見を聞いてみたい。



55年前まで日本に存在した陪審制度

1998年01月30日(金)
共同通信社経済部 伴武澄

 大蔵官僚が、二人逮捕され、三塚蔵相と小村事務次官が辞任した。またしても日本の官僚を中心として制度疲労が表面化した。制度疲労が起きているのはは 霞ヶ関の官僚だけではない。国会はもとより、三権分立の一角を担う司法界でも同じだ。裁判の長期化、警察や検察調べに偏重した判決、特にハイテクや生命工 学などに関する裁判での裁判官の専門性の欠如はもはやおおいがたいものがある。

 西部劇で見る乱暴な裁判や報道が伝える米国での陪審裁判は必ずしも万全ではない。しかし、選挙人登録した米国人は企業の社長であれ、家庭の専業主婦であ れ、裁判所の要請があれば、すべからく陪審員としての「義務」から逃れることはできない。普通の人による普通の感覚を司法の場に導入することが重要なだけ ではない。「人を裁く」という難しい判断をあえて国民に委ねることを通じて、国民に試練の場を提供しているという側面も見逃せない。

 ●ステレオタイプでみてはいけない歴史

 陪審裁判制度が昭和初期に導入され、15年間も施行されていたことは案外知られていない。もともと明治憲法制定に際して参考としたドイツ憲法に 「Jury」制度があり、憲法草案の策定では熱心に導入が議論された経緯もあったが、「日本人にはあわぬ」とする井上毅ら政府高官の猛烈な反対に遇い、導 入に到らなかった。

 それが大正デモクラシーの護憲運動と連動、民主主義の基本として普通選挙と併せて国民の司法参加を求める声が高まった。政友会の原敬は第26回帝国議会に「陪審制度設立に関する建議書」を提出、陪審制度導入のきっかけとなった。

 明治憲法下の日本は絶対君主下のもとに国民の政治参加がまれで本当の民主主義は存在しなかったように思われているが、実はこれも戦前の社会に対するステレオタイプの見方でしかない。

 日本は対外的にはシベリア出兵や中国進出など確かに軍国主義の様相を強め、国内的にも米騒動や労働争議など社会不安が頻発していた。社会的にも政治的に も安定を欠いていたが、思想面では大正デモクラシーに代表される自由な雰囲気があり、社会制度の不備や不公正に対して国民側から多くの意見が出され、政治 に反映されたといってよいだろう。少なくとも自由と豊かさのなかで政治的無関心が蔓延している現在と比べても当時の方が政治に対して正面から取り組む姿勢 があったように思う。

 陪審制度導入もそうした国民的世論の高まりの代表例のひとつとして位置づけることができよう。

 ●全国で3339回もの講演会を開いて徹底した啓蒙

 陪審法の本格的整備は原内閣(1918年9月から1921年11月)に始まる。法律の制定は1923年4月で、施行は28年からだった。もちろん内容的 には陪審で取り扱う事件を限定するなど欧米の陪審制度から比べるとお粗末なものだったが、法律制定から施行までの5年間の準備作業と宣伝・啓蒙活動は驚く べき内容で、陪審制度導入にかけた当時の日本政府の熱意が伝わってくる。逆に慎重の上にも慎重を期した結果、5年間もかかったのかもしれない。

 判事と検事を欧米に派遣するとともに、関連法令の制定を急いだのは当然として、陪審制度の運用のため各市町村と綿密な事務協議を繰り返した。また、新制 度の徹底のための宣伝、普及活動も同時に進められ、全国で延べ3339回もの講演会を開き124万人もの聴衆を集めた。さらに啓蒙パンフレット類284万 枚を作成、ほかに宣伝用映画11巻(うち日本映画7巻)も作成している。

 日本の陪審制度は1943年、「戦時」を理由に「陪審法ノ停止ニ関スル法律」が交付され、停止した。あくまで廃止されたのでなく、停止したのだ。付則に 「大東亜戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニ付勅令ヲ以テ定ム」と規定しており、多くの法律学者に陪審法は現在でも「眠っている状態」と考えら れている。

 ●国民の成熟のためにも求められる陪審制度

 戦後の憲法制定過程で、陪審制度に関する議論もあり、占領軍内部には「日本の民主化政策の一環として陪審制度の導入が不可欠」との考えが強かったようだが、日本側は「時期尚早」を理由に新憲法への明文化を阻止したという。

 その際、「日本での民主主義の未成熟」や「日本人の国民性に合わない」ということも大きな理由となったようだ。未成熟だったり、国民性に合わないものが どうして明治憲法制定に当たって議論されたり、大正時代に制度として導入されたのか疑問だ。また政府が外国から制度改革を求められたときになぜいつもこの 「国民性論」が持ち出されるのか疑問も残る。

 確かに日本人のなかには義理人情があり、素人が隣人を裁くなどということは得意でないのかもしれない。自ら勝ち取った民主主義を持たないため、お上の権 威に対して弱く、専門家である裁判官に裁いてもらいたいという気風が残っていることも否定できない。しかし、それだけで国民性の問題にすり替えられてはた まらない。

 われわれも経験を通じて素人が隣人を裁くという欧米の制度を試してみる権利はあろうかと思う。いままでの傍観者から当事者になることにより、経験を通じ て「人を裁く」ことの難しさや責任を体得することができるようになる。そう考えるのは決して間違いではない。自ら民主主義を勝ち取った歴史がないのなら 「未成熟な国民」にとってなおさらそうした経験や体験が必要なのではないだろうか。


2000年09月23日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄


 シドニー五輪で20日夕、日本サッカーはブラジルに破れたが、32年ぶりの準々決勝リーグ進出が決まっ た。数時間後、社内のどよめきをかき消すかのように日債銀の本間忠世社長自殺の一報が入った。日本を変えた新しいイレブンの活躍と不良債権という十字架を 背負った金融機関トップの死という二つのニュースが翌21日朝刊に並んだ。変わり目にある日本を象徴する紙面だった。

 筆者がいま、関心を持っているのは28日告示、10月15日投票の長野県知事選だ。対立軸のないまま、20年の長期政権を担った吉村午良知事の引退に伴う選挙で、絶対本命視された池田豊隆前副知事に作家の田中康夫氏が宣戦布告したことによりがぜん全国の注目区となった。

 田中康夫氏は一橋大在学中に「「なんとなくクリスタル」を書いて以来、人気作家の一人となっているが、そ の後ブランド志向、スッチーものなどのコラムには一定のファン層を維持してきたものの、とりたてて売れた作品を書いたという記憶はない。それほど幅広い層 の支持を得た作家とは言えなかったが、95年1月の阪神大震災でのボランティア活動や神戸空港建設反対運動で世間の田中氏を見る目ががらっと変わった。

 何が田中康夫をかりたてたのか分からないが、その田中氏が政治の世界に挑戦するとはだれも考えなかっただろう。だからこそ長野県知事選が国政レベルでインパクトを与えるのだろうと思う。

 田中康夫氏の出馬について「変わらないのが当たり前という長野が変わるかもしれないと期待している」とのある長野県民のコメントが信濃毎日新聞に載っていた。

 単純だが、いまの日本人にとって最も分かりやすい言葉ではないかと思う。村上龍氏は近著「希望の国へのエ クソダス」(文芸春秋社)で主人公の中学生のポンちゃんに「この国はなんでもある。ないのは希望だけだ」と繰り返し言わせている。村上龍氏がたどりついた このフレーズを筆者は最近気に入って逢う人ごとに話している。

 思い起こせば90年代のこの日本で1回だけ、国民に希望を持たせた時期があった。細川内閣が誕生した前後である。男も女も大人はみんなわくわくしていた。

 日本経済は決していい状況にはなかった。円高のさなかで、経済界は円高不況の到来に危機感を高めていた。 だが海外旅行が安くなり、ブランドものや輸入車も相次いで値下げされ、「物価安が生活レベルを向上させる」との期待があった。なによりも自民党一党独裁と いう55年体制の崩壊で何かが起きるとの期待感に胸を膨らませた。

 だがそんなわくわくした気分も連立政権の瓦解、そして阪神大震災によって1年足らずで一気に収束した。

 自民党が政権に戻り、政権維持のためにかつての政敵と組んだ。銀行破綻が相次ぎ、政府は銀行救済のために 巨額の公的資金注入をスタート、天文学的財政赤字の中でも不況克服を目的とした財政投入に歯止めをかける人はだれもいなくなった。官僚汚職は頂点の大蔵省 にまで及び、警察官の犯罪いもづる式に白日にさらされた。少年による凶悪犯罪が日常化し、雪印乳業の集団食中毒事件で自慢の製造業にまで信じられないもの となった。

 失礼ながら、田中康夫氏や村上龍氏が政治や経済問題に正面から取り組むとは思わなかった。彼らに男と女の間のファンタジーを描かせれば絶品だ。そんな彼らが腐食する日本列島に本格的に取り組まざるをえない状況こそ日本の病状を端的にしめしているのである。

 サッチャー元イギリス首相が回顧録の中で語っていた。「エリートたちはこの国が立ち直ることなど考えてい なかった。過去の栄光からどのようにしたら時間をかけて衰退できるかばかり考えてきた」。日本のエリートたちも同じようなことを考えているのだとしたらえ らいことだ。もはや政治や経済をなりわいとしてきた人々では解決策を見いだしえないのだろうか。           


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