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kodak.jpg 名門コダックが1月19日破綻した。世界で初めてロールフィルムを開発し、素人でも写真が撮れるインスタントカメラを発売して、世界の写真業界を一世紀にわたってリードしてきた。ジョージ・イーストマンがコダックの本拠としたのは、ニューヨーク州ロチェスター。オンタリオ湖に面したところである。

 ここで産声を上げたのはコダックだけでない、ゼロックス、ボシュロムなど光学系の多くの企業がロチェスターで誕生した。育てたのはロチェスター大学である。神学校から始まったこの大学はコダック社が多額の資金を提供してことで知られる。重要なのは、世界中から光学を目指す技術者や科学者がこの大学で学んだことである。

 コダックが業績を拡大し、ロチェスター大学に資金をつぎ込み、有能な光学技術を育て、コダックもまた巨大な企業に発展するのだが、ロチェスター大学で学んだのはコダックの技術者だけでない。日本のニコンもキャノンもお世話になっている。ニュートリノでノーベル物理学賞を授賞した小柴昌俊氏もロチェスター大の大学院を卒業している。コダックがロチェスター大学を通じて世界光学技術者を育てたといっても過言でない。

 20年ほど前、日米貿易摩擦で、コダックが日本の富士フィルムが市場を排他的に支配していると訴えたことがある。本当のことをいえば、日本の光学メーカーはコダックが支えたロチェスター大学に足を向けて眠れないはずである。かつてのアメリカメーカーのすごさが垣間見られるのである。

 ここからが本題である。コダック躍進の原動力となったロールフィルムの原料はセルロイド。さらにその原料が樟脳だったことはほとんど知られていない。100年前の樟脳のほとんどが日本と台湾で生産された。樟脳はクスノキの樹液から誕生したもので、セルロイドは初めて作られた植物性のプラスチックだったのである。

 ロールフィルムの最大の功績は、映画の誕生である。エジソンらがフィルムを回転させて動く映像を生み出し、それが後のハリウッドへとつながることを考えれば、大変な発想だったことが分かる。そしてその20世紀の重要な発明の源に日本のクスノキがあったことにわれわれはもう一度眼を向けるべきであろう。

 連想ゲームでいえば、樟脳、セルロイド、ロールフィルム、ハリウッドとなるのである。

 ちなみにクスノキは高知や鹿児島の主要産品で、幕末の土佐藩や薩摩藩の財政を大いに潤した。もっとも藩政時代にはコダックはなく、樟脳はもっぱら薬品や防腐剤として珍重されていたにすぎなかった。藤沢薬品工業はもともと鹿児島で樟脳を商いしていて大阪道修町に進出し、なんとロチェスターに支店を持っていたというのだから、コダックの日本は長い因縁を持つのである。
DSCN0729.JPG 先週、金沢市を訪れ、鳥肌が立つほどの空間に立ち入った。新しくできた鈴木大拙館での出来事である。入館受付を終えて、数歩後ずさりすると右手に展示室に続く長い廊下が視野に入る。その光景がぞくっとするのである。

 美術品や建築物などとの出会いには人それぞれ感応の仕方が違う。育ってきた幾多の環境のなせる業なのだと思う。文学作品で、冒頭部分を思えているものはそう多くはない。筆者の場合、島崎藤村の『夜明け前』がある。「木曽路はすべて山の中である」という書き出しには読者を作品に強く引きずり込むインパクトがあった。

 6年前、三重県菰野にあるパラミタミュージアムを訪れた時、似た感覚があった。廊下を左に曲がると光の空間に迎えられる。常設展の故池田満寿夫の「般若心経シリーズ」へのプレリュードに立つと、瞬間に「なんだこれは」という強い衝撃に立ちすくむはずだ。

 ともに光の魔術である。鈴木大拙速館にも東洋の霊性を世界に広めた大拙を語るにふさわしいプレリュードがあった。明と暗によるエネルギーが瞬間的に交錯する。

 かつて京都の大徳寺高桐院。初夏の雨上がりの庭園には新緑時にのみ緑色の濃い空気が漂っていた。寺門をくぐって右に折れたとたんに感じる目に入る光景である。その瞬間にのみ感じることのできる美のパルスなのだと思う。高桐院では自然に中に同じパルスをもたらす工夫があった。

 鈴木大拙館は建築家、谷口吉生氏の作品。「あまり人に来てほしくない館をつくった」という。「自分だけの空間」という意識が強く込められている。谷口氏が「壊してもう一度つくりたい」と語ったほどに霊魂を込めた作品が一人歩きを始めた。(伴 武澄)

 鈴木大拙館 http://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/

  自称「毎週金曜日はりまや橋商店街に出没する占い師」の源さんのブログ「占いから未来へ」が土佐論を展開していておもしろい。2009年7月13日の「土 佐人民党を立ち上げましょう」では、地域政党として「土佐人民党」の設立を提案している。名称は「四国独立党でも何でもいい。土佐人民党は省略すると、土 人(どじん)党。インパクトのある名前ではありませんか」というのである。
 http://sachiare.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-ec2d.html

 使命は「食とエネルギーの自給」で、これならば高知県1県で不可能ではない。源さんによれば土佐人民党は「単なる政治団体というより、地域おこし研究・ 実践団体、教育団体の性格が濃いもの」「討議の末、あるべき姿が見え、政治家の力が必要になれば、地方議員にでも国会議員にでも働きかけて、実現させてい けばよい」「政争に巻き込まれるのではなく、あくまでも「くにづくり」を志向」するのだという。

 源さんの提案は、いわば県民シンクタンクのようなもので、。党員が立候補して政治を行うのではなく。人民党の政策・綱領を推進してくれる「政治家」を選んで「委託する」存在とでもいえまいか。

 これまでの「勝手連」が候補者を応援する場面が多々あったが、勝手連は候補者の考え方に賛同した有権者が立ち 上げたもので、自ら政策を立案するのではない。土人党はそうでなく、シンクタンク機能を持って常々、日本のあり方、土佐のあり方を議論し提言を発信する組 織なのである。

 少なくとも「食とエネルギー」の自給という命題はいい。ぜひとも実現したい構想である。(伴 武澄)

 引越しは定年の5月5日だった。共同通信社の定年は誕生日と決まっている。高知に帰るのに区切りがいいと考えた。引越しは次男と三男が手伝ってくれた。アリさんの引越社が最後の引越しとなるのだろうか。ふとそんな思いが去来した。去来といえば陶淵明。

 陶淵明の「帰りなんいざ」(帰去来辞)はすべての官職を退けて田園に生きる心情を語った詩である。僕の場合は、単に根無し草の人生に終止符を打つのが目 的。思いは随分と違う。津市ですごした2年半の思いは「欲望をかきたてない土地」に住む心地よさだった。デパートがない、繁華街がない、暇をもてあまして 歩く空間すらない。それが心地よいのである。庭の草月とたわむれ、それに飽いたら浜に出て遊び、時として月を愛でる。

 定年の1週間前の5月28日(木)の日記である。
 夜来の風雨が晴れた。五月晴れである。昨夜、恵比寿で夜11時まで飲んだ酒が残っている。新聞を取り、植木に 水をやり、シャワーを浴びてコーヒーとトーストの朝食。電源をつけたままのパソコンは機嫌が悪いらしい。何も表示しないので強制シャットダウンした。買っ たばかりの麻の半袖シャツに腕を通し出勤した。元参議院議員の日下部さんと昼食の約束がある。夜は二男と長男が銀座の鳥ぎんで食事をすることになってい る。今日の予定はそれだけだ。

 京王線上北沢でパスモは850円を示した。定期券はすでに4月11日で切れている。パスモもちゃんと終わり時を知っているのか。「最後の一日」を書こうと思った以外に特に感慨はない。昨日からの通勤の友は太宰治子『石の花』。なんとはなしに本棚からカバンに入っていた。

 写真はコデマリ。津市で鉢植えを買って川崎市の五月台に引越しした際に庭に植えたところ、4年間でどんどん大きくなった。上北沢も一軒家だったが、庭が狭かったので五月台において来た。いまごろ咲いているのだろうと思う。好きな春の花の一つである。

釜山への旅

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2011年09月22日(金)
萬晩報主任研究員 服部 巌
  麗澤大に所蔵の戦前の朝鮮、満州、台湾に進出した日本企業の資料の中から、祖父の会社の釜山支店の記録と写真が出てきました。この6月のことです。支店の 所在地や店構えの写真、敗戦時の資産没収などの資料は興味深いものでした。私の祖父服部国太は佐渡ヶ島の出身で東京での修行の後独立して、大阪船場に文房 具卸・服部洋行を起こしました。明治末期のことです。創立後間もなく日本の大陸支配に乗じて事業を朝鮮、満州に拡大したものと思われますが、明治13年生 まれの祖父が40歳前後の血気盛んな頃で、国策の機を見て敏というか行動力旺盛だったことが窺えます。釜山を足掛かりに京城(現ソウル)、大連、奉天(現 瀋陽)と事業拡大し成功を収めていきました。写真は大正元年、今から100年ほども前の光景で初めて見るものでした。地名には釜山府大廰町3丁目12番と ありました。

 当初は出てきた資料に触発され、その地を見たいと気軽に思い立った息子との二人旅でした。同じ行くなら大阪から海路での貧乏旅行をと、横浜からは深夜高 速バスで、大阪での時間待ちの間を縫って通天閣に上り、360度の大阪を息子に詳しく案内したのちPanStarFerryという韓国の2万1000トン の、豪華とはいえないまでも一応国際航路の客船での19時間の旅、折からの中秋の月の下滑るように穏やかに波を進むのは中々の風情でした。ホールではマ ジックやダンスに生演奏なども交えて乗客を飽きさせない趣向も用意され、息子はいたくご満悦でしたが僕にとっては上部甲板で潮風に吹かれながら大阪-釜山 を空路でなく海路で渡ることに思いをめぐらすひと時が貴重でした。

 80余万人ともいわれる在日コリアンの多くが移り住む大阪、彼らにとってかつては空路など想像すら出来ず船旅は故郷を繋ぐ唯一の交通手段だったはず、い やそれすらも当時の在日の人には困難であったことでしょう。門司、下関を巡って後、かなり離れた地点で対馬を見てその直後には対岸に早や朝鮮を望み、この 近さは渡ったものでないと実感できぬ驚きでした。仕事で幾度かソウル、大邱は訪れたことがありますが、僕にとり釜山は心理的にソウルのその先に位置してい たことを痛感しました。

 そして大正の初期当時の祖父の影をひと際鮮明に感じた一瞬でもありました。その昔阿倍仲麻呂、空海をはじめ遣唐使は、どうしてこのコースを採らなかった のか?遭難のリスクを考慮すれば、このコースが安全な筈なのに陸路にはそれ以上のリスクがあったのだろうか?などと悠久の奈良の昔に思いを馳せるひと時で もありました。その意味でも大阪からの航路は、その場に立ってみて初めて気づく濃密な時間でありました。

 釜山は神戸に似て山並みが海岸線近くまでせり出し、その名の通り釜を伏せた形状故の地名なのだろうと想像を逞しくさせられる風景です。街は賑わっている ものの、ソウルのようなギスギスした都会とは程遠く、昔ながらの港町の雰囲気を十分に残しています。宿舎に入る前に立ち寄った国際市場(クックシジャ)と いう釜山中央駅の真正面の一角に、今回の旅の目的地「大廰洞」(大庁町)に通じる大廰路(大庁大通り)を見つけました。

 それは肩すかしを食ったような呆気ない発見でしたが、探訪は翌日のお楽しみに残してどこやらSFのフィッシャーマンズ・ワーフに似たチャーガルチ魚市場 や露店などを冷やかしながら、しばらくは街の雰囲気に浸りました。殆ど日本語が通じることにも距離の近さが感じられます。露店のオヤジの「いいベルトある よ!長尺もたくさん」と僕の腹を見てニタリとしたのには閉口しましたが・・。

 翌朝、大廰町3街区12番(現在は中区大庁)を目指しました。区画は当時のままで探索は難しいものでなく「街区の突き当りで背景に小さな山」という、写 真の光景そのままの場所が簡単に見つけ出せました。神戸でいえば三ノ宮から埠頭あたりの雰囲気です。大廰という名の通り昔は役所が立ち並んだ街だったのか も知れません。今は歴史公園のエリアの一画になっていて、目的の場所は「近代史料館」脇に立つ独立した建物になっていました。当然建て替えられているので しょうが、佇まいは写真と酷似していて此処だという確信めいたものを感じました。小山の頂上には寺院があり隣には白い塔が立つ妙な取り合わせの地でした。

 そこに立った時、思わず頭を過ぎるものがありました。うまく言い表せないのですが、自分が昔三十歳のころ初の海外赴任地であるニューヨークに降り立った時の感覚です。
「思うことを信じてやって来たら此処まで来てしまった」というような感覚です。
ぼくには二十歳前に家庭面で幾度か困難に直面した経験があります。しかし悲壮観などは全くなく楽観的に「It's not my turn, not me ! 」とでもいうか、この困難は僕のもんじゃない、僕のゲームはこれからなんだというようなネアカ感覚でくぐり抜け成人しました。

 その意味でニューヨークは「さぁもう後がないぞ、自分で蒔いた種なんだから」と奮い立ったものです。きっと祖父も事業を起こしてこの釜山に立ったとき、 そんな感じではなかったろうか?十歳の時、逝ってしまった祖父を何かより身近に感じることが出来ました。この釜山を足掛かりとして祖父はソウル、大連、奉 天(瀋陽)と事業を拡大していきます。

「佐渡人の気風は『進取の気象』にあり」と祖父から聞かされたと、子供のころ父から伝え聞いたことがあります。狭隘な島国から飛び出すことにこそ、若者は 価値を見出そうとするのだと。日蓮、世阿弥、日野資朝・・・本土に戻れない流人たちが、無念さの一方で後事を島の若者に託して語り継ぐのが習いとなり、あ る意味脱出願望は島の若者の文化になって行ったというのが祖父の持論だったようです。だから北一輝のような過激分子も輩出するのだとも言っていたようで す。

 さて足かけ4日の滞在日程の間、精力的に西へ東へ動き回りましたが交通手段はすべて地下鉄と徒歩で通しました。現役の頃は時間優先の効率主義で、電車な どほとんど使わずに車が大半でした。しかし今回蟲のように地面を這いずり廻ってみて見えるものが全く違うことに驚きました。極論すれば約30年の間40カ 国近い国と地域を動き回って、僕は何を見て来たのだろう?随分と惜しいことをしたものだというのが実感です。

 精力的に歩いた分だけ腹も減りました。しかし毎度の食事は空腹を満足させてくれただけではないかも知れません。なかでも到着初日にチャガルチ魚市場で食 した活け飯蛸の韓風刺身、最後の晩餐に中央駅そばでふらりと入ったコムタン屋でトライしたソルロンタンのおじやは絶品でした。特に後者は味覚を通り越して ハートに沁み込むような、遠い数百年以上も前に渡来した我が服部のルーツの記憶が覚醒したような不思議な感じがしました。

 見たもの聞いたもの、思ったことが頭から溢れ出しそうになる凝縮の6日間でした。一衣帯水とはよく言ったもので、両国の長いお付き合いはまったく近くて 遠い、かと思えば遠くて近い腐れ縁のようです。その間には不幸な関係の時代もありました。しかし歴史を知らなさ過ぎるのも困ったものですがデリケートにな り過ぎるのも考え物だなと、いま思います。帰路の船で出くわした日韓交流プログラムの高校生達の軽いノリのコミュニケーションをみていてつくづくそう思い ました。この先はこの子らが作っていくのかと思うと少しホッとしたのもまた事実です。

 旅もようやく終わりに近づきました。今回の旅で思ったことの一つを最後にご紹介します。

 出典がどこかも定かでないのですが、「子孫のために美田を買わず」という言葉があります。

 旅の途中でふと思ったのですがそれは美田の有る無しが問題なのではなく、子孫はそのような祖先の残した事跡に隠されたロマンやスピリットを、その先の孫 や子に責任をもって語り継ぐことこそ大切なのではないか?ということです。自分自身も孫を持つ身分になって、そんなことを意識するようになったのかなと改 めて思います。


 伴 武澄にメール bantakezumi@yorozubp.com

  久しぶりにセカンドハンドの新田恭子さんに先週21日会った。セカンドハンドはカンボジアに小学校をつくり初めてから15年になるが、今度はザンビアでも 学校建設が始まっている。僕が新田さんに最初に会ったのは12年前だと思う。萬晩報の配信を始めたころ、高松の友人を通じて知った。なんともさわやかな印 象だった。1998年4月27日、萬晩報に新田さんのことを書いた書き出しはこんな風だ。

  「だいだい色の屋根とクリーム色の壁って緑の木々にマッチするんです」。ボランティアを始めて、三つ目の学校がカンボジアにできた。2月末、カンボジ ア政府から復興功労メダルをもらった。新田恭子さんは、フリーのアナウンサー。高松市に住み、香川県からアジアや日本を語る。カンボジアにかかわり始め て、日本や日本人の在り方が気になりだした。

 http://www.yorozubp.com/9804/980427.htm
 セカンドハンドは今年4月にNPOから公益社団法人に昇格した。当然のことでこれまでの功績から考えて遅いく らいである。21日は東京地区の支援者の集まりだった。十数人が仕事後に集まったが、当然面白い人が多かった。「人を育てる」というセカンドハンドはカン ボジアの子どもたちだけでなく、日本のも若者にも多大な影響を与えている。

 実は12年前に新田さんは朝日新聞の「ひと」の欄に取り上げられ全国的に知られる存在となった。その記事を書いた福間大介記者も当日、会合に参加してい た。福間さんによれば「当時、四国新聞だったと思うが新田さんの活動が紹介されていて、なんとかこういう人物を全国に紹介したいと思った。僕はまだ1年生 記者だったので地方版に記事ばかり書いていたが、デスクが『ひと』に書いたらいいといってくれた。僕にとっても全国的に掲載された初めての記事が新田さん の『ひと』で、記念すべき記事なんです」と話してくれた。初任地で出会った人たちは記者にとって一生忘れられない存在となるが、福田さんはとても恵まれた スタートだったはずだ。

 以前、高松の友人に「新田さんは香川の宝だ」といったら「いや四国の宝だ」と言い返されたことがある。いまや「日本の宝」といってもいい。日本ユネスコ 連盟主催の青年ワーキングキャンプに参加して、現地の大学生と一週間寝食を共にして、図書室の修復を手伝った。図書館は出来上がったが、今度は本がないこ とを知った。ないないづくしのカンボジアに学校を建てようと古着ショップを始めた。セカンドハンドの始まりである。

 話の中でイギリスのオックスファムという慈善団体があることを教わった。初めて聞いた名前だった。不要になった家庭用品を販売して慈善活動に使うシステムで、オックスファムはイギリス国内に何十店舗も持っていてデパートみたいな店舗もあるというから驚きだった。

 新田さんはオックスファムのシステムをまねて高松から世界に向けてその存在を示すようになった。高松に2店、丸亀、広島のほか福岡や大阪、北海道にも ネットワークを広げている。まさに一粒の種が蒔かれて事業が拡大している。このネットワークのほかに面白いのは最近「セカンドハンド・ユース」が誕生し、 新田さんらに育てられ高松から全国に巣立った学生たちを中心にそれぞれの場で活動の輪が広がっていることである。官に頼らず自分たちで何でもやってしまお うという精神はこれから不可欠な行動となっていくだろう。(伴 武澄)

 水の文化の最新号が届いた。「愛知用水50年」が特集で、なかなか読み応えがある。編集部からのページに新見南吉のいい話が出ていたので、転載してみなさんに読んでもらいたい。

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 知多・岩滑(やなめ)の出身である童話作家 新美南吉は、身近な溜め池をよく描いた。『おぢいさんのランプ』は、生前に刊行された唯一の童話集に収録されている話で、孤児だった祖父 巳之助が文明開化のシンボルとしてランプ売りになるが、やがて村に電気がくることで失業してしまう。一時は逆恨みする巳之助だが、思い直して、古い自分と決別して本屋になる。

 巳之助は孫に「日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょ うばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていたむかしの方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえこ とはけっしてしないということだ」と言い聞かせている。

 ランプを割って商売を辞める決心をする舞台には、知多の象徴としての溜め池が選ばれている。そこには「後ろを振り向かないで、前を見る」という気概が描かれているように思う。

 南吉の物語はいつも切ないのだが、読み直して改めて気づいたことがあった。ごんぎつねも 含めて南吉の童話の登場人物は、いつも過ちを犯してしまう。しかし、そのままでは終わらずに自らの非を詫びるのだ。詫びられたほうも、謝罪を受け入れ許し てやる。人間は弱い存在で、互いに弱さがわかるから思いやることができる。そして、互いがあるから諦めずに前進できる、という南吉の希(ねが)いが込めら れているような気がする。

 愛知用水運動の中心となった久野庄太郎さんは、牧尾ダムの工事で56人の犠牲者が出たことにずっと苦悩し続けたが、〈不老会〉をつくることで供養の道筋を見出した。自分たちが水を得た代わりに、家がダムの底に沈み故郷を離れざるを得なかった人たちのことも、生涯忘れなかったに違いない。

 歴史に「もしも」は禁句だが、久野さんという人がいなかったら愛知用水は実現されなかったかもしれない。しかし南吉の童話を読むと、何年か待てば久野さんのような人物がまた立ち上がってくるかもしれない、と思わせる希望が湧いてくるのである。

 水の文化 http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/index.html (最新号はまだ掲載されていない)


  高知県伊野町にある紙博物館を訪れ、故司馬遼太郎氏が龍馬銅像還暦に寄せていたいい文章を見つけた。このメッセージは昭和63年7月、桂浜の龍馬像の前で 銅像建設発起人物故者追悼会が行なわれた際に司馬氏が寄せたものを、故入交太二郎氏が晩年に大きな屏風に墨書した。入交氏は、早稲田大学在学中の大正15 年夏、土居、朝田、信清氏の3人と坂本龍馬の銅像建立を考え、野村組新聞部の大野氏、高知県青年団を巻き込んで賛同を集めて建立にこぎつけた。桂浜に立つ 龍馬像の除幕式が行なわれたのは昭和3年5月27日であるから、かれこれ3年の年月が経っていた。司馬遼太郎のメッセージをメモしてきたので披露したい。

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 銅像の龍馬さん、おめでとう。

 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。私はここが大好きです。世界中で、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に銅像がおかれる空間が大切なのです。その点、日本の銅像はほとんどが、所を得ていないのです。

 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内して来ました。

 この地が、空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

 大きく弓なりに白線を描く桂浜の砂は、あなたの清らかさをあらわしています。この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、あなたの動かざる志をあら わしています。さらに絶えまなく岸うつ波の音は、すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを物語るかのようです。

 そしてよく言われるように、大きく開かれた水平線は、あなたの限りない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

 「遠くを見よ」

 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。いまもそのことを諭すように、あなたは渺茫たる水のかなたと、雲の色をながめているのです。

 あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。

 あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまで来て、

 「これは龍馬さんぢゃ」

 とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。

 私は三十年前、ここへ来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通じて、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。

 「全霊をあげて、あなたの心を書く」

 と、つぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。

 それよりすこし前、まだ中国との国交がひらかれていなかった時期、中国の代表団がここにきたそうですね。

 十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、各国から食いあらされて、死体のようになっていました。その中国をみずから救うには、風 圧のつよい思想が必要だったのです。自国の文明について自信のつよい中国人が、そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、ともかくもその思想で もって、中国人は、みずからの国を滅亡から救いだそうとしました。ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、そういう歴史の水と火をくぐってきた人 だったのでせう。

 その中の一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。あなたの風貌と容姿を見て、あなたのすべてと、あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

 殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、旅人の死を悼む風習があったといわれています。旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。死せる旅人は、そこへゆくことなく、地上に心を残した人であります。

 殷のひとびとは、そういう旅人の魂を厚く祀りました。この古代信仰は、日本も古くから共有していて、たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。

 ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

 あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば、人類のたれもに、共通する志というものでした。

 あなたは、そういう私どものために、志をもちました。そして、途半ばにして天に昇ったのです。その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、かつ慄させ、そしてここに立たせるのです。

 さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、あなたを悼むとともに、あなたが、世界中の青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、よろこびをおぼえるからでもあります。

 「志を持て」

 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいことかを、あなたは、世界中の若者に、ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

 今日ここに集った人々は百年後には、もう地上にいないでせう。あなただけはここにいます。百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、今日ここに集っているひとびとの願いなのです。私の願いでもあります。

 最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松藾(しょうらい)の音も、あるいは岸うつ波の音も、人類とともに永遠でありますことを。

 よさこいを踊りに高知に帰った。よさこいと龍馬人気で駅前は例年になく活気を帯びていた。駅前広場に設営されたブースで「碁石茶」を売っているコーナーを見つけて話を始めた。碁石茶は高知県の山間の大豊町で栽培・製造されてきた独特の固形茶である。

 かつては誰も知らなかった「すっぱい」このお茶が5、6年前にテレビで相次いで紹介されたことがある。肥満防止に効果があるということが伝わって、碁石 茶が生き返ったのである。コーナーで商品紹介をしていた布元さんによると「注文が殺到して在庫がなくなった年もあります」という。土佐にも「ゆず」に次ぐ だれにもまねの出来ないもう一つの特産品がうまれていたのだ。
 実は、萬晩報は9年前にこの碁石茶を紹介していた。テレビで碁石茶が紹介されたその時間帯に数十通のメールが 寄せられていたのだ。「碁石茶」で検索した人が突き当たったのが萬晩報だったからである。一通ごとに丁寧に大豊町役場の電話番号を書き入れて、役場に問い 合わせるよう返信した。

 地元でもほとんど知られなかったこのお茶を知ったのは、京都大学の先生だった松原毅著『お茶の来た道』(NHKブックス)だった。高知県にへんなお茶があるという記述だったと思う。
 http://www.yorozubp.com/0102/010213.htm
 『お茶が来た道』で驚いたのは雲南省で誕生した固形のお茶が四国の山間でずっと作り続けられてきたという事実だった。松原氏は照葉樹林帯という雲南省から紀伊半島へと続く樹木の帯の存在をお茶と関連づけて「お茶の来た道」を実証しようとしていた。

 お茶が来た道は同時にお米の来た道でもあり、日本文化のルーツを探る道でもあるのだ。司馬遼太郎氏も『峠を行く』シリーズで福建省と日本の文化のつながりについて詳しく紹介していたことがある。

 布元さんによると、昭和の末には一軒しかなかった碁石茶の生産農家がメディアで話題になることで、いまでは栽培農家は7軒に増え、JAと役場による第三 セクターの「ゆとりファーム」も誕生したのだそうだ。筆者にとって碁石茶は単なる高知県産品の問題ではなかった。日本文化のルーツを探る新しい発見の一つ だったのであるが、その発見が碁石茶の復興の一助となったのではないかという喜びもあった。

2010年07月03日(土)
高知工科大学国際交流事務室長 伴 美喜子

 6月15日 より18日まで、学長に随行して中国ハルビンを訪れた。今年、ハルビンは異常気象で、大変暑かった。3日の間にハルビン工業大学、ハルビン工程大学、ハル ビン師範大学、黒龍江大学の4大学を訪問し、実り多い出張だったが、本稿では公式日程の合い間に体験した、個人的な「発見」についてご紹介したい。

 中国では、6月16日(旧暦5月5日)は端午節で、祝日である。私たちは前日の15日夕方に到着し、夕食後ロシア風の町並みが残る松花江ほとりの「中央 大街」の散策を試みたのだが、町は車や人で溢れ、交通渋滞で帰れなくなることを恐れてホテルに引き返した。

 案内をしてくれた黒龍江大学の王君林さんに寄れば、この人たちは皆、朝まで外で過ごし、早朝に「艾蒿」(ヨモギ)を摘んで(または買って)、家の門に飾 り、その年の健康を祝うのだそうだ。棗入りの「粽子」(ちまき)を食べることも大切な習慣だという。

 端午節は戦国時代(約2300年前)の「楚」の国王の側近であり、有名な詩人でもあった屈原が国を憂いて汨羅の川に身を投じた日だとされる。屈原の遺体 が魚に食べられないように、彼を慕う民衆が川に「ちまき」を撒いたのだという。

驚いたのは、この昔から伝わる「端午節」が、昨年から国の祝日になったということだ。伝統文化を若者に伝えるための国の政策だと王さんはいう。昔から祝日 だった「春節」に加え, 「清明節」、「中秋節」も休日となったそうだ。

 旧暦なので、端午節の日は毎年変わるが、面白いのは中国での連休の組み方だ。今年の端午節の例で言えば、土、日に出勤して、代わりに月、火を休日とし、 水(16日)の祝日に繋げて3連休としている。なるほど、と感心した。同じ連休でも、祝日そのものをご都合主義で変える日本とは「精神」が違う。

 翌朝7時から、投宿したシャングリラホテルの眼下の松花江で「龍舟比賽」(ドラゴン・ボートレース)があると聞いたので、早起きして行ってみた。屈原を 慕う人々が多くの舟を出して遺体を探したという伝えが龍舟比賽の由来だとされる。

 ゆったりと流れる松花江の広々とした川岸を老若男女が手に手にヨモギを持って、楽しそうに散策している。草束の中に菖蒲が混じっていることもあっ た。(菖蒲湯の習慣はないそうだ。)国中が旧暦の伝統を楽しむ長閑で美しい風景に出会えた僥倖に感謝した。

 実は、端午節の祝日に、私たちは二つの大学の学長を表敬訪問したのであった。中国では面会の時の贈物交換が大変重要なセレモニーなのだが、私たちが準備 したお土産は偶然にも特注した郷土高知県土佐山田製のフラフだった。原色の鮮やかな大きな布をパッと広げた時のざわめき、由来を解説した時の皆の頷き、日 本と中国だからこそ共有出来る交流の楽しさを感じた一場面であった。

 以前に多民族国家マレーシアに10年滞在した頃から、私は暦に興味を持つようになった。日本以外のほとんど(もしかしたらすべて?)のアジアの国々で は、今も旧暦を併用し、伝統的な祝日は必ず旧暦で祝っている。 日本では1872年に新暦が導入され、伝統的な祝日は新暦に移して固定されてしまった。

 七夕が近い。これも元々中国から伝わった文化である。7月7日(新暦)、8月16日(旧暦7月7日)、それとも8月7日(月遅れ)に祝いますか。自然を 重んじる日本伝統文化を継承していく上で、大切な問いかけだと思っている。

 民族の暦は文化の核であり、祝日の一覧を見ればその国の文化のあり方が見えてくる。

 とある会合で、法務省関係者が言い出した。
「日野富子って知っているよね。室町時代の八代将軍、足利義政の正室。結婚しても足利富子を名乗らない。鎌倉幕府の源頼朝の妻は北条政子。この人も源氏を名乗ったりしない」
「夫婦別姓ってこと」
「そう。明治政府は明治9年3月17日の太政官指令で"妻の氏は『所生ノ氏』(=実家の氏)を用いることとされる"っていっているのだ。つまり明治の初期は別姓だった」
「いやぁー、知らなかった」
「夫婦同姓となるのは明治31年の民法制定からでしかないのだよ」
「いやぁー、おもしろい。韓国で別姓なのは、家に入れてもらえなかっただけで、とりたてて女性を尊重して同姓にしなかったのではないと聞いたことがある。うちの家系図に妻が出てこないのはおかしいと母親が言っていたことを思い出すな」

 こんな会話が続いた。夫婦別姓論の是非を論じたのではない。どちらの姓を名乗ろうと、筆者は別の姓を名乗ろうとどちらでもいいと思う。

 江戸時代まで「姓」は「氏」といった。そのむかし「姓」は「かばね」で、天皇から与えられた家の尊称だったはずだ。「藤原」は「かばね」で、一条だとか 近衛、鷹司などは「氏」なのだ。多くは住んでいた地名を「氏」とした歴史がある。「かばね」のない人々も同じように地名を「氏」としたケースが多い。

 結婚は同じ血が交わらないように少なくとも隣村から嫁が迎えられた。村の中では同じ氏を名乗る人々ばかりだったから、妻が別姓を名乗るのはかなり肩身の 狭い思いをさせられたのではないかと考えてしまう。もちろんたとえ氏があったとしても「姓」で呼ばれることはほとんだなかったはずだから、戸籍がない時代 には同姓であろうが別姓であろうがどうでもいいことだったに違いないのだ。

 30年近く前に結婚したときに、連れ合いになる現在の妻には「伴の姓を名乗って欲しいと求めたことがある。そのときは一緒に苦楽を共にしてほしいといった意味で求めたのだと思う。

 法務省の「我が国における氏の制度の変遷」
 http://www.moj.go.jp/MINJI/minji36-02.html

 賀川豊彦献身100年記念事業で、「賀川豊彦賞」創設が課題となっている。確固たる事務局と資金の裏付けが不可欠であるのはいうまでもない。どんな人にあげたいのかという議論も熱く交わされている。

 筆者も会議で何人かの人物をあげたことがあるが、2月に入ってから賀川賞にぴったりの人物に何人も出合った。まず、栃木県の「こころみ学園園長」の川田昇さんを紹介したい。

 3月1日、栃木県が主催する「食の回廊コンベンション」に参加した。イチゴ食べ放題、ワイン飲み放題というお誘いにほだされて参加することになった。

 行きのバスの中でいつのまにかテレビにビデオ映像が流され始めた。山の斜面を開墾する姿が映し出され、「そうか、イチゴづくりは最初は大変だったのだ」などとのんきに構えていたら、どうやら様子が違う。

 知的障害子どもたちが一生懸命働いている。ビデオは今日の目的地の一つ、ココ・ファーム・ワイナリーの生い立ちを映し出していたのだ。

 川田昇という青年が特殊学級の自分の生徒たちの将来のために、自ら山の斜面を取得し、働く場づくりを始めたのは、1958年のことだった。勾配38度の急斜面が3ヘクタール子どもたちのの輝かしい将来を作り出すとは誰も知らなかった。

 川田さんは国や県の補助金は受けず、自ら自分たちの将来をきりひらくことを決めていた。ブドウとシイタケ栽培が始まった。

 川田さんは「子どもたちの手をみたらまっしろでマシュマロみたいだった。たぶん可哀想な子どもたちに親たちが何もさせずにいたからだ」と感じた。一月、二月とたつうちに子どもたちの手は日に焼け頑丈になり、やがて「農夫の手」になった。

 この施設は「こころみ学園」と命名され、全国から知的障害がある子どもたちを受け入れるようになった。ブドウを選んだのは一年中手間のかかる農作業だったからだ。斜面で働く効果はいろいろな面で現れてきた。家で暴力をふるって手の付けられなかった子どもが、落ち着いて黙々と働くようになった。急斜面を昇り降りするうちにバランス感覚が身に着くこともあった。自閉症も子もしばらくするとみんなの真似をして自ら働くようになった。

 15年後の1980年、この斜面の下でワインづくりが始まった。保護者たちが出資して「ココ・ファーム・ワイナリー」を設立した。子どもたちがつくったブドウを買い取る醸造業が始まった。

 なぜワインなのか、川田さんは語る。

「初めからワインを考えていた。障害を持つ子どもたちはカッコ悪いといわれた。だから彼らにカッコいいものをつくらせたかった」

 川田さんは障害児がつくったワインを売るつもりはなかった。福祉のワインは一度は買ってくれるだろうが長続きしない。おいしいワインをつくって普通に売りたかった。

 1989年からは米カリフォルニア醸造ブルース・ガットラヴさんが加わった。半年の約束できたが、川田さんの事業に心酔し、滞在は20年を超えた。

 子どもたちのつくったブドウから醸造したココ・ファームのワイン九州・沖縄サミットの晩さん会の乾杯用に選ばれ、洞爺湖サミットでも「風のルージュ」が同様に選ばれた。福祉のワインとして選ばれたのではない。目隠しテイスティングソムリエたちに選ばれたのだった。

 子どもたちは成長して学園には多くの大人もいる。学園が子どもたちの学舎であり生活の場でもある。ワインの瓶詰めの行程で難しいのは「特に赤ワインの中のゴミを探す検査だ。普通の人でも難しいこの作業をどういうわけか得意とする子どもがいる」。そんな話も聞いた。

 ワイン畑では除草剤を一切使わない。環境の問題もあるがそれだけではない。草刈りは子どもたちの仕事としても必要なのだという。収穫時にカラスが実を食べにくるが、カラスの来襲とともに石油缶をたたいてカラスを追い払う役割もある。障害の程度によってそれぞれに役割があるのだという。

 知的障害者更生施設「こころみ学園」は足利市の山あいにひっそりしているのではない。週末になると都会から多くの人たちがレストランに足を運び、好みのワインを買っていく、栃木県が誇る「食の回廊」の人気スポットの一つなのだ。そんな施設をつくり経営する川田さんは今年90歳になる。(伴 武澄)

 JMMという村上龍さんが主宰しているメルマガがある。あまりにも分量が多いので最近はあまり読んでいなかったが、2週間ほど前に『オランダハーグより』(春具)が「利己的無私のススメ」という面白いコラムを書いている。親友の一人も読んでいて酒のさかなに「いい話だよな」となった。冒頭部分を紹介したい。

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「利己的無私のススメ」

 こういう話を聞きました。

 ケヴィン・サルウェン Kevin Salwen というジャーナリスト・実業家がある日、ともだちの家へ「お泊り」に行っていた娘のハンナ(当時14歳)を迎えに行き、自動車に乗せて自宅へ帰る。途中、ふたりの乗る自動車は赤信号で止まるのですが、交差点のむこうには黒塗りのメルセデスベンツクーペのオープンカーが止まっていて、ホームレスが運転手に向かって手を差し出していた。

 交差点でそれを見ていたハンナは運転席のサルウェン氏にむかい「おとうさん、もしあのベンツの人がもうちょっと地味な自動車に乗っていたら、あのホームレスの人に物乞いされることはなかったんじゃないかしら」と小声で言うのです。

 信号が変わってふたりの車は走り出し、ベンツホームレスを残して反対方向へと走り去る。

 だが、帰宅したハンナは今見たばかりの光景が忘れられないでいるのです。あれが不平等というものだ、格差というものだ、テレビや学校で聞い てはいたけれど不平等の現実を目の前でみたハンナは、こいつは不条理だわ、どうにかしなくちゃいけないな、どうすればいいのだろう、と考え始めたのです。

 家族の夕餉の席で、わたしたちはなにかしなければいけないのよ、と両親と弟にむかってハンナは議論を始める。「だったら、あなたはいったいどうしたらいいと思うの?」、母親が聞く、「この家を売ればいいとでも言うの?」

 お母さんは笑いながら軽い気持ちで言ったのでしたが、ハンナの顔はぱっと輝き「そうよ、売ればいいのよ。こんなに大きい家に住んでいる必要はないのよ」と反応した。

 この家はわたしたちには大きすぎるじゃない。この家を売って小さいうちに移って、余ったお金をあのホームレスたちのために使えばいいのよ。

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 話の結末はどうなったのでしょうか。続きは以下から読んで下さい。

 http://gensizin2.seesaa.net/article/139684328.html


 今から7年前のゴールデン・ウィークのことです。五月晴れの昼下がり、横浜の郊外のあるコンビニに若い作業員風のお客さんがやって来ました。
 「ディズニーランドのチケットを2枚欲しいんだけど。明日行きたいので・・」
応対したパートさんは気を利かせ神奈川県の共済の割引チケットを手渡しました。問題が起きたのは暫く経ってからのことです。パートさんは何気なく、先ほどのお客さんの「明日行きたいので・・」の言葉に引っ掛りました。
 「ひょっとしてあのチケットは明日大丈夫?」
 急に不安になってきました。慌てて確かめてみるとやはり不安は的中していました。割引チケットは  ゴールデン・ウィーク中は使用不可だったのです。
 「大変、明日使えないチケットを販売してしまった!」
 お客さんに連絡を取ろうにも連絡先が分かりません。

 物語はそこからスタートします。
 パートさんは取るも取り敢えず店長さんに電話し、帰宅していた店長さんが急の一報で店に舞い戻ります。若い店長は頭を抱えました。
  「まずいなぁ、2枚でしょ。デートに決まってるじゃん。折角のデートが台無しになってしまう。財布に持ち合わせが無ければアウトだし、チケットに記載の有効日に気づいてくれないかなぁ?」
 でも店に連絡が無いところをみると、気づいてないに違いない。店長はコンビニの本部に相談しました。答えはにべもないものでした。
 「仕方ないですねぇ。こういう件はクレームが来てから処理するしか・・・」
 若い店長さんはこの"処理"という2文字に俄然、闘争心が湧いたといいます。

 緊急事態にパートさん、アルバイトさん達の有志が集まり出しました。古株のバイトさん、ディズニーランドフリークのパートさん。みんなどうすれば問題解 決が得られるか?必死になって知恵を絞りました。でも名案が出るはずもありません。集まった人たちは、そのお客さまの顔すら知らないのですから。
でも何とかならないか?若い店長を中心に意気に燃える有志たち。
 「解決の秘策がないなら、ディズニーランドに行ってみようよ!」
 結論が出るまでにさほど時間は掛かりませんでした。
 行ってみると決めた後の、それからの皆の対応は恐ろしく迅速でした。
 「駐車場の開放は午前2時です。早朝の8時の開門には5~6万人は来ますよ。見つけるのは無理でしょう。ゲートの係員さんに頼んで無効チケットを差し出す人を教えて貰いましょう」
フリークのパートさんが言いました。
 「取り敢えず行く人はみな自分の携帯で防犯カメラのお客さまを写メールして!」
 その時にはもうクレームを防ぐことより、明日のデートがどうか上手く行くように、というような思いで一同がいたそうです。

 午前1時集合、調達したワンボックスカーに6人が乗り込んで目指すは浦安の東京ディズニーランド。
 「どうなるかは別問題。イチかバチか、それで駄目なら仕方がない」
 午前2時前に到着。作戦通り、頼みの綱はディズニーランドのゲート係員でした。一部始終を話して交渉しました。
 「ゲートで撥ねられたお客さまを教えてもらえないだろうか?」と交渉しましたが、
 「そういうサービスは出来ない」
 埒があかないので粘りに粘ってようやく責任者には会えたものの、回答はつれないものでした。
 「私の最終判断としても協力は出来かねる」
 あの伝説のサービスを誇るTDLがそれはないんじゃないの?・・と悔しさで一杯でした。でもそうも言っていられません。残された最後の手段は、手分けし て入場者を一人ひとりゲートでチェックすることでした。気の遠くなるような巨大なゲートを見守るのはたったの6人。頼りは各自の携帯のおぼろげな顔写真の みでした。
 
 それから8時間余りが経ち、みなが方々に散って捜していた10時半、パートさんの一人が店長の処へ駆け寄ってきました。
 「写真に似ている人がいるんですけど・・・」
 みんな色めき立ちました。
 遂に捜し当てたのでした。奇跡でした。
 店長さんがことの次第を説明し、お詫びとともに用意していた正しい入場券を渡した時、一瞬お客さんは何が起きたか訳が分からない様子でした。ただ傍らに いたデート相手の女性がこのストーリーを飲み込み、感激にウルウルきてしまったのが印象的でした。何か大きな事をひとつやり遂げた達成感、というか清々し さを6人のメンバーが一様に噛みしめたのは言うまでもありません。何とも爽快な一体感がみなを駆け抜けました。
 これでこの小さな物語はお終いです。

2009年01月03日(土)
佐久総合病院 色平哲郎
 東京から信州の山の村に家族5人で移り住んで、十数年暮らした。高齢化率40%。診療所の「お客」の多くが、後期ならぬ〝高貴〟高齢者である。彼らの昔語りに耳を傾け、往診で山道に車を走らせながら、日本国の近未来を透かし見ている自負があった。

 しかし最近、それが思い上がりに近かったことに気づいた。日々、要介護認定を下していても、介護の実際は案外知らない。「すきな人と、すきなところで、 くらし続けたい」という高齢当事者の切実な思いにこたえるのは医療行為より介護、ケアだ。彼らの日常を支えているのは家族、そして家庭を訪問して細やかな 相談にのるケアマネジャー、保健師たちなのである。

 そんなとき、コミック「ヘルプマン!」(くさか里樹著/講談社)に出会った。

 都会で働く49歳の男性の家に、田舎の弟夫妻とくらしているはずの老母が現れる。弟は、なかば捨てるようにして母を兄に押しつけていく。キャリアウーマ ンの妻も青春を謳歌する娘も、世話など見向きもせず、困り果てた男性は、ヘルパーを頼む。

 現れたのがフィリピーナのジェーン。楽天的な気質で認知症の老母を包み込む。ただ、介護保険の給付対象にならない「散歩」や「お喋り」にも時間を費やしてしまい、様々な軋轢が生じる・・・

 フィリピンといえば、私が佐久病院にやってくる、そのご縁をいただいた場所。レイテ島には佐久病院看護学校の「姉妹校」があったりして交流する機会も多い。

 親しみを感じつつ読了したが、「ヘルプマン!」特にその第8巻が描く世界は、外国人による介護「現場」を先取りしていて、蒙を啓かされる。

 アジア諸国とのEPA(経済連携協定)の締結で、いよいよ介護士や看護師が海を渡ってくる時代になった。インドネシアからの第一陣はすでに来日した。だ がケアとは何か、正面から考えずにきた日本社会は、このコミックが描くような「ぶつかり」に次々に直面することになるのではないか。

 一方、介護士を送り出す相手国の実情はどうだろう? 
 たとえばフィリピンでも先頃、国会で日比EPAが批准された。
 しかし署名から実に2年の歳月を要し、「憲法違反」との反対論まで沸き起こっている。背景には医療分野での海外頭脳流出、都市と地方の絶望的医療格差などの問題が横たわる。

 言葉の壁がある日本にどれだけの外国人医療者が来るかは未知数だが、日本は一方的に介護士を受け入れ、サービスを「消費するだけ」でよいのだろうか。一 定期間、日本で介護に携わったら、帰国して母国で働く。日本は、相手国の医療看護や介護分野にヒト、カネ、ノウハウを送り、相互に人材が還流する。そん な、双方が高めあえる仕組みづくりが必要だと思う。

 アジアで出会った保健医療福祉の現場で働く彼ら、彼女らの顔を時折、思い起こす。ケアやキュアという英語の語源がカトリックの典礼語ラテン語のクーラに あることを思う時、彼らの優しさ、人を憂うる「心持ち」の後にしっかりとした信仰があることに改めて気づかされる。

 ようやく高まりをみせつつあるケア論議は、私たちの社会の、人と人とのかかわりの思想が試される一歩、なのだ。(いろひら・てつろう)
 CEOのスティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒で なくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがい ざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載ってい た今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤
ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわ けです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さ すがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選 んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せな くなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分 はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修 科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもら えるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシ にありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多く
は、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひ とつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。 そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必 要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったん ですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コン ピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したの は、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単 なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、こ れほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにで きるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。 自分の根性、運命、人生、カルマ...何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じるこ とで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違い なく変わるんです。

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でし た。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出し うる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として 会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終 わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐さ れたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自 分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪の かたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで 一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気 持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者である ことの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた 一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必 要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずに やってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。 それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ 一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなん ですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴 らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈 な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人 生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが"NO"の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要 があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かり となってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て...外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て...こういっ たものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死 ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
 PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治 医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった 数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、 ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんです ね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からな かったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれ は、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を 持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。 にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうこ とになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きも のを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くな い将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の 人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の 内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でい い。

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げ ていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っ ていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと 偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの"The Whole Earth Catalogue"の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真で す。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

  Stay hungry, stay foolish.
 ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美

 一升瓶のなぞを追い求めて、ようやく一冊の本に出会った。山本孝造著『びんの本』(日本能率協会。1990年)。筆者の山本が書いているように「壜が変遷してきた流れをひとまとめに整理した日本の書物がほとんど見当たらない」。

 ビールやワイン、清酒に関する本はそれこそ「ごまん」とある。しかし、どんな飲み物も運ぶ容器と飲む容器がないと存在しないも同じである。容器についての体系的な書物がないということは食べ物、飲み物についての歴史に画龍点睛を欠くに等しいと言わざるを得ない。

 
 容器の歴史は実は奥が深い。先月、中国に行った。目的は「お茶」だった。上海のお茶の問屋街を訪ね、急須(中 国では茶壺=チャーフー)製造の町「宜興」(イーシン)、そして龍井茶の産地である杭州をぐるっと回ってきた。お茶は元々はやかんで煎じて飲んでいたもの が、粉末の抹茶となり、再び「急須」に入れて飲むようになった。

 ここでも容器に関心があった。いつから急須を使い出したのか。また「茶壺」が日本で「急須」と呼ばれるようになったのはどうしてか。そんな疑問が解ければいいなと思っていたが、ついに解明できずに旅は終わった。

 蒸気機関はワット、電球や蓄音機はエジソンが発明した。近代技術の始まりの多くは正確な記録が残っているが、近世になると物事の始まりはおぼろげになる。日本では明治時代でさえ、おぼろげな部分が少なくない。人々の記憶から消え去っている「始まり」が数多く残っている。

 『びんの話』はそういう意味で大変な労作である。山本はソニーの従業員デザイナー第一号として、トランジスタラジオのデザインを担当した人である。その 後、独立してデザイン事務所を経営するかたわら、瓶の沿革を調べ始めた。数々の書籍や雑誌の断片的記述からこつことと事実を拾い集め、瓶の変遷を一冊の書 物にまとめ上げた。

 興味のない人にとっては「それがどうした」という書籍ではあるが、筆者にとってはめくるめく世界があった。特に「一升瓶の誕生へ」は目からうろこの驚きがあった。

 『びんの話』によると「明治19年(1886)10月7日の「東京日日新聞に、日本橋区大門通弥生町の岡商会は"日本酒販売改良広告"を掲げた。・・・ 当社では、このほど各地の酒造元、中でも日本酒で有名な今津、灘、西ノ宮などの醸造本場と特約を結び、洋酒のように大中小の壜詰を一手販売することにし た」と書いている。

 断定はしていないが、日本酒を瓶詰めで販売した嚆矢は、日本橋の岡商会だったようである。「大壜詰は代価金12銭、空壜は金2銭」とある。「一升瓶」 だったのかは分からないが、多分そうなのだろう。既に江戸時代には「一升徳利」があって、樽売りの際の一番大きな容器として使われていたからである。

 当時のガラス瓶は人工吹きといって、手作業で型にガラスを流し込んで「吹いて」いたから、ガラス瓶は貴重品だった。だからガラス瓶の対価は価格の6分の 1にも及んでいた。しかし、瓶詰清酒は「混ぜ物」がないことや「薄める」ことができないことから、商品の信用力を高め、明治30年代に入ると「澤の鶴」や 「白鶴」などが一升瓶の清酒を相次いで売り出し、一合、二合、四合の各種瓶が出回ったという。

 機械で吹いた最初の一升瓶は、大阪天満の徳永硝子製造所だった。二代目の徳永芳治郎は、大正11年(1922)に弟二人をアメリカへ派遣し、ニュー ジャージー州ハートフォードのハートフォード・フェアモンド社から、40万円で製瓶機械を購入した。徳永硝子では半人工機械吹きの一升瓶を白鶴などに納入 していたが、その見本を見せて「このサイズができる全自動機械が造れないか」と相談した。フェアモンド社では一升瓶ほどの大容量のものを造る自動機械はま だできていなかったが、同社も「大いに関心を持ち」、徳永兄弟が注文した新しい機械は「ガロン・マシン」と命名された。

 翌大正12年9月に関東大震災があり、数多く出回っていた一升瓶はほとんどが破壊もしくは溶けてしまっていたから、徳永硝子が13年から開始した全自動 機械による一升瓶づくりはただちにフル生産に入ったのだという。それまで職工13人が10時間で3000本吹くのがやっとだったのが、全自動機械は1台あ たり24時間で2万1500本も製造できたから、能率は38倍も上がったことになる。

 一升瓶の清酒が加速度的に全国の家庭に普及したかげには徳永硝子兄弟の先進的な経営判断があったといっても過言ではない。(伴 武澄)
英語版『武士道は海を越えて』に向けて

2008年11月25日(火)
タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 清水 晃
 大東臨戦争勃発の翌年、1942年3月に日本海軍は英米蘭豪の連合艦隊とインドネシアのジャワ島沖で、戦って敵を全滅する勝利を得ました。その時の出来事であります。

 開戦の直後、12月10日、マレー沖において英蘭東洋艦隊の主力である新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパノレスを日本海軍航空隊が撃沈 しました。その時、沈没した両艦の乗組員を英国駆逐艦が救助してシンガポールに帰投しました。その救助作業中、日本の航空隊は一切敵艦に攻撃を加えずにシ ンガポールまで、偵察を続けました。

 連合国は主力の英国艦船を失ったあと、ABDA (米英蘭豪)連合艦隊を組織して、日本軍のインドネシア上陸作戦を限止するため進出して、ジャワ海で日本海軍と激しい戦闘がおこりました。日本海海戦以来 史上37年ぶりの、双方あわせて30隻の規模の大艦船決戦となりました。

 2月28日深夜の海戦においてABDA艦隊は14隻中11隻が撃沈されて敗色濃厚となり、残りの3隻はスラパヤ港に帰投しました。かくして3月2日早 朝、日本輸送船団はジャワ島東部に上陸を完了しました。一方、スラパヤ港に帰投した英重巡エグゼターは応急修理を施して、英駆逐艦エンカウンターと米駆逐 艦ポープを護衛に従え、インド洋に出てコロンボ港に退却することを企図して出港しました。しかし、足柄、妙高,那智、羽黒の重巡を主力とする日本艦隊と激 闘しました。衆寡敵せず大破しても降伏せずに自沈をはかりましたが 結局撃沈されて、ここにABDA艦隊は全滅しました。

 このとき駆逐艦「雷」 (工藤俊作艦長、1,680ton)は戦開に参加していません。蘭印攻略司令宮高橋伊望中将座乗の重巡洋艦「足柄」の直衛を担当していました。工藤艦長の 統率力と乗組員の士気と錬度の高さが評価されたと考えられます。「雷」は燃料、兵站補給をうけて戦闘海域に向かいましたが、夕刻に到着したときはすでに戦 闘は終わっていました。

 それまでに僚艦「電」はエグゼターの乗組員376名を救助していました。日本の駆逐艇は、戦闘能力を5000トン級の軽巡洋艦なみの装備にしたため、燃 料タンクは小さくして航続距離が犠牲となりました。ワシントン条約の制約を克服するため、日本の造船技術の粋をつくし、主砲12.7センチ、6門、魚雷発 射管9門、速力38ノット、という世界の最高水準に達していました。

 3月1日午後2時すぎエンカウンターから脱出した乗組員は、僚艦がみな沈没して日本艦隊も次の作戦行動に去ったため救助の目途は見当たらず、オランダの 偵察飛行艇に発見されるのが唯一の希望でした。翌2日は赤道に近い海上で灼熱の太陽のもとに苦しみ、重油にまみれてすでに約23時間漂流していました。も はや劇薬をあおって自決する寸前にありました。その時、午前10時ごろ駆逐艦「雷」が漂流者を発見し、空前絶後の救助作業が始まりました。

 この海戦の前には米潜水艦がジャワ海域で活動しており、日本の駆逐艦や輸送船が相当数沈められていました。その時、工藤俊作艦長の号令は、「一番砲だけ 残し、総員、敵溺者救助用意」という決断でありました。潜水艦攻撃の危険のさなかにありましたが、「雷」は艦長の号令のもとに直ちに総員で救助作業を開始 しました。

 英蘭将兵の漂流者は、負傷者を最初に引き上げるよう合図をして、それが終わると士宮、兵員の順序で縄梯子を上ってきました。しかし、すで、に体力の限界 にあって救助の竹竿に触れると安堵のため海中に沈み去るという悲劇が起こりました。雷の乗組員は海中に飛び込んでロープを巻きつけて一人でも多く救助する ことに全力をあげました。

 最終的には残る422名の救助を完了しました。乗組員200名の「雷」の甲板は敵兵で埋まりました。工藤艦長は英国士宮を整列せしめて彼らの勇戦を称え て、諸氏は本艦のゲストとするとスピーチを行いました。この中に当時英国海軍少樹で、あったサミュエル・フォール卿がいました。彼の自叙伝「My Lucky Life」に、 救助された時の詳しい状況が語られています。

 重油で黒くよごれた敵兵の一人ひとりにたいし、日本側乗組員は二人ひと組でかかり、アルコールで体を洗って、水や食料を支給して看護を尽くしました。衣 服が足りなくなったので私物まで提供しました。工藤艇長は小柄な伝令に、もし捕虜が反乱を起こしたら弱っていても体は大きいから小さい者はかなわんから気 をつけよと、からかったそうです。工藤艦長は185センチの偉丈夫で大仏の綽名もある柔道の猛者でしたが、兵員にたいする気配りはきめ細かく、鉄拳制裁を 禁止したので、下士宮の鬼兵曹たちには煙たがられたようですが、艦内の一致団結は艦長のリーダーシツプによって高度なものになっていました。それが困難な 救助作業を遂行せしめました。「いかなる堅艦快艇も人のカによりてこそ、その精鋭を保ちつつ強敵風波に当たりうれ」という軍歌そのものの姿であったと思わ れます。

 このような勇敢な行為が生まれたのは、工藤艦長の資質にあることは疑いありません。その根底には海軍兵学校における武士道教育があります。工藤艦長は海 兵51期生で大正12年7月14日に卒業しました。同期生は軍縮の前で、あったので255名で縮小の直前でした。その頃校長で、あった鈴木貫太郎中将(の ち大将、 終戦時普相)の教育思想は、軍人である前に紳士であれという人間教育でありました。鉄拳制裁を禁止し、 率先垂範する行動力と、謙虚な度量をもつように生徒を指導しました。

 五省という徳目は、海上自衛隊幹部候補生学校に継承されていますが、それは昭和7年に始まったものです。大正時代において、鈴木貫太郎校長は、型には まった人間をつくらないというリベラルな教育を指導しました。文武両道に秀でる人間こそ国の守りの礎であって、国際的に適用する人物でなければならにとい う信念でありました。

 因みに昭和20年、終戦直前の半年、海兵第77期生徒として江田島にいた私の体験でも、戦争末期においても人間教育の伝統は守られていました。英語は4 教科あって、英英辞典が支給され、英語のみの授業もありました。ナイフとフォークを使う食事礼法の指導がありました。また分隊対抗の野球の試合もあって、 わが分隊は連勝していました。棒倒し、遠泳、カッター競争、剣道、柔道などは、軍事訓練と同様に重要で、ありました。乗艦実習では日露戦争の時の戦艦出雲 に乗りました。呉の沖で触雷した瞬間、マスト登り訓練の途中で縄梯子から綴り落とされそうになりました。練習艦隊はいまや帝国最大の艦隊であるという甲板 士官の説示は諦めのなかにさえユーモアがありました。

 昭和19年に父を亡くした私が終戦後の混乱を乗り越えて国際ビジネスの社会に生きてこられたのは、江田島における訓練の現場体験と、英語のレッスンによ る知識などが大きな力となったと言えます。さらに「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」というエスプリのおかげであると確信していま す。

 さて、工藤俊作、その人となりについて触れておかねばなりません。幼時、学儒好きの祖父から明治維新の話と日露戦争後の日本の富国強兵の道を聞かされま した。日本海海戦のおりの上村彦之丞中将のロシア将兵627名救助の話も関かされました。小学校を終えると上杉家の藩校として有名な山形県立米沢興譲館中 学校に入学し、英語の先生である我妻又次郎教諭の薫陶を受けました。我妻先生は海兵を志したが視力が弱かったため実現せず、教職に進んで志を後輩の指導に 注ぎました。工藤と友人の数名の海兵志望者を親身になって指導しました。工藤は温厚寡黙な性格で、いわば気は優しくて力持ちでした。我妻又次郎先生は、我 妻栄東京大学名誉教授の父君で、栄を興譲館で教えました。栄は第一高等学校を経て東京大学法学部を首席で卒業しました。因みに私は戦後、我妻栄教授の民法 の講義を受けました。なにか工藤中位と縁がつながっているような気がします。

 ではふたたび、「雷」艦上の救助の舞台に戻りましょう。救助された英国将兵は、ようやく元気を取り戻して翌日抑留中の蘭病院船に全員移送されました。重 傷者の英国士宮は、一室を提供されて看護当番をつけてくれた工藤艦長の行為を感謝し、涙をながして握手して別れました。士宮は工藤艦長に挙手の礼をして退 艦してゆきました。兵員は嬉しさを体で示して手を振って賑やかに去ってゆきました。かくして、この救助劇の幕は下りました。このオランダ病院船の士官の態 度は倣慢でありましたが、乗組員の東洋人は「雷」の軍艦旗に挙手の礼を行って迎えました。ここで「敵兵を救助せよ」の幕は下ります。それから今日まで、 「献兵を救助せよ」のドラマは気の遠くなるような60余年という長い幕間が続いてきました。そして、ようやく元英国海軍士宮、サミュエル・フォール卿 (Sir Samuel Falle)の手によって幕は再びあがることになりました。

 その間は永い苦しい戦争であります。翌月4月18日米空母「ホーネット」から発進したノースアメリカンB25が東京を空襲しました。それから2ヶ月たら ず、開戦後わずか半年たったばかりの1942年6月5日、ミッドウェー海戦において、米軍機によって日本海軍は主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を 一挙に失う大打撃を受けました。その事実は当時の国民に知らされませんでした。因みにマレー沖海戦で戦艦2隻を失った英国ではチヤーチル首相が翌日下院に おいて悲痛な報告をしています。

 ミッドウェーは文字通り戦いの道の途中で、日本は運命の分岐点に乗り上げていました。失敗を生かすような論議などをする思想的な自由は、日本の風土には ありませんでした。攻勢防御というタイトロープ上にあった日本は一転して守勢に立つことになって敗戦への道を転げ落ちてゆきました。そして戦時中の出来事 は人が去るに従って忘れ去られてゆきました。

 フォール卿は捕虜生活を送って戦後帰国されたあと、外交官として活躍されてスエーデン大使などを勤められました。勇退されてから自叙伝を上梓されました が、それには工藤俊作中佐に捧げると献辞が記されています。工藤艦長の英雄的決断と「雷」乗組員全員の果敢にして親身な救助作業を夢ではないかと腕を抓っ たと回想されています。

 工藤艦長は1979年、昭和54年1月12日、78歳の生涯を終えられました。その年の7月ポーツマスに入港した海上自衛隊練習艦隊司令官にたいし英国 海軍から工藤中佐の消息調査の依頼がありました。依頼の主はフォール卿ありました。それまでも幾度か依頼はなされたが日本に伝わらなかったことを反省せね ばなりません。もう1年早ければ工藤中佐とフォール郷の再会が実現したかも知れません。フォール卿は当時EUの駐アルジェリア代表でありました。フォール 卿は米国海軍紀要あるいは英国の新聞The Timesなどに投稿され、また1992年ジャカルタにおけるスラパヤ沖海戦50周年記念式典で記念講演を行い、工藤中佐は日本武士道の鑑と称えたのであ ります。

 工藤中佐の没後、時はさらに4半世紀流れて、2003年に海上自衛隊の観閲式が行われた際、フォール卿が日本に招待されて、護衛艦「いかづち」(4代目 「雷」)の艦上において静かに語られた事績は、日本人にとって初めて知らされたことでありました。フォール卿は、その時すでに84歳の高齢で歩行も不自由 でした。工藤中佐がすでに死去されたことを知り、非常に落胆されました。帰りがけに恵隆之介氏に工藤中佐の墓所を尋ねられたことから、恵隆之介氏が一念発 起して行動を起こしたことによって、「敵兵を救助せよ」 (2006 年草思社)という感動的な労作が産み出されました。

 戦後なにも語らなかりた工藤中佐は、サイレントネーピーという海軍軍人の矜持そのものでありました。

 戦後、恵隆之介氏が工藤中佐の故郷山形県・高畠町を訪問した時にもご親戚の誰ひとりその事実を聞いてはおられませんでした。

 墓所が埼玉県川口市朝日にある薬林寺と判明したことを、恵隆之介氏からフォール卿に報告したところ、 療養中の身をおして命あるうちに日本に行って、工藤中佐の墓前に永年胸におさめていた深い感謝の意を捧げたいという熱望が伝えられました。

 かくして恵隆之介氏は、全力をつくして工藤中佐とフォール卿の武士の魂の再会を実現したいと決意しました。私もこの活動に協力する決心を固めました。工 藤俊作中佐(海兵51期)→清水晃(海兵77期)→ 恵隆之介(元海上自衛隊士官、江田島・海兵100期相当)と3人の海軍の絆はつながりました。

 私は恵隆之介著『敵兵を救助せよ』の英語版「Bushido over the sea」を脱稿したところです。目下その出版の方策を検討中であちます。なお、恵氏の友人である英国の作家ピーター・スミス氏の近著「Midway- Dauntless Victory」の日本語版制作についても検討中であります。

 そして、英語版「Bushido over the sea」は工藤中佐と雷乗組員の塊とともに、とれをSir Samuel Falle に謹んで捧げたいと存じます。

清水晃 タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 元英国暁星国際大学学長 海兵77期
〒813・0044福岡市東区千早5-5-43-1209 携帯090・8012・8018 Ashimizux@aol.com
 10年ほど前から「一升瓶」の存在が気にかかっている。酒、醬油、味醂など調味料のリサイクル容器のスタンダードとして定着している。ペットボトルの出現でその出番が減ってきたが、日本酒や焼酎の容器としてはいまだにスタンダードである。

 尺貫法はいまや風前の灯と思われているが、おっとどっこい。土地の広さを示す「坪」、部屋の広さの「畳」は平米で示すより日本人の感覚に馴染んでいる。 一方で重さの「匁」(もんめ)や「貫」(かん)、そして足の大きさを示す「文」(もん)の意味が分かる人は少なくなった。牛乳もすべてリットル表示ばかり となった。ところが酒だけは「升」(しょう)と「合」(ごう)が健在、というより、リットルではほとんど通用しない世界である。「一升瓶」という存在があ まりに大きいためなのだと考えている。
 度量衡や規格の変遷は非常におもしろい。かつて日本家屋の障子や襖そして畳はサイズが規格化されていた。だから家を解体しても別の家屋に流用が可能だった。古障子とか古畳も町で売っていた。これは大変な文化だと思っている。酒も「一升酒」という言葉が残っている。

 酒や醬油は元々、樽からの量り売りが主流だった。金持ちは樽で買っていたのだろうが、庶民は酒屋に容器を持参して好きな量だけを入れてもらっていた。だ から一升瓶という概念はなかったはずである。明治になってガラス瓶が登場し、だれかが「一升瓶」をつくって酒を売るようになって一升瓶という概念が誕生し たのだろうと考えた。それで、いったい誰がいつ始めたのかが疑問となっていたのである。

 それが分かったところで「それがどうした」という程度の問題だが、いつのころからか、酒屋や博物館で一升瓶の由来を聞く自分があった。

 京都・伏見、大倉酒造の大倉記念館を訪ねたとき、大倉酒造が「瓶詰酒」を初めて売り出したとの説明があった。館長さんに「一升瓶」の由来を聞いたが、「うーん」とうなったきり返事がなかった。

 答えは唐津市の宮島醤油のサイトにあった。宮島清一社長が書く「社長ブログ」。1990年発行の『びんの話』(山本孝造、社団法人日本能率協会)を参考に一升瓶"発明"の由来が書かれてあった。

 http://www.miyajima-soy.co.jp/ceo/ceo/ceo.htm

 ガラス壜が登場するのは明治19年のこと。日本橋の岡商会が壜詰清酒を売り出したのが始まりとされる。以来、壜詰が増え、明治34年(1901)、灘の「白鶴」が人口吹きガラスの一升瓶入りの清酒を発売し、沢の鶴も前後して売り出しているそうだ。

 一升瓶は一本ずつ手作りだったから貴重品で、何回も使うという発想は当たり前のことだった。

 一升瓶の量産は大阪のガラスメーカー「徳永硝子製造所」の二代目、徳永芳治郎によって達成された。大正11年(1922年)、関東大震災の前年のことで あるからまだ100年の歴史はない。徳永兄弟の「血のにじむ」ような努力による技術革新のおかげで、われわれはいま、普通に一升瓶の恩恵にあずかっている のである。
『ソーセージ物語 ハム・ソーセージをひろめた大木市蔵伝』
(増田和彦著  2002年03月 ブレーン出版 四六判 1575円)

 日本のハム・ソーセージの歴史にはどうやら2つのルーツがあるようだ。一つは横浜、もう一つは徳島の坂東である。後者は第一次大戦でドイツ人捕虜を収容 した地。日本で最初にベートーベンの第九が演奏されたことでも知られ、捕虜たちがハム・ソーセージづくりを始め、その技術が徳島ハム(現日本ハム)に継承 された。

 横浜の方もドイツ人が関わる。横浜に居住する西洋人たちのためにハム・ソーセージ製造が始まった。ドイツ人技術者からハム・ソーセージの製造技術を伝授されたのは千葉の農家からやってきた大木市蔵という青年だった。
 『ソーセージ物語』はこの大木市蔵の生涯を描いた。外国人にハム製品を売るかたわら、東大生・農大生はじめ日本中に技術を教え歩いた。消費者に加工品の歴史と技術者・業界の努力を伝える書。

 日本特有の魚肉ソーセージがある。戦後の食料難の時代に登場した。大木は「ソーセージ」として認められないと反対したが、これが多くの国民に受け入れら れてしまった。日本各地で魚肉をペースト状にして揚げる「テンプラ」があった。これを腸詰めにしたのが魚肉ソーセージなのだが、肉のソーセージを食べたこ とのない子どもたちはその「まがい物」をソーセージとして受け入れてしまったのかもしれない。

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