土佐山アカデミーの最近のブログ記事

DSC_0380700.jpg 土佐山に観光施設はあるかと問われたら、ないと答えるしかない。ないない尽くしの山村であるが、短期間ではあるが住んでみて、自然そのものが見るべきもの、楽しむべきものだと思っている。山を眺め川を愛で大気を感じるそれだけで意持ちがよくなる空間がそこにある。

 そんな土佐山で「ゴトゴト石はどうやって行けばいいのか」、二度ほど聞かれたことがある。僕自身も春先に同じ質問を村の人にしたことがある。平石にあるバルという地元産品の販売所には土佐山の"名所"を示す大きな地図があり、そこにはゴトゴト石と書いてあるから、たぶん多くの人はその地図をみて興味を示すのだろうと思った。

 桑尾の集落から北に山道を登ったところにある。途中、家は数軒しかない。登りつめると見晴らしのいい場所の向こうに山姥の滝があり、ゴトゴト石がある。5トンほどの大きな石で注連縄が巡らしてある。風水上のパワースポットでもあるらしい。子どもでも動かせるが決して落ちない。それだけのことである。入場料を取るほどのものでもないから人も来ない。

 問題は県道から道案内がないということである。桑尾の集落、といっても小さなものだが、その中を旧道が通っている。実はそこに立派なサインがあるが、ふだん車が通るところではない。

 7月からそのことが気になっていて、いつか自分で案内の板を据え付けてやろうと思った。実現したのは9月22日、アカデミーの終了式の翌朝だった。看板にする板は炭焼きの時にあった太めの樫の木。チェーンソーで三ツ割にしてもらった。杭はまた30センチ以上もあるヒノキの丸太。これはツリーハウスを制作する時に切った間伐材の残りだ。

 問題はどうやって文字を書き込むかだった。焼き入れも考えた。墨汁で書くことも考えたが、手っ取り早く黒のペンキで書くことにした。一つは「ゴトゴト石、右」という簡単な文面と「山嶽社跡 右3km」「山嶽社跡 左300m」のペア。前者はユズの農産物出荷場の前の県道、後者は菖蒲集落に向かう県道16号の分岐点とその先の西川集落への分かれ道に据え付けた。

 最初、杭を道ばたに打ち込むつもりだったが、県道の管理者である高知県の許可が必要だということだった。めんどくさいと思ったのが実行の遅れた原因だ。そこで倒れないような太い杭に看板を打ち付けて道ばたに置いておけば、文句を言われた時に「置き忘れた」と弁明できると考えた。

 この問題に関しては賛否両論があろうと思う。徳島県神山町の町おこし組織、グリーンバレーの責任者である大南さんが話したことがふと思い出された。「町の道路に企業の名前の入った標識を立てることは道路法に違反するということだったが、われわれはそれを強行突破した」。看板ひとつ立てるのにも行政の大きな壁があったというのだ。

 大南さんに言わせると「そんな乱暴な手法は全国でも例がなかったが、1年3カ月後に徳島県が先頭になって企業名の標識を道路に立てられるように動いた。もともとの発想はアメリカにあった。ハイウエーを走っていると企業名の入ったアドプト・ア・ハイウエーという標識がある。高速道路を区切って企業に掃除をさせ、そのスポンサー名を掲示していた。アメリカってすごいなと思ったんです」

 道案内の看板は終了式の準備をしていたその前日に制作した。我ながら無骨な文字を書き込んだ。ペンキで字を書くことはそう簡単ではない。みなにみせると好評だった。素人の手作りらしくていいというのだ。賞められたのかけなされたのか分からないが、誰も見ていない早朝に道案内を秘かに設置した。

 翌日、勘ちゃんから「台風で倒れないように針金で固定して置きました。地元で評判になっています」とのメールがあってなんとなくホッとしている。ゴトゴト石の道案内をみたら、あー伴さんが立てなんだと思い起こして欲しい。
DSC_0695700.jpg 土佐山に信号機などないと思ったら大間違い。1基だけある。役場の前の県道16号にある。以前近くに保育園があって、子どもたちが渡る時に危険だということで設置されたのだそうだ。その後、保育園は移転したため、信号機は不要になったが点滅信号としてまだ存在している。

 僕が7月から3カ月土佐山に住んで一度も「赤」に転じたことはない。正直に言うとみたことがないということになる。信号機のない村といえば、それだけで売り物になると考えたが、だれも関心を示してくれなかった。不要な電気代を払って今日も土佐山唯一の信号機は点滅している。

 とある会合で出席者の一人が面白いことを言った。

「高知で最初に交通信号機が導入されたとき、どんなに説明しても人々は意味が分からなかったに違いない。"進め""止まれ"が分かってもなぜ規則を守らなければならないのか。新しいツールが導入されたときの反応はいつの時代も同じではないか」

 それで家に帰って、その"いつ"を調べてみた。日本では1930年(昭和5年)に、東京の日比谷交差点にアメリカから輸入した電気式の交通信号機(右=縦型だった)が設置され、その年の12月に,国産第1号の自動交通信号機が、京都駅前ほか2か所に設置されたのだそうだ。

 昭和初期ということに驚いたが、そもそも日本に自動車が数千台しかなかったから当たり前といえば当たり前の話なのである。ちなみにその信号機には、青灯に「ススメ」、黄灯に「チウイ」、赤灯に「トマレ」と書かれていた。

 世界初の電気式信号機はニューとヨーク市5番街の交差点に設置されたもので、日本より12年前の1918年で、この時,黄色は「進め」、赤が「止まれ」、緑が「右左折可」であったようだ。交通信号は1868年、ロンドンで始まったもので、当時電気はなく、ガス灯を使った。もちろんロンドンの町を走っていたのは馬車ばかりだった。

 記者になったばかりのことである。滋賀県警の偉い人に言われて合点したことが頭にこびりついているからなのだ。

「伴おまえ、なんでこんなに信号機が増えたか知っているか。交通事故が起きるたびに信号機が設置された結果なんや。交通事故は確かに悲惨なことなんやけど、信号機をつけたからといって交通事故が減るものでもない。信号機のある交差点でも起きる時は起きるもんなんや」

 確かに信号機は交通を潤滑にする優れものである。でもいらないところにまで設置する必要はない。電気代はかかるし維持費だって半端じゃないはずだ。いらなくなれば廃止しればいい。

『交通信号機のルーツをさぐれ! 』(2001年、アリス館)があるらしいが、絶版である。
DSC_0276700.jpg 高知市土佐山支所の岩崎さんと話をしていて、この岩崎さんも岩崎鏡川の縁者であることが分かった。

「田中英光を知っていますか。太宰治の墓前で自殺した文学者です」
「その人、ロサンゼルス五輪に行った人でしょ。この前、読みました」

 高知新聞の論説委員をやっていた山田一郎が高知新聞に「南風対談」を連載していて、その単行本を読んだばかりだった。水泳1500メートル自由形で優勝した北村久寿雄との対談で田中英光がボート選手としてロサンゼルス五輪に出たことが紹介されていた。高知県から5人もの代表が五輪に出場したというから、当時の高知県の運動選手のレベルは相当に高かったといっていい。

「そうボートの選手で早稲田大学の学生時代に五輪に出場し、後に文学者になりました。土佐山出身の歴史家、岩崎鏡川の息子です」

 ちなみに父親の鏡川もまた文学を目指したが、後に文部省の役人になって明治維新の資料整理にあたった。代表作は『坂本龍馬資料集』である。当時はまだ幕末関係者が多く生きていたため資料集の編纂を可能にした。鏡川のこの資料集がなかったら司馬遼太郎の『龍馬が行く』も書けなかったかもしれない。

 数日後に図書館に行って探したら11巻の田中英光全集まであって驚かされた。全集は東京五輪の翌年、昭和40年、東京の芳賀書店から発行されていた。英光の代表作『オリンポスの果実』を借りてきて、昼下がりのせせらぎで早速読んだ。

 同じロサンゼルス五輪に出場した女性アスリートとの淡い恋を描いた青春小説で、昭和15年に池谷賞を受賞した。全集には亀井勝一郎が「文化の碑――太宰治と田中英光」と題して英光の自殺について書いている。

 昭和24年11月3日に太宰治の妻とお嬢さんを誘って音楽会に行った。「今ごろ田中英光はどうしていらっしゃるかしら」と話題になった時、田中は三鷹の太宰治の墓前で自殺していたのだという。

 田中英光といっても今知る人は少ないが、終戦後の若者の本棚には太宰治と並んで田中英光の本が一冊や二冊は並んでいたのだそうだ。

 田中英光が当時の青年たちに人気があった理由がある。まずはオリンピック選手が小説を書いたという点である。世界広しといえどもオリンピック選手が運動以外の分野で成功したという話は聞かない。その点で北村久寿雄もまた特異な人生を歩んだ。14歳9カ月で金メダルを取り、オリンピック後、勉学に励んで東大法科に進み、三井物産に入り、戦後は労働界で重きをなし、住友重機や住友セメントの役員となった。

 もう一つは田中英光が書いた『オリンポスの果実』は戦前の輝かしい日本人たちの物語だった点である。敗戦によって米国の占領下にあって打ちひしがれた日本人たちに歓迎されたのは当然だった。解説を書いた奥野健男は「わがもの顔の米兵たちに昔は日本人だって相当なものだったんだよと言ってやりたいような変な衝動にとらわれた」と述べている。

 いやはや土佐山で文学まで読もうとは思わなかった。まして太宰治にまで出合うとは。
DSC_0230700.jpg 永野干城さんに土佐山に電気が来たのはいつのことか聞いたことがある。
「昭和の始めかな、でも平石とか中心部だけのことじゃった」
 干城さんは北の工石山の方を見詰めながらぽつりと言った。

「村に電気会社ができたんですか」
「そんなもんはないない。ほかの村のように村の電気会社はなかった。高知県が電気事業をやっていて、当時は電灯一ついくらという具合に料金が決まっちょった。でも高川の奥の城(じょう)に電気が通ったのは昭和30年代で、もう四国電力の時代になっちょった」

 小さな山村ではあったが、電気が普及するのに30年もかかった。30年といえばサラリーマンの一生にあたる。僕が定年を迎えたばかりだから30年という年月に一定の思いがある。

 そういえば、三重県の熊野全体に電気が通ったのも昭和30年代だった。日本中に電力が行き渡った時期であるが、日本で炭焼きがなりわいとして衰退した時期と重なる。炭やまきが電気に代わったのではないが、日本の山の生活が大きく変貌した。

 つまり山のなりわいだった炭焼きと養蚕、紙梳きが成り立たなくなった。一方で、村に立派な道路ができた。人々は村が繁栄すると思ったが、起こったことは逆だった。村人がどんどん町に出て行ってさびれていった。

 山の風景も一変する。植林である。炭は樫や椎などの広葉樹で焼く。養蚕には桑の葉が必要だった。和紙の原料はコウゾ・ミツマタで大人の背丈ぐらいしか大きくならない。山の植生の中心は広葉樹と桑とコウゾ・ミツマタばかりだった。

 今の土佐山の大半を占めるスギやヒノキはもとからあったものではない。干城さんにいわせれば、昭和30年代に植林されたものなのである。日本の植林は古来からの固有の文化であったとされるが、大規模なものは昭和30年代に始まったのである。農水省が「50年後には育って木材として売れる」と旗を振った。中国ではないが日本山村の大躍進運動だったといってもいい。

 干城さんがまたつぶやいた。
「杉林に入ったらようけ石垣があるろう! ありゃもともとは段々畑やった。畑まで潰して植林をした。そのころの植林事業は苗木一本いくらといって助成金が出たからのう」
 植えれば植えるほど金になったというのだ。

「いま間伐、間伐いいよるけんど、あと先考えずに植えたから今になって手間がかかるこのになった。それから50年が経ったが、ヒノキらぁはまだ細っそい。役人の言うことはみんなウソじゃった」

「干城さんは村を出たことはないんですか」
「昔、長男は家を継ぐことになっちょった。だから学校を出ると家の仕事を手伝った。ずっと農業よ。ところであんたは高知のどこぜよ」
「西町です」
「西町といえば広田という家があろう」
「それは実家の隣です」
「そうか、その広田の妹がわしんくの嫁よ」
「えっ、それは驚きました」
DSC_0256700.jpg 土佐山村資料集というものがある。村内に残る歴史的資料を網羅した歴史である。その中に西川地区に残る新聞「民報」への言及がある。中国革命を支援するために高知出身の萱野長知が編集し、土佐山の和田三郎が関わった新聞で、大正初期に短期間、発行された。いまや散逸してすべての発行号を見ることはできない。西川地区にはその大部分が残る。貴重な資料である。

 新聞 「民報」 (西川) 西川部落藏

                〔作者・筆者〕 民報社 〔時 代〕 大正ご丁四年
                〔形状・寸法〕 全判ニツ折
 中国の革命家、孫文(1966(慶応2)~1925(大正14))の運動を支援したといわれる、土佐山村西川出身の元板垣退助秘書・ジャーナリスト和田三郎が、地元の西川青年会へ寄贈したもの。所々に「西川区青年会図書部之印」の朱方印と「和田三郎氏寄贈」の記載がある。現在残るリストは、部分的な欠号はあるが、後記の大正3年(中華民国3年、西暦1914年)7月4日(17号)から翌4年2月7日(117号)までの約半年分である。

 本紙については、東京の国立国会図書館に3年6月27日から同年12月18日までが残り、東京大学の明治新聞雑誌文庫に第13号(大正3、6、30)のみがあるが、高知県内ではまず他に残存していないのではないかと思われる。判明した点を紹介しておく。

 紙名は「民報」。大正2年9月12日第三種郵便物認可。日刊無休であるが、一部休刊があっている。発行所は東京市日本橋区坂本町二十七番地、中華民国通信社内民報社。場所は4年1月末、麹町区有楽町一丁目三番地に移転している。初期の発行人は萱野長知、同じく編輯兼印刷人が岡村周量。

 萱野は高知県出身の大陸浪人で孫文を支援する日本の代表的志士の一人であった。以後のスタッフは太宰雅各、松下善朗、山田正司らと代っている。支局として台北に台湾支局が、大陸に北京、上海、厦門、汕頭、香港、奉天の各支局があった。紙面は四頁立。大様一面が論説と国内政局、二面が華国を主に国外政局、三面社会、四面小説と市況、となっている。振仮名つき、絵入、写真入。
 対外問題についての論調は袁世凱攻撃と大隈外交の非難に終始し、特に袁世凱敵視については徹底している。要約すれば、①袁は国を売り、立憲・自由思想を弾圧し、時代に逆行した帝政に移行しつつある。袁政権の打倒。第三革命の実現。②日本の利権は西欧列強に奪われている。対華二十一ケ条要求はむしろ貧弱にすぎる。大隈外交は拙劣。③大隈は支那分割を云い袁は排日を説く。日支人民のために共に不可。支那の分割反対。④日本は支那の憲政軍を助けるべし。

 以上から本紙は、純民党主義として不偏不党を標榜しているものの、満蒙進出と支那での利権獲得をねらって袁北方政権と外交交渉をする大隈政府と異なり、南方革命軍(中国国民党)を援助しようとする日本の立憲国民党(党首犬養毅)系の新聞で、しかもその背景にはやはり市場と利権の獲得をうかがう勢力が秘められているものと考えられる。明治39年(1906年)東京に生れ26号まで存続した同盟会の月刊機関紙。「民報」とも無関係ではあるまい。

 和田三郎は、土佐山村の篤学者和田千秋の三男で、本紙当時民報社の責任あるポストにあったらしく、社の広告にその名がみえている。

 前記性格に加えて自由民権の残党の新聞たる一面をもうかがわせると同時に、小説に「勤王烈士坂本龍馬」が連載されるなど、強い土佐臭をただよわせている新聞ともいえよう。

〔残存リスト〕。
大正3年077月04日~30日(17-43号)
     08月03~05日(47-49号)、08~11日(52-55号)、
        13~19日(57-63号)、22~31日(66-75号)
     09月03~30日(78-105号)
     10月04~14日(109-119号)、17~21日(122-126号)
     11月03~05日(139-141号)、07~09日(143-145号)、
        11~19日(149-155号)、23~25日(159-161号)
     12月02~14日(168-180号)、
        16日(182号)、18日(184号)、29日(185号)、30日(186号)
大正4年01月05日~08日(188-191号)、10日(193号)、
        12~14日(194号-196号)、16日(198号)、17日(199号)、19日(200号)
        22~24日(203号-205号)、26日(206号)、27日(207号)、29~31日(209-211号)
      02月05日(215号)、07日(217号)

■(破)革史の一部分を記して切に会員諸□(破)猛進を促す
     ■(破)革史の一部分を記して、切に会員諸□(破)猛進を促す

                                  会員 岩門智
 
 我西川部落は遠き昔より現今に至る迄戸数三十戸有余に内外し曽て四拾戸を過ぎし事なしと云ふ。蓋部落の遺積に依りて考察するに、大てい富者にして、富者にあらざるものと云え共貧と云ふべき者無かりしものゝ如し。然るに下りて中頃に至るや皆、怠惰に流れ、昨の富者は今や貧民と化し終り、しかも自ら安んぜしものゝ如し。されど是れ豈我祖先等の特質ならんや。敢て屈するは大いに延びんが為めのみ。

 医を業となすものに和田波治氏なるものおり。常に部落の前途を憂ひて之れが救済を策せんとし、先づ自邸に寺小屋を開きて青少年を集め、和漢学、道徳礼義、其他あらゆる道話を教へ、大いに勤勉にして、家産の増殖を計らざるべからざる事を説けり。

 氏の長子を、千秋氏と云ふ。父に優れる博学多識にして、特に漢学にをいては有数の学者なりと云ふ。良く父の志を継ぎ。青少年を導くや、あたかも子の如く懇切なる指導をなせり。氏の門下には人材雲の如く輩出し(破)右維新の大変革に際するや和田氏の寺小屋□(破)をも変更せざるべからざるに至りぬ。

 和田氏門下の長足、高橋簡吉氏等卒先して師の指導の本に夜学会を起せり。明治三四年の頃遂に部落内に珍々社なる一社を設立するに至りぬ。部落内の中年青年、少年等は毎夜社中に会し学を修め、徳を積み或は討論などして、大いに自ら発展せり。

 之れ即山嶽社の前身とす。珍々社幾何も無くして廃し、山嶽社を組織せり。蓋珍々社の改称にして異名同体なり。益々社の発展に努め、毎夜社員一同必ず参社し、益々修学に力め、新聞を読みては盛に天下の大勢を討論し、昼間は勤勉治産に之れつとめ、山又山の山間僻地に於ける山嶽社は正に天下に号令せんとするが如き滔天の意気を示せり。

 青年等、常に呼号して曰く。一に学問、二に道徳、三に富力、四に腕力、此の四力を合せ有するものは来れ、始めて吾人の好敵手たらんと、当時青年の意気正に察すべきにあらずや。まことに当時の青年は学問もありき、道徳もありき、腕力もありき、富力もありたりぬ。社員の三寸の舌はよく、村治を左右し、郡会県会をも動かすに足るの実■(破)せり。

 社員中には県会議員ありたり、郡会議員■(破)りたり村会議員ありたり、村長もありたり、助役もありたり収入役もありたり、書記もありたり、教師もありたりき。其他人材雲の如く多く、正に此の二十数年間は我部落の大黄金時代とも云ふべきなり、

 蓋、西川部落異数の大発展は和田氏の寺小屋に崩芽を発し、和田千秋氏の教導大勢を定め、山嶽社に至りて大成したるものと謂ふを得べきか。然るに之れ等諸士の飛揚せんには西川部落にては余りに少なりき、諸士の大半は遠大の希望を抱きて、或は市に或は大坂に、東京に或は台湾、北海道、又は遠く北米等に移住するものありて、山嶽社勢力の大半を失せり。

 されど亦、後に残れる諸氏も覇気満々として遂におさゆる能はず資本金参万円の製糸株式会社を部落の中央に起し日夜百数十人の工女を使嗾し昼間三度雄壮なる汽笛をならし、山間老翁の耳を洗えり。

 然るに悲しからずや燈火の正に滅せんとするや其の火は燦爛たりと、西川部落の運命も其の瞬間にあらざるなきか。果せる哉正直一轍の士は遂に奸商にあざむかる処となり。ここに一大失敗を招くに至り、亦立つあたはず。

 嗚呼ヽ悲しからずや、各自の富力□(破)失し尽し果てぬ。しかも悲愁は之れにとどまらず、□(破)と頼むべき青年等は自己の本領を打わすれ、心身軽薄に流れ誘惑に打ち勝つ事あたはず、或は婦女に戯れなどして、只夜遊等を事とし、敢て夜学等を顧みるものなく、今や遂に救済の道すらなきに至りぬ、西川部落の運命や正に急転直下したるなり。

 嗚呼、我等本文を草するにあたり、筆ここに至るや、悲惜、涙を掩ひて、茫然たる事之れ久しくす。されど物、深渕に達せば静止するの外、最早浮ぶるの他ありじ。

 幸なる哉我等は曙光に接するを得たり。明治三十五年、光明正大の気象、爽朗後偉の精神、屹然として動かざる事山の如く、教育を以て自己の生命とせらるゝ救主、河渕隆馬先生を、西川尋常小学校長として迎うるの光栄に浴せり。先生甚だ多忙の身を以て、校友会、父兄会、夜学会等を起しなどして、青年の智識を進め、校下の悪風を一掃せんとさる。

 我西川青年も、菖蒲、梶谷と聯合して西川校に夜学会を開催したりしも都合ありて数年にして廃し、后西川は単独に夜学会をなしたりしも勢揚らず、昨年は亦菖蒲と聯合したりしも好結果を得ず、本年□(破)遂に青年会に夜学部を設置するに至りたる□(破)り。我等は前の大黄金時代に回復せざるべからず、否ヨリ以上の大発展を期せざるべからざる也。

 我等の前途は河渕先生の努力に依りて、己に好箇の兆朕を発見せり。東天些の光明を洩せり。更に十年生聚し、十年教訓せば、理想の楽園に達するや、敢て難きにあらざるべし、乞ふ、会員諸君一曽の努力を期せよ。(松岡)

sato05.jpg とんぼ返りで東京に行っていた。汽車で瀬戸大橋を渡ると橋の西側と南側は空がまっくろ。台風16号がいま、九州の西を北上しているというから、列車は大雨に向かっている。大橋の西と東の空の明るさがコントラストをなしているから、何やら天気の境目を通っている感がある。橋を渡りきると本当に大粒の雨が窓ガラスを叩き始めた。

 東京駅の本屋で宮本常一『山に生きる人びと』を見つけ、ずっと読みふけっている。この本は昔、読んだことがあるが、山に暮らしてみて読むのでは味わいがまったく違う。

 山に生きるための生活手段は少なくない。畑仕事のほかにまず狩りがある。イノシシやシカ狩りだ。木こり(杣)、大工、炭焼き、竹細工・・・。実は山の仕事はたくさんあったのに、今では町で行われたり、コストが合わなくなったりしてほとんどが衰退してしまっている。

 本を読んで思い出したのは木地師のことだった。津市にいたころ、なぜか鈴鹿山脈の中の君ケ畑を訪ねたことが思い出された。

 君ケ畑は全国の木地師の総本山のような場所だった。平安時代、文徳天皇の第一子でありながら、政争に敗れた惟喬(これたか)親王が隠れ住み、山の人たちにロクロの使い方を教えた。宮廷で使っていた椀や盆づくりの技術が広まった瞬間なのだという。椀や盆はロクロなしにはできない。君ケ畑には当時のロクロが保存されている。回転力は軸に巻き付けた太い縄を向こうとこちらと出互いに引っぱることで生み出す仕組みである。

 いまでも全国に広がる木地師は君ケ畑の神社の氏子で強い連帯感を持ち続けているというから驚いた。君ケ畑から全国に広がった木地師たちは山の道をつたい、トチやブナといった材料を求めた。
いまでも漆の塗り物は高級食器の一つだ。当時の山のなりわいで椀や盆はかなりレベルの高い付加価値を生み出した産品であるといっていいかもしれない。

 土佐山では木地師はいないが、電動ロクロを持ち込めばあっという間に木でお椀やお盆をつくることができる。木工家具や建具づくりよりよっぽど楽にみばえのいい商品ができそうな気がする。
DSC_0351700.jpg アカデミーが始まったころ、おちょうさんが「近所に人から、あなたたちはお客さんやからと言われた」と話してくれた。歓迎会があり、神祭に招かれたりと山の人たちと交流する集まりが続いて浮かれていた僕たちはその一言でシュンとなった。

 そりゃそうだ。山の人たちはアカデミーが何を目指しているかまったく知らないだろうし、受講生は3カ月したらいなくなる。お客さんと言われれば否定できない。でも9人の受講生たちは何かをこの山村に求めていた。

 それから3カ月。この山村に住んでみて村のことを何も知らないままでいることを改めて知らされている。特に僕たちの住む高川のシェアハウスは市営住宅で、ご近所の人たちも村の外から来た人ばかりだから、あいさつ以外に日常の交流はない。

 平石に住むおちょうさんや原っち、桑尾に住む高田夫妻のように朝、玄関先に採れたて野菜が置かれることはない。正直うらやましかった。

 一方で、炭焼きやイノシシ解体などアカデミーの授業に労を惜しまず協力してくれる人たちも少なくなかった。勇作さんは早朝の豆腐づくり、豆蒔き、栗拾いに誘ってくれて時々アカデミーにご機嫌伺いに来てくれた。おちょうさんは早くから車さんのパンづくりを手伝い、岡っちは大崎さんの土佐ジローの養鶏場に出入りするなど積極的に村の生活の入り込もうとしていた。

 誰かが言っていた。
「大切なのはアカデミーの授業ではない。山の生活を知るということは隣のおばあちゃんの話をとことん聞くところから始まるんだよ」

 どういうわけか、気さくに遊びにおいでと言ってくれたり、アカデミーに話をしに来てくれる人は外からの移住者が多かった。アカデミーで学ぶ知識や体験はどうやら、本当の山の生活とは別物なのであろうということを自覚させられたのは最近のことなのだ。

 中切地区の鎌倉さんが、僕の出演した高知放送のラジオを聞いてくれていて、地区の集会で「日本経済と山村経済」について話をしてくれと言われたときは嬉しかった。8月5日の日曜日に集会の後、居残ってくれて話を聞いてくれた。

 竹細工の下村一歩さんのところに言って話を聞いたとき、スタッフの堪ちゃんが「どのように山の人たちに溶け込んでいったのか」と質問した。

 一歩さんは10年ほど前に炭焼き竈をつくりたくて土佐山の隣の鏡村(当時)に移り住んだ。移り住んだといっても祖母が農業をしていたところに家を建てたのだから、まったくの赤の他人ではない。堪ちゃんは高知県でも西部の越知町の育ちで土佐山に住み初めてまだ1年。懸命に溶け込もうとしているのだが、自身で歯がゆさを感じているようだった。

 一歩さんは「この地区の人たちは会えば酒を飲むんです。それもお湯割りをした焼酎を一升瓶に入れてあおる。僕はあまり酒が強くないんです。普通かな。それでもなるべく地区の飲み会には参加しようとしてきました。仕事とかあってまだ7割ぐらいしか参加できない」と答えた。

 そこで僕はちゃちゃを入れた。

「僕なんてお酒が好きだから、万難を排して参加しちゃうな。キムもそうだろうと思う。何もすべてに参加できなかったからとギルティになる必要のないのじゃない? 地区の人だって全員が毎回参加できるはずもないし」

 みなが笑った。

 原っちが物部村谷相に移り住んで陶芸をしている哲平さんを訪ねたときの話をした。

「哲平さんはもともと職人肌で近所づきあいなどしていなかったが、親しくしていた人と地区の世話役をするようになってから祭りの手伝いを始め、子どもが学校に行くようになると自然、溶け込み始めたと言っていました」

 思い出すと哲平さんは移り住んで10年経っても「外人」なのだというようなことも言っていたような気がする。

 個人的に、僕は高川のシェアハウス周辺の掃除にいそしんだ。玄関前の芝生の草抜きは大変だった。2カ月かかってもまだ終わっていないが、ようやく芝生が伸び始めた。たぶん来年の夏は元の木阿弥になるだろうが、一夏でもきれいになればいいと思っている。もともと僕は草抜きが趣味なのだ。道路周辺の草はぼうぼうで、ツツジの木も伸び放題だった。エンジン付きの草刈り機を借りたが、切っても切っても草は伸びる。木にはツルが複雑にからまる。家の前の幅30センチほどの溝は土が埋まりその上に草が繁っていた。思い切ってドブさらいをした。早朝の作業だからこれには3日かかった。1人だけおばちゃんが車を止めて「きれいになったね」と話しかけてくれたには嬉しかった。

 思い出した。僕は土佐山で自由民権を考えるはずだった。平尾道雄の本を1冊を読んだだけて終わっている。いけない、いけない。あと1週間しかない。
DSC_0220700.jpg 14日、アカデミー生は堪ちゃんに率いられて市内はりまや橋商店街の金曜市に「炭屋」を出店した。午前中、西岡燃料の西岡謙一さんから「炭」について簡単な講義を受けて、いざ商い。1時間ごとに交代で露天に立った。僕は午後1時からキムと2人で売り子となった。

 西岡さんに言わせると大量生産大量販売以外にも売り方があるという。商品に物語性をつければいいのだとも言われた。西岡さんはこのところ土佐木炭の販売に力を入れている。高知県の山を元気づけるために「84プロジェクト」というNPOもやっている。自分のところで売る木炭に「84マーク」をつけ、ファンドレイジングの一環として寄付金付きで売り出したところ「けっこう売れるのだ」という。

 商いの原点は「対話」。話を聞いてよかったとなると買ってくれる。商品+アルファである。いま売り方は「競争」から「共感」に移行しているというのが西岡さんの考え。この日の僕のいでたちは雪駄履きに薄茶色のジャケット。まさに寅さんの心境になって来る。

「商売というのは売れても売れなくてもドキドキする。売れたらもちろん嬉しい」
「近江商人の格言として、相手を知り自分を知り、世間を知るというのがある」
「土佐弁でずるい人のことをへこまんという。でも真面目な人が緩やかにつながったら勝つかもしれん」

 最初は「土佐山で僕たちが焼いた炭はいかがですか」などと呼び込みをやっていたが、考え直した。形のいい丸い切り炭を売るに当たって、そこらへんに生えていた草花をいくつか切ってきていたので、実演に移った。

「おばちゃん、こうやってすすきの葉をさすときれいでしょ」と問いかけると、3人に1人は興味を示してくれる。そこから客との対話が始まるのだ。一番多く買ってくれたのは隣でお店を開いていたおばちゃん。5個も買ってくれた。3個かってくれたおばちゃんは「友だちにもあげたい」と言ってくれた。

 1個も買ってくれなかったおばあちゃんは「なつかしいね。私、土佐山で育ったのよ」と昔話をしばししてくれて去った。「来週も店を開くかよ」と言ってくれた客もいた。正直、嬉しい。1時間は瞬く間に終わった。

 西岡さんがいま力を入れているのは七輪と土佐木炭(6キロ)の販売。「震災で電気もガスも止まったとき、七輪と木炭があれば大丈夫」というのがキャッチコピー。6キロの炭は約30回の使用だから最低での10日の煮炊きができる。「高知県に10万世帯ある。ということは10万セット売れる可能性がある。売れれば町の人は安心を買うことになり、山の人には炭というなりわいを増やすことになる」のだ。

 まっことよう分かった。僕たちの金曜市での商いは1万4400円となった。西岡さんも「よう売れたね」とほめてくれた。堪ちゃんは「こればぁ売れるのなら毎週売りに来ようかな」と欲を出していた。

 受講生の1人、高田さんはおもしろいことをFBに書いてくれていた。

高知での人との繋がり方はとてもドラマティックでスピーディーだと感じた。自分がどうこうではなく、水が高い所から低い所へ流れるようにただナチュラルに。ただ起こった事をそういうものだと感じることにしよう。そういうものなのだ」

はりまや橋アーケードすごくやわらかい雰囲気の商店街。通行人も出店者とコトバを交わすことをナチュラルに楽しんでいるように感じた。この見えない暗黙の了解にも似たような粋というかアーバンというか。そういうエリアなのだと思った。悪くない

高川の山で切った木を高川の炭焼き小屋で焼いて、切って、売った。都会で炭に火を着けた時土佐山を感じた。何故か山に戻りたい気分になった。炭は山と繋がるアイテム。炭に火を入れる瞬間、山と繋がる。それは自分が体験したからでこそ
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 午前中、土佐山アカデミーがある山の頂に五右衛門風呂が出来上がった。さっそく薪に火を付けた。昼に山に上ってきたおちょうさんが嬉しげに風呂桶のへりをなでつけた。

 アカデミーの生活も終盤を迎えている。先週、完成する予定だったツリーハウスは大雨のために休講となり、スケジュール的に僕らの手で完成することができなくなると心配していた。しかし、今日、浜氏先生らがお助け作業をしてくれることになり、こちらも夕刻に完成した。われわれ二期生のモニュメントとなる。

 午後は隣の旧鏡村で炭焼きを始めいまではお玉など竹で家庭用品を制作する下本一歩さんを訪ねた。一歩さんはまだ34歳、10年前に炭焼き窯をつくりたいと思い講習に通い、ほとんど独学で炭焼きを始めた。

 一歩さんのお玉やスプーンは趣味で作り始めた竹細工だった。炭焼きのことが高知新聞に取り上げられ、それを読んだ高知市内の婦人とハガキのやりとりが始まった。その婦人の紹介で高知市内のギャラリーで作品展を行うことになった。たまたまその作品展をみた東京の業者の目にとまり、次々と評判が高まった。今年に入り、イギリスからも注文が入るようになった。

DSC_0314700.jpg 質問されると、しばらく宙を見つめ、とつとつと語る自然児だ。炭焼きはなりわいとして始めたものではなかったが、その延長で竹細工が世に認められた。話しぶりからすると「出会いに恵まれた」ことになる。

 作品づくりは「使えるもの、使いたいもの、満足してもらえるもの」が基本。作業場に作品はほとんどなかった。「在庫はありません。追われてつくっている感じ」だからだ。5年ほど前、子どもができた。生活ができないので辞めようかと思ったときに、半年一生懸命つくってみた。展示会で作品はほとんど売れてしまった。「子どもが生まれたことが人生の分かれ道となったんですね」と淡々と話す。

 一歩さんの作品は家庭用品としては比較的高価だ。お玉は4200円もする。それがちゃんと売れてしまうのだから、ファンからすると高くはないのだろう。一歩さんは「伝えるものをつくりたい」と最後に言った。

下本一歩 竹のお玉 http://shop.wisewise.com/shopdetail/054000000013/order/
DSC_0269700.jpg 12日は横倉山フィールドワークだった。植物は多少興味があるが、岩石はまったく未知の分野だ。高知県は地質学的に非常に興味深い土地柄なのだそうで、4億年も昔に南半球にあった大陸が移動して隆起し、横倉山周辺の表層に突き出ているというのだ。だから日本最古の植物化石の産地ともなっている。かつてナウマン博士も来日したおりにこの地を踏査した。

 案内してくれた安井敏夫学芸員はいかにも楽しそうに「4億年」を繰り返す。「ハワイ諸島は西に移動していて7000万年経つと日本列島とくっつきます」と言われた時は、なにやら嬉しくなったが、「7000年じゃなくて万年ね」とダメを押された。

 考えてみれば7000万年前に人類は存在しなかったから、日本もハワイもへったくれもない。7000年前だってエジプトも黄河文明もない。土佐山アカデミーは100年先を標榜しているが、地質学の範疇では100年など瞬間にもならないのかもしれない。安井さんはそんなことはおくびにも出さず、ニコニコと楽しげに地球の歴史を語ってくれた。

 横倉山は伝承として安徳天皇陵墓が整備されていることで知る人ぞ知る土地なのだが、最大の宝は「コオロギラン」という植物。希少植物としては超一流なのだそうだ。牧野富太郎博士が命名したそのコオロギランがちょうど「開花」しているというのだから運が良かった。

 横倉山の中腹はアカガシの原生林が続く。巨木だ。倒れて腐りつつあるアカガシもある。足下の腐葉土はフワフワしていて絨毯のようなところもある。やがて杉原神社に到着、ちょうど弁当の時間となった。満腹になったころ、安井さんが「ここらあたりにコオロギランが多く咲いています」と言った。

 探してもそれらしき花はない。「小さいですから根元をよく探して下さい」。安井さんの声がした。誰かが「これちゃうかな」といって杉林の根元の腐葉土の上に生えた数センチの物体を示した。なるほどよく見るとコオロギが羽を伸ばしたような花がいくつか点在していた。

 あちこちで「オー」という歓声が上がった。僕たちが見つけたコオロギランがそこに群生していた。 
DSC_0218.JPG 9・11から11年。同時に3・11から1年半の今日。東日本大震災関連ニュースは盛り沢山だったが、ニューヨーク同時多発テロに関するニュースは例年になく少なかった。3・11は風化したのだろうか。

 今日の土佐山アカデミーは、病児保育のNPOであるフローレンスの岡本佳美さんの「伝える力」に関する講義。フローレンスをどうブランディングしてきたか興味深い報告があった。岡本さんは昨日から、ご主人と赤ちゃんを連れて土佐山にやってきた。昼食をはさんでほぼまる1日するどい問答が続いて非常に刺激を受けた。

質疑応答で岡本さんに質問した。

「土佐山の人にアカデミーって何をしているのとよく聞かれる。答えるのが難しい。ブランディングを生業としている立場から何と答えたらいいのでしょうか」

 岡本さんはしばらく考えてこう言った。

「土佐山に村民憲章ってあったでしょう。土佐山にはそもそも人を育てる風土がある。そのコンセプトは輸出できる。そのできることを村の人に理解してもらうことがアカデミーの使命なんではないでしょうか。アカデミーのスタッフも受講生もそれをどう形にしてみせるかを目指すべきなのです」
「NPOってわれわれフローレンスのように問題解決型と価値創造型がある。前者は目の前に見える課題があるが、後者は見えない。だから難しいと思われがちだが、私はそうは思わない。価値創造型には潜在的課題があるでしょ。気づいていない人にとっては大きなお世話になるが、気づいてもらうためのアプローチが重要となると思う」
「土の人、風の人ってあるでしょ。ただ台風のような風では荒らされるだけだが、本来、土の人には風の人が必要なの。外から違う価値観を持ち込んでくれるのは風の人。何を置いていき、何を担うのか重要だ」

 もう一つ質問した。

「先ほどの講義で『未来と他人を理解するのにデータは必要ない』と言った。僕も同感だ。最近、20年先、30年先の話が多く語られる。特に社会保障の分野はそうだ。長年、記者をやってきたが20年前に語られた将来像と現在はまったく違っている。10年先だって分からないのに」
「企業は5年計画、10年計画を公表するが、アナリストたちもまともに受け止めていない。将来の夢を語ることは必要だが、あくまで夢の話。フローレンスでは3年以上の経営計画は立てないことにしている。なぜか。それはムダだからだ」
「ドイツのメルケル首相が脱原発を決めるに当たってデータに頼らなかった。宗教者や哲学者などによる倫理委員会を招集して参考にしたのを知っていますか」

 そもそも僕が土佐山アカデミーにやってきたのは「おもしろそうだ」という興味本位だった。自分の余生をどう生きるか考える場が誕生したという意識でしかない。土佐山をどうするかという課題は村の人々が考えるべき問題であって、本来的には外部の人が口をはさむのは「余計なお世話」なのだ。

 そうはいっても、この魅力的な山村がこのまま衰退するのを見て見ぬ振りはできない。この2カ月半、自分の中にそんな問答を繰り返してきた。モノ中心の町おこしばかりが叫ばれる中で「学舎」を標榜するアカデミーはユニークであるに違いない。

 岡本さんがいうように「憲章」にある「学び」とアカデミーの発想は同じベクトル上にある。

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 賀川豊彦の伝記を書いたことでも著名なアメリカのロバート・シルジェン氏の講演を昨日、徳島市まで聞きに行った。この人は全米最大の生協だったバークレー生協の広報誌の編集長だったが、現在は環境問題を取り扱うSierra Clubの機関誌編集長である。

 賀川豊彦の縁で、2012国際協同組合年のイベントとして招聘され、東京、神戸、徳島で「環境・エネルギー問題と協同組合」と題して連続講演した。

 かつては生活者のために協同する組織だった協同組合はいまこそ「環境とエネルギー問題」で力を合わせなければならないことを強調した。

 シルジェン氏は「アメリカはすでに化石燃料の確保のためにイラクで戦争をしてしまった。決してイラク国民の解放のためではなかった」と断言し、「第二次大戦すら日本とドイツがエネルギー確保のために始まった」と述べた。

 賀川豊彦の『Brotherhood Economics』(友愛の政治経済学)については「いまこそ読まれる本である」「日本語訳が最近ようやく出版されたことを日本に来て知って驚いた。もともとアメリカで協同組合運動を広めるために船中で書いた」「1930年代に世界経済が破綻したとき、資本主義でもない、共産主義でもない第三の道を模索した」「Brotherhoodというクリスチャンの教えを実践に移そうとした」などと高く評価した。

 協同組合の第一にやるべきことは「Save Energyの教育だ」と強調。「省エネを第5のエネルギー源と位置付けるべき、20%の省エネをやった友人がいる。できるということである。日本の原子力の依存度が26%であると聞いている。20%の削減は原発の発電量に相当する」。とした。

 次いで「再生可能エネルギーの啓蒙」が不可欠だとした。アメリカのBasin Electric Powerという協同組合はノースダコダ州を中心に中西部136の会員協同組合を通じて280万人の消費者に電気を供給している。10%は再生可能エネルギーであり、大半は風力から調達していることを紹介した。

 興味深かったのはSierra Clubの「Carbon Offset」という活動だった。「航空機で移動したとき、その距離で輩出する二酸化炭素量に応じて運賃を余分に支払い、スマトラの水力発電やインドでの廃棄物発電の資金にしてもらおうという運動だ。みんなに強要するのではないが、支払いたいという人は決して少なくないのだ」という。

 エネルギー問題は「退屈なのだが、エキサイティングでなければならない。楽しみや娯楽にしよう。コンペがあってもいい」という提言にはうなずかされた。
DSC_0271700.jpg 高速の高知道で大豊町に入るとすぐに「太平洋まで50キロ」というサインが登場する。誰が考えたのか、いい響きの看板だと思う。

 JR土讃線も高松から百いくつのトンネルを抜けると視界が急に開けて明るい南国の空が広がる。その先の大海原を予想させる瞬間である。それほど高知は太平洋のイメージが強いのである。楽天的な県民性はその太平洋のおおらかさがもたらしたものなのかもしれない。

 水平線のかなたには何もないが、時代を遡れば、そのずっと先のミクロネシアとの行き来があったかもしれない。そもそもアカデミーのスタッフリーダーの内野加奈子さんは5年前、ハワイからミクロネシアの古代船「ホクレア」に乗って日本にやってきたことがある。

 逆に明治期に高知からミクロネシアに渡った日本人がいる。森小弁といい、自由民権運動に敗れて南洋開発に携わるうちにトラック諸島の酋長の娘と結婚し、現在、子孫は3000人にまで増えている。トラック諸島はその後、チューク諸島と呼ばれ、ミクロネシア連邦の1洲となった。大統領のマリー・モリはその4代目にあたる。

 ちなみにパラオの初代大統領、クニオ・ナカムラ氏は伊勢市の船大工の末裔である。

 4代で3000人に増えるというのはにわかに信じがたい。日本が第一次大戦後に統治したとき、戸籍制を導入し、名字をつけさせた。どさくさまぎれにモリ姓を名乗った人も少なくないのではと考えているが、人口10万人の連邦国家の中に森姓が3000人もいることは心強い。

 土佐山にはもちろん海はないが、瀬戸内海の海の民たちがそのむかし、山に追い込まれ、さらに南下して土佐山までやってきた。何十世代も後の子孫たちが、ついに南の明るい高知の平地に到達して海原を見つけた感慨は決して小さな物ではなかったはずだ。もちろんその時、ミクロネシアの子孫たちとも海岸線で出合っているはずである。

 土佐山にはぜひとも「太平洋まで20キロ」の看板を掲げたい。

 森小弁については高知新聞の記者がかつて連載記事を書き、『夢は赤道に-南洋に雄飛した土佐の男の物語』として出版された。

DSC_0219.jpg 火曜日の授業は「会社」とつくるというブレーンストーミングだった。土佐山を拠点に何ができるか、3チームに分かれて考えた。僕らのチームは「猪竹山水舎」という名前の協同組合だ。「ちょちく」と読ませるか「いのたけ」と読ませるか決めていないが、山の仕事をアミューズメントに仕立てて「入場料」を取ろうという魂胆である。

 僕が土佐山でやりたいのは木工と野菜づくりである。土地と木材はなんぼでもある。場合によっては山から切ってくることもできる。

 木工は昔からのあこがれである。都会ではまず場所がない。道具もない。アメリカの多くの家には広大なガレージがあって、わくわくするような電動工具が多く並んでいる。材料さえあれば自分で何でもつくってしまおうというのがアメリカ人気質である。

 土佐山での生活が2ヶ月を超えてきたが、農家がそれぞれ作業部屋を持っていることに驚いた。木工の電動工具はないものの、農機具の他、木や竹を切る道具には事欠かない。アメリカのガレージを思い出したのである。おかげでのこぎりとナタの使い方は相当熟練したと思っている。

 高川地区に斎藤工芸という木工所がある。土佐山夢開発公社のかなり広い土地に作業場があるが、そこは斎藤さんちであり、だれでもが作業をさせてくれるものではない。僕が夢見るのは会員が週末に木工をできる空間である。だれでも入場料を支払えば、1日遊べる空間である。

 共有空間には一定の電動工具が自由に使えるほか、自分の工具を持ち込みたければ、その空間を提供するし、自分の作業部屋を設けたければ「84ハウス」を建ててもいい。84ハウスは高知の山の知恵を集めた84プロジェクトの売り出している「小屋」で、3×3メートル四方の広さで数時間で組み立てられる。もちろん素材は高知の間伐材である。

 猪竹山水舎は木工所のほか、耕作放棄地となった畑や田んぼも借りていて、希望に応じて「農耕」も出来るようにする。この場合、猪竹山水舎が行う農耕を手伝う方法と小さな土地を占有する方法と二つ考えている。

 頭の中で考えたことだが、初期経費が100万円ぐらいかかるため、組合員に出資を促すことにする。1口=1万円で募集したら、どうだろうか。また木工所や畑には週末には10人ぐらい、ウイークデーでも3、4人が来るだろうから、最低でも月に150人来場することを想定すると15万円の収益となる。

 家賃と畑の賃料、光熱費を差し引くとなんぼも残らないだろうけど、そんなアミューズメント空間を求めているシニアが相当いるのではないかと考えている。

 そんなことを夢想していたら高知新聞に「土佐町『大工の学校』解散 横領の2億円債権放棄」という悲しい記事が掲載されていた。嶺北4町村(土佐町、本山町、大豊町、大川村)などが1991年に第三セクター方式で財団法人「土佐人材養成センター」を設立、大工育成施設として注目を集めたという。大工の学校は通称である。お金があるとろくな事が起きないという例である。
 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=292856&nwIW=1&nwVt=knd

 僕らが考えているのは人材養成などという大それたことではない。学校や塾はいらない。山の仕事をアミューズメントにしてシニアが気軽に時間を過ごす空間をつくりたいだけの話である。どう思いますか。

DSC_0261500.jpg 土佐山に来るまで水がこんなに美しいものだと思わなかった。金曜日、炭焼きの火入れの前に炭小屋の近くを散策した、段々畑の真ん中に巨石があって、そばを何の変哲もない渓流が流れていた。

 何度かシャッターを押している間に、高速シャッターで流れを撮ってみたらどうだろうと考えた。カメラのモードを自動からシャッター速度優先に変更して、どんどんスピードを上げていった。2000分の1が限界だった。

 この1枚倍はシャッター速度を2000分撮った一コマだ。夏のほとばしる水の涼しさがよく表現されたと思っている。

 これまでは川の水の流れを重視して、なるべく遅いシャッタースピードで撮影してきた。流れ全体を撮るには確かにいいのだが、涼しさが感じられない。

 土佐山では山や森はもちろん、草花、昆虫、雲、空、雨・・・何でも被写体となる。残念なことにその名前が分からない。分かり出したらたぶん、山の生活の楽しみは何十倍にもなるのではないかと思う。

 この晩はイノシシ小屋でバーベキューをしてもらい、星空を仰いだのだが、北斗七星以外に星座の名前が分からない。
DSC_0416700.jpg 罠にかかり鉄檻に捕らえられた子イノシシは我々を見ると、何度も鉄柵に猛進する。その度にガシャン、ガジャンと鈍い音をさせ、鼻の上部から鮮血をにじませた。まもなく、あわれな子イノシシは高川三銃士によって、心臓を一突きにされ倒れた。25日の夕方、なんと、その殺生の場面に遭遇してしまった。

 イノシシは山では害獣とされ、行政によって"捕獲駆除"が奨励されている。よほどのことがないかぎり人に危害は加えないらしいが、畑荒らしは日常的だ。だから、殺して当局に耳と尾っぽを持ち込むと奨励金6000円が支給される。

 もちろんその肉は山の幸として人々の蛋白源となる。土佐山高川地区のイノシシ三銃士はミキヒロさん、マサゾウさんとチュウさん。

 そのうちミキヒロさんはまだ経験2年。定年後、高川に帰り、狩を覚えた。「最初は嫌だったけど、山に生きるとはこういうことなのだと悟らされた」と言う。

 前の晩、彼らと飲んでいた時に、「明日、イノシシを解体するけんど、見るかや」と言われた。土佐山アカデミー生として山に住むことになったら、どこかでイノシシの解体も体験するのではないかと想像していた。

 イノシシの檻に近づくにつれ「殺生」という言葉が何度も頭をよぎった。ふだん都会では肉屋に並んだ肉しかみることはない。だが、われわれは誰かがどこかで「殺生」をしてくれているお陰で生きている。そう人間は殺生をして生きているのだ。

 恐くないといえば、うそになる。もちろん恐かった。山に生きる意味を体験しなければと勇気を振った。不思議だったのは、恐いのは殺すまでの時間で、死んでしまった後のイノシシは単なる肉にしかみえなかった。殺生の場面から3時間、解体の最後まで付き合った。

 土佐山では高川のほか3つの地区でイノシシの"駆除"が行われている。 
226027_358049830942042_999504113_n.jpg 今日は旧暦の七夕。堪ちゃんが旧暦の七夕は晴れて土佐山では天の川が見えると言っていた。

 一昨日と昨日は高川公民館近くの炭焼き小屋で炭焼きの準備。炭焼きクラブの人々が今でも年に何回か炭焼きをしている。その炭焼きクラブの人たちに手伝ってもらって真夏の炭焼きを行おうというのである。

 古老によると、土佐山では数十年前まで炭焼きをなりわいとしていた。昭和30年代までの話である。山に住む人々がそれぞれの山に炭焼き小屋を持っていた。夫婦と子ども、3、4人で木を切り、窯入れをした。今なら細いながらも舗装道路があるが、当時は歩く道しかなかった。出来上がった木炭は俵に入れて川べりの県道まで担いで下った。木炭は山の貴重な現金収入源だった。

 授業が始まった。樫の木を中心に山で木を切り、太い枝は半分、4分の1に割る。チェーンソーは使わない。鉄のタガを割れ目に入れて鉄ハンマーで割る作業はけっこうな力仕事だ。重たい上に樫やツバキは硬いのだ。何人かダウンした。
 
 1メートルから1メートル50センチぐらいに切った木を今度は窯にじゅんぐりに入れるのだが、並べるはプロの大崎さんの仕事。窯は直径約3メートルの広さ。中から大崎さんが大声で「何センチ、何本」と叫ぶと、ぼくらは適当な長さの木を選んで窯に運び込む。窯の上部に隙間ができると完全燃焼してしまうので、ぎりぎりまで木を詰め込む。ここらがテクニックなのだそうだ。

 僕は特別に竹でつくったコップを2つ、窯に入れてもらった。炭化しないで燃えてしまうかもしれないと言われたが、コケを入れてうまく焼き上がった話をきいていた。「万が一でも真っ黒な竹製のコップだできたら御の字」のつもりである。
 
 2日目の終わりに窯は木でいっぱいになった。外に山積みとなっていた木の枝がほとんどなくなったから、相当の量の木が窯に入ったことになる。今日、入り口を石と土で完全に密封し午後4時に火入れを行う。終わった後は高川地区炭焼きクラブの人たちとバーベキューをして星をながめることになっている。楽しみだ。
shinsyo-l.jpg 土佐山アカデミーの講義で『半農半X』の著者、塩見直紀が京都の綾部から来てくれた。面白いのは出版元が廃業して絶版となったため、自ら田舎に出版社を設立して再版したという。その出版社では「おみやげ」の本づくりをしているというからまた、面白い。

『半農半X』を読んでいて示唆を受けることが少なくない。その中の一つ。

 仙台市在住の半農半民俗研究家とも癒える結城登美雄さんが、「よい地域の条件」として「海、山、川などの豊かな自然があること。いい習慣があること。い い仕事があること。少しのお金で笑って暮らせる生活技術を教えてくれる学びの場があること。住んでいて気持ちがいいこと、自分のことを思ってくれる友達が 三人いること」と言っている。

 どれも自分にとって大切なことである。客観的な価値観などはそもそも存在しない。なるほど、自分がその地域とどう向きあうかが一番問題だと指摘してくれているような気がする。

 面白いもので、そんな『半農半X』を読んでいると、日経新聞(8月22日)生活面で関連する記事が掲載され、塩見さんのインタビューも載っていた。以下のその記事である。

 仕事は続け、農業に挑戦 「半農半X」という生き方

  生活の半分は農業、もう半分は自分の得意な仕事ややりたい仕事。そんな「半農半X(エックス)」という生き方が注目されている。「食」の安全や環境問題への関心の高まり、豊かな生活・社会へのあこがれなどが背景にある。どんな生活なのか。都会に暮らす人でもできるのだろうか。

  大阪市で看護師をしていた関西出身の広川恭子さん(34)は今年2月、島根県中南部の飯南町に引っ越した。「半農半看護」の暮らしを始めるためだ。冬場は週4~5日、町立飯南病院で働いたが、春から病院は週3日勤務。2日は農業研修、2日は休みという生活になった。

  町が研修用に300平方メートルほどの農地を用意。ここで同町特産のヤマトイモなどを栽培する。研修日だけでなく、病院からの帰り道や休日にもつい畑に寄ってしまう。ヤマトイモの収穫は11月。広川さんは「今からどきどきです」と笑う。  もともと無農薬の野菜などが好きで、都会暮らしにも少し飽きていた。そんなとき大阪市で開かれたUIターンフェアに行ったところ、島根県の関係者から「半農半Xで移住してみませんか」と声を掛けられた。農業研修が受けられ、最長2年間は月12万円の助成金が出る。「X」に当たる職場も紹介してくれる。研修後、農業に必要な設備資金の補助もある。  広川さんは2泊3日の現地体験ツアーにも参加した後、「これならなんとかやっていける」と移住を決断した。助成金と病院からの給料を合わせても以前より収入が減ったのが厳しいが、「今の生活リズムは自分にぴったり」と話す。研修が終わると、耕作地を広げ、5年後をメドに、農業で年間90万円の販売額を目指す。

 ■新しい兼業農家スタイル

  全国的に農家が減る中、島根県も都会から就農希望者を募ってきた。しかし、いきなり専業農家を目指すのは大変。そこで、敷居を低くするために、新しいライフスタイルとささやかれていた「半農半X」の考え方を2010年度から導入した。農業以外の仕事にも携わり、全体として生活に必要な収入を得てもらう兼業農家的な考えだ。

  11年度からは「X」の部分に「看護」「介護」「保育」といった具体的な職種を入れて募集開始。これらの職種が県内で不足しているという事情もあった。

  これまでのところ「半農半X」移住者は15人。30~40代が多く、家族連れも増えてきた。県農業経営課では「農業とのその地域の担い手となる人に来てもらいたい。イメージと違うこともあるので、まずは体験ツアーなどに参加してもらいたい」と話している。  地方で本格的に農業を始めるばかりが「半農半X」ではない。この言葉の提唱者で農業を営む塩見直紀さんによると、持続可能な農のある小さな暮らしをベースに、自分の才能を世の中のために生かしていくのが「半農半X」。それは都会でも始められる。

 ■まずは体験農園

 「命を保つための作物ぐらい自分でつくらないとだめなのではないか」。東京都内でファイナンシャルプランナーとして働く女性(55)は3年ほど前、こんな思いから野菜作りを始めようとした。しかし経験もなく、市民農園を借りたとしても自信がない。

  そんなとき、農家に指導してもらいながら作物をつくる体験農園という方式があるのを知り、その一つである練馬区の白石農園に通うことにした。収穫期などのピーク時で週に一度2~3時間ほどを農作業に費やす。「取れたての野菜がこんなにおいしいとは知らなかった」と楽しそうだ。

  農園主の白石好孝さんは「体験農園を始めた16年前には団塊の世代の会社員の申し込みが多かった。今では20~30代の若い家族に広がり、定員はすぐ埋まる」という。利用者が払う費用は年4万3千円(練馬区在住者には区の補助あり)。通常、収穫物は8万円相当分ぐらいあるそうだ。「半農半Xとまではいかなくても、まずは身近な場所で得られる豊かさを知ってもらいたい」(白石さん)  体験農園や市民農園は自治体経由で申し込む例が多い。探すならまず地元自治体に問い合わせてみたい。

  都市住民と農業を結び付ける新たな試みもある。一般社団法人、都市生活者の農力向上委員会は今冬にも農業の基礎知識を身につけてもらうための「農力検定」を始める計画。一般市民200人程度の参加を目指す。ベランダ菜園なども解説した「農力検定テキスト」(コモンズ)も出版した。  「不安定さが増す社会の中で今最も必要なのは自給できる能力すなわち農力」(代表理事の西村豊さん)との発想だ。半農半Xの考え方は静かに広がっている。

 ■「半農半X」の提唱者に聞く

  「半農半X」を提唱した塩見直紀さん(47)は京都府綾部市で自給的な農業を営む傍ら、半農半X研究所代表として講演や地域おこし活動を続けている。言葉に託した思いを聞いた。

  もともと環境や食糧問題に関心があり、一方で自分の天職とは何かを考え続けていた。1995年ごろ、ある本で「半農半著」という言葉を知り「半農半X」という新たな言葉が生まれた。Xはその人の天職。私の場合は半農半Xを広めること。農に携わり大地に触れることでインスピレーションが生まれ、Xの部分にもいい影響が必ずある。

  「田舎で農業」といえば、定年後の楽しみや会社組織からの脱落といったイメージだったが、半農半Xでは社会のために自分の能力を生かすという積極的・創造的な意味合いを持つ。実際、20代の優秀な人たちが田舎に集まる。

 ベランダ菜園でもいいので、少しでも農に触れる時間を持つことが大切。命の根っこを大事にする生活をしながら、自分の才能を生かし、その才を独占せず、分かち合い、伝えていく。そんな精神でこの難しい時代を生きていきたい。この考え方は中国や台湾など海外でも関心を持ってもらいつつある。(談)(編集委員 山口聡)
DSC_0280700.jpg 土佐山で小水力発電の計画が浮上している。5月に高知新聞が一面トップで書いていたから記憶のある方も少なくないと思う。鏡川の支流である高川川の上流地点に格好の発電可能サイトが見つかったのだ。そのことを思い出していたら、その昔、書いたコラムが偶然出てきたので再掲したい。
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 エネルギーを自給できる村をつくれたら、と漠然と考えていたことがある。そんなことができるならそこの村長になりたいとも考えた。

 そんな村が四国に現存していることを知ってびっくりした。というより、戦前にはそんな村をそこかしこのあったのだということを再認識させられたという方が正しい。

 エネルギー自給の村は旧別子山村。市町村合併で現在は新居浜市の一部となっている。別子山は江戸時代から住友が銅山を経営していたところ。日本有数どころか世界的銅鉱山だった時期もある。廃鉱となってから30年以上がたつが、昭和34年、地元の森林組合が別子山発電所と小美野発電所を建設・経営し、村に電力を供給していた。別子山村では四国電力の送電線は一切なく、村独自の電力体系を持っていて、余った電力を四国電力に売っていたのだ。

 筆者がエネルギー自給村をつくりたいと思ったのは、まさに別子山村のような村をつくりたかったからである。山村の資源は森林と観光しかないのではなく、水からエネルギーを生みだして、"商品"として販売することも可能なのだ。

 賀川督明さんが関わっている「水の文化」28号に小林久茨城大学農学部准教授はこんなことを書いている。

「30戸規模の集落が発電機を入れて、自分たちの電力をまかなうケースを想定してみましょう。1軒の家庭が1年間で消費する電力は5000kwhぐらいです。ということは1軒につき1kwの発電設備でまかなえますから、30軒で30Kwの発電機があればいいわけです。仮に1kw100万円として30世帯で3000万円集めて初期投資し、あとは維持管理のコストを見ておけば採算は取れます。こういう集落が増えたら、不足分が出たり余ったりしたときにお互い融通しあえばいい。小さな集落がお互いに融通し合うことで、自立していけることが私の描く農村の理想図です」

 実は30kwの出力は軽自動車のエンジンでも優に出せるエネルギー量なのである。洗濯機や冷蔵庫の中古のモーターを水車で回したらどうなるか。モーターは発電機そのものであるから問題はない。

 こんな発想で村を経営したらおもしろいのではないだろうか。村に鍛冶屋が復活して、童謡の「村の水車」のようなことになりはしないか。たぶん3000万円よりずっと安く村の発電所が実現しそうだ。

 ずっと考えていたことが何か手に届くところにあるような気がしてきた。

 2008年2月発行の『水の文化』(ミツカン水の文化センター)28号は「小電力の包蔵力(ポテンシャル)」がテーマ。小林久茨城大学農学部准教授が「エネルギー自立型から供給型へ」という論文で報告していた。
P1000990700.jpg よさこい踊りのシーズンがやってきた。ここ数年は山中千枝子さんという元越知町の小学校の校長先生が主宰する「響よさこい国際交流隊」で踊っている。今年は辞めようと毎年思いながらも山中先生と会ってしまうと断り切れなくなりずるずると参加を続けている。なんと今年は連のスタッフに"昇格"してしまった。

 土佐山アカデミーは昨年、福島県の「ワンダー浪江」の踊り子たちのお世話をしたことから今年は本格的に受け入れることになった。浪江の踊り子たちは菖蒲地区の公民館で宿泊し、市内に繰り出すことになる。受講生は特待生として連に招待されているが、僕は一人国際交流隊で踊ることになる。すでに練習は3回ほど参加した。

 国際交流隊は元々、高知県の肝いりで発足した。県内在住の外国人にもよさこいの門戸を開こうと始まった事業だが、数年で助成金が途絶えてしまった。後は山中先生の奮闘で活動が続いている。貧乏所帯であるから他の連のように市内の移動にバスはない。ひたすら歩く苦行を強いられる。その分参加費は格安である。いつもは50人内外のチームであるが、今年はAEONのショッピングセンターに参加申込書を置かせて貰ったところ、120人を超える申し込みがあった。

 もう一つ高知工科大学が中国とタイからそれぞれ5人ずつよさこいへの参加者を募集したため国際色が一層強まっている。彼らは8月5日に高知に到着し、速成でわれわれの踊りを習得してもらうことになっている。中国とタイとの橋渡しをしたのは工科大学に勤務する僕の姉だった。日本の若者が熱狂する「よさこい」にアジアの学生も巻き込もうという魂胆である。

 何を隠そう、山中先生と僕は国際交流隊をクアラルンプールに"輸出"した実績を持つ同志なのだ。2002年は地元のショッピングセンターで踊り、2003年は5万人が集まる世界最大のBONODORIに参加した。記者会見をしろという地元メデイアに応えたこともあった。中国語で「鳴子舞」というよさこいの中国名を即興で考えたのもその時だ。翌日の華字新聞にそのまま使われていたのには吃驚した。ちなみに現在、高知県のオフィシャルページでは「夜来節」で表現している。

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