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tamakihidehiro.jpg 1月18日、友人に連れられて高知市神田にある高法律寺に向かった。迎えてくれたのは玉城秀大さん40歳。お寺の若き住職だ。この人に興味を持ったのは、友人がくれた山北みかんからだった。しあわせみかん山というNPOがあって、耕作者が高齢化して放置されたみかんの木2000本を管理している。野性化まではしていないが、当たり前のように無農薬で"栽培"されたみかんは不細工。だが、甘味も酸味も十分でおいしい。

「そのNPOって誰が運営しているの」
「神田の若い坊さんだよ。その人はひろめ市場の近くに光の種っていう喫茶店もやっていてタイの国境近くで栽培されたコーヒー豆でコーヒーをつくってるんだ。その村はカレン族が多く、坊さんはそこで孤児院まで経営しているんだよ」

 そんな会話からその坊さんが取材してやろうと考えた。

 タイの国境の村はサンクラブリという。バンコクから自動車で7時間もかかる僻地である。玉城さんそこでは孤児50人を育てながら学校も経営している。水沼朋子さんといってバンコクでお嬢さん学校の先生をしていた人を説き伏せて薄給で校長先生をしてもらっている。高知県を中心に里親40人をお願いして資金を賄っているが足りるはずがない。筆者の想像では相当の持ち出しである。たぶん高法寺の檀家さんたちが間接的に子どもたちを養っている形になっているのだろう。

 サンクラブリの学校は女子ゴルフ横峰さくらのおじさんの横峰吉文氏が全国3000カ所でやっているヨコミネ式教育を導入している。「体の力、学ぶ力、心の力」を重視し、全員が逆立ちをし、跳び箱なら15段は平気で飛ぶようになるというユニークな教育法である。心が病んでいるサンクラブリの孤児たちにはまず体の教育が肝心なのだそうだ。

 サンクラブリの子どもたちが孤児になったのはさまざまな理由があるが、多くは当たり前のように心の問題を抱えている。心の力を育むためにまず体でその可能性を高めるヨコミネ式はぴったりの教育法であるようだ。何やらひ弱な日本の子どもたちにも適用できそうな考えだ。

 玉城さんには、高知市で2月に開催するわれわれの講演会にお誘いするのが目的だったが、その日はサンクラブリに行くので出席できないといわれた。だが、たった2時間ほどの会話に、十二分に刺激された。友人に玉城さんを語らせると、とにかく「やってみよう」という軽いのりがある。これは高知人の悪いところでもあり良いところでもある。後先考えない。考えれば何も始まらない。現在の日本人が持ち合わせていない軽いのりに学ぶところが多かった。

 2月サンクラブリに行くときには、高知工科大学の渡辺菊真先生も同行する。先生はアースバック方式といって土嚢で家をつくる専門家で、サンクラブリの学校にもその工法を導入しようと考えている。

 特定NPO輝くいのち http://kagayakuinoti.p-kit.com/
 高知市の喫茶店、命の種
 渡辺菊真先生 http://www.kochinews.co.jp/09kut/100423kut01.htm
 高知新聞 2012年01月17日08時59分

keiko.jpg 静かな山村に22年ぶりの産声―。安芸市畑山の土佐ジロー農家、小松靖一さん(53)、圭子さん(28)夫婦に昨年12月、待望の赤ちゃんが誕生した。人口58人、平均年齢72歳の限界集落に子どもが生まれるのは実に22年ぶり。住民も「地域がぱっと明るくなった」と感激している。

 靖一さんは畑山で生まれ育ち、圭子さんは愛媛県宇和島市出身。圭子さんが大学時代、国の交流事業で畑山を訪れたことが縁で知り合い、2010年夏に結婚した。2人で手を取り合って肉用土佐ジローの飼育と、畑山温泉「憩の家」を運営している。

 第1子が誕生したのは12月9日。元気な男の子で、「日本人らしい響きがいい」と「尚太郎」と名付けた。「いろんなことを幅広く吸収し、協調性があって、人にかわいがられる子に育ってほしい」と願いを込めた。

 靖一さんは「やっぱり子育てはこの雄大な自然の中でやりたい。息子と一緒に山や川で遊べる日が楽しみ」と目尻を下げる。圭子さんいわく、靖一さんは「イクメン修行中」。ぎこちない手つきで、風呂やおむつ替えに毎日奮闘している。

 地域住民も「人口が1人増えるなんて快挙」「自分のことのようにうれしい。元気が出る」と喜ぶ。
 唯一の悩みは教育。畑山周辺には幼稚園や学校がない。一番近い井ノ口小学校は車でも30分以上。学校に通う年になれば、一家で山を下りる選択肢も考えざるを得ない。

 「後継者に、というこだわりは持ってないけど、私たち夫婦の畑山を愛する心を伝えた上で、自分の意思で畑山に帰ってくる選択をしてくれたら幸せ」と圭子さん。

 靖一さんは「畑山の未来の、いちるの望みになれば」と集落の存続に希望を託し、「尚太郎がきっかけとなって、多くの子どもたちが畑山を訪れてくれるようになればうれしい」と交流の輪が広がることを願っている。

  【写真】小松靖一さん、圭子さん夫婦が授かった尚太郎ちゃん(安芸市畑山)
 正月も大分過ぎて、1月も半分が過ぎた。高知新聞の正月紙面の一面トップは「公の群像」という連載の第1回目だった。東日本大震災で地元の公務員ががんばった話を紹介しながら、続く。

「そんな思い半分。複雑。私ら家も仕事も失って収入セロ。なのにおんなじ被災者でも、公務員だけはちゃんと給料もらえんだからね。やっぱり、いい身分だよ」

20120110.jpg 高知県の市町村に勤める公務員の数は2011年4月1日現在で9319人なのだそうだ。これに対して県職員は14100人。教職員が7957人、警察官が1892人、その他出向など838人。1993年の17475人に較べれば、相当減っている。たぶん市町村でも減っているだろうが、合計すれば県と市町村で23419人。人口規模77万人の高知県で多いのか少ないのかが問題となる。

 2万3000人の職員には妻がいて子どももいる。平均4人として約10万人の人口である。加えて公務員のOBもいる。平均寿命が80歳として、1万人をゆうに超えるはずだ。妻もいれば2万人となる。つまり12万の人が税金で食っていることになる。おおざっぱな言い方をすれば高知県の7人に1人は「公」の人口だということができる。逆に言えば、7人で1人の「公」を養っていることになる。もっと厳密にいえば、専業主婦や就労していない子どもたちも多くいるから、3人で1人の「公」を支えているといったぐらいが正しいのではいかと想像している。

 問題を所得に敷衍すればさらに問題が大きくなる。手元に統計はないが、筆者の親戚に教員をしていた老夫婦がいる。2人の年金が合わせて50万円をゆうに超える。東京や大阪ならいざしらず、高知県で50万円の月収を得ることは並大抵ではない。

 公務員の給与は県レベルや大きな市でいえば国家公務員と遜色がないが、町村になると相当に低いことになる。だからあまり乱暴なことはいえない。しかし、高知県で公務員よりいい給料をもらっているのは、マスコミ、銀行ぐらいのものではないかと推察している。

 そうなると「公」を支えているのは2人に1人より少ないことになっているのではないかと思えてくる。民主党のマニフェストの「公から民へ」が多くの有権者の支持を得た意味もそこらにあったはずだ。

 東日本の被災地での「いい身分」の意味はさらに厳しい。民間だったら工場や事業所が消失したら賃金など発生するはずもない。被災地の場合、地方税収入はほとんどゼロであるはずだ。公務員の場合、庁舎が喪失したとき、どこから誰が彼らの給料を支払っているのだろうと考えざるを得ない。

260px-Kochi_city_hall01n3200.jpg 筆者の持論は、商店街への行政の進出である。高知市役所建て替え問題が浮上している今、初夢的に考えたのが、ダイエー跡地への移転である。グーグル地図上で見ると面積的に問題は無い。市役所への人の流れが帯屋町商店街に流れれば、商店街の活性化にもつながる。この発想は単なる移転ではない。市役所をアメーバのように市内に分散するという考えでもある。

 市役所で一番の人の出入りは市民課である。市民課は最も市民に親しみがある場所であるから、帯屋町商店街の空きスペースを賃貸すればいい。

 市役所の一階はもちろん図書館である。スターバックスでもドトールでもいい。喫茶店を併用してお茶を飲みながら「読書」や新聞・雑誌の閲覧ができるスペースが誕生すれば、図書館が待合場所にも変貌する。筆者なら毎日通うだろう。午前中を図書館で過ごし、昼食は帯屋町周辺の飲食店で・・・という生活になる。

 できれば市長室も商店街の一角に置けば、市長が朝から晩まで町内をうろうろすることになるから、市民が市長に声もかけやすいし、市長も日々、市民の生の声を聞くチャンスが増えるだろう。

 もちろん観光振興課は高知駅前か、はりまや橋に移転すべきであるし、防災関連の部署も町に出るべきである。そうすれば市役所の可視化が始まる。ラジオのサテライトスタジオも帯屋町に進出してもらえば、なおさらいい。

 商店街活性化、情報拠点の強化、市役所建て替えの一石三鳥となること請け合いである。高知に帰って8カ月。落胆したのははりまや橋の交差点に誕生した巨大なパチンコビルだった。高知医療センターが市内からとても不便なところに立地されているのにも驚いた。年寄りに「来るな」と言っているに等しいと思った。高知には町をデザインするという発想がまったくないのだと思わされた。高知には市役所の建て替えに他にも県と市の図書館合併構想も浮上している。

 もし高知市役所の建て替えが不可欠で、巨額の資金を投入するすることがあるのなら、ぜひ防災面だけでない発想の転換をお願いしたい。(伴 武澄)
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 一週間前から、高知の家の一階に囲炉裏の間を作り始め、24日ようやく完成した。十二畳の半分が畳で半分が板の間。相変わらず自分の家ではないが、初めて自費でつくった空間であるから嬉しい。

 ステレオなんてものはない。写真右上の棚にあるラジオだけ。親戚の古家を解体する際に頂戴したレトロの真空管式5球スーパー。若い人は知らないだろうが、HiFiのロゴが入っており、当時としては超高級ラジオだった。調度品で新しいのは伊勢木綿の座布団だけ。これは2週間前に伊勢神宮のおかげ横丁で注文した。すでに祝儀の日本酒4本が並んでいて、「おきゃく」の日を待っている。

 部屋の改築は林という知り合いの大工さんに頼んだ。「よし仕事が暇になったらやっちゃう」と意気に感じて請け負ってくれた、材料費はタダ。壁の下部は木目をあしらった杉板、上部は伊野和紙を自力で貼った。クロス屋さんに断られ、やむなくやってみたが林さんから素人にしては上出来といわれた。

 正面の障子まがいも林さんに手習いを受けながらの自作。和室にアルミサッシの窓枠は無粋。障子まがいを貼ることにした。林さんが「やってみるかえ」と言ってくれ、鋸とノミで組み木と試みた。悪くない出来ばえである。中央に垂れ下がる自在は義父の家にあったものをいただいた年代ものである。これだけはどこでも買えない。天蓋は大工さんがおもしろがってつくってくれた。

 この一週間は朝から晩まで林さんと一緒に作業をした。寒風ふきすさぶ中、ほとんど寒いと思うことはなかったが、さすがに夜になると筋肉が硬直した。三十数年、ペンより重いものを持ったことがなかったが、たった一週間だけだが、肉体労働をやってみて「こりゃ大変」な仕事であることを改めて知らされた。

 それにしても高知に帰って半年でこんな「おきゃくの間」をつくってもらって幸せなことだ。明後日、27日はここで餅つき大会を行う予定で、義父を含めて20人ぐらいの仲間が手伝ってくれることになっている。高知に帰ってきてよかった!(伴 武澄)
DSC_0302.jpg 週末、宿毛を訪ねた。歴史館でびっくりしたのは、古代に土佐国とは別に「波多国」があったと解説されていたことだった。「都佐国にさきがけ、波多国造に任命された大韓襲命(おおからそのみこと)は、県下で唯一の前方後円墳である平田曽我山古墳に埋葬されたと考えられる。平田には前期古墳が三基もあり、すべて波多国造の一族の墓と思われ、この付近が波多国の政治経済の中心だったことを物語っています」

 高知県西部は幡多郡というが、古代の幡多の文化は瀬戸内海から伝えられたようである。現在、高知と呼ばれる県都は江戸時代に山内一豊が築城して城下とした場所で「河内」がなまって「高知」となった。長宗我部は岡豊を築きその後に桂浜のある浦戸に移った。最初から「高知」があったのではない。

 紀貫之が土佐の国司に来たころは南国市に国府があったから政治の中心は香長平野にあったのだろうが、もう一つの中心が一条家が支配した幡多郡にあったことは歴史的事実である。

 歴史が面白いのは、地元にいくと教科書には書かれていない展開があるということである。幡多郡のキーワードは「波多国」と国造の「大韓襲命」に加えて、「高知坐神社」である。幡多郡に「高知」があった。「たかち」と読む。奈良の「高市」と通じるのだそうだ。

 さらに宿毛市のホームページに続きを読みたい。

 宿毛市平田町戸内にある高知坐神社の祭神は都味歯八重事代主命である。『土佐式社考』に「都味歯八重事代主神は大和国高市郡高市社の祭神であるからあるいは高知坐神は事代神主命であろう。高知・高市は相通ずる。......国造本紀には事代主命の9世の孫である小立足尼が都佐の国造となっているので、神名帳にある大和国高市郡波多神社もこれと同じであろう」とある。
 また、『中村市史』には次のように述べている。「幡多郡に高知坐神社があり、大和国高市郡には高市御県坐、鴨事代主神社がある。また、高市郡に波多郷があることからみると、土佐の高知坐神社も波多という国号も、ともに大和の名を移したものであろう。幡多郡には賀茂神社もあることから考えると、天韓襲命は事代主命の神裔で大和から移住せられたものかも知れない。
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 高知市を西に走り仁淀川を越えると日高村に入る。高知に帰ってからこの道を何遍も走っていて気になる存在があった。「土佐二の宮 小村神社」という大きな文字だった。

 紅葉を見に安居渓谷を訪ねた帰りにその小村神社を訪ねた。土佐一の宮は誰もが知っている土佐神社である。初詣でも高知県一番の賑わいとなる。土地の神社はその昔、国司制度が誕生したとき、国衙や国分寺などとともに格付けが行われたのだと信じている。

 その一宮が意外な場所にあることを知ることがある。大宮などという地名が残っている場所には必ずその国の一の宮が存在すると誰もが思う。さいたま市の氷川神社は武蔵国の一の宮ということになっているが、実は多摩市の小野神社が一の宮なのだという説もある。

 神戸の三宮はいまは神戸一の繁華街となっているが、実は一の宮から七の宮まであることは知られていない。

 小村神社は「こむら」ではなく「おむら」と呼ぶ。拝殿の前でうろうろしていると神官の装束の男性がやってきて「ご苦労様」と頭を下げた。

 すぐに質問を浴びせた。「なぜにこんな辺地に二の宮があるのか」「かつてはそれなりに重要な地ではなかったのか」。

 神官は吉田と名乗った。小村神社の由来を語り始めた。「小村神社は用明天皇2年(587年)の創建と伝えられています」「四国で二の宮があるのは土佐と讃岐だけです。伊予も阿波も一の宮しかありません」「二の宮があるのはそれなりに意味があるのです」「赴任した国司が着任を報告しにこの地にまで来たということです」「有力者がこの地にいたという証でしょう」

「ところでここに国宝の太刀があるのです。知っていますか」。二の宮だけで驚いていたのに国宝の太刀までがあるという。7世紀前半のもので鞘は金銅と板金でつくられたもので、祭神である国常立尊(くにのたちのみこと)のご神体となっている。

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 祭神が国常立尊というのも珍しいのだが、この太刀は「金銅荘環頭大刀拵・大刀身」と命名され、吉田さんが出雲を訪れたときにまったく同じ太刀があるのを発見したという。古墳時代の太刀は稲荷山古墳で出土した太刀が有名で、「獲加多支鹵大王」と銘記されて「雄略天皇」の名ではないかと大きな話題となった。日本でもそんなに多く伝えられてはいない。出雲の太刀は安来市で出土したものだが、ここ小村神社の太刀は1400年間、神社に伝えられた伝世品とされる。そんな由緒正しき太刀が人知れず小村神社に存在することが不思議だった。

 日高村のこのあたりは日下という地名である。飛鳥、長谷、春日など読み方の由来がなぞとされる地名の一つである。小村神社はその日下氏族が祀ったとされるが、そんな地名が土佐の片隅にあるのも不思議でいまだに解明されたふしはない。

 この神社本殿の裏手に大きな牡丹杉があり、樹齢1000年を超える。平成7年にその牡丹杉の根元を掘ったところ、弥生時代の銅鉾がみつかった。当時の祭祀の跡とされ、その地に育った牡丹杉が宝永2年の仁淀川の大氾濫、安政元年の大地震の前の晩など異変があるときに、梢に大きな霊火が懸かったとされ、村人から神木と崇められてきた。吉田さんによると、最近、風水師とか霊感を感じる人たちが多く訪ねるようになって、なにやらパワースポットの一つのようになってきたということだった。

  高知県西部の梼原町に1000年以上続くという津野山神楽が10月30日行われた。以前から一度見てみたいと思っていたのがようやく実現した。


 梼原町は竜馬脱藩の道があることから近年にわかに注目されている。またエネルギー自給を目指す特異な町としても知られる。太平洋岸の須崎市から約50キロ山に入る山間の町だが、どちらかといえば瀬戸内海の大洲市に近い。

 そんな山間の町で何回も御神楽が行われる。今回は町の北にある三島神社が会場。三島神社そのものが平安の初期にこの地に移ってきた津野経高によって伊予 国から勧請され、代々の神官によって継承されてきたのが津野山神楽。神社と一体となって歌い継がれ舞い継がれてきたといっていい。

 儀式は午後0時半に始った。神楽の物語は日本の神話に基づくもので、天岩戸から説き起こす。鬼が踊り、夜叉が舞う。リズムは太鼓と笛と鉦が繰り出す。想像以上にアップテンポで、阿波踊りに似た音律だ。どの舞も同じ音楽で、そのリズムと旋律が延々と続く。

 鬼が踊る「大蛮」では、ユーモラスな語りがあるだけでなく、乳児の息災を願い、赤ちゃんを鬼に抱いてもらう儀式がある。どの子も鬼が恐いのか泣きわめくが、大人たちは楽しそうに乳児の鳴き声に喚声を上げる。

 辺りが暗くなるまで太鼓とお囃子の音が鳴り響くが、本来、儀式は8時間以上も続くという。(伴 武澄)

 儀式は「宮入り」「幣舞」(へいまい)「手草」(たくさ)「天岩戸」「悪魔祓」「大蛮」「花米」「二天」「山探し」「弓舞い」「鬼神退治」「猿田彦」「長刀」「折敷」(おりしき)「妙見」「豊饒舞」「鯛つり」「四天」と続く。

DSC_0623700.jpg10月21日、雨天の中を高知から山を越えて旧土佐山村西川を訪ねた。自由民権時代の新聞記者、和田三郎の旧宅がある。市内からたった15キロしかないが まさに山村である。そこに自由民権結社「山嶽社」があった。土佐山村は多くの民権家を輩出したことで知られる。もともとは和田波治、千秋父子が始めた寺子 屋だった。門下生のの高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党が成立したころ、民権結社「山嶽社」に発展し。明治22年2月26 日に「山嶽倶楽部」と改めた。

  『土佐自由民権運動日録』や『土佐山村史』などによると、土佐山郷西川の桧山で「巻狩大懇親会」という催しが開かれ、県下の壮士約2000人がこの山 村に集まったというのだから驚きだ。7日後、今度は香美郡赤岡の海浜で、「旧海南自由党魚漁大懇親会」も開かれ、中江兆民らも参加している。海、山で自由 民権の大絵巻を繰り広げたのであるから痛快だ。

 高知の「立志社」は、2隊に分かれて山越えで野宿しながら会場へ到着したという。高張提灯や旗を掲げ、銃や槍、薙刀(なぎなた)、野太刀などを携え、ま た毛布や食料などを背負った集団が山を越える姿は異様に違いない。現在でも15キロの山道を2000人のデモ隊が越えるという光景は想像できない。

DSC_0617700.jpg なるほど植木枝盛が「自由は土佐の山間より発する」と言った意味が少し分かり始めた。 和田三郎(1872-1926)になぜ興味を持ったかというと、『萱野長知研究』に萱野の朋友として度々登場するからである。祖父や父の薫陶を受けたもの の、自由民権運動には遅れて出てきた人物で、アジア大陸で自由民権の流れをつくり、日本に逆輸入しようと考えた点では多くのアジア主義者と共通項を持つ。

 明治治5年6月22日生まれ。明治学院を卒業、,郷里高知県の土陽新聞の記者となる。明治39年、中国同盟会の発足を支援するため宮崎滔天(とうて ん)、平山周らと「革命評論」を創刊、大正4年、中華民国通信社を興して新聞「支那と日本」、「民報」を相次いで発刊、孫文らの中国革命運動を支援した。 宇田友猪(ともい)とともに板垣退助監修の「自由党史」を編修、43年刊行。大正15年11月1日死去。55歳。

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