インド独立の最近のブログ記事

2004年12月19日(日)萬晩報主宰 伴 武澄
  チャンドラ・ボースの遺骨返還運動を続けてきた林正夫さんから手紙が届き、高齢のため運動を担ってきた組織である「ズバス・チャンドラ・ボース・アカデ ミー」を解消したことを伝えてきた。8月18日の今年の慰霊祭には参加できなかったが、その場で林さんが参加者に伝えたということだ。

 インドで人民党のバジパイ政権が成立し、ボースの遺骨返還がようやく実現するかもしれないという期待があったが、政権の崩壊で元の木阿弥となった。林さんの落胆は大きいものだったに違いない。

 来年で終戦60年。ボースにとっても60年祭を迎える。インドの独立に日本が大きく関わっている事実は戦後、忘れ去られた。アカデミーは細々ではある が、ボースの遺骨返還運動を通じてその事実を伝えてきた数少ない団体である。

 アカデミー発足時はそうそうたるメンバーがインドと日本の架け橋となって活動した。そうしたメンバーのほとんどが亡くなった。林さんはその中でも数少ない存命者ということになる。

 大東亜戦争という希有な時代を語り継ぐことはとても難しい。歴史が勝者によって書かれるのは常だが、それがすべてでは負けた側は立つ瀬がない。チャンド ラ・ボースがインド独立に果たした役割はインドでは歴史の一部である。にもかかわらずその歴史が日本では語られない。

 いつまでも自虐的史観にばかりひたっていては国民の跳躍はない。萬晩報としてはボース・アカデミーの精神を引き継いでいきたいと思う。

 以下、林さんの手紙を紹介したい。


 謹啓。終戦後59回目に当たる8月18日、ネタージの慰霊祭には御多忙中にも拘わらず御参集を頂き有難う御座いました。厚くお礼申し上げます。

 此の度は、私の持病神経痛が7月始めから痛み始め、たいした事はないと思っているうち20日から急に悪くなって腹ばいで何とか頑張って来ましたが、歩く ことが出来ず、当日は立っていることも無理でしたが、責任を考え参加しました。

 お寺では痛みがひどく親切な人びとが助けて下さって有り難いと思い乍らも見苦しい恰好や年齢を考えると今後の活動に自信が持てず、先代御住職の時から合 意されていたアカデミーを解消して蓮光寺に一切を御願いしたら、現住職は前々から承知されていたことで納得して頂いたので、御出席お方々に解消を申し上げ ました。法要を済ませて帰宅したら痛みはひどくて寝込みましたが、色々と御高配を仰いだ今日までのことが浮かんで此のままでは心もとなく一日も早く元気を 取り戻し、蓮光寺にも足を運び、皆様方に拝眉出来る日を念願しています。敬具

        平成16年9月吉日
        スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー 林正夫
各位


 別紙:アカデミーが発足してからの概略

 アカデミーが発足したのは、昭和33年1月23日、ネタージの誕生日に日比谷の陶々亭に於いて、世話人として会長前大蔵大臣・渋沢敬三氏、最高顧問に元 ビルマ方面軍司令官陸軍大将・河辺正三氏、次に兵隊のお母さんとして慕われ別にインド兵の世話で真心の人、江守喜久子氏、と光機関の元陸軍少将・岩畔豪雄 氏を顧問に、ネタージと特に縁の深かった元陸軍中将・有末精三氏、ビルマ方面軍高級参謀・片倉衷氏、元駐ドイツ大使・陸軍中将・大島浩氏、当時現役の衆院 議員・高岡大輔氏、さらにビルマ方面軍大佐参謀・橋本洋氏を事務長に、別格に蓮光寺住職望月教栄師を主なるメンバーとして発足しました。

 終戦後からアカデミーとして発足するまでは個人個人での参詣でした。発足当日は、インド側から大使代理夫妻ほか情報班の方々、日本側から知名の方々が出席されとても盛大な式でありました。

 発足後、昭和38年10月、渋沢敬三会長の逝去により江守喜久子氏が二代目の会長に就任されてから精力的な活動に励んでおられた時、昭和40年、河辺最 高顧問の逝去、続いて橋本洋事務長の逝去により、林に事務長の話がありましたが、林は「まだ30歳を少し越したばかりの若輩ですから」とお断りしたが、 「タッテ」と言われて引き受けることになりました。

 昭和42年、当時の外務大臣・三木武夫氏と高岡大輔議員とは同期で昵懇と知って高岡氏の案内で江守喜久子会長のお供をして林も再三、外務省を訪れることになりました。

 昭和44年にはガンジー首相が蓮光寺を訪れます。

 昭和45年には江守喜久子会長はインド独立記念日を期してインドを訪問されます。

 同年末には岩畔副会長、逝去。

 昭和51年、蓮光寺にネタージの記念碑が完成。林はインドに行き、鉄道大臣のシャヌ・ワーズ・カーン将軍(元インド国民軍=INA第一連隊長)に面談したほか、サイガル夫妻や多数の旧INA兵等と会談。

 昭和52年、33回忌でインド大使夫妻、NHKより磯村尚徳氏出席。

 昭和53年、江守喜久子会長、逝去により、片倉衷氏が三代目の会長に就任。
 昭和54年、蓮光寺の望月住職、逝去。子息の康史氏、住職を引き継ぎ今日に至る。

 同年、ネタージの娘アニタ博士来日により日本クラブに歓迎する。其の節、約束したことが守れず失望する。さらにセシル・ボース博士(チャンドラ・ボースの甥)夫妻も来日されたので日本クラブで歓迎会を催す。

 昭和57年、藤原岩市氏、インドより帰国されて報告され、インドの外務大臣ラオ氏に嘆願書を提出するために打ち合わせを兼ねる。さらに日本の安倍晋太郎 外務大臣に面接して嘆願書提出のため、片倉会長のお供をして林も同行する。

 昭和58年、中曽根康弘総理が渡印するような情報により、自民党政調会長を会長室にて片倉衷会長、金富氏、林の3人で面談する。

 同年、林はインドに渡航して経済企画長官に就任したシャヌ・ワーズ・カーン将軍より、目下、大統領に返還の話を勧めているが、見通しが明るいので、帰国 したらアカデミーの方々に伝えてと頼まれ喜びは最高になる。帰国して報告すると一同、最高の歓喜に達するも12月、シャヌ・ワーズ・カーン将軍の死去の報 により見通しが全く暗くなる。

 昭和59年、総理執務室で中曽根康弘総理と片倉衷会長、金富氏、林の3人は面談する。特に林は重要な記事を簡単に書いて手渡す。帰路、外務省に行き南西アジア課に総理との会見の内容を伝える。

 インドから帰国されたが、鶴首して待った。返答が得られず官房長官室に藤波孝生官房長官と金富氏、林は会見。外務省中元課長が同席する。
 昭和61年、藤原岩市氏、逝去。此のころより片倉衷会長が病いがちで入退院が続くので毎年続けてきた1月23日のネタージ誕生日を止すことに決める。

 平成元年、松島和子女史より母堂江守喜久子会長のご遺志を継ぎ永代供養の申し入れを実行するため会合す。

 平成2年8月18日、45周忌に松島和子女史の寄贈によるネタージ胸像完成除幕式を行う。当日は、片倉会長、有末顧問ほか関係者100人以上集まる。イ ンドから招待したサイガル大佐と夫人のラクシミ元婦人部隊長、セシル・ボース博士、ロイ博士、マレーシアより元国会議員の女史も出席。INA現会長ほかも 出席。

 平成4年、有末精三顧問、逝去に続き、高岡大輔氏、逝去。

 平成5年春、アカデミーの今後の方針を協議する。主なる出席者は9名。

 同年10月21日、自由インド記念日(チャンドラ・ボースが1944年、昭南市に自由インド仮政府を樹立した日)に大使館より招待を受け、主なる出席者9名。

 平成7年、ラクシミ女史より紹介を受け、クラークと姪が来日。ほかインド歴史研究所長サリーン博士来日。蓮光寺に案内した後、根岸忠素氏、林両名、印度料理に招待。

 同年5月、プラデップ・ボース氏と新宿タカノにて林は会見して驚く。彼の父親が第一回死因調査団のボースの実兄と判り苦言を呈す。

 同年8月18日、50回忌慰霊祭にテレビ朝日、フジテレビ、共同テレビからも取材に訪れ、100名近い参列者で盛大な法要が出来た。

 平成7年、元婦人部隊長ラクシミ女史より、ネタージの愛娘アニタ博士より遺骨引取の熱意を伝えてくる。数日後、アニタ博士より遺骨引き取りに協力を頼む との手紙を受け取ったので私は、もちろん協力することを惜しまないが、インドの国内情勢によって決まることだからインド国内で努力するよう返事する。その 後、連絡はない。

 別紙としてここまで書いてきましたが、まだ痛みが続いて不自由なため無理な姿勢で少しずつ進めてきたが、大切な箇所を抜かしているのに気付きました。今更書き直す勇気もないので気付いたまま進めます。

 第一に、平成2年4月10日、海部首相のインド訪問に際しネタージの遺骨返還を要請した大切なことです。首相の帰国後、インドの外務省は「インド国内に 於いてネタージの死を否定する訴訟が行われており、其の裁判の結果が出たのち、遺骨返還を前向きに検討する」旨の返電が来ました。此の年の春、ちょうど林 が心臓手術で入院中で金富氏の力添えでインド政府に要請した重要なことでした。

 次は、昭和32年秋、ネール首相と娘のガンジー(後の首相)が蓮光寺を訪ねる。続いてプラサド大統領が33年春、蓮光寺を訪れる。その後、ネール首相をはじめ色々のことがありましたが、失望することが残ります。

 平成12年バジパイ首相に代わってから蓮光寺を訪れ、遺骨返還に本腰を入れて取り組み最後の死因調査団長に弁護士ムカールジ氏、ほか数名を日本の外務省 を通じて申し入れがあったので、光機関関係者数名と平成14年9月17日、インド死因調査団、蓮光寺住職を交えてインド大使館にも行く。調査団は18日最 後に九州に行き、ネタージの最期を見届け死亡診断書を書いた元陸軍軍医大尉、吉見胤義氏にも会って帰国した。

 吾々は結果を鶴首して待ちましたが、今度の総選挙で絶対多数のバジパイ率いる人民党が敗れて総ては終わりました。

 返還が実現したら、たとえどんなことが有っても覚悟の上で林はお供する決意を抱いていましたが、91歳の老齢の身は夢のまた夢としてあきらめます。

 アカデミー発足時の目的は、ネタージの高潔な人格を通じて日印両国の文化的精神的な交流を第一にネタージに縁故の有る人々の集まりでした。

1. ネタージの遺骨を印度に返還。
2. 8月18日のご命日には必ず法事を行う。
3. 1月23日はネタージを偲ぶ会を催すこと(最近は老人多く中止)。

 以上、痛みをこらえて書いたので不備の点はお許し下さい。終わり。
2001年08月27日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 チャンドラ・ボースの56回目の慰霊祭が8月18日、東京都杉並区の蓮光寺で行われた。今年は参拝者が例年になく多かった。特にインド人が多かった。理由はよく分からないが、若い女性ジャーナリストと京大のインド人留学生と親しくなった。

 このインド人青年は「本業は漁業だが、ボースの遺骨返還が来日の一番の目的だ」と言った。またこのジャーナリストによると、インドではボースの死をめぐる第3回目の政府調査団が結成され、ロンドンを皮切りに改めて調査が始まるのだとという。

 多くの日本人はボースは終戦の3日後、台北市の空港で航空機事故のために死去したものだと信じている。しかしインドでは死後55年を経た今でもボースの死は確定した史実ではない。

 インドの有力紙であるヒンドゥスタンタイムズ紙は、インターネット上で「チャンドラ・ボースの謎」(The enigma of Subhas Chandra bose)と題したボースの大特集を展開。この中でボースの死について読者から幅広く意見を募集し、驚いたことに「今の時点でボースが台北の航空機事故で 死去したと判断するのは正しいことではない」と結論付けた。

 ボースは1897年1月23日ベンガルに生まれたから、生きていれば104歳ということになる。この特集ではボースの生い立ちからインド国民会議派時代、欧州亡命時代、インド国民軍を率いて日本軍とビルマ国境で戦った時代をそれぞれ克明に解説している。

 しかしその死については「日本は航空機事故で嘘をついたのか」「英国では1946年になってもボースは死んでいなかった」「CIAが64年までボースの 跡を追った」「スターリンの庇護下にあったボース」など反論すべきレポートも数多く掲載。日本では知られていない8月18日以降のボースの「消息」につい ても詳しく伝えている。

 インドでのボース熱は完全に冷めてしまっているのかと思っていた筆者にとって、インドの有力紙がここまでボース熱を復活させる意図は何なのか興味があるところである。

 ●インド栄光の象徴と命名されたボースの軍刀

 ボース慰霊祭の後、帰宅してからいつもの年のようにボース関連の書籍を読み返した。インド国民軍の創設者の一人である故藤原岩一氏が最後にまとめた「留 魂録」(1986年、振学出版)という分厚い回顧録を拾い読みしながら、「ボースの軍刀返還物語」という興味ある文章に突き当たった。この物語を要約しし ながら今年もボースを回顧したい。

 ボースの遺刀が東京銀座の東洋美術館社に持ち込まれたのは、死後22年も経った1966年の秋だった。持ち込まれた経緯については一切触れていないが、 この軍刀はボースがインド国民軍の総帥に推され、自由インド仮政府の主席に就任、米英に対して宣戦布告をしたことに感動した福岡市の刀匠磯野七平氏がイン ド独立を祈念してしつらえたものだった。

 ボースの遺品の出現を知った当時の駐日インド大使は喜び早速本国に照会し、ガンジー首相は直ちにインド政府としてカルカッタのネタージ記念館へ永久保存 することを決めた。翌67年2月17日、駐日インド大使館で行われた軍刀返還式はマスコミを通じてインドはもとよりマレーシアなど東南アジアでも大々的に 報道されたという。

 ネタージ記念館への奉納式典は3月19日に行われたが、式典に日本を代表して参加した藤原岩一氏は国賓待遇でカルカッタに迎えられた。会場にはベンガル 州総督以下千数百人が埋め尽くし、ナイデュ総督は「日本がインド独立獲得の闘争過程において与えてくれた偉大なる貢献と賜物に対するわれわれの深甚なる感 謝を日本国民に伝えてほしい」と挨拶。周辺の道路やビル屋上には一般市民が溢れ、「ジンダバー、ネタージ」(ネタージ万歳)を絶叫したという。

 この軍刀ははさらにその年の12月17日、デリーで大統領、ガンジー首相以下インド政府の全閣僚、全国会議員に迎えられ、ボースが「チェロ・デリー」の 雄叫びとともにインド解放の最終目標としたレッド・フォートに入城し、ボースに代わって最高の栄誉を勝ち取った。ボースの軍刀はこの日「インド栄光の象 徴」と命名され、「日印友好の象徴」としてネタージ記念館にいまも保存される。

 いまもなおインドを熱狂させるボースの存在について改めて考えさせられる日々だ。

 HindustanTimesのThe enigma of Subhas Chandra Base
 http://www.hindustantimes.com/nonfram/netaji/netaji.asp

2000年10月02日(月)
萬晩報主宰 伴 武澄


 1945年、第二次大戦が終了し、アジアで二つの大きな軍事裁判が始まった。東京裁判とデリーのインド国民軍裁判である。日本が関わった「大東亜戦争」 の評価をめぐりこの二つの軍事裁判ではまったく違う論陣が張られていた。東京裁判の法廷では連合国が日本を「侵略者」として裁き、デリーの軍事法廷ではイ ギリスがインド国民軍将兵を「反逆者」として裁こうとした。

 裁判の結果、前者では日本が「悪者」として断罪され、後者では国民軍が「愛国者」として英雄視された。大東亜戦争の最中、ともにインパール作戦を戦った間柄である。

  ●諸君は独立を欲するか、生命を欲するか

 日本の無条件降伏とチャンドラ・ボースの死によって、3年半のインド国民軍(INA)による祖国の武力解放の夢ははかなく崩れたかのようにみえた。しかし、インドの民衆はボースの努力を無駄にはしなかった。

 戦争が終った後イギリスが着手した仕事はINA2万人の将兵の処理だった。イギリスはこれら将兵を「イギリス国王への反逆」とみて軍事法廷にかけ、イン ド帝国に権威を誇示しようとした。インドの民衆、特に英印軍、つまりイギリス軍内のインド人兵士に対するみせしめとし、インド支配を揺るぎないものにする 必要があった。

 1945年11月5日、インド国民軍第一回裁判はデリーのレッド・フォートで開かれた。レッド・フォートはかつてのムガール王朝の王城で当時はイギリス のインド支配の牙城だった。チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が「チェロ・デリー」と進軍を夢みたインド解放の象徴でもあった。

 このレッド・フォートに関してネルーは「この裁判の行われた場所として、デリーの『赤い城』ほど格好な場所はないだろう。88年前、ここで一つの裁判が あり、偉大な王朝の最後の人を裁いた。1945年の最後の週に行われた第二の裁判は次の章の終末をもたらすであろうか。しかり、その章はまさに終わらんと する前兆である」と象徴的な言い方をしている。

 英印軍の立場からするとINAに関係したものはすべて、反逆罪の対象で法的には死刑に処すべきだった。しかし、2万人もの将兵を裁くことは事実上不可能 であり、インド民衆に与える影響も大き過ぎた。そこですべての将兵について尋問調査し、「戦闘、あるいはそれ以外でもイギリス人や連合国の人員を殺害する 主役を演じたものと残酷に扱ったもの」に限って裁くこととなった。

 その結果、第一回裁判ではシャヌワーズ大尉(INAでは大佐)、サイガル大尉(同中佐)、ディロン中尉(同中佐)の3人を訴追することが決まった。罪状 は「マレイ、ビルマで、1942年9月から45年4月までの間、イギリス国王に対して戦争をしたのはインド刑法第121条違反に当たり、その間の殺人と殺 人教唆はインド刑法第109条、302条による」というものだった。

 一方、インド国民会議派は9月14日の運用委員会(プーナ)で、「インド国民軍将兵は祖国インド独立のために戦った愛国者であり、即時釈放されるべき」 と決議、INA将兵救援のためのインド国民軍弁護委員会を結成した。弁護団はインド法曹界の長老デサイ博士を首席に、ネルーら会議派のそうそうたるメン バーで編成された。1939年の会議派トリポリ大会以来、ボースと反対の立場をとっていたネルーは20年ぶりに法衣をまとっただけでない。ついに「国民軍 将兵は愛国者である」とボースの作った軍事革命集団であるINA擁護の立場に立ったのだった。

 そして10月19日、ネルーはレッド・フォートにシャヌワーズら被告を訪ね、「もし、諸君が命が助かりたいのなら、その方法がないわけでない。しかし、 万一諸君の生命が助かってもインドはなんら得るところはない。だが、もし、諸君が生命を捨ててくれるなら、インドは諸君の尊い犠牲によって得るところは大 きく、独立は促進されるだろう。諸君は独立を欲するか、生命を欲するか」と彼らにインド独立の犠牲になることを要求した。

 シャヌワーズらは「我々の生命は国民軍に参加したその日からインドに捧げられたものだ」と答えた。

 同席したデサイ博士は「諸君の生命も重大だが、いま我々が一番しなくてはならないのは諸君らの指導者ネタージの名誉を救い、諸君の軍隊であるインド国民軍の栄誉を守ることなのだ」と勇気付けた。

 ●隷属民族は闘う権利がある

 11月5日からの裁判の最大の焦点はインド国民軍が自由かつ完全独立した軍隊だったか、という点だった。会議派は日本の援助を受けた同盟軍として弁護したが、イギリス側は日本軍のかいらいであると、決めつけた。

 インド側の要請により、日本から沢田廉三元外務次官、松本俊一外務次官、大田三郎外務省参事官、元ビルマ方面軍参謀の片倉少将、F機関の藤原中佐らが証人として喚問されることになった。

 藤原中佐らは証人喚問では「INAの反逆罪は免れようがなく、刑の軽減のため証言を求められるだろう」と考え、今大戦のINA将兵の行為はすべて日本軍の命令で行われたものと証言することで口車を会わせることにした。

 しかし、インドへ来てみると情勢は日本で考えていたのとは全く逆だった。シャヌワーズ被告らの決意は固く、インド国民会議派もこの機会を利用して反英闘争を開始しようとしていた。

 INA将兵の収容所内では、ネタージことチャンドラ・ボースから授かった軍服を愛着し、誰もがビルマ戦線で使っていた「ジャイ・ヒンド(インド万歳)」と挨拶し合っていた。また、当局の制止を拒否して毎朝INA軍歌を合唱、法廷でも栄光ある国民軍階級章を離さなかった。

 藤原中佐によると、日本人は収容所に入れられたものの、看守やインド兵も好意的で、見ず知らずのインド人から多くの差し入れまであり、ネタージのことを知っているだけで尊敬されるという有り様だったという。

 軍事法廷は12月31日まで続いた。弁護側はまず、裁判の非合法を主張した。被告らの行為は、自由インド仮政府の軍人として実行したものであることと、 この仮政府とインド国民軍は独立した団体で日本の支配下にあったのではないと主張。この二点からインド国内法の適用は受けないことを強調した。

 確かに、自由インド仮政府の樹立に当たって、チャンドラ・ボースが最も苦慮したのは、いかにして仮政府を国際法上、独立かつ完全な人格として整合性を持 たせるかにあった。弁護側は、自由インド仮政府は日本政府の承認だけでなく、諸外国からも承認されており、日本政府からはニコバル・アンダマン諸島の割譲 も受け、事実上、国際法上の交戦権を持つ団体である、と主張。その独立と同時にINA所属将兵は英皇帝に対する忠誠義務が解かれるため、反逆罪も成立しな い、と結論した。

 仮政府の独立性については、いったんラングーンの仮政府に派遣された蜂谷公使が、「ボースの要請で改めて信任状を持って派遣された」とする沢田元外務次官の証言が有力な証拠となった。

 また、インド国民軍の独立性に関しては片倉少将が「インド独立運動は当初からチャンドラ・ボースの純然とした自主性から生まれた。インド国民軍はボース の完全指揮下にあり、インド解放のために武力闘争に出たのもボースの意志だった。日本は大東亜民族解放政策の一環からこれを支援した。

 したがってインパール作戦も日本軍の立場はビルマ防衛策だったが、ボースはこれをインド解放闘争に利用したもので、形の上では一緒に戦ったが、互いに別 個の作戦だった。その証拠に日本はインパール統治の意志はなく、占領後の統治はボースがビルマ方面軍との協定のもとに独自に計画した。その他、指揮権、軍 の編成、軍法会議にいたるまでINAは日本軍からの独立性を明確にしていた。この点で、満州国軍やビルマ国防軍とは大きな違いがある」などと証言した。

 シャヌワーズ被告らもインド国民軍や自由インド仮政府の独立性を主張、最後にデサイ博士が、1775年の米国独立戦争の例を引き「植民地の人民は搾取す る本国に対して独立自由を獲得すべき天与の権利を有し、英皇帝に対する忠誠より自らの国家に対する忠誠が優先する。日本とインド国民軍との共同作戦は今大 戦でイギリス軍の一部が米国のアイゼンハワー将軍の指揮下に置かれたのと同じこと」「隷属民族は闘う権利がある」と締めくくった。

 ●インド民衆の決起

 インド国民軍裁判はイギリスにとって大きな誤算だった。民衆のイギリスに対する怒りは逆に爆発、裁判の進展とともに国民軍は国民的英雄に祭り上げられて いった。この反英気運は信仰や民族、階級と言語、政党や党派を越えた大きなうねりとなった。INA自体がそうしたインドが持つ幾多の矛盾を乗り越えて独立 のため結集した集団だったからでもあった。

 インド議会では、国民会議派が連日、INA裁判の不当性や大衆のデモに対する不当弾圧を糾弾し、ヒンズスタン・タイムズやドン、ステーツマンなど有力マスコミもINA裁判批判の記事やインバール作戦でのINAの武勲話で紙面を埋めつくしたという。

 民衆は街頭に出てイギリスの支配に抗議するデモ行進展開、インド各地で暴動を誘発した。裁判が開始した11月5日の翌日、植民地政府は「監禁中のINA 将兵の中から首謀者400人を向こう6カ月の間に裁判にかける」と発表したことが民衆の怒りに火を注ぐ結果となったのだった。11月21日から26日にか けてのカルカッタのデモはゼネストにまで発展、全市がマヒ状態に陥り、火の手はデリーやボンベイなど主要都市にも広がった。

 藤原中佐は後にこの暴動をレッド・フォートの収容所内からも感じ取ることができたと自著「F機関」に記している。「レッド・フォートを囲んだ暴徒の歓声 が一段と高まり、近付いたかと思うと銃声が城内にこだまし、しばらくすると暴徒の声は怒号に変わった。キャンプのボーイが『死者何人。負傷者何人。郵便局 が焼かれた。警察署が燃えている』など状況を逐一報告してくれ、我々は固唾を飲んで成り行きをみていた」と述べている。

 12月31日、シャヌワーズ被告らに無期懲役が宣告された。イギリスは判決に対するインド民衆の怒りを恐れ、判決の公表をさけ、翌年1月3日被告3人を軍職解雇とし、釈放した。刑の執行無期延期措置を採ったわけで、事実上の無罪放免だった。

 朗報はまたたくまにインド全域に広まり、民衆の歓喜を呼び覚ました。各地で盛大に祝賀会が開かれ、カルカッタでは1月23日にチャンドラ・ボースの誕生日は町を挙げた祝典となった。

 INA裁判はこれで終わったわけではなく、その他のINA将兵の対する公判はまだ続いていたが、2月に入ると今度はボンベイのインド海軍が反乱を起こし た。INA裁判に抗議するとともに、食料や給料の改善を要求、将兵は20隻の艦船を占拠。彼らはINAのスローガンを叫び、イギリス人を襲撃した。この騒 動は海軍だけでなく、英印軍全体に波及した。

 軍隊内にまでINA裁判の影響が及んだことを重視したイギリスは、直ちにINA裁判の中止を宣言、INA将兵全員を釈放した。イギリスの敗北は近付きつつあった。イギリスにとってこれ以上のインド領有はいたずらにイギリスの経済的、軍事的消耗を強いるだけだった。

 一年後の1947年イギリスはインドへの権力委譲の準備を終えた。インドは独立した。歴史に「もし」は許されないが、ボースが生きてインドに帰っていた ら、裁判を取り巻く情勢はもっともっと激しいものだったことは想像に難くない。INAは戦場から同胞を蜂起させることはできなかったが、法廷から見事にそ の使命を果たしたのであった。

 インド独立に果たした日本の役割は決して小さくない。インド人たちが知っている常識ををわれわれはもう少し知っておく必要があるのではないだろうか。


 参考:
 2000年08月08日 日本の中にあったインド独立の原点 伴 武澄
 ネタジと日本人 レッド・フォートの暁 片倉衷
 Mikiko Talks on Malaysia マラッカで出会った「日本占領」に関する資料
2000年08月08日(火)
萬晩報主宰 伴 武澄


 インド独立の原点が日本にあるといったら驚く人が多いに違いない。インド独立の闘士はガンディーでありネ ルーだった。ネルーは戦後インドの首相になって日本にもやってきて親日家だと思っている人が多いが、戦争中は二人とも反ファシズムを宣言して、イギリスと ともに連合国側にあった。このことに間違いはない。

 だがもう一人、インド独立史に名を遺した志士がいた。スバス・チャンドラ・ボース。この名前を記憶にとどめている人は相当のインド通である。

 ●宗主国と戦わなかった植民地インド

 植民地支配にあったインドのガンジーやネルーが宗主国と戦わず、宗主国の戦争を支援していたのだから不思議だが、チャンドラ・ボースは戦争中にシンガポールでインド国民軍の総帥となり、イギリスに宣戦布告した。いわば枢軸側に立った人物である。

 戦後、イギリスは宗主国に牙を剥いたこのインド国 民軍を戦争裁判にかけ、植民地支配の威信を取り戻そうとした。だがことは単純に終わらなかった。チャンドラ・ボースはインド国民会議派とたもとを分かち、 日本軍とともにインパールで敗退。終戦の3日後、台北の松山空港で乗っていた飛行機が墜落して非業の死を遂げる。戦争が終わってみると彼が育てたインド国 民軍が一夜にしてインド解放の象徴的存在に変わっていた。

 イギリスによる報復は裏目に出た。インド国民会議 派は裁判に弁護士団を送り込み、労働組合はゼネストに入った。大英帝国の番犬と揶揄された英印軍までもがイギリスに砲弾を向けた。この結果、裁判の進展と ともにインド全土が騒乱状態となり、イギリスがインド支配を諦める引き金になったというのが歴史の真相である。

 しかし歴史はまた予想外の展開となる。1947年、インドが独立を達成すると、ボースは日本に協力したとして戦後のインド独立史から名前が抹殺されかけるのである。

 25年ほど前、チャンドラ・ボースの肖像画がニューデリーにあるインド国会に掲げられ、市内には「チェロ・デリー」の掛け声も勇ましい軍服姿の銅像まで建てられた。ガンディー、ネルーに次いで3人目の国父としてボースはようやくインド正史にその名をとどめることになる。

 ●一時期、東京はアジア革命の拠点だった

 ボースといえば日本では「中村屋のボース」(ラス・ベハリ・ボース)が有名だが、チャンドラ・ボースはこのボースとは別人である。ラス・ベハリ・ボースもまたインド有数の革命家だったが、第一次大戦の時、イギリス人のインド総督暗殺に失敗して日本に亡命した。

 明治後期から大正時代にかけて実に多くのアジアの革命家が日本を頼り、日本を訪れている。西欧による世界分割が最終段階に入り、その歯牙から唯一まぬがれたのが日本だった。このことは国民として誇りに思っていい。日本は最初からアジアを侵略したのではない。

 日本は西欧列強との対峙の中でアジアの利権の分け前にあずかり、結果としてアジアに覇権を求めるようになるのも事実だが、孫文の中国革命の一大拠点は東京だったし、1925年、北京で客死するまで孫文は日本と中国との連携を模索し続けた。これも歴史的事実である。

 ●ネタジーとマハトマ

 スバス・チャンドラ・ボースはベンガル生まれの熱 血漢である。すでに述べたが、第二次大戦中にインド国民軍を率いて日本軍とともにインパールに軍を進めたが、終戦直後に台北の空港で飛行機事故に遭い、非 業の死を遂げた。日本では信じ難いことだが、カルカッタではボースに対してほとんど信仰に近いものがある。

 インドではボースの名は多くあるため、スバス・チャンドラ。ボースは「ネタジ」(総帥)の名で呼ばれる。

 インド独立の志士たちを明治維新の日本にたとえると、ガンディーは精神的柱としての西郷隆盛、ネルーは維新後のの基礎をつくった実務派の大久保利通に似せられるかもしれない。そうなるとボースはさしずめ坂本竜馬のような存在といっていいかもしれない。

 ボースについては追々書いていきたいと思うが、ガンディーがマハトマ(魂)と呼ばれ、ボースがネタジと称されるわけはそんなところにあるのかもしれない。

 登山家の川喜多二郎氏がかつてヒマラヤ遠征をした折、ネパールで大歓迎を受けたことがある。その地を治めていた知事がインド国民軍の将校だったことを知るが、インドと日本がともに大英帝国と戦った国同士だったことを強調され、困惑したことを自著に書き記してある。

 中国や韓国と違って、インド人の国民感情が日本に対して概して好意的なのは第二次大戦の最中に起きたインド人と日本との間の数々のドラマのおかげだということを知らずにいると恥をかくことになる。

 ●杉並区に眠り続けるボースの遺骨

 筆者がボースの名を知ったのは高校時代、藤原岩市 氏の著書「F機関」を読んでからである。また大学時代、その藤原岩市氏から通訳のアルバイトが舞い込むという偶然にも恵まれた。おかげでインド・インパー ル州からの訪日団の世話をすることになり、インドでのボースの評価を聞かされることになった。

 そんなことが縁で、第二次大戦中にボースの周辺で世話をした日本人将兵の方々とも知り合うこととなった。

 ボースの遺骨は杉並区和田の蓮光寺というところに ある。仮安置だったはずなのに、なぜか50年をすぎてもそのままである。生前にボースと関係のあった人々たちでつくる「スバス・チャンドラ・ボース・アカ デミー」が毎年、8月18日の命日に慰霊祭を続けてきた。蓮光寺の住職も代替わりし、アカデミーの人たちもみな高齢ですでに他界した人も少なくない。

 アカデミーの最大の目的はボースの遺骨を無事、インドに返還することである。50年以上にわたり、外務省やインド政府に働きかけ続けている。

 蓮光寺にはネルー首相、ガンディー首相らを含め多くの閣僚が参拝している。インド大使が着任したときはまっさきにボースの遺骨を慰めるのが恒例となっている。にもかかわらずボースの遺骨返還はいまだに実現していない。

 インド国民軍の参謀長だったシャヌワーズ・カーン氏(故人)が「ボースの遺骨は軍艦を派遣して必ず迎えに来る」と約束した時期から40年を経た。事務局長の林正夫さんは「自分たちの世代にできなければどうなるのか」と将来を危惧している。

 そんなスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの人々に代わって、ボースと日本の関わりを月に1、2度の頻度で書いていきたい。


1999年08月19日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 きょうは故江守喜久子さんのことを書きたい。亡くなってから21年も経っているが、日本とインドをつなぐ 架け橋を担った人だった。戦前から表参道に住んでいた。表参道といっても当時は、ファッションの町ではない。青山に陸軍の練兵場があったぐらいだから、牧 歌的な土地柄だったはずだ。

 1943年、インドのチャンドラ・ボースがシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、インド国民軍の訓練を開始した。将来の幹部候補生として45人のインド青年が陸軍士官学校と陸軍航空士官学校に送り込まれた。

 45人のインド人留学生にとって、1945年8月15日の日本の敗戦は大きな戸惑いだった。目標を失っただけではない。3日後の8月18日には尊敬してやまないチャンドラボースの訃報も重なった。全員が死刑になるという風説も広がった。

 自由インド仮政府は連合国側に正式に宣戦布告をしていた。日本は無条件降伏しても自由インド仮政府はまだ降伏していなかった。「敵国」の日本占領が始まると、45人のインド人留学生は微妙な立場に立たされた。

 出身母体の自由インド仮政府の屋台骨が揺らぎ、頼っていた日本という国も当事者能力を失っていた。その時、留学生の生活の面倒を見、心の支えとなったのが江守喜久子さんだった。

 江守さんとインド人留学生との交流は、敗戦の前の年に「陸軍の偉い人がきて、インドから来た青年たちに紅茶をごちそうしてやってくれ」と頼まれたのが縁だった。

 スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー(事務局長・林正夫氏)が刊行した「ネタジと日本人」に手記を寄 せた江守喜久子さんは「彼らは何れも印度の独立と祖国愛に燃えていたのですが、日本の敗戦とともに、その夢も破れ、連合軍の日本占領によって罪もないこれ らの留学生たちが銃殺刑に処せられるという噂が拡がりました」と書いた。

 江守さんは茫然自失する敗戦間もない日本にあって、インド人留学生の嘆願運動に奔走するかたわら、彼らを 家の近くのアパートに収容して世話をした。当時の食料事情からすれば、自分の家族が生きることすら困難だった。そんな時代に16歳から23歳の異国の青年 たちに食べさせることは並大抵ではなかったはずだ。

 やがてインド人留学生たちが帰国する日が来た。11月3日である。帰国といってもインド国民軍の幹部候補 生である。戦争捕虜並みの扱いで、まずマニラに移送されて、イギリス軍に引き渡され、その後は香港のスタンレー刑務所に収容され、年が開けた1946年1 月さらにインドのマドラスの収容所に転送され、2月に晴れて開放された。

 彼らが日本を離れるにあたって江守さんの懇願したのはチャンドラ・ボースの遺骨の供養だった。

「おばさん、ネタージは僕たちの希望と光でした。どかネタージの供養をつづけてやって下さい。おねがいです」

 ネタージというのは「指導者」とかいう意味であり、チャンドラ・ボースへの尊称である。ちなみにマハト マ・ガンディーの「マハトマ」は「偉大な魂」という意味。インド独立運動でこのような尊称が与えられたのはボースとガンディーだけだ。いまでもインドでは ネタージといえば、チャンドラ・ボースのことである。

 以来、ボースの慰霊祭は毎年、遺骨が眠る杉並区の蓮光寺で営々と続いている。江守喜久子さん亡き後は娘さんの松島和子さんが母親に代わって日本とインドとの架け橋役を担っている。

 ボースの遺骨返還運動はスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーの手で細々と続いている。しかし関係者は すべて高齢である。事務局長の林正夫さんは86歳である。筆者は先人たちが築いた日本とインドとの信頼関係をこのまま風化させてはならないと考えている。 なんとか次の世代が引き継がなければならない。

 きのうはスバス・チャンドラ・ボースの45回目の命日だった。蓮光寺でネタージの慰霊祭があり、80人ほどの参拝者があり、中には駐日インド大使の顔もあった。

 「昨年はネタージ生誕100周年でニューデリーの国会議事堂でネタージの銅像の除幕式がありました。しか しインドではまだ、ネタージが死んでいないという伝説もあり、遺骨を迎える雰囲気ではありません。時が熟するまで慰霊祭を続けていただけるようお願いしま す」と挨拶した。


1998年08月26日 新宿・中村屋がかくまったもう一人のボース 伴 武澄
1998年08月15日 スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還 林 正夫
1998年8月15日Subhas Chandra Bose Academy事務長 林 正夫


 以下は4年前、Subhas Chandra Bose Academy事務長の林 正夫氏から4年前に預かった貴重な手記である。ボースの遺骨を50年以上にわたり守ってきた老人のインドに対する思いを込めた手記である。なぜインド人は インド独立の獅子の遺骨を引き取らないのか。悲痛な手記である。できればインド人にこの手記を読んでほしい。


 印度独立運動の志士、スバス・チャンドラ・ボースが昭和20年8月18日、台北松山飛行場に於て不慮の事故死を遂げてから、今年は仏事で50回忌を迎えることになる。

 印度独立の待望のためには世界の大勢と印度の立場からガンヂー、ネルーとも離れ、断食によって仮出獄をして遂に印度からベルリンへの決死的脱出を決行 し、日本軍のシンガポール占領にともない、印度洋上独逸潜水艦より日本の潜水艦へ劇的な移乗を決行してまで、日本を信じて日本と共に戦い、しかも悲運な戦 局に至るも、最後まで信念を変えることなく逝ったボースの遺骨が、今もなお母国に還ることもならず異国に在ることは、ボースを知る者の一人としてもどかし さを感じてならない。

 「ネタージ」(インド語で指導者)の遺骨は遭難後荼毘に付され9月東京に送られた。遺骨を渡された印度独立連盟のラマ・ムルティとアイヤー両氏はお寺に 預かって貰うことにしてお寺を探したが,終戦直後の不安な世相ではどのお寺からも拒絶された。途方に暮れている時、蓮光寺の先代住職の快諾を得て安堵の胸 をなで下し、預けたまま今日に至っている。以来、蓮光寺では8月18日の命日には毎年慰霊祭が継続されて来た。

 昭和25五年サンフランシスコ平和条約の頃になると、印度大使館よりチエトル氏、外務省からは儀典課長田村幸久氏が来寺し、引き続き5月頃にはボンベイ から情報官のアイヤー氏、さらに印度大使館よりチエトル氏、改めてラウル大使も来寺するやら、印度側の関心が深くなって来たことを感じてくる。

 昭和28年11月先代住職はネール首相に大使、遺骨の処置について問い合わせの手紙を出したところ、翌29年1月ネール首相の代理として大使館より2名の使者が来て『遺骨は大切に預かって今後も大切に回向してくれる様に』との返事が有ったことを伝えた。

 昭和31年5月、第1回死因調査団が来日した。団長がシャヌワーズ・カーン将軍であることを知り最高に嬉しかった。私がマレーからラングーン、さらにイ ンパール戦線、イワラジ戦線と常に行動をともにした信頼する将軍である。帝国ホテルで顔を見合わせた時、お互いに無事であることを喜び、堅く手を握り合っ た感激は忘れることは出来ない。

 そして苦心の末、歓迎会を日石の南元荘で催すことにした。出席者はシャヌワーズ団長、ネタージの実兄サラット・ボース氏、アンダマン・ニコバルの司政官 マリク氏の三名。日本側から河辺正三氏、桜井徳太郎氏、光機関長だった磯田三郎氏それに金子昇、遠藤庄作、林の元機関員、日石から福島、山崎の両氏で岩畔 豪雄氏は都合が悪くて欠席された。暫し話がはずんだ後で愈々遺骨の話になった時、シャヌワーズさんは『遺骨は飛行機か巡洋艦で迎えに来たい』と打ち明けら れ、吾々は喜び合ったことを忘れることは出来ない。

 しかしその後、調査団の帰国を羽田空港に見送りに行った時、岩畔さんと私に向かってサラット・ボース氏が『ネタージは死んでいない』と言いだしたのに唖 然とするばかりであった。怒ったシャヌワーズさんとマリク氏は別れを告げて先に階段を降りていったが、サラット・ボース氏は出発時間ギリギリまで『ネター ジは死んでいない』と言い張っていた。

 この時の『ネタージは死んでいない』との発言の真意は、肉親の情や複雑な印度国内事情を反映したものと思われるが、この時の調査団の不一致がその後第2第三の調査団の派遣を繰り返すことになり、現在に至るも解決出来ない要因であろう。

 この第1回調査団の結果は、10月になって外務省より報告書が来た。

 要約すると『委員会は本事件に関する殆どすべてを網羅しているので承認されるべきである。要するにボース氏は台北で飛行機事故のため不慮の死を遂げ、現 在東京都蓮光寺にある遺骨は、同氏の遺骨であると認められる。そのボース氏の遺骨を将来インドに持ち帰り、適当の地に記念塔を建立する必要がある。ここに 永年にわたり大いなる崇敬の念をもって遺骨の保護に当たってこられた蓮光寺住職に対し深甚なる謝意を表したい』と。

 この外務省からの報告書によって印度側では死因を認め遺骨を引き取ることを認めていることが判るのにその後の経緯は殆ど進展しないのは不可解である。

 昭和32年10月には、ネール首相は愛娘インデラ・ガンヂーを連れて蓮光寺にお参りして署名もしている。翌33年10月にはブラサド大統領もお参りして署名している。

 昭和33年1月23日、ネタージの誕生日を記念してスバス・チャンドラ・ボース・アカデミーは発足した。そして遺骨を一日も早く母国に返還することに力 を注いだのも虚しく歳月の経過はこの間に初代の渋沢敬三会長に続いて、昭和40年には河辺最高顧問のご逝去、更に橋本事務長の逝去と悲報は続く。

 二代会長に就任された江守喜久子女史は熱心に運動を進めるため、高岡大輔氏の協力を得て、昭和42年12月、江守会長と高岡氏、林の3人が三木武夫外相 (当時)を外務省に訪ね、協力を懇願した。これが縁となり、外務省南西アジア課長にも再三懇願することになる。その後、江守会長は印度独立記念日にイン ド、カルカッタのチャンドラ・ボース・アカデミーより特別に招待を受けて印度を訪問した。

 旧INAの幹候たちと会見して遺骨返還を細部にわたり話し合ってきた。一方、藤原岩市氏は印度に於いて遺骨返還のため遂に当時のラオ外務大臣に直接話しを進めていることを知り、解決近しと喜ぶもその後の情勢は遅々として進展なし。

 昭和50年になると林も印度に渡り、経済企画長官に就任したシャヌワーズさんを訪ねて印度の状況を聞く。情勢は変わらねど将軍の情熱は決して変わらない ことを知り安堵して帰る。こうした状況下に歳月は過ぎてゆく。昭和53年33回忌に江守会長の病いは重く入院されて間もなく還らぬ人となり悲しみは深くな る。

 第三代に就任された片倉会長は年齢的なことを考慮して金富与志二氏の尽力により、藤尾政調会長を動かし、安倍外務大臣に片倉会長が面接する機会に恵まれ た。翌年の四月には中曾根総理の印度訪問が決定したことで、藤尾政調会長の斡旋により、高倉会長、金富、林の三人は総理の執務室で経過を説明し返還の実現 を頼み込んだ。

 同時に外務省南西アジア課長川村氏や鈴木茂伸氏にも再三請願するも空しく終わる。前年林が印度に渡航した際、シュヌワーズさんから『目下、大統領に話を 進めているので今度は実現できると思うから、日本の方々にこの話を伝えて欲しい』と聞いた私は飛び上がる程喜び勇んだ。帰国早々、会長や会員の方々に伝え て吉報を鶴首している折り、シャヌワーズさんの死亡を知らせてくる。私の落胆はどん底になっていく。

 年は移り、平成2年の春、林は心臓手術で入院中、金富さんの力添えで海部首相の訪印に際し遺骨返還を印度政府に要請することが出来たのは何よりであった。

 同年8月、45回忌を迎えるに当たり、故江守喜久子会長の次女の松島和子さんから永代供養の申し出があった。この機会に記念事業として蓮光寺境内にネ タージの胸像を建立し、『ネタージと日本人』の本も出版することが出来た。更に印度からネタージと関係の深かった9名を招待することが出来て予想以上の盛 大な行事であった。

 この45回忌と同じくして先に海部総理に請願した返電が印度政府から外務省宛に届いた。『印度国内に於いてネタージの死を否定する訴訟が行われており、 その裁判の結果が出たのち遺骨返還を前向きに検討する』。吾々は公式の返事であるからこの返電を大切に拝受することにした。

 その後の経過は、片倉会長のご逝去、続いて高岡大輔氏も亡くなり、間もなく有末精三氏にも別れ、悲しみは続いて平成6年に移る。そして春が来たら印度から思いもよらぬ人が来た。一人はネタージの妹の息子のアシス・レイさん。もう一人はプラデップ・ボースさんである。

 レイさんとは会えなかったが、プラデップさんに会って驚いた。40年前第1回の調査団で『ネタージは死んでいない』と言い続けたサラット・ボース氏の息 子である。私は『貴君の父が反対したため半世紀になっても未だ解決出来ないのだから、君が解決する様に努力してくれ』と頼んだ。まだ色々と話をしたかった が、彼は『朝日新聞と会う時間が来た。いずれ手紙も出すから』と別れたまま、未だに何の連絡もない。

 そして今年の50回忌の打合せで蓮光寺に行き住職に会ったら『アシス・レイという人が大使館から通訳が来て「遺骨が真物か偽物か調べたい。出来れば顕微 鏡で確認したい」と言った』ので、住職は『日本政府と印度政府の許可がないと駄目だ』と返答したことを聞いて私は腹が立った。

 そして若し顕微鏡まで持ってきて確認せねば信用出来ないというのであれば持っていってくれなくても良い、日本人が今日まで大切にしていた真心を何と心得るのだと言う私の言葉に住職も同意してくれた。

 要するに遺骨の返還が半世紀を経て未だに解決出来ぬ原因の一つは第1回の調査団の時のサラット・ボース氏が『死んでいない』と反対したことである。

 第二はネール首相が政敵であったネタージに対して多少憎しみがあったことで遅れたと思っている。日本軍がビルマに進駐したとき、中立的立場に変わったガンヂーに反して親英的なネールは抵抗するため中国まで飛び援蒋ルートに力を尽くしたことでも明白である。

 更に問題になったラマ・ムルティ氏から渡されたネタージの宝石箱を発表することなく秘密裡にしていたことでも判る。後半デサイ内閣になってこの宝石箱の ことが発表されたが親日的であった静的ボースに対する何らかの感情が有ったと思うのは偏見だろうか。(1994年8月18日記)


1998年08月14日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思い を想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54 年間、異境で眠り続けているからだ。

 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を 解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ド イツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命 の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。

 インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落

 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ 地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、イン ド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもい い。

 第二次大戦の緒戦、マレー半島のジャングルで「F」のマークの腕章を付けた一群の日本人とインド人の姿があった。F機関といった。軍服はきているものの 火器は携帯しなかった。機関長、藤原少佐の主義だった。彼らの目的は、開戦と同時にマレーのジャングル奥深く潜行、英印軍内のインド将兵を寝返らせること だった。

 英印軍が火力と兵力で圧倒していたにもかかわらず、日本のマレー進行作戦が電撃的に成功したのは、ひとえに英印軍内インド将兵が次々と投降したからであ る。英国から見ればインド人中心の部隊編成だったことが敗因である。ここのところを間違えてはいけない。婉曲にいえば、マレー作戦はインド人将兵の勝利 だった。

 1942年2月15日のシンガポール陥落後、投降したインド人将兵は5万にも上っていた。10人足らずのF機関がたった2カ月でインド人将兵の心をたく みつかんだ。戦争用語でいえば「謀略」に成功したことになる。F機関は彼らに「インド独立」を約束した。参謀本部はまったく違う思惑を持っていたが、イン ド人将兵は現場レベルの約束を信じた。それまで大英帝国を守る忠実な番犬だった英印軍は「インド国民軍」に再編成された。

 インドにはガンジーやネルーが20年以上にわたって反英闘争を続けていたが、ついに軍事組織を持つにいたらなかった。東南アジア在住100万人のインド人は、逆にインド国民軍の創設を積極的に協力、多くの私財を提供した。

 インド国民軍裁判が英国に迫ったインド放棄

 モハン・シン大佐がその再編成の役割を担った。インド国民軍創設の目的はただひとつ、「インド独立」だけだった。英印軍による180度の転身だった。1 年後、ベルリンからスバス・チャンドラ・ボースを招いてインド国民軍はさらにインド解放を目指す実践部隊に生まれ変わる。

 彼らの合い言葉は「チェロ・デリー」(デリーへ)だった。米英はインド国民軍を日本軍の傀儡とみた。インパール作戦は前線で指揮した牟田口廉也中将の発案でインドから重慶への援蒋ルートを断ち切るのが目的だったが、ボースの念頭にはインド独立しかなかった。

 戦後、英国政府が真っ先にしたことはインド国民軍将兵を「反逆罪」で裁くことだった。デリーのレッド・フォートがその法廷となった。戦争中はボースに冷 淡だったインド国民会議派は、インド国民軍を愛国者として迎え、デサイ博士を筆頭とする弁護団をレッド・フォートに送り込んだ。弁護団は「隷属される民族 は戦う権利がある」という主張を貫いた。

 この動きに全インドがハイタル(ゼネスト)で応えた。ボンベイ(現ムンバイ)にあった英印海軍の艦船は一斉にボンベイ市内に大砲の筒を向けて反英の意志 を露わにした。全インドが初めて英国に牙をむき、レッド・フォートを包囲した。反英闘争はかつてない高まりをみせ、裁判を有利に導いた。起訴されたインド 国民軍将兵は有罪となったものの、「刑の無期執行停止」を勝ち取った。英国は当初、戦後もインド植民地支配を続けるつもりだったが、インド国民軍裁判でイ ンド放棄を決断した。1946年1月のことである。

 ここらの経緯は日本の教科書には一切書かれていない。カルカッタやパンジャブ地方の人々には「チャンドラ・ボースは死してインド独立を勝ち取った」という思いがある。カルカッタはボースの故郷であり、パンジャブ地方はインド国民軍将兵を多く生んだシーク族の故郷である。


 チャンドラ・ボースの遺骨が蓮光寺からインドに移されない経緯は複雑だ。戦後、ボースの遺骨を守り続けた林正夫氏の手記に譲りたい。林氏の手記は明日配信します。
1998年08月26日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 スバス・チャンドラ・ボースの話を続けて紹介した。実は日本にはもうひとりの革命家ボースがやってきていた。大正時代のことである。ラース・ベハリ・ボースといい、中村屋のボースとしても知られていた。夏のお話として中村屋を語りたい。

08月14日「杉並区の蓮光寺に眠り続けるボースの遺骨」、

08月15日「スバス・チャンドラ・ボースと遺骨返還

 文化が花開く時代背景にできた新しいパン屋

 中華饅頭で有名な中村屋本店は新宿駅に近い新宿通りに面している。高野フルーツパーラーの隣りで、そのむかしは辺りを新宿角筈と呼んだ。信州安曇野出身 の相馬愛蔵が経営するパン屋「中村屋」が文京区から引っ越してきたのは1907年ごろだった。時代は日露戦争直後である。

 論壇は主戦論と不戦論に分かれ、国家の在り方をめぐり激しく論争を繰り返していた。黒岩涙香が主宰する「万朝報」(よろずちょうほう)が主戦論に転じ、 不戦論を戦わせた幸徳秋水らは袂を分かち、1903年に平民新聞を発刊した。その社会主義者たちの多くが大逆事件で死刑になったのが1910年。文芸界で は島崎藤村が「破戒」を書き、社会問題を鋭くつく自然主義が主流を占め、夏目漱石や森鴎外といった理知的な作風ももう片方の流れを形成した。

 演劇界では新派がようやく登場し、美術界でも西洋画に日本画の技法を取り入れた横山大観が脚光を浴び、パリ帰りの高村光太郎や荻原守衛がヨーロッパの作 風を紹介した。大正デモクラシーはもうちょっと後の時代である。文化が花開くそんな時代を背景に当時、まだ貨物駅しかなかった新宿に新しいパン屋が開店し た。中村屋が当時の日本社会を映す「サロン」だったことは意外と知られていない。

 「中村屋」の由来は、相馬愛蔵が妻の病気療養のために上京、新たな生活のために文京区に買ったパン屋の屋号だった。1901年12月。愛蔵が32歳のと きである。あんパンは銀座・木村屋がつくったが、中村屋はあんの代わりにシュークリームのクリームをパンに入れた。そのクリームパンも瞬く間に評判となっ た。

 しかし世間の新宿・中村屋への理解はクリームパン止まりである。中村屋の名物はこのほかにも月餅とカレーがある。月餅は中国の革命家・孫文と相馬家との交友から生まれ、カレーライスはインドの亡命革命家ラース・ベハリ・ボースをかくまったところに起源がある。

 芸術家と文芸家と革命家のサロン

 相馬愛蔵の妻である良は、仙台藩の家老の娘で、明治女学院や横浜フェリスで学んだハイカラ娘だった。そのころの明治女学院では、北村透谷や島崎藤村が教 壇に立っていた。安曇野の村にオルガンを初めてもってきた。愛蔵もまた、東京専門学校(早稲田大学の前身)に学び、札幌農学校で近代的養蚕業を身につけて 故郷に帰った。だが新しい明治の息吹の中で育った良が信州安曇野の養蚕家の生活に満足できるはずはなかった。愛蔵が東京に出てきたのは妻の影響なのであ る。

 安曇野での生活で良が見出したのは彫刻家としての荻原守衛の才能である。中村屋が新宿に店を移してからの相馬家は千客万来だった。内外を問わず芸術家と 文芸家と革命家のサロンのような場所だった。面白いのは思想的に右翼から左翼まで様々な人が出入りしたことである。だれもが良を慕って中村屋に集った。と いうより中村屋のパンのお得意先で、良の呼び名は「おかみさん」「おかあさん」「マダム・パン」「マーモチカ」などいろいろあった。来る人のそれぞれの思 い入れがあった。

 中村彝、中原悌二郎、国木田独歩は大久保に住み、角筈には幸徳秋水、堺枯川が、淀橋には福田英子ら社会主義者がいた。パリから帰国した荻原守衛もまた角 筈にアトリエをつくって中村屋に入り浸り、相馬愛蔵と故郷を同じくした小説家の木下尚光もまた中村屋をめぐる物語に欠かせない役者の一人だ。

 中村屋の夕食はいつも子供たちと使用人が一緒というのが愛蔵の主義だった。そして客人がいつも団らんを潤した。食卓を囲んでの団らんは新聞記事の政治の話題から文芸まで幅広かった。百家争鳴とはこのことで、誰かが話題を投げかけ、主に良が合いの手を打って議論を深めた。

 インドの革命家をイギリスから守ったおかあさん

 そんな中村屋にラース・ベハリ・ボースがやってきたのは1914年のことだった。ベンガル生まれのボースはカルカッタの英国系の大学を中退して、インド 解放運動にのめり込んだ。1915年に計画していたラホール蜂起の首謀者として指名手配され、インド初のノーベル賞詩人ラビンドラナート・タゴールの親戚 と偽って日本に潜入した。

 やがてボースの日本滞在は同盟国である英国の知るところとなった。英国の抗議を受けた外務省はボースを国外退去にした。しかし、日本を去るはずだった 1914年12月1日、ボースはあいさつを理由に訪れた頭山満宅から姿を消した。孫文の片腕として中国革命に奔走していた宮崎滔天や日露戦争後の三国干渉 に憤慨して黒竜会(右翼団体のひとつ)を結成した内田良平などの協力でボースの身柄は密かに中村屋に移されていたのだった。

 当時のマスコミはこぞって日本政府によるボースの国外退去処分を大きく報道し、政府の弱腰を糾弾した。相馬愛蔵もボースに同情した一人だった。たまたま パンを買いに来て慣れ染みとなっていた内田良平の友人に「ボースをかくまってもいい」と語ったのがきっかけとなり、インドの革命家のための隠れ家として新 宿のパン屋に白羽の矢が当たった。

 良は親身になってインドからの「黒いお客さん」を世話し、明治女学院でならった英語が初めて役に立ったらしい。まだ28歳のボースは良を「おかあさん」と呼んだ。良にとってもボースの逗留は新鮮な発見の連続だった。

 ボースが語るには「インドが勇気づけられたのは日露戦争での日本の勝利だった」。生まれてこのかたこれほど大きな感激はなかったと打ち明けた。だが一方 で「日本は朝鮮を植民地にしてわれわれをがっかりさせました。ヨーロッパ人と同じことを日本人もやりだしたからです」とくやしがった。こんなボースの言葉 に良は不意を付かれる思いもした。

 ラース・ベハリ・ボースはやがて中村屋を離れるが、愛蔵と良の娘の俊子と恋に陥り結婚。在日インド人として頭角を現していく。中村屋の話を書きながらこの時代の日本は、アジアとの距離がいまよりずっと近かったことをあらためて感じた。。

 中村屋の物語はここで終わるのではない。ロシア革命が起きると今度はロシアの盲目の詩人エロシェンコが中村屋にやってくるのだ。

 (相馬愛蔵と良が新宿につくったサロンには現代に語り継がれていない明治・大正期の逸話がいくつもある。いつか機会があれば新宿・中村屋の続編を書きたい)


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