ギニア物語の最近のブログ記事

2005年03月29日(火)萬晩報通信員 齊藤 清
  【ギニア=コナクリ発】独自の論理で己の侵略戦争の正当性を主張し、かつ推進しつつある唯我独尊の米国は、油の確保ばかりではなく、農業分野でも幾多の国 を相手に大いなる戦果を上げている。ここでは、銃弾を使わず、生血を流さず、きわめて静かに、しかし傲慢に、そして着実に進行している強襲国家による世界 の農業分野への破壊作戦の成功の一端を、アフリカの綿花とアメリカの戦果との白々しい関係に限って眺めてみた。

 ◆ジャズ発祥の地

 毎年7月の初め、カナダのモントリオールで国際ジャズフェスティバルが開かれる。およそ10日の間、町のいたるところで数々のコンサートがくりひろげら れ、世界中から100万を超す聴衆が訪れるともいう。期間中は、町そのものがジャズのステージに変身する。むろんそれはそこに集うミュージシャン達の音楽 の内容の濃さに惹かれてのものだ。このジャズフェスティバルは、きらびやかな衣装と舞台装置で目くらましをたくらむお祭りではない。ただひたすらに心を歌 うジャズの祭典である。メインの歌い手ばかりではなく、演奏陣、黒人男女のバックコーラスなども圧巻だ。むろん、出演者、聴衆に、白人、黒人の区別はな い。

 このフェスティバルの原型ともいわれるお祭りが、ジャズの源流の地と目されているニジェール川上流地方のギニア・カンカン県・バロ村とクマナ村(首都か ら陸路700キロ)で、やはり毎年開かれている。年に一回のこのお祭りでは、この地方の伝統的な音楽をベースにした打楽器のリズムにのせて、男女の踊り手 による激しい舞いが、いつ果てるともなく続けられる。当然のように奏者のアドリブも入り、踊り手もこれに応える。このやりとりの妙とその場に満ちあふれる 熱情は一筋縄のものではない。――蛇足ではあるものの念のため、このお祭りの光景は、東の果ての島国のテレビ屋さんがその国の大衆に提示したがる、「いわ ゆる付きのアフリカ」の映像とはかなりの隔たりがあることを、こっそりとつぶやいておかなければならない。

 このお祭りに参加するために、近隣の村々からの演奏者、踊り手はむろんのこと、近年は世界各地から、黒人ばかりではなく白人も大勢やってきて、大地と一体となった音楽の原点ともいうべきこの土地のお祭りに酔いしれる。

 アメリカ大陸で承継・発展したジャズの源流がアフリカ・ギニアの奥地の村に求められるということは、この地とアメリカの地との間になんらかの血のつなが りがあるということになるのか。そう、これはあからさまに言えば、この地が奴隷貿易時代の黒人奴隷の供給地のひとつであったという事実につながるらしい。

 ギニア内陸部のこの地で綿花栽培に携わっていた労働者――奴隷という身分であったかもしれないけれど――が、略奪された新大陸であるアメリカ南部に連れ 出され、当時の英国の綿花需要に応ずるための労働力として利用された。広大な綿花プランテーションでのすべての作業は黒人奴隷にゆだねられ、そして、新開 地の肥沃な土地を舞台として、欧米を軸とする綿花経済の花が開いた。その副産物として、アフリカの伝統文化を底流としたジャズと呼ばれる音楽が生まれた。

――奴隷売買業者は、闇雲に誰彼かまわず新大陸へと案内したわけではなかった。綿花栽培の即戦力となる、そして勤労の習慣が植えつけられた、言ってみれば 文化程度の高い人々を狙い撃ちしたのであった。海辺の、当時としては文化果つる地方の、自然環境に恵まれているがゆえに労働意欲の希薄な人々は商品として の奴隷にはけっしてなり得なかった。

 ◆高地ギニアに降る雪

 バナンフルフル(カポック)の白い綿毛がきままな風に乗って遠くの山にまで飛んでいく二月のある日、村の広場には雪が舞う。村人が丹精して作り上げた綿 花が、この日、広場いっぱい、白い雪と見まごうばかりに積み上げられる。

 この地では、いつとは知れぬ古い時代から、綿花を栽培し、糸をつむぎ、布を織り、時には染めて、それを身にまとう生活が連綿として続けられてきたわけだ けれど、最近では海外から輸入される色鮮やかな布地のほうが幅を利かし、この土地の手織りのものよりも安価に買える時代となっている。そして、綿花を栽培 する農家はごくまれな状況となってきた。4、50年前までは、――フランスの植民地時代にはかなりの量を生産し、それは国外に送り出されていたのだけれ ど。

 そのような時の流れを巻き戻すように、10年ほど前にフランスから『プロジェ ・コットン(Projet coton)』と称する事業組織がやってきた。住民の経済力支援を主な目的とする組織であったらしい。

 ニジェール川上流地方は雨季と乾季がはっきりした、いつも乾燥している土地柄である。 綿花の栽培に適した気候だ。そして、ブルースと呼ばれる、人の手の入っていない疎林がまだたくさん残されている。全体に表土は薄く地味は痩せているから、 すべての場所を開墾するわけにはいかないものの、適地がないわけではない。

 フランス人たちは、種子と肥料を貸し与え、収穫した綿花の売り上げからその分を天引きするシステムを提案して住民に綿花の栽培を勧めた。雨季の間に種を 蒔き成長させて、乾季になったら綿花を収穫させる。収穫物を引き取る大型トラックを走らせるために、雨季の後の荒れた砂利の道を組織の手で定期的に整備し た。おかげで、ブルースのあちこちに車の走れるこぎれいな道ができた。

 現金収入が得られるとなれば、森を伐り開き、林を焼いて栽培面積を増やす農家が増えるのは自然の成り行きである。栽培地は飛躍的に増えた。時にかなりの現金収入を得て、近隣の評判となる家族も出現した。

 もっとも、もともと極端に痩せている土地ゆえに、二季も連作すれば、肥料を増やしても収量は減る。降雨と播種のタイミングを読み違えて、収量が極端に少 ない年もある。その結果、種子代も払えない赤字農家が出ることもあったけれど、それでもなんとか『プロジェ・コットン』の事業は続いた。

 そして、毎年2月の、あらかじめ定められたある日、トラックが綿花を集めにやってくる。その日は村中総出で、その年の生産物を広場に運び出す。広場を 覆った厚い雪が太陽の光を反射し、村人の上気した顔を明るく照らし返す。綿花の重量を量って集荷のトラックに積み込み、そして感慨を込めて見送る。それが 村々の毎年の行事となって定着した。

 ところが、ある年のこと、約束のトラックはやってこなかった。

 ◆巨額の輸出補助金と農業助成金

 ハリウッド映画『風と共に去りぬ』の南北戦争前後のアトランタ。綿花プランテーションで働いていた黒人奴隷たちは戦いに駆り出されて、農場には誰も残っ ていない。そこに、ヴィヴィアン・リー扮するスカーレット・オハラが、姉妹たちと共に慣れぬ手つきで綿花を摘むシーンがあった。

 その後南北戦争は終わり、奴隷が解放されて綿花農場は維持できなくなった。 そして南部の大農家は没落。白人の小規模な農家が誕生した。もっとも、開放された黒人奴隷に市民権は与えられたものの、土地は与えられず、仕事はなく、飯は食えず、経済的にも身分的にもつらい状況は継続したもののようだ。

 それでも、アメリカ南部での綿花栽培は現在も健在で、中国に次いで世界第二位の生産量を維持しているらしい。ところがアメリカ国内での消費量は生産量の 2割程度でしかなく、綿花の生産者が生きるためには、残りの8割は輸出されなければならない。

 それはよく知られているように綿花に限ったことではなく、小麦、とうもろこし、大豆、牛肉等々、アメリカのすべての農産物は輸出するために作られている。なにしろ、アメリカは世界最大の農産物輸出国なのだから。

 それで、他国に対して市場開放を迫り、農産物輸出入の自由化を要求する。世界中がひとつの基準で交流すればすべてうまくいく、とそのような宗旨であるら しい。本音は自国のご利益しか考えていないというのに。その前線基地が、グロバリゼーションを唱和する人々の根城、世界貿易機関(WTO)。

 しかしながらアメリカは、たとえば、2001年に30億ドルの輸出補助金と生産助成金を自国の綿花生産者に支払った。これはアメリカの綿花の生産総額を も上回る。綿花生産国のブラジルはこれをとらえて2003年、補助金によって生産される余剰綿花が、WTO協定に違反して世界市場にダンピング輸出されて いるとしてWTOに提訴した。

 さすがのWTO紛争処理委員会も、米国の綿花補助金が世界市場価格を押し下げ、WTO協定違反であると認めた。

 ついでに言えば、2001年の米国の綿花補助金額は、米国のアフリカ援助予算総額の3倍以上であるという。そのとばっちりで、アフリカの零細・貧困な綿花生産者はさらに困窮させられているというのに。

 西アフリカ・ブルキナファソの綿花は歳入の60%をまかない、400万人の雇用を生み出している。これがアメリカのダンピング輸出に直撃された。同様 に、西アフリカの主要な綿花生産地、ベナン、チャド、マリにも、米国の綿花補助金政策は多大な被害を与えている。すべて弱肉強食、世界のならず者がしでか す横紙破りのお話である。

 このようにして、国の歳入を左右するほどの輸出額ではなかったものの、ギニアの綿花生産農家も早々と降参させられた。生産物を引き取ってくれるはずの 『プロジェ・コットン』が、綿花の価格暴落で採算が取れずに撤退し、約束の集荷トラックが走らなくなったのだ。

 綿花を栽培するために開墾した原野は放棄された。

 ◆米を食うからバカなのだ

自国の農産物を外国に売り込むアメリカの戦略ということになれば、1970年代終盤に、たまたま自分の耳で聞き、眼で見てしまった、大脳生理学の権威を標 榜するある大学教授の晩年の口演をまずは想いださざるを得ない。たしかに、敗戦のその日から、それまでの鬼畜米英転じて憧れの民主主義国家崇拝者へと急転 直下の航路変更をして嬉々としていられた国の小国民ではあったものの、博士の論旨はそれでもなお刺激的であり衝撃的かつ悲劇的なものであった。

「わが国民は、米を食うからバカなのだ」と氏はのたまわった。そして「米を食うから戦争に負けたのだ」と言い切った。呆気にとられ、あるいは毒気にあてら れて茫然自失の聴衆に対する処方箋は、「アメリカのようにパンを食え」「肉もどっさり食うべきだ」と、いたって単純明快なものであった。

 博士はベストセラー『頭のよくなる本』の著者であり、慶應大学教授、かつ直木賞作家という異才であられたから、凡人に対しては説得力がありすぎた。アメ リカの農業政策の代弁者として、その広告塔として、これ以上の逸材はそう簡単には見つかるまい。

 そして現在その国は、パンを焼く小麦のほぼ100パーセントをアメリカからの輸入に頼り、さらにアメリカから肉が入らなければ牛丼が食えない口寂しい国 に成長した。牛の病を恐れて肉を絶てば、アメの肉を買わないと厄介なことになるぜ、と憧れの民主主義国家がやさしく諭しにやって来る。ともあれ、これぞ亡 き博士の大いなる功績であったのだろうと、遠くギニアの空の下、照りつけるぎらぎらの太陽に目を細め、あの日の口演を想いだすのである。

 このようにしてアメリカは、自国の農業従事者の生活を守るために常に地道な努力を続けている。たとえば、GATTのケネディーラウンド関税交渉の中で 1967年に成立した国際穀物協定の食糧援助規約では、一部の開発途上国に対して毎年1000万トン以上の食料を援助するという目標を掲げ、加盟国ごとに 穀物(小麦、大麦、とうもろこし、豆等)の最低援助量を割り振った。極東の小国は、年間小麦30万トン相当の穀物を無償援助することを義務付けられてい る。――自国の余剰生産物がない国は、当然のように生産過剰の国で調達して援助することになる。

 この長期にわたる無償の「食糧援助」は、生産過剰の国の輸出を助けると同時に、開発途上国の農業生産意欲を削ぐことにも多大な貢献をした。飢えた国の農 民が食糧生産の自助努力を放棄するように。なけなしの外貨を使って、命をつなぐくもの糸、どこかの国の余剰農産物を輸入するように。

 そんな地獄への後押しをしたのが、ケネディーラウンドによる開発途上国への食糧援助であった。極東の小国の小麦生産が、輸出補助金と農業助成金を受けて 生産されたアメリカからの安い小麦に押されて破壊されたように(米国の小麦の輸出価格は生産コストの約半分)。――その国は、庶民の食べる安い牛肉につい ても、自国で生産する気力も能力も、もはや夜霧のかなたへ捨て去ってしまったように見える...。

 ちなみに、アメリカをわが命と仰ぐその国の外務省の食糧援助に際しての国内向けの口上は、「同国政府は食糧自給達成を優先課題としているが、長期にわた る旱魃等のため耕地が疲弊しており、食糧の調達が困難な状況にある」「不安定な気候に加え、近年は降雨量が減少していることから、砂漠化が進行し、耕作地 が減少している。

 また、害虫・害鳥等による被害のため食糧生産に大きく悪影響を及ぼしている」「高い人口増加率のため食糧需要に生産が追いつかず、深刻な食糧不足が続い ている」等々、気候変動、耕作地の減少、虫、鳥、人間の増加、考えられるものすべてを登場させて、無知な国民の目を掠めるだけが目的の能天気な背景説明に 忙しい。現実を知らないはずはあるまい。それでも、昨今はパソコンでのコピー・ペーストが簡単になったから、過去のいくつかの模範文例があればそれでやり くりがつく。良心というものを別にすれば。

 ◆音楽だけが残った

 そして、高地ギニアの村々を廻って綿花を集荷するトラックは来なくなった。 零細生産者には、生産物を売る手段がない。価格競争力がない。種子を買う金がない。強襲国家のように、補助金をつけ、資金を補給してまで生産者の生活を守る能力を持ち合わせていない弱小国家の民には、もはやなす術はない。

 その結果、過去には綿花労働者として多くの人間が連れ去られたアフリカの片隅から、この土地に綿々と続いていた、古い歴史に彩られた綿花栽培の文化その ものも、真綿で首を締め上げられるようにして、息絶えることになった。

 この国は、今では綿製品をもっぱら輸入するだけの国になりさがってしまった。これも米国の戦略の成果であり、グロバリゼーションとかいう邪宗の祟りなのであろうか。

 それでも、奴隷とともに運び出されたはずの音楽がまだ消えずに残っているのが、せめてもの救いと諦めるしかないのだろうか。(まぐまぐメールマガジン『金鉱山からのたより』2005/3/28より)

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2004年12月04日(土)萬晩報通信員 齊藤 清
  【コナクリ発】北アフリカ・リビアのカダフィ大佐と国際社会との和解も済み、米国の石油会社はリビアへも大手を振って石油汲みに出かけられる環境が整っ た。これからはますますアフリカ大陸の原油が期待される時代となる。西アフリカの産油地帯の現況と、そこにうごめく傭兵たちの姿を眺めなおしてみた。

 ◆奴隷海岸の再現へ

 2004年7月12日、五列のフォーメーションを組んだ総勢十三隻の艦隊が、淡くかすんだ空の下、北アフリカ・モロッコにほど近い大西洋の海を北上して いた。艦隊の左翼前方に位置するのは、米海軍のニミッツ級航空母艦『USS Harry S. Truman』。右翼には同じく米海軍の航空母艦『USS Enterprise』。 そして、米空母トルーマンの右舷に並行して進行しているのがイタリアの航空母艦『Giuseppe Garibaldi』。また、米空母エンタープライズの左舷を併走するスペインの航空母艦『Principe de Asturias』。それから、英国、モロッコ、フランス、ポルトガル、トルコと、多国籍の艦艇がそれぞれの位置を崩さずに白い航跡を曳いていた。
http://www.navsource.org/archives/02/026549.jpg

 これは『Majestic Eagle 2004』と名づけられ、北アフリカ・モロッコ沖で
米海軍主導で行われたNATO軍としての共同演習風景の一齣である。

 この頃英国では、イラク戦争開戦を正当化した根拠情報の誤りをバトラー委員会報告書が指摘し、イラク戦争の大義名分に改めて強い疑問が投げかけられてい た。フランスは、イラクへの国軍派遣を拒否。スペインでは、3.11列車爆破事件の後に成立した新政権によってイラク派遣軍の撤退が進められ、スペイン新 政権とブッシュ米大統領との間の軋轢が噂されていた。

 そういった時期に、昔の地図には奴隷海岸と記されていた西アフリカ地方に続く海域を、多国籍艦隊が打ち揃って遊弋していたのである。奴隷貿易が公認され ていた時代には、これらの国々の艦船が、生きた人間を商品として運び出していった海である。

 そして今、これらの国々、ことに米国は、昔の奴隷海岸一帯からアフリカ大陸の血――軽質原油を搾り出す体制をすでに整えたことを宣言すると同時に、今後 のオペレーションの障害となるものはすべからく排斥する決意を、この日、軍事力を映像として誇示することによって、あらためて表明した。

 ◆米国のアフリカ石油戦略

 よく知られているように、米国は世界最大の石油消費国である。世界の年間産油量30億トンのうち、10億トンを米国が消費している。米国の経済活動は石 油の流れに従って動いている。石油なくしては、米国民の市民生活を維持することができない。

 米国は現在、国内消費量の約60パーセントを輸入に頼っている。そのために、海外からの安定した石油調達を継続することが常に求められている。しかしな がら、イラクの例を見れば明瞭に理解できるように、すべての国が米国に好意的であるわけではない。

 そこで米国は、石油の中東依存度を軽減し、その分を未開拓の、しかもコントロールしやすいと考えている西アフリカ地域から調達することとし、目標数値と して輸入量の25パーセント確保の方針を据えた。9.11事件に連動させて発動したアフガン侵攻、ニセの情報を根拠としたイラク侵攻、そして次はイランが 標的かなどと世論を誘導し、人々の目をペルシャ湾岸の油にひきつけて幻惑している間に、西アフリカのギニア湾に展開していた米国石油企業は粛々と作業を進 め、主要な産油地帯を押さえる戦いはすでに勝負がついたといえる段階にある。

 この地域で新規開発した油田、あるいはこれから開発する油田はすべてが海底油田である。生産物を搬送するパイプライン敷設の必要がない。採掘現場は陸地 から離れた海上であるがゆえに、現地の政情不安の煽りも受けにくい。警備のしやすさは陸地の油井の比ではない。また北海油田のように冬季の過酷な気候を考 慮する必要もない。このような環境で硫黄分の少ない良質の軽質原油が汲み出せるということであれば、これ以上何を望むべきだろうか。

(拙稿)ギニア湾―もう一つの湾岸石油戦争
http://www.yorozubp.com/0308/030804.htm

 ◆アンゴラ反政府勢力の消滅

 ここでは、米国のギニア湾における石油支配が進む過程で垣間見えたいくつかの冷酷な現実を、最近の主だったできごとに限って振り返ってみたい。なぜか、死屍累々という言葉が頭をよぎる。

 2002年2月、アンゴラの反政府勢力UNITAのサビンビ議長が死亡した。 UNITAは、この国が1970年代にポルトガルから独立して、アンゴラ人民共和国なる社会主義政権が誕生して以来の、実に30年にわたる呆れるほどに長 期的な反政府勢力であった。これは日本外務省ですらそのWEBページで書いているように、UNITAは米国のお墨付きを持ち、米国の支援を得て内戦を継続 していたことと、「永遠の輝き」のデビアス社が、反政府勢力の掘り出すダイヤモンド原石を買い取って紛争資金の供給を続けたことに長生きの源泉があった。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/angola/data.html

 しかし、サビンビ議長は世界の風の流れを読み誤り、米国政府に厄介者にされる形で捨てられた。その結果、今では親米として振舞っている現大統領が米国に 呼ばれた一週間後に、このサビンビ議長は死亡している。公式には、政府軍との戦闘による戦死ということになっているけれど、その実は、最近世界各地の戦闘 地域での活躍がめざましい「軍事顧問会社」の関与によるものであったといわれる。――政府軍の兵士とは腕が違う。

 このアンゴラは、むろん米国石油会社が多くの鉱区を保有する西アフリカ第二位の原油生産国である。――日本企業も権益の一部を保有している。米国資本に よる巨額の投資により原油の確認埋蔵量は飛躍的に増大していて、数年のうちに生産量第一位のナイジェリアを追い越すことは確実と計算されている。

 邪魔者が消された後内戦は停止して、現在は和平プロセスが進められている。 国家財政のほとんどを原油に頼っているアンゴラにとっては必須の流れ方でもあった。

 ◆リベリア大統領の失脚

 2003年の7月には米国のブッシュ大統領が、パウエル長官とライス補佐官を随行してアフリカ数カ国を訪ねている。そして、西アフリカ一番の産油国ナイ ジェリア訪問では、アメリカの石油権益の西アフリカ地区代理人とも称されるこの地のオバサンジョ大統領と米政権との濃密な交流が行われた。

 当然のように、ナイジェリアとその近隣の国々との石油利権の問題が話題となる。例えば、カメルーン、その沖に浮かぶ小さな島国サントメプリンシペ、ガボ ン、国の陸地面積は少ないものの、米国資本による海底油田開発のおかげでここ数年驚異的に経済発展し、成長率60パーセントという狂乱状態の赤道ギニアに 関する意見交換などが行われた。

 この季節、彼らにとっての気がかりのひとつはリベリアの内戦状況であった。 巨額の投資を続ける米国にとって、近隣の国から火の粉が飛んでくることは避けなければならない。この時点で、米国の支援を受けた反政府勢力が、反米政権 チャールズ・テイラー大統領をかなりの程度に追い詰めてはいた。落ちるまであと一押しであった。欧米のメディアと人権団体は、いつものごとく「人道的な問 題」を強調し、反テイラー大統領の国際世論を煽って包囲網を狭めた。

 オバサンジョ大統領は、ブッシュ一行が到着する一週間ほど前にリベリアへ飛び、テイラー大統領を説得。この時点で、テイラーに亡命を受け入れる意思ありと確信していた。

 ブッシュ一行がナイジェリアを発った翌日、オバサンジョ大統領は一路ギニアへ飛んだ。そしてギニアのコンテ大統領と、テイラーの処置についての意見調整 をする。コンテ大統領がテイラーをリベリアから追い出すことに反対するはずもない。ギニアは自国の防衛のためにも、米国の協力を受けながら、一部国境を接 するリベリアの反政府勢力を支援していた。――ギニアの大統領は、自分は正統的な流れで大統領に就任した軍人であることを誇りにしているから、ゲリラあが りの大統領テイラーを、個人的にも嫌悪している。

 テイラー大統領はそれから一カ月ほど後、オバサンジョ大統領が身柄を預かる形でナイジェリアへ亡命した。テイラーの盟友でシエラレオネの「ダイヤモンド 戦争」の準主役を演じた反政府ゲリラの代表フォディ・サンコーは、テイラーの政権放棄の決意を促すかのように、この一週間ほど前に獄死している。 あるいは、させられたというべきなのかもしれないけれど。

 これでリベリアも、そして周囲の国々も静かになり、この地域での投資リスクは低減された。

 さっそく、テイラー後のリベリア暫定政府から免許を受けたスペインの石油企業が、シエラレオネ寄りの海域で海底油田の調査を始めた。この会社はフォ ディ・サンコー亡き後のシエラレオネでも、米国企業ひしめく赤道ギニアでも探査作業を続けている。

 ◆スーダンの混乱

 ギニア湾からは遠いけれど、エジプトの隣国で、紅海に窓を向けたスーダンの動きにも触れておく必要がある。

 1996年、国連安保理はスーダンに対して制裁決議をぶつけた。米国独自の対スーダン経済制裁も実施された。そのため、米国企業はスーダンで活動するこ とができなかった。その間に、経済の発展に伴って石油消費量が急激に増えていた中国がこの国の石油権益を手に入れ、中国初の海外油田として仕上げてしまっ た。他の国の企業も動いてはいるけれど、スーダンの油は中国の独擅場と言えなくはない状態である。この国の石油を取り巻く状況は、米国の石油会社にとって は痛恨の極みとでもいうべき展開となってしまった。

 この間、スーダンの内戦は継続していたのだけれど、最近では和平に向かって収束する方向にあると観測されていた。その矢先、政府軍の支援を受けたアラブ 人民兵によってアフリカ系黒人の大量虐殺が行われているとされる報道が始まった。パウエル米国務長官も「大量虐殺が行われている」と発言し、スーダン政府 の速やかな対応を求めた。英国もこの発言を追認。

 そして、事態が改善しなければ国連でこの国の生命線である石油の輸出禁止を決議すると、米国が警告を発した。

 制裁決議が成立した場合、当事者のスーダンも困るけれど、多額の投資を行い、必要に迫られて大量の原油を輸入している中国も大きな影響を受けることになる。むろん、米国の意図はまさにこの一点にあるといわれている。

 ◆アフリカの傭兵たち

 国レベルの目的のために人を殺すことを請け負う民間人がいる。戦争のプロである。彼らは、「警備会社」あるいは「軍事顧問会社」の社員と称して政権を擁 護する立場を演ずることもあれば、反政府勢力を指揮して政権を脅かすこともある。また、紛争を煽るための工作も彼らが得意とする分野の仕事である。 ――むろん無料奉仕ではない。誰かが雇うのである。

 小さな国、小さな軍隊、小さな政府がほとんどのアフリカ大陸は、傭兵が活躍しやすい場所であるらしい。もっとも、この傭兵たちの仕事現場はアフリカであっても、その雇い主の背景は遠く離れた国々にあるらしい。

 鉄の宰相と呼ばれたサッチャー元英国首相は、英国陸軍特殊空挺部隊(SAS) を重用した。精鋭ばかりを集め、実戦でさらにその腕に磨きをかけているため、このSAS出身の傭兵は世界最強という評価を得ている。退役後、英国、フラン スあたりのブローカーにリクルートされてアフリカ大陸に送り込まれることが多いようだ。

 次いで、米軍の特殊部隊出身者がしばしば傭兵業に転進するという。それで、事業としての戦争を推進している米国には、戦争業務を請け負う「軍事顧問会社」が乱立しているらしい。

 在外公館が現地の新聞記事を要約してWEB上で公開している情報を拝借し、傭兵たちのアフリカでの活躍ぶりの一端をご紹介したい。このページでは、「ハ ラレ空港における武器を所持したアメリ力人の逮補」の項が特に興味深い。 (ハラレはジンバブエの首都)

 以下は、「ハラレ空港における武器を所持したアメリ力人の逮補」の項からの抜粋。
http://home.att.ne.jp/green/asj/ippan/i9903.html

ハラレ国際空港において武器を所持したアメリカ国籍の男性3名が逮捕された。3名はチューリヒ行きスイス航空機で米国へ向かおうとしていたと思われる。

3名は、高度な訓練を経た傭兵であると思われ、カビラ大統領を暗殺し、「より崇高な政府」を樹立することが使命であったと思われる。

押収品は、軍事ハードウェア及び機器(マシンガン、狙撃用ライフル2丁、AK-47式ライフル3丁、消音装置5機、赤外線式照準望遠鏡6機、ライフルの台 じり3機、望遠鏡8台、ナイフ70丁、ピストル及びリボルバー19丁等)及びポータブル・コンピュータ、拷問用機器、弾薬、仕掛け爆弾製造法及び通常機器 から銃を作る方法のマニュアル、軍事用カムフラージュ用品、照明用機器、弾倉、無線機等。

破壊行動未遂容疑で拘留中の3名のアメリカ人が属する軍事組織と、ウガンダにおける観光客虐殺とを関連づける証拠が挙がった。

3名のザンビア滞在中に、アンゴラ大使館爆破事件が起こっている。ジンバブエ政府調査団は、調査範囲をジンバブエ及びコンゴ(民)から他のアフリカ各国に拡げている。

 以上は、傭兵映画『ワイルドギース』などといった類の娯楽物語の中での筋書きではなく、アフリカで現実に起きている、あるいはごく日常的な風景であるということに無力感は募る。

 ◆ボーイング機の謎

 つい最近も傭兵たちによるかなり派手な立ち回りがあって、しばらくの間、観客の想像力を刺激してくれた。以下、日経新聞のWEB記事(2004年3月11日)から引用。

  『米英スペイン、赤道ギニアのクーデター計画に関与?
  米英スペインの情報機関がクーデター計画に関与か――。アフリカ中部の赤道ギニアからの報道によると、同国で10日までにクーデター計画が発覚、雇い兵ら 15人が逮捕された。ジンバブエ政府が首都ハラレで7日に拘束した航空機の乗客64人も米英スペインの情報機関の支援を受けた雇い兵とみられている。

 赤道ギニアで捕まった南アフリカ人の雇い兵グループ隊長はテレビで「ヌゲマ大統領をスペインに連行し亡命させる計画だった」と告白した。

 一方、ジンバブエで拘束された機内からは衛星電話や地図などが発見されたが、武器類はなかった。モハジ内相は「英情報局秘密情報部(MI6)、米中央情 報局(CIA)、スペインのシークレット・サービスの情報機関が関与し、赤道ギニアの軍、警察のトップにクーデター計画への協力を求めていた」と述べた。 航空機を運航した会社幹部は「乗っていたのは鉱山労働者だ」と反論している。

 この記事にあるジンバブエで拘束された航空機は、ボーイング727型機である。データベースによれば、1964年にNational Airlinesがボーイング社からこの機を購入し、1980年に同航空会社がPan Amに買収された時、この機は米空軍に売られて空軍用に仕様変更されている。この機の英空軍基地に駐機中の写真がある。

UK-Cottesmore, July 30, 2001 http://www.airliners.net/open.file/251562/L/

 この機は、米国ノースカロライナの空軍基地を発ち、カリブ海に浮かぶ島バルバドスで給油したあと目的地へ向かった。ジンバブエで拘束された時点では民間 会社所有ということになっているらしいけれど、直前までは米空軍所属の航空機であった。

 ◆赤道ギニアのクーデター不発

 もっとも、この事件の続報を頻繁に露出している欧米メディアの記事は米国の関与には触れず、表舞台に登場してくる関係者の華やかな顔ぶれと、手垢のついた目的の解説ばかりを強調しているようにみえる。

 すなわち、サッチャー元英首相の息子が資金提供者であり、元英陸軍特殊空挺部隊(SAS)隊員で、西アフリカのすべての紛争地での傭兵業で稼いだことで すこぶる有名な御仁が指揮官となり、スペインに亡命中の野党指導者を大統領に据える計画であった、成功の見返りは現金と石油利権である、等々。

 しかし、そのシナリオは綺麗過ぎて真実味に欠けている。赤道ギニアの現政権は、長期政権の通弊として腐臭漂う体制であり、巨額の投資者に対しても不愉快 な対応をして不安を感じさせるばかりでなく、米国に設けられた口座に多額の賄賂を振り込まざるを得なかった。しかも国民は貧乏なままで、ごく短い時間の間 に生じた貧富の格差の異常な拡大に伴う不満が爆発寸前となっていた。

 そしてもう一点、絶対に見逃すことのできない動きがあった。それは、赤道ギニア大統領に対する中国のアプローチである。いつものごとく隙間から手を差し 出すのではなく、石油利権の取得を求めて表街道を走った。中国から吹き寄せる甘言は、独裁大統領の耳を心地よくくすぐっていたはずだ。

江沢民主席、赤道ギニア大統領と会見
http://j.people.com.cn/2001/11/20/jp20011120_11471.html

 ナイジェリア、アンゴラに続く西アフリカ第三位の産油国――米国資本がすでに万全の生産体制を整えた赤道ギニアを、トラブルなしに最大の利益を確保して 運営していくためには、現大統領の存在は不適当であると判断された。障害物は除去されなければならなかった。いくぶんかの餌を与えれば従順に尻尾を振る、 扱いやすい政権に変えておく必要があった。そして、傭兵を使ったクーデター計画が実行された。

 このようにして、油を安定的に確保するためのひたすらな努力がアフリカの各地で続けられてきた。そして今がある。この状態を維持するために障害となるも のは、当然のように排除される。ただひざまずくことだけが求められ、浮気は許されない。これからも冷徹なムチは振り続けられることだろう。そのための傭兵 たちは、油の守護神としての役割を演じなければならない。一神教の神は嫉妬深いのである。

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2004年11月14日(日)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清
  【コナクリ発】東京の浅草名物、雷おこしを食べたことがありますか。米と砂糖と水あめと、おそらくはただそれだけの材料で仕上げられた、とても素朴でとり たてて深い味わいもないような、格別なんということのないお菓子です。それでも、ポップコーンのように膨張した米粒の、頼りなくすかすかっとした舌触り と、それをくるんだ水あめのさらっとした甘さが、ひと昔前の東京のお土産が放つきらめく異郷の香りのひとつとして、東京育ちではない人間の遠い記憶の中 に、ほのかに固定されています。――その記憶の原点から見れば、現在売られているピーナッツの入ったおこしなど、それは邪道のおこしとも思えるのですが、 人の好みは時代によって変遷するもののようですから、あえて声を張り上げる気もなく、またそれは今日のお話の目的でもありません。

 ◆戦略家サモリ・トゥーレ

 ギニアの首都コナクリから国道を北東方向へ400キロほど走ると、急なカーブの続く山道を下った先で風景は一変し、遠くに急峻な山並みを従えた甲府盆地 のようなたたずまいの平原が現れます。ダボラという町です。土地の言葉で「ダボの郷」を意味するこの町は、昔ダボ一族が造った町らしいのですが、1800 年代終盤、当時ワスルー族の王としてマンディング文化圏で権勢を誇っていた戦略家サモリ・トゥーレに追われ――それは、フランス軍とのゲリラ戦のための戦 闘員と物資の徴発のためだったと推察されます――戦わずにその町を明け渡したと、親しくしているダボ一族の末裔から最近何度か聞かされました。

 この頃、フランスの侵略軍はすでにギニア内陸部にまで足を伸ばしています。 サモリ・トゥーレは近郷近在の有力者を糾合し、フランス軍へのゲリラ攻撃を続けていました。この動きは一時期かなり成功し、土地勘の希薄なフランス軍兵士 たちを悩ませたもののようです。それは、1904年に、フランスが現在のギニアを植民地支配宣言するほんの何年か前のことでした。

 ちなみに、1958年にフランスを追い出してギニアを独立に導き、初代大統領となったセク・トゥーレは、サモリ・トゥーレの孫あるいは曾孫にあたる人です。

 ◆胡麻のおこし

 1970年代のある年の乾季、私めはこのダボラに数週間滞在していました。 仕事でたまたまそこにいることになっただけのことで、その土地の歴史背景などまったく無知のままでした。またそれらしい情報や資料を入手できる環境でもなかったのです。

 全土的に物資の乏しい時代だったのにもかかわらず、このダボラの町の市場には、いつでもそれなりの農産品が並べられていました。ソースの材料となるマニ オクの葉、わけぎ、ニンニクほどに小粒の玉ねぎ、落花生をすりつぶしたもの、燻製の川魚、カボチャ、タロイモ、調味料スンバラの材料となるネレの実を発酵 させた団子などなど、ごく日常的な食品を売るテーブルが雑然と並べられた市場の中の、おそらくは市場唯一の菓子コーナーで、毎日数量限定で胡麻のおこしが 売られていました。既成のお菓子などとうてい存在し得ない時代の地方の町で、おこしのテーブルは異色の存在に思われました。

 このおこしは、西アフリカ起源の胡麻(胡麻は西瓜と同様、西アフリカ起源の植物で、イラン、イラクあたりを経由して各地に伝わったものとされている) を煎り、この土地で採取した蜂蜜を使って赤ん坊の手のひらほどの大きさの円形に固めたもので、さらっとした味わいは雷おこしとまったく瓜二つでした。 胡麻の香りがなかなかにいい雰囲気を出していました。遠い日本の郷愁を手繰り寄せるような気持ちで、滞在中に何度か、朝早めの時間に買出しに出かけてみた ものです。一足違いで、残りのおこしをレバノン人の女の子に買われてしまって、ひとしきり残念に思ったこともあります。

 その十数年後、このおばさんが胡麻おこしを商っていたテーブルに立ち寄る機会があって、かつての懐かしいお菓子に再会することができたのですが、つい最 近この市場を覗いた時には、あのテーブルはもう跡形もなく消えていました。

 それでもある日、首都コナクリで、マリンケ族の小さな女の子が頭に金属の盆を載せて胡麻のおこしを売って歩いているのに出会い、嬉しくなって残りすべて を買い取ったことがありました。尋ねれば、母親が作っているとの返事。 事務所の人間におすそ分けしたら、高地ギニアではけっこう普通に作るお菓子だとの反応がありました。

 ◆奴隷街道に残るバオバブ

 たまたま手にしたMamadou Camara著『Le floche』を斜め読みしていたら、このダボラの町からさほど遠くない村の名前が出てきました。クルフィンバ。 これは土地の言葉で「大きな黒い岩」という意味になるのですが、その言葉どおりこの村の背後には、お子様ランチの型抜きのご飯のような形で、黒いつやつや した巨大な岩の塊が控えているのです。大地から突出したこの岩の塊は、観光地としてその名を知られたオーストラリアの「エアーズロック(ウルル)」よりも いくぶん規模が大きいように思えます。村からは、この黒い岩の塊に沈む夕日を眺めることができます。

 Mamadou Camaraは書いています。――個人の意思を剥奪された奴隷たちは、「大きな黒い岩」を通ってやってくる――と。つまりこの村は、大西洋の海へと続く奴 隷街道の通過点にある村のひとつであったようです。村の入り口には、海岸地方へ連れていかれる奴隷たちの足跡を静かに眺めていたはずのバオバブの巨木が三 本、一直線に並んでいました。――十年ほど前、道路拡幅整備の際に一本倒され、海の向こうの国へ連れ去られた人々の瞳にはたった一度写されただけで、遠い 故郷の記憶としてそのまま消えてしまったクルフィンバ村の三本のバオバブは、今は二本だけとなっていますけれど。

 このクルフィンバ村よりもさらに内陸の村々から、例えば現在のアメリカの南部、ヨーロッパからの移民集団が先住民から略奪した未開発の大陸へと送りこま れ、あるいは綿花の栽培に使役されたことになります。それがアメリカ建国当時の経済発展の礎となり、同時にポルトガル、スペイン、フランス、英国、オラン ダ等の奴隷貿易公認国家の富を増大させることに貢献したということになるわけでしょうか。

 ◆奴隷の積み出し港

 アフリカ大陸の内陸部から海に向かう奴隷街道を自らの足で歩かされ、ついに「出荷」のための港に着いた捕われの人々は、そこで船待ちをさせられることになります。

 奴隷貿易の拠点として有名な西アフリカ・セネガル沖のゴレ島、ガーナのエルミナ城などはそれぞれに奴隷運搬船待ちのための一時的な収容所であると同時 に、競合するヨーロッパの他の勢力からの攻撃と強奪を防ぐための要塞でもありました。

 例えば、奴隷貿易の時代のゴレ島の高台に配備されていた巨大な大砲は、錆びてはいるものの、長大な砲身が現在にまでそのまま残されています。その地下室 では、砲弾を運搬するための英国マンチェスター製のレールとトロッコの残骸を見ることができます。

 そして、どの積み出し拠点にもキリスト教会が建てられていて、奴隷貿易に携わる白人を信仰の面からも支援していた様子がうかがえます。つまり、アフリカ の未開の野蛮人をキリスト教文明の恩恵に浴させることが信者の使命であると諭し、信じさせ、あるいは信じたつもりで、人身売買・虐待・虐殺の免罪符にして いたというのが、奴隷貿易を正当化した時代をくくる一般的な説明となっているようです。

 これは、世界の隅々にまで「民主化」という名の似非宗教を広め、虐げられた人々を解放することが使命であるとするお題目を唱えながら、日々殺戮に精を出 しているどこかの国の狂信者たちとまったく同じ理屈であるように私めには思えます。むろん、目先の餌を求めて狂信者に精一杯尻尾を振るだけの、人間として の誇りを知らないお追従の手合いは論外ではありますが。

 ◆奴隷を商ったギニア人

 実はギニアにも、奴隷を収容し積み出した拠点が今でも残されています。現在の首都コナクリから、海岸線に沿って北東方向へ150キロほど行ったところに あるボファという町に、その古い建物はあります。ゴレ島、エルミナ城のようには整備されていないものの、人間が人間を喰い潰した時代の歴史資料に触れるこ とはできる状態になっています。

 Mamadou Camaraが書くところによれば、マングローブの茂みに隠れたこの場所は、英国が奴隷貿易禁止法を定めた1807年以降も、さらに数十年間にわたって機 能していたとされます。――米国が奴隷解放宣言を公布したのが1863年であることからすれば、それは十分にあり得ることでしょう。

 「大きな黒い岩」に身の不幸を呪い、バオバブのある村を通過して海辺の町ボファについた捕われの人々は、この土地の奴隷売買業者の支配下に置かれます。 そして手始めに、業者が信頼している有能な呪術師にゆだねられ、その呪術によって反抗心をそぎ、すべての記憶を消し去る処置がなされたといいます。 むろん、部族も出身地も自分の名前さえも。それは、黒人の奴隷業者にとっての、かすかに残る良心を慰める免罪符となったのかもしれません。

 ――この地の奴隷売買業者は海辺の町の出身者ではなく、私めの観察によれば、内陸の、むしろ連れ去られた人々に近い部族の一団であったように思えます。 彼らは内陸から海辺の地――スースー族の文化圏――に移住し、そこに定着して白人に奴隷を引き渡す役目を果たしました。彼らは、姓だけは出身部族固有のも のを使っているものの、今では出身母体の文化と伝統は完全に忘れ去り、すっかりスースー族の文化・習慣に溶け込んでいます。そのいくつかの家族と付き合っ た経験から言えば、気質までスースーそのものになりきっているようです。

 このボファの地には、奴隷貿易の時代からの伝統を伝えるギニア最古のカトリック教会があります。地域住民にも信者が多数いて、現在では、キリスト教徒と イスラム教徒との結婚もごく自然に行われる土地柄です。むろんそれぞれの信仰を変えることなく。

 ◆末裔たちのその後

 遠来の奴隷売買業者はこの地でしっかりとした地歩を築き、先祖の血筋は異なるものの、今ではスースー族の社会の中で名家として認知されています。その理 由から、スースー族の大統領による現政権下では、すでに複数の末裔が政府高官に抜擢されました。

 ある時、その一人を知り合いのギニア人と共に訪ねたことがあります。知り合いの彼は開口一番、「あんたの奴隷はどうしているかね」とその高官に挨拶し、 そばにいた私めはその意味が理解できずに、話しかけられた人の表情が一瞬こわばったのだけを記憶に残したことがありました。――その高官は業者の末裔だっ たのです。知人は前政権の時代に亡命を余儀なくされ、長年の国外生活の後、政権が変わってやっと故郷に戻ってきたばかりの硬骨漢でした。

 またある時は、事務所のスタッフと役所に出かけ、そこの長に会うために老齢の女性秘書を訪ねたことがありました。スタッフが秘書に自分の名を告げたとた ん、彼女は彼を見つめて、土地の言葉で「ああ、私の奴隷」と人差し指を突き出しました。彼は秘書の姓を尋ねて、「いいや、あんたこそ私の奴隷ではないか」 というような意味の言葉を早口で興奮気味に繰り返し、私めはまったく状況を理解できないままに、二人のやり取りを眺めていました。

 この彼は、先にお話した、戦略家サモリ・トゥーレに戦わずに破れ、おそらくは手元の奴隷を取り上げられたダボ一族の末裔であるのです。そしてその当時のダボ家に従属する奴隷の子孫の一人がこの秘書であったわけです。

 ◆胡麻の幻想

 そして時折、胡麻のおこしの連鎖を思うのです。高地ギニアで育った子供が、母親の作った胡麻のおこしを食べ、それを記憶に刻み、アメリカ大陸へと送り出 され、今度はそこで自分の子供のために胡麻のおこしを作ったのではないかと。その子供も同じことを繰り返したかもしれないと。

  アフリカ大陸から連れ出されたほんの何代か前の先祖たちは、アメリカ大陸の富を増すためにその血を流し、その末裔が、今は生きるためにその土地の軍隊 に雇われ、世界最大規模のテロリスト集団の一構成員として、飯のために他人の血を流すことを義務付けられている。あるいは自分の血を流さざるを得ない状況 に追い込まれている。

 もしかすると、そんな状況のわずかな隙間で、彼は、あるいは彼女は、母親が作ってくれた胡麻のおこしの味をふっとよみがえらせることがあるかもしれないと、そんなことを思ってみるこの頃です。

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2004年10月07日(木)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清
 【伊豆発】伊 豆の山の中は、日中の日差しはアフリカの太陽にも負けないほどに強いのですが、もうけっして夏ではないという空気があたりいっぱいに満ち満ちていて、散っ た金木犀の花びらが風に吹き寄せられて道の片隅に集い、ピラカンサの朱色の実が、ムラサキシキブの淡い紫の実が、日毎に鮮やかさを増し、ホトトギスの花に 秋の蝶と小太りの蜂が蜜を求めて立ち寄り、雑草にまぎれて花をつけた赤紫のコスモスが冷めた季節の風に揺らぎ、山茶花も花咲く時に備えてじっくりとつぼみ を育てている、なんとも嬉しいばかりの情景が拡がっているこの頃です。そして夜ともなれば、地の底から湧き上がるほどのアオマツムシの鳴き声が体の芯にま で染み込んできて、心はまったくの四面楚歌となります。

 この十五夜には、ススキと山萩とそのあたりで拾ってきた山の栗を供えて、涼やかな満月を楽しみました。子供の頃には山で採ってきた女郎花も添えて、月明 かりでの影踏みに興じた記憶もあるのですが、それから後は、日々の動きに追われているばかりで、落ち着いて月見などということをしたこともなかったように 思えます。

 そういえば何日か前には、山の小道を横切る狸の親子連れに出会いました。 親のほうはすばやく藪に姿を隠してしまったものの、子狸二匹はじっと立ち止まって、いかにも怪しげな見慣れぬ男の姿をじっくりと見つめていました。この子 たちが今年の十五夜の月を眺めたものなのか、浮かれて腹鼓を打ったのかどうか、それは残念ながら知る由もありません。

 ◆格安の通話料金

 まあ、このようにして、ギニアの空気を遠くへ置き去りにしたまま、日本の秋にゆったりと溶け込み怠けていられるのも、実はギニアとの通信事情がかなりよ くなってきたおかげです。最近ひろく普及したインターネットを経由するメールであれば、通信費用を気にすることもなく、双方ともに勝手な時間にメッセージ を投げ込んでおけますし、電話回線の品質も以前と比べれば比較するのも恥ずかしいほどに改善され、それに加えて、日本側の通信料金も格段に安くなりまし た。海外との通話はKDD独占の時代には、ギニアまでの一通話が千数百円していたはずですけれど、別の会社を使えば今では一分間90円ほどで安定した会話 が可能となりました。これとは別の選択肢でも、ギニアの携帯電話宛に一分間0.147EU(約20円)で通話ができるシステムも出現しています。

 ギニア側の通信事情もここ数年で大きく変わりました。都心のコナクリには当然のようにインターネットカフェ(ギニアではシーベルカフェという。 Cyber cafe)が増えて、一般のギニア人はここで海外の情報を検索したり、メールの受発信をしたりすることがごく普通になってきました。旧国営電話会社の国際 通話料金がけっこう高価であることから、ネットを通して海外への電話をかけることもだいぶ以前からはやっているようです。もっともネット回線の速度が必ず しも速くはなく、また充分には安定していないことから、通話の品質はかなり落ちますけれど、料金が格安であることの見返りに、必要な用件が伝わればそれで いいと割り切るしかないのでしょう。

 ◆固定電話の悲劇

 ギニアでの固定電話は、旧国営電話会社(実際には、民営化されてマレーシア・テレコムが経営している)が、交換機に現在以上の投資をする気がないことか ら、新規の回線取得は非常に困難です。幸いに(あるいは不幸にも)回線が確保できたとしても、それが国際電話をかけられる契約となっている場合には、新た な困難に直面するケースが多々あるようです。

 この国のかなりの人々は、海外へ出稼ぎに出た親族からの仕送りで日常の生活を維持していますから、金送れの催促も含めて、ギニアから親族の働く世界各地 への通信需要が非常に多いわけですが、当然のように安い通話料金しか払えませんし、払う気もありません。

 そこで、電話会社の現場の技術者と結託した私設電話屋が、夜だけとか、週末だけとか、適宜な時間帯に他人の電話回線を勝手につなぎ替え、個人の客に安い 料金で利用させるという、なんとも妙な商売が発生することになります。 電話回線乗っ取りの泥棒稼業ではあるのですが、一般の電話加入者にはその泥ちゃんを特定することは無理であると同時に、危険な作業ということにもなりま す。なにしろ、相手はこちらの動きを読めていて、こちらが彼らの正確な正体を知らないだけなのですから。社会政策上、電話会社も警察当局も、取り締まりを 避けているともいわれますし。

 ◆携帯電話の普及

 固定電話の普及に制約があれば、現代の新技術を活用した電話線いらずの携帯電話が登場するのは自然の成り行きです。民営化された旧国営電話会社、レバノ ン人経営の携帯電話会社、ギニア人経営の携帯電話会社(だいぶ昔に更迭された元首相がオーナーであるために、いろいろと妨害があるらしい)等々が携帯電話 の普及に力を尽くしてきました。

 旧国営電話会社の場合は、地方のいくつかの大きな町にも中継設備を設置したりして、圧倒的なシェアーと人気を確保してはいるのですが、設備の能力以上の 端末を売ってしまったために、つながりにくいという苦情が殺到し、ここ何年か新規の契約は公式には受け付けていない状態となっています。――日本のパチン コの景品交換と同様、抜け道が用意されてはいるのですが、とんでもなく高くつくもののようです。

 海外からギニアへ仕事でやってきて内陸部へ入る人たちは、たいていはインマルサット衛星電話かイリジウム衛星電話を持参します。前者のほうは静止衛星を 使うために後者との比較では端末がいくぶん大型(可搬タイプでノートパソコン程度)となり、しかも消費電力が大きいのが難といえばいえないこともないので すが、奥地の事務所などで半固定で使う分にはかえって使い勝手がよいものです。

 イリジウム衛星電話は、日本国内で一般に使われているケータイとほとんど同じ感覚で使える国際的な衛星携帯電話です。地球上空を周回する60個以上の低 軌道衛星を利用して、屋外であれば世界のどこからでもどこへでも通話ができる(一部に制限があるらしいものの)システムで、たしかにとても便利なもので す。

 ◆イリジウム衛星への蛇足

 このイリジウム衛星は、低軌道であることと、飛んでいる衛星の数が多いことから、地上から肉眼でも、光る物体として簡単に観察することができます。 またネット上には衛星の軌道や地上から太陽の反射光が見える時刻を計算してくれるサイトもあって、実はこのおかげで、私めにも腕のいいにわか呪術師を演じることができるのです。

 日暮れ時、――この時分が胡散臭い雰囲気にはピッタリだとニセ呪術師は信じているのですが、あらかじめ衛星が現れる時刻と位置を頭に入れておいて、例え ばギニアの友人たちと一緒に夕涼みでもしながら世間話をしていることにしましょう。あるいは、もっと真に迫った話題で場を盛り上げておくのもいいかもしれ ません。

 件の時刻が近づいたら、おもむろに空の一角を指差して、「あそこに、光る物体が現れるぞ」とでも予言をするか、あるいは「この指で、あの空に光る直線を 描いてみせる」とか言えば、それらしい現象が本当に実現してしまうのですから、演技力しだいでは「現代版陰陽師・安倍晴明」になれるかもしれません。ある いは胡乱な新興宗教の指導者にでも。

 ところでこのイリジウム、その実態は軍事通信衛星であるということはあまり知られていないようです。民間の人間にも使わせているのは、看板をカムフラー ジュさせるためには役立っていますけれど、実際のところそれはまったくおまけのようなものです。

 HF帯、VHF帯の電波を使う従来の軍事用移動通信機では、機材の重量、通信可能距離、通信の安定性等々にいろいろな不都合があります。VHF帯の電波 では比較的安定した通信が確保できるものの、距離が稼げません。HF帯の電波を使用する場合は長距離の交信が可能であるけれども、通信の安定性、確実性は 電離層の状態に大きく左右されます。

 例えば、1991年の第一次湾岸戦争で英国の特殊部隊SASがイラクの砂漠で行った「ブラヴォー・ツー・ゼロ」と通称されるゲリラとしての破壊工作作戦 では、工作員が持ち込んだHF帯の無線機で作戦本部との通信が確保できず、砂漠からの脱出に失敗しています。電離層の状態変化に合わせた適切な周波数を選 択できなかったことが、通信途絶の原因でした。――世界最強と称される英陸軍特殊部隊といえども、知識不足に起因する杜撰な準備を行うこともあったようで す。

 この戦争と前後する時期、米国のモトローラ社主導でイリジウム衛星携帯電話計画がたてられ、日本の京セラ社なども参加して総額6000億円程度の投資を したものの、60個を超える通信衛星の打ち上げと複数の地上局の整備、端末の製造など、多くの時間を要する壮大な作業が一段落する頃には、世界の携帯電話 を取り巻く環境が大きく変化していました。そしてイリジウム社は経営を維持できず会社は破産することになります。この衛星電話会社の破産処理として、衛星 を含む一切のシステムを2000年暮れに米国防総省のダミー会社が30億円ほどで引き取りました。実際のシステム運用はボーイング社が引き受け、米国防総 省を「メインの顧客」として、現在世界各地で展開している英米の侵略戦争を通信面で強力に支援しています。

 卑近な例では、ギニアの隣国シエラレオネの「ダイヤモンド戦争」終末期の様子を、英国軍側の眼で書いたWilliam Fowler著『Operation Barras』を読むと、内陸部で工作遂行中の英国軍将校(多分SAS隊員)は、シエラレオネの首都フリータウンにある司令本部へは直接の連絡をとらず、 本国の家族に向けて衛星電話をし、司令本部はそれを常時傍受していて、家族との会話に含まれるキーワードから業務報告を受け取っていた様子がうかがわれま す。記述から推測して、ここで使われていた衛星携帯電話は、インマルサットではなくイリジウムのようでした。

 ◆ギニア国内の短波無線通信網

 ギニア国内では、30年ほど前に整備されたマイクロウェーブ回線網によって、首都コナクリと各県庁所在地との間で電話が通ずることになっています。 ――この工事の一部は日本のメーカーが実施したものですが、当時の社会環境、道路事情などを考えると、かなりの苦労があったものと思われます。奥地の深い 木々に覆われた小高い丘の上にも、アンテナタワーが何基も建てられています。

 もっともこの設備もすでに老朽化し、補修もままならぬ旧式の機器となってしまいましたから、コナクリから各県庁所在地への電話は通じないことのほうが多い様子です。

 それで、コナクリの内務省と地方官庁との一般連絡は、HF帯の無線機を使って行われています。これにはすべて、アマチュア無線機と同型の日本製の機械を 使用。アマチュア無線機は業務用専門メーカーの無線機と比較すると格段に安い価格で入手できることと、みかけ上の性能にはさほど差がない、というのがその 理由でしょう。

 我々も、キャンプ所在地の県庁に用事がある場合は、事務所の無線機からその内務省通信網の周波数にもぐりこんで県庁の通信担当を呼び出し、伝言を託すのがいつものやり方となっています。

 ◆村人の通信センター

 キャンプのあるギレンベ村から千キロ離れた首都コナクリへ嫁いだり、公務員としてコナクリに職を得たり、あるいは何かの縁でコナクリへ移住したりと、現在コナクリで生活しているギレンベ村出身者は少なくありません。

 この人たちが村の親族と連絡をとりたい場合、村にも県庁所在地にも郵便局など存在していませんし、ましてや電話局など夢のまた夢という環境にあるわけで すから、その手段は極端に限られていて、通常は、村に帰る人間が手紙なり伝言なりを預かることになります。

 ところがだいぶ以前に、彼らはすばらしい通信手段を発見しました。それは我らが事務所の無線機。コナクリ事務所とキャンプ事務所とは、定期的に無線通信 を行っています。それを知っている気の利いた村の関係者が、この設備の利用を申し出てきました。いつも気にかけてもらっている村の住民の、おそらくは切羽 詰った願いであれば、それは喜んで受けるしかありません。

 コナクリの住人から村の誰かへの通信リクエストであれば、緊急でない限り、話したい相手と日時を前もって特定してもらうことになります。それをキャンプ 事務所のスタッフが村へ出かけて伝え、呼び出された村人は、当日の指定時刻に現地の事務所の無線機の前に座ることになります。

 ◆遠く離れた同窓会

 ある朝のこと。しっかりと着飾った女性が5人ほど連れ立ってコナクリの事務所へ登場。そのうちの何人かはかつての舞の海に匹敵するくらいの立派な体格で ――はっきりいえば、食べすぎと運動不足でただ単に太りすぎているだけなのですが(この国では裕福であることの象徴です)――、紫の口紅までつけてかなり 力が入っている雰囲気なのです。何の用かと思ったら、村との通信が予定されているとのこと。

 彼女たちはコナクリで生活していて、村の幼馴染たちともう何年もの間話す機会がなかったものの、あの事務所へ行けば村の人との会話ができると人づてに聞 き及び、同郷の仲のよい者たちが打ちそろって出かけてきたもののようでした。それで、一人ずつ交代して村の無線機に向けて懐かしさたっぷりの挨拶を届けた 後、再びマイクを回して同窓会のような雰囲気の中で大声で話しかけ、無線機の向こうの相手が何か答えるたびに笑い転げ、皆が顔を振り手をたたき、いつ果て るとも知れぬ酒抜きの饗宴が続いていました。

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2004年07月19日(月)萬晩報通信員 齊藤 清

 【コナクリ発】夜の赤坂一ツ木通りあたりで、「ねえ、社長さん」などと声をかけられたら、ましてやそれが深いスリットの入った黒いドレスの妙齢の女性で あったりしたら、これはちょっとご用心、ということになる。むろん新宿歌舞伎町界隈の、「ちょっと旦那」あるいは「オニイサン」と呼びかける手合いだっ て、同様の危うさを秘めている。

 これがギニア・コナクリであって、昼間そのあたりの市場でも歩いている場合だと、「パトロン、いいものがあるよ」とか、「パトロン、こっちこっち」とか、そんな声が四方からかかってくることになる。

 むろん同じギニアであっても、場所が変わり、会話の相手が変われば、パトロンが大統領を意味することもあり、そんな場合には彼に調子を合わせ、「我々の パトロンは・・・」と仲間意識を鮮明にして迎合し、相手をくすぐってやる、ということもないではない。

 パトロンという単語を手元のフランス語辞書に尋ねてみると、店の主人、経営者、親方などという解釈がまず現れていて、日本で密やかに使われる傾向のある保護者、庇護者といった意味合いでの特殊な用法はずっと後のほうに出てくるもののようだ。

 ともあれ、フランス語圏でのパトロンという呼びかけは、日本での用例よりはずっと幅広い内容が含まれていて、それほど特殊なものではないらしい。

 ◆わが師マンサ

 ある朝、それは日曜の朝だったのだけれど、キャンプの食堂で朝食をすませ、腰を上げずにそのままギニア人スタッフとお喋りをしていると、待ちくたびれた ような表情の男が「パトロン、おはよう」と呟きながら顔をのぞかせた。彼は絶対に私めの名前を口にしない。いつも、パトロン、と呼びかける。「あんたたち のパトロンのように、カミさんが三人もいないし、軍隊の指揮権もないし、ましてや風光明媚気候清涼なフータジャロン(中部ギニア地方の総称―西アフリカの スイスとも言われる)にキラキラのお城など持っていないから、パトロンと呼ばれる資格はない」と宣言しても、彼はただニヤニヤするだけである。

 彼の名前はマンサ。この地方には昔、マンサ・ムーサという名前の著名な王様がいたから、その名を借りたものかもしれない。また、その昔、ケイタという姓 のやはり著名な王様が覇を唱えていた時代もあり、キャンプ地の村が当時の首都に程近いことから、その末裔であるとでもいうように、この村の家々はすべてが ケイタ姓である。より正確には、生まれながらにグリオとしての職掌を果たすことを運命付けられたクヤテ家(現代では、村の儀式の補助をする程度の役割) と、たまたまどこかから流れてきて村のはずれに住みついたフラ族の牛飼いの一家と、あわせて二家族だけがケイタ姓ではない。ついでに言えば、両隣の村も、 ケイタ姓と、それに付随するとされるクヤテ家だけである。それで彼の姓はケイタ。マンサ・ケイタである。多分。さらに蛇足ながら、私めの現地名はサイト ウ・ケイタ。

 マンサは鍜冶の家系の出身である。もっとも、父親の時代で鍜冶本来の仕事はその役割を終えたものらしく、マンサ自身は今は我らがキャンプでパジェロの運 転手をしている。それでも門前の小僧としての鍜冶の知識と、学校では教わることのないさまざまな情報をたっぷりと蓄えている。それをひけらかすことはない けれども、訊ねればたいていは期待にこたえてくれる。還暦をいくつか超えているはずだ。大学出のギニア人スタッフとは引き出しの中身の厚みが違う。――む ろん彼らもそれなりには優秀なのだが。

 そのマンサと、山へ行く約束になっていた。車の走れる道ではない。目的地までの距離を訊いたら「パトロンなら歩ける程度」としか答えない。それじゃ何時 に帰ってこられるかと問えば、欠けた歯を露わにし、冷やかすようなしわがれ声で、「夕暮れ前には」と歌う。

 私は私で、小さなリュックに水とフランスパンと鰯の油漬けの缶詰(モロッコ製が村の雑貨屋でも買える)、タオルと小型のGPSと愛用のコンパクトカメラ を投げ込み、腰には歩数計をつけ、ポケットにはナイフをしのばせ――蛇との戦いに備えて――、すっかり小学生の遠足気分。小さな懐中電灯まで用意した。

 ◆トゥドゥ・ララン

 朝から気温はかなり上がっているけれどそれはいつものことで、強い日差しも気にはならない。ゆっくり歩こう、という枕詞をつけての出発ではあったけれ ど、痩身のマンサは後ろも見ずに飛ばす。明るい林の中の細い道ではあるものの、踏み固められていてさほど歩きづらいことはない。起伏も少ない。空気が乾燥 しているから汗が流れ落ちることもない。着ているシャツはいつもサラサラである。

 セミ時雨が耳の奥に染み付いたまま、マンサの踵ばかりを追いかける時間が過ぎて、一息つきたいと思い始めた頃、路肩に蘭の仲間とおぼしきあでやかな黄色 の花を見つけ、マンサに声をかけて歩みを止める。この地方でも、季節ごとにそれなりの花がつつましやかに踊ってくれるものの、たいていはかなり地味な装い である。時に、瞳に花の色が写りこんでしまうような派手なものもあるけれど、数は少ない。マンサに花の名前を尋ねると、土地の言葉マリンケ語で「トゥ ドゥ・ララン」、日本語にすると「蛇のねぐら」とでもいうことになるらしい。このあたりの山に十年ほどいて初めて見る花だ。

 長さ十センチもないような細身の葉を四枚だけ放射状に地面にへばりつけて拡げ、その中心から直接に、まさに地面からまっすぐにトランペット形の花を天に突き出している。その高さは三十センチほどか。口径は五センチくらい。 すべてが花で、茎らしいものが見当たらない。鎌首をもたげた蛇の図、とでもいうのか。その花の二、三株の集落が、五百メートルほど歩く間に十ほどあっただろうか。乾ききった大地の木陰に点在する至福の眺めである。

 横道にそれたままで座り込んでいたら、マンサが軌道修正して、「パトロン、日が暮れるよ」と歌う。たしかに今日の目的は花ではない。しかし、心惹かれる花があれば、それを愛でるのも悪くはないだろうに、と独り言。

 ◆溶鉱炉の遺跡

 歩数計が九千歩に近づいたあたりで、村の裏手でも見たことのある粘土造りの溶鉱炉が姿を見せた。製鉄をやる炉である。直径一メートル、高さが一メートル 半ほどの尻がすぼんだ細身の素焼きの壷を、逆さにして地面に伏せたような形。壁の肉厚は二十センチほど。この土地でよく見かけるシロアリの塚を、人間がま ねて作ってみたような造形でもある。地面に接した部分をくりぬいて、高さ二十センチほどのアーチ型の空気採りの窓が、壷を一周して七個ついている。

 初めに見た炉は、先端部分が少し欠けているだけで、精緻に造形されたものとは言えないものの、それでも充分に端正な形を当時のままに残していた。これは 製鉄作業を終えた後の放棄された炉である。高温で焼かれた後の粘土だからこそ、長い年月の風雨、太陽の強烈な熱射に耐えて、現在にまで姿をとどめてきたも のにちがいない。いつの時代に作られたものかは知らない。溶鉱炉は常に消耗品であり、この炉そのものは、それほどには古くないのかもしれない。

 山道から四、五十歩のところに、ほっそりした姿の炉が二基残っていた。土地が痩せているから、炉の周囲には丈の低い草がまばらに生えているだけ。そこか らさらに四、五十歩離れた場所には、いくぶん太り気味に見えないでもない炉が三基、隣り合わせに並んでいる。手前の二基と立ち姿が違って見えるのは、炉の 製作者の手の違いによるものか。

 ここに残されていた都合五基の炉には、今までには見たことのない特徴があった。炉の壁を作るとき――下から粘土の団子を積み上げていくときに、手のひら の大きさほどに割った鉄滓(てっさい)のかけらをいくぶん規則的に並べ、粘土の壁にびっしりと封じ込めてある。外壁には、黒いかけらの一端がまったく無頓 着に飛び出したままになっている。。褐色の肌に、割れ目の不規則な艶々した黒い岩の塊がごっそりとはめ込まれている感じだ。内壁には、半壊した炉の壁を見 るかぎり、鉄滓のかけらが飛び出しているようには見えないけれど、あるいは高温で溶けてしまったのかもしれないし、確かなことは言えない。粘土を節約する ためだったとは思えないから、鉄滓の黒い塊には何らかの別の役割があったのだと思う。

 ◆西アフリカの鉄

 1993年、パリの「アフリカ・オセアニア博物館」で開催された『ニジェ
ール川流域展』のカタログには、西アフリカ・ブルキナファソ共和国で撮られた「古い溶鉱炉」というタイトルの写真が載っている。炉の形は、造り手の個性の せいか、キャンプの村のものとは微妙に表情が異なるけれど、基本的な形、大きさに違いはない。炉の外壁は粘土だけで仕上げられている。

 以前、ブルキナファソの金鉱山視察に行ったことがある。コナクリ空港から、ローカルの飛行機を乗り継いで行ったもので、かなり面倒な旅程であった。今あ らためて周辺国の地図を眺めてみたら、キャンプ地からブルキナファソのあの場所までは、陸路で八百キロ程度のものだ。

 あの山のふもとの村では、鉄滓(鉄鉱石から鉄をとったカス)を石垣のように積み上げて、土地の境界を表示する用途に使っていた。放棄された溶鉱炉を見る 機会は得られなかったものの、そこが製鉄をやっていた土地であることを強く印象付けられた。また、あの土地で喋られている「ジュラ語」は、キャンプ地の言 葉「マリンケ語」とまったく同じものであったから(おそらく)、どちらも同じ文化圏に属していると言えるのだろう。

 このキャンプの村から九千歩ほど離れた「製鉄所跡」の五基の炉には、鉄滓を使って何らかの意味を持つのであろう細工、あるいは工夫が施されていたけれ ど、村の裏手のマンゴーの木の下に残されている古い二基の炉は、ブルキナファソのものと同じく粘土だけでできている。

 『ニジェール川流域展』のカタログは、この地域では紀元前2000年頃から鉄を生産していた、と解説している。ちなみに、中国での製鉄の歴史は、紀元前600年頃に始まったとされているようだ。

 ◆金と鉄の関係

 たしかに、鉄の道具がなければ、村人が西アフリカのこの地で金の採掘をすることは無理だった。川での砂金採りはその成果が微々たるものであるし、山で掘 るとなれば、地面を覆っているラテライトの固い岩盤を掘り進む必要がある。現代の村人は、二十センチほどの鉄の歯に短い木の柄をつけた片手用のツルハシ で、岩も、固い粘土層も、やわらかいカオリンの層も、すべて掘り崩していく。この極めてシンプルな道具の形は、ずっと昔からほとんど変化していないのでは ないだろうか。

 昔、エジプト、北アフリカ、ヨーロッパ方面へ、この地方から金の供給を続けることができたのも、鉄があったおかげである。金を生産する以前に鉄の存在が必要とされた。

 わが師マンサの後についてゆるい斜面を昇り、すぐ近くの薄暗い林に入ると、小さな横穴が二つ。「蛇がいるかもしれない」とマンサが言うものだから、横穴 の入り口あたりに転がっている岩のかけらを二つ、三つ拾っだけで、穴の中を覗くのは止めにした。ここが鉄鉱石を掘り出した跡になる。

 この鉄鉱石と、その辺りに生えている木から作った木炭を、炉の中へ交互に積み上げてから火を入れる。すると、しだいに炉の中の温度が上がり、数日の後 に、還元された鉄の塊が手に入る。「ふいごはどうしたのだろうか」とマンサに尋ねると、彼は自信を持って、「必要ない」と答えた。彼自身は製鉄作業をした ことはないらしいのだけれど、感覚的にそのように理解できるのだろう。

 とすれば、比較的低温で、例えば1000度、あるいはそれよりも低い温度で鉄を還元したことが推定される。モノの本によれば、その程度の温度でも可能なことであるらしい。

 ここでできた鉄の塊を木炭の火で再び熱して(これにはふいごが必要だ、とマンサは解説する)、トンテンカンと打ちたたいて鉄の道具をこしらえる。

 ◆ヌオイ・ダマンダ

 西アフリカの歴史の本にしばしば特筆される特殊な身分としての鍜冶の家系は、単に鉄の道具を作る技術者というよりも、製鉄技術を受け継いでいる人々であ るということに、より大きな意味があったのだと思う。鉄が、金の生産、農業生産、時には戦いの道具として、古代からこの地の人々の生活の基礎を支えてきた ことが、鍜冶の家系を敬う雰囲気を醸成したのかもしれない。

 帰り道の木陰で、フランスパンに油漬けの鰯をはさんだサンドイッチを頬張りながら、マンサがぽつりと言った。「このあたりはヌオイ・ダマンダと呼ばれている」と。

 マンサがまだ幼い子供であったころ、彼の父親がこの山で金を見つけた。それで、山の精霊に金を掘る許しを得るため、一カ月間ほどこの山にこもった。 ある夜、精霊が現れて、彼の父の願いを聞き入れた。彼は村に戻り、村の長老にそれを告げた。その時からこの山は、彼の父の名前ヌオイをとって、「ヌオイ・ダマンダ」(ヌオイの鉱山)と呼ばれるようになった。今でも村人がこの山で金を掘っている。

 4000年の鉄の歴史を今に伝えている西アフリカの、小さな村の遠い昔の記憶に、そっと触れることのできた一日であった。(『金鉱山からのたより』2004/07/18から転載)

 齊藤さんにメール mailto:bxz00155@nifty.com
2004年01月30日(金)萬晩報通信員 齊藤 清

 【コナクリ=ギニア発】2003年のクリスマス。里帰りの人々を乗せてレバノンのベイルートへ向かっていたボー イング727型機が、西アフリカのベナン共和国で離陸に失敗して海岸に墜落。この事故がアフリカの空の安全管理システムのもろさを露呈するとともに、ミステリアスな疑問を再び思い出させるきっかけとなりました。

 ◆クリスマスの悲劇

 かつて中東のパリといわれたレバノンのベイルート。当時は中東の金融の中心地としての栄華を誇っていました。しかし1975年の内戦開始、1978年の イスラエルによるレバノン侵攻、占領、それと併行するようにしてシリアによる実質的な支配。落ち着くことのない国内情勢を反映して、多くのレバノン人が国外での生活を余儀なくされてきました。いまでは西アフリカの国々にも彼らの社会がしっかりと形成されていて、それぞれの場所でけっして小さくはない経済的な影響力を維持しつづけています。同時に、隠然たる政治力を蓄えていることも否定できません。

 ギニアもその例に漏れず、例えば大統領府に続くギニアきっての目抜き通りの大きな建物の多くはレバノン人が所有し、高級住宅街の海に面した土地と豪華な住宅、それから大きなマンションなどもたいていはレバノン人が持っているという現実があります。ちょっとしゃれた喫茶店、レストラン、ホテル、商店なども レバノン資本が多く、筆者が散髪でよく世話になる「美容室」もレバノン人のセンセイ。また仕事上の事務所も実はレバノン人所有の建物の中にあります。日本大使館も、日本大使公邸も、その職員の住むマンションもすべてレバノン人所有の物件のはず。経済支援として外国政府から贈られた重機などを、現金で買い取 るレバノン人業者すら存在しているようです。お金にうるさい人たちではありますが、約束はきっちり守るという点で、とてもつきあいやすい人種というのが実 感。もっとも、お金のためならかなりの無理をする、というつきあいにくい側面を持ち合わせている人たちでもあります。

 そんな彼らのコミュニティーを悲嘆の底へと突き落としたできごとが、昨年のクリスマスに勃発。──日本の新聞記事の第一報抜粋をまずご覧ください。

【ヨハネスブルク支局】アフリカ西部のベナンの主要都市コトヌーで25日、レバノン・ベイルート行きの旅客機が空港を離陸した直後に滑走路近くの大西洋上 に墜落した。<途中省略> 同機はギニアの首都コナクリを出発し、ドバイ経由でベイルートに向かう便。アフリカ西部には大規模なレバノン人社 会があることから、乗客の多くはレバノン人とみられる。コトヌーでは乗客63人が搭乗したが、乗客総数や航空会社名など詳しいことは分かっていない。[毎 日新聞12月26日] ( 2003-12-26-01:39 )

 ◆謎のはじまり

 これは事故の第一報でしたから記事の詳細には目をつぶっていただくとして、今になってはっきりしたのは、この便はレバノン人が共同出資したUTAという 会社が運行するものであったということ。以前、エールフランスが関与する航空会社にまさにUTAフランス航空という会社がながらく存在していて、そのアフ リカ路線に筆者も何度か乗ったことがありました。その会社が経営不振で少し前に消滅したのを受けて、その知名度の遺産を利用させてもらおうと紛らわしい会社名を使ったというのが実態の、いくぶん胡散臭さがただよう新参の小さな航空会社ではありました。

 この機は、おそらくは重量オーバー(8-9トンの超過とも)で飛び上がりきれず、空港の関連施設にぶつかってから海に突っ込んだものとされています。

 Boeing 727 Datacenter(事故の概要を紹介、写真多数)
 http://727.assintel.com.br/acid/aci03-1.htm

 その後の情報によれば、乗務員を含めて総数およそ161人(定員141人) のうち、およそ139人(いろいろな数字がある)が死亡したと伝えられています。ギニア人に関しては、23人が犠牲となり、ギニア人スチュワーデス1人を 含む3人が生還。国連PKOとしてシエラレオーネに派遣されていたバングラデシュの兵士15人も犠牲に。あとの犠牲者の多くは故郷へ帰るレバノン人であっ たようです。もっともこの数字はあまり正確なものではないらしく、アングラ情報では、ひとつの座席に二人掛けもあり、床に座っていた人もいるというほどの 状態で、たしかな乗客総数は永遠にはっきりしないだろうともいわれています。

 そのわずかな生存者の中に、この会社の経営者の一人も含まれていました。家族とともにレバノンへ帰る途上だったようです。そしてこの飛行機を動かしていたリビア人クルーのうち副操縦士だけは生き残って病院に収容されました。また死亡したリビア人パイロットは正規のライセンスを持っていなかったとも伝えら れています。

 飛行データの記録されたブラックボックスは回収され、すでにフランスへ送られました。フランス(ベナンのかつての宗主国)、ギニア、レバノン、そして参加を申し出たアメリカの混成チームで記録の分析が行われることになっています。

 ◆レバノン当局の見解

 911事件の後、アメリカの航空各社は大量のボーイング727型機を放出しました。1975年あたりに就航させた、かなり疲労している機体が多かったように思われます。今回の事故機もこの中の一機であったと推測されます。しかし、公式発表とは異なる情報がいくつも飛び交い、この事故を発端として、機体の特定そのものがすでに一筋縄ではいかなくなっていることを、各国の航空業界関係者が思い知らされることとなりました。

 ベナンでの事故の後、レバノンの運輸大臣がUTA社のコナクリ-ベイルートの旅客便乗り入れを受け入れた過程について説明しています。

 『UTAはギニアで認可された航空会社である。2003年7月、ギニア側はギニアに登録されたボーイング727登録番号「3X-GDM」機によるベイ ルートへのフライトを打診してきた。機体検査の結果、安全性に問題があって旅客運送を許可しなかった。その後UTAは、スワジランドに登録されていた別の機体、登録番号「3D-FAK」機による運行を申請してきた。機体検査の結果、これにも旅客運送の許可は出さなかった。

 そして8月、ギニアの民間航空機関のトップがレバノンの民間航空機関に対して、「3D-FAK」機は技術基準に適合していると通告してきた。レバノン側はこれを運輸大臣に上申したが、大臣は許可しなかった。

 そしてギニア、レバノンの間でさらに多くのやり取りを経た後の10月27日、スワジランド登録番号「3D-FAK」機がギニアへ登録換えされたことを受けて、コナクリ-ベイルート便が許可された』

 この認可の裏には、ギニア側の一方的な奔走と、レバノン治安当局をも巻き込んでの圧力がかけられていたことはすでに表面化し、ギニア、レバノン双方のメ ディアに書かれていることですが、レバノン運輸当局はさらに、UTA社によるコナクリ-ベイルート旅客便の運行を、しぶしぶ認めたことを強調しておきた かったようです。

 ◆ギニア当局の見解と疑問

 事故の直後から、ギニアの運輸大臣がUTA社に対して便宜をはかりすぎたのではないかという声があがっていました。同時に、ある重大な疑惑がふたたびそ の陰影を深めることになりました。大臣はこれらの声には極力反応しない姿勢で、何の問題もなかったと断言し、事故機について説明。

 『このボーイング727型機の出自はアメリカン航空であり、2003年1月にアリアナアフガン航空を通して、その後2003年9月、UTA社へ移管されたものである。機体の状態はまったく正常であった』

 Benin crash plane bought from Afghan company
 http://www.wanadoo.com.lb/news/news.asp?inc=/news/afp/
english/lebanon/040102200729.mnwlcmsn.html&language=1


 そしてこの機体のギニアでの登録番号は「3X-GDM」であり、アメリカン航空時代の登録番号は「N862AA」であったとギニア側から発表されまし た。このふたつの番号は、アメリカの航空当局のデータベースの記録と合致するものであり、多くのメディアで一般的に伝えられている情報でもあります。

 もっともアメリカ航空当局のデータベースによれば、アリアナアフガン航空が入手したアメリカン航空の古い機体は「N863AA」であって「N862AA」ではないので、ギニア当局の発表には疑問符がつきます。

 今回墜落したとされる「3X-GDM」機のAA時代の写真
 「N862AA」in Jamaica, April 1995
 http://www.airliners.net/open.file/111354/L/

 ベナンでの事故の直後には、「あの」機体ではなかったのか、という憶測が流れました。実は、事故のニュースを聞いたときに筆者も反射的に「あの」航空機 のことを思い浮かべていたのです。この反応は、いくぶん形が変化したものの、今でも抱きつづけているものです。

 しかしワシントン・ポスト紙は、「あの」機体であった可能性を示唆しながらもアメリカ当局は確認を拒否したと書き、さらにつづけて、APの記者が事故現場で確認した機体の登録番号は「GIH161V71」であったと報じています。ギニア政府のいう「3X-GDM」でもなく、かつ憶測されている機体でもな い、というわけです。

http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/
A50301-2004Jan2?language=printer


 また、あるドイツ人パイロットは、「3X-GDM」機は2003年10月30日現在、トリポリ(リビア)ですでにリビアンアラブ航空のカラーに塗り替えられていた、したがって、今回事故を起こした機体ではあり得ないとの情報を伝えていました。

 ギニア当局が、事故機体確認の上で基本となる登録番号を錯誤しているとは思えません。巷間伝えられている情報に信憑性があるとすれば、ギニア当局はなぜ 正確ではない登録番号を発表したのか。そこにはどのような必要性があったのか。いくつもの登録番号が錯綜する中で謎は深まります。

 ◆アンゴラから消えた航空機

 ところで、小型のプロペラ機であればまだしも、大型の旅客機がどこかへ忽然と姿を消してしまった、などというニュースをあなたは信じることができるで しょうか。そしてそれが一カ月たっても行方が知れないとしたら...。事故を起こして海中深く沈んだのでもないかぎり、考えられないことです。以下はアメ リカからの日本語ニュースの抜粋です。2003年6月のもの。

旅客機なぞの失そう1カ月 米、テロ使用の可能性調査
<前部省略>
 19日付の米紙ワシントン・ポストによると、旅客機は5月25日夜、アンゴラの首都ルアンダの空港から飛び立ったのを最後に行方不明となった。米政府は偵察衛星でアフリカ中の空港を撮影したが、事故の可能性も含め所在に関する端緒はつかめていない。

 旅客機を所有する米マイアミの会社関係者は、旅客機は別の会社に貸与、座席シートを外して燃料タンクを設置、燃料運搬のためアンゴラ・ルアンダに向かったと話している。

 米メディアは、中枢同時テロのような旅客機を使った大規模テロから詐欺や密輸などの犯罪への利用の可能性を指摘している。
 
 Kyoto Shimbun 2003.06.20 News
 http://www.kyoto-np.co.jp/news/flash/2003jun/
20/CN2003062001000097J1Z10.html


 そして以下の記事では状況をさらに詳しく解説し、アメリカ諜報当局が衛星その他のハイテク技術を駆使して追跡しているもののいまだに見つかっていない、 アルカイダによって911事件と同様、航空機による攻撃に使われる可能性があると警告する内容になっています。

 Missing Fuel-Tanker Jet Could Be Used as Flying Bomb
 http://www.foxnews.com/story/0,2933,90269,00.html

 日本のある女性の小説家は「(アフリカの)どこかの田舎空港に着陸すると、ただちにジャングルに引き入れられ、上空からは見えない場所で解体されたのだ」と書いていましたけれど、相も変らぬアフリカ=ジャングル信仰に呆れるとともに、その小説家の想像力と現実把握能力の欠如を憂えたものです。零戦の時代のままの感覚ではないのか、と。全長が40メートルを超え、翼の長さが30メートルを超える機体を隠せる木蔭などあるはずもありません。

 ◆フロリダで航空機爆弾へと改造

 この「消えた旅客機」は、ニュースの舞台となるアンゴラ・ルアンダへ仕事に出される前は、アメリカン航空の古参機としてアメリカ近辺を飛んでいたようです。

 写真:「N844AA」in USA August,2001
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id
=64000&PHPSESSID=a7247a99b76087f8cfa8908b374acf96
  そしてアメリカン航空を引退してアフリカ・アンゴラへ送られる直前に、フロリダ州のオパロッカで会社のロゴマークを削り取られます。下の写真では、削り取 られた胴体前部の「American」の文字と、垂直尾翼「AA」のロゴ文字がその跡を残しています。そして胴のストライプのレッドがブルーに塗り替えら れました。(これは奇しくも先の事故機を運行していたUTA社のカラーになるのですが)

 写真A:「N844AA」January 19, 2002
 http://www.airliners.net/open.file/215616/L/

 前記の日本語ニュースでも触れているように、それから座席を取り払い、そのあとに容量500ガロンの燃料タンクが10個設置されることになります。それ ぞれのタンクは直径4インチのパイプとバルブで連結され、さらに揮発ガスが機内に漏れないように循環装置が備えつけられました。その結果として、通常の燃料以外に、機内に別途5000ガロン(約19キロリットル)の燃料を積むことができるようになったわけです。まさに現代の「KAMIKAZE」機を髣髴と させる特殊仕様機への変身でした。──日本語を語源とするこの「KAMIKAZE」という単語は、今では英語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、ス ペイン語などなど、特攻を意味する外国語の単語として認知されています。

 この機体は2002年3月、アメリカの航空機ブローカー会社の説明によれば、アフリカ・アンゴラの政府軍幹部が関与しているペーパーカンパニーへ、ダイ ヤモンド鉱山への燃料輸送のためとしてリースされました。この時アンゴラでは、永年にわたって反政府勢力を指揮していたサビンビが殺されて内戦が収束し、 4月には停戦合意が成立するという時期でした。

 しかしながらボーイング727型機の運行には、少なくとも3000メートルクラスの、しかも70トンを超える航空機の重量に耐えられる滑走路が必要にな るわけで、このような施設が、アンゴラ国内のダイヤモンド鉱山に整備されているとも思えず、また19キロリットル程度(100万円ほどの商品価値) の燃料をボーイング727型機で運送するという非経済的な仕事は想像すらできません。この燃料を消費する規模の現場であれば、タンクローリー車でのアプ ローチが可能であるはずです。つまり、この機体の使用目的はアメリカの会社関係者が説明するようなものであるはずはなく、やはりもっと特殊な非日常的な仕 事に備えてのものであったと推測しても、それほど的外れとも思えません。

 米連邦航空局(FAA)のデータによれば、この機体の名義は南フロリダのアメリカ人航空機ブローカーとなっているものの、実質的な所有者は南アフリカ在住の人物であると伝わってきています。

 ◆ボーイング727アンゴラから失踪

 2002年3月にアンゴラに送り込まれた「燃料輸送機」は、書類不備という理由で空を飛ぶこともなく、その後14カ月間を地上ですごしたことになっています。そして2003年5月30日、CIAの追跡網をもすり抜けてその姿を消しました。

 機体が消える2カ月ほど前に、南フロリダの航空機ブローカーはアメリカ人航空機関士をアンゴラに送り、このボーイング727型機をアンゴラ国外へ移動す る準備を始めます。なぜかこのアメリカ人ブローカーの負担となっていた未払いの駐機料が400万ドルに達していたとも報道されているのですが、とりあえず 4万ドルほどを支払った後に機内への立ち入りを認められた模様で、燃料を補給し、エンジンをかけて調子を確認していたそのとき、未確認情報によれば、 Keith Irwinという南ア在住の人物が送り込んだ6人のクルーが、この機関士を乗せたまま、アンゴラ当局の許可を受けずにこの機を離陸させたとされています。 アフリカの空は、そのほとんどの区域で航空管制が行われていませんから、人知れず空を飛ぶことが可能だといわれます。同機のトランスポンダーのスイッチは切られたままで、無線での呼びかけにも応答せず、その後の行方はまったくわからない、というのがアメリカの諜報機関をも含めた公式見解であるようです。先ほどの新聞記事にも書かれているように、米CIAは全力を尽くして捜索した、ということになっています。

 その日以後、機体とともに消えた機関士は行方不明となりました。この機関士の兄弟が後にアメリカのABCテレビで情報提供を呼びかけています。またFBIもこの男を探している旨を、きょう現在もHPに掲載しています。

 FBIの人探し:BEN CHARLES PADILLA
 http://www.fbi.gov/mostwant/seekinfo/padilla.htm

 機関士の兄弟からのメール
 http://www.cabalofdoom.com/archives/000372.html

 当日の唯一の関連情報としては、インド洋に浮かぶ小さな島セイシェルの管制塔がこの機からの着陸許可を求める無線連絡を受けたものの、実際にはこの機は姿を見せなかったと伝えられています。いずれにしても燃料による飛行時間の制約があるわけですから、ずっと飛びつづけられるわけではありません。

 このようないわく付きの航空機が内緒で着陸できるとすれば、それはナイジェリアか南アフリカだろう、ともいわれていたのですが、やはり穴場というものはあったようです。それでも他人の目をふさぐことは簡単ではなさそうです。

 ◆目撃情報

 機体の失踪からひと月ほど経過した2003年7月7日、英紙「ガーディアン」はカナダ人パイロットの目撃情報を伝えました。6月28日に、そのパイロッ トがコナクリ空港で「あの」失踪した機体を確認したというのです。コナクリ空港はいうまでもなく、私めが根城にしているギニアの表玄関になります。

 その記事によれば、アメリカン航空時代の登録番号「N844AA」の上にギニアの登録番号「3X-GOM」がペイントされ、しかも旧番号がはっきりと確 認できる状態であったとされています。そしてその機は、レバノン人グループがコナクリ-ベイルート間の貨物輸送に使っていると付け加えているのです。

 Plane in terrorism scare turns up sporting a respray
 http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,992839,00.html

 CIAが追跡しても見つからないとされている失踪中の航空機が足元のコナクリにいるとなれば、物見高い筆者としてはこの機会を逃すわけにはいかず、空港へ人を迎えに出た7月14日、見晴らしのいい空港喫茶コーナーに陣取って、じっくりと空を眺めていたものでした。日が傾き、それが急ぎ足で沈んでいって淡 い光だけが残る時刻、ついに航空会社のロゴマークを消したボーイング727型機が登場。まったく突然に、夕暮れにつつまれた滑走路に着陸して駐機スペースへと移動。ただ、機体に接近することができないために登録番号の確認は不可能でしたけれど、通常の定期便では飛ぶはずのない機体であったことはたしかでした。

 はるか遠くの文化果つる国と思われているギニアの空でさえ、エンジンを三基つけたボーイング727型機などというレトロな機体はきわめて珍しいのです。 ──現在では、アメリカ近隣の路線に残っている程度のものでしょう。コナクリの空港警察の人間に尋ねたら、軽い調子で「チャーター機だ」といっていました けれど、運行の主体はカナダ人パイロットの指摘どおりレバノン人。 「あの」失踪した機体であるという確証は取れなかったものの、少なくともその仲間がまだアフリカの空を飛んでいそうだ、というほのかな光は感じられた夕方でした。

 ◆すりかえられた登録番号

 911事件から2年たった2003年9月11日、イスラエルは「あの」失踪した「燃料輸送機」あるいは「航空機爆弾」が、サウジアラビアから飛び立つのを警戒していたといわれます。その根拠は、9月11日に先立って、サウジ国内でボーイング727のパイロットをリクルートしていたという情報によるらしい のですが、別の未確認情報によれば、当日この機体はレバノンのベイルートにいたとされています。しかし、結果として、この機体が関係する格別な事件は起こ りませんでした。

 2003年12月には、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港(Sharjah) で、「3X-GDO」の登録番号をペイントしたボーイング727型機が、二人のカメラマンによって撮影されていました。この登録番号はむろんギニア籍を意味するものであり、機体に書かれた会社名は、この撮影の何日か後のクリスマスに事故を起こすことになったUTA社でした。──この空港は、機体の定期整備で便宜が受けられる場所として知られていて、ロシアの旅客機の多くはここで整備をする(あるいは、したことにする)とも聞きます。

 以下の二枚の写真は、この空港でペイント作業中らしい元アメリカン航空所属のボーイング727型機です。胴体前方の「American」の文字と、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字が削り落とされているのが確認できます。それに重ねて、UTAの文字、ギニア国旗などがすでにペイントされています。

 写真B: December 12, 2003
 http://www.planepictures.net/netshow.cgi?162772

 写真B': December 13, 2003
 http://www.airliners.net/open.file/478565/L/

 データベースによれば、「3X-GDO」機はアメリカン航空の元「N863AA」機とされています。しかしながら、2003年3月に、航空機の姥捨て山 ともいわれるカリフォルニアのモジャブ砂漠で撮られた「N863AA」機の写真(写真C)を見ると、垂直尾翼の「AA」のロゴ文字はペンキで塗りつぶされています。その背後に駐機されている別の機体の例から、「N863AA」機の胴体前方の「American」の文字も、同様にペンキで塗りつぶされている ものと推測できます。ちなみに、アラブ首長国連邦シャルジャー国際空港にてペイント作業中の機体(写真A)はアメリカン航空のロゴを削り落としてあります から、この相違だけから見ても、写真Bの機体が元「N863AA」であるとは考えられません。

写真C:ロゴマークをペンキで塗りつぶされた機体「N863AA」
http://www.jetphotos.net/viewphoto.php?id=29253&
PHPSESSID=fd413a108a00cc60bf4d8b2331088e7e


 それでは「N863AA」機はどこへ行ってしまったのか、という疑問がわいてくるものの、この際それは無視しておくことにして、目の前にあるこの機体は何者なのかを追ってみます。

 もう一度「あの」機体の写真Aを見てください。これはアンゴラから消えた「N844AA」機ですけれど、昔の名前の削り方(消し方)が、アラブ首長国連邦で作業中の写真Bに酷似していると私めはにらんでいるのです。

 写真A:「N844AA」January 19, 2002
 http://www.airliners.net/open.file/215616/L/

◆いくつもの謎

 つまり、アンゴラから姿を消し、CIAも探し続けているという航空機は、実はつい最近アラブ首長国連邦で化粧直しをしていたのではないか、と筆者は考え ています。本人に「昔の名前は?」、と直接に尋ねたいところではありますが、それぞれに渡世の事情があって、過去の記憶を断ち切りたいと願っているのかも しれませんから、ただ静かに見守るだけということにしたいのですが、前述の写真Aと写真Bが同じ機体であるかどうか、あなたの的確な鑑定を期待していま す。

 もし同じ機体であるとすれば、アンゴラから失踪した同機は、名前を書き替えて再びこの世にデビューするつもりであったことになるのでしょう。それとも、これもまた別の仮の姿ででもあるのでしょうか。

 ともあれ、UTA社が保有していた(リース契約の可能性もある)ボーイング727型機は都合二機ということになっていて、そのうちの一機はすでに事故で消滅していますから、アラブ首長国連邦で化粧直し中のこの機体が残りの一機であるはずなのですが、ベイルートへの乗り入れ許可を申請する段階で顔を出していた複数のボーイング727型機たちはどうしてしまったのか、墜落した機体は本当はどれだったのか、今見ている写真の機体の正体は何者なのか、などなど、 塩をまぶした串だんごでも食べさせられたような、落ち着かない胃袋の状態のまま、筆者は途方にくれています。

 「KAMIKAZE」仕様航空機の存在がアンゴラからの失踪ニュースで世間に十分アピールされ、さらにはコナクリ空港で目撃されたことによって、その役割をきっちり果たし終えたのか。あるいは失敗という結果になっているのか。

 複数のアメリカ人、アメリカ当局、ギニア当局、アンゴラ政府軍高官、レバノン人、場合によってはアラブ首長国連邦の空港関係者、あるいはリビアンアラブ航空、それから各地での目撃情報を発信した現役パイロットたちまでもがそれぞれの定められた役割を演じている可能性も否定できず、さらにはそのシナリオを 書いた黒幕の存在を指摘する外野の声もあながち軽視できないものの、謎は沙漠の砂嵐につつまれたまま静かに消え去っていきそうです。
(2004.1.17記)

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2003年09月29日(月)萬晩報通信員 齊藤 清

 【コナクリ=ギニア発】国連安保理は9月19日、14年間にわたる内戦で、15万人以上の死者、200万人以上の国外難民・国内避難民が出たといわれる西アフリカ・リベリア(人口330万人)の和平を確立するため、平和維持部隊(UNMIL)として1万6000人を派遣する決議案を採択した。

 ◆テイラー大統領の亡命

 リベリア国民議会は2003年8月7日、上下両院でテイラー大統領の辞任を承認し、ブラー副大統領に大統領権限を委譲することを決定。

 8月11日、首都モンロビアで大統領の権限委譲のセレモニーが行われた。ガーナのクフォー大統領、モザンビークのチサノ大統領、南アのムベキ大統領らの 賓客が参列。これは、この日を最後に首都モンロビアを離れ、ナイジェリアに亡命するはずのテイラー大統領の最期を看取る儀式でもあった。公式行事として亡 命の挨拶をするというのもかなり妙なもので、世にも稀なものではあるものの、何事もショーアップすることを趣味としている氏に対しては、それなりの舞台を しつらえて背を押し、精一杯の手向け花を飾る必要があったものと思われる。

 氏はキリスト教信者ということになっていて、別れの挨拶のその言い回しは、いつものように宗教的な味付けのかなり濃いものであった。「リベリアの危機を 救うための生贄の仔羊として国を離れることを決めた」と、アフリカ諸国の指導者はすべからく弁舌さわやか、聴衆を感動させる術を心得ていて、ことにテイ ラーはその筆頭でもあるといわれるだけあって、大統領退陣を表明した後のこの国での最後の挨拶も、時にフレーズごとに韻を踏みながら徐々に感情を盛り上 げ、口舌の雄の名に恥じない立派なものであった。

 当然のように、ギニアを通じてリベリアの反政府勢力LURDを資金援助し、訓練し、武器の支援をした米国を非難し、「これはアメリカの戦争である」と断 定。「私はこの国を離れたくはない。しかしアメリカの力がそうさせたのだ」とスピーチ。そして最後に、「神の思し召しがあれば、戻って・・・くるだろう」 と、いくぶん途切れがちにトーンを落として付け加えた。この一言が、しばらく後になって不気味な意味を持ってくる可能性もないではない。

 そして、ナイジェリア政府が用意したボーイング737機に、防弾仕様のリムジンと豪華仕様の四輪駆動車、そして大量の引越し荷物の品々を積み込み、8月 11日午後、テイラーはリベリアを去り、ナイジェリアへ居を移した。隣国シエラレオネの内戦に介入したとして、国連の戦犯特別法廷から起訴されていること には、あるいは目をつぶることで裏の合意ができているのかもしれない、と思わせる雰囲気でもあった。

 この日、リベリアの沖合いには、米国の軍艦3隻が二千数百人の米兵を乗せて停泊していた。

 ◆反政府勢力LURD代表の動き

 テイラー大統領の出国を目前にした8月7日、反政府勢力LURDの代表セクー・コネは、パリでラジオ・フランス(RFI)のインタビューを受けていた。

 『フランス当局にも状況を報告すると同時に、リベリアの窮状を訴えるつもりで今パリにいる。この後、西アフリカへ戻り、ナイジェリア、ガーナ、セネガル 他の首脳とも会う予定だ。紛争のために国を離れているリベリア人が現在少なくとも100万人はいるはずで、その多くが国へ戻るまでに2年程度の時間が必要 と考えているから、暫定政権はそれまでとしたい。暫定政権内に自分自身は入らない』

 氏は15万人以上の国民を抹殺した当事者の一方の代表でもあるわけだけれど、さすがに、米国の支援を受けた反政府勢力のリーダーは、言動にもその動き方 にも並々ならぬ自信を感じさせるものである。古典的なゲリラ・反政府勢力であったら、リーダー自身も銃を持ち山の中に潜んで艱難辛苦を耐える、というよう なイメージを持ってしまいがちなのだけれど、昨今のゲリラのリーダーはそうではないらしい。たいていは、ぱりっとしたスーツにネクタイというビジネスマン スタイルで、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ワシントンを自由に往来し、しかるべき人々と接触することが主な仕事のようである。

 このようにしてガーナの首都アクラで8月18日、リベリア政府と反政府勢力2グループが、暫定政権を10月14日に発足させ、2005年に選挙を実施することなどを柱とする包括和平合意に署名。

 9月25日現在、氏は長年留守にしていたリベリアへ戻っている。住み慣れたギニアの邸宅を後に、スモークガラス付の日本製四輪駆動車に護衛のギニア兵を 乗せ、都合14台の車を連ねてギニア側から陸路リベリアへの国境を越えた。移動途中のゲリラキャンプでは、自分の戦闘員たちの出迎えを受け、彼らの労をね ぎらいながらの凱旋となった。これで、これまで「反政府勢力」として動いていたグループはひとまず静かになる。

 ◆蚊の攻撃に敗退した米兵

 テイラーがリベリアを去った8月11日の時点では、80人程度の米兵が米国大使館警備のためにリベリアに入国していた。沖合いにはその数日以上前から、 米国の軍艦3隻と2000人を超える米兵が待機。この時期には、反政府勢力が更なる虐殺を続けていると報道されていて、国際社会が米兵の出撃を声高に要請 しても動くことはなかった。

 そして8月14日になってから、港の警備を主な任務として米兵200人程度を送り込んだものの、その多くは日帰りで、夜には沖合いの艦艇へ戻るというパ ターンであった。ともかくアフリカ大陸への上陸を極端に恐れていて、最長10日間程度の滞在で、兵によっては数日間だけの上陸というのがその実態であっ た。国際社会の圧力をそらすために、ただアリバイを作っただけの米軍。10月1日までにリベリアから撤収の予定とされている。

 米軍がアフリカの兵を恐れる理由は、1992年にアメリカ主導でソマリアの内戦に介入したときに端を発しているらしい。「希望回復作戦」と名づけて敵と 目するグループのトップを急襲したのにもかかわらず、米陸軍が誇る精鋭特殊部隊は相手を捕捉することができず――いつものことではあるものの――、それば かりか反撃を受けて18人の兵を殺され、そのうちの一人の死体を車で引きずりまわす映像をテレビで流され、その結果不名誉な撤退を余儀なくされた苦い記憶 が、特に共和党員の間に根強く残っているためであるという。

 ところがそれほどに神経質なオペレーションを行ったのにもかかわらず、伏兵はアフリカ人ばかりではなかったらしく、現地の蚊の軍団にたっぷりかわいがられてしまった様子が伺える。

 以下、『ProMED情報』からの抜粋。
 ≪情報源:ABC News、9月10日。海軍の医師団は、先月平和維持任務でリベリアに滞在した海兵隊員に異常な高頻度で発生したマラリアを調査中である。海兵隊員のうち さらに3名が発病し、西アフリカ海岸沖の米軍軍艦内で治療中であるが、今回の患者発生により患者総数は46名になったと、軍関係者(曹長)が述べた。この 患者数は先月リベリア沿岸に派遣された海兵隊員・海軍兵士225名中20%に相当し、彼らが服用しているマラリア予防薬は通常蚊が媒介するマラリア予防に 非常に有効とされているだけに驚異的な数字である。≫

 ≪情報源:Washington Post、9月10日。積極的な予防法にもかかわらず、2003年8月にリベリア沿岸で活動した200名以上の海兵隊員のほとんどが明らかにマラリアに感染し、うち約43名は入院治療を要した。≫

 ProMED情報
 http://www.forth.go.jp/

 Failed Safeguards Are Blamed For Marines' Malaria Outbreak
 http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/articles/A51637-2003Sep9.html

 これは予防薬投与の失敗ではないかと推測する専門家もいるけれど、例えそうであったとしても、マラリア媒介蚊に刺された人間がすべて発症するわけでもな い。ある程度の体力(免疫力)があれば、たいていは発病しないですむものだ。筆者の長年の観察からも、それは確信できる。軍の発表がウソでないとすれば、 この惨憺たる結末は米兵の質の悪さ・ひ弱さ――数合わせのための寄せ集めの兵士――の証明ということになるのではないか。なるほど、彼らにはアフリカでの 野戦は不可能だ。

 ◆リベリアと米国

 米国のアフリカ戦略には、油の中東依存度を増大させることなく、この地域にも安定した原油の供給元を確保することと、飢えたアフリカ大陸に米国産の穀物 を大量に売り込むこと、このふたつが大きな柱として存在している。アフリカの油を確保するための仕込みはすでに熟成の段階に到達したといえる。穀物(米、 小麦、大麦、とうもろこし、豆等)に関しても、ケネディ・ラウンド関税交渉の中で成立した開発途上国に対する食糧援助を先進国に義務付けるシステムによ り、被援助国の農業生産意欲を殺ぐ意図はかなりの程度に達成された。また、内戦多発によって農業生産が阻害され、穀物の輸入需要はますます増えている。

 リベリアは19世紀初頭、アメリカのかつての解放奴隷を支配者層として送り込んで建国された、アメリカとは濃密な関係を持つ国である。現在でも富裕層の子弟は米国で教育を受けることが普通となっている。

 船に関係するニュースなどで、リベリア船籍の船という言い方を耳にすることがあると思うけれど、船の登録に関しては便宜置籍という方法が存在する。船の 持ち主の実態とは異なる国――税金等の安い国に便宜的にその船を登録し、節税、船員経費対策などを目的とするものだ。リベリアが便宜置籍国としてかなりの シェアーを持っているのは、その昔の米国の支援による影響力が大きく働いている。

 アメリカのファイアストーン・タイヤゴム会社は、リベリアに世界最大のゴムのプランテーションを持っていた。1988年、内戦の始まる直前に日本のブリヂストン社がこれを買収。

 リベリア深奥部のギニアとの国境地帯には、標高1752メートルのニンバ山がある。この山一帯は下記のページに詳細な説明があるように、動植物の宝庫ともいえる場所だ。

 ニンバ山に詳しいページ(京都大学霊長類研究所)
 http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/chimp/Bossou/Nim-j.html

 そしてこの山は、実は鉱物の分野でも宝の山と目されている。荒っぽく言ってしまえば、山脈すべてが高品質の鉄鉱石でできている。リベリア側は内戦前まで 採掘されていた。その鉄鉱石を運び出すために、広軌の鉄道総延長261キロが敷かれた。そのための港も整備された。ラムコ(LAMCO)と呼ばれるこのプ ロジェクトには、アメリカとスウェーデンの資本がかかわっていた。

 ラムコ・プロジェクトに携わっていた関係者の子供が、その当時のリベリアでのあまい想い出を語っているページ。
 Our Beloved Liberia! http://home.enter.vg/liberia/

 さらにこの山のギニア側にも、当然のように鉄鉱石採掘のためのプロジェクトが存在し、英国に本社のある国際的な資源会社をはじめとする複数の会社がすで に利権を確保している。ボーリング調査の結果として、この一帯の確認埋蔵量は世界一であるとささやかれている。昨年末にはギニア政府との最終協定が結ばれ た。この鉄鉱石搬出のためには、ギニア国内に総延長1000キロの鉄道をまず建設しなければならない。多額の先行投資が必要となる。しかし、リベリア国内 の内戦が収まったことから、リベリアの既存のラムコ鉄道を補修して使う可能性が出てくることもありうる。そうすれば建設コストもランニングコストも大幅に 削減できる、と欧米の多国籍企業は計算している。(ギニア政府はそれを拒否する立場だけれど)

 現在まで米国軍艦が停泊していたリベリア沖合いの石油は、これから試掘作業が動き出すことになる。当然のように、西アフリカ・ギニア湾の海底油田地帯に含まれるこの一画にも、米国のメジャーはしっかりと狙いを定めている。

 ダイヤモンド資源に関しても、シンジケートが環境を整備し、他のルートからの輸出を規制する方向に動くことだろう。

 農業は――そんなものは、米国から米でも麦でも買えばいいのだから、そのあたりに放り投げておけ、と米国は考えているだろう。

 1980年のクーデターによって反米的な政権が誕生してからというもの、外国に支援されて送り込まれた反政府勢力という名の複数の刺客グループと政府軍 の戦い、そして反政府勢力同士の反目と、三つ巴、四つ巴の争いが続けられてきたリベリアにも、それなりにいくぶんかの明るさが見えてきたこの頃である。

 ――しかし、ナイジェリアから電話を通してリベリアとの接触を続ける、すでに引退亡命したはずの元大統領もいたりして(彼の私兵たちはまだリベリアに存在している)、武装解除が進んで和平が定着するまでは、まだ予断が許されない。

 Nigeria warns exiled Taylor
 http://news.bbc.co.uk/1/hi/world/africa/3115992.stm

 ◆悪魔のささやき

 このようにリベリアについてのあれこれを書いてみたのは、ある魂胆があってのことだ。日本は、イラクへではなく、リベリアへ平和維持部隊を派遣したらどうだろうか、ということを言いたいためである。

 来月には、「大義なきイラク侵攻を指揮した大統領」として歴史に名をとどめるであろう米国のブッシュ大統領が、自軍が破壊してしまった相手の国を再建す るための費用見積書を持って、うるさいことを言わずにイラク侵攻を支持してくれた日本の戦友を訪ねると伝えられている。同時に、連帯の意志を再確認する意 味を込めて、日本の自衛隊のイラクへの早期派遣を迫っているとの報道もある。

 米国は早々とイラク侵攻の戦闘終結宣言をしてしまった。しかし現実には、いまだに兵士が日々殺され続けていて、イラク全土が厳然として戦争状態にあるこ とを、米国は誰よりもよく理解しているはずである。そしていまや、停戦交渉をすべき相手も消えてしまって為す術がない。ベトナムの泥沼におぼれさせられた リンドン・ジョンソンの二代目を継ごうとしているようにも見えるジョージ・ブッシュがいくら望んだとしても、そのような場所へ、おそらくは人を撃ったこと も撃たれたこともない戦争バージンの日本の自衛隊を送るわけにはいかない。例え、日本の法律上許容されたとしても。ましてや、1990年の湾岸戦争以来、 劣化ウランをばら撒き尽くした土地である。殺されずに帰れたとしても、後には別の苦しみが待っている。

 また、イラク復興には今後4年間でおよそ1000億ドルが必要、とする見積もりが流され始めている。単純に10兆円と換算しても、この数字に例えば日本 の国連分担金負担割合20パーセントを乗ずると、それは2兆円になる。しかも「派兵」に付き合わなければさらに上乗せされる可能性すらないではない。―― それから忘れてならないのは、日本政府と民間企業が、イラクに対して現時点ですでに1兆円以上の債権を持っていることである。この債権は放棄させられ、最 終的にはすべて日本政府の負担となる可能性が大きい。

 イラク侵攻に関しては、すでにノーリターンポイントを超えてしまっている日米関係である。となれば、少しでも日本国民の負担とリスクを減らす方向で現実的に対処するしか方法はない。

 とはいうものの、日本の新聞が書いているように、自衛隊の輸送機を使って他国との間の運送業務を手伝うとか、100人程度の工作部隊を「絶対安全な場 所」に送り込んで土建屋の真似事をさせ、「派兵」の要請に代えてお茶を濁すなどというちゃちな後ろ向きの動きは日本の国益にそぐわない。米国にとっても、 足元でじゃれる子犬ほどの役にも立ちはしない。

 この際、この災いを日米同盟関係を強化する絶好の機会として捉え、米国と国連を結びつけながら、日本の主体性を発揮する前向きの行動として、リベリアへの平和維持部隊の派遣を提案したい。

 『わが国はかけがえのない同盟国としての米国を支援するために、イラク復興支援特別措置法案を多大な困難とともに国会を通過させた。わが国の憲法からは これが精一杯のものである。そのためには、国会審議史上稀にみる居直り答弁までして、慎み深い日本のメディアにすらひやかされたほどだ。しかしながらイラ クの現状は日本の自衛隊にとってはまだまだ難しすぎる。歩き方を一歩間違えれば、あなたが頼りにしている私の政権は吹っ飛んでしまうだろう。そこで、ブッ シュ閣下と米国を尊敬している証として、貴国の権益にも大きく貢献できるリベリアの平和維持活動で汗を流すつもりだ』という変化球を投げ込むというのはど うだろう。

 現地ではすでに和平合意が成立し、国連安保理の平和維持部隊派遣決議も採択されている。日本の国内法的にもハードルは高くないはずだ。そして、このミッ ションは限りなく安全でかつ有用なものである。恒常的な平和を定着させて100万の難民を故郷に戻すことができるのであれば、困難な経済状況の中であえい でいる日本国民も納得してくれるのではないだろうか。

 折りしもこの29日からは、東京都内のホテルで第3回アフリカ開発会議(TICAD3、議長・森喜朗前首相)が開かれる。アフリカ各国の首脳が多数参加 する。アフリカの開発に対する全面的な支援を打ち出している日本の、口先だけではない真に役に立つ決断を期待したい。(『金鉱山からのたより』 2003/09/28)
                      (2003.9.28記)

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2003年09月04日(木)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清

 米国によりテロ支援国家とされていたリビアが、このところ妙に枯れた動きを見せています。昔日のアラブの青年将校の過敏な猛々しさから脱皮して、アフリ カの盟主を任ずる老練なカダフィ大佐への変身。世界地図はいま、色が塗り替えられようとしているようにも思えます。その立役者カダフィ大佐の足跡を、急ぎ 足で洗いなおしてみました。

 ◆サッカーへの夢

 カダフィ大佐自身はもちろんなのですが、その息子のサーディ・カダフィ(30才)もサッカー好きで、2002年には、日韓共催のワールドカップ観戦のた めに、銃を携えた護衛を連れて韓国、日本を訪れています。――もっとも、銃は経由地で没収されてしまったらしいのですが...。彼本人もリビアを代表する 優秀な選手とされていて、かねてからプロとして海外で活躍することを夢見ていたようです。

 カダフィ一族の経営する会社が、昨年イタリアのサッカーチーム・ユベントスに資本参加(およそ30億円)し、第2位の株主となったとするニュースが伝わっていました。

 そしてつい最近には、同じイタリアのサッカーチーム・ペルージャが、カダフィ大佐の息子を選手として獲得したと伝えられました。クラブ経営者の経営戦 略・政治戦略の一環であるのかもしれないのですが、話題になることは確かです。7月からチームでの練習を始め、練習試合ですでに2ゴールを決めたなどとい う報道も。蛇足ながら、このチームはアフリカでも有名人の中田英寿が活躍したチーム。

 これはサッカークラブの話題づくりとしてばかりではなく、リビアのイメージアップ戦略としても有効なものとなりそうです。ことに、大佐が今後の戦略地域 として想定しているアフリカでは、サッカーはスカッドミサイルなどよりもずっと大きな威力があります。もっとも、サーディ自身はサッカー一直線だけなのか もしれないのですが。

 ◆テロリズムの連鎖

 これまでのリビアは、英米主導による国際社会からの隔離政策によって、国のイメージばかりではなく、実質経済的にも大きなダメージを受け続けてきました。

 その最大の原因は、1969年に無血クーデターでカダフィ大尉(当時)が政権についたあとで、それまでリビアを含むアラブ世界を蹂躙していたと彼が信ず る西側の国に叛旗を翻し、PLO、IRAへの支持を鮮明にしたことにあったと考えられます。――石油産出国ですから資金は豊富でした。

 報復として、73年にはイスラエル機によってリビアのボーイング727機が撃墜され、110人死亡。81年にはリビア沖で、リビア領空に侵入してきた米軍機が、リビア機2機を撃ち落とすという事件も発生。

 もっともこの間、ドイツ、イギリス等々で、リビアが関与したとされる複数のテロが発生し、それによる非難を受けてもいます。この中にはCIAがでっちあ げた気配が濃厚なものもあり、フレデリック・フォーサイスの愛読者でもある私めには、それは充分にありうることだろうという気はするものの、その真相 は...。

 そして極めつけは、当時の米国レーガン大統領の指示による、86年のリビア襲撃。これも、カダフィが裏に控えて操作しているとされる国際テロリズムに対 する「報復」ということでした。米爆撃機F-111sの発進基地提供の要請を受けた当時の英国サッチャー首相は、「テロはテロを呼ぶ」として躊躇したもの の、盟友レーガンの説得に負けて承諾。あらかじめ地中海に展開していた6隻の艦船と200機余の艦載機の支援を受け、まったく抵抗のない状態で爆撃機はリ ビアへ60トンの爆弾を投下。

 この襲撃で、カダフィはからくも生き延びたものの、彼の養女を含む101人が殺されたと伝えられています。『変り行くリビアの近況』と題するメッセージ の中で松本剛氏が、《同大佐のトリポリでの居所となっている軍司令部構内にある「カッザーフィの家」(1986年に米軍機の爆撃を受けて破壊されたが、現 在に至るも米軍の蛮行を示すモニュメントとして残されている)》と書いています。
http://www.meij.or.jp/countries/libya/matsumoto2.htm

 そしてこの年、米国は独自の対リビア経済制裁を実施し、リビアで事業を展開していたすべての米系企業を撤退させています。この中には、複数の石油採掘会 社も含まれていました。(ただしこの権利は剥奪されることなく、現在までリビア政府預かりとなっている)

 ◆航空機爆破事件

 「テロはテロを呼ぶ」というサッチャーの懸念の通り、88年には英国スコットランド上空で米パンナム機爆破事件(ロッカビー事件)が発生。このときの英 米人の犠牲者は270人。翌89年には、フランスUTA機がアフリカ・ニジェール上空で爆破され、170人の犠牲者。これらすべてについて、欧米側からは リビアの関与が指摘されていました。リビア側は関与を否定。

 これに呼応するようにして88年、リビア側の解説によれば、フランスの諜報機関SDECEによるカダフィの暗殺計画が実行され、最後の段階で露見するという、観客席へのサービス度は満点のニュースも発信されました。

 当然のようにこの頃も、英国諜報機関M15/M16、CIA、リビア諜報機関等々が、カダフィをめぐって世界各地で小説以上に派手な動きをしていたことが、現在の時点ではかなり信憑性のある資料で知ることができます。

 そして国連安保理は、リビアに対して航空機爆破事件への捜査協力などを要求したものの、拒否されて、92年、93年に対リビア制裁決議を二件採択しまし た。これ以降リビアは国際社会から隔離された状態となって、経済的にも政治的にも逼塞した状況が続くことになります。

 この頃、国外に亡命していた反カダフィ勢力としてのイスラム原理主義グループが、英国諜報機関M15などの資金援助を受けて、リビア国内にいる現役軍人 などと連動し、96年に政権転覆計画を実行したものの、カダフィの乗った車の爆破に失敗して頓挫するまでの経緯を知ることのできるM15の極秘文書が、 2000年になってから何らかの意図でネット上に漏洩され、「諜報員の生命に危険が及ぶ可能性がある」として、英国政府がプロバイダーに削除要請をしたこ とが、プロバイダーからの発表として報じられました。これについては英国内務省もコメントを出していたようですので、おそらくは本物の極秘文書だったので しょう。(その世界のことは、どこまでが本当なのかよくわかりませんけれど)

 舞台裏では、国連安保理側は航空機爆破事件の容疑者と目するリビア人の引渡しを、リビア側は国外にいるカダフィ政権転覆計画の関係者たちの引渡しを、そ れぞれ要求していたもののようです。爆破事件容疑者として英米から名指しされていた人間を、99年にリビアが引き渡したときには、表のニュースには出てこ なかったものの、政権転覆を企てたイスラム原理主義グループがリビア側に引き渡されていた、ということです。

 容疑者の引渡しを受けたことによって、99年4月、国連安保理は対リビア制裁の一時停止を発表。ただし、米国独自の制裁はまだ継続していました。

 ◆アフリカ世界への傾斜

 ひとつ気になっているのは、98年7月、カダフィ大佐が大腿骨を骨折したとして入院した"事件"。これは公式には、日課としていたジョギングの最中に転 倒したための骨折、と発表されました。――されているはずです。アラブ世界の首脳が四、五人一堂にそろって、彼の病室にいる写真が添えられていたことも、 ただの骨折にしては不自然だと、フレデリック・フォーサイスの愛読者は思ったものです。かなりのダメージを受けたためなのか、治療が適切ではなかったため なのか、いまでも軽い後遺症が残っているらしく、歩行の際には補助の杖を使っている様子が伺えます。カメラの前では杖を置いて移動することもできる程度で はあるものの、かなり危なっかしく、このあたりに往年の迫力と気力を削ぐひとつの素朴な理由があるのではないかと、推測しています。それが彼の思考に変化 を与えているかもしれません。

 国連安保理の対リビア制裁一時停止後の2000年7月、西アフリカ・トーゴで開かれたアフリカ統一機構(OAU)サミットは、カダフィ大佐のアフリカ世界への公式復帰を祝うようなものとなりました。

 カダフィは、地中海に面した国リビアから大西洋岸のトーゴまで、300台の車と、1000人を超える従者を連れて、サハラ沙漠を南へ5000キロ走り、 ニジェール、ブルキナファソ、ガーナに立ち寄り、沿道の人々のまさに英雄を迎えるような熱い歓迎ぶりに、オープンカー仕立ての白いリムジンから身を乗り出 し、こぶしを振り上げて応え続けました。

 このサミットで、ヨーロッパ連合(EU)にならって「アフリカ連合(AU)」の速やかな実現を呼びかけ、2002年7月にそれが実現。彼のアラブ世界離 れは決定的なものとなり、いまではアフリカの盟主たらんとして、各地の紛争解決やさまざまの問題にも、さりげない心遣いを見せています。

 今年の2月から4月にかけて、アルジェリア付近のサハラ砂漠で誘拐されたヨーロッパ人観光客の救出に際しても、表の調整を引き受けたマリの大統領を陰で 支えて、リビアが動いています。観光客14人(ドイツ、スイス、オランダ人)がおよそ半年間拘束されて、この8月にマリで解放されたのですが、RFIの報 道では、その裏ではリビアの人脈が誘拐グループとの交渉を成立させ、カダフィ大佐の息子が運営するカダフィ財団が、身代金として500万ユーロ(およそ6 億円)を支払ったといいいます。

 ◆ビジネス優先のリビア

 2001年の911事件の直後、カダフィ大佐は米国の犠牲者に弔意を表し、負傷者に対しては献血をするという動きをアピールしていました。そして、テロリストに関する情報の提供を約束しています。

 また、この年の11月フランス発行の週刊誌『J.A./INTELLIGENT No.2132』のベタ記事によれば、リビア国営石油会社の社長が11月中旬にオーストリアで、アメリカの石油会社三社の代理人と会い、リビアの石油採掘 事業へのすみやかな復帰を呼びかけています。この三社は、アメリカ政府のリビア制裁方針をうけて、1986年レーガンの時代にリビアから撤退させられてい たもの。

 これは、911事件の本質を見抜いて、デージーカッターをプレゼントされる前に、リビア側がビジネスライクな手を打ったひとつの例といえます。最近のリ ビアは、テロリズム国家との賢い付き合い方を心得ているようです。もっとも、リビア自身が海外からの投資を激しく求めているという事情もあるのですが。

 2002年7月には、ほぼ20年ぶりに英国の外務大臣がリビアを訪問。日本では《「対テロ戦争」での協力をリビアの最高指導者カダフィ大佐に打診するた め》と報道されていましたけれど、それはすでに実行されていたことですから、本当の目的は別のところにあったのです。

 というのは、この年の5月、経済制裁の解除を願うリビアのビジネスマン代表が交渉代理人として、「国際社会復帰のためのライセンス料」との位置づけで、 米パンナム機爆破事件に関して総額27億ドルの支払いを提示していました。制裁解除は、リビアにもアメリカにも利益になることだ、と言い切っている様子を BBCが伝えていました。ですから実際のところは、「対テロ戦争」への協力のお礼と、支払いについての直々の確認であったわけでしょう。

 99年4月に国連制裁が一時停止された後、米国独自の制裁が継続する中、欧州や中国など(日米政府に気兼ねしながら日本社も)が積極的にリビアと接触し ている現実がありました。そして米国内には、出遅れを心配する強い声があがっていたようです。――制裁解除を求めるアメリカ側の力。(現実には、米ビジネ スマンが大勢出入りしていたようですし)

 ◆国際社会復帰のためのライセンス料支払い開始

 今年8月下旬になって、リビア政府が補償金総額27億ドル、犠牲者1人当たり1000万ドル(約12億円)の支払いを開始した、と各メディアが報道を始 めました。なかには、「爆破事件にリビア政府自身が関与していることを認めた」との文脈で記事を書いている注意力散漫な日本のメディアも目立つのですが、 リビアが国連安保理に送った文書では、「その公務員の行動に関しての責任を認める」としか書いていません。

 米パンナム機爆破事件の容疑者とされた二人のうち、終身刑が確定した一人(もう一人は無罪)についての判決では、リビア政府の関与についてはまったく言 及していないのです。またフランス機爆破に関してフランス法廷は、カダフィが関与しているとはいえないと明言していました。従って、ここでわざわざリビア が自身の関与を認めてみせることもなくなっていたのです。

 今回の支払い条件は、国連安保理の制裁解除、米国の制裁解除、テロリスト国家呼ばわりの撤回、この三条件が実行されるごとに、順次40%、40%、 20%を支払うという約束ですから、もし三条件が整わなければ、遺族の手には全額は届かない仕組みになっています。その実現の責任は、いまや英米の側に投 げ渡されてしまいました。

 そしてリビアの外相は、アルジャジーラのインタビューに対して、「リビアとしては、これは補償金ではなく制裁を解除するための支払いだと認識している」 と答えています。西欧での報道だけからみればとんでもないコメントではあるのですが、リビア側はあくまで、中東の某国が某国のエージェントと合作したも の、と考えているわけですから...。

 この支払いはリビアにとって、ロン・ヤスと呼び合う仲(古い例えでスミマセン)になるためのショバ代、国際社会への入場料ということでしかないわけで す。世界最大の軍事力を持つテロリストに、真正面から歯向かっても勝ち目がないことを、還暦のカダフィは悟ったのでしょう。

 英国などは、少しでも早く最終段階の支払いにまで持ち込みたくて、かなり焦っている感じすらあるのですが、しかし2001年に、170人分として総額 3100万ドルを受け取って落着させたフランスは、英米が1人分1000万ドルという数字で決着したことで不満が爆発し、現在リビアと再交渉中であると伝 わっています。英米がいくら急がせても、フランスの再交渉が終わるまでは、フランスの持つ「拒否権」という壁に阻まれて、制裁解除の国連決議は前進できな いのかもしれません。今度ばかりは国連無視もできませんし。

 ならずものとされていたリビアが、英米とフランスの動き、あるいは彼等の確執を安全圏から眺め、困った連中だと囁いている、――あまり見慣れなかった図が展開されているこの頃です。

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2003年08月04日(月)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清

 ◆ダイヤモンド戦争の終焉

 シエラレオネの反政府ゲリラRUF代表フォディ・サンコーが、7月30日に死亡した。享年70歳。血塗られたダイヤモンド戦争を、10年以上にわたって 戦い続けたゲリラの親分。良質のダイヤモンドに恵まれたシエラレオネ内陸部を実効支配し、掘り出した原石を闇ルートに流して欧米のダイヤモンドシンジケー トを悩ませた。しかし、沖縄サミットを最後に状況は逆転し、その晩年は、戦争犯罪特別法廷での被告人として、肉体的な衰弱と精神的な混乱のうちに幕を閉じ た。腹心の部下だった通称モスキートはこの5月、コートジボワールとリベリアの国境近くで、リベリア大統領テイラーの指示で射殺された。もうひとつのシエ ラレオネ反政府ゲリラのリーダーであり、戦争犯罪人として追求されていたジョニー・ポール・コロマも、避難先のリベリアで、口封じのために殺されていたこ とが最近確認されている。そして、そのリベリア大統領テイラーも、米国に支援された反政府勢力によってほぼ完全に追い詰められている。

 1990年代を急ぎ足で走りぬけ、ダイヤモンドシンジケートに向こう見ずな戦いを挑んだ戦士たちは、今や人々の記憶の中にしか存在せず、血塗られたダイヤモンド戦争は、そのすべてが過去形で語られる季節に移行している。

 そして新しい季節には、永遠の輝きを失ったダイヤモンドに代わって、海の中のオイルが人々の心を躍らせることになる。国連平和維持軍に守られたシエラレ オネの沖合いにも、テイラーを排除して親米政権を樹立した後のリベリア沖にも、まもなくテキサスの油会社の旗が海風にそよぐこととなる。

 ◆ギニア湾へ侵攻せよ

 今、ギニア湾が熱く燃えている。ここでは、沖合いの海に、世界的な規模の炭化水素堆積盆の存在が確認されていた。欧州の油会社はすでに採掘を続けてい た。そして近年、アメリカの油会社が激しい油田獲得戦争を続けてきた結果、さらに油の確認埋蔵量が増えている。低硫黄の良質な原油だといわれる。日本の人 々の目が中東の油に釘付けにされていた間、ここでも、生臭いけれども真摯な、石油・天然ガスを獲得するための激しい戦いがくりひろげられていた。

 アメリカは石油の大量消費国である。油なくしては、現在のアメリカ市民の生活を支えることは不可能だ。そしてその約60パーセントを輸入に頼っている。 サウジアラビア、メキシコ、カナダ、ベネズエラなどからそれぞれ10数パーセントずつを輸入し、アフリカからも15パーセント程度を持ち帰っている。しか しながら、例えば中東地域はすでに鉱区が成熟しすぎていて、長期安定的な供給は望み薄である。OPECの存在もあり、政治的にも厄介な地域で、わがままが できない。

 その点、ギニア湾の沖合いはまだ未成熟な地域で、誰も手をつけていない鉱区さえ残っている。また政治的な操作も比較的容易な国々が多い。(しばしば"反政府勢力"が働いてくれる)

 そこで、すでに現地に根をおろしていた欧州の石油資本と競う形、あるいは侵食する形での鉱区獲得が進み、欧州勢の反攻がないわけではないものの、現在では、米国資本の優勢が目に見えてきている。

 ◆ブッシュ家と油ビジネス

 ブッシュ大統領は今年7月、ライス補佐官とパウエル長官につきそわれてアフリカ5カ国を訪問。最終訪問地のナイジェリアでは、反政府勢力が攻めあぐねて いるように見えるリベリアのテイラー大統領の排除を、この地の大統領と相談することもこのミッションの目的のひとつであった。アフガニスタンのビンラディ ン、イラクのフセイン、昨年殺されたアンゴラの反政府勢力サビンビらと同様、米国はかつて彼を支援したこともあったのだけれど。

 ナイジェリアでのビジネスはむろん油がらみである。父ブッシュの時代にホワイトハウス入りをしてたちまち頭角を現したという、アメリカ一番の油会社シェ ブロンの元取締役・ライス補佐官が大統領の後見役を務めているとなれば、さらには父ブッシュ政権の国防長官であり、世界最大手のエネルギー利権会社である テキサスのハリバートン社元CEOチェイニーを副大統領に据えた政権であれば、油ビジネスにつながらないほうが不自然だ。むろん、これは国益のため、とい う言い方もあり得る。

 ナイジェリア産の原油は、その40パーセント程度がアメリカ向けである。米国資本がこの国最大の鉱区を保持している。そのうえ、この国の大統領は、近隣 諸国との交渉力が抜群。また、この界隈では飛びぬけた兵力10万人を背景にしている効果もあなどれない。最近の、赤道ギニア、サントメプリンシペ(兵力 900人)との石油利権にからむ領海の線引き交渉では、問題をすっきりさせる代わりに、ナイジェリアとの共同プロジェクトとして先方に40、自分の方に 60の利権を確保する凄腕を発揮している。その結果を米国資本に委ねるわけだから、アメリカにとっては得がたいとびっきり優秀な営業員である。彼に対して 最大の便宜を計らうのは当然。しかしながらこの国の常で、その利益が国庫に入ることはまずない。国民はいつも貧しいままである。

 もっともこのあたりの対応は、忠実な同盟国に任せておけばいいだけのこと。2001年1月にこの国を訪問した極東の国の森首相は、心をこめて、ナイジェリアの発展に支援を惜しまないことを約束している。

 ◆ギニア湾に浮かぶ軍事基地

 ブッシュ大統領一行が去った直後の7月16日、ナイジェリアの沖の小さな島国サントメプリンシペでは、軍によるクーデターが発生した。

 サントメプリンシペは1975年までポルトガルの植民地だった。面積は日本の沖縄本島よりもいくぶん小さな960平方キロ。人口17万人。兵力900 人。軍事予算100万ドル(1億数千万円)ほどの国。ココア、コーヒーを栽培するだけの、経済的には貧しい国であった。

 この国に石油・天然ガスの話が出てきたのはだいぶ前のこと。予備的な調査を行った欧州勢と前政権が結んだ合意を、2001年7月の選挙で選出された現大 統領デ・メネゼスは破棄した。欧州勢の言によれば、10万ドルの献金(賄賂)が事の発端だったともいう。

 そして、ナイジェリア大統領の仲介により、米国資本との契約が成立。数年後には油の汲み出しが始まるという計画が発表されている。

 クーデターが発生した16日、デ・メネゼス大統領は「私用」でナイジェリアに滞在していた。実はこの滞在は、ブッシュ大統領一行とひそかに会うためのものであった、といわれている。(クーデターは一週間で静かに終結)

 アメリカはすでに、ギニア湾に浮かぶこの小さな島を、軍事基地にするつもりでいる。原油確保のためにますます重要度の増すこの一帯を、タンカーの通行を 管理する拠点にするとともに、欧州勢の喉元に匕首を突きつけておくため、アフリカ大陸をにらむ戦略的な基地にするつもりだ。ちなみに、欧州の大手石油会社 トータルフィナエルフは、全生産量の40パーセントをアフリカに依存している。

 またこの島に、アフリカ大陸向けのラジオ放送、VOA(アメリカの声)の送信所を建設する計画も進んでいる。

 今回のブッシュ大統領のアフリカツアーの本音は、国際社会に対して、ことに欧州に対して、アメリカのギニア湾支配を宣言するイベントだったのかもしれない。

 ◆湾岸諸国の動き

 ここでいう湾岸とは、むろんペルシャ湾のことではない。もう時代は移っていて、湾岸といえば、当然ギニア湾を指すというのが国際的な常識となってきている。

 ▼アンゴラ

 ここに、この時代を象徴するプレスリリースをひとつ紹介しておこう。

 "FOR IMMEDIATE RELEASE: September 11, 2001
 
HALLIBURTON'S WELLSTREAM ANNOUNCES FLEXIBLE FLOWLINE AWARD FOR SONANGOL'S ANGOLAN BLOCK 3 DEVELOPMENT"
http://www.halliburton.com/news/archive/2001/hesnws_091101.jsp

 これは、例の911事件当日に、ハリバートン社から出されたプレスリリース。現在のチェイニー副大統領が、父ブッシュ政権の国防長官として湾岸戦争を指揮したあと、CEOとして天下りした会社の、アンゴラでの仕事の受注を伝えるものだ。

 このアンゴラで、東西の冷戦の時代に、アメリカは反政府勢力を支援して内戦を煽った。その後、世界を取り巻く環境が大きく変化し、国連が介入したにもか かわらず内戦は収まらず、また体質の変わらない反政府勢力のリーダーに嫌気がさしたアメリカは、昨年、現大統領をアメリカに呼びつけた。そしてその一週間 後、そのリーダーであったサビンビは死亡。

 米国シェブロン社は、アンゴラで最大の産油会社である。エクソンモービル社も善戦している。そのうえ、新しい鉱区で望外といわれるほどの石油、ガスの存 在が確認されていて、現在西アフリカ一番のオイル大国であるナイジェリアを超える産油国になることが確実とみられている。

チャド、
カメルーン
内陸の国であるチャドでも油田が見つかり、現在はギニア湾へ向けて、カメルーンの国内を通過する約1,000キロに及ぶパイプラインの敷設中。来年にはアメリカへの輸出が始まる。
赤道ギニア 石油のおかげで2001年の経済成長率は65パーセント。アメリカ企業が急速な投資を続けている。
ナイジェリア 西アフリカ最大の産油国。ナイジェリアで産出される天然ガスを、隣国ベニン、トーゴ経由で、消費国ガーナまで送るためのパイプラインが2004年から稼動する。
シエラレオネ ながびいていた内戦が終結させられたことから、待ちわびていたように今年5月、アメリカ、ナイジェリア、スペインの企業が試掘権を取得。
ギニア ギニアでは、アメリカ企業が1998年、沖合いに広大な面積の鉱区を取得。油の存在が確認されていることから、今後大きく動くものと思われる。
政府は、5月にはセネガルで近隣諸国のエネルギー関係者たちと油に関する勉強会を、7月下旬にはイランへミッションを送り、油屋さんをいかに御すべきか、そのノウハウを学ばせている。
リベリア 現 時点ではまだ内戦中となっているリベリアは、現大統領が退陣して親米政権が樹立されれば、当然のように米国資本が動くだろう。欧州勢は踏み込みにくい環境 が整っている。この時期になって反政府勢力がいくぶん攻勢を強め、国連もすばやく反応したのは、一般市民の窮状を救うためというよりは、そちらの都合が あったという観測が説得力をもっている。
スーダン ギ ニア湾とははるかに離れた国ではあるが、ここでは番外的に中国が独占的に石油を掘っている。中国初の海外大型油田である。全長1600キロのパイプライン を使って紅海へ運び出している。この国が国連の制裁決議を受けて国際社会から孤立させられていた時期に、アフリカ各国に広範に経済援助を行って存在を誇示 していた中国が採掘権を取得。漁夫の利、というところか。

 ◆冬のキリギリス

 石油輸入依存度60パーセントのアメリカは、ウソと破壊と殺戮を繰り返しながら、なりふりかまわず必死に油を確保しようとしている。これは、特定の企業 の利益につながるものではある。しかし同時に、油を飲むようにして生きている国民にとっては、欠くことのできない命の水を求める行為でもある。

 ほぼ100パーセントの石油を輸入に頼り、その90パーセント近くを中東だけに集中依存し、冬の支度もせずに脳天気な時間を浪費している様に見える日 本。蟻とキリギリスの寓話を思い出さざるを得ない。いざというときに、日本に油を恵んでくれるものがいるのだろうか。先日も、米国のライス大統領補佐官か ら公式ルートで、日本の企業連合が計画しているイラン・アザデガン油田開発の契約中止要請があったばかりではないか。

 きれいごとの作文を書くことが商売と心得ている役人の主導の下、途上国支援のためと称するODA資金を大量にばら撒きながら、聖人君子のごとく、楊枝を くわえて、髪振り乱す他国の活躍ぶりにただ拍手を送るだけの極東の国には、残念ながら明日の光は届かないだろう。

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2003年07月16日(水)萬晩報コナクリ通信員 齊藤 清

 米国のブッシュ大統領が7月7日に国を出て12日まで、セネガル、南アフリカ、ボツワナ、ウガンダ、ナイジェリアのアフリカ五カ国を訪問。

 ◆奴隷の島ゴレへ

 アフリカ大陸への第一歩は、8日、西アフリカのセネガル。セネガルはフランスの元植民地で、旧宗主国フランスが、精一杯の庇護を与えながら今に至るまで 大事に育ててきた国のひとつ。バゲット、カフェオレの文化が根づいた、言ってみれば他人の畑の真中へ、今をときめく世界の覇者ブッシュが、馬上でハンバー ガーを頬張りコーラをラッパ飲みしながら、ライフルを携えて、拍車をかけて乗り込んできた風情――畑では雨季の初めの雨を受けて落花生の双葉が出揃い、こ れからさらに大きく伸びようとしているそんな季節。

 セネガルの首都ダカールの町には、『ブッシュ帰れ』『虐殺者』『詐欺師』などと、けっして好意的とは思えない落書きやプラカード(英語で書くという好意 はみせているものの)が目につき、これは格別特異なものでもなく、アフリカの少なくとも黒人の世界では、ブッシュに対する評価はその程度。お追従や尻尾を 振るというアクションはまずあり得ない状況。

 苦労人のセネガル大統領ワッドゥに迎えられ、彼の案内で、まずはアメリカ建国の礎となった黒人奴隷の送り出し拠点の島、ゴレ島へ。この島は、今回のアフリカツアーでは大切なポイントのひとつ。

 首都ダカールの沖合い4キロほどの位置にあるゴレ島は、延長900メートルほどの、お玉じゃくしが腰をくねらせたような形の小さな島。ここが昔、近隣の 国からの奴隷を集めて、アメリカ方面へ送り出す拠点となった奴隷島。今は観光地となっていて、白人も、アメリカからの黒人も訪れ、島全体がそのまま奴隷の 歴史博物館を形作り、歴史のあるミッション系の小学校もあったりして、それなりにひとつの町の生活が営まれている島。

 1998年3月には、モニカ・セックススキャンダルの渦中にあった当時のクリントン大統領が、この奴隷島を訪れ、そして夫妻揃って、海に向けて開いた、 奴隷の館の奴隷積み出し口『帰らざるゲート』に立ち、海側の警備艇からテレビカメラを向けさせて、仲睦まじさを演出した映像を発信。これは特に、アメリカ のマイノリティ―である黒人層への効果を狙ったものだったようでしたが。

 今回のブッシュ大統領の場合、彼本人は西アフリカ諸国の抱えている問題にはまったく関心がないものの、BBCも伝えているように、次期選挙のためにゴレ 島での写真が欲しかった、というのが本音のひとつ。またイラク侵攻に先立ち、大量破壊兵器に関するウソの情報操作を繰り返した疑惑を追求されている点で、 当時のクリントンよりもさらに邪悪とも思われる行為の後の奴隷島巡礼は、どの程度の禊ぎ効果が期待できるものなのか。彼は、島の奴隷積み出し口から、セネ ガルのワッドゥ大統領とのツーショット映像を送りだしました。これで黒人層の支持をも期待したいところですが、柳の下に二匹目のどじょうがいるかどうか。 もっとも今回のカメラアングルは、ゲートの斜め下のガレ石で足場の悪い波打ち際から見上げるだけのかなりの手抜き。

 当時のクリントン大統領が奴隷島を訪れる日の前日には、私めもこのゴレ島に行っているのですが、島では特別に掃除をしているわけでもなく、警備が厳しく なっているわけでもなく、何の変哲もないいつもの時間が流れていました。島の住民何人かと話をしてみたものの、翌日そんなことが予定されていることすら知 らなかったようです。しかし今回は、島の住民に一時的な立ち退きが要請されていたと伝わっています。

 ◆ナイジェリアの頑張り

 今回のアフリカツアーでは、最終日の12日にナイジェリア(元英国植民地)に立ち寄り、同行のパウエル長官共々、リベリアへの平和維持部隊派遣についても意見を交換しているようです。

 この時、西アフリカ一番のオイル大国であるこの国では、自国内で売っている一般向け燃料の値上げに端を発した労働組合のストライキが続いていました。

 ナイジェリアの原油輸出量の三分の一はアメリカ向けであり、ほかにも陰に陽に気を遣ってくれるアメリカは、現政権にとっては足を向けて寝ることのできない存在。

 例えば、徹底した軍政の時代1998年に当時の国家元首が急死し、民政に移行する流れが出てきた時に、当時政治犯として刑務所に収容されていた最有力の 大統領候補(93年の大統領選で事実上勝利していた)が、アメリカ政府が派遣したミッション、ピカリング米国務次官との会談中、突然吐血して意識を失い死 亡したとされる事件の際には、毒殺と疑う動きを抑えるために奔走。

 その後に行われた大統領選挙では、当時、カーター元米大統領も選挙監視団のメンバーとしてナイジェリアに滞在し、投票終了直後は正直に「選挙には不正が あった」と本音を漏らしてしまったものの、すぐあとで、米国政府が公式に現在のオバサンジョ大統領の誕生を認知。

 米国の西アフリカからの原油輸入量は、現時点でも全輸入原油量の15パーセント程度であり、10年後には25パーセントにまで増やす腹積もりだとされて います。そのような米国にとっては、西アフリカの指導者的な役割を担っている現大統領もまた大切な存在です。

 ◆リベリア和平へのはるかな道

 ブッシュがアフリカ大陸に足を踏み入れる少し前から、国際社会から完全に孤立させられてしまった感のあるリベリアの大統領テイラーを退陣させる工作が進 んでいました。アメリカの間接的な支援を受けた形の反政府勢力が、現政権をかなり追い詰めてはいるものの、止めを刺すことができないでいる現状を打破する ために、西アフリカのオイル大国ナイジェリアが、周辺国とアメリカの意向を受けて水面下でリベリアと接触。

 援護射撃として、ブッシュがテイラーの国外退去を繰り返して要求し、CNNや米主要紙は7月3日、米国がリベリアへの平和維持部隊派遣の方針を固めたと 報道。それを受けてテイラーは翌日、「米国からの平和維持部隊派遣の後」に退陣する意思を表明。またこの前後には、テイラーがナイジェリアへの政治亡命に 同意したなどの欧米メディア発のニュースが多量に流されていました。

 リベリアに関しては、アフガン、イラクなどの場合と異なり、アメリカの国益――正確には特定の勢力の利益、という人もいるようですが――に直接的につな がるものが少なく、ただ過去に、解放奴隷を送り込んでこの国を建国させた経緯からのみ、いくらかの真摯なポーズを見せる必要があるだけで、リスクばかり多 くて、おいしいお土産があまり期待できない場所であることは確か。世界の警察を自認するアメリカとしては無碍にもできないものの、できることなら火中の栗 を拾って火傷はしたくないというのが本心。ラムズフェルドは部隊派遣に消極的で、パウエルがメディアに対しても積極的な発言を続けている模様。以前、ソマ リアの紛争に介入して恥ずかしくも退散したトラウマがまだ癒えていないようです。(テイラーはこの点を読みきっているはず)

 7月4日コナクリでは、リベリアのテイラーを包囲しつつあるあるリベリア反政府勢力の筆頭LURDの代表夫妻と国連安保理のミッションが会談していまし た。最近では、ギニア政府がリベリア反政府勢力LURDを支援している事実はオープンになっている模様で――むろん周知の事実でもあった――、それは、テ イラー政権がギニア反政府勢力の背後にいた(いる)、と信じるギニア政府にとってはごく自然な行動であったとも考えられるわけですが。

 LURD代表の妻アイシャ・コネは、ギニアの現政権に絶大な信頼を得ている呪術者であり、彼女がギニア政府とLURDとのつながりを守護する役目を果た しています。基本的にはコナクリに在住していて、その邸宅は通称ベレー・ルージュ(ギニアの大統領警護兵)が警備。

 また、米国の信頼と要請を一身に背負ったナイジェリアのオバサンジョ大統領は、自国の労働組合のストライキで足元に火が燃え盛っている7月6日、自身が リベリアへ飛び、テイラー大統領の首へ鈴をつける役目を全うした様子です。「ナイジェリアへの政治亡命」の確認を取ったとも伝えられるものの、テイラーが 国連の戦犯特別法廷から起訴されている問題、米国からの平和維持部隊派遣を前提条件としているなど、まだ流動的な要素が残されていそうです。さらにオバサ ンジョ大統領は、13日にはギニアを訪ね、ギニア政府との意見調整をしています。
(1993.7.13記)


 ■追って書き

 ◆闇に向かって撃て

 雨が降って、やわらかい草の緑に覆われた高地ギニア――マリ共和国に近いあたりから、ずっと新緑の中を走り抜けて、コナクリまで戻ってきました。

 特筆すべきは、街道のあちこちの検問所がすっきりと消滅し、現政権発足後ずっと続いていた、ギニア国民、ときに外国人をも不快にさせた悪しき伝統がきれ いに拭い去られていたこと。これまで、軍、税関、警察、それぞれが独自のチェックポイントを設定している傾向があったりして、けっこう煩雑なものでした。 本来の国内の警備目的を離れて存在していて、特に、長距離の乗合タクシー、ミニバスなどは恰好の餌食とされ、何かと因縁をつけて金銭を巻き上げられていた ようです。一部のポイントでは、政敵の移動を監視、記録して、中央に報告する作業をしていましたけれど。

 例えば、私めがベースにしている奥地のキャンプに行くためには、900キロの行程で、都合15を超える検問所を通過する必要があったのですが、今はたっ たひとつ、コナクリの出入り口、36キロポイントのみとなりました。10年以上このコースを走っていて、実際に金銭の要求をされたことはないものの、内陸 部の小さな村の検問所を深夜通過するような時には、番人がどこか遠くへ出かけて(あるいは、寝込んで)しまっていたりして、そのまま通過するのもためらわ れ、行方を探すために時間がかかるということはしばしばあって、新月の夜など、エンジンを止めた車の中で番人を待つ間、湧きあがってくる暗闇の中に、虫の 声やら蛙の鳴き声があふれているのを聞き、時には蛍の乱舞を目にするという、とてもうらさみしい時間ではあるものの、得がたい瞬間に出会うことも何度かあ りました。

 そういえば、あるとき、もう日がすっかり暮れてしまっていたのですが、我々のキャンプまであと100キロの場所にある軍の駐屯地に寄ったことがありま す。あらかじめ無線で、交代要員を乗せたいので立ち寄るようにと連絡を受けていたもので。――ちなみに、現地キャンプには、軍の兵士数人が護衛についてい るのです。交代の若い兵士は異様に緊張していて、待ちくたびれていたせいもあったのでしょうけれど、車が走り出して少ししたらトイレタイムを申し出て、さ らに少し走ったところで妙なことを言い出しました。月明かりもない、星も雲に隠された真の闇。彼は、手入れの行き届いたカラシニコフを胸に抱えた姿勢。

 ――撃ってもいいだろうか?。初めその言葉が聞き取れず、現地人スタッフが聞き返しても要領を得ない答え。いくつかの言葉のやり取りの後で、いくら走っ ても動く物はむろん、人家の気配さえ感じられない夜のサバンナの山道の、真っ暗闇に耐えかねての頼みであったらしく、どうぞ勝手にと返事をしたら、車を降 りて、眼が慣れれば輪郭だけは感じられる闇の中のブッシュに向かってダダダダ。その後、ありがとうと言われても、山の精霊にでも化かされているような腑に 落ちない宙ぶらりんな感覚のまま、際限のない暗闇を走り続けました。――その時の彼には、飽かず追いかけてくる闇はとてつもなく不気味な怖い存在であった らしいのです。

 ◆ネット不通

 このメールを用意してはみたものの、実は今夜現在はネットにつなげる環境にありません。恥ずかしながら、週末はよくあるように、電話回線をドロちゃんに 占拠されてしまっているようです。ダイヤルアップ方式では、電話線がつながっていなければなす術がありません。

 最近コナクリでは、あてにならない電話会社・電話回線が不要な、プロバイダーとの間を強力な電波で結ぶ方式が普及してきています。高い鉄塔とアンテナ・ 受信装置が必要で、個人レベルではちょっともったいないほどの経費がかかりはするものの、自分の懐が痛まない身分の人々には好評と聞きます。今の仮住まい の建物には、屋上のパラボラアンテナを介して共同で利用できるLANシステムが最近設置されたのですが、ここにはいつもいるわけではないことから、少しば かりケチって契約をしていなかったせいで、今夜のような不便をかこつことになりました。

 明日は飛行機でヨーロッパへ移動の予定ですから、着いたところでつないでみることにします。

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2003年02月20日(木)萬晩報通信員 齊藤 清

 ブッシュ政権のイラク攻撃がどうなるのか--。世界中の関心はここに集まっていますが、ギニアではどうでしょうか。ご意見をお聞かせ下さい。
 小生も昨夜、意見表明をして、萬晩報としても一応、日欧米発の意見が出て、そうだ中国とアフリカからの発信がないことに気付きました。
 寧波の岩間さんにもお願いしています。二人からご意見をいただけると「ワールドワイドの通信網を誇る」萬晩報としても面目がたちます。(03/02/19/21:34 伴武澄)
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 昨日の「萬晩報」の意見表明は、まことに妥当なものとして受け止めました。 参考までに、西アフリカ・ギニアの状況をお知らせしておきます。

 2月14日、ギニアの国連大使は国連の非常任理事国として、安保理で次のような態度を表明しました。

 『イラクの大量破壊兵器の破棄の状況をしっかりと知ることが基本であり、そのためには、査察をさらに継続する必要がある。またイラクは、引き延ばし戦術を取ることなく、査察に積極的に協力すべきである』

 この後日本外務省は、在京ギニア大使館の臨時代理大使を呼び、米英両国が準備していたとされるイラク攻撃容認の新決議案を支持するよう要請したと伝えられています。ギニアに対しては、ODA経済協力の額が他の先進国を抜いて一番多いことから、その影響力を行使した、というところでしょう。

 しかしながら2月17日、ギニアの外務大臣は国営放送を通じて、先のギニア国連大使が表明したと同じ姿勢を国民に説明し、イラクへの攻撃には賛成しないことを言明しました。

 この態度は、ほとんどのギニア国民の意見とも合致するものです。これは、国民の大部分がイスラム教徒であるということから来るものではなく、ことに911以降の早い時期に、アメリカの独善的な行動のいかがわしさに気がついたことに起因するものであると思われます。この国では、ヨーロッパ、アラブ、アメリカ等からの衛星テレビ放送を、ごく日常的に視聴していることから(自国の放送が貧弱であるためなのですが)、かなりバランスの取れたものの見方をする習慣がついていて、少なくとも海外の事象については、「翼賛的報道」が成立しにくい環境にありました。

 はじめに攻撃ありき、破壊・殺戮がすべてという昔の西部劇の世界が現在も生きているアメリカに対して、発展途上国と呼ばれる国の人々が優越感を持って、"SAUVAGE"(原始の、未開の)という形容詞を使って彼らの動きを評価している様子は、なんとも皮肉に思われて仕方がありません。いずれにせよ今回の侵略戦争は、その準備段階で、ブッシュ大統領主演(監督は匿名)の三文喜劇に成り果ててしまったようです。

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2002年07月10日(水)萬晩報コナクリ通信員 斉藤 清


 ◆蜂蜜の誘惑

 蜂蜜と金。その両者にはまったくつながりはないのでしょうが、実は昨日、奥地のキャンプから、車のオイルが入っていたプラスチック容器で、蜂蜜が4リッ トル届きました。これは私の大好物なのです。金産地の金イオンを含んだ水を吸い上げて咲いた野の花々のエキスの、あるいは金イオンを含んでいるのかもしれ ない黒砂糖風味の野趣そのものの蜂蜜をなめながら、それで、時には当地での金の仕事の情況を書いてみるのもいいのかなと愚考し、さらに外は週末の雨でしっ とりと落ち着いていて、過ぎた時間をたどってみるのにはちょうどいい背景設定ではあるし、そのうえ、小紙『金鉱山からのたより』は1998年7月の創刊以 来丸4年、怠惰な発信周期のままにいよいよ5年目に流れ込むという、誇ることもできない区切りの月にあたることも頭をよぎり、そしてその瞬間、蜂蜜に混 じっている小型の蜂の死骸と巣の破片がずいぶんと多いことに気がついて、これはガーゼを使って漉したほうがいい、とあらたな仕事(さほどの手間でもないの ですが)が増えてしまったことをおおげさに嘆いてため息をつき――時の経過に逆らうことのできない身をしみじみとみつめているつもりになっている筆者なの ですが。

 ◆奥の細道

 現在のキャンプ地――金の採掘現場までは首都コナクリから約1,000キロ。
1990年に初めてこの地に足を踏み入れたのですが、当時の道路事情はホントにひどいもので、地方の幹線道路の一部の区間では、日中でも車のライトをつけ て、舞いあがる砂塵の中での自分の存在を知らせ、対向車らしき影を感じたら、はげしくクラクションを鳴らす必要もありました。細かい砂塵が、ふりつもった ばかりの雪のように道を覆っていて、足を踏み出せば、くるぶしくらいまではもぐってしまうほどの深さでした。

 そして常識的には、自分の車の前にはいつも走れる道があり、しかも障害物はないであろうという想定のままに走行を続けるわけですけれど、ある地点では、 道路に横たわる細い川にかかる橋の幅が道幅の半分もなく(車1台分の幅だけで)、――おそらくは素直に直進して橋を踏み外し、けっこう深い流れに身を沈め ているスクラップ車を何度か目撃。そのように、予備知識なしでの夜間走行だったら転落して当然、といえる場所もありました。――そんな道路事情も近年は すっかり改善されて、幹線道路のかなりの部分は、日本の国道よりもずっと走りやすくなっています。

 この過酷なコースを丸々二日間走りつづけると、窓を締めきった車の車内にも、ラテライトの紅い埃が厚くつもっていて、乗っている人間の顔にも埃がへばり つき、仮面の中から眼球だけが外を見ているような状態になります。鼻と耳の穴にも紅い埃はふりつもるのですが、口の中だけは、唾液が埃を洗い流してしまう ものなのか、さほどの異変は感じなかったようです。そして無事に目的地に着いて車を降りる時は、第一歩は必ずよろけてしまって、平衡神経がまともな状態に 回復するまでには大分の時間が必要でした。

 ◆金の採掘に向けて

 ともあれ、カナダの会社が調査を始めていた鉱区の一角に、初めて足を踏み入れたのが1990年。その後、鉱区の隅のほうの面積4平方キロの漂砂鉱床だけ を重点的に精査し、まずはその部分を採掘する目的で、その会社が当時保有していた総面積1,500平方キロの鉱区をすべて引き継ぎ。

 1993年の暮れから、現地への採掘機材の搬入と、キャンプの宿舎、食堂、事務所、金精製作業棟などの建設を開始。日本ばかりではなく、他の国からも送 り込んだ重機、資材―大工用の釘に至るまで―を、現地調達の車輛を使って、しかも長距離の悪路を移動させる作業は楽なものではありませんでした。――現在 の道路状況だとずいぶん楽なのですが。

 カナダのバンクーバーで特注製作した金選別装置は、輸送船の都合があって、雪のロッーキー山脈を越えてニューヨークまで牽引陸送し、コナクリ向けの船に 載せたこともありました。また、総重量70トンほどのドラッグライン(土砂をすくいあげて移動させる重機)は、スウェーデンで手頃なものが見つかり、ベル ギーのアントワープ港で積み替えてアフリカ航路へ。

 特に、総重量70トンほどのドラッグラインのギニア国内の移動に際しては、通過する予定のすべての橋の状態と幅を前もってチェック――これは自分自身の 手でやりましたけれど。最終的に、中部ギニアのリンサンという町を流れる川にかかる50メートルほどの橋が、強度はともかくとしても、幅が絶対的に狭くて 通過できないことが判明。そこで村人の指導を得て、1キロほど下流の、両岸が比較的平坦な場所を選び、ここに臨時のアクセス道路を開いて、乾季の水位が下 がった時期を見計らい、川底に大きな岩を敷きつめて横断路とし、この区間だけは重機を自走させたこともありました。

 ◆採掘作業の開始

 そのようにして採掘体勢を整え、1994年後半から現地での金採掘を開始。3交代24時間稼動態勢でのスタートでした。この時期に掘り出した金の粒を、 『金鉱山からのたより』の初期の読者の方々に、記念品としてお送りさせていただいたこともありました。

 1994年から1997年までは、金価格は1オンス(31.1g)380$を超える国際価格が続いたのですけれど、このあと急激に下落して、時に 250$ということもあり、それから長期にわたって低落したまの期間が継続することになります。金価格350$程度を想定しての計画を立てていた私めにし てみれば、それは絶命の窮地ということを意味し、その後現在まで、どうしようもない状況にあるということには変わりがないと、妙な自信を添えて断言し、逆 境を強調して笑いに紛らす、ということも現実にはあるのですが。

 国際的な規模の産金会社から見れば、当社の現場はかなりちゃちな操業風景ではあるのですが、それでも、ごく一般の、金鉱山をご覧になったことのない普通 の日本人の目から眺めれば、それなりの規模に思えることは確かで、ことに、移動させている土砂の量は、ちょっとした土木工事のイメージをはるかに超えてい るものではあります。

 これまでの採掘作業は、あくまで漂砂鉱床を対象としていて、大昔――人間がまだ登場していなかった頃でしょうか、この地が形成されたある時期に流出して 堆積した金を含む層を(この地では2-3mの厚みなのですが)、地下のある深さから掘り出して水でただ洗うだけの、単純なそれでもやさしくはない微妙な技 術も要する、露天の土砂クリーニング業、といった類いの仕事になっています。

 ◆黄金にまつわる伝承

 流出した金を含む堆積層があるということは、さほど遠くはない場所にその源があるはず、というのは当然の理屈。ついでながらその金鉱床を確認してみたい、という遊び心もあり、私めは民俗学者をまねて、まずは何人もの古老と話しこんでみました。

 ――昔はたくさん金が出たけれど、それは村人のためにならないからずっと立ち入りを禁止している、とか、精霊がその山を守っているから入ってはいけない ことになっている、とか、あるいは金はたくさん出るけれど、水が多いから村人の採掘技術では作業ができずに現在は放置されている、などの貴重な情報はいろ いろあって、時間を見つけてはそれぞれの山(丘)を訪ねてみました。山によっては、ニワトリを生贄として持参し、土地の信仰(おそらくはイスラム教が入り 込む以前の)にしたがって、山の木立に向かってひっそりと宗教儀式を行ったこともありました。その中には、いつの時代に掘られたものなのか、古老の知識に はない「採掘遺跡」もいくつか存在しています。

 これらの場所は、村人にとってはタブーであったとしても、異邦人としての私めにはタブーの効果は及ばない、という古老の解釈でしたし、むしろそこを案内 することに積極的でした。その結果、けっして小さくはない金鉱床の存在が、現代の技術を使って、その一部だけではあるもののはっきりと確認できた今は、立 ち入りを許してくれた山の精霊や村の古老らに、おおいに感謝しているところです。

 現在のキャンプ地あたりは、古くはブレ地方と呼ばれ(駿河、紀州のような昔の土地の呼び方)、古代マリ王国の支配者マンサ・ムサ王が首都ニアニを置いて いた場所の近くです。そのニアニは現在のギニア領内で、当社鉱区に隣接。彼がメッカへ巡礼に行った1324-25年には、持参した黄金(その量は数トンと も、十数トンともいわれるのですが)を旅の途中でばらまき、そのせいで金の価値が下がってしまったと、モノの本には書かれています。

 この当時――つい最近までも、この地方には奴隷の制度があって、ある家柄の者は生まれたその時から自動的に特定の家系に従属する奴隷として働くことに なっていました。そのために、日本の佐渡金山にも匹敵するような規模の金の採掘が行われ(現在のような村人の個人レベルでの手作業では絶対に無理な規模 の)、その巨大な空洞、採掘跡はまだいくつも残っています。その作業の跡を現在の知識レベルでチェックしてみても、当時の彼らがとても優れた知識と技術を 持っていたことがわかります。――実に的確に掘っています。

 ちなみにこの地では、経済効率を考えなければ、いたるところで金が採取できます。例えば、小高い丘の上に建てられた我々の宿舎の前庭の、天然の小砂
利をバケツに一杯ほどすくって洗ってみれば、必ずいくつかの金の粒(粒の大小は問わないとして)を目にすることができます。機械のテストで、丘の麓のトウモロコシ畑の砂を洗っても、充分な量の金が採集できました。

 1828年には、この黄金郷をめざすヨーロッパの探検家ルネ・カイエが、苦難の末にこの地に到達しています。彼は、おそらくは現在の村人の作業風景とほ とんど変わることのない現場に立会い、事細かに採掘の状況を記録しました(日本語訳の本もあり)。命をかけて、地を這うようにしてこの地にたどりついたル ネ・カイエと、埃まみれにはなっても、さほどの危険もなしに、同じ場所に車で乗りつけることができる今の時代とでは、文字通り、隔世の感があります。

 そして、これらの耳と足で確認した情報を、資源探査衛星の写真と突きあわせてみると、その間には、みごとに一定の法則が存在していることがわかってきました。

 ◆科学的なチェック

 そうとなれば、もう少し組織立てて調査する必要があり、北米の大手金山会社と提携して、鉱区全体の洗い直し調査を始めたのが1997年からだったでしょ うか。体系的に膨大な点数のサンプルを採取して金の含有量を微量分析し、その結果の数値を地図上に落とし、金の濃度分布図を描いてみると、これもぴたりと 村人の昔の採掘跡、あるいは村人の手による現在の採掘現場と重なったわけです。その後、集中的に地下100メートル程度までのボーリング調査などを実施 し、商業的にも放置できない規模の金鉱床が確認されました。

 その評価をもとにして、ギニア国の鉱業法の制約もあり、現在は鉱区面積を200平方キロに絞りこんでいます。そして実際には、金価格の低迷の影響をまと もに受けて、悪戦苦闘、四苦八苦、断末魔の苦しみを引きずりながら、国際的な規模の金鉱区に仕上げるための作業を断続的に続けています。とりあえずは、現 在までに確認している、100トン程度の金埋蔵量を見込んでの精査作業が続くことになります。

 むろんこの鉱区は我々が発見したわけではなく、その第一番の貢献者は古代マリ王国のマンサ・ムサ王であり、探検家ルネ・カイエであり、そしてこの地方の先祖とそれを伝えてくれた現在の村人たちでした。

 そして――このあたりになってくると、遊び心の範疇をかなり超えている状況でもあり、私自身はこの10年間、苦しみつつ(そして多くの人に迷惑をかけつ つ)も、妙な縁から始めた金採掘を楽しみ、あるいは国際的に通用する規模の金鉱区の確認に、山師として、舞台監督として立会い、たっぷりと遊ばせてもらっ たことを手みやげに、そろそろ浦島太郎になるのもいいねと、キャンプ地から届いた黒砂糖風味の蜂蜜に、かすかなほろ苦さをも感じて、ふりしきる雨をみつめ ているのです。
2002年03月25日(月)萬晩報通信員 斉藤 清

 ◆寒風の中の金業界

 1997年あたりから急激に冷えこんだ金価格を背景に、金生産会社それぞれの生き残りを賭けた熱い戦いが、地球全体を舞台として進行しています。世界各 地の金生産会社は、リストラ、合併、清算、そして先行投資としての金鉱調査費用削減を続けてきました。その結果、例えばギニア国内でも、金価格が高水準で あった1994-1997年あたりには、各国の有力な金生産会社が新しい鉱脈を求めて、時には50-100近くの金鉱調査チームを送りこんでいたのが、現 在ではその8割以上が撤退し、残りの一部は静かに眠っている状況となっています。

 これは全世界的な流れで、本来であれば、金鉱の採掘を進めると同時に、将来に備えての備蓄量を確保するため、常に新しい鉱区の開発調査を行うことが望ま しいとされているわけですが、金価格の低迷がそれを許さなくしているようです。まず今を生き延びなければ、という切羽詰った状況では、5年、10年先のた めの備蓄を増やす余裕はあり得ません。

 1999年の、英米IMF等の合作による金の市場価格操作疑獄の頃には、わずかながら業界が明るさを取り戻したものの、そのまま持続することはありませんでした。

  「金の市場価格操作疑獄関連のレポート」下記URLで1999/10/09号をご覧ください。
  http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000005790
  =ギニアから眺めた金の業界風景=

 ◆市場価格操作疑獄の被害者

 たしかに、1999年9月の疑獄の際には、それ以前のごく短期間のうちに金価格が下落し、そしてその時のG7会議終了後の週末になされた記者会見を受 け、次の月曜日には金価格が急騰するという状況があり、金業界関係者はそれまでのつらい日々をいくぶん忘れることができたのです。そして前向きの動きを加 速させる会社も出てはいました。

 ところが、実はこの月曜日、有力な産金会社2社が会社の存続を危うくさせるような額の損失を出していたことが、何日か後になって公になりました。それが カナダ・モントリオールの中堅C社と、ガーナの大手A社。両社ともに、金のヘッジの読み違いから、それぞれの会社にとっては絶体絶命の巨額な負債を抱える こととなりました。

 A社はガーナ政府の後援と債権者の理解を得て、かろうじて生き延びていますが、常にパートナーを探している様子がありあり。C社は、その弱り目を狙われ て安値での買収攻勢をかけられたものの、株主が納得せず不調に終わっています。この時点で、会社にとってはあるいは幸いにも、日本の投資会社からつなぎの 資金の調達ができ、その後、鉱区の切り売り等をして綱渡りの運営を続けているようです。日本の投資会社も、突っ込んでしまった足はなかなか抜けないものら しく、出資金の増額を実行している(せざるを得ない)ようですが、リターンはどうなるものやら。

 このようにして、産金会社にとっての金のヘッジ取引は、資金調達のための便法であると同時に、そのコストとリスクが確定していないために、金価格の大きな変動があった場合はとんでもない結果になるという強力な警鐘となりました。

 巨額の利益を得た者がいたと同時に、前記のように、みごとな失敗例として業界の語り草となっている会社もあるものの、実感のないままに巨額のコストを負担させられた声なき民も数多く存在したことは銘記しておくべきでしょう。

 ◆合併、買収の強い風

 こんな状況にほくそえみながら、英国に本社を置くリオティント社や、南アフリカのアングロアメリカン社は、総合鉱山資源会社として、世界各地の鉱山を戦略的に買収し続けています。

 例えば、オーストラリアの鉄鉱石事業は、従来はリオティント社を含む3社が市場を支配していたものの、2000年に、競合相手を買収して価格支配力を強 めようとしたリオティント社に対抗して、アングロアメリカン社も買収戦に参加。このケースでは、日本の鉄鋼メーカーまでが、両社の動きに翻弄されていまし た。また、リオティント社は、自社が開発した世界最大の埋蔵量を誇る鉄鉱山をギニアですでに確保し、将来の需要に備えています。同社は、オーストラリアの 主だった炭鉱もすでに買収。

 余談ながら、アングロアメリカン社は昨年、ダイヤモンドで有名なデビアス社を買収。両社はもともと親戚関係にはあったのですが、資金力の枯渇していたデビアス社を買収することによって実の親子関係に模様替え、というところです。

 金業界関連では、南アフリカと北米の会社が、世界の有力な産金会社の買収を競っている流れがあります。昨年は、産金量世界第2位だったカナダのバリック ゴールド社が、アメリカの大手会社を買収。南アフリカ2位のゴールドフィールド社は、オーストラリアの中堅デルタゴールド社を買収し、オーリオンゴールド と社名を変更させています。そして、世界トップ(だった)の南ア・アングロゴールド社は現在、前述のゴールドフィールド社、オーリオンゴールド社、それか らヘッジの失敗で青息吐息(失礼)のA社を視野に入れて、買収をかける時期を探っているなど、業界再編成の動きが急です。

 ◆オーストラリア一番の会社を急襲

 一連の買収劇が続く中、そのクライマックスとしては、昨年から今年にかけての「世界一の産金会社」という看板をめぐる戦いを忘れるわけにはいきません。

 これまでずっと、世界一の産金会社は、南アフリカのアングロゴールド社(ロスチャイルド系)ということに決まっていました。誰も疑うことなく、その歴史 からいっても当然の流れであると信じこんでいたのです。ただ最近の金価格低迷の環境の中で、南アの多くの鉱山ではストライキが頻発し、それでなくても生産 コストの高い採掘条件がさらに悪化していたことは確かで、そのためにも国外の鉱山に生産の軸足を移す必要に迫られていました。最近の買収、吸収合併のひと つの側面は、より生産コストの低い即戦力となる金鉱山を求める動きでもありました。

 そんな流れの中で、南ア・アングロゴールド社は昨年9月初め、オーストラリアで産金量一番のノルマンディーマイニング社を標的にした、株式公開買付の実 施を発表。当のノルマンディー社は、自社株主に提示された株式買取条件に不満を表明し、株主に対して自制を呼びかけました。その直後に9.11事変が起 こって、金価格は一時的に急上昇。

 AngloGold bids for Australian rival
 http://news.bbc.co.uk/hi/english/business/newsid_1526000/1526245.stm

 ◆逆襲の宣言

 豪ノルマンディー社は自社株主に対して慎重な対応を呼びかける一方、水面下でカナダ、アメリカの会社と接触し、南アの軍門に下ることを拒否するための方策を練り続けます。

 ここで活躍したのが、カナダの小粒の金会社フランコネバダ社。この会社は自社では採掘をせず、支配下の鉱区を他社に採掘させてロイヤリティーを徴収する 経営スタイルで、無借金経営をしていた財務内容のすこぶるいい会社。仕事柄、世界の大手の会社とのコネクションも充分で、そしてまことに都合よく、豪ノル マンディー社の株式を19.9%保有していました。そのうえ、2000年代には南ア・ゴールドフィールド社との合併を模索した経緯があったものの、カナダ に利益を落とすわけにはいかないという南ア政府の反対を受けて交渉が挫折した、というおまけまでついていました。

 その結果、アメリカ最大手の産金会社ニューモントマイニング社が主役を演じることとなり、接着剤・応援団としての脇役はカナダ・フランコネバダ社が、ゲスト出演者として豪ノルマンディー社が登場する舞台設定ができあがりました。

 そして2001年11月14日、世界一の生産量と備蓄量を持つ新会社を作り上げ、金取引市場への影響力を増大させることを目的として、南ア・アングロ ゴールド社の今回の動きに対抗する声明を3社合同で発表します。これが、アングロゴールド社を永年の世界一の座から蹴落とす動きの始まりでした。

 プレスリリース 2001.11.14http://www.newmont.com/inv_relations/newsreleases.htm

 ◆世界一をかけた戦い

 南ア・アングロゴールド社は11月25日、オーストラリアの買収裁定委員会に対して、米ニューモント社の買収案について異議の申し立てを行います。

 その骨子は、カナダ・フランコネバダ社がすでに保有していた豪ノルマンディー社の株式に関する解釈についてでした。宣戦布告の前にフランコネバダ社を傘 下に入れたのは、同社が保有していた豪ノルマンディー社の株式取得が目的であってルールに反する、という主張だったのですが、12月12日に異議申立てが 却下され、この時点で、ノルマンディー社株主の進行方向が決定的になった模様です。

 また米ニューモント社は買収案発表の前後にも、豪ノルマンディー社の価値を再評価するため、地質技師を含めたスタッフをノルマンディー社の各地の鉱山へ 送りこんだ模様で、その結果を株式の買い入れ提示額に強気に反映させて、南ア・アングロゴールド社の提示額を上回る条件を株主に約束し続けました。

 このような戦況の中で、アングロゴールド社は、株主としての影響力を残すためだけにも最低10%のシェアを確保しようと努力したものの、1月18日の買い付け締め切り時点で、豪ノルマンディー社株取得率7.1%という結果に終わりました。

 ここで、南ア・アングロゴールド社はギブアップのタオルを投げざるを得なかったわけですが、それでも尚、他の大手を買収して業界のトップの地位を奪回する可能性を強く示唆し続けています。

 米ニューモント社は2月25日、豪ノルマンディー社の92%の株式を取得したことを発表し、買収戦争の勝利を宣言しました。この買収に要した資金は約3,000億円と見積もられています。

 ◆金価格への影響

 世界規模での金の年間実生産量は2,500トン程度といわれ、新しい世界一の産金会社・新ニューモント社の現時点での年間年産量は約270トンと見込ま れています。同社は、この生産量を武器にして金市場への影響力を強めることを宣言すると同時に、金価格低迷の元凶であると考えられているヘッジという不健 全な取引を極力排し、ごく自然な取引形態をめざすとしています。今回の豪社買収にあたっては、株主に対して、ヘッジ取引をしないことによる経費の大幅削 減、ひいては株主への利益還元、そして金価格上昇による業界全体の利益の追求を目指すことを強調していました。

 同社首脳筋は、市場でのヘッジ売りの量を年間500-1,000トン減らすことによって、1オンス(31.1g)あたり25-50ドル (5$/100t)の価格上昇が実現できると計算しています。――2001年の平均金価格275ドルをベースにして、300-350ドル圏への移行を想 定。

 業界の新しいリーダーとしての新ニューモント社の成立が確実になった今年1月下旬あたりから、1オンス290-300ドルの金価格が続いているのは、あるいはすでにこの「ニューモント効果」が出始めているためなのかもしれません。

 24hr Goldhttp://www.kitco.com/charts/livegold.html

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2001年06月26日(火)萬晩報コナクリ通信員 斉藤 清

 ◆深夜の空港

 零時を大分過ぎてコナクリ空港に着陸したエアバス機は、急いで客を吐き出す。タラップを降りたアンヌは、「着きましたね」とめくばせをしながら髪をかき あげる。照明は暗く、顔の表情までは確認できない。Tシャツのふくらみが、空港の頼りないまだらな灯かりに映し出され、すぐまた翳る。深夜とはいえ、まだ ぬくもりの残る湿った空気の中に、皮膚にからみつく熱帯の青臭い匂いが漂っている。また来てしまったな。わずかに口許をゆるめた男は、いつものように自分 に話しかける。これで何度目になるのか、彼も数えたことはないのだけれど、忘れたいほどに重なった時間の連なりが、髪に白いものが混じるのを意識させる歳 にしてしまっている。マングローブの繁みを抜けてきた海風が、アンヌのつややかな黒髪をゆらす。

 パスポートコントロールを過ぎ、アンヌが出口の人ごみに向かって手を振ったのを合図のようにして、男は彼女のそばを離れる。それを見ていた出迎えの事務 所のスタッフが、彼のショルダーバッグを受け取りながら、遠くのアンヌを指差して、「日本の人か」と訊く。男は曖昧に頷く。アンヌと彼女を迎えるはずの日 本人パーカッショニストの姿を、目で追う男。その額にうっすらと浮かぶ油に、水銀灯のとげとげしい光が映りこんでいる。

 空港でアンヌに紹介された長身のパーカッショニストは、「ケイスケと呼んでください」とわずかに頭を下げた。素足にサンダルをひっかけ、青白くやつれた 表情に乾いた笑顔を浮かべ、後ろに束ねた髪がほこりっぽい。他人の名を、ファーストネームで呼ぶ習慣のなかった男はいくぶんとまどったものの、あえて彼の 姓を尋ねることはしない。「電話番号はアンヌに伝えてありますから、そのうち食事をしましょう」と、男は二人に向かってフランス語で話す。ケイスケはアン ヌの表情を確かめながら、正確なフランス語で礼を言う。

 ◆ハーフエンハーフ

 胸元に巻きこんだ淡いすみれ色のマフラーを、ただひとつの彩りにしているアンヌは、まったく化粧をしていない。ギニアにいたときも、ずっと素顔のまま だった。くっきりとした眉、鋭くはないがはっきりと、しかし控えめに自己主張をしている眼差し、整った鼻すじ、わずかに赤みのさした頬、いつも余裕をたた えているようにみえる穏やかな口元、そして過不足のない体躯。その組み合わせがアンヌを、派手ではないが充分な存在感と知的なやすらぎを感じさせる女性に している。風土が人を育てるものなのか。

 ダンス教室が終わってから、中央駅で地下鉄を降り、ベルギーへの観光客は必ず訪れるという古い広場グランプラスまでの石畳を下る。永年の汚れをすっかり 洗い落とされ、まっ白に化粧直しされた旧市庁舎が、広場に向かってやわらかい夜の照明を浴びている。この広場には、昼間であれば花屋や小鳥屋がいたりし て、殺風景な石の風景に彩りを添えているはずだけれど、この時刻ともなると人影もまばら。広場のはずれのパブ・ロイデスパーニュの前を通り、少し遠回りを してピザ屋の並ぶ小路を抜け、アンヌが「気に入らなかったら言ってね」と念を押しながら、老舗のカフェレストランの扉を押す。ステンドグラスを高い天井の 近くに配した、ゆったりとした空間が特徴で、地元の人が多い店であるらしい。打ち解けたやわらかい空気が流れている。男は、そのカフェレストラン「ファル スタッフ」の奥の方の席に腰を落ち着け、アンヌに満足の意味を込めて頷いてみせる。

「それじゃ、わたしもムール貝」

 男は、アンヌをまねてムール貝を食べることにし、アペリティフにはこの店のオリジナルというハーフエンハーフを頼む。これはシャンペンと白ワインを半々 に混ぜただけのもので、格別のものではないものの、アンヌとの再会を喜ぶためにはふさわしい飲み物だと男は思う。ふたつのシャンペングラスが軽い音をたて る。

 そういえば、ブリュッセルでのこの男はいつも一人だった。ギニアへの旅の途中この街に立ち寄り、古い建物の間の路地をあてもなく散歩している時も、街角 のカフェで一杯のビールをそっと傾けてちょっとため息をつく時にも、いつも自分とだけ話をしていた。この男にはそれが習い性となっていて、それ以上を望む こともなかったはずだけれど、今夜はアンヌが気を遣ってくれていることに、いつとはなく心が和むのを感じている。(『金鉱山からのたより』から=つづく)

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2001年05月06日(日)萬晩報コナクリ通信員 斉藤 清

◆ポルトゥドゥナミュール駅

ベルギー・ブリュッセルの、地下鉄ポルトゥドゥナミュール駅の地上出口そばにあるファーストフードの店「クウィック」の前。春とは名のみの小寒い夕暮れ。 夕方6時の約束を5分ほど過ぎて、坂道の向こうから手を振る長い黒髪の若い女性アンヌの姿。急ぎ足で距離を縮め、「だいぶ待ちましたか」の問いに、「いい や、5分前に着いたばかり」と応える男。3カ月ぶりの再会ということであれば、単なる知人ではあっても、当然のように互いの頬を合わせる挨拶をして、ある いは抱き合ってもいいくらいのものだけれど、照れくささから、その習慣にはいまだになじめず、アンヌのタイミングをかわしたまま、簡単にごぶさたの言葉を 交わして握手をする日焼けした東洋の男。

彼女の黒いコートの肩には異様に大きなスポーツバッグ。しっかりとした体つきとはいえ、そのかしげ具合からすればかなりの重量にみえるものの、男がおずお ずと差し出した手を、ただ一言、「いつものことですから」とにっこり微笑んで軽くいなし、ゆるい坂道を先だって歩いていくアンヌ。彼女の後を追い、あるい は肩を並べ、暮れかかった街の石畳を歩く中年の男。

◆アフリカンダンス教室

古い建物の2階のドアを開けると、そこでは15人ほどの白人女性たちが、それぞれのいでたちで軽い準備運動をしていて、アンヌが紹介するその男の方へ顔を向け、さりげない会釈。男は一世一代の笑みを浮かべて、とまどいながらも「はじめまして」と声をかける。

アンヌが、「飽きてしまったら、そのあたりを散歩してきてもいいのよ」と男に話している間に、縮れ髪をていねいに編んだ恰幅のいい黒人男性が入ってきて、 彼女がかついできたバッグから取り出したタムタム(太鼓)を受け取り、そして東洋の男を一瞥。アンヌが、「このひとは今朝ギニアから着いたばかりで、今日 はみんなのダンスを見学に来たの」と紹介すれば、「マリのシディキ・カマラです」と、右手を差し出して男の手を握る。男は、彼の手の厚みと、手のひらの一 部にできている厚く盛り上がったタコに触れて、思わず「すごいですねぇ」とうなる。

パーカッショニストのカマラ師と助っ人の黒人が、タムタムをズンタカタと叩くと、踊り手の女性たちが部屋の中央に集まり、まずはギニアのマリンケ族伝来の カサのリズムで舞い始める。黒い紗のドレスのアンヌは、低音を受け持つ中太鼓をバチで叩いてリズムを刻む。流れが盛り上がりピッチがあがってくると、白い 歯を見せて笑顔を浮かべ、踊り手たちの動きを追いながら嬉しそうに身体を揺らす。踊り手たちが縦横に飛び、はじける。

男は、ギニア人女性の踊る伝統舞踊は、アフリカンミュージックの源流地帯といわれる高地ギニアの村々で何度も見、その動きの激しさと鋭さ、そしてあふれる エネルギーにはいつも驚かされているけれど、白人女性の踊るアフリカンダンスはまったく初めてのことで、多分に昇華されたなまめかしさを感じつつ、女性た ちのやわらかな動きに目をうばわれている。ステップを踏む衝撃、跳躍、腕の投げ出し方、腰の動き、すべてがしなやかで繊細。高地ギニアの村の広場で、砂埃 を舞い上げて踊る黒人女性たちのダンスとは、その迫力に圧倒的な相違があるものの、それでも郷愁を誘う目の前の踊りに、男は狭くなった地球を感じ、乾季の 枯れ野原を吹きすぎる灼熱の風を身近に想いおこしている。

◆バマコの空港喫茶室

昨年の暮れのこと、男はパリからコナクリへ向かう飛行機の中にいた。午前中にパリを出て、明るいうちにコナクリへ着けるはずの便だったものの、都心のホテ ルからシャルルドゴール空港に着いてみれば、出発時刻案内の表示さえまだ出ていず、日をまちがえたかと男は首をひねる。カウンターで確認すれば、出発時刻 がすでに午後へと変更されていて、その時点ですでに4時間程度の遅れ。もっとも、それはよくあることで、今日のうちに飛んでくれるといいな、と呟きながら 男はカフェへ向かう。そして、充分に待ちくたびれた後で、男の乗ったエールフランス機はバマコ、コナクリへ向けて離陸。

この日、この便の経由地点となっているマリ共和国の首都バマコでは、ギニアとリベリア、シエラレオネ3国の国境問題について、西アフリカ諸国経済共同体 (ECOWAS)のサミットが開かれていて、各国の首長クラスを乗せた飛行機の出入りのために、一般機の離着陸が制限されていた。

日が沈みかけた時刻、男の乗った便はとりあえずバマコへ着陸したものの、機体の移動が許されずに長時間の待機。バマコで降りるマリ人、異邦人もしびれを切 らしきった頃、首長を乗せた隣国の飛行機が飛び立ち、乗客たちは、空港ターミナルからはかなり遠い場所で解放される。離陸時刻が決まるまで、喫茶室で待て との指示。

他の機のジェット噴射を避けながら、空港ターミナルへ向かって歩く途中、男の近くにいた白いTシャツの女性と視線があう。長い黒髪をかきあげながら、目で 挨拶を返す落ち着いたその女性は、顔の表情、たおやかさから、あるいは日本人かもしれないという感じはしたものの、それはきわめて稀なことなので、男はと りあえず英語で、「コナクリへ行かれるのですか」と尋ねてみる。きれいな英語で「そうです、初めてなのです」という答え。これは日本人の反応ではない。

空港の喫茶室で、支給されたビールを飲みながら、男のかなり破綻のあるフランス語を気遣って、「英語にしましょうか」というその女性は、ベルギー人。その 名はアンヌ。 韓国人の両親から生まれた後ベルギーで育てられ、出生地ソウルのことは何も覚えていないという。「いやフランス語で続けましょう」と、男はそれが相手に対 する義務ででもあるかのように繕ってはみたものの、その実、英語よりはふだん使いなれたフランス語のほうが、まだ会話がしやすいことを彼自身がよく知って いるだけのこと。

アンヌは、擦り切れたセーファーフラン札を1枚見せて、去年このバマコに滞在した時の残りだという。アフリカン太鼓(Djembe)の国際的な指導者と目 されているギニア出身のママディ・ケイタ師のブリュッセルの教室に、彼女はいる。去年は、マリのバンバラ文化圏で太鼓の修行をしていた同窓の日本人パー カッショニストを訪ねたものらしい。今年は、その彼がコナクリにいるという。(めるまが「Gold News from Guinea」から=つづく)
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   2001年03月30日(金)コナクリ通信員 斉藤 清



 昨年以来、一般利用者へのサービスを停止していたイリジウム(Iridium)衛星が、この4月から、一般通話サービスを再開することになりました。

 66個の低軌道通信衛星を使って、地球上のどこからでもどこへでも通信ができるシステム、として営業を開始したイリジウム衛星電話でしたが、顧客の獲得 がうまくいかなかったという理由で経営困難となり、昨年、裁判所に会社の整理を申し立て、一般顧客へのサービスを停止した状態で買主を探していました(日 本の出資・関連会社は、早々に会社を清算・消滅させています)。

 投資総額はおよそ6,000億円といわれますが、これを、元パンナムの社長率いる投資グループが約30億円で買い取る契約が昨年末に成立し、一般顧客へのサービス再開の準備が進められていました。

 イリジウム衛星通信網は、実際には米国防総省の地球規模での通信システムの一環として利用されているために、昨年の一時期、特に日本で意図的に(と思わ れる)流された衛星の廃棄計画は、あり得ないと信じられていました。今回の買収に際しては、米国防総省自身が声明を発表し、2年分の通話料前払い(現在使 用中の2万台分)と、2007年までの支援を確約しています。システムの運用は、ボーイング社が担当することになっています。

 競合するシステムには、Global StarとInmarsatがあります。しかし、GlobalStarは通信可能な範囲に大きな制限があり、地球上どこでも使えるものではありませんの で、イリジウム衛星電話の一般サービス再開で、現在でも不安定な経営状況は、さらに悪化するものと思われます。

 Inmarsatは、永年の安定した通信サービスで定評があるのですが、高軌道の静止衛星を使うために、端末の小型化(現在はノートパソコン程度にまでは小型化しています)とアンテナ設定の自由度に限界があり、「ケータイ」の感覚で使える状況にはありません。

 それにひきかえIridiumは、現段階での端末は非常に不恰好で、アンテナのコネクターなどはいかにも軍用機仕様となっていますが、それでも一応 「ケータイ」として使えます。よりスマートな端末が、8月には1,500ドル程度で供給されるとアナウンスされています。アフリカの内陸部などでは、重宝 な通信端末となるはずです。

 本稿は「Gold News from Guinea=金鉱山からのたより」からの転載です。イリジウムの復活は一部メディアで本日報道されていますが、戦乱のギニアのコナクリからめるまがを配 信している斉藤さんの情報収集力には頭が下がります。こういうことを可能にしているのがネット社会の先進性であることはいうまでもありません。(萬晩報  伴 武澄)

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2000年07月22日(土)
Conakry通信員 斉藤 清


西アフリカの旧英国植民地シエラレオネは、大西洋に面した緑の豊かな国。す でに雨季を迎えたこの季節、雑草に混じって、米、とうもろこし、落花生の若 葉が、吹きすぎるそよ風にゆれている。人のいない静かすぎる村。この村を出 ていった人々は、収穫の時季までに、戻ってくるのだろうか。

◆和平合意の破棄

シエラレオネの首都フリータウンから240キロほど離れた町マケニ(Makeni) は、ダイヤモンドの漂砂鉱床を背景にして、すでに20年以上にわたって良質 のダイヤモンド原石をヨーロッパの市場へ送り込んできた。昨年7月の現政権 と叛乱勢力側との和平合意を受け、永年叛乱勢力の支配下にあったマケニの町 に、叛乱側の武装解除を促進する目的で、今年に入ってから国連平和維持軍が キャンプを設置した。シエラレオネの東部地方には、このような町がいくつか 点在している。

維持軍側が、銃一丁を300ドルで買い上げるという条件を流布してみても、 叛乱勢力側からの武器の提供は思うようには進まない。それもそのはずで、彼 らの感覚からすれば、自分の生活を守るためには当然に銃が必要で、それを手 放すことは考えることができない。銃があればこそ、「よそ者」が侵入してき た場合に現在の「生業」を死守することができ、そして生き延びることができ る。あるいは、いくぶんかは生活を楽しむこともできよう。山の男たちは単純 にそう信じ込んでいた。そんな彼らにとって、国連平和維持軍はまぎれもなく 「よそ者」である。長期にわたる彼らとの対峙は、生理的に忍耐の限界を超え ていた。

それは5月1日夕方のこと。叛乱勢力の兵が、平和維持軍キャンプのケニア兵 を急襲した。彼らは事務所を占拠しようとしたが、そこにいた准将は抵抗した。 叛乱兵のひとりは准将のピストルをもぎ取って頭につきつけ、他の兵は至近距 離で機関銃の狙いを定めた。PKO要員たちが銃を放棄して、「撃つな、撃つ な、我々はアフリカの同朋ではないか」と叫ぶ。それに応えて、他の機関銃が 一人のケニア兵を撃ちぬいた。兵は倒れ、准将は辛くもその場を逃れ、そして その時、すべての銃が火を吹き始めた。銃声は一晩中続いたという。

◆囚われのPKO要員

このようにして、5月2日には、各地のダイヤモンド鉱山の町に張りつけられ ていた国連PKO要員たちの一部約500人が、同時多発的に叛乱勢力に拘束 される結果となった。

国連のアナン事務総長は、さっそく人質の開放を要求する声明を出し、さらに 英米両国を含む先進各国へ、国連始まって以来の異常事態に対する支援を訴え た。

英国は、シエラレオネに在住する自国民保護のため、空挺部隊を送りこむ手筈 を整えると同時に、大西洋に展開していた艦船を、フリータウン沖へと差し向 けた。ただし、長期の作戦予定はなく、自国民の保護だけが目的であると釘を さすことを忘れなかった。

米国は、クリントン大統領自身が、最大限の協力をするとコメントしたものの、 その実態は、ナイジェリアとバングラデシュ軍に兵の派遣を要請しただけで、 自国の兵は出せないと言明。ソマリアへの派兵を含む過去のいくつかの失敗が、 海外派兵を不可能にしていることを隠さなかった。その代わりに、特使として ジャクソン氏を、ナイジェリアと、シエラレオネの叛乱勢力をコントロールし ていると考えられるリベリア大統領テイラー氏のもとへ送り込み、人質開放へ の協力を要請した。

◆国連PKOのジレンマ

叛乱勢力の和平合意破棄に相当する行動は、「正義」の側から見れば容認しが たいものであり、徹底的に糺されるべきであった。

しかし、国連のアナン事務総長は、1995年のボスニアでの失敗を教訓とし て、平和維持活動と戦闘とははっきりと区別しなくてはならず、停戦あるいは 和平合意の成立していない状況への平和維持軍派遣は再びあってはならない、 と発言していた。

シエラレオネの現実は、そのような判断基準が役に立たないものであったこと を、思い知らされる結果となった。受身の平和監視から、突然に、戦闘行動を 要求される状況に追いこまれたものの、戦うための心づもりもなく、充分な装 備もなかった彼らは、なす術もなく拘束されてしまった。(死者が少なかった ことは、不幸中の幸いというしかない)

また、就任して以来ずっと、首都近辺すらさだかには支配できていない、影の 薄い極めて脆弱な現在の政権を支えるために、何ゆえか国連史上最大のPKO 要員が投入されていた。現時点で13,000人。さらに3,000人の増員が予定され ている。そのうえあわれにも、シエラレオネ政府自身が、英国の傭兵派遣会社 との契約書にもサインした。

◆近隣諸国の相互協力関係

シエラレオネ叛乱勢力・革命統一戦線(RUF)の顔として知られるサンコー 氏は、1998年10月、国家反逆罪で死刑判決を受けている。そして翌年、 叛乱勢力代表として和平交渉に参加し、刑を免除された。同時に、現政権の副 大統領待遇として迎えられ、しかも鉱山部門担当というポストを確保している。

サンコー氏は英国植民地の時代に軍の伍長を務めていたことはあるが、196 1年に辞めている。その後1980年代、リビアのカダフィ氏の許でゲリラと しての訓練を受けた。その当時の同僚には、ブルキナファソ大統領のコンパオ レ氏、リベリア大統領のテイラー氏がいた。各氏は、現在でも硬く結びついた 協力関係を維持している。例えば、現時点でも、シエラレオネの叛乱勢力数百 人が、リベリアの訓練基地でトレーニングを受けている。ここには、昨年暮に 現地を離脱した叛乱勢力RUFの現地指揮官・通称「モスキート」もいる。

武器調達についても、ブルキナファソ大統領のコンパオレ氏が、ウクライナ、 ブルガリアから輸入したものを、リベリア経由でシエラレオネ叛乱勢力に供給 している。これらはすべてダイヤモンド原石で決済されているという。

ブルキナファソの軍事クーデタの際には、カダフィ氏が兵を送り込んでコンパ オレ氏を手助けし、リベリアの内乱ではサンコー氏が、ゲリラ部隊としてテイ ラー氏に協力している。現在まで続いているシエラレオネの内乱には、テイラ ー氏の私兵がシエラレオネ叛乱勢力に加勢し、重要な役割を果たしている。シ エラレオネ領内には、今も多数のテイラー氏の私兵が駐留しているといわれる。

彼らの協力関係をはっきりと見せつけたのが、5月22日の国連PKO人質の 一部解放。アメリカの特使として派遣されたジャクソン氏に、リベリア大統領 は解放への協力を約束し、テイラー氏が叛乱勢力に働きかけた結果として、シ エラレオネ領内で拘束されていたPKO要員54人が、リビアから送りこまれ たヘリコプターで、リベリア領内のフォヤ空港に搬送された。そこで、国連軍 のヘリコプターに引き渡されている。

叛乱勢力RUFの議長サンコー氏は、犯罪人として現在再び拘束されている。 それでも、内陸のゲリラ部隊は何の支障もなく活動を続けている。その理由は、 いくぶんかの荒っぽさを交えて言ってしまえば、シエラレオネの叛乱勢力が現 在まで支配してきたエリアは、その実はリベリア大統領の実効的支配下にある ということに尽きるからだ。国連は、むろんこの事実に目をつぶっておきたい 意向で、あくまでサンコー氏を叛乱勢力の唯一の代表に仕立て続けている。

◆カルテル体制の国際的認知

今回の国連PKOは、本音を言えば英国自身の名誉、さらに言えば、ダイヤモ ンド市場を強力にコントロールしてデビアス社の窮状を援護するための介入で はあったのだが、人道的な介入という背景でもセットしなければ、国際的な了 解は得にくい。「幸い」にして、シエラレオネ叛乱勢力RUFは、昨年の和平 交渉の開始にあたり、会議への圧力をかけるためもあって、一時期かなり残忍 な行動をしている。それを恰好の材料として、国連が盛んに反政府勢力の残忍 性をアピールし、世界のマスコミも何枚かの写真を使いまわして、彼らの行動 の残虐性を喧伝した。最近では、世界の平和を守るために駆けつけた、案山子 のように無力な国連平和維持軍を、2カ月以上にわたって拘束している反政府 勢力の不法ぶりも、当然に重要なアピールポイントであった。

それは目論見通りの成果をあげた。その世論を背景にすれば、反政府勢力を消 滅させるためには彼らの「不正な」ダイヤモンド取引を強力に監視すべきだ、 という方向への誘導は、さほど難しいものではない。デビアス社・オッペンハ イマー卿の英国政府に対する影響力もむろん有効であった。

かなり強気の発表を続けてきたにもかかわらず、デビアス社の実際の原石市場 占有率は、現在では50パーセントを割っていると推定できる状況にあり、ま た「ダイヤモンドの永遠の輝き」を守るために、市場にあふれる「非合法」の 原石を買い集めるデビアス社自身の資金的な限界も、すでに先が見えていた。 ――金庫には、2年分の販売量に相当する在庫が眠っている。

そうしてついに7月6日、英国の提案を受けた国連安保理は、政府の産地証明 がないシエラレオネ産ダイヤモンドの取引禁止を決議する。これは実は、デビ アス社のカルテル体制強化を容認する、国際社会のお墨付き発行と同義であっ た。

国連の広報プログラムからすれば、かなり季節はずれながらも、日本の国営テ レビが東京地方では7月10日に、シエラレオネ叛乱勢力の残虐性を紹介する 労作番組を流している。ただ残念ながら、BBCを筆頭とする国連のキャンペ ーンシリーズとしてみれば、その時機を逸していた。

◆アフリカ統一機構(OAU)総会

大西洋・ギニア湾にストローをさしこんだような形の、南北に細長く伸びた西 アフリカのトーゴ共和国は、7月初旬、リビアのかつての暴れん坊将軍カダフ ィ氏を迎えて、火炎樹の紅い花よりもさらに熱く沸き立っていた。

昨年、国連安保理の対リビア制裁の停止が発表されてから、着実に世界の表舞 台への復帰を図ってきたカダフィ(Gadaffi)氏にとって、今回、トーゴの首都 ロメで開かれるアフリカ統一機構総会は、アフリカの盟主としての地位を誇示 する恰好の舞台となるものだった。

それだけに、この総会にかけるカダフィ氏の意気込みには、鬼気迫るものがあ った。沙漠の砂が地中海になだれ込む国リビアから、300台の車と、1,000人を 超える従者を従えて、サハラ沙漠を南へ5,000キロ走り、ニジェール、ブルキ ナファソ、ガーナを訪問、サハラ縦断鉄道構想をぶち上げつつ、他国の元首よ りも一足早く大西洋側の開催地ロメ入りを果たしている。カダフィ氏は、沿道 の人々のまさに英雄を迎える熱い歓迎ぶりに、オープンカー仕立ての白いリム ジンから身を乗り出し、こぶしを振り上げ、相好を崩して応え続けた。

さる1998年7月、日課としているジョギングの最中に転倒して大腿骨を骨 折して以来、歩行には補助の杖が必要となっているものの、この日ばかりはそ のハンディキャップを忘れ去って、クーデタを成功させた30年前の若い日の 興奮を想い起こしていたという。トーゴ最大のホテルをそっくり借り切り、そ の庭に張ったベドウィンスタイルのテントで、旧知の客人達と深夜まで熱いお 茶を味わっていたと伝わっている。

◆アフリカ連合構想を説くカダフィ氏の情熱

翌7月10日、トーゴ共和国大統領エヤデマ(Eyadema)氏をサミット議長とし て、まるでカダフィ氏のアフリカ社会公式復帰を祝うような会議が開催された。 氏は、彼に心酔するアフリカ諸国の多くの元首達を前にして、ヨーロッパ連合 (EU)にならって、「アフリカ連合」の速やかな実現をすべきであることを情 熱を込めて説いた。

リビアの訓練基地でゲリラ戦を学び、その後、折に触れて援助を受け、現在は 大統領の職にもある何人かの元生徒達は、昔と変わらぬ師の熱弁を耳にしなが ら、あらためてその幸せを噛み締めていたはずだ。

トーゴの隣国ガーナ共和国出身の国連事務総長アナン氏は、EUの国際紛争防 止機能について最大限の評価をした後、アフリカの「原油とダイヤモンド連合」 の可能性を問いかけた。原油については、この場に参加しているリビアのカダ フィ氏を始めとする原油生産国首脳と、これから生産を始める可能性のあるい くつかの国を念頭においたものであることは理解しやすい。そしてダイヤモン ドについては、7月6日に英国の提案で採択されたばかりの、シエラレオネ産 ダイヤモンドの「違法」取引を禁止する国連安保理決議をなぞっていることは 明瞭であった。そのふたつの資金が、紛争に使われることがないことを願うス ピーチではあった。

しかしながら、この場に参集している、あるいは参加をあえてボイコットした 百戦錬磨のアフリカ各国首脳を前にすると、この問いかけは、優秀な国連テク ノクラートの作文としては通用したとしても、現実味の薄い冷めたスープのよ うなものであった。ただ一人、自身が国連職員として、若い時からずっと「祖 国」を離れたままで、大統領になるために浦島太郎のような帰還を果たしたシ エラレオネ大統領のカバ氏だけが、人当たりの良い氏の性格そのままに、感慨 深げに大きく頷いていたのを同席した関係者が目撃している。

◆根の深いダイヤモンド汚染

今回のOAUサミットの議長エヤデマ氏は、1960年代からほぼ継続してト ーゴ大統領を務め、アフリカで最長の政権維持者として知られている。カダ フィ氏とも親しく、現在もかなりの支援を受けていることは周知の事実。

そのエヤデマ氏が、紛争中のアンゴラ反政府勢力UNITAのダイヤモンド取 引に関与しているとして、UNITAと利害関係にある、アンゴラ、コンゴ、 ナミビアがOAUサミットへの参加をボイコット。ジンバブエは、それらの国 に共鳴して不参加。

リベリアは、ダイヤモンドを見返りとして、シエラレオネの反政府勢力RUF を支援していると指摘されていて、今は国連の非難を一身に受けている最中で もあり、強気に参加拒否。

むろん今回参加した他のいくつかの国も、反政府勢力のダイヤモンド取引に荷 担していることが巷間知られている。生産国周辺の大統領でダイヤモンド取引 に無縁な人間は、サハラ沙漠で落としてしまった小粒のダイヤのように、まず は見つからないと考えるのがアフリカの常識。

コンゴの現大統領カビラ氏にしても、3年ほど前までは、ダイヤモンド資金を 頼りに殺戮を繰り返してきた叛乱ゲリラであったのだが、クーデタ成功後に大 統領選挙を実施したことにより、国際社会の好きなデモクラシー体制国家とし て認知され、国連の協力を得られる立場となっている。しかし現在は、その政 権が、これもダイヤモンドを資金源とする新たな叛乱勢力に脅かされているの が現実。

これらの国々の紛争は、簡単に言ってしまえば、ダイヤモンドの利権を支配す る争いであり、これに、双方を資金的に支えてきた「ダイヤモンドの守護神」 デビアス社の利害、そしてその周辺の関係者の思惑が複雑に入り混じって、事 態を難しくさせていた。

◆ダイヤモンド包囲網の完成へ

とはいえ、ダイヤモンド市場をよそ者に荒らされたくはないという信念を、か たくなに守りとおしている英国にとっては、その面目にかけても手綱を緩める わけにはいかなかった。

その後、主戦場は日本の宮崎へと移動する。九州・沖縄サミットのG8外相会 議は、7月12日夜、ダイヤモンド原石の不正取り引きの取締りを強化する行 動指針を盛り込んだ「総括声明」を発表した。

日本より9時間の時差があるロンドンでは、宮崎の成り行きを確認しつつ、同 12日、デビアス社がダイヤモンド取引の透明性を高める方針を発表した。こ れには、「正規」ルート以外の原石を扱った業者に対しての制裁も含まれてい る。また同社の「過剰在庫」を徐々に処分し、「適正在庫」に近づけるプログ ラムも提示された。国際的なお墨付きをふりかざして、過去の過ちには目をつ ぶり、国際紛争防止のためにカルテル強化(露骨な言い方はないものの)に協力 せよ、というデビアス社の積極的な勝利宣言であった。

そして、ダイヤモンド戦争に磨きをかける仕上げラウンドは、沖縄サミット会 場に設定されている。沖縄G8最終日の7月23日、連合国側のダイヤモンド 戦争勝利宣言を、サミット議長国の森氏が読み上げることになるはずだ。この 日をもって、シエラレオネ内乱を攻撃材料に、世界のダイヤモンド市場の更な る独占をもくろんだ第一次ダイヤモンド戦争が、国際的な支援を得てめでたく 幕を閉じる。

◆第二次ダイヤモンド戦争のはじまり

新たなダイヤモンド支配を宣言するための華々しいセレモニーが終幕に近づき、 もはや世論の同情を誘う弱々しい国連PKOを演じ続ける必要もなくなった7 月15日早朝、国連軍は重装備の兵を送り込み、叛乱勢力のベースキャンプを 完全に破壊するとともに、2カ月半にわたって拘束されていた悲運のPKO要 員、インド兵200人あまりを脱出させた。

しかし、紛争地での現実の戦いはまだまだ終わりそうにない。それでも、デビ アス社の組織・中央販売機構(CSO)の金庫に収められている、国連のキャン ペーンにいう「血塗られた」ダイヤモンド達は、順次「永遠の輝き」を持つダ イヤモンドに染め替えられて、巨大市場であるアメリカ、日本へと送り込まれ ていくことだろう。紛争地でこれから産出されるダイヤモンド原石も、デビア ス社の手で化粧しなおされ、「永遠の輝き」を放つ冷たい石として、最終的に はあなたの手元へ届くことになる。むろん、「非紛争地産出」のきらびやかな 証明書がつけられて。


参考資料:
RFI, BBC, CNN, Le Monde, Washington Post, IRIN, Jeune Afrique,
Libya Online, Sierra Leone Web, Africa News Online, Conakry Press,
現地紙, その他の情報。『金鉱山からのたより』 第27号、第29号。

◆コナクリの通信事情

いつものことながら、当地のインターネットはすでに1週間の間、国際社会に つながっていません。電話会社の衛星通信設備が故障しているためなのですが、 この調子では、いつ復活するのか、本当に復活させる気があるのか、まったく 不明の状況です。

そしてついに、今日は国際電話回線も深い眠りに入ってしまいました。それで、 ふだんは使っていないイリジウム衛星携帯電話機をひっぱりだし、補充電をし ながらテスト通話をしてみました。米イリジウム社の経営破綻が決定的となっ た3月18日以降、公式には衛星電話サービスは停止されています。日本イリジ ウム社は会社を解散してしまいました。

ところが、実は、まだしっかりと稼動しているのです。イリジウム電話の孤児 となってしまった日本地域には、通話規制がかけられていて通じないのですが (いじわるですね)、ヨーロッパ、アメリカ大陸とはまったく支障なく話ができ ています。近々、正式サービスが再開されるまで、通話料はすべて無料です。 E-mailの受信も可能です。ただインターネットには接続できないのが残念。

この端末はアフリカのプロバイダーから買ったものなのでまだ生きているわけ ですが、日本で契約していたとしたら、今ごろはさらに心細い思いをしていた ことでしょうね。このメールは、カナダあたりのプロバイダーからアップす ることになると思います。(『金鉱山からのたより』2000/07/18 第30号)


 このメールは、電子メール書店の老舗「まぐまぐ」さんからお届けしています。 -マガジンID:0000005790-
 齊藤さんにsaitoh@mirinet.net.gn

2000年03月10日(金)Conakry萬晩報通信員 斉藤 清


 ギニアのアントワープとも呼ばれる首都コナクリの一角の、とあるカフェの片隅でひろいあげた、ダイヤモン ド原石商人たちの業界情報。「永遠の輝き」が生み出される前の、プリミティブな世界の動きを、ダイジェスト版にしてお送りする特別企画「A DIAMOND IS FOREVER」です。

 ◆「茶房サントラル」より愛をこめて

 大統領府からまっすぐ東へ伸びる「革命通り」を、4ブロック過ぎてから右へ曲がると、歩道をさえぎるように張り出した囲いがあって、ここが茶房サントラル。コナクリでは数少ない、ケーキの製造・販売をもしている貴重な店です。

 パリあたりのカフェであれば、歩道にテーブルと椅子を並べて、そこが外気と接した開放的な客席になるのでしょうが、ここは直射日光が強力で、ほこりっぽくて、そしてとにかく蒸し暑いコナクリです。通りに面したテラスでお茶を楽しむという雰囲気にはなれません。

 茶房サントラルは、空調のきいたガラス張りの温室から表の通りを眺めつつ、また別の世界の話に興じ る・・・、そのためにぴったりの空間です。奥のいくぶんか薄暗いホールには、テーブルが10脚ほど並んでいるものの、それは無視して、歩道に張り出した明 るい方の、質素な6脚のテーブルのどれかに席を取れば、それなりに快適な視野と、至福の時間が楽しめます。

 この店自慢のフランス仕込みのケーキと、シトロンティーでも頼んで、地元のタブロイド新聞をひろげ、コロニアル風の建物がまだそのまま残っている交差点あたりをぼんやり眺めながら、店内の会話に耳を預けてみるのも、茶房サントラルの、この席ならではの趣向です

 ◆ダイヤモンドの情報センターにて

 この辺りは、実はギニアのアントワープ・・・ダイヤモンド街で、テレビカメラを玄関に設置した原石買取り 業者の事務所や、すべての窓を鉄枠で厳重に防護した建物があったり、路上で下級ブローカーと話しこむ現地人がいたりと、なにやら胡散臭さを感じさせてくれ る、少しばかりいかがわしい雰囲気の場所なのです。

 とはいえ、茶房サントラルが、ギニア人ダイヤモンドブローカーの情報交換のメッカであることは、一部の関係者以外にはあまり知られていません。

 ここで話される言葉はマリンケ語が主で、時折フラ語が混じり、むろんこの国の公用語・フランス語は、その 間を縫うようにして適宜折りこまれ、会話の流れを滑らかにしています。ついでに書けば、スースー語を母語とする人間は、ここには存在できません。スースー 族一般の商業道徳がかなり異質なものであることが、その主な理由らしいのですけれど。

 一見の客は、ウェイターがさりげなくホールの方へと導いて、この空間へは入り込めないのですが、グラン・ ブーブーと呼ばれる、布地をたっぷりと使った金糸・銀糸の刺繍も立派なアラブ風の服を着流した恰幅のいい紳士たちがあつまって、大声で会話をしているだけ でも、近寄りがたい空気を周囲へ送り出していることは確かです。

 私はといえば、まったくの無関係者ではあるのですが、そこはそれ、白くはない異邦人(むしろ、どす黒い)であることと、ひたすらケーキにうつつを抜かす人畜無害の風体が、さほどの警戒心をいだかせないのかもしれません。

 ◆シエラレオーネの叛乱勢力

 ギニア国内で、ダイヤモンド原石についてのニュースが発生すれば、その翌日には、ここ茶房サントラルで必 ず話題にのぼります。そのうちのいくつかのエピソードもお届けするつもりですけれど、まずは、隣国シエラレオーネの現政権に、鉱山担当・副大統領待遇とし て迎えられている、叛乱勢力RUFのリーダー・サンコー氏の最近の動きを、かいつまんでお伝えしなければなりません。

 氏は、永年、叛乱勢力のリーダーとして君臨し、特にシエラレオーネ東部のダイヤモンド産地を完全に支配している(おそらくは現時点でも)人間なのですが、昨年の和平合意の際に、公式に、副大統領待遇のポストと鉱山に関する権限をすべて手中にしました。

 この和平合意を受けて、国連の平和維持軍は、叛乱勢力の武装解除を進めてダイヤモンド産地への影響力を消 滅させるため、計11,000人の兵を投入しつつあります。西アフリカ経済共同体の平和維持軍ECOMOGも、ナイジェリア兵を中心に、おそらくは 5-6,000人の兵をシエラレオーネ国内に残留させています。

 ギニアからも国連軍へ合流する支援の兵を送りこんでいるわけですが、1月14日、100人を超える完全武 装のギニア兵が、合流ポイントの首都フリータウンへ向かう路上で、小さなゲリラグループにブロックされ、ロケット砲を含むすべての武器と車両を取り上げら れています。1月31日には、国連軍としてフリータウンから国内の配置場所へ移動する途中のケニア兵20人が、別の叛乱勢力にホールドアップされて、武器 や所持品を奪われました。

 ◆叛乱勢力リーダーの困った反逆

 このような現状を前にして、副大統領待遇のサンコー氏は、和平合意に基づく武装解除の実現を、政府や国連関係者に再び約束したうえで、国内の視察に出かけたわけですが、茶房サントラルで聞こえた解説は、「あれは原石を引き取るため」。

 その後、象牙海岸へ行くと言い残して2月14日のガーナ航空機に乗ったサンコー氏は、外野の予想通り、南アフリカのヨハネスブルグに姿を見せて、原石を売り捌くという「ビジネス」を実践してくれた様子です。

 コンゴのカビラ大統領、リベリアのチャールズテイラー大統領、そしてサンコー氏と、彼らに共通のひとりの「友人」が、ダイヤモンド原石を市場に流し、資金を調達する手助けをしているといいます。今回の氏の動きも、いつものパターンに沿ったものでした。

 しかしながら、あわてて不満を表明したのが国連。本来、叛乱勢力RUFの幹部は、海外渡航を禁止されています。サンコー氏は現政権にとり込まれているとはいえ、今でも厳然とした叛乱勢力のリーダーです。

 武装解除を陣頭指揮する役目を負っているはずの責任者が、国連関係者と大統領を煙に巻いて、南アフリカへ ダイヤモンドを売りに行き、そこで平然としている、というのはあまり見栄えのいい図ではありません。国連はすぐに、「至急戻れ」との指示を出しました。国 連の関係者が報道陣に対して、氏の「ビジネス」にまで言及しているところを見ると、外野の情報は正しかったのでしょう。

 ◆傭兵部隊とダイヤモンド

 シエラレオーネには、南アフリカのアパルトヘイト時代の殺し屋グループを傭兵に仕立て上げ、ダイヤモンド鉱山のガードマンをさせて、紛争の最中に採掘に励んでいる鉱山会社グループがあります。

 このグループは、ロンドン、バンクーバー、ヨハネスブルグに関連の事務所を持っていて、その実態はよくわ からないのですが、紛争中の政権に近づいて鉱業権を取得し、自ら雇っている私兵を派遣して叛乱勢力からの攻撃に備え(時の政権の保護は期待できないわけで すから)、産出した原石は、独自のルートで市場に流しているといわれます。シエラレオーネの外、コンゴ、アンゴラでも活躍していて、紛争国の政権側を、お そらくは資金的にも助けているもののようです。

 例えば、コンゴ(旧ザイール)のカビラ大統領の場合、氏は、コンゴの豊かな地下資源の利権を担保に、近隣 諸国も含めたダイヤモンド資金を使って叛乱を起こし、モブツ前大統領を追い出しました。そしてその後、自分自身が旧ザイールを支配する立場になったわけで すが、今日現在では、また状況は変わり立場も入れ替わって、「正規ではないルート」のダイヤモンド原石を資金源とする別の叛乱勢力に、カビラ政権自身が脅 かされています。

 ◆業界の雄・デビアス社の憂鬱

 1998年のデビアス社・中央販売機構(CSO)の原石販売実績は、公式発表によれば33億ドル。また、 デビアス社は、全世界規模での年間生産量をおよそ66億ドルと推定していますから、その数字をもとにすれば、この年は、世界の全生産量の半分が、デビアス 社の販売機構に乗って市場に流れたことになります。

 コンゴ、シエラレオーネ、アンゴラを主体とした紛争国の、「正規ではないルート」から市場に流れるダイヤ モンド原石は、ベルギー・ダイヤモンド業界の総括団体HRDや、国連の発表する数字をもとに試算すると、極力安く見積もっても20億ドル、あるいは50億 ドル程度にまでなるのかもしれません。これらの地方の漂砂鉱床から産出される原石は、大粒で上質なものが多いことから、市場で歓迎されることはあっても、 排斥されることはありませんでした。「正規ではないルート」は、付加価値の高い貴重な原石を手に入れる周知のルートでした。

 また、ダイヤモンドの価格を維持し、「永遠の輝き」を失わせないために、「正規」に生産されたものはすべ てが、「正規ではないルート」で入ってきた原石も当然にそのかなりの量が、アントワープのどこかで再びデビアス社に買い上げられ、在庫調整のため中央販売 機構(CSO)の金庫に収められます。

 現在のように、これだけ供給過剰の状況になってくると、ダイヤモンドの値崩れを防ぐためには、プレミアム をつけてでも市場から原石を吸い上げなくてはなりません。つまりは、デビアス社の価格統制システムによって、紛争地域からの「正規ではないルート」の原石 の価格も間接的に保護され、戦闘を継続させるための燃料は、絶えることなく供給される結果となっていました。

 アフリカ各地の紛争を、攻める側と守る側の両面で支えていたのは、もとはといえば、「ダイヤモンドは永遠の輝き」の守護神・デビアス社であったわけです。もっとも、長期にわたる多額の資金負担は、デビアス社にとっても耐えがたいものになっていたはずですが...。

 ◆不買宣言

 そこで阿吽の呼吸で、英国・米国からのプレッシャーに後押しされた国連が、まずデビアス社の幹部と公式に会い、原石の不買運動への協力を要請しています。

 つまり、紛争地域で産出されたダイヤモンド原石は買わないようにして欲しい、との公式の申し入れをしたわけです。当然のこととしてデビアス社は、「正規のルート」を回復するために国連軍は最大限の努力をする、という保証をとりつけています。

 これが根拠となって、例えばシエラレオーネへは、国連軍兵士が異様に大量派遣され、同時に、米国の強い要請を受けたナイジェリア軍も兵員を増強しているわけです。

 英国政府と米国ユダヤ資本との協調関係を軸に、粘り強いロビー活動を展開していたデビアス社にとって、これは戦果の第一歩でもありました。世界銀行は、このオペレーションのために、1.3億ドルの供与を決めています。

 その流れに沿ってデビアス社は、シエラレオーネからの原石は、1980年代に事務所を閉めて以来、直接的にも間接的にも買っていない、アンゴラの叛乱勢力Unitaからの原石も、けっして買わなかったし、買うつもりもないとアピールを始めました。

 (最近のアピールは、下記のWebで参照できます)

 http://www.debeers.ca/files/sierrangola.html

 しかしながら、あまりにも恰好よく見えを切られてしまうと、それまでの流れをすでに耳にし目にもしている天邪鬼な私めとしては、(笑ってしまった後で)いやはや、まったく悪い癖ですけれど、眉につばをつけて、少しばかりからかってみたくもなるのです。

 マラリア蚊が耳元で羽音を響かせる程度のごくささやかな呟き、そしてかなり不謹慎な反応であることもよくわかってはいるものの...。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その1―

 ギニアはシエラレオーネと陸続きです。そのために、紛争の煽りを受けたシエラレオーネの避難民が、国境近 辺のギニア側難民キャンプに大勢生活しています。もっとも、これは一般の住民の場合で、何らかのコネを持ったある程度裕福な人たちは、戦乱が最高潮の時で もコナクリへ自由に出入りし、叛乱勢力の幹部ですらコナクリの町を車で平然と走り回っていました。

 手元に、すでに公になった手紙のコピーがあります。日付は1997.6.14。

 その宛て先は、その年の5月にクーデターで大統領の席についたばかりの軍人コロマ氏と鉱山省次官。内容 は、鉱山省次官からの依頼に応える形で、新大統領への賛辞と、今後の協力関係を確認した後、次官の奥方がコナクリへ到着した際に投宿すべきホテルと、その すぐ傍にある事務所の場所を示して、携帯電話の番号を記し、「ご持参のダイヤモンドは責任を持って評価し、ドルで買い上げます」と締めくくっていました。

 この手紙の差出人は、ギニアのダイヤモンド採掘会社のゼネラルマネージャー。この叛乱で追い出された大統領はこのときコナクリに避難していましたが、その翌年に復帰し、現在に至っています。

 この会社は、森林ギニアで年間50万カラット程度を掘り出していたオーストラリア資本のダイヤモンド鉱山を数年前に買収し、現在は「試掘調査中」ということで冬眠させています。いってみれば、生産調整でしょうか。

 それでいながら、今年1月、その会社の従業員がコナクリ空港から南アフリカへ帰る際に、輸出の申告をしないで持ち出そうとしたダイヤモンド原石が40数個、その評価額200万ドルが、たまたま空港税関で差し押さえられるという出来事もありました。

 この会社には南アフリカとカナダの資本が入っているというのですが、すべて孫会社、曾孫会社名義ですから、その実態は不明です。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その2―

 茶房サントラルが、幾日にも渡って騒然とした熱気に包まれていたのが、1998年のアンゴラ・ダイヤモンド事件でした。

 127カラットの原石が、ギニア人ブローカーの手でアンゴラからコナクリに持ち込まれ、それだけのことであればごく日常的な動きで、さほどの興奮はもたらさないわけですけれど、この時だけは格別でした。

 同じ年に、475カラットの原石が森林ギニアで発見されたときも、昨年7月に1,006カラットのダイヤが、やはり森林ギニアからコナクリに届けられたときも、これほどではありませんでした。

 時はちょうどワールドカップの最中。ひとは皆、試合の結果だけが最大の関心事で、まさに浮き足立っていました。価格交渉のために127カラットの石を預けられたレバノン人業者も預けた当人も、まずはテレビ観戦が優先事項だったといいます。

 数日後、「石が盗まれた」ことが判明し、こうなるとさすがにフットボールどころではなくなって、それらしい関係者が逮捕されたり解放されたりと、かなりあわただしい動きがありました。

 結果はうやむやで、原石を預かったレバノン人業者が、いくらかの損害賠償金を支払うことで決着がついたのではありましたが、茶房サントラルでは連日議論が続いていたことでした。

 何カ月かして、マリ共和国の原石業者がその石を持っていることが判明し、石の流れは見えてきましたけれ ど、原石がひそかにこれだけの大旅行をするとなると、その原産地を特定することなどは至難の技であることが理解できます。ましてや小粒の一般品ともなれ ば、その出生地を問うことは時間の無駄となってきます。

 ◆それでもなお、ギニアの場合―その3―

 戦乱のために、隣国のフリータウン国際空港が閉鎖中は、レバノン人の原石商人がヘリコプター便でコナクリまで商品を運んできました(片道15分ですから)。

 これは、ギニアの買い入れ事務所を通して、当然のように国際市場へ流れていったはずですし、もしアントワープで売却されたとすれば、アントワープの業界団体HRDは、ギニア産の石の輸入として集計したはずです。

 フリータウンの国際空港がオープンしている現在は、副大統領待遇のサンコー氏が小さな包みを抱えてこっそ り南アフリカへ出かけたように、制裁を受けない国を中継させれば原産地名は消えてしまうわけですから、紛争国からのダイヤモンド原石の不買運動がどの程度 の効力を持つものか、はなはだ疑問ではあるのです。業界は、大粒の高級品という魅惑には抵抗できないでしょうし...。

 ◆永遠の輝きを守る戦い

 その反面、叛乱勢力を力で押さえ込むことができれば――政権がその国をまともに統治できるようになれば、 すべての鉱山は国家の支配に従うことになるわけですから、その政権の支援を受けて、ある特定の目的で、現在稼動している鉱山を買い取ることもそれほど難し くはなくなるでしょう。鉱山を買収してそれを眠らせれば、アントワープの市場でプレミアムをつけて吸い上げるよりも、ずっと安上がりに、ずっと確実に供給 を減らすことが可能になるはずです。

 国連軍が強力に推し進めている、アフリカの紛争国での叛乱勢力との戦いは、ダイヤモンドを支配する戦い ――原石の生産を減らすための戦いにほかなりません。デビアス社の掲げる「ダイヤモンドは永遠の輝き」とは、なかなかに皮肉っぽい響きを持ったすぐれた キャッチフレーズです。(Gold News from Guinea『金鉱山からのたより』 第29号を転載。さいとう・きよし)


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2000年01月26日(水)Conakry発 齊藤 清通信員


ギニアでは大粒マンゴーが出回り始めました。10日ほど前に「マンゴーの雨」が降り、この日あたりを境にして、市場や露天の山積みのマンゴーが、市民の舌を楽しませてくれるようになりました。とっても甘いですよ、おいしいですよ。この季節、人々は飢えることを忘れます。

◆豊かな国々の運命

西アフリカのギニア湾に沿って南下する形で、ギニア、シエラレオーネ、リベリア、コートジボワールと、4つの国が寄り添って並んでいます。どの国も水と緑が豊かで、自然環境には充分に恵まれた国々です。

そしてある時期には、それぞれの国が、アメリカ大陸への労働者を奴隷として送り出し、その後には、植民地と いう形で西欧に隷属し、海を越えた国々を豊かにするための礎となってきました。第二次世界大戦の後しばらくして、形としては独立国家となったものの、現在 に至るまで旧宗主国との腐れ縁を断ち切ることはなく、お互いに主従関係を確認し合いながら生き続けているのも、この4つの国に共通した特徴です。

これに加えて、これらの国々が相互に絡み合う話題のひとつとして、今回はダイヤモンドをとりあげてみます。――そうです、光り輝く貴重な天然の石、あのダイヤモンドです。

◆輝く石の旅路は

あなたの手元へ憧れのダイヤモンドが届くまでの道筋は、けっして単純ではなさそうです。ロンドン、アント ワープ、テルアビブ、ボンベイ、ニューヨークあたりの原石買い取り業者から加工業者、そして、その他もろもろの関連業者の海を渡り、荒れる旅路を乗り越え て、そのようにしてやっと、あなたの町の宝飾店にまばゆいばかりに輝くダイヤモンドが到着する、というのが常識的な理解ではあるのでしょうが、それでは、 その原石はどこで採れたものか、あなたはご存知ですか。

南アフリカのとある町で掘り出されたきれいな石が、たちまちのうちに世界の人々の羨望の対象となり、貴重で 高価な品物として認知された、という神話が先進諸国に浸透したのは、比較的最近のことです。そしてその生産地は、ロンドンの有力業者が公式に発表している 範囲だけでも、ボツワナ、南アフリカ、ナミビア、ロシア、カナダ、オーストラリアと、世界の各地にまたがっています。

そして、それらの土地で産出されたダイヤモンド原石は、ロンドンのシンジケートを通して世界の市場へ供給さ れ、「ロンドン」が市場を全面的にコントロールしている、と一般的には信じられています(いるはずです)。これも、神話の領域にかなり踏み込んでしまって いるようでして、正確には、信じさせようとしている、そして支配したいと願っている、というべきなのですが、それにしてもロンドンの力が並外れたものであ ることは否定できません。

このささやかなレポートは、その全体像を白日のもとに、などという不届きな野心を持っているわけではありません。以上を布石として盤の上に置いたまま、このギニアから肉眼で透けて見える範囲のごく狭い世界を、あなたにだけそっとお伝えする、ただそれだけです。

◆シエラレオーネの内戦

ギニアの隣国、シエラレオーネ共和国は、1992年4月のクーデター以来、血を血で洗う内戦が7年間にわたって続けられました。この間、更なるクーデターやら、現職大統領のギニアへの亡命・帰還等、めまぐるしい動きが繰り広げられます。

また、1997年10月の和平合意を受けて、ECOMOG軍(西アフリカ経済共同体平和監視軍)が動いたも のの事態は好転せず、戦闘は泥沼と化するばかりでした。98年2月になってから、ECOMOG軍がその主体となっているナイジェリア軍を増強して、本気に なって攻勢をかけた結果、首都フリータウンの奪回に成功し、ギニアへ亡命中の大統領が本国への帰還を果たしたものの、その時点で、国内は依然として叛乱勢 力の手中にありました。内陸部での戦闘は継続。

その後、ECOMOG軍と近隣諸国政府の支援を受けながら、叛乱勢力RUFのリーダーを副大統領格としてとり込み、同時に複数のメンバーを閣僚として迎えることで、99年7月、改めて和平合意。

◆無尽蔵な軍資金

ところが、叛乱軍の実質的な現地指揮官――殺した人間の血を吸う「モスキート」とあだ名される男が武装解除 を受け入れず、和平合意後も、戦闘員と共に国内各地で散発的なゲリラ戦をしかけて、中央政府とECOMOG軍を脅かせ続けました。また非協力的な住民に対 しては、コソボ紛争以上ともいわれる残虐な仕打ちをしています。

ともあれ、ここで気になるのが叛乱軍の資金と装備の問題でしょう。これほど長期間の戦闘を続けるためには、それなりのモノがたっぷり必要になることは確かです。そうなのです、彼らには、潤沢な資金と必要にして充分な武器が、常に供給される環境があったのです。

その源泉は、実はダイヤモンドでした。ギニア、シエラレオーネ、リベリアの各国は、それぞれに品質の良いダ イヤモンドを産出しています。叛乱勢力が根城としているシエラレオーネ東部地方は、特に産出量が多いといわれる地域で、その地域を支配している限り、資金 調達の苦労はありません。

◆戦火に油を注ぐダイヤモンド

手元に、カナダのPACというONG組織が流したというレポートを種にして、国連のアフリカ地域情報ネット ワークIRINが、1月12日に配信したシエラレオーネのダイヤモンドに関する記事があります。イギリスのBBCも、同じ日にこのレポートをネタにした記 事を流しています。また、デビアス・カナダ社は、翌日付けでこのレポートについてのコメントを出しました。

この記事によれば、レポートの主張は、「シエラレオーネ産のダイヤモンド原石が、闇のルートを通して大量に ベルギーのアントワープに流れている。この資金が戦乱を拡大させている。国連の平和維持軍を産出地に配置してこの闇ルートを押さえさせると同時に、首都フ リータウンに『正規のダイヤ買い取りエージェント』を設置することを提言する」というものです。

BBCも、「ロンドンとアントワープが、叛乱勢力の違法な取引によるダイヤモンドを、目をつぶって買い取っていることが戦火に油を注いでいる」と非難しているようでした。

◆ダイヤモンドの流れの記録
このレポートは、世界の原石生産量の半分を買い入れているといわれるベルギーのアントワープで、HRDという組織が集計しているダイヤモンド原石の各国ご との買い入れ実績を、問題としている国の分について次のように示しています。(ただし、大粒の原石は集計から漏れている可能性が大)

 1.リベリアから年平均600万カラット以上。(1994-98の間に、合計3,100万
   カラット以上)
 2.コートジボワールから毎年150万カラット以上。(1995-97の間)
 3.シエラレオーネから77万カラット。(1998のみ)
また、リベリア自身の生産能力は、年間15万カラット程度と見積もっていること、コートジボワールでは、 1980年代半ば以降の公式の生産は停止されていることを付け加えていて、要は、これらの原石は、シエラレオーネ原産のものが「違法なルート」で輸出され たものであるとアピールしています。

◆狸の皮算用

試みに、以上3カ国からの輸出量の合計827万カラットに、カラットあたりの想定単価350ドルをかけてみ ると、その金額はおよそ3,000億円になります。また、なぜかこのレポートが記述を避けているギニア経由アントワープ、更にはロンドンへの流れも現実に はあるわけですから、この数字はさらに膨らみます。

ちなみに、ギニアの1999年度の国家予算の歳入期待額はおよそ500億円でした(実績は大きく下回るは ず。予算総額は900億円)。大雑把に比較すれば、シエラレオーネはギニアの半分程度の規模の国家といえないこともありませんので、単品の輸出額が 3,000億円を超えるということであれば、これはただ事ではありません。輸出税を10%も徴収できたとすれば、あとは左団扇です。

また、輸入する側にしても、これを加工して付加価値をつければ、あなたもご存知のように、けっして安くはないダイヤモンド宝飾品ができあがります。その総額は、口に出したくもないくらいの大きな数字になるはずです。

この「違法」な、しかし魅惑的な石の流れを、「正規」の方向へと変えてみたい、と考える人が出てくるのもそれは自然な流れでしょう。一理も二理もあることです。

◆国連軍の広報戦略

そのような背景のなかで、ECOMOG軍は手ぬるい――彼らまかせでは真の和平は永遠に望めまい、との旧宗主国・イギリスの声もあって、国連はシエラレオーネへの平和維持軍の派遣を急ぎます。

さっそく、実に正直な、しかし効果的な宣伝が始まりました。昨年の12月2日には、BBCが「国連平和維持 軍は、インドのグルカ兵を東部のダイヤモンドゾーンに配置する予定」「グルカ兵は、カシミール紛争で活躍した世界最強の兵士であり、同じ部隊がまもなく到 着」等々と放送を開始。これを基本の材料として、叛乱勢力の現地指揮官「モスキート」を名指しし、脅す内容の原稿が連日アフリカ向けラジオ放送で流されま した。

ナイジェリア軍相手であれば、その手のうちは読めているものの、見たこともないアジアの、しかも何か恐ろし そうな感じのイギリスの傭兵もどきがやってきたのでは、さすがの「モスキート」としても勝ち目はないとみたのか、本拠地を完璧に破壊した後、家族を連れ て、12月16日リベリアの首都モンロビアへ飛びました。

置き土産として、叛乱勢力RUFのリーダー・同士であり、現在は副大統領格のポストにぬくぬくとしている(実際は針のむしろ、なのですが)サンコーに向けて、刺客を放っていきました。もっとも、これは「モスキート」の意に反して不発に終わりましたけれど...。

◆三者会談

リベリアのチャールズ・テイラー大統領は、シエラレオーネの叛乱勢力RUFに対してすこぶる好意的です。そ れは、これまでにリベリア経由で輸出されたダイヤモンドの量をご覧いただけば、すぐに納得がいくはずです。そのうえ、この叛乱勢力の武器は、すべてリベリ アを通して供給されていたわけですから、これ以上にありがたいお客はあり得ません。

一方、朋友「モスキート」に刺客を放たれたRUFリーダーのサンコーは、12月14日にはモンロビアに飛ん で、盟友のチャールズテイラー大統領に、「モスキート」の誤解を解くよう仲介を頼みました。その後、三者で数日間にわたる話し合いを重ねたと、国連の情報 機関は伝えています。

リベリアの利益のために、隣国のダイヤモンドゾーンを自動小銃で完全支配していたRUFのためであれば、国際世論を敵に廻しても一肌脱ぐ――これが西アフリカの侠客チャールズ・テイラーの心意気、というところでしょうか。

◆違法ルートをブロックせよ

このようにして、ロンドンの「正規ルート」から見れば、まさに人類の敵とおぼしいアウトサイダーグループが、肩の力を抜いた会話をしている間にも、国連平和維持軍は着々と兵員の配備を進め、1月11日には4,500人以上が持ち場についたと発表しています。

顔見世前の宣伝がかなり派手だった「世界最強」のグルカ兵は、インドからの派遣兵としてごく少数が現地入りし、実際には首都での後方支援に廻されて、医療、輸送、補給等の業務を担当しています。

「違法」なルートを通ったダイヤモンドが、アントワープで換金されて戦禍が拡大するのを防ぐためという理由で、すでに現地指揮官が逃げ出してしまったダイヤモンドゾーンへ、さらに5,000人規模の兵員増強が要請されているともいわれます。

これからは「モスキート」に代わって、国連平和維持軍がその自動小銃を外に向け、「違法」なルートをブロックして、この地で産出されたダイヤモンド原石がわき道にそれることなく、無事ロンドンに向かうよう骨を折らなければなりません。

◆ダイヤモンドには自動小銃がよく似合う

戦乱がほぼ収束したこの時期になって、「シエラレオーネからのダイヤの密輸が戦火を煽る、ダイヤモンドは正 規のルートでロンドンへ」という、ずいぶんと季節はずれの歌を、かなり胡散臭いONG・PAC、国連の広報機関、ロンドンの国営放送BBC、そしてそれら の推薦を受けた形の業界の雄デビアス社が、ぴたりと声をそろえて合唱しているという図――これはすばらしく理解しやすい一幅の旧植民地図会の再現、と見え てしまうのは、マラリア熱に浮かされた私めの妄想なのでしょうか。


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2000年01月12日(水)Conakry発 齊藤 清通信員


昨年のクリスマスイヴには、象牙海岸共和国(コートジボワール)でクーデターが実行されました。昨年12月24日付の号外でその第一報をお知らせしたのですが、その後はどうなったのか、というお気遣いの問い合わせをいただいています。

極東の国の大新聞は、西の果ての国々のことなど、丁寧には書いてくれませんし、個別にお答えするのも煩雑過 ぎますので、ギニア在住の不肖私めが、隣国への国境侵犯を承知の上で、いかにも見てきたような少々くさいレポートを、新年早々のお目汚しにお届けします。 いくぶん退屈かもしれませんけれど、少しの時間お付き合いいただければ幸いです。

◆クリスマスプレゼント
1999年12月24日正午近く、アビジャンにあるフランス大使館の正門に、黒っぽいスーツの小柄な黒人を乗せた公用車が、門番に誰何されることもなく、 静かに吸い込まれていきました。事務所に入ったその男は、疲れた表情のままマイクに向かい、ラジオフランスのアフリカ向け放送で流されるはずのメッセージ を、事務的に淡々と読み上げます。

このメッセージは、国民に対する抗戦の呼びかけと、この不法なクーデターに対して、国際機関の救済措置を求 めるものではありましたが、抑揚のない声はすでに訴える力を失っていて、そのどれもが不可能であろうことを、そこに居合わせたフランス人はもとより、たっ た今失脚したばかりの本人自身が良く理解していました。

同じ頃、市内のテレビでは、迷彩服にブルーのベレーをのせた恰幅のいい男が映し出され、「コートジボワールの大統領」と紹介されていました。

次いで画面が切り替わり、どこかの家の庭で、灰色の塀を背にし、シャツをはだけ、疲れ果てて不安げな表情の内務大臣が、「軍はコートジボワールのために働いている」と告げていました。それは「叛乱軍」に一時拘束された前政権の大臣の姿でした。

◆フランスへ行きたしと思えど
翌25日は、フランス大使と「新」大統領との間で、「前」大統領の扱いについての交渉が続けられていました。

そして26日朝、フランス大使公邸で永い二夜を過ごした「前」大統領ベディエ氏は、フランス当局者に対して 改めて「脱出」の意思を表明し、待機していたフランス海兵隊第43部隊の護衛で、フランス大使公邸からアビジャン空港近くのPort-Boueに移動。こ こからフランス軍のヘリコプターAS-555を2機連ねて、家族と共にガーナを越えてトーゴ共和国の首都ロメへ。

年が改まった1月3日、「前」大統領ベディエ氏は、3カ月間の観光ビザで、パリ・オルリー空港からフランスへ入国。

前年3月には大統領としてフランスを公式訪問したばかりの氏は、出迎えのフランス政府関係者に「また来ました」と挨拶。

◆借金依存国家の宿命
この無血クーデターは、表面上は、1999年12月23日朝から突発的に軍の叛乱が開始され、ほぼ24時間後には大統領が交代していた、ということになる わけですが、水面下の動きは当然かなり早くから始まっていました。またその火種についても、時系列的に動きを追ってみます。

国債発行というお玉じゃくしの共食い制度を持たないアフリカのほとんどの国々は、IMF・世界銀行等からの 借り入れを前提としての国家予算を組んでいます。予算の4-5割をも借り入れに依存している自転車操業の発展途上国はザラにありますから、その融資がス トップされれば、たちまちのうちに公務員の給料不払い、借入金の返済遅延等々、多くの障害が発生するシステムが完璧にできあがっています。

蛇足ながら、極東の国債大国の場合は、借換債を含めた平成11年度の国債発行額は79兆円で、国家予算の実質的な国債・借金依存度は、発展途上国の平均的数値をはるかに上回る61%以上になります。

現在では、アメリカの国策銀行であるIMF・世銀のコントロールは、旧宗主国の隠然たる精神的・経済的影響力以上に、直接的にその国の行く末を左右し場合によっては、その政権を吹き飛ばすことのできる充分な腕力を持ってしまっています。

◆しのびよる影IMF
コートジボワールの主要な輸出産品であるコーヒー・ココアの国際価格には、フランスから独立した当時の輝きはなく、80年代にはすでに国の経済を支える力 を喪失していました。それからはご多分に漏れず、長期にわたって経済の不振が続き、遺産を食いつぶす日々が続いていたわけですが、それに加えて、政権の腐 敗を糊塗するために独裁体制がいっそう強化され、国民の不満は当然のように高まっていきました。

そこへ、IMF・世銀という地球規模の権力が、コートジボワールの財政運営の不健全さ、はっきり言えば国庫 金の横領が目にあまる、という理由で、1999年3月から、融資ストップという銃の引き金を力いっぱいに引き絞りました。それまでのIMFの監査では、な ぜか指摘されなかった闇の部分ではあります。

政権の生殺与奪権を握っている巨大な権力が、融資凍結という強力な銃弾を放ったわけですから、その殺人的効果は絶大です。

◆満を持して火を放つ
そうして、時の政権が財政運営に苦しみもがき、同時に腐敗が極点に達して大衆の支持をほとんど失ったその時、元IMF副専務理事で、前政権では首相を務 め、現在は「野党」RDRのリーダーとなっていたワタラ(Ouattara)氏が、2000年10月の大統領選挙への出馬を表明しました。それが1999 年8月1日のことです。

ところで、この対決には、忘れられないひとつの因縁があります。1993年12月当時のボワニ大統領の死去 に伴って、国民議会議長であったベディエ氏が暫定的な大統領に就任した時に、当時首相であったワタラ氏を更迭し、IMFの副専務理事に転出させました。こ のベディエ氏こそが、今回フランスへ「脱出」したあの大統領だったのです。

◆出自をめぐる疑念
「野党」RDRリーダー・ワタラ氏の大統領選挙への出馬表明を受けて、当時のベディエ大統領は、ワタラ氏が提出した出自についての証明書類への疑念をさっそく表明し、もっぱらこの点での攻撃を開始しました。ワタラ氏はその出自に問題があり、大統領になる資格がないと。

西アフリカ一帯での出自についての考え方は、両親双方がその国で生まれている場合に限って、その国でその両 親から生まれた子供がその国の大統領になる資格を有する、というものです。これは、つい少し前に植民地として分割されるまでは、現在の国境とは無縁の伝統 的な支配体制が存在したことから考えれば、あまり適切な輪切りの仕方とも思えませんけれど...。

ともあれ、号外でも触れましたように、ベディエ陣営は、密使に600万FCFA(およそ100万円)を持たせて、捏造書類を調達しようともくろみました。それを公開することで対抗馬の出鼻を叩き、選挙以前に相手を葬り去ろうという作戦でした。しかし、これは露見して失敗。

◆燃え続ける国内
その後も、ベディエ陣営とワタラ氏との綱引きは続きます。しかしながら、コートジボワールのような独裁体制国家では、当然のように政治犯という制度が存在 していますから、大統領の対抗馬がその国内で政治活動をすることは、かなりの危険を伴います。そのため、9月19日大統領公邸での会談を最後に、ワタラ氏 はコートジボワールを離れ、パリに移動します。

この後にも、国内ではワタラ氏率いる陣営が過激なデモをしたり、鬱屈した国民の不満が抗議行動として展開されたりと、しだいに一触即発の状況がかもし出されていきました。氏がリーダーを務める政党RDRの幹部も多数逮捕されました。

ワタラ氏は、「わが国は民主主義を必要としている。そのためには、私も代償を支払う覚悟がある」として、11-12月の帰国を示唆する発言も聞こえていました。

これを受けて、12月8日には、ワタラ氏の逮捕状が発行されました。フランス、アメリカ、イギリス等、少しでも信念を持った大国は速やかにこれに反応して、ベディエ政権に対する懸念の表明と、フェアな選挙を望む声明を出しています。

◆話し合い不成立
そしておそらくは10月頃から、水面下で、ベディエ「前」大統領と軍幹部の話し合いが始まっていました。しかしながら、12月20日頃、大統領自身がすで に当事者能力を喪失したと判断した軍幹部は、「無用な市民戦争を避けるため」に、現職大統領を追い出す行動を最終的に決断します。

12月23日、若年兵士による騒乱開始。空に向けて自動小銃を乱射し、一部の商業地区では、店舗の破壊、商品の略奪をしています。彼らは、単純に待遇改善を要求する示威行為、との認識で動いていました。

ここで、1995年の大統領選挙の後にベディエ氏が正式に大統領に就任した際、軍の参謀長を更迭された経歴を持つゲイ(Guei)氏が、軍幹部に請われた形で登場します。氏の人望は、軍を的確に把握するためには必須のものでした。

そして12月24日朝、ゲイ参謀長は軍の交渉団と共にベディエ大統領と最後の対面をします。その要求には、政治犯として逮捕されている、「野党」RDRのメンバーの解放も追加されていました。

◆暫定政権成立
交渉決裂後は、冒頭でお話ししましたように、国民へのクリスマスプレゼントとしての無血クーデターが成立したわけです。もっとも、ゲイ新大統領は当初、「これはクーデターではなく、革命だ」との言葉を口にしてはいました。

RDRのワタラ氏は、12月29日に避難先のフランスから喜色満面で帰国して、手際良く「野党」RDRのメンバー複数を、大蔵大臣をはじめとする主要閣僚として配置します。

ゲイ新大統領から、政権への参加を要請された社会主義政党FPIのリーダー・バグボ(Gbagbo)氏は、 民主主義の確立のために暫定政府への協力はするけれど、閣外から見守りたいとして、閣僚を送り込むことは固辞し続けていました。これはひとつには、主要な ポストはワタラ氏率いるRDRのメンバーに占められることをはっきりと理解していたためでもあります。しかし1月10日、最終的には6閣僚を送り込むこと に同意。

◆軍事クーデターともいえない事情
RDRのリーダー・ワタラ氏は、「これは私の政府ではない」、「ゲイ大統領は、そのポストに執着しないといっている、できる限り早く大統領選挙が行われる だろう」と言明し、同時に、前政権によってこじれたIMFとの関係修復を、まず最優先の仕事にすべきである、とも発言しています。

ワタラ氏は否定しているものの、暫定政権へのみごとな参入ぶりと周辺の動きを追ってみると、ワタラ=軍、の連携プレーが透けて浮かび上がってきます。

例えば、暫定政府の大統領となったゲイ氏は、11月はパリに旅行していて、クーデターの発生する半月ほど前に帰国した後、故郷の村で「待機」の体制に入りました。これは、パリでの「打ち合わせ」があったと考えるのが自然です。

いうまでもなく、ゲイ氏、ワタラ氏は共に、独立後のボワニ大統領の時代に、参謀長、首相を務め、次の政権成 立時にはほぼ同時期に更迭された人物でもあります。また、今回、内務大臣、外務大臣のポストについた幹部軍人は、ワタラ氏が首相だった時代の護衛担当でし た。この二人がワタラ氏と同地方・同部族の出身であることも、この国では忘れてはならないキーポイントです。

◆ひとりごとですが
昨年4月にはニジェール共和国大統領の暗殺。5月には、ギニアビサウ共和国大統領の国外追放。そして12月には象牙海岸共和国で現職大統領の国外脱出。ど れもが、まったく似たような国内状況で起こったクーデターでした。さらに西アフリカには、これらに似た状況の国がまだいくつか存在していることを考え合わ せると、この2000年も目が離せない地域ではあります。

 また、今回の「象牙のクーデター」は、「IMFの実験」がみごとに功を奏したモデルケースとして、借金依存国家の政権担当者に、見たくはない悪夢を送り続けることでしょう。(『金鉱山からのたより』2000/01/11 第26号から転載)


*以上の記事は、BBC、CNN、RFI、AFP、Le Monde、Jeune Afrique、現地紙、ギニア紙、独自の材料等を参考にしています。

*コートジボワールの首都は正式にはヤムスクロ(Yamoussoukro)になるのですが、実質的な首都機能はアビジャンにあります。国の羽振りが良かった時代に、首都をヤムスクロに移転してはみたものの、今では目障りな存在になってしまいました。

*(少し)参考になる日本外務省の資料:http://www.mofa.go.jp/mofaj/world/kankei/f_cote.html


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