日本のかたちの最近のブログ記事

 学生時代から日本とは何かをずっと考えてきている。引きずっているのは日本にとってのアジアという存在である。少年時代に南アフリカでアパルトヘイトの洗礼を受けたことが影響しているのだと思っている。政治家も評論家も学者も戦争について「アジアへの贖罪意識」については語るが、「はたして日本がアジアなのか」という議論をずっと避けてきた。

 明治時代、西洋という対抗軸の中で多くの日本人がアジアを強烈に意識していた。「脱亜入欧」は西洋に追いつけというスローガンではあった。しかし、日本が先進国の仲間入りをした後も、人種も宗教も異なる日本について、西洋諸国が心を許す仲間になるほどにはなり得ていないし、そもそもなり得ない存在なのだろうと感じている。

 日本がアジアで信頼を得ていないのは、いつも西洋の尻馬に乗るその立ち振る舞いにあったのではないかと思っている。外交の軸足はいつだって「アメリカ」だった。かつて独自外交を目指した政治家もあったが、ことごとく悲惨な末路をたどっているのは確かである。

 「アジア」の重要性を口にしながら、重要な決定を控えると対米従属の行動を繰り返してきたのが戦後日本だった。アジアから見える日本はまだに欧米崇拝であり、アジア蔑視だったはずである。

 約20年前にアジア共同体をつくろうという動きがあった。最終局面でアメリカから「アメリカ抜きの経済体」は許さないという圧力がかかり、APECという中途半端な組織が誕生した。アジア太平洋経済閣僚会議である。台湾や香港という「国家」でない単位も加盟できるよう「閣僚会議」と命名したのは苦悩の末だった。アジアはそれほどに微妙な政治的バランスの上に成り立っていたからだ。それなのに、クリントン大統領はAPECで「首脳会議」を敢行した。結果的に台湾の総統は参加できなくなった。

 21世紀になって、ようやく東アジア共同体の発想が育まれた。アセアンの中に「プラス3」、つまり日中韓というフォーラムを形成し、東アジアの経済協力を進めることになった。アジアが互いに信頼醸成できる経済的環境が生まれたとの感慨があった。

 TPPの存在を知ったのは1年前である。菅直人首相が突然、TPP参加を表明した。そのとき、東アジアの協力の機運に真っ向から対立する概念だと感じた。

 経済力や成長力で日本を凌駕する中国と韓国の存在感は90年代とは比べられないほどに高まっている。貿易量でも日中は日米を上回るまでになっている。アメリカが大切なのかアジアが大切なのか。比較する前提も大きく変化している。そんな情勢の中で再びアジアを分断するような経済体をつくる必要はない。

 日本がもう一度、アジアに立ち戻るチャンスを見逃してはならない。TPPは日本の農業であるとかサービス業うんぬんの話ではない。日本外交がアジアに軸足をおくのかどうかという歴史的な分水嶺になるはずだ。日本抜きのTPPなど地域経済体としてまったく意味をなさないはずだ。参加国の経済規模があまりに小さすぎる。アメリカの一人芝居に終わるに決まっている。

 野田佳彦首相は何をあせっているのか。民主党の多くの反対論に抗してまでTPP参加を決断する意味はない。日本の立ち位置についてもう一度深く考えてほしい。
 日経ビジネスの2月22日号に「試論北海道独立」が掲載され、池田信太朗記者が名寄市立大学の白井暢明教授にインタビューしている。題して「独立論者は叫ぶ『くたばれ!東京神話』」。
 興味あることに、なんとその中に小生の15年以上も前の「北海道独立論」が引用されているのだ。白井教授は「北方ジャーナル」を主宰していて、長く北海 道独立論を説いている。教授とは10年以上前にメールと手紙で何回かやりとりがあり、「北方ジャーナル」のバックナンバーも送ってもらった経緯がある。
 数年前は、日銀札幌支店長が北海道新聞に連載していたコラムに「北海道独立論」を紹介してもらったこともあった。まだ北海道独立論が新鮮な驚きをもって 読まれているのだとしたら、嬉しいことだ。というよりもその後にもっと過激な独立論が出てこないのが寂しい。(伴 武澄)

 日経ビジネス http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100222/212948/?P=1
 北海道が独立したら(1) http://www.yorozubp.com/95-97/950228.htm
 北海道が独立したら(2) http://www.yorozubp.com/95-97/950606.htm

 5年前に書いたコラムを読み返して、平和を考える上で我ながら的を射ているなと振り返った。当時は中国各地で反日デモが起きて日中に大きな亀裂が入っていた。どうしてこうなるのか考えたコラムで未発表である。ぜひみなさんに読んでもらいたい。(伴 武澄)

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 最近、司馬遼太郎の『菜の花の沖』全6巻を読み終えた。200年前、淡路の寒村の農民だった高田屋嘉平衛が北前船に乗って当時、蝦夷といった北海道の航路を開拓し、南下するロシアとの出会いを物語にしている。

 その中で「愛国」について嘉平衛に語らせる場面が随所にある。

愛郷心愛国心は、村民であり国民である者のだれもがもっている自然の感情である。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」

 中国での反日デモ以来、多くの友人に「どう考えるか」メールを送った。たくさんの返事をもらった。萬晩報のコラムに対する感想も多くあった。その中で簑島さんという方からのメールで次のような一節があった。

「以前であれば、このようなことが発生するたびに急いで中国に謝罪するんだという半ば焦りの感情が湧き上がってきましたが、逆に中国韓国に対してむしろ憎しみに近い感情が湧き上がってくるようです」

 少なからぬ日本人がいま同じような感情を抱いているのではないかと思う。多くの国の人々は生まれた国に対する愛着があり誇りがある。「国を守る気概」などというものはそうした愛国心なくしては生まれ得ない。

 幕末の日本では「尊王攘夷」という表現で愛国心が語られた。語られたどころではない。行動に移した。長州藩による外国船砲撃や生麦事件としてその熱情は外に向けられた。しかし多くのエネルギーは日本人同士の争いに費やされた。開国派が一時期、尊王攘夷派の標的にされ、「開国」派は「売国奴」と同異義語ともなった。

 売国奴非国民ともなる。ひとたび「愛国」が叫ばれると集団がヒステリックになる。なぜなら愛国を声高に叫ぶ集団が国民一人ひとりに踏み絵を強要するからである。だれも売国奴非国民と呼ばれたくはない。「村八分」になりたくない人々もまた、まもなく「愛国」を叫ぶようになる。愛国の集団感染である。

 太平洋戦争中の日本もそうだったはずだ。戦争反対を唱えるだけで非国民となった。大学紛争時の学園の雰囲気もそうだったし、文化大革命の惨劇もそうした集団ヒステリーが引き起こしたものに違いない。

 司馬遼太郎氏が書く「国を危うくする」とはそういうことだろうと思う。いまの日本にとって危ういと思うのは、中国反日デモに触発されて、日本が反中国に染まることである。反中国はただちに中国側を刺激して、反日をエスカレートする。それがさらに日本国内の反中国を増幅させるのだからやりきれない。

 筆者は東京外国語大学中国語学科を卒業した。入学したのは1972年だから日中が国交を結んだ年である。大学紛争の余韻もまだくすぶっていた。中国語の多くの教科書は中国から輸入されたもので日本人は「日本鬼子」と表現されていた。

 一番嫌だったのは先輩諸兄がクラスにオルグのやってくることだった。「日中友好を叫ばないものは中国語を学ぶ資格がない」とのお仕着せが続いた。その後、会社に入って「日中友好の翼」という訪中団の一員になったこともある。到るところで語られる「日中友好」という表現にもへきえきした。

 中国側はどこへ行っても「悪いのは一部軍国主義者で日本人民に罪はない」といって歓迎してくれた。いまだに理解できないのは中国側のそうした説明を免罪符にして「友好人士」面をする日本人が多かったことだ。

 筆者は戦争責任という問題はそんなに簡単なものではないと考えていた。今も考えている。「日中友好」を叫ぶだけで戦争責任が免れるはずがない。国同士の戦争は軍隊による殺し合いであるから双方の軍人に被害が出るのは仕方のないことなのかも知れない。問題は非戦闘員である。

 戦争は敵国に攻め込んでいくのだから、戦闘に勝利すると占領地では軍隊は敵に囲まれて日々を送ることになる。占領地での略奪や陵辱はどこの軍隊でも厳禁されているが、これが守られたためしはない。規律の乱れた軍隊ほど始末に負えないものはない。部隊員の行った不祥事の責任は当然、部隊長やその上層部にあるのだが、当事者に責任が逃れられるかというとそうではない。略奪や陵辱を行った兵隊本人にも当然責任はある。

「一部軍国主義者うんぬん」は当時の周恩来首相が言ったものだと記憶しているが、一日本人として筆者は「そんなに簡単なことではないだろう。戦場での責任を一部の指導者たちにだけ押しつけるわけにはいかない」という思いがあった。

 当時の友好人士たちは訪中のたびに「中国には泥棒というものがいない」「中国にはハエがいなくなった」などと的外れの中国礼賛を繰り返したのだ。われわれは町で一番のホテルに泊まり、一般の中国人が一生に一度食べられるかどうか分からないほどのごちそうを毎食口にしていたし、訪ねるところといえば模範的人民公社や工場でしかなかった。

 中国で外国人のものを盗ろうものなら"絞首刑"ものだったに違いないから、そんなところで泥棒がいるはずもないし、高級ホテルのトイレにハエが飛んでいるはずもなかった。だが広い中国大陸に泥棒が一人もいないはずはないし、北京の公衆便所に入ればふん尿の山にハエがたかっている姿はいくらでもみられたはずである。

 筆者は中国を敵視していたわけはない。中国の悠久の歴史を愛したがため中国語科を専攻したのだ。中国側の免罪符論を軽々しくいけ入れ、革命中国を礼賛する日本人を軽蔑したのだった。「友好」さえ唱えれば許されると勘違いする日本人をみていて「こういう人たちは日中間が中が悪くなれば真っ先に中国を嫌いになるのだろう」と思った。

 日中間の人の往来が激しくなれば、中国の本当の姿が見えてくる。そうなった時、やがて豊かな日本人が中国人をバカにする時代がやってくる。そう思った。

 嘉平衛は「他の国を譏(そし)らないのが上国だ」ともいっている。

「ほとんどの場合そうだが、領土論による国家間の紛争ほど愚劣なものはない。10世紀以来、この争いが測り知れぬほど多量に無用の血を流させて来た」

ラッコも魚も乱獲すれば、居なくなり〈領土〉の生産的価値はなくなるが、むしろその後におこる〈国家の威信〉の象徴としての〈領土〉の課題のほうが、無形のものだけに深刻であるといっていい」

 中国の有名な格言に次のようなものがある。「修身斉家治国平天下」。最近の中国での「愛国」は確かに「治国」の範囲では「無罪」なのかもしれないが、国際社会で生きる「平天下」の観点からは大いに「有罪」であることをしらなければならない。

 過去に中国を占領していた日本から「アジアの大義」を言うのはこれまで難しかった。しかし100年前のインドから東のアジアの情勢を振り返れば、誰かがアジアの防波堤にならなければならなかった。当時、日本がロシアと戦わなかったら、ロシア満州からそのまま南下して朝鮮半島を席巻していたことは間違いない。

 6月からの高速道路無料化区間が2月2日発表された。当初から高速道路のうち東名など幹線や首都高などは対象外とされていたが、あまりにも小規模で末端の路線ばかりなので落胆させられた。

 高速道路無料化は民主党のかねてからの主張だったが、政権獲得後の世論調査では、世論の評価はあまりかんばしくない。反対の理由は「環境」と「渋滞」である。
 もともと高速道路の建設は借金に依存していた。昭和30年代の名神や東名は世銀など海外からの借款が充てられ た。税金はおろか日本のお金でもなかったのだ。通行量で借金を支払い、完済した時点で無料化するはずのものだった。つまり当面の建設資金が回らないので借 金=有料でスタートしたのである。

 「当時は天下の公道を走るのになぜお金が必要なのか」との不満もあったが、国民は我慢した。そもそも論である。

 東名は名神はもっと早い時点で無料化されてよかったのだが、高速道路を全国に張り巡らせるためにさらに建設資金が必要とされ「プール方式」といって全国の高速道路建設が終了して借金を完済するまでは有料を続けることになった。

 高速道路の建設資金の償還期間は50年とされているので、多くの国民は無料化となる前にこの世を去ることになる。これでは利用者はたまったものではない。

 反対理由の渋滞について、言いたい。そもそも首都圏の終末は50キロ以上の渋滞は当たり前のこと。いったん高速に乗ると渋滞となっても高速を乗り降りす ると通行料がかさむのでドライバーは「じっと我慢の子」を決め込むことになる。30分で通り抜けることができる区間を5時間も6時間も我慢すること事態が 尋常でない。JRの特急が一定時間遅れると特急料金が還付されるのに、高速道路では一切そうしたサービスがない。

 無料化されてたとえ渋滞が増えたなら、利用者は躊躇なく一般道路に降りるだろうし、そもそも、料金所の存在が渋滞の大きな原因となっているのだ。

 それから環境である。これには二つの問題が提起されている。無料化されると利用者が鉄道やバスなどの代替交通を利用しなくなるためにガソリンの使用量が増えて排ガスも増えるという考え方である。もう一つは渋滞による排ガス排出量の増加である。

 前者には一理ある。しかし大都市以外のところではすでにマイカー通勤が当たり前になっていて、公共交通機関の存続すらが危うくなっているのである。乗用 車の利用でいえば、大都市圏の週末の利用が多少増えても劇的に環境が悪化するとは考えられない。大都市に住む筆者自身にとって、そもそも週末の大渋滞が堪 えられないので10年以上もマイカーで遠出したことがない。たとえ高速道路が無料になっても週末に遠出することはないだろう。

 もう一つの渋滞による排ガス排出量の増加は、大都市周辺で想定されている事態であるが、そもそも週末はすでに渋滞が続いているから、これ以上の渋滞はありえないと考える。

 高速道路は、「高速」に意味がある。これまで料金が高いために一般道を使うケースはあまりに多かった。せっかく巨額の資金を投資して建設したものが、高 い利用料のために利用されないのだとしたら何のためにつくったのか分からない。車の通行量が増えるのを危惧するのなら、そもそも道路建設は一切やめた方が いい。一般道のバイパス道の建設では渋滞や環境がほとんど問題とされないのに、なぜ高速道路だけが問題視されるのかも分からない。

 最後に「私は車を持っていないから高速道路無料化は反対」という人がけっこういる。自分は運転しなくても、家族がするかもしれない。あなたが乗っているバスが走る一般道の建設や補習には高速道路以上の税金が投入されているのですよ。(伴武澄)

 高速無料化、37路線50区間 開始は6月と国交相【共同通信2010年02月02日】

 前原誠司国土交通相は2日、全国の高速道路のうち北海道・道央自動車道の士別剣淵―岩見沢(延長139キロ)など37路線50区間を2010年度、実験 的に無料化すると発表した。交通量の少ない地方路線が中心。自動料金収受システム(ETC)の利用や車種にかかわらず、すべての車が対象となる。開始時期 について前原氏は「6月からの予定」と述べた。期間は11年3月末まで。

 高速道路の無料化は、民主党が09年の衆院選マニフェスト(政権公約)で掲げた目玉施策の一つで、流通コストの引き下げや地域・経済の活性化が狙い。 10年度の予算は1千億円で、対象区間の総延長は1626キロ。対象外の首都高速と阪神高速を除き、供用中の高速道路の約18%に当たる。

 ETC利用の乗用車と二輪車に限って地方圏の休日(土日祝日)の通行料を上限千円とした大幅割引で、渋滞があまり起きなかった路線を中心に選んだ。秋田、山形、島根、高知、大分、宮崎の各県では高速道路の多くが、沖縄県では全線が無料になる。
 2009年10月12日、前原誠司国土交通相が羽田空港を24時間運用の国際ハブ(拠点)空港として優先整備し、首都圏で羽田が国内便、成田が国際便とすみ分ける原則も撤廃する考えを表明した。

 政権交代とはこういうことなのだということを思い知らされた。あまりにも簡単に日本の航空政策の転換を示したのだが、地元千葉県は別として首都圏の多くの市民が喝采を送っているのだろうと思っている。
 不便極まりない成田空港には多くの不満を持っていた。まず首都から遠いということ。行き帰りに半日ずつ無駄に してきた。空港に入るたびに受ける異常なほどのチェックシステム。開港30年を越すというのに整備が遅れている。国民の期待通りアジアのハブ空港になって いるならともかく、開港10年内外であるマレシーアのサパン、香港のチェップラップコック、上海の浦東、ソウルの仁川の後塵を拝している。否、もはやその 地位を奪われているといっていい。

 そんな成田にもはや未練はないはずなのに、これまで政策転向ができなかったのは自民党政権にあった多くのしがらみなのだろうと考えざるを得ない。30年 経って国際ハブ空港になれなかった成田がこれから先、ハブ空港として完成する見込みはまずない。ないのだったらすばやく方向転換するべきなのが政治の役割 のはず。それができなかったのだ。

 羽田が本格的な国際空港になれば、まず地方の空港が活性化する。ソウルに奪われていた地方の国際線の旅客を羽田に取り戻すことができるはずだ。羽田が活 性化すれば、次は関西に手を付ければいい。多くの反対の末に完成した神戸空港であるが、ハブとまでならなくとも国際線を飛ばす余力は十分にある。三ノ宮か ら15分という利便性を活用しない手はない。伊丹にも国際便を復活すれば、羽田同様に利便性の高い国際空港として再びその機能を果たすことが出来よう。

 成田も関西も"政治"が生み出した国際空港である。旅客の利便を無視したその設計思想は終焉のときを迎えている。(伴 武澄)
 そのむかし、夏目漱石は東大で英語で授業を受けていたから、英語で詩を書くことに惑いがなかったと聞いたことがある。明治人はいまと比べものにならないくらい国際人だったことは誰もが気付いているに違いない。

 国際社会の舞台で堂々としていた多くの明治人には漢学の素養を身に着ける一方、国際語としての英語を通じたヨーロッパ文化の常識に通じていた。これは常 識の部類なのだろうが、どうして明治人にできたことが昭和人にできなかったのか? そんな疑問を抱き続けていたが、穂積陳重『法窓夜話』(岩波新書)を読 んでその疑問がある程度氷解した。
 明治初期、日本が西洋の文物を取り入れるにあたって一番苦労したのは「言葉」だった。明治初期の高等教育は東 京外国語学校、そしてそれに続く各地の英語学校から始まった。東京英語学校、仙台英語学校、大阪英語学校はそれぞれ一高、二高、三高に発展した。なぜ仙台 が「二高」となったのかという疑問はさて置いて、多くのお雇い外国人を雇用してヨーロッパから輸入した教科書で日本の高等教育が始まった。

 ヨーロッパの学問や制度には政治も科学も含めて日本語にない概念が多すぎたから、すべての授業は外国語、主に英語で行われた。お雇い外国人教授に引き続いて教壇に立った多くの日本人教授もまた外国の教科書を持ち込んで外国語で学生を鍛えた。

先生「France is now a republic. Not like our country, they dont have a king as a Sovereignty」
学生「先生、そのrepublicというのはなんですか」
先生「日本では歴史始まって以来、天皇がまつりごとの中心におられたが、フランスにはそのような存在はもはやない。つまりpeopleがsovereignというこっちゃ」
学生「ますますわからん。そのSovereigntyとかsovereignとか日本語で説明してください」
先生「それが先生もわからんのじゃ。まつりごとをつかさどるという意味だが、日本にはそういう意味の単語がないのだ。天皇が京都に在位していて、将軍が江 戸でまつりごとをつかさどっていた。その将軍が大政奉還して明治の世となった。天皇が復権したいま、ヨーロッパに学んで天皇を中心にどのようなまつりごと の仕組みをつくろうかみなが考えている最中なのだ」

「政治」も「共和」、「主権」もいまでは普通の日本語になっているから誰も気付かないが、当時はなんとも説明のしようがなかった。ヨーロッパの概念を一つひとつ日本語で説明する作業は並大抵でない。だから授業はほとんどが英語だった・

 明治期に多くの現在の政治、経済用語が生まれたが、「Constitution」という概念が最後まで日本語として定着しなかった。穂積によれば「定着するまで20年近い日々を必要とした」ことになっている。

 穂積は漢学者の家に生まれ、イギリスとドイツに留学し、建学間もない帝大法学部講師になったが、明治14年まで授業はすべて「英語」だったと書いてい る。「ようやく授業に日本語が入るようになったのは明治14年。法学部の授業が日本語になったのは明治20年ごろ」だったのだそうだ。

 またConstitutionというフランス語を最初に「憲法」という漢字にあてたのは、箕作麟祥だった。明治6年のことである。「国法」、「国制」、 「国体」、「朝綱」など、使用されていたさまざまな訳語の一つにすぎなかったから、まだ定着はしたとはいえなかった。大学の授業では Constitutionで通っていたはずだ。

 明治政府は明治16年、伊藤博文を「憲法取調」という役職につけた。プロシア、オーストリアに憲法を学びに行かせた。というより自ら学びに出掛けた。そ の時「憲法取調」という役職が新設されたといった方が正しい。政府として初めて「憲法」という漢字を使ったから、それからConstitutionは日本 語で「憲法」と定着したらしい。

 江戸時代の「憲法」という語はいまでいう六法全書のようなものを意味していた。ちなみに福澤諭吉は慶應2年の著書『西洋事業』で「アメリカ合衆国のConstitution」のことは「律例」と訳している。(伴 武澄)

2009年01月03日(土)
佐久総合病院 色平哲郎
 東京から信州の山の村に家族5人で移り住んで、十数年暮らした。高齢化率40%。診療所の「お客」の多くが、後期ならぬ〝高貴〟高齢者である。彼らの昔語りに耳を傾け、往診で山道に車を走らせながら、日本国の近未来を透かし見ている自負があった。

 しかし最近、それが思い上がりに近かったことに気づいた。日々、要介護認定を下していても、介護の実際は案外知らない。「すきな人と、すきなところで、 くらし続けたい」という高齢当事者の切実な思いにこたえるのは医療行為より介護、ケアだ。彼らの日常を支えているのは家族、そして家庭を訪問して細やかな 相談にのるケアマネジャー、保健師たちなのである。

 そんなとき、コミック「ヘルプマン!」(くさか里樹著/講談社)に出会った。

 都会で働く49歳の男性の家に、田舎の弟夫妻とくらしているはずの老母が現れる。弟は、なかば捨てるようにして母を兄に押しつけていく。キャリアウーマ ンの妻も青春を謳歌する娘も、世話など見向きもせず、困り果てた男性は、ヘルパーを頼む。

 現れたのがフィリピーナのジェーン。楽天的な気質で認知症の老母を包み込む。ただ、介護保険の給付対象にならない「散歩」や「お喋り」にも時間を費やしてしまい、様々な軋轢が生じる・・・

 フィリピンといえば、私が佐久病院にやってくる、そのご縁をいただいた場所。レイテ島には佐久病院看護学校の「姉妹校」があったりして交流する機会も多い。

 親しみを感じつつ読了したが、「ヘルプマン!」特にその第8巻が描く世界は、外国人による介護「現場」を先取りしていて、蒙を啓かされる。

 アジア諸国とのEPA(経済連携協定)の締結で、いよいよ介護士や看護師が海を渡ってくる時代になった。インドネシアからの第一陣はすでに来日した。だ がケアとは何か、正面から考えずにきた日本社会は、このコミックが描くような「ぶつかり」に次々に直面することになるのではないか。

 一方、介護士を送り出す相手国の実情はどうだろう? 
 たとえばフィリピンでも先頃、国会で日比EPAが批准された。
 しかし署名から実に2年の歳月を要し、「憲法違反」との反対論まで沸き起こっている。背景には医療分野での海外頭脳流出、都市と地方の絶望的医療格差などの問題が横たわる。

 言葉の壁がある日本にどれだけの外国人医療者が来るかは未知数だが、日本は一方的に介護士を受け入れ、サービスを「消費するだけ」でよいのだろうか。一 定期間、日本で介護に携わったら、帰国して母国で働く。日本は、相手国の医療看護や介護分野にヒト、カネ、ノウハウを送り、相互に人材が還流する。そん な、双方が高めあえる仕組みづくりが必要だと思う。

 アジアで出会った保健医療福祉の現場で働く彼ら、彼女らの顔を時折、思い起こす。ケアやキュアという英語の語源がカトリックの典礼語ラテン語のクーラに あることを思う時、彼らの優しさ、人を憂うる「心持ち」の後にしっかりとした信仰があることに改めて気づかされる。

 ようやく高まりをみせつつあるケア論議は、私たちの社会の、人と人とのかかわりの思想が試される一歩、なのだ。(いろひら・てつろう)
  14日は群馬県大泉町にある日系ブラジル人学校「Gente Miuda」(ジェンチミューダ)の卒業式に招かれて出席した。財団法人国際平和協会が毎年秋に「東京遠足」をプレゼントしているご縁だ。全校170人余 の同校の卒業生は二十数人。幼稚園から中学まで年齢層はさまざまだが、日本と違って親子がフォーマルに着飾って晴れやかな式典だった。

 一方で、悲しい話もたくさん聞いた。大泉町は三洋電機と富士重工の工場があり、その下請け企業群も多く、早くから日系ブラジル人雇用に熱心だった地であ るが、100人単位での解雇情報が日系人社会を揺さぶっている。「Gente Miuda」の場合、来年の始業式に来ないことが決まっている児童・生徒が40人にも及ぶという。みんなブラジルに帰国する。
 日系ブラジル人雇用は法律の整備もあり、90年代初頭から急増した。日本に先祖があることが分かれば誰でも日 本で働くことができたが、最近では「二世ならいいが、三世はダメ」というように就労ビザの発給も厳しさを増しているから、いったん帰国すると二度と日本で 働けない人もいる。そういう事情を知ってか知らずか、日本で暮らしていけなくなったブラジル人の帰国ラッシュが始まっているのだ。

 華やかな式典の片隅でGente Miudaの先生の一人が寂しそうにつぶやいた。
「ここに出席している子どもたちはいい方なのです。衣装代や式典の負担金を支払えない子どももいるのですよ」
「浜松では日系ブラジル人のホームレスが現れて、キリスト教関係者が炊き出しをしているというニュースを知っていますか。私が住んでいる伊勢崎市にもいるんです」

 楽天的なブラジル人たちはあまり貯金をしない。車を買って住宅を購入した人もたくさんいる。このまま日本で定住を決意した人たちも少なくない。しかし、 就労の実体は「派遣」のまま。これまでは派遣であっても一生懸命働けば、普通の日本人並みの生活を楽しむことができたが、アメリカ発の経済危機が急速に日 本経済に襲いかかっていて、真っ先に仕事を失うことになっているのだ。

 解雇されて、ブラジルへ帰国するチケットを買える人ばかりでない。解雇されて家を失い、帰国できない人たちが駅前での生活を余儀なくされている。親子連れのホームレスが出現したという情報もある。

 一番悲しかったのはある小学生の話である。家庭での会話から、親が金に困っていることを知って、放課後に自動販売機をまわり、忘れた釣り銭を集めていた。5000円ほど貯まったところを父親に知られて、生活費のために親に貸しているのだそうだ。(伴 武澄)

 日系ブラジル人大量解雇 一時帰国は片道チケットで (朝日 08.11.18)
 外国人ホームレス増加の兆し(2008年11月22日 朝日新聞)

 有馬頼寧(ありま よりやす=1884(明治17)-1957(昭和32)=政治家、農林大臣)

 山本一生『恋と伯爵大正デモクラシー』(日本経済出版社、2007年9月17日)を読んだ。有馬頼寧の物語である。頼寧は旧筑後久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京で生まれた。母親は岩倉具視の娘、妻は貞子は皇室の血を受けている。なんともハイソな家柄だった。

 有馬頼寧に興味を持ったのは理由は二つある。第一は賀川豊彦が戦後すぐにつくった財団法人国際平和協会の理事だったこと。第二は何げなく「聖蹟桜ケ丘」の地名を調べていたら、三条実美公が浅草の橋場というところに住んでいたことがわかり、その橋場に有馬家の本家もあって、労働者のための夜学校をつくって社会貢献したことを知ったからでもあった。

 何でハイソな方々が下町浅草などに住んでいたのだろう。いやいや江戸時代から隅田川は桜の名所として知られ、風光明媚なところとして大名や商家の別荘が多くあった。明治になると元勲たちも競って橋場に居を構えた。実美公は病気がちだったため、明治天皇が度々、見舞いに行った。後に隅田川にかかる橋の工事のため、実美公の邸宅は現在の京王線沿線に移築され、ことから「桜ヶ丘」に「聖蹟」の名が付いたという。

 冒頭から話がそれた。話を頼寧に戻そう。学習院中等科を経て東京帝国大学農科を卒業した。伝記などによれば、華族の子弟は学習院に通うものとされ、帝大にも華族のための枠があったから東大卒といっても秀才だったわけではない。その後、農商務省に入るが、これも高等文官試験に受かったのではなかったが、大学、農商務省の人脈は生涯を通じて続く。その後は帝大で教鞭をとった。

 有馬の名前が残っているのは競馬有馬記念である。父頼万の死後、貴族院議員となり、昭和12年、第一次近衛内閣の農相に就任、その後も近衛文麿と政治生命を共にし、大政翼賛会事務総長となった。そうした政治家と別の一面も持っていた。

 頼寧は大正8年、橋場の邸宅の敷地内に労働者のための夜間学校「信愛学院」を開校した。博愛主義者としての側面もみえてきた。信愛学院の入学条件はただ一つ、「昼間働いていること」で、15、6歳の若者から40歳代のさまざまな年齢層の生徒が通ったという。信愛学院は共産主義のレッテルをはられ、昭和16年に廃校の追い込まれた。

 華族でありながら、華族制度を批判するなど正義と博愛精神を生涯持ち続けた。気さくな性格で「伯爵でしたけれど、まったく偉ぶらない人でね、貧乏人でも何でも気軽に口をきいてくれる人でしたよ。だから関東大震災でみんな焼け出された時なんかでも、すぐに炊き出しをしておにぎりなんかを出してくれたり、罹災者に配ってくれたりして本当に人情の温かい人でしたよ」というような逸話も残っている。

 東京帝国大学夜間学校のほか、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐など右から左まで幅広い人脈を築いた。戦前はプロ野球球団、東京セネターズ日本ハムの前身)のオーナーでもあった。農業研究家として農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。地元の久留米市には久留米昭和高等女学校を設立し、女子の教育にも力を尽くした。

 賀川豊彦との強い結びつきはいつからなのか、分からない。賀川が農民組合を結成したときには、頼寧も参画しているから、1921年の前であるはずだ。

【北海道新聞 2008 年 1 月 27 日付 11 面「寒風・温風」から転載】

 北海道独立論

 長年、多くの人を引き付けてきたテーマに「北海道独立論」がある。歴史上の有名なエピソードは「蝦夷(えぞ)共和国」だ。明治元年(1868年)、榎本 武揚率いる旧幕府軍が函館を占拠した。榎本は、英・仏の領事、艦長とも面談し、「事実上(デ・ファクト)の政権」と認められた。現在でも、実効支配と他国 の承認があれば「独立国」とみなされる。明治2年5月、箱館戦争が終結するまでのごく短期間、いわば幻の地方政権が北海道に存在したといえよう。
 ユニークな発想

 これまでに数多くの「北海道独立論」が発表されてきた。筆者が知り得た範囲で代表的な業績の一つは、終戦直後の昭和21年(1946年)、河野広道・北大農学博士が著した「北海道自由国論」だ(博士の父は、北海道史の第一人者、河野常吉)。
①北海道の気候風土を生かした独自の文化・産業を打ち立てるべきこと
②国土面積、人口、食糧自給といった独立の基礎的条件は整っていること、など今日の「北海道独立論」の骨格を示した先駆的著作といえる。

 また、わが国を代表する文化人類学者、梅棹忠夫氏が昭和35年(1960年)に書いた「北海道独立論」は、現在読んでも全く古さを感じさせない。異質と同質、分離と統合という文明論的観点から北海道を実に生き生きと論じている。

 その他、数ある「北海道独立論」の中には、ユニークなものも多い。例えば、「ヒグマ共和国」というネーミングや、独自通貨を発行しようというアイデアも ある。ちなみに北海道通貨の名称案は「ピリカ」、補助通貨は「マリモ」だ。円やドルとの交換レートを、ピリカ安の水準に設定すれば、産業競争力は弱くと も、為替効果で輸出が促進されるという指摘(共同通信社・伴武澄氏)は興味深い。

 活発議論で利点

 「架空国家論」という限界はあるにせよ、「北海道独立論」が活発に議論されるメリットは大きい。第一に、独立論の中核は、いかにして北海道の産業を振興 し、「外貨」を稼いで、財政面でも自立を図るかという点にある。今後本格的に検討される道州制の議論と本質は全く同じだ。

 海外を見渡すと、北海道と大体同規模ながら、オープン政策により経済的に成功している北欧諸国が多い。社会福祉も充実している。こうした「小国・開放型モデル」は将来の北海道の重要な参考になるだろう。(上野正彦元日銀札幌支店長)

 北海道が独立したら 伴 武澄

英語版『武士道は海を越えて』に向けて

2008年11月25日(火)
タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 清水 晃
 大東臨戦争勃発の翌年、1942年3月に日本海軍は英米蘭豪の連合艦隊とインドネシアのジャワ島沖で、戦って敵を全滅する勝利を得ました。その時の出来事であります。

 開戦の直後、12月10日、マレー沖において英蘭東洋艦隊の主力である新鋭戦艦プリンス・オブ・ウエールズと巡洋戦艦レパノレスを日本海軍航空隊が撃沈 しました。その時、沈没した両艦の乗組員を英国駆逐艦が救助してシンガポールに帰投しました。その救助作業中、日本の航空隊は一切敵艦に攻撃を加えずにシ ンガポールまで、偵察を続けました。

 連合国は主力の英国艦船を失ったあと、ABDA (米英蘭豪)連合艦隊を組織して、日本軍のインドネシア上陸作戦を限止するため進出して、ジャワ海で日本海軍と激しい戦闘がおこりました。日本海海戦以来 史上37年ぶりの、双方あわせて30隻の規模の大艦船決戦となりました。

 2月28日深夜の海戦においてABDA艦隊は14隻中11隻が撃沈されて敗色濃厚となり、残りの3隻はスラパヤ港に帰投しました。かくして3月2日早 朝、日本輸送船団はジャワ島東部に上陸を完了しました。一方、スラパヤ港に帰投した英重巡エグゼターは応急修理を施して、英駆逐艦エンカウンターと米駆逐 艦ポープを護衛に従え、インド洋に出てコロンボ港に退却することを企図して出港しました。しかし、足柄、妙高,那智、羽黒の重巡を主力とする日本艦隊と激 闘しました。衆寡敵せず大破しても降伏せずに自沈をはかりましたが 結局撃沈されて、ここにABDA艦隊は全滅しました。

 このとき駆逐艦「雷」 (工藤俊作艦長、1,680ton)は戦開に参加していません。蘭印攻略司令宮高橋伊望中将座乗の重巡洋艦「足柄」の直衛を担当していました。工藤艦長の 統率力と乗組員の士気と錬度の高さが評価されたと考えられます。「雷」は燃料、兵站補給をうけて戦闘海域に向かいましたが、夕刻に到着したときはすでに戦 闘は終わっていました。

 それまでに僚艦「電」はエグゼターの乗組員376名を救助していました。日本の駆逐艇は、戦闘能力を5000トン級の軽巡洋艦なみの装備にしたため、燃 料タンクは小さくして航続距離が犠牲となりました。ワシントン条約の制約を克服するため、日本の造船技術の粋をつくし、主砲12.7センチ、6門、魚雷発 射管9門、速力38ノット、という世界の最高水準に達していました。

 3月1日午後2時すぎエンカウンターから脱出した乗組員は、僚艦がみな沈没して日本艦隊も次の作戦行動に去ったため救助の目途は見当たらず、オランダの 偵察飛行艇に発見されるのが唯一の希望でした。翌2日は赤道に近い海上で灼熱の太陽のもとに苦しみ、重油にまみれてすでに約23時間漂流していました。も はや劇薬をあおって自決する寸前にありました。その時、午前10時ごろ駆逐艦「雷」が漂流者を発見し、空前絶後の救助作業が始まりました。

 この海戦の前には米潜水艦がジャワ海域で活動しており、日本の駆逐艦や輸送船が相当数沈められていました。その時、工藤俊作艦長の号令は、「一番砲だけ 残し、総員、敵溺者救助用意」という決断でありました。潜水艦攻撃の危険のさなかにありましたが、「雷」は艦長の号令のもとに直ちに総員で救助作業を開始 しました。

 英蘭将兵の漂流者は、負傷者を最初に引き上げるよう合図をして、それが終わると士宮、兵員の順序で縄梯子を上ってきました。しかし、すで、に体力の限界 にあって救助の竹竿に触れると安堵のため海中に沈み去るという悲劇が起こりました。雷の乗組員は海中に飛び込んでロープを巻きつけて一人でも多く救助する ことに全力をあげました。

 最終的には残る422名の救助を完了しました。乗組員200名の「雷」の甲板は敵兵で埋まりました。工藤艦長は英国士宮を整列せしめて彼らの勇戦を称え て、諸氏は本艦のゲストとするとスピーチを行いました。この中に当時英国海軍少樹で、あったサミュエル・フォール卿がいました。彼の自叙伝「My Lucky Life」に、 救助された時の詳しい状況が語られています。

 重油で黒くよごれた敵兵の一人ひとりにたいし、日本側乗組員は二人ひと組でかかり、アルコールで体を洗って、水や食料を支給して看護を尽くしました。衣 服が足りなくなったので私物まで提供しました。工藤艇長は小柄な伝令に、もし捕虜が反乱を起こしたら弱っていても体は大きいから小さい者はかなわんから気 をつけよと、からかったそうです。工藤艦長は185センチの偉丈夫で大仏の綽名もある柔道の猛者でしたが、兵員にたいする気配りはきめ細かく、鉄拳制裁を 禁止したので、下士宮の鬼兵曹たちには煙たがられたようですが、艦内の一致団結は艦長のリーダーシツプによって高度なものになっていました。それが困難な 救助作業を遂行せしめました。「いかなる堅艦快艇も人のカによりてこそ、その精鋭を保ちつつ強敵風波に当たりうれ」という軍歌そのものの姿であったと思わ れます。

 このような勇敢な行為が生まれたのは、工藤艦長の資質にあることは疑いありません。その根底には海軍兵学校における武士道教育があります。工藤艦長は海 兵51期生で大正12年7月14日に卒業しました。同期生は軍縮の前で、あったので255名で縮小の直前でした。その頃校長で、あった鈴木貫太郎中将(の ち大将、 終戦時普相)の教育思想は、軍人である前に紳士であれという人間教育でありました。鉄拳制裁を禁止し、 率先垂範する行動力と、謙虚な度量をもつように生徒を指導しました。

 五省という徳目は、海上自衛隊幹部候補生学校に継承されていますが、それは昭和7年に始まったものです。大正時代において、鈴木貫太郎校長は、型には まった人間をつくらないというリベラルな教育を指導しました。文武両道に秀でる人間こそ国の守りの礎であって、国際的に適用する人物でなければならにとい う信念でありました。

 因みに昭和20年、終戦直前の半年、海兵第77期生徒として江田島にいた私の体験でも、戦争末期においても人間教育の伝統は守られていました。英語は4 教科あって、英英辞典が支給され、英語のみの授業もありました。ナイフとフォークを使う食事礼法の指導がありました。また分隊対抗の野球の試合もあって、 わが分隊は連勝していました。棒倒し、遠泳、カッター競争、剣道、柔道などは、軍事訓練と同様に重要で、ありました。乗艦実習では日露戦争の時の戦艦出雲 に乗りました。呉の沖で触雷した瞬間、マスト登り訓練の途中で縄梯子から綴り落とされそうになりました。練習艦隊はいまや帝国最大の艦隊であるという甲板 士官の説示は諦めのなかにさえユーモアがありました。

 昭和19年に父を亡くした私が終戦後の混乱を乗り越えて国際ビジネスの社会に生きてこられたのは、江田島における訓練の現場体験と、英語のレッスンによ る知識などが大きな力となったと言えます。さらに「スマートで目先が利いて几帳面、負けじ魂これぞ船乗り」というエスプリのおかげであると確信していま す。

 さて、工藤俊作、その人となりについて触れておかねばなりません。幼時、学儒好きの祖父から明治維新の話と日露戦争後の日本の富国強兵の道を聞かされま した。日本海海戦のおりの上村彦之丞中将のロシア将兵627名救助の話も関かされました。小学校を終えると上杉家の藩校として有名な山形県立米沢興譲館中 学校に入学し、英語の先生である我妻又次郎教諭の薫陶を受けました。我妻先生は海兵を志したが視力が弱かったため実現せず、教職に進んで志を後輩の指導に 注ぎました。工藤と友人の数名の海兵志望者を親身になって指導しました。工藤は温厚寡黙な性格で、いわば気は優しくて力持ちでした。我妻又次郎先生は、我 妻栄東京大学名誉教授の父君で、栄を興譲館で教えました。栄は第一高等学校を経て東京大学法学部を首席で卒業しました。因みに私は戦後、我妻栄教授の民法 の講義を受けました。なにか工藤中位と縁がつながっているような気がします。

 ではふたたび、「雷」艦上の救助の舞台に戻りましょう。救助された英国将兵は、ようやく元気を取り戻して翌日抑留中の蘭病院船に全員移送されました。重 傷者の英国士宮は、一室を提供されて看護当番をつけてくれた工藤艦長の行為を感謝し、涙をながして握手して別れました。士宮は工藤艦長に挙手の礼をして退 艦してゆきました。兵員は嬉しさを体で示して手を振って賑やかに去ってゆきました。かくして、この救助劇の幕は下りました。このオランダ病院船の士官の態 度は倣慢でありましたが、乗組員の東洋人は「雷」の軍艦旗に挙手の礼を行って迎えました。ここで「敵兵を救助せよ」の幕は下ります。それから今日まで、 「献兵を救助せよ」のドラマは気の遠くなるような60余年という長い幕間が続いてきました。そして、ようやく元英国海軍士宮、サミュエル・フォール卿 (Sir Samuel Falle)の手によって幕は再びあがることになりました。

 その間は永い苦しい戦争であります。翌月4月18日米空母「ホーネット」から発進したノースアメリカンB25が東京を空襲しました。それから2ヶ月たら ず、開戦後わずか半年たったばかりの1942年6月5日、ミッドウェー海戦において、米軍機によって日本海軍は主力空母、赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を 一挙に失う大打撃を受けました。その事実は当時の国民に知らされませんでした。因みにマレー沖海戦で戦艦2隻を失った英国ではチヤーチル首相が翌日下院に おいて悲痛な報告をしています。

 ミッドウェーは文字通り戦いの道の途中で、日本は運命の分岐点に乗り上げていました。失敗を生かすような論議などをする思想的な自由は、日本の風土には ありませんでした。攻勢防御というタイトロープ上にあった日本は一転して守勢に立つことになって敗戦への道を転げ落ちてゆきました。そして戦時中の出来事 は人が去るに従って忘れ去られてゆきました。

 フォール卿は捕虜生活を送って戦後帰国されたあと、外交官として活躍されてスエーデン大使などを勤められました。勇退されてから自叙伝を上梓されました が、それには工藤俊作中佐に捧げると献辞が記されています。工藤艦長の英雄的決断と「雷」乗組員全員の果敢にして親身な救助作業を夢ではないかと腕を抓っ たと回想されています。

 工藤艦長は1979年、昭和54年1月12日、78歳の生涯を終えられました。その年の7月ポーツマスに入港した海上自衛隊練習艦隊司令官にたいし英国 海軍から工藤中佐の消息調査の依頼がありました。依頼の主はフォール卿ありました。それまでも幾度か依頼はなされたが日本に伝わらなかったことを反省せね ばなりません。もう1年早ければ工藤中佐とフォール郷の再会が実現したかも知れません。フォール卿は当時EUの駐アルジェリア代表でありました。フォール 卿は米国海軍紀要あるいは英国の新聞The Timesなどに投稿され、また1992年ジャカルタにおけるスラパヤ沖海戦50周年記念式典で記念講演を行い、工藤中佐は日本武士道の鑑と称えたのであ ります。

 工藤中佐の没後、時はさらに4半世紀流れて、2003年に海上自衛隊の観閲式が行われた際、フォール卿が日本に招待されて、護衛艦「いかづち」(4代目 「雷」)の艦上において静かに語られた事績は、日本人にとって初めて知らされたことでありました。フォール卿は、その時すでに84歳の高齢で歩行も不自由 でした。工藤中佐がすでに死去されたことを知り、非常に落胆されました。帰りがけに恵隆之介氏に工藤中佐の墓所を尋ねられたことから、恵隆之介氏が一念発 起して行動を起こしたことによって、「敵兵を救助せよ」 (2006 年草思社)という感動的な労作が産み出されました。

 戦後なにも語らなかりた工藤中佐は、サイレントネーピーという海軍軍人の矜持そのものでありました。

 戦後、恵隆之介氏が工藤中佐の故郷山形県・高畠町を訪問した時にもご親戚の誰ひとりその事実を聞いてはおられませんでした。

 墓所が埼玉県川口市朝日にある薬林寺と判明したことを、恵隆之介氏からフォール卿に報告したところ、 療養中の身をおして命あるうちに日本に行って、工藤中佐の墓前に永年胸におさめていた深い感謝の意を捧げたいという熱望が伝えられました。

 かくして恵隆之介氏は、全力をつくして工藤中佐とフォール卿の武士の魂の再会を実現したいと決意しました。私もこの活動に協力する決心を固めました。工 藤俊作中佐(海兵51期)→清水晃(海兵77期)→ 恵隆之介(元海上自衛隊士官、江田島・海兵100期相当)と3人の海軍の絆はつながりました。

 私は恵隆之介著『敵兵を救助せよ』の英語版「Bushido over the sea」を脱稿したところです。目下その出版の方策を検討中であちます。なお、恵氏の友人である英国の作家ピーター・スミス氏の近著「Midway- Dauntless Victory」の日本語版制作についても検討中であります。

 そして、英語版「Bushido over the sea」は工藤中佐と雷乗組員の塊とともに、とれをSir Samuel Falle に謹んで捧げたいと存じます。

清水晃 タンザニア連合共和国開発公社名誉顧問 元英国暁星国際大学学長 海兵77期
〒813・0044福岡市東区千早5-5-43-1209 携帯090・8012・8018 Ashimizux@aol.com
2008年01月05日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
  あけましておめでとうございます。まもなく萬晩報は満10年を迎えます。ことしもよろしくお願いします。

  昨年来考えていることは、日本の物価水準が世界的に安くなっているのではないかということでした。日本経済新聞の新年企画は「YEN」から始まりました。 アジアの人たちが日本で買い物天国を楽しむさ風景はまさに20年前の金満ニッポン人が欧米で繰り返したビヘイビアでした。

  日本の物価が高い、人件費が高いといっていた時代はとうの昔に終わっていたのです。47ニュースの編集で頻繁に目にする地方紙の記事はアジアからの観光客誘致です。正月にも山形新聞は蔵王での韓国からのスキー客誘致の話題がトップでした。

  日本の半分以上の地方空港には韓国の大韓航空やアシアナ航空の機体が並んでいます。不思議なのはそこにJALやANAのマークが少ないことです。

  国境を海で閉ざされた国民の習性でしょうか、日本の国際化は日本人が外国に出向くことでしかありませんでした。日本に外国を招くことは日本人の国際化には ほとんどなかったのです。いまやアジアの国々から100万人単位の観光客がやってきています。それも年々二けたペースで増え続けています。

 中国人などは昨年3000万人もの海外渡航者がいたという話です。すでに日本の海外渡航者を上回っています。たぶん世界有数の人数だと思います。その中国人を日本に迎えないで、何が観光立国なのか。そう考えざるを得ないのです。

 年頭に買い物をしたヨドバシカメラでは、中国語、韓国語だけでなく、ドイツ語、フランス語、スペイン語などでも店内放送をしていました。20年近く前、新宿の百貨店で韓国語や中国語放送を始めるというニュースを取材したことがあります。隔世の感があります。

 姉が勤務する高知県のある大学では大学院生の3分の2が外国人でその半分が中国人だということです。その大学では中国人学生なしではもはや経営が成り立たないのです。姉の仕事は中国を始めアジアの大学との提携関係を強化して学生を高知に"誘致"することなのです。

 秋に何回か訪れた群馬県大泉町では日系ブラジル人によるマイホームブームが始まっていました。日系ブラジル人たちは出稼ぎから定住に切り替えつつあるので す。この町では住民の一割以上が外国人、つまり日系ブラジル人になっています。イギリスやドイツ、フランスなどと同じ水準になっているということです。役 場で聞いた話では「少し前まではゴミの捨て方などを指導していたが、今では自治会活動などに積極的に参加している」ということなのです。

 一時期、オランダ村、ドイツ村、デンマーク村などテーマパークが各地で生まれました。異国情緒を国内に持ち込んで国内の観光客を誘致しようと考えたのです が、多くが失敗に終わっています。逆に本当に外国人たちが日本の各地に住み込むようになる。そんなことは考えられないのか。町づくりに外国人の発想を導入 すればおもしろいことになるかもしれない。そんな初夢を描いています。

 室蘭で中華街をつくる構想が浮上しています。実はある中国企業が熱心にそのプロジェクトを推進しているのです。
 28日のテレビ朝日、サンデープロジェクトで民主党の浅尾慶一郎氏が、防衛省疑惑問題で、一番問題なのはグアムへの米沖縄海兵隊の移転に絡む日本側負担 で米軍住宅の建設費が一戸あたり73万ドル、日本円で8000万円にも及ぶ事実を強調していた。米側の試算では17万ドル程度で、4倍以上もするのだとい う。

 昨年の日米合意で、移転費用の日本の負担は60・9臆ドルとなり、そのうち家族住宅の建設費は25・5億ドル(2800億円)となっていた。政府は 3500件を建設するとしていた。単純に割り算をすると一戸あたり8000万円となるのだ。

 住宅面積は150平方メートル程度で、日本の家屋より広めとはいえ、土地代抜きで8000万円とはどういうことなのか。誰でも疑問に思うことが防衛省を含めて日本の官僚や政治家には分からないらしい。

 ネットで検索してみると、この問題は昨年5月、共産党の井上哲議員がすでに参院で額賀防衛庁長官に質問していた。額賀前長官は、建設資材をグアムに運ぶ な どどうしてもコスト高になると説明したらしいが、日本の住宅の建材はほとんどが輸入もの、3500件分もの大規模な住宅建設は日本の住宅メーカーの年間の 売上高に匹敵する水準。逆にこれだけの量を注文すれば、普通の住宅より格段に安くなるのが普通の経済感覚である。

 守屋前防衛事務次官の証人喚問が29日(月)テレビ中継され、山田洋行と過去にゴルフを200回以上したことが批判の的になった。しかし、よく考えれ ば、ゴルフ代などは高が知れている。1回5万円かかったとしても200回で1000万円。そのほかに飲食の供応をうけても1億円には届かないだろう。

 守屋長官のゴルフ接待を見逃していいという話ではないが、メディアが批判しもっと怒るべきは、国家予算の無駄遣いなのだ。アメリカのいうがままに1件あ たり8000万円の住宅を3500件分も支出することだ。これは常軌を失しているというようなレベルではない。犯罪である。もしアメリカ並に2000万円 程度で建設されるならば、2100億円もの予算を節約できるのである。

 総額60・9億ドルの中には住宅のほかの項目でも同じような"法外"の要求金額があるはずだ。

 軍事費についてはよく、兵器など民間と比較できない要素があると説明されることがある。確かに艦船や航空機の価格はそうだろうが、一般の備品や建設費は 本当は民間以下で購入できるはずなのだ。軍隊はとにかく規模がでかいのだ。ワイシャツや靴下だって、一人一枚支給すると27万枚、27万足となる。たぶん 納入業者はとんでもなくいい思いをしているはずだ。 

 【思いやり予算】日本は1978年から、思いやり予算として米軍住宅や戦闘機の格納庫 などを建設してきた。87年の日米特別協定で、基地内に働く日本人従業員の給与や米軍の訓練費の一部、光熱費を負担することになった。問題はその金額であ る。スタート時に62億円だった予算が2005年に43倍の2700億円を上 回る額になっている。ちなみに米国防省の報告では、米軍への協力費が04年に44億ドルと、ダントツ。2位ドイツの15億ドルをふくめて26カ国の合計額 39億ドルを上回るのである。 
2006年10月27日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 10月26日夜、北海道日本ハムファイターズが日本シリーズを制して日本一になった。巨人ファンばかりと思われていた北海道に本拠地を移して3年である。4万人収容の札幌ドームを常に満員にする力が500万人北海道にあることを証明した。

 日本ハムは大阪の会社である。オーナーの出身地は四国の徳島である。四国の遺伝子を持った企業が大阪で日本有数の食肉会社に成長し、そのプロ野球球団が北海道で日本一になった。

 筆者はもとより東映フライヤーズからの日本ハムファンである。44年ぶりの日本一は嬉しい。若かった張本勲や尾崎行雄が活躍した時代である。町の帽子屋 に東映の野球帽は売っていなかったから、母親にフエルト生地でFのマークを切り抜いて貼り付けてもらった。

 監督は水原茂。ダンディーの名で通っていた巨人軍の往年の名選手だった。しかし選手には暴れん坊が多かった。張本や尾崎を生んだ大阪の浪商高校はそもそ もが警察も手を焼く不良の巣だった。クラスに東映ファンなどいるはずもないし、テレビはおろかラジオ中継もない。そんな東映がパリーグで優勝してその勢い で阪神を制して日本一になったから、ざまあみろという気分にさせられた。

 それでも東映はメジャーチームになることはなかった。なぜか、一つはあまたあった東京のチームの一つだったからで、もう一つはホームグラウンドの後楽園を巨人と共有していたからだった。

 その後、チームは変遷を経て日本ハムファイターズとなったが、この二つの条件は変わらなかった。その間、東京の球団の一つだったロッテは隣の千葉県に引っ越して"地元ファン"を得ることに成功した。

 20年以上前に高松市営球場が改築されるという話があったとき、日本ハムの高松移転話が浮上した。瀬戸大橋もかかるから岡山からも野球を見に来てくれる かもしれないという期待が膨らんだが、結局30万人都市でプロ野球チームは育たないという結論に達した。惜しいことをした。

 ファイターズの札幌移転の時も、マスコミには悲観論が多かった。札幌には巨人ファンが多かったことと、マイナーなパリーグのチームが新天地に根付くはずがないという話ばかりだった。

 3年たってみるとどうだろう。もちろん新庄効果というものもあったが、ファイターズファンのお目当ては新庄剛志ばかりでない。小笠原ファンもいればダル ビッシュも人気だ。稲葉がバッターボックスに立つと札幌ドームは地響きが鳴り響くほどの興奮状態となる。テレビ画面が揺れる現象を初めて見たプロ野球ファ ンもいるだろう。

 監督を含め日本ハムファイターズの選手は道外人である。その道外人が北海道のファンに支えられて日本一になったのである。北海道にとってファイターズは "外資"なのである。外資であろうとなかろうと結果的に北海道を元気にしてくれるのだからありがたいことである。

 北海道の人口は563万人。その人口の3割が集中する道庁のある札幌は158万人。この規模の国家は世界にあまたある。ヨーロッパでは並みの国家規模で ある。北海道日本ハムという一プロ野球球団がなしえたことを北海道の道民ができないはずはない。東京依存から脱却して日本一豊かな大地を蘇生してほしい。

 蛇足かもしれない。日本シリーズをテレビで見ていて新庄のグラブがやけに古いなと思っていたら、18歳の時、阪神タイガースに入団した時に買ったものを 17年間使い続けたということだ。パフォーマンスばかりが目立つ新庄の一面を見た思いがした。これはいい話である。
2006年10月20日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 10月9日、北朝鮮が核実験を実施したと発表してから、切実に戦争について考えさせられている。国連安保理が北朝鮮制裁決議を満場一致で決めてから、ライス米国務長官が関係国を駆け巡り、中国の唐家セン国務委員もまた米国訪問の後、慌ただしく北朝鮮を訪ねている。

 主要国の外相が一つの目的でこれほど世界を駆け巡った経験は記憶にない。イラクの時だってこれほどの動きはしなかったと思う。それほど世界は切羽詰まっている。

 北朝鮮の暴発あるいは崩壊の危機が迫っている状況にあることは明白なのだろうと思う。米中のここ数日の動きは状況的にいえば多分、「圧力だ」「対話だ」といって済む事態でないということを伝えている。

 日本政府は安保理の臨検に対して「周辺事態」にならなければ日本として参加できないとしているが、まさに周辺事態と認定しなければならない状況が近づいている。そう覚悟しておいた方がよさそうだ。

 ■米中が恐れる周辺国の核開発の連鎖

 アメリカや中国などが恐れるのは日本や韓国の核開発の連鎖である。台湾だって核を持ちかねない。技術的には各国とも数カ月で核開発は可能とされる。中川 昭一政務会長の「日本の核兵器保有の必要性について議論すべきだ」とする発言は意味深長である。自分の判断だけで言い出したのだとしたら、中川氏は相当な 戦略家である。

 ワシントン在住の中野有さんがかつて同じことを言っていたことがある。日本が核を言い出すだけで極東の力関係は一変する可能性について言及していたのだ。アメリカが中国を動かすために中川氏を利用した可能性もないわけではない。

 いずれにしてもここ数日の中国の動きは生半可でない。北朝鮮が無謀にも核実験を実施したおかげで日本にまで核を持たれたのでは中国としては看過できない はずだ。北朝鮮が何の展望もなく二度、三度の核実験をすることだけはなんとしても防止しなければならない。そんな中国側の焦りが感じられるのである。

 ■日本は果たして戦争に耐えうるか

 思い出したのは、昨年話題となって読んだ村上龍の『半島を出でよ』だった。少人数の北朝鮮の工作員が日本に上陸し、福岡ドームを武力占拠し、2時間後に 輸送機で500人の特殊部隊が来襲してあっという間に福岡市全域を支配下に置くのである。市長や知事は管区警察局長に加えられた暴力と拷問を目の当たりに して真っ先に工作員のいいなりになる。暴力と拷問の恐怖に日本の老人たちが数分と耐えられるはずがない。人命尊重の日本国政府は思考も行動もフリーズした ままである。

 そんな緊急事態が近く日本で出現すると考えているわけではない。村上龍が描く暴力に抵抗力のない日本人の狼狽ぶりを思い出したにすぎない。小説を読んだ感想として、力なき自由も平和もただ砂上の楼閣なのだと当たり前のことに思いをはせた。。

 北の工作員たちは高度な訓練というか人間としての感情を持たない存在に育て上げられている。敵の拷問に耐えられる訓練を受けている。その訓練の描写を読 んでいて「あーだから軍隊では部下を意味もなく殴るのだ」とへんに納得した。殴られるぐらいで音を上げていたら戦などはできない。戦場では足手まといにな るだけであろう。

 今の日本で戦争に反対することは簡単である。言論の自由もある。しかしいざ戦争が始まれば、報道は官制下に置かれ、敵を利する発言や行動はただちに禁止 されるだろう。禁止どころかそうした発想はたちまち「Delete」される。国民を危険にさらす責任など問えるはずもない。

 戦う意志のないリーダーを戴いていたらそれこそ国民は不幸ということになる。しかし自らが暴力と拷問に耐えうる強靱な肉体と精神力を持っていない国民はどんなリーダーがいたとしても自ら不幸を招くことになる。

 日本人は戦争に耐えうる国民だろうかと問われると考え込まざるを得ない。恥ずかしながら、筆者には自信がない。30年前、東京外語大を占拠した過激派学 生と渡り合った時の恐怖はいまだに記憶として残っている。ラグビー部やボート部など学内の肉体派を集めて"抗戦"し、過激派のバリケードをかろうじて排除 した。しかしいつどこで報復されるか分からず、しばらく集団登校した経験がある。暴力との対決はそんな程度しかない。

 空虚なのは「国際社会と緊密に連携して」という繰り返されるフレーズである。政府に自らの覚悟が感じられない。
2006年09月22日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄
 ■わくわく感が乏しい安倍総裁誕生

 自民党総裁選で9月20日、安倍晋三総裁が誕生した。メディアは大騒ぎしたが、既定路線で新味がない。それどころか小泉純一郎政権が誕生した時のような国民的高まりに欠ける一日だった。

 若さを強調しての出馬だったが、演説は空虚で訴えるものがない。どうしてこの政治家がそんなに人気があるのか不思議で仕方ない。政治家は国民を鼓舞する 言葉が不可欠だと思ってきたが、わくわくさせるような期待感が今後、この政治家から生まれるとは思えない。拉致問題で北朝鮮に対して強硬姿勢を"貫いた" ことになっているが、負けるはずのない相手に強硬姿勢を示したところで偉くも何ともない。僕はそう思っている。

 せっかく総裁に当選したばかりなのに、みそくそにいってはかわいそうなので、安倍新総裁の政策で一つだけ注目している点を上げたい。

 教育改革の中で述べているバウチャー制度である。これはひょっとしたらおもしろい結果を生むかもしれないのである。津々浦々に特徴ある寺子屋が復活するかもしれないのだ。

 ■ミネソタ生まれのチャーター校

 そもそもこの制度は1990年代のアメリカで生まれたチャーター・スクールという概念の一部なのである。ミネソタ州の市民団体が提唱し、1992年、同 州のセントポールで初めてのチャーター校が生まれ、2005年時点で全米40州3600校にチャーター校が運営されているという。これらのチャーター校に 通う児童生徒は全米の3・3%の及ぶというから侮れない。

 チャーター校は、画一的な公教育の弊害から脱却することを目的に、いわば教育の民営化を図ろうとするものだった。地域の先生やPTAらが自分たちがつく りたい学校を考え、教育委員会などの公的機関に認められるとその学校に生徒数に応じた公的資金が投入される制度。地域の人々と公的機関との契約で成り立っ ていて、契約期間内に目的を達しないチャーター校は「廃止」される。

 目的はいろいろあって、理科系教育に徹する学校、芸術中心の学校、不登校児を集めた学校など千差万別である。江戸時代の寺子屋を復活してもいい。ようは 教育の理念の多様化を住民に委ねるということだが、白人だけの学校が生まれたり、地域の教育格差が生まれるなど批判もあるし、廃校になるなど多くの失敗例 もある。

 地域の教育を民間に委ねるというこの制度は、もちろん地域住民による手作りの学校もあるし、まるごと教育企業に丸投げされる場合もある。アメリカ最大手 のエジソン・スクールは100校以上を運営し、7万人の生徒を抱えるという。日本の公文もアメリカでチャーター校の一部を請負っているらしい。
 
 民営化は学校全体の運営だけではない。バウチャー制度は一人当たりの教育費を計算し、私学に通う児童生徒に対して、それ相応の公的負担を行うというものである。

 チャーター校もバウチャー制度も公立校からみると、その分、予算が減額になる。教育水準を上げたり、教育環境を改善する努力を怠るとさらに生徒が減少す るという危機に迫られる。そもそもが競争原理を導入することで公立校のレベルアップを図るのが狙いだった。目的は教育全体のレベルアップだから、公だとか 民にこだわらない。最近の議論はほとんど調べていないが、ここらがアメリカ的である。

 ■教育は本当に義務なのか

 古い話だが、2000年12月5日に「私学より授業料が高い公立小中学校」というコラムを書いたことがある。
 http://www.yorozubp.com/0012/001205.htm

 日本の小中学校の公的負担が一人当たり80万円以上になっている実情を紹介したのだが、国と地方がつぎ込んでいる教育費が巨額なわりに、そのお金がどのように効率的に使われているかはほとんどブラックボックスの中なのである。

 もし公立校が民営化されたら、今以上に結果責任を問われることになり、お金の使い方もより透明化されるのではないかと思う。

 1998年3月1日には「豊かな北海道に義務教育は似合わない」というコラムも書いた。これは「北海道独立論」シリーズの一部として読んでほしかった。
 http://www.yorozubp.com/9803/980301.htm

 子弟教育はもともと私学から始まっていたが、列強の時代に富国強兵という国家要請の下に義務教育などという制度が生まれた。平和で豊かな時代に何も強制 しなくともみんな勉強するだろうという発想である。公教育を否定したのではなく、「義務」という概念に引っかかりを感じたのである。

 さて日本にチャーター校やバウチャー制度などが導入されるとどうなるか。ひょっとしたら津々浦々の塾が公教育を壊滅に追い込んでしまうかもしれない。そ んな不安もあるが、公教育のレベル向上が求められている時代にアメリカですでに定着しているチャーター・スクールについて功罪を含めて考える必要もあるの ではないかと思っている。
2005年02月02日(水)萬晩報主宰 伴 武澄
  1897年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A living God」と題して世界に紹介した日本の物語を紹介したい。安政の大津波(1854年)が紀州を襲った時、優れた村おさが村人を救った話である。その前年の 1896年には三陸地震とそれに伴う地震で2万人以上が死ぬ災害があった。

 寺田寅彦がいみじくも述べたように「天災は忘れたころにやって来る」。地震など天災に見舞われるたびに防災の必要性が語られるが、人間は忘れやすいもの である。のど元過ぎれば・・・ということわざがある通り、防災無線を各戸に配布しても、「うるさい」からといって電源を切る家庭もある。避難勧告を連発す れば、そのうち誰も避難しなくなる。

 災害が起きた後に防災を語るのは意味のないことではないが、災害がやってきた時にどう対処するかは結局、住民一人ひとりの意思でしかない。そんな思いがある。

 紹介する「稲むらの火」は昭和12年から22年まで尋常小学校の小学国語読本・巻十に掲載された。和歌山県の教師だった中井常蔵が小泉八雲の作品を読みやすくして、教材の公募に応じて採用された。

 「稲むらの火」

「これはただごとでない」。
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は烈しいといふ程のことではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは。老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであつた。

 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向に気がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸付けられてしまつた。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大変だ。津波がやつて来るに違ひない」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。

「よし」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛出して来た。そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ」
と五平衛はいきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて火の手がぱつと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべて の稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま沖の方を眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ」
と村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も若者の後を追ふようにかけ出した。

 高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思はれた。やつと二十人程の若者がかけ上つて来た。彼等はすぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言った。
「うつちやつておけ。――大変だ。村中の人に来てもらうふんだ」

 村中の人は追々集つて来た。五平衛は後から上つて来る老幼男女を一人一人数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五平衛の顔を代る代る見くらべた。

 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ、やつて来たぞ」
 たそがれの薄明かりをすかして、五平衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に細い暗い一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなった。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ」
と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかかつて来たやうな重さと百雷の一時に落ちたやうなとどろきを以て陸にぶつかつた。 人々は我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た。水煙の外は、一時何物も見えなかつた。

 人々は自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高台でしばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村をただあきれて見下ろしてゐた。

 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

 ■稲むらの火 http://www.inamuranohi.jp/index.html
 ■A living God http://www.inamuranohi.jp/english.html
2002年06月14日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 商店街が廃れ始めて久しい。地方都市では歯が欠けるように商店街から店がなくなっている。店が減るから客が来なくなり商店街の灯りはますます暗くなる。 「商店街のデフレ現象」はいまに始まったことではないが、店主が亡くなり後継者がいないと店をたたまざるを得なくなるのは仕方がないことなのだろうか。

 店主がいなくなった店の多くはシャッターが閉まったままである。買い手がいそうなものだが、どうやら新たに商売を始めるにはまだ地価が高すぎる。一方、 店主の子どもたちの多くはサラリーマンの道を選んでとうの昔に町を去っている。彼らはバブルで高値を知ってしまったから、現在の高すぎる地価を「安すぎ る」と感じ、売り急ぐ様子がない。

 商店街はそれぞれの店が繁盛していてこそ価値があったのだが、歯抜けの商店街では地価も下がる一方だ。それでも現在の地価では小規模の店舗経営ではコス トが合わないから、買い手も出てこない。そうこうしているうちに地価と商店街の価値がそれぞれスパイラル状に下落してもはや誰も見向きもしない廃墟とな る。

 商店街のことを考えている。かつて商店街は近くにスーパーが誕生するのを嫌がった。嫌がって政治に働きかけて、大規模店舗規制法が生まれた。大店法は スーパーの出店に際して店舗面積を減らさせたり、営業時間を短くさせようとした。その結果、大店法に抵触しないコンビニなどという町並みの風情を壊す業態 が栄える土壌を生み出した。

 コンビニの多くは元は酒屋である。コンビニとは名ばかりでほとんど弁当屋である。飲み物や雑誌類も売れていて、中高生の貯まり場と化し、小型ペットボトルとプラスチック容器の廃棄の元凶となっている。

 業態が変わるのは時代の流れなのかもしれないが、困ったのは商店街を仕切る人がいなくなったことである。酒屋の多くは商店街の顔役だった。かつて酒とたばことコメの販売は許認可制だったため、町内でも信用ある人物であるということになっていた。つまり酒屋は商店街の仕切り役だったのだ。

 酒屋の衰退でもっと困るのは配達という習慣がなくなったことでもある。かつて酒屋と米屋は配達が当たり前だった。自動車もバイクもなかった時代だから自 転車配達が相場だった。ご用聞きというのがいて、午前中に住宅街を回って午後には商品を配達した。朝夕は豆腐屋が笛を吹いてやってきたし、クリーニング屋 はでっかい布製の配達袋を荷台にのせて重そうだったのを記憶している。

 配達人の多くは若い丁稚たちだったが、この人たちの多くは町内の目や耳の役割を果たしていた。配達先の家族構成はもちろん町内の出来事やうわさ話も耳に したに違いない。いまでいう情報ネットワークの端末の役割を果たしていたといっても過言でない。今流にいえば、家庭内の情報が漏れるのは必ずしもいいこと でないのかもしれないが、熊さん八さん的にいえば、信頼醸成のために一役買っていたことになる

 さて話を自身に戻すと、筆者は1985年に東京に出てきて、鷺沼や新百合ヶ丘という郊外の新興住宅街にずっと住んでいた。駅前にスーパーはあっても普通 の小売店はほとんどない。だから商店街とは長い間、縁のない生活を余儀なくされていた。1997年に京都に移り住んだ時は角を曲がると大宮商店街という商 店街があって便利な思いをした。5分も歩けば日常の品物はほとんど揃う。

 店の人の顔もほとんど覚えた。子どもたちに「醤油を買ってこい」だの「もやしを買ってこい」だの言えたから子どもたちも「おつかい」の習慣を身につけ た。スーパーではこうはいかない。かわいそうに新興住宅街の多くの子どもたちは「おつかい」という習性を身につけないまま大人になることになる。

 東京に戻るとまたスーパーにお世話になる生活となった。大宮商店街がよけいに恋しくなり「商店街があってこその住宅街だ」と考えるようになった。日本の 住宅の多くはアメリカのように食料や日用品を買いだめできるように大きな収納スペースや大きな冷凍庫はないし、そもそも自転車での買い物では買える量にも 限度がある。

 だから主婦は毎日のように買い物に出掛け、スーパー自身が大量購入という本来の目的を果たしていない。日本の食卓がバラエティーに富んでいるという理由 もあって、多品種少量の買い物癖はスーパーが出現してこのかた一向に変わっていない。スーパーによる「価格破壊」も過去の物語となってしまい、もはやスー パーの存在意義はない。そうなると充実している商店街が近くにあれば、スーパーのメリットは買い物時に雨に濡れない程度でしかないことが分かる。

 ここ十年、郊外型の大型スーパーの出店が相次いでいるが、周辺道路は車の大渋滞を起こし、買い物はますます不便になっている。商店街が廃れ、駅前の小型スーパーが衰退し、郊外の大型スーパーも買い物客にとって不便となる。これでは三方損である。

 町はみんなのものである。便利な商店街が歩いていける範囲にあり、きれいな町並みがあれば、町の価値が高まるというものだ。商店街が衰退すると町全体が沈滞するのだ。

 少々乱暴な議論だが、後継者がいなくなった商店街の店舗は行政が強制収用して、競売にかけるぐらいの荒療治が必要なのかもしれない。スーパーやコンビニ が悪いといいたいのではない。日本の主婦の生活習慣と道路事情の悪さを勘案すると町並みにどうしても商店街の復活が不可欠なのである。
2002年06月07日(金)萬晩報主宰 伴 武澄


 少年のころ、切手収集が趣味だった。前島密が日本の郵便の生みの親だったことは学校で習う前から知っていた。西洋の仕組みを多く取り入れた明治政府の中 で前島密が特別の存在だったのは、列島あまねく津々浦々まで手紙を配達する仕組みをつくったのだから大変な仕事だったのだろうという思いが子ども心にも あったからだった。

 司馬遼太郎の「この国のかたち」に郵便の黎明期の話が出ていることを思い出して最近読み直した。何のことはない。庄屋をなだめすかして郵便局になってもらったのが巨大組織の始まりだったのである。


明 治政府は、維新後わずか4年で、手品のようにあざやかに制度を展開した。手品のたねは、全国の村々の名主(庄屋)のしかるべき者に特定郵便局(当時は、郵 便取扱所)をやらせたことによる。むろん、官設の郵便取扱所(のちの一等・二等郵便局)は、東京・大阪を手はじめとしてつくったが、面としての機能は、津 々浦々の「名主郵便局」が担った。

建物は、名主(庄屋)屋敷の一隅をつかうだけで十分だった。「駅逓頭」という職にあった前島密は、旧名主(庄屋)に郵便をあつかう気にならせる上で、かれ らの名誉心を十分に刺激した。まず、郵便事務が公務であることを説いた。ついで、局長は官吏に準ずるという礼遇をした。

さらには、身分は旧幕府のご家人なみの判任官とした(のち、年功の大きな者の場合、高等官にのぼる例もあった)。また、旧幕府時代の名主(庄屋)がそうで あったように、わずかながら手当がつけられたことも、かれらを満足させた。むかしの士分の禄が米だったということを重んじ、金銭で給与せず、わざわざ玄米 一日五合にするほどの細心な配慮をした。

かれらはいよいよ満足した。当然ながらこれによって、郵便事業に参加した旧名主(庄屋)層は、新政府からもそれにふさわしい礼遇をうけたとして、犠牲を覚 悟して参加した。名主(庄屋)というのは、江戸期でもっとも公共精神のつよかった層なのである。
  江戸時代に飛脚という世界にもまれな「郵便制度」があった。藩という半ば独立王国の連合体だった日本という国の中で「国境」を越えて配達された。飛脚制度 が郵便事業という近代制度に代わった時、今でいうボランティア的意識で庄屋が官吏に登用されたのだった。明治時代の日本の郵便屋さんのすごさについては 2001年12月10日号「チェチェン人が絶賛した明治のポストマン」で書いた。郵便事業がまさに「公共の福祉」だった時代である。

 この登用された庄屋は三等郵便局と呼ばれたが、戦後になって「特定郵便局」と名称が代わる。郵便法には「公共の福祉」という文言は残るが、やがて地方の自民党の集票マシンや利権組織に変貌するのだからどうも悩ましい。

 郵政事業の民間参入について、「ヤマト宅急便」の生みの親である小倉昌男さんが月刊現代7月号に「本気で郵便事業の民間参入を実現させるならことは単純 明快です。郵便法5条を撤廃すればよいのです。これだけで明日からでも民間参入は実現します」と書いている。

 目からうろことはこのことだ。日本の悪いくせは、リストラだとか規制緩和を行う時に現在ある制度を廃止せずその上に新たな決まりをつくることである。古 い温泉宿のように継ぎ足しで大きくなった建物は新館といえども旧館の延長でしかない。古い土台の上に家屋を建てても古い家の枠組をひきずるだけ。真新しい 家を建てるには土台から壊すことが肝要なのだ。


【郵便法】
第2条 郵便は、国の行う事業
第5条 何人も、郵便の業務を業とし、又、国の行う郵便の業務に従事する場合を除いて、郵便の業務に従事してはならない。ただし、総務大臣が、法律の定めるところに従い、契約により総務省のため郵便の業務の一部を行わせることを妨げない。
2 何人も、他人の信書の送達を業としてはならない。2以上の人又は法人に雇用され、これらの人又は法人の信書の送達を継続して行う者は、他人の信書の送達を業とする者とみなす。
3 運送営業者、その代表者又はその代理人その他の従業者は、その運送方法により他人のために信書の送達をしてはならない。但し、貨物に添附する無封の添状又は送状は、この限りでない。
4 何人も、第2項の規定に違反して信書の送達を業とする者に信書の送達を委託し、又は前項に掲げる者に信書の送達を委託してはならない
2002年02月21日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 2月17日付朝日新聞朝刊に「群馬県の中に世田谷区?/川場村160キロ越えて合併検討」という記事が出ていた。これこそが本来の市町村合併なのだろうと、目からうろこが出る思いがした。

 川場村には行ったこともないが、小学生の三男が昨夏、林間学校に行き楽しい思い出をつくってきたからきっといいところなのだろうと想像している。世田谷 区と川場村とは20年前に共同でつくった保養・研修施設の拠点に毎年、小学5年生が相互訪問し、すでに100万人の区民が宿泊しているそうだから、川場村 が全国的に知名度が低くくとも世田谷区民の多くにとってはとても近い存在なのだ。

 合併には東京都と群馬県の議会の議決が必要ということでハードルは低くはない。川場村自身、近隣の沼田市などの合併話が浮上しているが、横坂太一村長は「近いから合併するという考えだけでいいのか」と世田谷区との合併に前向きなのだそうだ。

 何がいいかといえば、まず第一に川場村にとっては財政的に都市部との格差是正が一挙に進むと考えられ、世田谷区にとっては自然が増えるということであ る。将来的には都会の住民にとって農産物の安定的確保だとか休暇圏や農村定住化構想といったこれまで不可能だった発展発想にもつながる可能性が高い。

 世田谷区にも川場村にも発想の転換をもたらすのがなによりだ。

 ●地名は歴史であり、苗字の由来でもある

 現在、全国的に自治体の合併が進んでいる。合併を進めると交付金が増えるというのが動機だ。そもそも3000を超える市町村が狭い国土に存在することが無駄だというお上の発想がある。

 はたして自治体が多く存在するのは意味のないことなのだろうか。過去の日本では合併で数多くの意味のない地名を誕生させてきた。筆者の郷里の高知県では 土佐市、土佐町、中土佐村、土佐山村、西土佐村と土佐の名のつく市町村が5つもある。南国市、大正村などというものつまらないネーミングだ。

 他の都道府県にも挙げれば切りがないほど不可解な地名が多く誕生した。その二の舞が平成時代にも起きようとしているのだ。

 かつて住所地番を大幅に簡略した「改革」もあった。外から来た人には分かりやすくみえるが、住んでいる人はしばらくとまどった。改革を拒否したのは京都 市ぐらいであろうか。住んでみるとあのややこしい京都市の住所は理路整然としていて分かりいいのである。道を基準に住所を表示する方法はけっこうなグロー バル・スタンダードなのだ。

 地名は歴史そのものだ。苗字の発生源でもある。京都市に二年住んで分かったことは室町時代という時代区分や歴代天皇の呼称がほとんど地名や道に由来していることである。

 これまで戦争や為政者の交代で地名が変わることはあったが、平和時に地名変更や市町村の合併など聞いたこともない。この国の役人たちは数十年ごとに地名 を変えるのを趣味としているのだろうか。まさか自立を目指す傾向が強い自治体政治をもう一度中央に向けるために交付金増額などというアメをちらつかせてい るのではあるまい。

 ただ役人というものはとかく仕事をつくりたがる習性がある。暇にしていると食い扶持がなくなるのを心配して市町村合併の旗振りをしているのだとしたらとんでもないことだ。金融危機、成長力の減退など今の日本にはそんな役人に付き合っている暇はないのだ。

 お上の発想を覆し、日本に新たな転換を促すために、川場村と世田谷区にはせひ奮起してもらいたい。

 【追記】その後、万場町は2002年4月、中里町と合併して神流町となることが決まった。

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