伊勢国酔夢譚の最近のブログ記事

sominnsshourai.jpg 師走も半分が過ぎ、注連飾り(しめかざり)が話題になる時期になってきた。そもそも注連縄は、神社などで結界を示すしるしとして稲わらなどを束ねて巻き、紙を切った紙垂(しで)を挿したものである。それが正月になると個人の家の玄関や門に飾るようになった。各地で特徴のある注連飾りが飾られているが、伊勢・志摩では一年中、注連飾りがあるのがおもしろい。

 伊勢市を歩いていて真っ先に気になったのは、この注連縄だった。注連飾りに文字が書かれ、半分くらいは「蘇民将来子孫家門とあるから目立つのである。神領民といわれる市民だけあって信仰深いのだとも思ったが、そもそも伊勢神宮の正宮、別宮、摂社、末社が4市以上にまたがって点在している広大な神域であるから結界も何もあったものではない。伊勢、志摩ではそこかしこに神が宿っているのである。

 注連縄で思い出すのは、大相撲の横綱である。土俵入りに締める太い綱は稲わらではないが紙垂があり、注連縄そのものである。古来日本では舞や演劇は神に奉納するもので、相撲もまたその作法を継承したから、神事が伴う。相撲で仕切りの前に拍手を打ったり、塩をまいたりする所作は神道そのものである。力士の相撲が神技になってようやく横綱になれるのだから、最高位の力士が注連縄を締めても一向におかしくない。

sominnsshourai700.jpg 伊勢市では毎年四月に大相撲の地方巡業場所が開催される。毎年開催されるのは伊勢市だけである。横綱が伊勢神宮に土俵入りを奉納するしきたりがあるため、伊勢市民は毎年、大相撲を観戦できる栄誉に恵まれている。それしても筆者が津支局に在任した2004-2006年は横綱が朝青龍一人だけだったから、モンゴル人である朝青龍のみの土俵入りとなった。大相撲会を代表した年一回の神さかへの儀式が外国人によって続けられることにある感慨があった。神道の儀式をここまで見事にまっとうできるなら国籍の有無に関係なく「日本人」なのだと考えさせられた。

 話を注連飾りに戻す。伊勢と志摩では年中、注連飾りを飾り、多くに「蘇民将来子孫家」の文字が入っていることはすでに書いた。理由はスサノオノミコト伝説にあるらしい。詳しくは聞いていないが、以下のような話である。 ある村に二人の兄弟がいた。旅をしていたスサノオノミコトが一夜の宿を探していたところ、お金持ちの弟の巨旦(きょたん)はスサノオの汚れた身なりを見てことわった。貧しい兄の蘇民将来は家に行くと、招き入れもてなしてくれた。スサノオは蘇民の妻となっていた巨旦の娘に茅の輪を授け、蘇民の家に今後、「蘇民将来子孫家」と書いた護符をつけるよう命じ、巨旦の一族を滅ぼした。おかげで蘇民将来の一門は疫病や災難を免れたという。その護符が伊勢や志摩の注連飾りとして伝わり残っている。

 蘇民将来伝説は日本各地に残っていて、「茅の輪くぐり」によって疫病から免れる儀式が執り行われているが、注連飾りに無病息災を託す風習は伊勢と志摩だけのもののようだ。(伴 武澄)

DSCF0009.jpg 伊勢神宮が現在の地に祀られたのは天武・持統天皇の時代とされる。天皇家のご先祖さまである天照大神を祭神とする内宮と豊受大神を祀る外宮に分かれ、二つの正宮を持つ不思議な神社である。天皇支配の時代に立てられた皇祖を祀るための神社で、豊受大神と並んで崇拝されてきたことが興味深い。

 両正宮には天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は許されていないから、ご神体を拝むなどということはありえない。神秘の世界である。もちろん衛視が目を光らせていて写真撮影などはご法度である。

 正式な参拝は外宮を先に参って、後に内宮を参るというのもおもしろい。地理的にいって、奈良や京都の都からやってくると、宮川を渡って神域に入るため、北側にある外宮が先だといわれれば納得できないこともない。しかし、それでは皇祖がないがしろにされているような気になって仕方がない。

 そもそも分からないのは、皇祖を祀る伊勢神宮が伊勢国度会郡に存在することである。都から遠隔地であっても天孫降臨の地にあるのだったらまだ理解できるが、奈良の明日香から山を越えたはるか東方に位置するのだから、説明不能である。

 それにしても歴代天皇が伊勢神宮を参拝した記録はなく、明治天皇が江戸への行幸の際に参られたのが、最初だというから不思議だ。平安末期には熊野信仰が盛んとなり、後白河上皇は34回も熊野詣でをされている。天皇であっても行幸は一般的だったから、皇祖参拝があってもおかしくない。

 歴代の天皇は皇祖を祀るために、皇女を斎宮(さいくう)として伊勢の地に派遣した。この制度は平安時代になっても続いた。斎宮は実は京都の上賀茂神社にも送り込んでいたから、賀茂はまた別格の待遇だったといえよう。斎宮は神に仕えることから穢れと仏教用語を忌み詞として禁じていた。

 また伊勢神宮は二つの正宮にそれぞれある別宮、末社摂社を含めると計125の社があり、その範囲は4市2町にまたがる。その一帯は神領とされ、律令制度の国衙の管理下にはなかった。単なる一神社ではなく、イタリアのバチカン公国のような存在ともいえるかもしれない。

 神さまの社を一般的に神社という。日本最古の神社は奈良の大神(おおみわ)神社とされるから、伊勢神宮はそれより相当に新しい。にもかかわらず神宮といえば伊勢神宮のことだった。いまでもし正式名称は宗教法人神宮である。

 神社にも格がある。江戸時代まで、神宮といえば「お伊勢さん」のことで、そのほかに神宮を名乗ったのは熱田、鹿島、香取の三神宮、大社は出雲と熊野のみだったそうだ。神宮が神社の上にあり、大社は別格ではないかと考えている。
DSCN0804.jpg 久しぶりに伊勢神宮を訪ねた。早朝の木漏れ日が美しかった。再来年10月、この地で式年遷宮が行われるのはご存知であろう。

 内宮にある山田工作所では宮大工による槌音が響いている。その日のために150人の宮大工が日々、社殿の木造りに励んでいるのだ。たぶん日本で最高レベルの木造建築の技が磨かれているのだと思うと厳粛な気持ちにならざるを得ない。木造で日本一ということは世界に類を見ないということにもなる。

 式年遷宮は神道の宗教儀式であるとともに、日本に伝わる古来の伝統木造技術の伝承のためにあるとさえいわれている。コンピューター抜きで生活ができない21世紀に、伊勢神宮だけは別世界といっていい。コンピューター技術に劣らない精緻な作業が宮大工たちによって続けられているのだから、ユネスコの世界遺産などとは異次元の人間の知恵と技による空間である。この時代に、何とも表現しがたい気持ちにさせられる。

 伊勢神宮の参拝者は年間400万人を数える。式年遷宮の年には倍増するといわれているが、今年は遷宮2年前にもかかわらず800万人に近い参拝者になるとみられている。遷宮に向けて国民の関心も否応なく高まっているのだそうだ。

 伊勢神宮の社殿はすべて萱葺きである。萱職人もまた全国から集められ、今年4月から工作所で働いている。新しく葺き替える屋根は40棟近くあるため、使用する萱の量も半端でない。山田工作所には専門の萱小屋が4棟もあり、8年かけて刈り取られた萱ですでに満杯となっている。萱の一束は1メートル20センチの縄で束ねられており、重さは約40キロ。それが2万3000束を数える。

 遷宮の作業を7年前から日々、記録している人がいる。伊勢文化舎の中村賢一さんである。かつて伊勢市に「伊勢人」という隔月の雑誌があり、その編集者でもあった。7年前、遷宮の儀式が始まり、ご神体を奉納する器である御樋代木(みひしろぎ)をつくるご神木を切り倒す壮麗な儀式が木曽山中のヒノキの天然林であった。偶然となりに座っていたのが、中村さんだった。たがわず伊勢の生き字引のような人だった。12日の夜、その中村さんと遷宮について語ったことも付け加えておかなければならない。(伴 武澄)
img_746686_58461236_1.jpeg 伊賀は甲賀とともに忍者の里である。伊賀は律令制度下の伊賀国であるが、甲賀は近江国の一角である。行ってみるまでは実感はないが、ふたつの忍者の里は緩やかな山並みをはさんで南北に隣り合わせている。

 伊賀や甲賀がなぜ忍者の里になったのか、不思議である。忍びというからには、ともに山がちな地形を想像したくなるが、これがそうでもない。伊賀も甲賀も 盆地であり、豊かな田園が広がる。古代からの日本の幹線道である東海道は甲賀のど真ん中を貫き、伊賀の東北部を通る。だから決して人里離れた里ではなかっ た。そうと分かるとなおさら「なぜ」という疑問が強まる。

 忍びのくせにといっては差別的な表現になるが、忍者の親玉と考えられている服部半蔵は元は伊賀の服部一族だが、三河で徳川家康に仕え、1590年の家康 の関東入国後は与力30騎、同心200人を配下に置く8000石の堂々たる地位に上り詰め、江戸城西側の門外に屋敷を与えられた。江戸城で人名が付いた門 は半蔵門しかない。服部半蔵には忍びのイメージはかけらもない。

 伊賀国が歴史上特異なのは戦国大名を持たなかったという点である。伊賀盆地の中央には名張川が流れ、木津川と合流して大阪湾に注ぐ。イメージとして水は 伊勢湾に流れるように思われるが、実は水系を通じて大和朝廷と強い絆を持っていた。しかも盆地の扇状地は大河の氾濫からまぬがれるなど古代においては理想 的な耕作地帯だった。

 古くは東大寺の荘園としてその地盤を築いた。荘園は穀倉だけではなかった。僧兵の供給地でもあった。僧兵がいたからだろうが、武士が育たなかった。その結果、鎌倉以降も地頭や守護による支配が緩かったから戦国大名もいなかった。その点で日本では特異な歴史をたどった。

 封建領主がいなかったのはたぶん、僧兵が存在したおかげなのだろうと思っている。僧兵の親分は東大寺で、しかもその東大寺は山を越えたところに厳然としていた。それでも戦国時代には藤林、百地、服部の上忍三家が地侍を配下におき、合議制で伊賀地域を支配した。

 伊賀で面白いのは忍者だけでない。観阿弥、世阿弥という能樂師集団の長を生み、俳句を完成させた松尾芭蕉を育んだ歴史を持つことである。芸能と文学をレ ベルの高い生業に生まれ変わらせたのだからこれは革命である。それも忍びの者が担い手だったという説もあるのだからなおさら興味深い。

 昭和37年、伊賀上野の旧家から「上嶋家文書」の江戸末期の写本が見つかり、観阿弥の父親が服部一族の上嶋元成で、母親は楠木正成の妹だったということ が書かれていた。上嶋文書については偽書であるという説もあるが、観阿弥の子どもの世阿弥は「花伝書」で自らの先祖について「服部一族である」と書いてい るそうだ。楠木正成の甥であるかどうかは別として忍びの一族が旅芸人の猿楽師だったことは間違いない。

 情報の集積が商人集団を生んだことは確実である。近江商人や松阪商人はその典型であろう。古来、街道沿いを往来する人々が情報の運び役となった。政治や 経済だけでなく、各地で起きたこもごもの悲喜劇もその情報に含まれるだろうことを省みると、街道沿いに芸能や文学が生まれたとしても不思議ではない。

 芸能の原点は、村祭りの出し物であろう。踊りや歌に併せて演劇も行われた。その中で秀でたグループが領主に招かれ、さらに選ばれて都にまで足を運んで演 じた集団もあった。時代の為政者のめがねにかなったとなれば、その評判は全国に広がり、それこそ"興行集団"として成り立ったのだろう。

 そんな集団の一つが観阿弥能楽座だったはずである。

DSCF0028shiroko.jpg 2月、氷雨が降る中、大黒屋光太夫のふるさとを訪ねた。津から伊勢若松まで近鉄列車に乗って、コンビニも食堂もない駅前を歩き始めた。金沢川を北に渡って小さな露地に入ると、「大黒屋光太夫の供養碑」という小さな目印があった。少し歩いた若松小学校の校庭にロシア服を着た小ぶりの光太夫像もあった。小学校に資料館もあったが、休日で休館だった。

 その後、立派な資料館が建てられ、町を挙げて光太夫を顕彰しているが、2004年の2月当時、光太夫を偲ぶよすがはそれだけしかなかった。  井上靖氏が光太夫を主人公として小説『おろしや国酔夢譚』を読んだのは随分とむかしのことであるが、16歳の多感な時代に読んだ忘れられない1冊となっている。南アフリカのプレトリアから帰国したばかりだった。

 主人公の光太夫は白子若松の船頭で、江戸時代、ロシアに漂流。苦節十数年、エカテリーナ女帝に拝謁してようやく帰国の願いがかなうが、恋い焦がれた日本で再び自由を失う。  鎖国を国是としていた幕府にとって光太夫は招かれざる「客」だった。光太夫はラックスマンに伴われて松前に到着したが、その後、番町薬草植付場に幽閉され、外部との接触を断たれた。

  一緒に帰国した磯吉に「俺たちはなんで国に帰りたかったのか」と問う場面がある。 「俺はな、俺は、俺はきっと自分の国の人間が見ないものをたんと見たんでそれを持って国へ帰りたかったんだ。あんまり珍しいものを見てしまったんだ。それで帰らずには居られなくなったんだ。見れば見るほど国へ帰りたくなったんだな。......だが、今になって思うと俺たちの見たものは俺たちのもので、他の誰のものにもなりやしない。それどころか、自分の見て来たものを匿さなければならぬ始末だ」

 当時、南半球の地の果てで白人による有色人種差別が厳然とあった。400万人の白人がその5倍の黒人たち有色人種を支配する時代錯誤がまだあることに大いなる絶望を見た。そのことを知らせたくて日本に帰った。待っていたのは自らの体験を隠さなければ生きていけない日本という閉鎖社会だった。 『おろしや国酔夢譚』を読んで、「江戸時代も今も日本は変わらないじゃないか」という思いが募った。

  光太夫やは70歳過ぎまで生きたが、日本人との接触をほぼ断たれたまま、半生を送った。唯一、桂川甫周によって、光太夫らの奇数な体験は書き留められ、「北槎聞略」という書き物として残った。江戸時代、この書物は公表されることなくお蔵入りとなっていた。井上靖氏なかりせば、光太夫の物語は日の目を見ることなく、白子の人たちにもまったく知られないまま埋もれていたかもしれない。
  
 白子そのものが、現在は鈴鹿市の一部となってその存在が埋没しているが、江戸時代は回船問屋が多く集積する伊勢の主要港だった。白子港は紀伊和歌山藩領だった。江戸時代にこうした飛び地は多くあった。三重県の南半分が紀伊だったことはすでに書いた。実は松阪も白子も紀伊徳川領だったのだ。藩主の参勤交代は和歌山から山越えで伊勢に出て櫛田川を下って松阪に出て、さらに陸路を白子まで北上して、船で知多半島に渡ったとされている。なぜ難路を選んだのか分からない。大名行列で使われる多額の路銀はなるべく自領内に落とすべきだと思ったに違いない。

 伊勢は木綿織物の有数の産地だった。江戸のコットン・ファッションは伊勢に支えられていたといっても過言ではない。織物の他にプリント地の反物もあった。そのプリントの図柄を厚紙でつくっていたのが白子の職人たちだった。伊勢型紙といった。白子の職人たちは毎年、新作のデザインを描き全国の染色屋が競って購入したのだという。江戸家上方の反物屋は白子をコットン・ファッションの発信地だと認識していたはずだ。  『おろしや国酔夢譚』は光太夫の回船の積み荷は米のほか「木綿、薬種、紙」などだったと書いている。(伴 武澄)

 三重県庁にあいさつに行くとパラオの話が出た。友好姉妹関係にあるのだ。クニオ・ナカムラ大統領の父親にあたる人が実は伊勢市の船大工で戦前にパラオに渡ったのだという。パラオには2002年に行ったことがあるので三重県が近いものになった。

 パラオはグアムからさらに飛行機に乗り継がなければならない。日本列島のほぼ南4000キロにある島国だ。第一次大戦で日本の委任統治領となって 日本からの定期航路もできて発展した。戦前、パラオの巨大な環礁の内海は帝国海軍の泊地ともなっていた。1994年独立して、ナカムラさんが大統領になっ たくらいだから、日本人姓を持つ人も少なくない。

 三重県からパラオに思いが転じてしまった。海女がナマコも獲物としていたことを思い出したからである。鶴見良行氏に『ナマコの眼』という名著がある。鶴見さんはアジアの辺境に独自のアプローチから数々の価値を見出した民俗学者でもあると思っている。

 日本人はナマコを生で酢ものなどで食するが、中国人にとっては貝柱、アワビなどとともに珍味の一つである。高級食材といっていい。中華料理では乾物のナマコを水で戻して煮込む。日本人はコリコリ感を楽しみ、中国人はプリプリ感を好む。

 江戸時代、日本産のナマコは俵物として長崎から大量に輸出された。明治になると日本人はそのナマコをパラオに求めた。太平洋の島々で日本人によって採取 されたナマコは乾物となってほとんど中国人の胃袋に入っていった。南洋群島が日本の委任統治領となると、さらに多くの日本人が一獲千金を求めて太平洋の島 々を目指した。

 日本人はさらに南下してオーストラリアのアラフラ海のシロチョウガイを狙った。プラスチックが生まれる前のボタンの素材だった。ナマコもシロチョ ウガイもともに採取は海女の仕事である。南洋に亘った海女は女ではなく、ほとんどが男たちだった。『ナマコの眼』によるとその日本人とは主に紀伊と糸満の 漁民だったという。

 鶴見さんのナマコの眼と通すと、パラオと三重県がつながるのである。紀伊は明治以降、東半分が三重県に編集されたから、紀伊といえば三重でもあるのだ。

 明治時代の漁船にエンジンがあったとは思えない。そんな時代に紀伊の漁民は4000キロ南の漁場を行動範囲としていたのだから、なんとも勇壮な話 である。現在のパラオの人口は2万人に満たない。最盛期には8万人を超えていた。減少分は日本人の数である。多分パラオでは日本人の方が地元民より多かっ たはずである。つまり紀伊から万単位の漁民がパラオに渡っていたということになる。

 紀伊の漁民がパラオに出稼ぎに行き、裕福な中国人の胃袋を満たし、先進国のシャツの胸元を飾っていたと考えるとわくわくするではないか。

 飛鳥山について書きたい。JR王子駅の西側にある公園のキーワードは「飛鳥」と「王子」である。

 飛鳥山のサクラは八代将軍吉宗がサクラを植えさせ、庶民に開放したところから始まるのだが、この地になぜ「飛鳥」(あすか)の地名があるか。飛鳥 といえば、多くは奈良盆地の飛鳥を思い浮かべるのだと思う。現在、地名としては「明日香村」だが、昭和の大合併までは飛鳥村と表記した。

「飛鳥」の二文字をどうして「あすか」と読ませるにいたったかは実は分かっていない。

 さて飛鳥山である。佐藤俊樹著『桜が創った日本』などによると、元享2年(1322)、当地の武士、豊島影村が紀伊国の守護人に補任され、熊野か ら「飛鳥王子」を勧請して若一王子宮として祀った。神様の名前が地名の「王子」として残り、山の名前として「飛鳥」が根付いたというのだ。

 熊野信仰は平安末期、後白河法皇の時代、頂点に達し、鎌倉時代に「蟻の熊野詣で」という言葉が生まれた。いずれにせよ、相当古い。サクラの名所となるのはそれからさらに400年の年月を必要とした。

 紀伊半島の南部を旅したとき、賀田(かた)という寒村に泊まったことがある。朝、一帯を散歩して「飛鳥神社」という古い社に偶然出会った。川を 遡ったところに飛鳥という在所もあった。なぜこんなところに「飛鳥」があるのか不思議だった。後にインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。
                        
「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀(あすか)神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組 に属していました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」。 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま)) があった」というのだからなぞが解決されたわけではない。
                        
 現在の賀田は単なる漁村だが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた徐福が上陸したとされる波田須(はだす)に近く、神武天皇が大和に入るため上陸したと伝えられる楯ケ崎にも隣接する。神話とロマンの残る地でもある。

 東京都北区王子が、800年前から熊野と深いつながりがあったことを偲ぶだけでも飛鳥山を訪ねる価値があると思うのだが、どうだろう。

旅の免罪符

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 江戸時代には、神宮などといういかめしい呼称はなかった。単に「お伊勢さん」といって親しまれ、毎年、30万人から40万人の参拝客があった。天照大神とは知っていても、たぶん皇祖神という意識も希薄だったのかもしれない。

 国の出入りが厳しく制限された時代に、伊勢参りといえば、誰でも通行手形が発行されたのだそうだ。手形すら持たずに、突然伊勢参りに旅立つ人も少なくなかったとされる。ぬけ参りといって、店先で掃除をしていた丁稚が突然いなくなり、数ヵ月後に帰ってくるということがよくあった。そんな丁稚であって もお伊勢さんなら仕方がないという風情もあったという。

 往復で1カ月以上もかかる伊勢参りにはお金もかかるが、それだけの満足感を与え続けたから、伊勢神宮には門前市をなした。30万人といえば、現代 の感覚でいえば大したことではないが、汽車も自動車もない時代である。しかもこの地に一週間ぐらいは滞在したから、参拝客の存在感でいえば100万人とか 200万人という感じではないかと思われる。当時の宇治山田の人口は2万人内外とされているから、その賑わいのほどが分かろうというものである。

 通常の伊勢参りとは別におかげ参りといわれた、爆発的な参拝が何回かあった。多い年には300万人から400万人が訪れたという。宮川の渡しで実 際に乗船客を数えていたのだから、現在の観光客の数え方よりよっぽど正確な数字なはずである。今でも花火大会やサクラの季節に町の人口の何倍もの観光客が 押し寄せたことがニュースになるが、時代は江戸である。歩くことしか移動の手段がなかった。その上、伊勢参りは通常、農閑期に旅立たれたから、晩秋から春 先に集中していたから、その賑わいは想像を上回るものだったはずである。

 人々の旅は伊勢では終わらなかった。京都や奈良の古都巡りや熊野詣で、金比羅参拝にも及んだ。伊勢参り以外では通行手形が出にくかった時代であるから、一生の思い出にと名所旧跡を歩いた。伊勢参りはまさに旅の免罪符のようなものだったようだ。

 その後、親しくなった三重交通の服部忠勝さんから聞いた話である。1990年代に東京支社に勤務中、バス旅行を企画して会津若松の農協を訪ねた ら、驚くべきことに伊勢講が現存していたという。服部さんがさらに驚いたのは、「香港に行きたいが、その露払いとして伊勢参りをしたい」という相手方の要 望だった。しばらくは合点がいかなかったが、ハハーンと気付いた。まだ免罪符の感覚が会津には残っていたのだった。その団体客はめでたく伊勢神宮参拝の後に関西国際空港から香港へと旅立ったそうだ。(伴 武澄)

宇治と山田

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 伊勢市はかつては宇治山田町といった。宇治山田町は、明治22年の町制施行によって宇治と山田が合併して誕生し、同39年に宇治山田市となった。伊勢市と呼び変えたのは昭和30年のことである。宇治も山田も丘陵をはさんだ別の町なのである。

 天照大神を祀る内宮があるのが宇治で、豊受大神を祀る下宮があるのが山田である。別の町といったのは、水系が違うからである。宇治は五十鈴川のほとりにあり、山田は宮川と勢田川にはさまれた土地に発展した。

 興味深いのは、琵琶湖から流れ出る川を瀬田川といい、その後、宇治川になってさらに淀川と呼ばれて大阪湾に流れ込む。伊勢の勢田と宇治がそのまま 近江で瀬田川、山城で宇治川となる。伊勢国の隣りの志摩国の鳥羽という地名も宇治川のほとりにある。地元の人にその関係を聞いたが誰も答えられなかった。

 伊勢神宮が確立したのは天武の時代だったとされるが、大津京を営んだのはその前の天智天皇だったから、どちらの地名が古いのか分からない。

 さて宇治と山田とどちらが古いかという問題もある。これはエッセイで書けるような代物ではない。伊勢神宮の由来に関わる重要な学術的問題である。 お話としては、飛鳥の地から天照大神が遷され、その後に天照大神が一人で食事するのは寂しいといったので、食べ物の神さまである豊受大神が呼ばれたことに なっている。しかし、どうやら順序は逆のようなのである。

 皇祖を祀るということになれば、天照大神が先でなければ辻褄が合わないし、内宮と外宮ということからも天照大神が先でなければならない。伊勢神宮全体としては天照大神が中心的祭神となっているのは当然のことなのだ。

 ところが地理的に天照大神にとって残念なことがある。伊勢神宮に入るにはどうしても宮川を渡らなければならないので、どうしても山田の町の方が賑わうことになったし、江戸時代に伊勢神宮を管理する奉行所も山田に置かれたから宇治の人々は我慢がならない。

 伊勢参りで賑わう門前町は実は宇治と山田を結ぶ丘陵の道の両側に発展した古市だった。江戸の吉原、京都の島原、伊勢の古市とは江戸時代の三大遊郭 である。歌舞伎も江戸と上方のほかにその古市にもあった。古市の遊郭は70軒、遊女1000人を超えていたというから大変なのもである。江戸と上方と違う のは客はほとんどが農民だった。馴染みの旦那衆が支えた文化ではなく、田舎の一見さんたちが散財する文化だったことである。

 残念なことに古市は戦前まであったが、アメリカ軍の空爆でほぼ全焼してしまい、現在「麻吉」という旅館だけが一軒残って旅館として続いている。もちろん遊郭などというものはまったくないから、世の男性は期待などしてはいけない。

 現在はどうか。もちろん内宮の方が勝っている。赤福が「おかげ横丁」というレトロ感覚の門前町を形成して以来、参拝客で賑わい、下宮は近鉄の伊勢市駅前であるにもかかわらず閑古鳥がないている。(伴 武澄)

宗教法人神宮

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 津支局長となって最初の仕事は伊勢神宮へのお参りだった。2日後の日曜日に近鉄に乗って伊勢市に向かった。伊勢市駅を降りて、参道をしばらく歩く と大きな鳥居があってこれが伊勢神宮かと気付く。道案内は入らない。なんとそこは外宮といって豊受の神さまが祭られた社で、天照大神を祭る内宮はバスに 乗っていかなければ行けないという。初めて内宮と外宮という二つの社があることを知った。ちなみにそれぞれ「げくう」「ないくう」と読む。

 伊勢神宮は天皇家の皇祖を祭る単なる神社ではないことは参拝をしたことのない人でも知っているが、内宮と外宮とあって、併せると125にも及ぶ社 を抱えた巨大な神域であることは参拝して初めて知ることになる。これらの社は近隣市町村にまたがる約20キロ四方に点在する。20キロ四方といえば、東京 都の23区部に匹敵する空間である。宗教装置としてはたぶん世界最大規模である。その広大な神域が1300年にわたり経営されてきたことに畏怖の念を感じ ざるを得ない。

 やがて知ることになるが、この宗教装置の正式名称は宗教法人神宮といい、そこに伊勢の文字はない。最上位の神を祭るから、英語で唯一神を 「God」と大文字で表現するように固有名詞は必要としなかったらしい。多神教といっても神々の世界に君臨しているのが「神宮」なのである。なんとも神々 しい響きである。

 諸説によると、明治になるまで「神宮」を名乗ることができたのは、熱田神宮、香取神宮、鹿島神宮の4カ所だけであったという。熱田神宮は日本武尊 の草薙の剣を神宝とすることで知られるが、なぜ常陸の国の香取と鹿島の神々が神宮と名乗るのかいまだに分からない。大和朝廷にとってこれらの地の神々を上 位に祭る何らかの重大な意味があったはずなのだ。

 樫原神宮、平安神宮、明治神宮、宮崎神宮など各地に神宮があるではないかという指摘があるかもしれない。それらはすべて明治維新以降の創建された社なのである。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%AE%AE

神戸と神田

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 生まれ故郷の高知市に神田という地がある。「こうだ」と呼ぶ。市内を東西に流れる鏡川の南のかなり広い区域で、今は住宅地であるが、子どものころ は鏡川が決壊したときの遊水地帯として田んぼだらけだった。東京にも下町に神田はある。少年時代から慣れ親しんだ地名であるが、三重にやってきて神田とい う地名が全国各地にあり、それぞれに特別の意味があることを知った。神社が所有する田んぼであり、収穫は神のものとされた。

 神戸の方は神社が所有した民で、三重県に三カ所ある。一カ所は鈴鹿市の伊勢神戸、もう一カ所は津市神戸、そして近鉄大阪線沿線の青山高原の麓に伊 賀神戸駅がある。ともに「かんべ」と呼ぶ。鈴鹿市はサーキットとして世界的にも有名となっているが、地名としては新しい。昭和17年、神戸と白子など隣接 する町村が合併して命名された。

 鈴鹿市の神戸はかつては伊勢国河曲郡神戸郷といわれた。桓武平氏の一族関盛澄が神戸郷に住んで、はじjめて神戸氏と名乗った。北伊勢に勢力を張っ ていたが、7代目の具盛のときに織田信長に攻め込まれ、信長の三男信孝に家督を譲ることで和睦。変節を経て江戸時代には神戸藩、明治時代の廃藩置県ではほ んの一時期、神戸県として存在した。

 さて、「神戸」である。古代には神の「部民」として伊勢神宮の私民が住んでいた。大化の改新の公地公民制以前、大和朝廷が中央集権体制となる前に各地に多くの「部」があった。品部(しなべ)、曲部(かきべ)など地方豪族が私民である「部」を抱えていた。

 伊勢神宮は天皇家以前には度会の神さまだった。天皇家と融合するぐらいだから、度会の神さまは全国の有力な神さまのうちの一人だったに違いない。 その度会の神さまの「部民」たちが住んでいたため、神戸と呼ばれた。いってみれば、神宮領である。もちろん度会の神さまを祭る社を神宮と読んでいたとは思 われない。もちろん私領であるから、租税は課せられない。免税地区である。

 免税といっても神宮を維持する資材労力を供給する立場にあったから、部民にとっては神宮に対する"租庸調"があったはずであるから、部民の負担は公地公民制とそんなに変るはずがない。

 度会は現在の伊勢市を中心とした伊勢国の地域の呼称である。伊勢神宮創建以来、度会は明治になるまで「神領」として特別の地位にあった。律令制の 時代も武士の時代になっても「神領」だった。江戸時代にはさすがに行政的には徳川の天領となって代官が置かれたが、代官が権力を行使したのは司法警察権だ けで、年貢の取立てはなかった。その時代になると神戸は単に地名として残っていただけで、伊勢神宮の神領ではなくなっていた。

 ともかく律令制の時代が終わるまで、度会の「神領」の飛び地として神戸があったと考えれば分かりやすい。伊勢湾沿いにそんな飛び地が多くあり、その地に住む民は伊勢神宮の維持のために年貢を捧げ労力の提供を義務付けられていたのである。

 三重県の神戸は残念ながら鈴鹿市の誕生によって歴史に名をとどめるだけとなった。兵庫県神戸市は明治以降、貿易都市として国際的にも台頭するが、それまで神戸といえば、伊勢の神戸藩のことを指した。ちなみに神戸市の神戸は生田神社の部民が住んでいた地とされる。

 正月に京都の上賀茂神社を訪ねて驚いたことがあった。松村権禰宜によると鴨氏の先祖は八咫烏(ヤタガラス)だというのである。日本書紀によると、神武天皇の東征に当たり、熊野から大和に導いたのが3本足のカラス、八咫烏だったとされる。

 元々は、中国の仙境、崑崙にいたとされる西王母伝説の中に9つの太陽とともに3本足の赤いカラスが登場する。八咫烏の八咫(ヤタ)は大きなという 意味だそうで、「八咫鏡」などの用法がある。広辞苑によると「神魂命(かむむすびのみこと)の孫、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身」なのだ そうだ。八咫烏は日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークにもなっている。

 熊野本宮に行くと、カラス文字で書かれた午玉宝印(ごおうほういん)という不思議なお札がある。


熊野を考える

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 紀の国は木の国であり、鬼(き)の国でもある。つまり紀の国は木がたくさん繁っていて、鬼がいる土地柄ということになる。多くの本に書いてある。 筆者の考えではない。イメージとしては、深い樹林が一帯をおおっていて、昼なお暗い。中上健次の世界でいえば『木の国、根の国』となる。ならば鬼ってのは 何なのか。思いを語りたい。

 江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門は「きのくにや」と読むのだが、どうして「紀伊国」が「きのくに」となるのか不思議に思う方も少なくないと思 う。実は旧国名の紀国は「きー」と読みが長音化し、さらに「きい」と二音節化してやがて「紀伊」となったという。奈良時代、朝廷は「国名は二字」と決め た。

 江戸時代の紀伊国は現在の和歌山県と三重県の南部を併せた広がりを持っていた。現在の紀伊半島の南部の広い地域は古来、熊野と呼ばれていた。熊野 国があったという説もないわけではないが、不思議なことに昭和になって三重県熊野市や和歌山県熊野川町(現田辺市)が生まれるまで「熊野」が付く地名はな かった。あったのは熊野本宮という神社名と官職としての熊野別当。あとは熊野川、熊野灘という水域名だけである。今は和歌山県西牟婁郡、同東牟婁郡、三重 県南牟婁郡、同北牟婁郡という行政区になっているからややこしい。

「紀伊」と「紀国」

 熊野は古来、神仏混交の祈りの場だった。

 熊野には昭和31年まで電灯のなかった村があり、紀勢本線が全面開通するのが同34年だったから、熊野が近年まで鬼のすみかだったとしても不思議ではない。

 熊野市の中心は木本町(きのもと)という。南牟婁郡の8カ町村が昭和29年11月に合併する前の町名である。JRの駅もこの木本町にある。かつて の熊野詣の宿場町の風情をかすかに残す街並みがある。そのむかし鬼本町といった。恐ろしいげな町名である。「町名に鬼がつくのはいかにも」と考えてそのむ かし鬼が木に変わったそうだ。

 その話を聞いて、瀬戸内海の女木島を思い出した。高松の沖合にある小さな島で、桃太郎の鬼がいた伝説がある。別名、鬼ケ島である。男木島もあるから、本来は対で男鬼島と女鬼島だったはずだ。鬼が木に変わった地名は全国津々浦々にある。

 経済評論家で有名な故三鬼陽之助氏は尾鷲の出身だった。尾鷲も熊野の一部である。その尾鷲の西端の海岸線に三木浦という寒村がある。三木もその昔は「三 鬼」だったから、たぶん陽之助氏の祖先は三木浦にいて、いつの時代か尾鷲に移ったはずである。三木浦の三木小学校の戦国時代、三鬼新八郎の居城があったと ころである。

 9匹の熊野の鬼たち

 その三木浦をさらに西に行くと二木島という村がある。二木さんという苗字があり、仁木という苗字もある。同じように二木も仁木もむかしは「二鬼」だっ た。三木浦から二木島にかけての熊野の海岸線はリアス式で複雑に入り組んだ入り江が随所にある。そのほぼ中間に楯が崎という断崖がある。日本書紀によると 神武天皇が東征の折、ここから半島に上陸し、大和を目指した。先導したのはもちろん三本足のヤタガラスである。

 二木島からさらに西にいくと鬼が城(おにがじょう)があり、その向こうが木本となる。

 鬼のつく苗字で一番有名なのは九鬼さんであろう。

 戦国武将で九鬼嘉隆がいた。九鬼一族は熊野水軍を率いて織田信長につき、後に秀吉に仕えて大坂・石山本願寺攻めでは鉄甲船をつくって軍功を上げた が、徳川の代になって、摂津三田ならびに丹波綾部へ転封され、海との接触を断たれた。一族はもとは尾鷲の九鬼に本拠を置き、戦国時代になって志摩に進出、 嘉隆の時代には鳥羽に城を築いていた。

 筆者にも九鬼さんという友人がいた。三重県四日市市の出身だった。もちろん祖先は尾鷲の九鬼で、九鬼水軍の直系だといっていた。氏神さまは九木神社。神社に鬼の字をつかうのはさすがにはばかられたに違いない。

 これで「二鬼」「三鬼」「九鬼」とみっつの鬼たちがそろった。もうひとつ「八鬼山」という地名が尾鷲にある。熊野古道の峠にもなっている。八鬼山 に登ったことがあるが、霧で眺望が期待できなかった。みっつの鬼の里は海岸線にあるが、八鬼だけは山の上である。里人に聞くと「晴れると山頂から、二木、 三木、九鬼の里がみえる」のだという。熊野灘を見晴らす山頂には烽火台があって、緊急時には入り江ごとに住み着いた水軍に号令をかけた。そんな空想をさせ る場所である。

 九鬼さんに「熊野には何匹の鬼がいますか」と問うたことがある。「よっつまで見つけたんです。二と三があり、八と九があるのだから、どこかに一と四、五、六、七の鬼がいるはずです」。

 まもなく一については解決した。熊野市の木本は「きのもと」と読み、もとは「鬼本」だったと聞いたからだ。そうなると残りは四、五、六、七の鬼となる。

 9つの鬼を考えるヒントが東北にあった。八戸市は大きな都市で演歌にもたびたび登場する漁港がある。数年前に知り合った若松さんという人の出身地が九戸村であることを偶然知った。

「ということは一の二も三もあるんですか」
「四以外、一から九まで戸のつく地名があります。旧南部藩にある地名です」

 かつて南部藩に一戸から九戸まであった。戸は牧場の意味だそうで、源平の時代から馬を育てるため、かの地に官営牧場が八つあったというのだ。

 同じように一 から九までの「鬼」が熊野にいたのだとしたら面白い。その場合、「鬼」は水軍である。そもそも軍隊は「第一師団」というように部隊を数字で呼ぶ習わしがある。陸軍は「戸」、そして海軍は「鬼」が元祖だと考えられないだろうか。

 問題は二木(鬼)や三木(鬼)だという地名がいつごろからあったのかということである。郷土史を細かく調べていけば、分かる話なのだが、筆者の場合、いまのところそこまで手が回らない。

 九鬼という姓については、ウェッブ上で説明がある。ウィキペディアには「出自は詳しくわかっていない。九鬼浦に移住した熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったと『寛永諸家系図』に記されているが、異論が多い。南北朝時代に京都で生まれた藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説もある」とあるからそう古いことではない。

 また「戦国武将の家紋」には次のように書かれてある。

 "くき"という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山・谷などを指すという。また"くき"のは、柵の意で、城戸構えのあったところからきたともいわれる。

 九鬼氏というのは、熊野本宮大社の神官の子孫で、紀伊の名族として知られている。それとは別に、熊野別当の九鬼隆真が紀伊牟婁郡九鬼浦に拠って、子孫が繁栄して一族をなしたものがある。さらにこの九鬼隆真の子の隆良が志摩国波切村に移住して、志摩の九鬼氏ができた。

 九鬼氏は熊野八庄司の一つといわれ、八庄司のひとつ新宮氏であろうとされるが、熊野三山の別当家のどれかの支族であろう。

 ちなみに現在の熊野本宮の宮司は九鬼家隆氏といい、本宮の説明板には「鬼のつの(田の上のノ)のない字で、角がないから『鬼』ではなく『神』つまり『くかみ』と発音する」といったようなことが書いてある。

 また節分の折には「『鬼は内、福は内』とか 『鬼は内、福は内、富は内』とか、(『鬼』というのは古来『神』に通じていた として)『福は内、カミは内』とかというように唱えたという話が、『甲子夜話』(肥前 平戸藩主松浦静山の随筆)等に伝わっている」ということのようだ。

熊野牛王符というものがある。明治までごく普通に流通した。通貨ではない。証書の一種である。公証役場というものが現在残っているが、契約書をしたためる場合に公証役場は印を押した証書に書くことで社会的信用が増すのである。


Karasu_4  日本が藩に分かれていた時代、そうした役割は宗教が果たした。牛王符は寺社が発行する証書用紙である。特に熊野牛王符は全国的に有名だった。

源義経が兄頼朝に謀反の疑いをかけられた時、頼朝に自らの潔白を書きつづった文書はこの熊野牛王符に書かれたという。鎌倉市腰越の満福寺に残っているのは下書きの文書で、鎌倉府に送ったのは牛王符だったのだろう。熊野牛王符の歴史は古いのである。

 司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説を読んでいた時、この牛王符が登場した。主人公の嘉兵衛は淡路島の出身で、青年時代に盗っ人の嫌疑をかけられた。自分 で真犯人をみつけた。犯人である駒吉をつかまえて熊野牛王符に「いりこぬしとは、かへいにござなく、こまきちにござそろ」と書かせる。

 昨年秋、熊野本宮大社でその牛王符とやらを一枚買ってきた。新宮、那智と熊野三山でそれぞれデザインが違う。本宮の牛王符は、真ん中に「熊野山宝印」という 五文字が書かれ、朱で宝印が押されてある。おもしろいのはそれぞれの文字がカラスの姿を寄せ集めてつくられてあることだ。数えてみたら「熊」という字は 18羽のカラスで構成されていた。この裏に書かれた文章はうそ偽りがないということをカラスたちが証明した。そういう時代が長く続いた。

 職場で「ダイタラボッチ」を話題にしていたら、横の編集スタッフが「世田谷代田」の「代田」の由来がくだんのダイダラボッチだと言い出した。
「うそだと思ったら、サイトを見てごらん」という。
 まさかと思ったら、どうやらそういう言い伝えがあるらしいのだ。

  そもそもダイダラボッチといっても知らない人も少なくないと思う。関西ではダンダラボッチともいう。三重県志摩市の大王崎では毎年9月、巨大なわらじをつ くって海に流す神事がある。毎年、一つ目の巨人が村に現れ、村娘を求めるなど狼藉を働き、人々を困らせた。村の知恵者が大きなわらじをつくって「村にはお まえより大きな巨人がいると思わせよう」と発案した。ダイダラボッチは以降、大王崎には現れなくなったそうだ。

 関東に伝わる話では、富士山はダイダラボッチが甲斐の土を掘ってつくったとか、赤城山の湖は、ダイダラボッチが腰掛けた跡だとかいわれているのだ。巨人神話の発祥は出雲だという説もある。

 ではダイダラボッチはいったいなんだったのだろうか。片目、片足の巨人で、踏鞴(たたら)を操り風を起こすという特徴から、タタラ鉄との関連を推 測する説もあるようだが、三重県に在住していたとき、筆者は台風なのではないかと考えた。片目、片足という点ではバッチリでしょう。村人に被害を与えると か、わらじを9月に海に流すことでも悪くない発想だと思っている。

 怖いものの順に「地震雷火事親父」という格言があるが、親父は間違いで本当は「山嵐」(やまじ)がいつの間にかなまったそうだ。山嵐とは台風のことである。

 この格言がいつ生まれたのか知らないが、神代の簡素な生活では台風が一番怖かったはずである。

 「代田」はダイダラボッチの足跡なのだそうだ。


2006年06月03日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 5月6日、一日神領民となって伊勢神宮でお木曳き行事に参加した。

 昨年6月、木曽山中で切り出した神木を伊勢神宮まで運び入れて以来、7年後の式年遷宮に使う神木が次々と伊勢市に集まっている。125の社と鳥居すべて を建て替えるのに全部で1万本のヒノキが必要とされるから膨大な量だ。

 かつてこのお木曳きは江戸時代には神宮周辺の神領民たちの役務だったが、いまや20年に一度の祭となっている。今年と来年の5、6月、町内会ごとに奉曳 団を組織して、お木曳きを競い合う。神さまを祀る神聖な神木を神社内に曳き入れる行事は神領民たる伊勢市民の特権となったが、前々回の遷宮から市民以外で も参加できるようになった。一日神領民という。

 神宮には天照大神を祀る内宮と豊受大神を祀る外宮とがある。外宮のお木曳きは「陸曳き」(おかびき)といって、3本の太いヒノキをお木曳き車に乗せ、宮川の河川敷から約2キロの道を曳く。

 筆者が参加したのは、二俣町奉曳団のお木曳き。180メートルの長さ2本の綱に約300人の曳き手が集まった。お木曳き車の上には入れ代わり青年が立 ち、声を張り上げて伝統の木遣り音頭をうたう。曳き手は音頭に併せて、「エンヤー、エンヤー」と掛け声をかける。曳き手の気が高まると、真っ白い綱がぐる ぐると回り始め、2本の綱の曳き手が綱ごとぶつかり合う。これを「練り」という。

 お木曳き車は2キロの道のりを4時間もかけて曳くことになるから、歩みは遅い。理由は50メートルごとに練りが入るからだ。かなり危険を伴うが、どうや らこの練りがエネルギーの発散になるらしい。20年に一度しか体験できないから、曳き手の気合はそれこそ十分だ。

 最後、お木曳き車は「エンヤー曳き」といって外宮手前の交差点からカーブを曲がって一気に境内に引き入れられ、お木曳きは終わる。

 7月になると内宮の「川曳き」が始まる、五十鈴川の流れを遡って内宮に納められる。お木曳きは来年も行われる。自分が曳いた神木が遷宮造営に使われ、20年間、人々の信仰の対象になるのだと考えると気持ちが高まる。
2006年04月19日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄
 16日の日曜日、伊勢街道を一人歩いた。東海道からの分かれ目となる四日市市の日永追分から鈴鹿市神戸(かんべ)を経て白子までの約15キロである。旧道の半分は農村部であるが、残りの半分はくねくねと往事をしのばせる古い家並みがいまも残る。

 日永追分は今も国道の分岐点だが、鳥居が桜の木に囲まれてそびえ、「左いせ参宮道」とある道標は江戸時代のまま。

 道幅はほぼ2間。乗用車がすれ違うには少々困難が伴うが、それほど交通量はない。歩く空間としては狭くも広くもない。神社や寺院が驚くほど多いのはさず がに街道沿いの特徴でもあろうが、今の時代、人間の通行はほとんどない。

 供は地図と十返舎一九の『東海道中膝栗毛」。旧街道にはレストランや喫茶店のたぐいは皆無だから、おにぎりと水筒も必携品。というわけで冗談を交わしな がらの珍道中は望むべくもないが、江戸時代の人たちはずいぶんと歩いたものだと関心させられる。
 
 歩きながら気付いたのは、日本の農村部の豊かさだ。もちろん門を構えた庄屋風の大きな屋敷も残るが、多くの農家がみな立派なのだ。広い敷地に200平米 はあろうかという平屋がうち続き、どの家にも3台の乗用車が鎮座する。メルセデスやBMW,国産高級車にスポーツカー、なんでもござれだ。

 大都市と地方の経済格差が広がっているなどというのは大都会の貧しい住環境に住む学者や評論家のたわごとだとしか思えない。そんな風景がどこまでも続 く。企業の生産や賃金だけで豊かさを比べられるのか、そんな思いがしている。100年後の歴史に「21世紀になって日本の大都市と地方の経済格差が広がっ た」と書かれるのかと思うと少々やるせない。

 某業界紙にNHK「道中でござる」のコメンテーターとして江戸事情を語っていた石川英輔さんが「ゼロと10万の間」としておもしろい連載をしていたのを思い出した。昨年5月号は「人類は豊かさに耐えられるか」だった。

 江戸時代の日本の家には物がなかったから「独り者ならいわゆる九尺二間つまり2・7メートル×3・6メートルの裏長屋でも狭くない」「長屋の自分の部屋は寝室であり、風呂は湯屋へ行くし、居間は湯屋の二階か髪結い床だ」と喝破する。

 そう、筆者が勤務する狭い津支局の"応接室"は隣の喫茶店「桐」。客が来れば、すぐさま"応接室"に御案内し、顔なじみのママが"ご接待"に尽くしてくれるのだ。

 食べ物に関しては行商人がひんぱんに長屋までやってくるから女房どもは日用品を買いに行く必要がなかったという。「腐りやすい食品でも、江戸は大坂では 行商人が鮮魚を仕入れては売り歩き、売り切れればまた仕入れに行くというふうにして、足でもって鮮度を維持してくれたから、差し当たり食べる量しか買う必 要はないし、冷蔵庫などなくても困らなかった」のだそうだ。

 物が豊富にあれば、豊かなのか、考えさせられる。そういえば、子どものころはご用聞きという制度があった。電話もインターネットもない時代、商売人が家まで来てくれていた。もちろん子どもがお使いで一っ走りすれば、八百屋も魚屋も近所にあった。

 石川さんのコラムで目からうろこだったのは、江戸時代=飢饉の連続という固定概念を頭から否定してくれたことだった。

「平地面積が日本の10倍近くあるフランスでは、1790年代の大革命のとき、わずか2300万人の人口しか養えなかったのに対して、当時の日本には 3100万人という当時の世界では中国に次ぐ大人口が生活していた。江戸時代初期の1600年当時には推定1200-1300万人しかいなかったのが、 1720年ごろには2・5倍にも増えていたから、江戸時代の稲作農業の生産力はヨーロッパとは比べものにならないほど大きかった」のそうだ。

 その日本で「歴史上最悪だった天明の飢饉では、餓死者が約50万人、もっとも多かったのが南部藩で6万5000人が犠牲になったことになっている」が、 飢饉の度に大幅に人口が減っていたのでは江戸時代の人口増大は到底説明できないとしている。

「この数字は藩から幕府に提出した報告書でも寺院の記録でも一致しているが、近年になって見つかった『藩日誌』という藩の内部資料によると、この期間の人 口の増減は普通の年と大差ないことが分かった」「どうやら、藩が幕府に過大な報告をしたらしいが、こうなると、50万人の餓死者という数字も怪しいもの で、実際ははるかに少なかったのではないだろうか」と推定している。

 公式文書の残す記録はけっこう恐い。現在はそれにメディアという存在があるからもっと恐ろしい。文書類の氾濫である。後世の史家はこうした文書を根拠に新たな歴史を書きつづることになるからだ。

 そんなことを考えているうちに白子の集落に入った。江戸時代、筆者が歩いた細い道を年間30万人もの人が歩いていたのだそうだ。1日1000人弱が飲んだり食ったりしたのだから、大した賑わいだったのだろう。


 川崎音頭に、伊勢の山田とうたひしは、和名抄の陽田(ようだ)といへるより出たるにや。此町十二郷あり、人家九千軒ばかり、商賈甍をならべ、各々質素の 荘厳濃(こまやか)にして、神都の風俗おのづから備り、柔和悉鎭(にうわしつちん)の光景(ありさま)は、余国に異なり、参宮の旅人たえ間なく、繁昌さら にいふばかりなし。弥次郎兵衛喜多八は、かの上方ものと打つれ、此入口にいたると、両側家ごとに御師の名をかきつけ、用立(ようたし)所といへる看板竹葦 (ちくい)のごとく、こゝに袴はをりひつかけたる侍、何人となく馳せちがひて、往来旅人の御師(おし)にいたるを迎ふと見へて、一人の侍弥次郎兵衛にちか づき、
おしの手代「モシあなたがたはいづれへ、おこしでござりますな」
 弥次「しれた事、太神宮さまへまいりやす」
 手代「イヤ太夫はどれへ」
 弥次「太夫は、竹本義太夫殿さ」
 手代「ハア義太夫と申すは、どこもとじゃいな」
 弥次「その義太夫というはな、大坂にては道頓堀」
 北八「京は四条、お江戸はふきや町かしにおゐて、永らく御評判にあづかりましたる」
 手代「かたはものは、おまい方であつたかいな」
 北八「たはごとをぬかすとひつぱたくぞ」
 手代「ゑらいあごじやな、ハヽヽヽヽ」
 上方「ちと休んでいこかいな」
 北八「こゝらはきたねへ所だ。みな御師の雪陣と見へて用立所とかいてある」
 弥次「おきやアがれ。ハヽヽヽヽ」
ト三人ともあるちゃ屋にはいり、しばらくやすむ。此内向ふより上方どうしや大ぜい、そろひのなり、女まじりにこへはり上ゲ
 うた「ござれ夜みせは順慶町の、通り筋からソレひやうたん町を、ヤアとこさアよいとさア、チヽヽヽヽチンチン、すけんぞめきは阿波坐の烏、ソリヤサ、か わいかわいもヤアレかうしさき、ヤアとこさ、ヨウいとなア、ありやゝこりやゝ、コノなんでもせ。チヽヽン、チヽヽン、チンチンチンチン」
ト此ひとむれ通り過たるあとから、太々講とみへて、廿人斗いづれも御師よりむかひの駕にうちのり来るが、おしの手代さきにたちて
    「サアサアサア、これじやこれじや。まづどなたさまも是で御休足なさりませ」
トかごはのこらずちゃ屋のかどにおろす。此だいだいこうは江戸とみへて、いづれも小そでぐるみに、みじかいおたちをきめた手やい、めいめいかごを出て、ざしきに通る。此内一人のおとこ、弥次郎を見つけて
    「イヤこれはどふだ、弥次どの弥次どのきさまも参宮か」
トこへかけられて、弥次郎びつくりし見れば、町内の米屋太郎兵へなり。ゑどをたつ時此米やのはらひをせず、立たる事なれば、何となく弥次郎しよげかへりて
    「ハア太郎兵衛さまか。よくお出かけなさいました。しかし爰(ここ)であなたにお目にかゝつてはめんぼくない」
 太郎「ナニサナニサ。わしも仲間の太々講で、そのくせ講親といふものだから、據(よんどころ)なく出かけましたが、よい所であつた。旅へ出ては、とかくづうくに(同国)がなつかしい。おくへ来て一ツぱいやらつし」
 弥次「ありがたふございやす」
 太郎「つれはだれだ。ハヽアまんざらしらぬ顔でもない。ナントきさまたち、さいわいのことだ。太々講おがまぬか、それも飛入といやアちつと斗、金が出る から、不躾ながら、わしらが供になると、一文も入らず、しこたまちそうになつて、おがまれるといふものだからどふだろう」
 弥次「それは願つてもない、有がたい事でございやす。しかし、それが出来やせうかね」
 太郎「ハテわしが講親だもの、どふでもなる。マア何にしろおくへ来さつし」
 弥次「ハイさようなら、モシ上方の、ちとこゝに待てくなせへ」
 つれの上方もの「よいわいの、いてござんせ」
 太郎「サアサアひたりともきさつし、きさつし」
ト 此太郎兵へにいざなはれ、弥次郎も北八も。わらじをとつておくへ行くと、上方ものはひとり、みせさきに酒などのみてまつてあるうち、おくはだいだいこうの 事なれば、御師よりのちそうにて、さいつおさへつ大さはぎのさいちう。又おもてにひとむれのかご、十四五てうばかり、これはかみがたのだいだいこうと見へ て、おしの手代さきにたちて
 かご「ホウよいよい、ゑつこらさつさ、ゑつこらさつさ」
トこれもおなじく此ちゃ屋にはいる。
 おしの手代「サアサア御案内御案内」
 ちゃ屋のおんな「おはやうござります。おくへおとをりなさんせいな」
ト 此内みなみな、かごよりおりておくへとをると、すぐにさけさかなをもち出し、だいだいこう、二くみの大さはぎ、ざしきのしやれ、いろいろあれども、あまり くだくだしければりやくす。やがておくのさかもりおはりて、サアおたちといふと、二くみのだいだいこうがいつしよになり、どさくさして、おくよりいづる と、ゑどぐみの御師の手代、いちはなだちておくより出
    「サアサアお駕の衆これへこれへ。どなたもサアおめしなされませ」
トあつちこつちをかけまはり、かごにのせる。此うち又上がたぐみのおしの手代もおなじくかけまはりて
    「こちらのかごはこれへこれへ」
トよこづけにして、みなみなをのせる。米やの太郎兵へなまゑひとなり、弥次郎が手をとり
 太郎「コウ弥次公。きさまおれがかごにのつていかねへか」
 弥次「イヤどんだことをおつしやる」
 太郎「ハテわしは、これからあるくはなぐさみだ。きさましやれにのつていかつし」
 弥次「さやうなら、ヘヽヽヽヽ。こりやきめうきめう」
ト かごにのれば、サアおたちじやと、両方のかごが、いちどきにかきあげ、こんざつして、弥次郎がのりたるかごの人そく、とんだまぬけと見えて、上方ぐみのか ごの中へまぎれこみたるにきもつかず、さつさとかいてゆく。かゝるどさくさまぎれに人もそれとこゝろつかねばだんだんといそぎゆくほどに、山田のまん中す じかいといへる所にて、江戸がたの一くみは内宮のおしなるゆえ、左りのかたへわかれ行。上方ぐみは、外宮のおしにて、此ところより、右のかたへわかれ、田 丸かいどうの、岡本太夫のかたにつく。門前のほうき目、もり砂に水うちきよめ、げんくはんになく打まはして、ちそうのやくやく、はをりはかまに出向へば、 こうぢうみなみな、かごをおりて、げんくはんより打とをる。このとき弥次郎兵へも、かごかきのそゝうにて、上方ぐみの中へまぎれこみ、こゝにきたれど、十 四五てうもあるかご、どれがどれやらわからず、弥次郎かごを出て、おなじくざしきに打通り、そこらをうろうろ見まはせども、みなしらぬかほばかりなれば
 弥次「ハテがてんのいかぬ。モシモシ米屋の太郎兵衛さまは、どれにお出なさいます」
 そばにいた男「なんじやいな。太郎兵へさんとは、こちやしらんわいな。そしておまいは、ねから見ん顔じやが、誰さんじやいな」
 弥次「ハイわつちは、ソレ太郎兵へさんの、町内のものじやが、ハテどふかちがつたような。北八はどふしたしらん」
トむしやうに、うろうろ、きよろきよろと、まごつきあるけば、みなみなきもをつぶし、たがいにそでをひきあふて、にもつなどかたよせ、さゝやきあふうち、此講の内二三人立向ひて
    「コレコレこなさんは、見なれぬ人じやが、だれじやいな」
 弥次「ハイハイ」
 こう中「ハテこなわろは、何をきよろきよろさんすぞいな。誰じやといふのに」
 弥次「イヤわつちは、米屋の太郎兵衛さんにおめにかゝればわかりやす」
 こう中「ハテそないな人は、こちの講のうちにはないもせぬもの、なんじややらきみたのわるい人じやわいな」
 御師の手代「ハアこな人は、あなたがたのおつれではござりませんかいな」
 こう中「さよじやわいな」
 手代「イヤそれはどしたもんじや。とつとゝ出ていかんせ。ゑらいへげたれじやな」
 こう中「道中じらであろぞいな。ほり出してやらんせ。あたけたいな」
 弥次「ヱゝそんなに、いいなさるなこたアねへ。ほり出すとはなんのこつた。とほうもねへ」
 こう中「ハゝアおまいのものいひは、おゑどじやな。それでよめたわいの。いんまのさき、お江戸の太々講と、ひと所でおちあふたが、其時おまいの乗(のら)んした駕が、こちらの中へまぎれこんで、ござんしたのじやな」
 弥次「なるほどさやう。そんならわつちのゆく御師どのは、どこでございやすな」
 手代「ナニおまいのいく所をたれがしろぞいな」
 こう中「めんめんのゆく御師どのを、しらんといふことがあろかいな。コリヤわりさまは、わざとこちのなかまへずりこんで、太々講をくひたをししよふでな」
 こう中みなみな「ヱゝけたいなやつじや。のうてんどやいてこまそかい」
 弥次「イヤ、わるくしやれらア、手めへたちのだいゝ講、丸ッきり喰倒した所が、たかゞしれてある。あんまりやすくしやアがるな。江戸ッ子だハ。おれひとりで、太ゝ講うつて見でよふ」
トどつさりすはればおしの手代きもをつぶして
    「ナニ、おまいが、おひとりでかいな。こりやでけたでけた。みんごとおまいが」
 弥次「しれたことや。多少にやアよるめへ。これでたのみます」
トうちがへのぜに二百文、かみにつゝみ出せば、おしの手代二度びつくり
    「ハゝゝゝ、太々講は、やすうて金拾五両も出さんせんけりや、でけへんわいな」
 弥次「ナニ是ではなりやせんか」
 手代「さよじやさよじや」
 弥次「太々講がならずば、是で、蜜柑こうでもたのみます」(太々=だいだいのしやれ)
 こう中「ハゝゝゝ、べつかこうにさんせ。ハゝゝゝ」
 手代「イヤおどけたおかたじや。ハアよめた、おまいのいく所は、慥(たしか)に内宮の山荘太夫どのじやわいなの。さつきの手代が、あこのじやほどに、是から妙見町をすぐに、古市のさきへいて尋ねさんせ」
 弥次「ハアそふか。コリヤ有がてへ。ほんにおやかましうございやした」
 こう中みなみな「ゑらいあほうじや。ハゝゝゝゝ」
ト手を打わらふ。弥次郎はらたてどもせんかたなく、しほしほとこの所をたちいづるとて

 鉢植のだいだいこうにあらぬ 共ちうにぶらりとなりしまちがひ

 それより弥次郎兵へは、もとの筋違(すじかひ)に出、妙見町をさして行道すがら、北八はいかゞせしや、米屋太郎兵へと打つれて御師の方へ行しか、但しは上方ものと、妙見町に泊りしかと、おもひわびつ、おもひわびつ、たどり行ほどに、廣小路にいたると
 此所のやどや「もしおとまりかいな、やどをとつてかんせ」
 弥次「コレ妙見町といふは、まだよつぽどございやすかね」
 やどやのおんな「イヱいんま少し此さきじやわいな」
 弥次「ソノ妙見町に、アナノ何屋といつた、道づれの上方ものが泊るといつたは、アヽそれよ」
トいろいろにかんがへても、藤屋といふを、わすれてさつぱり思ひ出さず
    「ハテ口へ出るようふな。何でも棚からぶらさがつてゐるよふな名であつた。モシモシ妙見町に、ぶらさがつてゐる宿屋はございやせんか」
 そこにいた人「ナニぶらさがつてゐるやどやは、こちやしらんわいの、そないことをいふては、しりやせんがな」
 弥次「なるほど、こゝらでたずねてはしれめへ。もちつとさきへいつてたづねやせう」
トそれよりこゝをすぎて、いそぎたどり行ほどに、こゝに万金丹のかんばん、みやうけん町山原七右衛門といへるを見て、さてこそこゝが妙見町ならんとおもひ、わうらいの人をよびとめて
 弥次「モシこゝらに、なんでもぶらさがつてゐるような名のうちは。ございやせんかね」
 わうらいの人ふしぎそふに「なんじやいな。ぶらさがつてゐる内とは、何屋じやいな」
 弥次「やどやさ」
 わうらい「その家名わいな」
 弥次「家名をわすれたからのことさ」
 わうらい「イヤそれいふてかんせにやアしれぬくひわいの。何じやろと、ぶらさがつたうちといふは。ハゝアむこのかどに、人のたつておる内へいてとふて見やんせ。あこは去年首くゝりがあつて、ぶらさがつたうちじやさかい」
 弥次「イヤそんなものゝ、ぶらさがつたのじやアございやせん」
 わうらい「ハテまあいてとふていかんせ。あこも宿屋じやあろわい」
 弥次「ハイさやうなら」
トはしり行うち、かの家かどに、たつてゐた人もどこへか、いつてしまい、さつぱりしれなくなり、まごまごして、あるうちのまへにたちて
 弥次「モシモシ。ちとものがたづねたうございやす。去年、首をおくゝりなさつたは、あなたでございやすか」
 このうちのていしゆ、ゐあはせきもをつぶし、とんで出
    「イヤわしや、首をつつたことはないがな」
 弥次「そんなら、どこでございやす」
 ていしゆ「こゝらにくびつつた内はしらんがな。此二三軒さきに、棚からおちたぼたもちくふて、咽をつめて死だうちがあるが、もしそれじやないかいな」
 弥次「いかさまなア。なんでも棚からぶらさがつたよふなうちであつた」
ト又二三げんさきへゆき、あるうちのかどにて
    「モシ棚からおちたうちは、おめへじやアございやせんか」
トとんだことをいふ、此うちの女ぼうとみへて
    「イヽヱナ、わたしがうちはもとから爰(ここ)で、ついしかたなへあげておいてことはおいませんわいな」
 弥次「ハア外にはござりやせんか」
 女ぼう「ソリヤおまい、きゝちがひじやあろぞいな。山からおちた内じやおませんかいな。それじやと相の山の、与太郎の小屋が、此間の風で、谷へふきおとされたといふことでおますがな。大かたそれじやああろいな」
 弥次「イヤそれでもねへが、コリヤアこまつたもんだ。何だかかだか、さつぱりわからなくなつて、もともこもうしなつたよふだ。わつちもさつきから、たづねあぐんで、もふもふがつかりとくたびれやした。どふぞ一ぷくのまして下さりやせ」
ト此みせさきにこしをかける。ていしゆのどくそふに、たばこぼんをさげて、おくより立出
   「サア一ぷくあがらんせ。いつたいおまいは、どこを尋ねさんすのじやいな。参宮じやあろが。おひとりか、但しは、おつれでもあますかいな」
 弥次「さやうさ。道連ともに三人の所、わつちのそのつれにはぐれて、こんなこまつたこたアございやせん」
 てい「イヤそのおふたりのおつれは、おひとりはお江戸らしいが、今おひとりは、京のお人で、目のうへに、此くらひな、痰瘤(たんこぶ)のあるおかたじやおませんかいな」
 弥次「さやうさやう」
てい「それじやとこちの内に、おとまりなされたさかい、すぐにおまいさまのおむかひを出しましたわいな」
弥次「そりやほんとうにか。ヤレヤレうれしや。そしておめへの所は、何屋といひやす」
ていしゆ「アレ御らんななされ、掛札に藤屋とかいておますがな」
弥次「ホンニそれそれ。たなからぶらさがつたよふだとおもつたが、その藤やよ。そふしてつれのやつらは、どこにゐやす」
ていしゆ「ソレおくへ、おつれさまがお出だといふてかんせ」
ト此こへをきくよりおくから出る道づれのかみがたものとんで来
    「コリヤよふごんした。さだめてそこらうち、尋さんしたであろ。こちもゑらう、たづねまふたこつちやないわいの。マアマアおくへ」
 弥次「これはおせはになりやす」
ト すぐにおくへ行。上方ものと北八は、ゑどぐみの太々講について、御師の方へ行しが、弥次郎へ見へざるゆへ、しらぬ人ばかりにて、手もちなく、いろいろきゝ 合せてもわからず、せんかたなくその御師の方を出、たづねたくもあてどなく、かねてみやうけん町の、ふじやへとまいらんといひたることもせうちの事なれ ば、大かたたずねてくるであろふと、さてこそ、この所にとまりてまちうけしなり。弥次郎はだいだい講のかごが、まちがひたる、いちぶしゞうをものがたり、 大わらいとなりける、北八はかみゆひをよびにやり、ひげをそりていたりけるが
    「まあまあおたげへに、別条なくてめでたいめでたい」
 弥次「イヤもふ、とんだ目にあつたといふはおれが事よ。時に、かみゆひさん。そのあとでわつちもひとつ、やらかしてくんなせへ」
 北八「おめへマア湯にひいつてきなせへ」
ト弥次郎はゆにいりにゆく。北八ひげをそりかゝりて
「ときに髪結さん。おいらがかみは、ぐつとねをつめて、いつてくんな。なんだかこつちのほうの髪は、たぼが出て、髷(わげ)がおつにながくて、とんだきの きかねへあたまつきだ。そして女の髪も、ごうせへに大きくいつて、なんのことはねへ、筑摩の鍋かぶりといふものだ」
 かみゆひ「そのかはりおなごは、とつとゑらいきれいでおましよがな」
 北八「きれいはいゝが、たつて小便するにはあやまる」
 かみゆひ「イヤおゑどの女中も、おつきなくちをあかんして、あくびさんすには、ねからいろけがさめるがな」
 北八「それでも、女郎は又江戸のことだ、ゑどはいきはりがあるからおもしろい。こつちのは、誰がいつてもおなじことで、ねつからふるといふことがねへから、信仰がうすいやふだ」
 かみゆひ「イヤこちのほうでは、おまえのよふなかたがいかんしても、ふらんさかい、それでゑいじやおませんかいな」
 北八「きさまおれをやすくいふな。コレほんのこつたが」
 かみゆひ「ヲツトあをのかんすと切ますがな」
 北八「イヤきらなくてもごうせへにいてへかみそりだ」
 かみゆひ「いたいはづじやわいな。このかみそりは、いつやら研だまゝじやさかい」
 北八「ヱヽめつそうな。なぜ、剃るたびごとに研ねへの」
 かみゆひ「イヤそないにとぐと、かみそりがへるさかい。ハテ人さんのつむりのいたいのは、こちや三年もこらへるがな」
 北八「どふりこそ。いたくていたくて、一本ヅヽぬくよふだ」
 かみゆひ「なんぼいたいとてたかで命にさはることはないがな」
 北八「ヱヽそりやしれた事よ。もふもふさかやきは、いゝかげんにしてくんな」
 かみゆひ「おまいさかぞりはおきらいかな」
 北八「ヱヽ其剃刀で、逆剃にやられてたまるものか。あたまの皮がむけるだろう。もふそこはいゝから、ぐつと髪をつめていつてくんな」
 かみゆひ「ハイハイ。コリヤヱらいふけじや。このふけのとれることがおますがな」
 北八「どふするととれる」
 かみゆひ「ぼんさまにならんすとゑいがな」
 北八「ヱヽいめへましいことをいふ」
 かみゆひ「ねはこないでよふおますかいな」
 北八「イヤイヤもつとひつつめてくんな。とかくこつちのほうへくると、髪はへたくそだ。ねをかたくつめていふことをしらねへ。不器用な」
 かみゆひ「さよなら、これでどふでおます」
ト此かみゆひ、これみたかといふほど、ぐつとねをつめると、さかやきに三ツほど、ひだができて、目はうへのほうへひきつるくらひに、かたくひつつめられ、北八かみのけがぬけるほどいたけれ共、まけをしみにて、かほをしかめながら
    「これでよしよし。アヽいゝ心もちだ」
 かみゆひ「ナントそれで、よござりましよがな」
 北八「あんまりよすぎてくびがまわらぬよふだ」
ト此内弥次郎ゆよりあがりくる。
 かみゆひ「サアあなた、髪なされませんかいな」
 弥次「イヤどふか湯に入たら、ぞくぞくして、風でもひいたよふだ。わつちはマアあしたのことにしやせう」
 かみゆひ「さよなら御きげんよふ」
ト出行。此うち女、膳をもちいでめいめいへなをす。上方ものは先刻より、ねころびいたりしが、おきなをりて
    「ドレ飯くをかいな」
 女「今日はしけで、お肴がなにもおわせんわいな」
 弥次「是は御ちそう。サア北八どふだ」
 北八「弥次さん。わつちが箸はどこにある」
 弥次「ヱヽ此男は。ソレ膳についてあらア」
 北八「とつてくんな。どふもうつむくことがならねへ」
 弥次「なぜならねへ。ヲヤヲヤ手めへの顔はどふした。目がひきつつて、狐つきを見るよふだぜ」
 北八「あんまり髪ゆひめが、ごうぎにねをつめていやアがつて、アイタヽヽヽヽヽ、くびをいごかすたびに、めりめりとかみの毛がぬけるよふだ」
 上方もの「ソレおまい、お汁がこぼれるわいの。アレお飯のうへに、お汁わんをおかんすさかい。アレこぼれたわいの。コリヤもふとつとやくたいじや」
 北八「弥次さん。どふぞふいてくんな」
 弥次「いめへましいおとこだ。そしてマアうつむかされぬほどに、なぜそんなに、かたくいわせた。もふちつとゆるくすればいゝのに。手めへ大かた、かみゆひをいぢめたろふから」
 上方もの「そじやさかい、そないなめにあはんしたのじやろぞいな」
 北八「イヤもふ、ものをいふさへ、あたまにひゞけてならぬ。弥次さんどふぞ、この難義を、たすかるしよふはあるまいか」
 弥次「ドレおれがちつとゆるくしてやろう」
ト髪のねをもつていやといふほどぐつとひつたてる
 北八「アイタヽヽヽヽ、どふするどふする」
 弥次「これでよかろう」
 北八「アヽちつと、くびがまわつて来た。アヽどんだめにあはしやアがつた」

 あなどりしむくひは罸があたりまへ ゆだんのならぬいせのかみゆひ

 みづから斯よみて打笑ひツヽ、支度仕廻、はや膳もひけたるに、いづれも打くつろぎて、はなしの序(ついで)に
 京の男「ナントこよひ、これから古市へいこかいな」
    「まだ宮めぐりもせぬさきに、もつてへねへよふだが、まゝのかは、やらかしやせう」
 京の人「いて見やんせ。わしやあこで、年々すてたかねが、千や弐千のこつちやないさかい、なんぼなとわしがうけこみじや。サアはやういかんせんかいな」
 弥次「ヱヽそんならおれも、髪月代すればよかつた」
 京「御亭(ごて)さん御亭さん。ちよと来ておくれんかいな」
 このやどのていしゆ「ハイハイ御用でおますかいな」
 京「おゑどのお客が、これから山へのぼろといな」
妙見町のつうげんに古市へゆくを山へのぼるといふ
 ていしゆ「よござりましよ。おともしてまいりましよ」
 京「アノ牛車樓か、千束亭(ちづかてい)に、しよじやないかいな」
 北八「たいこの間とやらは、何屋にありやす」
 ていしゆ「たいこじやおません。鼓の間の事かいな。ソリヤ千束やでおますがな」
 京「そのちづかやがよござりましよ」
ト みなみなしたくするうち、はや日もくれて時分はよしと、ていしゆをあんないとして三人とも、出かけ行ほどに、此妙見町のうへは、すぐに古市にて、倡家軒を ならべ、ひきたつるいせおんどの三みせんいさましく、うかれうかれて、ちづかやといへるにいたれば、女供みなみなはしり出
   「よふござんした。すぐにお二階へ」
ふぢやのていしゆ
   「おつれ申てもよいかいな。サア御案内いたしましよ」
トていしゆをさきにおのおの二かいへ上り座につくと
 京「ときに弥次さん。こうしよじやないかいな。おまいがたを、お江戸でゑらいおつきな店の、番頭衆にしよじやないかいな」
 ふぢや「そないことがよござりましよ」
 京「しかし、訛(なま)らんしてはあかんわいの、上店(かみだな)といふもんじやさかい。京談でやらんせにや、工合がわるかろが、どふじやいな」
 弥次「そんな事は、もつてこいだ。すつぱりと、わつちがかみがたでやらかしやしやう。コレコレおなごしゆおなごしゆ。ちよと、きておくれんかいの。わしやなんじややら、とつともふはや、ゑらふ咽がかわくさかい、ちやひとつ、もて来ておくれんか」
 女「ハイハイ」
 弥次「ナント京談、ゑらいかゑらいか。へヽちくしやうめが」
 京「イヤきよといもんじや。でけたでけた」
ト此内女酒さかなをもち出すゝめる。ふぢやはじめてだんだんにまはすと、京の人引うけて
    「コレお仲居、おやまさんはどふじやいな。コノおかたはな、お江戸のゑらいお店のばんとうさんじやさかい、なんじやあろと、おやまさんをありたけ 出さんせ。お気にいると、百日も二百日も御逗留で、おかねの入事はねからはから、とんとおかまひないおかたじや」
 ふぢや「さよじやわいな。私が去年、おゑどへさんじた時、お店のまへを通りましたが、なるほどゑらい御大家じや。あなたの御支配なさるほうは、両替店と見へましたが、これもおつきなお見世でおますわいの」
 弥次「ナニサ格別ゑらい見世ではないわいの。間口がやつと三拾三間あつて、佛の数が三万三千三百三十三ぐらしじやさかい、ゑらい賑かなこといな」
 ふぢや「京の店は、たしか六条数珠やまちであつた」
 弥次「サイノわたしがとゝさんかゝさんは、さぞやあんじてゐさんすじやあろに、こないにおやまばかり買ふて、とつともふ、ゑらいやくたいじや、ゑらいやくたいじや」
 女「これいし、みなお出んかいな」
トよびたつるこへに四五人たち出
    「どなさんもよふござんした」
 弥次「ハヽアどれもゑらい出来じやな」
 京「ばんとうさん。盃をちとあつちやへさゝんせ」
 弥次「アイもし、ひとつあげふかい」
トその中でいちばんうつくしやつへさしてにこにこしてゐる
 北八「おいらは太鼓の間が見たいが、どふだ」
 京「また、たいこの間といわんす。つゞみの間じやわいな」
 女「つゞみの間には、これもお江戸のお客さんがたが、子どもしゆよせて、おどらせてじや。アレきかんせ」
ト此内おくのつゞみの間にておどりがはじまると見へて、さみせんのおときこへる
チテチレ、チテチレ、チヽヽヽヽ、トテチレトテチレ
いせおんどうた
    「すゞ風や、ちりもはらふて木がくれの、池にうかべる月の顔、けわひはさとのいろいろに、ヨイヨイヨイヨイよいやさア」
 京「イヤアおくで踊をはじめおつたそふじや。こちもコリヤおもしろなつてきた。ちと、おつきなもんでやろわいな」
 弥次「そふさ。とんだおつにうかれて来た。もふ京談も何も面倒になつた。ヨイヨイヨイヨイよいやさア」
 京「イヨイヨトテチレトテチレ」
 又おくのうた「めだつうきなもおもしろき、やはらぐうや三みせんに、足もしどろに立かへり、またもこよひのやくそくは、ヨイヨイヨイヨイよいやさ。トテチレトテチレ」
 京「コリヤゑらひゑらひ。時にと、下拙の私めが相方のおやまさんは、コレおまい、名はなんといふぞいの。なんじやお弁。ありがたいの。誰あろう勢刕古 市、千づかやのお弁女郎といふ、美しいかわゆらしい、女の弁才天女様は、忝(かたじけ)なくも尊くも。京都千本通、中立売ひよいと上ル所、辺栗屋与太九郎 さまの相方じや。ちとねき(側)よらんせんかいの」
ト手をとり引よせる。此京の人は酒にゑふと、何でもていねいにくどくいふことがくせにて、だんだんくだをまきかける。弥次郎ははじめに、わがさかづきをさしたるおやまゆへ、じぶんのあいかたとおもひゐたりしに、京のおとこ、わがあいかたのよふにいふゆへ、やつきとして
 弥次「コレ京の客、ソリヤわしがあいかたのおやまさんじや」
 京「イヤ何いはんすぞいの。コレ女中のお仲居、おまい名は何といふてじや」
 女「ハイきんといふわいな」
 京「ソレソレ勢州古市、ちづかやの仲ゐ、おきん女郎に、京都千本通、中立うりひよいと上ル所、辺栗や与太九郎が、先刻内々ひきあふておいた、アノ美しい可愛らしい、弁才天女のおべん女郎といふおやまさんは、則京都千本通中立売」
 弥次「ヱヽやかましい。千本も百本もいるものかへ。何でもからしよてつぺんに、おれがさかづきをさしておいた」
ト いふは、ゑどにては、じょろうのざしきになをると、すぐにさかづきをさして、あいかたをさだむれ共、このへんにては、さようの事はなく、たゞないないにて ちや屋の女ぼう、あるひは女などにさゝやきて、あれはたれ、これはたれと、あいかたをきはめておくゆへ、京の人せんこく、中ゐへわたりて、此中にていつ ち、上しろものを、じぶんの相方とさだめ、のこりを弥次郎、きた八と、おのれがさりやくして、きはめておきしゆへ、弥次郎はそのことをいつこうしらず、ゑ どのかくにて、さかづきをさしたるおやまを、わが相方とおもひゐたりしゆへ、さてこそこのいさくさおこりたり、なかゐ弥次郎をなぐさめて
    「これいし、アノおやまさんはな、此人さんの相方、おまいさんは、こちの嶋田髷さんじやわいな」
 弥次「ばかアいふな。此中でアノおやまが目についたから、それでおれが、盃をさしたにちがいはない。そこでわしがおやまかいな」
 京「ハテわるいがてんじやわいの。こなさんは、アノ江戸はどこじやいな」
 弥次「ゑどは神田の八丁堀、とちめんやの弥次郎兵衛さまといつちやア、ちとひねくつた奴さまだア」
 京「そのおゑどの神田八丁ぼり、とちめんやの弥次郎兵衛どのといふ、ひねくつたやつこさまが、京都千本通、中立うりひよいと上ル所、辺栗や与太九郎があいかたのおやま、勢州古市ちづかやの」
 弥次「ヱヽ何をぬかしやアがる。へんぐりの与太九郎もあきれらア」
 京「イヤこゝなおゑど神田八丁ぼり、とちめんやの弥次郎兵衛どの、京都千本通、中立売上ル所、辺栗や与太九郎を、京都千本通、中立うり上ル所、辺栗や与 太九郎殿といへばまだしも、それを、京都千本通、中立うり上ル所、辺栗や与太九郎とよびすてにさんしたの。そこでもつてからに、京都千本通、中立うり」
 弥次「ヱヽやかましい。よくしやべるやらうだ」
 北八「おらアそんなことより、太鼓の間が見てへ。たいこの間はどこだどこだ」
 女「たいこの間とはなんじやいし。つゞみの間のことかいな」
 北八「ヲヽそのつゞみつゞみ」
 京「イヤつゞみじやあろが、なんじやろが、此辺栗や与太九郎が、相方じやわいの」
 弥次「コレわるくしやれるな。何でもつゞみの間はおれがのだ。わるい敵役じやアねへが、いやでもおふでも抱てねる」
 ふぢや「ハヽヽヽヽ、あのひろい、つゞみの間をかいな」
 弥次「ヲヽひろくてもせまくても、頓着はねへ。おれがものだ」
 京「イヤイヤイヤイヤ、そりやさゝんわい」
 弥次「ナニさゝんことがあるものか。誰が何といつても、京都千本通中立うり、とちめんや弥次郎兵衛さまが相方だハ」
 京「イワ此おゑど神田八丁堀あがる所、へんぐりや与太九郎の買ふたのじや」
 北八「ハヽヽヽ、おめへがたは何をいふやら、どつちがどふだか、さつぱりわからなくなつた」
 女「そして此おかたは、京のおかたじやといわんしたに、ものいひが、いつの間にやらおゑどじやわいな」
 弥次「べらぼうめ、このいそがしいに、京談がつかつてゐられるものか」
 女「あんまりおまいさんがたがいさかふてじやさかい、ソレ見さんせ、おやまさんがたは、みなにげていかんしたわいな」
 弥次「いめへましい。もふけへるべい」
 女「マアよふおますがな」
 ふぢや「モシこうしよかいな。これから、柏屋の松の間をおめにかけふわいな。たゞし麻吉にお供しよかいな」
 弥次「いやだいやだ。おらアぜひけへるけへる」
 ふぢや「ハテよござります」
 弥次「イヤとめやアがるな。いめへましい」
トすつと立てかへろうとする。仲ゐども立かゝりて、いろいろあいさつし、とめてもとまらず、ふりはなし出かけるところへ、あいかたのおやま初江立出
    「これいし。なんじやいし」
 弥次「とめるな。よせへよせへ」
 初江「おまいさんばかり、そないになア、かへるかへるといわんすがな。わしがお気にいらんのかいし」
 弥次「イヤそふでもねへが、こゝをはなせはなせ」
 初江「わしやいやいし」
ト又かけ出しそふにするを引とらへむりむたいにはをりをぬがせる
 弥次「イヤ羽折をどふする。よこせよこせ」
トいひながら、又かみいれたばこ入をとられる
 弥次「コレサおらアけへるけへる」
 初江「じやうのこわい人さんじや」
トいひながらおびをぐつとひきほどき、きものをぬがせよふとする。弥次郎は、あかじみたる、ゑつちうふんどしをしめてゐたりしゆへ、はだかにされてはたまらぬと、大きにへきゑきし、きものを両手におさへて
 弥次「コレコレ、もふかんにんしてくれ」
 初江「そじやさかい、こゝにゐさんすか」
 弥次「ゐるともゐるとも」
 仲ゐ「はつ江さんもふ堪忍してやらんせ」
 ふじや「サアサアよござります。これへこれへ」
ト弥次郎が手をとりもとの所に引すへる
 北八「ハヽヽヽヽ、おもしろへおもしろへ。弥次さん斯(かう)もあろうふか」

 むくつけき客もこよひはもてるなり 名はふる市のおやまなれども

 此一首に、みなみなわらいを催し、藤屋の亭主、仲居どもが、そこら取かたづけて、それぞれに座敷を儲け、酔倒れたる上方ものを引立て案内するに、北八も倶に出行ば、あとに弥次郎兵衛ひとり残りたるに
 女「サアサアおまいさんもちとあちらへ
ト いひながら立て行。此弥次郎いたつて見へものにて、かのにしめたるごときふんどししめたるが、ことの外きにかかり、ひよつと見付られたら、はぢのかきあげ ならんと、ふところのうちにて、そつとはづし、れんじのまどより、にはのかたへほうり出し、あとさきを見まわし、人の見ざるにあんどして、仲ゐのあとに引 そひゆく

 かくて夜も更わたるに、おくの間の、川さきおんどもおのづからしづまり、旅客のいびきの声喧(かまびす)く、鐘の音もはや七ツひゞきて、鶏の声万戸にうたひ、夜もしらみかゝる。あかり窓の障子におどろき、起あがりて目をこすりながら
 京の人「サアサアどふじやどふじやいなおきさんせ。もふいのわいの」
 北八「弥次さん。日が出たア、けへらねへか」
ト両人弥次郎がねている所へ来りおこす。弥次郎おきて
    「ヤレヤレぐつとひとねいりにやらかした」
 おやま「これいし、けふもゐさんせ」
 弥次「とほうもねへ。けへるけへる」
トみなみなしたくして出かける。おやまどもおくりてらう下に出、一人のおやまれんじのまどより、にはのかたをのぞき
    「これいしこれいし。アレ見さんせ。庭の松に、いもじがかゝつてあるわいなア」
 弥次郎のあいかた女郎はつ江「のいてかんせ。ほんにいやいな。誰じやいな」
 弥次「ハヽアこいつはおかしい。羽衣の松じやアねへ。ふんどしかけの松もめづらしい」
 北八「弥次さん、おめへのじやアねへか」
 はつえ「ほんにそれいし。あのさんのまはしじやないかいな」
ト弥次郎がかほを見てわらふ。弥次郎は宵に、れんじよりすてたるふんどし、にはのまつのえだにひつかゝりて、ぶらさがりゐるを、おかしくおもひながら、さすが、それともいわれずへいきにて
    「ナニとほうもねへ。あんなきたねへふんどしを、ナニおいらがするものか」
 はつえ「そじやてゝナ。ゆふべわしや、このおきやくさんの、きりものをぬがすとてなアよふ見たが、あないな色の、まはしじやつたわいな」
 京「ヲヽそふじやあろぞい」
 弥次「ばかアいわつせへ。おらア木綿ふんどじはきらひだ。いつでも羽二重をしめてゐる」
 はつえ「ヲホヽヽヽヽ、うそやの。あれじやいし」
 北八「いかさま、おいらも見おぼへがある。たしかにあれだろう。それが嘘なら弥次さん、おめへ今はだかになつて見せなせへ。今朝ア宿入のやつこさまで、ふつてゐるにちげへはねへ」
 はつえ「そふじやいし、ヲホヽヽヽヽ。これいし、久すけどん、そのまはしはおきやくさんのじや。とてくだんせ」
トにはに、そうぢをしてゐる男をよびかけ、さしづすると、此男竹ぼうきのさきにて、かのふんどしをつつかけてとり、れんじのまへゝぐつとさしいだし
    「さあれば、ひんどしをまいらそふ。ソレとらんせ。どふじやいな」
 はつえ「ヲヽくさ」
 北八「ハヽヽヽヽ、弥次さん、手を出しなせへ」
 弥次「ヱヽなさけないことをいふ。おれがのじやアねへといふに」
 北八「そんならおめへのを、まくつて見せなせへ」
ト弥次郎がおびをときにかゝれば、ふりはなして、そのまゝにげ出して行
 みなみな「ヲホヽヽヽヽワハヽヽヽヽ」
ト大笑しておくり出る。三人とも此所を立出ると
 弥次「ヱヽいめへましい。北八めがおれに赤恥を、かゝしやアがつた」
 北八「松に、ふんどしのぶらさがつたもめづらしい」

 ふんどしをわすれてかへる浅間嶽 万金たまをふる市の町

 かくて、妙見町に立かへりたるに、其日のそらのけしき、いと長閑なれば、いそぎ内外のみやめぐりせばやと、支度あらましにして立出るに、行ほどなく今戻 りし古市のあがりくちに、はや見せいだして、めいめい小屋に、引たつる、いにしへのお杉おたまが、おもかげをうつせし女の、二上りてうし
    「ベンベラベンベラチヤンテンチヤンテンチヤンテン」
トむせうに引たつるうたのしやうがは何ともわからず、往来の旅人此女のかほにぜにをなげつくるを、それぞれに顔をふりよける
 弥次「あつちらのしんぞう(新造)がゑくぼへ、ぶつつけてやろう」
ト銭二三文なげると、ちやつとよけてあたらず
    「ベンベラベンベラ」
 北八「ドレおれが、あてゝ見せやう、ハアこれはしたり」
 京「なんとして、おまいがたが、どないにほりつけさんしても、てき(敵)らがさすもんじやないわいの」
 弥次「こんどは見なせへ。ハアこれはいな」
 北八「ヲヤヲヤさしぐるみやらかしたな。それでもあたらぬ。コリヤしよふがある。あんまりつらがにくい」
トちいさな石ころをひろいて、なげつくると、かの女、ばちにてちよいとうけ、なげかへせば、弥次郎のかほへぴつしやり
 弥次「アイタヽヽヽヽ」
 北八「ハヽヽヽヽ、こいつは大わらひだ」
 弥次「アヽいてへいてへ」

 とんだめにあいの山とやうちつけし 石かへしらる事ぞおかしき

 かくて爰(ここ)を打すぎ、中の地蔵町にいたる。左りのかたに本誓寺といふ勝景の地あり。また寒風といへる名所もあり。五知の如来、中河原、さまざまし るすに遑(いとま)なし。夫より牛谷坂道にかゝれば、女乞食共、けはひかざりたるが、往来に銭を乞ふ。又十一二三の女子ども、紙にてはりたる笠のいろどれ るをかぶりて
    「やてかんせ、おゑどさんじやないかいな。さきな嶋さん、はな色さん、ほかぶりさん、やてかんせ。ほうらんせ」
 弥次「やかましい。つくなつくな」
 こつじき「アノいわんすこといな。おゑどさんじや。ちやとくだんせ」
 北八「ヱヽひつぱるな。ソレまくぞまくぞ」
トよいかげんに、ばらばらとぜにをほうり、出せば、こつじきどもめいめいひろひて
    「よくくだんしたや」
トひとりひとり礼をいふ。このさきに又、七八才ばかりのおとこの子、白きはちまきをして、そでなしばおりにたちつけなどをはきたるが、手にさいはい、あふぎなどをもちおどる、うしろに、あみがさきたる男、さゝらをすりすり
    「ヤレふれふれ、いすゞ川、ふれふれちはやふる、神のおにはのあさ清め、するやさゝらの、ゑいさらさら、ゑいさらさ、ソレてんちうじや。やてかんせ、やてかんせ」
 北八「ソリヤやてかんすぞ。しかも四もん銭だ」
 乞食「四文ぜになら、つりを三文くだんせ」
 弥次「こいつむしのいゝことをいふ。時にこの橋はうぢはしといふのか」
 京「さよじや。アレ見さんせ。網でぜにをよふうけてじや」
 北八「ドレドレ」
トはしの上よりのぞきみれば、竹のさきにあみをつけて、りよ人の、なげせんをうけとめる
 京「弥次さん。小せんがあらば、ちくとかさんせ」
ト弥次郎がぜにをかりて、さつさつとほふりなげる。下にはみなうけとめる
 京「ゑろうふおもしろいな。よふうけくさる。もちつとほつてこそかい。コレきた八さん。おまえもつとかさんせ。ソレ又ほるぞほるぞ。ハヽヽヽヽ、ゑらいゑらい」
 弥次「コレ京のお人。おめへ人のぜにばかりとつてなげる。ちとおめへの銭をもなげなせへ」
 京「よいわな。おまいがたの銭じやてゝ、わしがぜにじやてゝ、かはりやせんわいの」
 弥次「それだとつて、あんまりあたじけねへ」
 京「ナニわしが此まい、参宮したときわな、きかんせ、ゑらいあほじやあつたわいな。こゝで銭五貫か、拾〆ほつたわいの。あんまりつらのにくいほど、よふ けおるさかい、何じやろと、こんどは網やぶつてこまそと、ふところに丁銀が一まいあつたを、ツイとほつてこましたら、やつぱり網でうけくさつたさかい、コ リヤどふじやいな、丁銀ほつたら網がやぶりよかとおもふたに、ねからたわいじや。どしてあみに、とまりくらつたしらんといふたりや、下におるやつめが、ソ リヤとまるはづじやとぬかしくさる。なぜじやといふと、ハテ網の目に、かねとまるじやと、ゑらふわしを、へこましくさつたわいの、ハヽヽヽヽ。サアサアい こわいな、いこわいな」

 なげ銭をあみにうけつゝおうらいの 人をちやにする宇治ばしのもと

 是より内宮、一のとりゐより、四ツ足の御門、さるがしらの御門をうちすぎ、御本社にぬかづきたてまつる。是天照皇太神にて、神代よりの神鏡神劔をとつて、鎮座したもふところなりと

 日にましてひかりてりそふ宮ばしら ふきいれたもふ伊勢の神かぜ

 ここにあさ日のみや、豊の宮よりはじめて、河供屋ふるどのみや、高の宮、土のみや、其外末社、ことごとくしるすにいとまなし。風のみやへかゝる道に、みもすそ川といふ有

 引ずりていく代かあとをたれたもふ 御衣裳(みもすそ)川のながれひさしき

 すべて宮めぐりのうちは、自然と感涙肝にめいじて、ありがたさに、まじめとなりて、しやれもなく、むだもいはねば、しばらくのうちは順拜おはりて、もと の道に立いで、頓(やが)て妙見町にかへり、こゝにてかの上がたものと別れ、弥次郎北八両人のみ、藤屋を昼だちとして外宮へまいる。
 是れすなはち豊受太神宮なり。天神七代のはじめ國常立(くにとこたち)の尊と申せし御神なり。神璽の宮、宝劔のみや、其外あまたの末社をおがみめぐり て、天の岩戸にのぼりたるに、弥次郎兵衛いかゞしけん、しきりに腹痛てなやみけるゆへ、そうそうに此所をおりたち、傍に休みて丸薬など用ひ、とかくするに 絶がたければ、いそぎ廣小路にいたり、宿をからんとそこ爰を見回すうち、あるやどやの亭主
    「モシモシおとまりじやおませんかいな」
 北八「アイつれのものが、少し虫がかぶるそふだから、宿をおたのみ申やす」
 ていしゆ「サアおはいりなさんせ。ソレおなべ、おくへおともせんかいやい」
 女「よふおつきでおます」
 北八「サア弥次さん、あがんなせへ」
 弥次「アイタヽヽヽヽヽ」
 北八「ヱヽきたねへかほをする。おめへコリヤアなんぞの罸(ばち)があたつたのだ」
 弥次「ナニサ罸をくつたおぼへはねへ。大かたけさの飯があたつたのだろう」
 ていしゆ「おまんまもあがりつけなさらんと、あたることがおましよわいな」
 北八「アヽコリヤいくぢのねへこつた。サアサアおくへおくへ」
 弥次「アイタヽヽヽヽ」
ト北八にかいほうせられ、ざしきにとふる。ていしゆもにもつをはこび
    「さぞ御なんぎでおましよ。おくすりでもあがりましたか。さいわいわたくし所の妻が、今月臨月でおますがな。きのふからちとすぐれませんので、いんま医者さまをよびにさんじたが、あなたも見ておもらひなさんせんかいな」
 弥次「それはどふぞ、おたのみ申やす」
 ていしゆ「かしこまりました」
トかつ手へたつてゆく。弥次郎はしきりにくるしがるよふすに
 北八「どふだ、ゆでも茶でも酒でものみたくなねへか」
 弥次「ばかアいふな。アイタヽヽヽヽ、むしやうに腹がごろごろなる。北八雪陣はどこに有ル。たずねてくりや」
 北八「おめへどこにおいた。袂でもねへか」
 弥次「あほうつくせ。ナニせつちんがたもとにあるもんだ。どこにあるか、見てくりやといふことよ」
 北八「ハアそふか。ドレ見てやろう。あつたあつた。アレ縁側のさきにおちてある」
 弥次「まだぬかしやアがる。アイタヽヽヽヽ」
トやうやうのことに立あがり、用たしにゆく。此うちやどの女、かつてより出
    「ハイお医者様がおいでたわいな」
 北八「サアサアこれへこれへ」
ト此内近所のいしやの弟子と見へて、こげちやのもめんもん付にくろちりめんのかたのひけたるはをりを、ひつかけたるぼうさま
    「ヱヘンヱヘン。これはふ順な天気あいでござる。ドレおみやくを」
ト北八のそばへすはり北八がみやくを見よふとする
 北八「イヤ私ではござりませぬ」
 いしや「ハテ達者な人の脈から見くらべねば、病人のみやくがわからんわいの。先きさまお見せなされ」
ト北八がみやくをとりしばらくかんがへ
    「ハヽアなるほど、きさまはなんともないよふじや」
 北八「さやうでござります」
 いしや「お食はどふじや」
 北八「ハイけさほど、めしを三ぜん、汁を三ばい、たべました」
 いしや「そふであろ、そふであろ。平は大かた、一ツぱいじやあろ。かへてはまいるまい」
 北八「さやうでござります」
 いしや「そふじやあろ、そふじやあろ。此脈体では、どこもなんともないよふじや」
 北八「さやうでござります」
 いしや「ナントよふ、あたりましたろう。およそ医は意なりと申て、脈体をもつて、勘考いたす所が第一でござる。きづかいない。もはやおいとまいたそふ」
 北八「モシモシ、病人を御ろうじて下さりませ」
 いしや「ほんにそふじやあつた。わしはかわつた癖で、とかく病家へまいつても、病人のみやくを見ることを、どふもわすれてならんわいの。しかし見ずともしれたことじやが、ついでに見てしんじよ。病人はどれにござる」
 北八「ハイ只今雪陣へまいつております。コレコレ弥次さん、おいしやさまがござつた。はやく出なせへ出なせへ」
ト大きなこへをすれば弥次郎せつちんの中から
    「イヤまだ出られぬ。おいしやさま、どふぞこれへお出くださりませ」
 北八「ヱヽめつそふな。おいしやさまがそこへいかれるものか。無躾なことをいふ」
 弥次「そんな今出る今出る」
トやうやうせつちんより出れば、いしやしかつべらしく弥次郎のみやくをみて
    「ハヽきこうは、コリヤ血のみちじやわいの。とかく臨月などにはおこるものじや」
 弥次「イヤわたくし孕(はらん)だおぼへはござりませぬ」
 いしや「ナニ懐胎(くはいたい)でない。ハテめんよふな。イヤコリヤわしが師匠がわるい。廣小路の伊賀越屋からよびにおこしたが、あこの病人は、産月じ やさかい、大かたちのみちがおこつたのじやろ。そのつもりで、くすりもるがよいと、おしへておこしたが、そりやきこうのことではなかつたわいの」
 北八「さようでござりましよ。血のみちはこゝの内儀のことでござりませう。この男は、それではござりませぬ」
 いしや「さよじや、コリヤわしがまちがいじやわいの。しかし、なんならきさまも、それにしておかんすと、薬もるにもいつしよにして、めんどふになふてよいがな」
 北「なるほど、コリヤおいしやさまのおつしやるとをり、弥次さん、おめへも血の道にしておくたいゝね」
 弥次「とんだことをいふ。男にちの道があつてたまるものか」
 いしや「イヤイヤ外の病気もおもしろかろ。何もわしがけいこのためじや。いつたいきさまは、何病ひじや」
 弥次「わたくしは先刻から、むしがかぶつてなりませぬ」
 いしや「大かたソリヤ腹のうちでかぶるじやあろ」
 弥次「ハイおつしやるとをり、腹のそとではござりませぬ」
 いしや「そふじやあろ。コレコレ女中、供のものにくすりばこおこせといふてくだんせ」
 女「ハイハイかしこまりました。イヤもし、おともの人は見へませんわいな」
 いしや「見へんはづじや。つれてこんさかい。くすりばこは、わしがもてきたわいな」
トさげてきたふろしきづゝみをひらき、くすりばこを取出す
 女「ヲヽおかし。あなたは竹の匕(さじ)で、煮豆もるよふにしてじやわいな」
 北八「ハアきこへた。藪医者さまだから、そこで竹のさじを、おつかいなさると見へた。そしてあなたのおくすりぶくろには、繪がかいてござりますが、どふいたしたことでござりますね」
 いしや「イヤおたづねでめんぼくないが、生得手習をいたしたことがないさかい」
 北八「ハヽアあなた無宿じやな」
 いしや「さようさよう。かいもく字がよめぬ、むしくじやさかい、それでかように、薬の名をゑにかいておきますじやて」
 北八「これはおもしろい。さやうなら、その道成寺のゑは、なんでござります」
 いしや「コレハ桂枝(けいし)じやて」
 北八「ゑんまさまは、大かた大黄(だいわう)でござりませうが、コノ犬が火にあたつておるのは」
 いしや「陳皮(ちんぴ)陳皮」
 北八「コノ産婦のそばに小便してゐるのは」
 いしや「しれたこと、山梔子(さんしし)」
 北八「印判に毛のはへたは」
 いしや「半夏(はんげ)」
 北八「おにが屁をひつておるのは」
 いしや「それは枳殻(きこく)」
 北八「ハヽヽヽヽ、おもしろひ、おもしろひ。時にお薬は」
 いしや「せんじやうつねのごとし、せふがはひとへぎおいれなさい」
 北八「わさびではわるふござりますか」
 弥次「ばかアいふな。これはありがたうござります」
ト此内なにやら、かつてのかた、にはわにさはがしく、人のあしおととんとんひゞき、ていしゆのこへとして
    「コリヤコリヤ、おなべやいやい。とりあげばゞどのへ人をやれ。ソレ久助はゆをわかせ。はやめはあるか。はやうはやう」
トさはぎたつうち、こなたには、又弥次郎が、しきりにはらいたみ出して
    「アイタヽヽヽヽ」
 北八「弥次さん、どふしたどふした」
 いしや「コリヤたまらんたまらん。病人のそばにはおられぬ」
トそうそうにげ出してかへると、かつてのかたには、ヤレとりあげばあさまのお出と、下女のおなべがうろたへて、ばゞあの手をとり、これへこれへと弥次郎が、ふとんかぶりてねてゐるところへつれてくると、とりあげばゞ
    「これはしたり、ねてゐさんしてはならんわいの。サアサアおきさんせおきさんせ」
ト弥次郎をひきづりおこせばかほをしかめて
    「アイタヽヽヽヽ」
 ばゞ「しんぼうさんせ。コレそこな人、菰(こも)はどふじやいな」
 弥次「アイタアイタ」
 ばゞ「そこじやそこじや」
トこのばゞもうろたへたうへ、いつたい目がすこしうとく、うちのさんぷとまちがへ、弥次郎がこしをひつたて、ひつたて
    「サアサアみな来さんせんかいな。コレコレこゝへ来て、だれぞこしをだいてくだんせ。さあさあはやうはやう」
トせきたつにぞ、きた八はあきれかへりて、おかしく、こりやどふしおるしらんと、とぼけたかほで、弥次郎がこしをだいてひつたつれば
 弥次「コリヤ北八どふする。アヽいてへいてへ」
 ばゞ「そないな気のよはいことではならんわいな。ぐつといけまんせぐつといけまんせ」
 弥次「こゝでいけんでたまるものか。雪陣へ行てへ。はなしたはなした」
 ばゞ「こうかへいてはならんわいの」
 弥次「それでも、こゝでいけむと、こゝへ出る」
 ばゞ「出るから、いけまんせといふじやわいの。ソレウヽンウヽヽヽン、ソレウヽンウヽヽヽン、そりやこそ、もうあたまが出かけた出かけた」
 弥次「アイタヽヽヽヽ、そりや、子ではねへ。それをそんなに、ひつぱらしやんな。アヽコレいてへいてへ」
トもがくをかまわずばゞはぐつとひつぱれば、弥次郎はらをた
    「ヱヽ此ばゞあめ」
トよこつつらをはりとばす。ばゞあきれて
    「この血ちがひは」
トむしやぶりつく。かゝるさはぎのさいちう、かつてのかたには、はや女ぼうのあんざんと見へて、あか子のなくこへする
    「おぎやアおぎやアおぎやアおぎやア」
 ばゞ「そりやこそ生れた。イヤこゝじやない。どこじゃいな、どこじやないな」
トうろたへまわるうち、弥次郎も、しきりにいたみ、せつちんへはしりこむ。ていしゆはかつてよりとんで来り
    「コレコレばあさま、さつきにからたづねておるに、もふ生れたわいの。はやうはやう」
トばゞをひつたてつれ行ば、かつてのかたには、ざゞんざのこへ
    「めでたいめでたい。三國の玉のやふな、おとこの子が生れた」
トよろこびのこへともに、ていしゆにこにこして立出
    「コレハおきやくさま。おやかましうござりませう。先わたくし妻も安産しました」
トいふうち弥次郎もせつちんより出
    「さてさてめでたい。わしも今、せつちんで、おもいれあんざんしたらば、わすれたよふに、心よくなりました」
 ていしゆ「それは、あなたもおめでたい」
 北八「おたげへに、めでたいめでたい」
トこれよりよろこびの酒くみかはして、とりあげばゞのまちがひやらなにやらかや、はなしあひて大わらひとなりける。めでたしめでたし。


2006年03月05日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
 紀州・賀田の宿の二階から久々に荘厳な朝焼けを見た。早起きはするものだ。刻々と変化する東の空に季節感はないが、やはり春の息吹を感じさせるものがあった。というより、紀伊半島の南端はそもそも暖かいのだ。

 ■神武東征の上陸地

 朝食後に隣の漁港から遊漁船に乗って湾の先にある楯ケ崎を海から眺めた。神武天皇が大和の地に向かう時、上陸したとされる地点でもある。高いところでは 160メートルにも及ぶ柱状節理の大絶壁が延々壁として続き、風景は人を拒絶する感がある。

 九州から瀬戸内海を通って、紀伊半島に上陸するにはもっともっと簡単な海浜がありそうだ。にもかかわらずこの地が上陸地とされたのは、多くの困難を乗り 越えて大和入りしたという艱難辛苦の物語が必要だったからに違いない。それにしても地の果てである。

 ■飛鳥神社

 賀田は尾鷲のさらに20キロほど先にある小さな漁港だ。湾は深く入り込んでいる。飛鳥をアスカを読ませる古い神社がある。幹の回りが11・5メートルもある樹齢1000年以上という大きなクスノキが自生しているから飛鳥神社はそれ以上の古さがあるはずだ。

 神武天皇の上陸地点の近くになぜ飛鳥という地名があるのか、前の晩、議論になった。ひょっとしたら大和の飛鳥の由来は・・・などということになったが、 後でインターネットで調べてみたら「三重ところどころ」というサイトで飛鳥神社の由来について説明があった。

「中世以来、和歌山県新宮市熊野地にある阿須賀神社の神領地で、江戸時代は紀州(和歌山)徳川家の支配をうけ御蔵領(本藩領)といわれ、北山組に属してい ました。いつごろから飛鳥の地名になったかは不明ですが、飛鳥神社からとったものと考えられます」

 それにしても、飛鳥神社の近くに「飛鳥」という地名があって、「明治43年の神社合祀令までは、飛鳥に三つの飛鳥神社(大又、小阪、神山(こうのやま))があった」というのだからまだなぞが解決されたわけではない。

 ちなみに大和の現在の「明日香村」は昭和の大合併まで飛鳥村と表記した。アスカという発音は外来語だそうだが、中国の秦の時代、不老不死の霊薬を求めた 徐福が上陸したとされる波田須(はだす)は楯ケ崎から西の半島をはさんだところにある。

 ■発想の逆転

 話は変わるが、紀勢本線の賀田駅ができたのは昭和34年だった。それまで賀田は文字通り、陸の孤島で唯一の交通機関は船だった。そう考えると身もふたも ない。汽車も自動車もなかった時代、船そのものが物流の中心だったから、賀田は海の幹線の中継基地だったと考える方が正しいのだろう。

 発想を逆転させると見える風景が変わるかもしれない。戦後の日本は海を忘れてしまった。生活や交通の手段だった河川や湖の役割を忘れてしまっただけなのである。

 昭和30年代まで、名古屋空港から鳥羽湾を経由して大阪の八尾空港に跳ぶ航空路があったという話を聞いたことがある。鳥羽に空港などはなかった。飛行艇が飛んでいたのである。あーそうだったのかと合点した。

 若い層には飛行艇といってもピンと来ないかもしれないが、いまでも自衛隊などで多く活躍している。いまでも新明和工業という会社が水陸飛行艇を製造して いる。主に洋上救難用であるが、同社は、国内初の「大型輸送機」として輸出を視野に営業活動を行っているそうだ。

 多大な空港建設費用を考えれば、日本の地域間航空輸送手段として飛行艇を復活できないか。飛行場がない小笠原に高速艇の就航計画が断念されたという ニュースを昨年目にしたが、そもそも緊急時には飛行艇が飛んでいるのだ。週に1便でも飛ばすことができないのか。1万4000トンの客船より飛行艇の方が 運行コストはずっと安いと思うのだが。

 紀伊半島のひなびた漁村での思いは、神武天皇から飛行艇に飛躍してしまった。
2006年02月23日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
  三重県に来てから2年が過ぎた。一番多く訪れたのはやはり伊勢神宮である。平均すれば月に2回は訪ねている。内宮を参拝するとき、必ず別宮の風日祈宮(か ぜひのみのみや)にも立ち寄る。風日祈宮は五十鈴川の辺にあり、風の神さまである級長津彦命(シナツヒコノミコト)を祀る。外宮にも風宮があり、同じシナ ツヒコを祀る。

 内宮の参拝者のほとんどは風日祈宮を訪れない。それもそうかもしれない。神宮のお社はほとんど同じ形をしていて、区別がつかないから面白みがないのかもしれない。

 しかし、それぞれの宮や社には存在する意味がある。その面白みは日本書紀や古事記を繰り返し読んでいるうちに自然と身に着く。偉そうにいっても筆者はその現代訳しか知らない。それでも知らないよりずっとましなのだ。

 神話によると日本をつくったのは、イザナギとイザナミということになっている。淡路島をまずつくったが出来が悪かった。次に大和。大日本豊秋津洲(おお やまととよあきつしま)という美しい名前が付いた。さらに伊予洲と筑紫洲が生まれ、隠岐、佐渡の双子が出来た。その後に生まれた越、大洲、吉備の合計8つ の州をあわせて大八洲(おおやしま)と呼ぶ。次いで山川草木を生み出した。

 二人はさらに子づくりに励んだ。最初に生まれたのは天照大神。太陽神のアマテラスで、次は月の神だった。月読尊(ツクヨミノミコト)という。ともに見目 麗しかったので天に送った。3番目は蛭子で、4番目が素戔嗚尊(スサノオノミコト)だった。最後に火の神、軻遇突智(カグツチ)が生まれたが、伊弉冉尊は その時、火傷を負って死んでしまう。この一連の物語を「神産み」という。この中で二人は風の神も生む。級長津彦(シナツヒコ)である。級長戸辺(シナト ベ)ともいう。

 日本が神風の国だという根源の神さまである。日本の歴史で神風が吹いたのはそう多くない。元寇の折りには神風が日本を救った。今回のトリノ・オリンピックのジャンプ陣には神風は吹かなかった。

 話を転じる。伊勢国の枕ことばは「神風」である。垂仁天皇の御代に倭姫命(ヤマトヒメノミコト)が天照大神を伊勢の地にお祀りした際に、天照大神が述べたことばが日本書紀に出ている。

「この神風の伊勢国は、常世(とこよ)の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり。この国に居らんと欲(おも) う」。伊勢国は常世の浪がくりかえしよせる国である。大和の国の近くにある美しい国である。だからこの国に住みたいと思う。

 歴史解説書は「常世」や「可怜し国」について多く語っているが、筆者は「神風」が気になってならなかった。三重県に住んでいるとやたら「風」というキーワードが出てくるからである。 

 三重県の中部を南北に走る青山高原には本州屈指の風力発電基地がある。風車はすでに24基あり、総発電能力は1万8000キロワット。3月には2000 キロワットの発電規模の風車が8基新たに加わり、3万4000キロワットとなる。

 2年前の秋、三重県は台風銀座となった。毎週のように大型の台風がこの地を襲った。秋口には伊勢湾岸が台風の通り道になる。古来、伊勢地方の住民は台風 の襲来に備えることを常としてきた。尾鷲という地名は多分、台風や大雨の代名詞として多くの日本人の記憶に刻まれているに違いない。

 伊勢湾から関に抜ける道はそのまま鈴鹿越えで琵琶湖へと風が抜ける。もっと北側の鈴鹿を越えて近江八幡に抜ける街道にまで八風街道という名が残ってい る。三重大学の農学部の元教授に同大の風力発電実験施設を見せてもらったことがあるが、この元教授が言っていた「伊勢は風の通り道なんです」という一言が 耳にこびり付いていた。

 元教授がつぶやいた一言が伊勢神宮の意味を思い起こさせた。そういえば伊勢の枕ことばは「神風」である。いつの間にか、伊勢の国津神は風の神だったのではないかということを考えるようになっていた。お伊勢さんの原型が風神だったらおもしろい。

 太陽は恵みの神であるが、風はそうではない、特に台風は禍そのものであり、古くから沿岸に住み着く海民にとって日々、命を預ける存在である。神を祀るの は自然の恵みに対する感謝である一方、災いを免れるための祈りでもある。

 現在社会で事故があった道に信号機が設置されるように、太古では災害があった場所に祠を建てるのはごく自然のことであった。死者が出れば人々がその場所 に「花を手向ける」のも自然な感情の表れであろう。自然の感情で風の通り道に祠が生まれても不自然でない。

 三重県にとって風の道をもっと現代に蘇らす発想が必要なのかもしれない。

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