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2006年10月30日(月)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■満州をめぐる因縁

 マッカーサー解任を見てみよう。マッカーサーが中国の海上封鎖、満州への原爆投下も辞さない爆撃、国民党軍の中国南部侵攻を提案したことがトルーマンと の対立を生んだと言われている。日本に続いてマッカーサーもまた満州という虎の尾を踏んだのである。この点について松本重治が非常に興味深い裏話を披露し ているので紹介しておきたい。

 松本は『上海時代』(中公文庫)や『われらの生涯のなかの中国』(みすず書房)で、原爆をも視野に入れた満州爆撃を止めさせたのは19世紀にアヘン貿易 で巨大な富を築いた香港の英国系大財閥ジャーディン・マセソンのオーナー一族の一人、ジョン・ケズウィックだと書いている。ジョン・ケズウィックが満州爆 撃の中止を求めて当時のクレメント・アトリー英首相(労働党)をワシントンに飛ばせた。そして、この事実はジョン・ケズウィック自身も認めていたと書いて いる。

 ジョン・ケズウィックはその理由として「中国人民がこれ以上の戦禍に巻き込まれることは堪えられなかった」としているが、明らかにビジネス上の計算があったはずだ。従って、マッカーサーを間接的に解任に追い込んだのはジョン・ケズウィックだったということになる。

 ケズウィック・ファミリーと日本との繋がりも深い。長州ファイブを支援したのもジョンの祖父・ウィリアム・ケズウィックだった。松本は共同通信の前身で ある同盟通信上海支局長時代にまたデービッド、トーニー、それにジョンのケズウィック3兄弟と出会い、このジャーディン・マセソン人脈を頼りに英国紳士が 集う「上海クラブ」に入会する。松本の招きでこの上海クラブのゲストとして優遇されたのが樺山愛輔であった。松本はケズウィック3兄弟の親友となり戦後も その親密な関係は続いた。

 このジョン・ケズウィックはビジネスマン以外にもう一つの顔を持っていた。英国が中国に送りこんだ工作員だったのである。すでに紹介した英国特殊作戦執 行部(SOE)の中国での活動指揮にあたっていたのがジョン・ケズウィックだった。そして、ジョンはコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員 も出入りしていた国際問題研究所(IIS)とその下部部門の資源調査研究所(RII)を活用して、巨大なスパイ網を掌握した。さらに42(昭和17)年に 独立した連絡事務局を設置し、自由フランス代表団や内務人民委員部(NKVD、KGBの前身)、米戦略事務局(OSS、CIAの前身)、インド方面軍司令 部から送りこまれた英国各機関との関係を密にしている(『日・米・英「諜報機関」の太平洋戦争』リチャード・オルドリッチ・光文社)。このスパイ活動の目 的は日本と戦う中国をどうやって援助できるかであった。

 松本がジョンの裏の顔を知っていたのかどうかは不明であるが、二人の間で極めて深刻な情報のやりとりが行われていた可能性が高い。このジャーディン・マ セソン人脈の中に吉田茂もいた。むしろ、吉田こそがその元祖と言える。吉田の養父である吉田健三はジャーディン・マセソンの横浜支店支配人であった。ただ し、ケズウィック3兄弟を吉田に結び付けたのは松本である。吉田が戦後初めて訪英した際、松本がケズウィック兄弟を通じてお膳立てしていたのである。

 現在の北朝鮮問題に通じることだが、吉田は朝鮮有事が米国有事であっても日本有事につながるとは考えていなかった。背後にいるソ連は断じて軍事的な侵攻 で日本を脅かすことがないと確信していた。吉田が米国のみの情報に頼っていれば、米国の思惑通りの再軍備に走っていたであろう。

 吉田の確信が単なる勘に頼っていたとは思えない。おそらく松本やジャーディン・マセソン人脈などを通じて広範囲に情報を入手していたものと思われる。今吉田が生きていれば、米国のためだけに舞い踊ることだけが国益ではないと断言したであろう。

 なお中西輝政などが中心に右派系言論誌などではコミンテルンの策略によって日本が戦争に追い込まれたかのような論説が飛び交っている。しかし、英国とい うスパイ王国の関与に言及したものは皆無に等しい。一方でこうした歴史を今なお無視し続ける左派などはもはや問題外と云える。

 大敵の存在はイデオロギーなども飛び越えて周辺を結びつける。重ねて書くが、いざ戦争となれば、策略、謀略などは当たり前。むしろ嵌められる方が悪いのである。嵌められやすい日本の体質改善が今なお手つかずのままになっていることの方がより重大な問題であろう。

 ■靖国神社をめぐる因縁(1)

 結局戦争を回避できなかったのは戦前期の(太平洋問題調査会(IPR)などに集う日本の自由主義者グループが非力だったのである。『日米関係史3』(東 京大学出版会)に収められている『国際主義団体の役割』と題する論文には「自由主義的民間団体の敗北は、組織的に行動し得なかった自由主義者の政治行動の 敗北でもあった。」と結んでいる。この論文の筆者は国連難民高等弁務官として世界的に名を馳せた緒方貞子(現国際協力機構理事長)である。

 緒方貞子はIPRのロックフェラー人脈を受け継ぐトライラテラル・コミッション(TC)のアジア太平洋委員会委員を務め、その夫・緒方四十郎がアジア太 平洋委員会副委員長を務める。グローバリストが集うTCには富田メモを掲載した日本経済新聞社の専務取締役や論説主幹を務めた小島明も委員として名を連ね ている。従って、富田メモの公開が、日米間、日中間の摩擦回避に向けたグローバリスト達の組織的な政治行動であったとする見方も成り立つ。

 今や緒方貞子は麻生太郎やTCの小林陽太郎・アジア太平洋委員会委員長とともに日本のカトリック人脈の代表格である。靖国神社とカトリックとの関係は、 特に『諸君!』を中心に右派系言論誌で今や大流行で、長州系宮中グループの血を引く安倍晋三も『美しい国へ』で軽々しく取り上げている。

 当時マッカーサーは軍の意向や米国プロテスタント側の考えから靖国神社を廃止する計画だった。マッカーサーは意見を聞くためにカトリックのブルーノ・ ビッター(ビッテル)神父(当時駐日ローマ法王庁代表、バチカン公使代理)とメリノール会のパトリック・バーン神父を招いた。

 不思議なことに靖国原理主義者達はビッター神父だけを取り上げることが多い。開戦後、メリノール会宣教師は日米交換船によって全員本国送還となったが、 唯一の例外として京都に留まったのがバーン神父である。日米和平交渉の糸口として、日本政府官憲による身柄の保証を条件に、河原町教会から高野教会に移さ れる。バーン神父の食糧不足を見るに見かねて、人目をしのんで、食糧を援助していたのが「モルガンお雪」だった。米国のモルガン財閥一族と結婚し、夫と死 別後、京都に住んでいた。

 ビッター神父とバーン神父の二人はマッカーサーに対してこう意見する。

「わたしたちは、それ(靖国廃止)に反対です。(略)靖国神社の存廃はその本質にかかっていることで、こんどの戦争の正不正とは関係がありません。いかな る国民も、祖国のために身命を賭した人びとに対して、尊敬を表わし、感謝を献げることは、大切な義務であり、また権利でもあります。(略)いま靖国神社は 神道の単なる霊廟ではなく、国民的尊敬のモヌメントであることを申し上げねばなりません。なぜなら、そこには、神、仏、基いずれの宗教を問わず、戦没者の 英霊が平等に祀られているからです。したがって、このようなものを廃止するのは、国民の大切な義務と権利を否定することになりはしないでしょうか? それ ばかりでなく、もしこれを廃止したら、どういう結果が起こるか考えるべきです。それは天皇を廃止すると同様に、国民の感情を強く傷つけ、占領政策を危うく することになりはしないでしょうか? 以上の理由で、国民を現下の精神的混乱から救うためにも、わたしたちは、靖国神社の存続を希望するもので す。」(『教会秘話』志村辰弥・聖母文庫より、一般的に『マッカーサーの涙』・朝日ソノラマ刊が引用されることが多いが、『マッカーサーの涙』が入手でき ないため『教会秘話』を用いた。)

 数日後、司令部は二人の意見を取り入れた指令を発表、ここで靖国神社の存続が認められた。『教会秘話』によれば、その指令には次の文言が入っていた。

「ただし、今後は国がこれを管理し、いずれの宗教においても、そこで固有の宗教儀式を行うことができ、それらの費用はすべて国が支弁すべきである」と。つまり、この時点で靖国神社の存続は再国有化が前提となっていた。

 後日談も残されている。『教会秘話』を書いた志村辰弥神父は当時ビッター神父と行動を共にしていた。後に高橋紘とのインタビューに応じた志村神父は次のように語ったことが『天皇の密使たち』(文春文庫)に記されている。

「あの当時はたしかにああした気持ちでした。しかし、今こういう(右傾化の)時代になりますとね、私たちの判断が正しかったかどうか」

 右派のご都合主義はこうした志村発言を完全無視する姿勢にも表れている。

 ■靖国神社をめぐる因縁(2)

 南部藩士の父を持つ東条英機と板垣征四郎親子は、賊軍にしてA級戦犯の汚名を着せられることになる。そして、陸軍悪者論が歴史に刻み込まれた。

 今一度富田メモを振り返ろう。このメモで東条や板垣らA級戦犯の合祀に踏み切った人物として靖国神社宮司、松平永芳の名前があった。

 毎日新聞(8月6日朝刊)によれば、富田メモ報道の8日後に最高意思決定機関である崇敬者総代会が緊急招集され、山口建史権宮司が「厚生省から66年に 祭神名票が送られ、70年の総代会で『速やかに合祀すべきだ』と青木一男氏から提案があり、了承されました。78年10月6日の総代会で松平永芳宮司から 提案があり、再度了承しております」と説明し、小田村四郎・前拓殖大総長が「松平宮司が独断でやったのでないことを(世間に)言うべきだ」と語ったとされ る。

 また、半世紀にわたり昭和天皇に仕えた徳川義寛元侍従長も「戦時中に大東亜大臣をしていた青木一男さん(当時参院議員)が強く推進した」と証言している。

 この青木の近くに長州系宮中グループの生き残りである岸信介がいた事実がある。

 総代会の最強硬派として知られた青木は大蔵省を経て、企画院次長から大東亜大臣となり、戦後A級戦犯として巣鴨拘置所に収容された。青木と共に最後まで 拘禁されていたのが岸である。巣鴨を出た二人は、揃って工作機械の名門・津上製作所(現ツガミ)の社外重役を務めた。(岸は津上製作所以外にも日東化学の 監査役、東洋バルブの会長を務めていた。)

 日経産業新聞(1993年1月4日付)は、後に明らかになった米国の資料から、日本のあらゆる軍需生産の基礎となる津上製作所のゲージブロック工場を壊 滅させるために、新潟県長岡市が米軍の原爆投下目標となっていたと書いている。この米国資料が不明のため、真相はわからない。ただし、広島、長崎への原爆 投下直前に、米軍が予行演習として「原爆模擬爆弾」が全国で計49発投下され、その中に長岡市左近町も含まれていた事実はある。

 原爆や空襲の犠牲者、そして薩長に逆らった賊軍も祀られていると思われる鎮霊社が、靖国神社の本殿脇にひっそりとたたずんでいる。靖国側によれば「靖国 神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊が祀られています」とされている。

 実はA級戦犯は一時鎮霊社に祀られてから本殿に合祀されたようだ。そうなるとA級戦犯が鎮霊社から分詞されたことが過去すでにあったということになる。分詞を拒む靖国の矛盾がここにある。

 現在の靖国神社宮司は南部利昭、姓が示すとおり南部藩第45代当主である。かつて家臣の無念は今なお本殿と鎮霊社に切り裂かれている。南部藩はまたもや長州によって担がれているのであろうか。

 実は日本における新渡戸稲造を生んだ新渡戸家も南部藩の功臣であった。新渡戸の願いである「われ太平洋の橋とならん」は南部藩当主にして靖国神社宮司である南部利昭に今重くのしかかる。

 実家と事務所を放火された加藤紘一は、石原莞爾と同じく庄内藩士の血を引いている。しかも、加藤家と石原家は縁戚関係にある。外務省出身が影響している と思われるが、中国や韓国を持ち出しての靖国神社参拝批判は現状の日本では逆効果でしかない。靖国問題とは国内問題であり、庄内藩士の血を引く日本人とし て正々堂々と議論をすればよい。

 この点で麻生太郎を見習うべきだ。保守本流を担う麻生は自身のホームページの「靖国に弥栄(いやさか)あれ」で、靖国神社を可能な限り政治から遠ざけ、静謐な、祈りの場所として、未来永劫保っていくために、靖国の非宗教化、即ち再国営化を提言している。

 薄っぺらい歴史観を持つえせ日本人などは麻生の主張を戦時回帰と見なすだろう。しかし、麻生の主張は靖国の発祥である東京招魂社に戻すという原点回帰で あり、批判には当たらない。麻生はさらにこう続ける。靖国は神社本庁に属したことがなく、戦前は陸海軍省が共同で管理する施設であり、靖国の宮司もいわゆ る神官ではないこと。さらに、「靖国神社は、古事記や日本書紀に出てくる伝承の神々を祀る本来の神社ではありません。」と言い切った。

 薩摩系宮中グループの血を引く麻生は祖父である吉田茂夫妻の影響からカトリックとなった。都合のいい時だけ靖国神社の救世主のようにカトリックを取り上げる右派系言論誌や安倍晋三は麻生の意見に対して沈黙を続けている。

 ■自民党をめぐる因縁

 「近衛上奏文」によって反戦信任状を手にした薩摩系宮中グループは、「反ソ・反共」が追い風となって米国との強い絆を生みだした。首相の座についた吉田 茂は、サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結、米国と二人三脚で「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」を軸にした吉田ドクトリン を掲げて、保守本流として揺るぎない地位を築いて行く。しかし、この吉田ドクトリンは、皮肉にも自らも関与した「昭和天皇=平和主義者工作」を通じて生み 落とされた憲法九条によって、その限界も明らかになる。

 この吉田の限界を見抜いた岸信介も不死鳥の如く復活する。A級戦犯容疑を解かれた岸は、満州人脈や巣鴨人脈を再結集させ、仕返しとばかりに吉田一派を 「ポツダム体制派」とするレッテル貼りを行い、鳩山一郎と共に反吉田旋風を巻き起こす。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクト リンを掲げた。 

 岸は防共協定の日独を打倒した米国に対する不信感を抱きつつも、吉田の元祖「反ソ・反共」に対抗するために、後に反共から勝共へと発展させていく。米ソ冷戦を利用することで、日本の真の独立を勝ち取ろうとしたのである。

 しかし、岸政権も日米安保条約改定は成し遂げたものの、結果として見れば、素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改正までも見送った。狸と狐の騙し合いによって憲法九条を楯にする戦略が今まで受け継がれてきたのである。

 岸も国内経済の再建を重視せざるを得ず、軍事費と軍備水準を飛躍させようとはしなかった。満州に端を発する社会主義的な官僚統制経済システムによって日 本株式会社を完成させたかに見えるが、吉田の経済復興路線の継承の上で成立し得たものである。現実に直面した岸ドクトリンはやがて吉田ドクトリン化してい く。その評価は長く保守傍流に追いやられた。

 この岸が一年生代議士時代に反吉田勢力の同志40名を虎の門「晩翠軒」に集めたことがある。これが後の岸派の母体になった。保守合同前に鳩山一郎と岸が 中心となって結成された日本民主党には晩翠軒メンバーも参加している。その一人が小泉純也、つまり小泉純一郎の父である。薩摩出身でありながら岸に合流し た小泉純也の異端ぶりは、その息子にも引き継がれた。

 保守本流を自負した宏池会は、池田、大平、鈴木、宮沢と4人の首相を輩出してきたが、加藤の乱を経て現在は丹羽・古賀派、谷垣派(谷垣禎一)、河野派 (麻生太郎)に分裂し、往時の勢いを失う。元祖「反ソ・反共」の吉田がまいた種から飛び出てきたのは意外にもハトだった。弱ったハトによってバランスを欠 いた中で登場したのが小泉である。

 この小泉が掲げた改革路線も実は原点回帰に過ぎない。宮崎正義が描き、岸が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か 年計画」も「小さな政府」を目指した行政機構の抜本的な改革であった。内閣の規模を三分の一に縮小しつつ、中央集権体制の中心機構として総務庁が新設され る。その下で経済各部門の国家管理を提唱した。

 「官から民へ」も行政機構の大改革となった中央省庁再編で旧自治省、旧郵政省、旧総務庁が一緒になった総務省などの巨大官庁が誕生、その下で中央集権体制を維持したまま小泉改革が実行される。郵政も含めてそもそも完全な民営化などできるはずがない。

 この小泉は8月に山口県に入り、長州藩の思想家・吉田松陰と幕末の志士・高杉晋作ゆかりの地を訪れる。このイベントによって「改革ロマン」は長州8人目の本家に委ねられた。

 結局「改革ロマン」も岸ドクトリンへの回帰に過ぎない。「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンに向けたたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートし、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれたのである。

 首相就任後の安倍晋三を見ていると岸から受け継がれたDNAがはっきり見える。それは妖怪でもカミソリでもなく、「両岸」である。

 安倍晋三の父方の祖父は安倍寛。翼賛選挙といわれた1942(昭和17)年の総選挙で軍部を批判、政府側の推薦を受けずに再選を果たした。その反骨心から「昭和の松陰」あるいは「今松陰」と慕われた。

 父・安倍晋太郎は安倍寛の血にこだわった。しかし、安倍晋三は隠し続けてきた。小泉がエルヴィス・プレスリーなら、安倍晋三が成蹊大学時代に聴いていた のがキャロル・キングだったと言う。当時アルバム「タペストリー(つづれおり)」が流行っていたという理由だけかもしれないが、何かここに安倍寛につなが る安倍晋三の感性の根っ子があるような気がしてならない。

 安倍晋三にとって頼みの米国人脈はリチャード・アーミテージ前国務副長官やマイケル・グリーン前国家安全保障会議アジア上級部長とされるが、すでに二人 とも政権を去った。ブッシュ政権とて決して安泰と言える状況ではない。時にはジョン・ケリーの応援歌にもなったキャロル・キングの「ユーヴ・ガット・ア・ フレンド」でも口ずさめば新たな友達に出会えるかもしれない。

 平成の時代にあってリアリストの立場を堅持しながら、「右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なる存在」として、そつなく両岸を操れば、岸を越える存在になるのだろう。

 安倍晋三の背後にはさらに強力な第三の男・中川秀直がいる。中川の岳父である中川俊思も鳩山・岸の日本民主党の同志だった。中川は新たな保守本流の地位 と岸ドクトリンの完遂を目指して、米共和党タカ派中枢のカール・ローブ大統領上級顧問や水曜会のグローバー・ノーキスト全米税制改革協議会(ATR)会長 にまで人脈を拡げながら着々と準備を進めている。

 はたして小泉から始まったたすき掛けリレーは新たな保守本流の座を手にすることができるのだろうか。吉田茂を超えることができるのだろうか。悲しくもこれまた米国の意志で決まるのかもしれない。

 □あとがき

 「ビッグ・リンカー達の宴2」から「薩長因縁の昭和平成史」に至る一連のシリーズの皆様からたくさんの応援メールを頂き本当にありがとうございました。 新渡戸基金、キリスト友会、国会図書館の皆様方、関屋貞三郎氏の貴重な資料を提供いただいた平福様と藤尾様、いつもながら貴重なアドバイスを頂戴した坂本 龍一様、伴様、大塚様、寶田様、津田様には深く感謝申し上げます。なお、バック・パッシング理論についてさらに深く知りたい方には、今年12月末頃に発売 が予定されている奥山真司君が手掛けたジョン・ミアシャイマーの翻訳本をお勧めいたします。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2006年10月18日(水)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(1)

 日本の国体護持と昭和天皇の戦争責任追及回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が完璧に実行された。実行したのは薩摩系宮中グループと新渡戸稲造やギルバー ト・ボールズが築いた日米クエーカー人脈である。彼らは昭和天皇を御護りするために完全に合体した。そして、確かに昭和天皇を救い出したのである。この結 果、生まれ落ちたのが日本国憲法の象徴天皇制であり、憲法第九条である。

 憲法九条の制定過程について様々な議論が交わされてきた。その発案者については、これまで幣原発案説やらマッカーサー発案説、それに幣原・マッカーサー意気投合説、あるいはケーディス・ホイットニー共同発案説、天皇発案説などが取り上げられてきた。

 しかし、憲法九条をどこからどう読んでもクエーカーの信条そのものであって、まずここからスタートしないことに無理がある。頭を柔らかくして「真昼の決闘」や「友情ある説得」などの映画を見ればいい。その登場人物に現在の日本に重なる姿を見出せる。

 これを説く鍵は良心的兵役拒否者にある。コンシェンシャス・オブジェクターは日本では良心的兵役拒否者と訳されることが多いが、これを良心的参戦拒否者と訳せばより身近に感じられるだろう。

 日本国憲法に関わった人物の中で明らかに良心的兵役拒否者であったのはヒュー・ボートンである。ジョセフ・グルーのシカゴ演説が米国務省日本派の重要人 物であるヒュー・ボートンを大いに勇気づけたことはすでに書いた。このボートンも敬虔なクエーカー教徒であり、アメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の 一員として1928(昭和3)年に来日し、ギルバート・ボールズの補佐役を務めた。後に太平洋問題調査会(IPR)での日本研究が認められ、国務省で対日 政策立案の中心を担う。

 クエーカーは古くから平等、平和、戦争放棄、奴隷制廃止、女性参政権、精神障害者保護、刑務所改善などを主張してきた。ボートンの祖父は南北戦争に異議 を唱え、以後ボートン一家は公然と戦争反対を訴え続けてきた。ボートンもクエーカー教徒であるという理由で徴兵名簿に良心的兵役拒否者として登録していた のである。

 この宗教的、思想的信条から徴兵を拒否するコンシェンシャス・オブジェクションの制度がアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の尽力もあって米国で最 初に法制化されたのは南北戦争の時である。良心的兵役拒否者は代替業務として病院勤務もしくは解放奴隷保護、または代人をたてるか代償金300ドル(南部 では500ドル)の支払いを求められた。この内、代人と代償金制度は貧富の差があるとの反発から第一次世界大戦の際に廃止されている。

 代償金を湾岸戦争時の多国籍軍に対する総額130億ドルの拠出に、代替業務をイラク戦争時の人道復興支援活動及び安全確保支援活動に置き換えれば、良心的かどうかは議論の余地があるにせよ、日本が良心的兵役拒否者のような存在であることがわかる。

 日本と同じく敗戦国となったドイツでは68年に復活した徴兵制以前からドイツ連邦共和国基本法(49年制定)においてコンシェンシャス・オブジェクションを基本権として明記している。

 日本とドイツ両国に共通するのは敗戦国としての宿命を背負ってしまったことだ。無力な敗戦国に戦勝国の出兵要求を拒否できるわけがない。戦力放棄をもっ て世界初のビックリ憲法と称しながらも「憲法九条は救国のトリックだった」とする堤堯の『昭和の三傑』(集英社インターナショナル)が面白い。堤が豊富な 取材経験と膨大な資料によって打ち出した仮説はアイデア満載である。堤はあの三島由紀夫とのインタビューでこう話している。

「三島さんは不愉快に思うかもしれませんけど、憲法九条って実に巧みな条文だと思います。これあるために日本人は戦争に駆り出されずに済んで来た。古来、 A国に負けたB国の戦力が、C国への侵略・制圧に使役される例は枚挙にいとまがないですよね。日本は朝鮮戦争にもベトナム戦争にも行かずに済んだ。(略) 憲法九条を楯にとって。いわば憲法九条は『救国のトリック』だったと思います。」

 これを以前から紹介してきた国際戦略用語としてのバック・パッシング(責任転嫁)理論に置き換えてみよう。バック・パッシングとは大国が新たな脅威に対 して、他国に対峙させ、場合によっては打ち負かす仕事をやらせる戦略を言う。責任を押し付ける側はバック・パッサー、押し付けられる側はバック・キャッ チャーと呼ばれる。

 つまり、大国Aはバック・パッサー、B国はバック・キャッチャーとなる。堤が語るようにこれが勝者と敗者の関係であればなおさら黄色い日本はもはや米国 の手下として責任を押し付けられたのだろうか。少なくとも日本はソ連などの共産主義への防衛拠点にされていたのであろうか。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(2)

 当時の状況を見ると堤が指摘するほど単純ではなかったようだ。日本国憲法の立案に主導的な役割を果たし、後に国家安全保障会議(NSC)に吸収されるこ とになる国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の海軍省委員であったロレンツォ・S・サビン海軍大佐は、防衛拠点としての利点よりも日本の再軍備 自体の危険の方がはるかに上回ると指摘しながら、再軍備禁止を絶対的なものとして主張していた。

 サビンは45(昭和20)年11月15日付の意見書で「少なくとも無期限に、日本は陸軍も海軍も持つべきではない」と明言した。そして、この意見書が憲 法改正指令及び制定方針を記した「日本の政治機構の改革(SWNCC228)」第4段第b項第2号の「国務大臣文民制」に反映される。原秀成はこのサビン 意見書が憲法九条の戦争放棄と戦力不保持の重要な起源となっていると主張している(『日本国憲法制定の系譜2』日本評論社)。

 しかし、将来を見込んで日本をバック・キャッチャーに仕立て上げる戦略も実行に移されていた。バック・キャッチャーには新たな脅威に対抗できるだけのパ ワーが必要であり、それを支える経済力や技術力も必要となる。米国はあくまでも共産主義に対抗するために日本の経済再建を押し進める。

 やがて武装解除と民主化という名の米国化を目的とした占領政策が軌道に乗り始め、朝鮮戦争が目前に迫ると、米国は日本に再軍備を要求する。この時点ですでに米国はサビン意見書との矛盾を曝け出した。

 吉田狸は米国の矛盾をあざ笑うかのように軍事的には頼りにならない経済大国へと邁進していく。米国にとってもはや現在の日本は戦力外通告国のような存在となっていることだろう。しかし、日本も経済力を武器に共産主義に対する防波堤の役割を十分に果たしてきたとも言える。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(3)

 それでは憲法9条の発案者から見ていこう。『戦後日本の設計者』(ヒュー・ボートン・朝日新聞社)の訳者である五味俊樹は、そのあとがきで「自己の宗教 信条であるクエーカーの平和主義が(ボートン)博士の生きざまに色濃く反映していた」としながら、「政策立案の過程においても、博士の信念が貫かれてい く」とした上で、『具体的には、「戦後」の日本から軍事的要素を一掃しようとするアイデアであり、正式文書としては「降伏後におけるアメリカの初期対日政 策」(SWNCC150/4/A)であった。しかも、それは日本国憲法第九条によって結実したと解釈できないことはない」と書いている。

 続けて「日本の非武装化は、クエーカー派の平和主義のみならず当時のアメリカの現実的利益にも適っていたのであり、個人の宗教的理念と国家の戦略とが偶 然かつ見事に合体したケースである」と解説している。そして「いずれにせよ、ボートン博士が、日本国憲法における平和主義、国民主義、基本的人権という三 つの基本原則のうち、とりわけ、平和主義の思想的原液を注入するうえでその一端を担っていたことは確実である」と結んでいる。

 このSWNCC150/4/Aとは国務省極東局日本部所属のボートンも加わった国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)がまとめた初期対日政策の 最終案であり、「完全武装解除と非武装化」が明記され、マッカーサーの確認を経て1945(昭和20)年9月21日に出されている。

 翌46年(昭和21)年1月7日には憲法改正指令及び制定方針を記した「日本の政治機構の改革(SWNCC228)」が最終決定され、マッカーサー宛に送付、連合国軍総司令部(GHQ)内で最も重要な参考資料とされている。

 第147回国会・参議院憲法調査会(2000年5月2日)にリチャード・A・プールが参考人として出席した。プールはGHQ民政局で天皇を「象徴」とす る案を起草した人物である。プールはSWNCC228がガイドラインであったとしながら、「(SWNCC228は)当時、極東問題担当部署、今は東アジア 問題担当部署と言われているところのヒューボートン博士がその草案に大きくかかわったと言われております。彼の補佐をしたのはマーシャル・グリーンであり まして、グルー大使の個人的なアシスタントでありました。」と証言している。そして、「マッカーサーは、実は余り国務省と相談したがりませんでした」との 証言も飛び出している。

 このSWNCC228に明記された「国務大臣文民制」は、「完全武装解除と非武装化」(SWNCC150/4/A)と「少なくとも無期限に、日本は陸軍も海軍も持つべきではない」(ロレンツォ・S・サビン意見書)とが反映されているとされる。

 ここまで見てくるとビックリ憲法は国務・陸軍・海軍三省調整委員会のサビンが発案者のように見えてくるが、実はボートンの起案文書にその原点らしき記載 がある。その文書こそが、ジョセフ・グルーがシカゴ演説で参考にした「日本・戦後の政治的諸問題(T381)」(国務省領土小委員会第381号文書)であ る。
 
 ボートンが戦争真っ只中の43(昭和18)年10月6日に起案したT381でグルー演説と内容的に通じる箇所は次の部分である。

「天皇制は戦後日本をより安定させる要因の一つとなるように思われる。天皇制は安定した穏健な戦後の政府の樹立にとって、価値のある要因になるであろう。」(『日本国憲法制定の系譜1』原秀成・日本評論社参考)

 このT381の冒頭にはこう書かれている。

「日本の将来についての連合国の全般的な目的は、日本が再び攻撃を繰り返すことができないようにするべきであり、同時に、経済的であれ、社会的であれ、あ るいは政治的要因であれ、この侵略精神がはびこるようなさまざまな要因を除去することである。」(『日本国憲法制定の系譜1』参考)

 重要な点はT381を起案した時点ですでにボートンが戦後の日本に憲法改正を必要不可欠と考えていたことであり、しかもこの時すでにボートンは象徴天皇制と憲法九条をセットにして論じていたのである。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(4)

 当初マッカーサーは憲法九条を自分が発案したように見せかけていた。野心のためにハーバート・フーヴァー第31代大統領にアピールする必要があったのだろう。しかし、後に困った問題が起こったために幣原発案説に切り替えたのである。

 米国側もビックリ憲法などさっさと改正するだろうと読んでいた。そうなれば速やかに再軍備させて前線兵力として活用できる。誰がどうみても日本の戦争放 棄と戦力放棄は米国にとってデメリットの方が多い。ところが、米国にとって予想外の展開が起こる。朝鮮戦争が目前に迫っても吉田狸はひょうひょうと憲法九 条に閉じこもりながら経済再建に力を注ぐ。そうなると憲法九条の言い出しっぺがマッカーサー本人では具合が悪い。マッカーサーは突如幣原発案説を言い出 す。

 これを裏付けるようにニューディーラーがわんさかいた民政局のフランク・リゾーは西修に興味深い話をしている。民政局局長のコートニー・ホイットニーが 憲法九条の発案者に関して、当初「アウア・オールドマン」(マッカーサーを指す)と言っていたが、朝鮮戦争勃発以降「ユア・オールドマン」(幣原を指す) と言い出したとのことである。

 これを受け西は「朝鮮戦争勃発の時点あたりから、幣原発案説が総司令部内で作り上げられ、いろいろな手段を利用して、流布、定着を図ったとの見方も成り立つ」と指摘している(『日本国憲法はこうして生まれた』西修・中公文庫)。

 吉田狸も『回想十年』(中公文庫)の中で日本の再軍備の話が初めて真剣に出たのは朝鮮戦争が起こる直前だったとしている。そして、50(昭和25)年6 月25日に朝鮮戦争が勃発、同年7月7日に国連軍最高司令官に任命されたマッカーサーは、翌8日、吉田に警察予備隊創設と海上保安庁増員を指令する。7万 5千人の警察予備隊の創設と海上保安庁の8千人増員を指示し、後の陸上自衛隊と海上自衛隊の母体となった。この時の吉田とマッカーサーの曖昧な対応が「自 衛隊は軍隊か否か」という不毛の論議を半世紀以上にわたって繰り広げる素地を作ったのである。

 保守的な共和党員であったマッカーサーは大統領就任への野心を抱いていた。48(昭和23)年の大統領選に出馬することを考えたマッカーサーはGHQ内 のニューディーラーを利用する。民主党支持票の取り込みを狙ってリベラル派が好みそうな「下からの改革」を日本で推進したのである。その象徴として財閥解 体があった。マッカーサーはこの時の予備選で大敗しても野心を捨ててはいなかった。そのために軌道修正が行われ、中途半端な再軍備準備や幣原発案説へとつ ながる。いわば自衛隊も幣原発案説も朝鮮戦争の落とし子であった。

 朝鮮戦争はマッカーサーにとって最後のチャンスに見えた。52(昭和27)年の大統領選に向けてなんとしてもこの戦争にも勝利し、凱旋パレードの中、出 馬表明を行いたかったのだろう。しかし、この夢は叶わなかった。51(昭和26)年4月11日にトルーマン米大統領(民主党)はマッカーサーを突如解任す る。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(5

 堤は象徴天皇制と戦力放棄を鈴木貫太郎、幣原喜重郎、吉田茂の三人による連携プレーであり、昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いている。鈴木はヨハンセン・グループの一員、幣原も息子をフレンド・スクールに通わせ、縁戚に三菱本家と澤田家がいる。

 プレーヤーはまだまだ存在した。ビックリ憲法もまた元祖「コンシェンシャス・オブジェクター」の日米クエーカー人脈と元祖「反ソ・反共」の薩摩系宮中グ ループが仕組んだ見事な戦略によって生み落とされた。薩摩系宮中グループはクエーカーを利用し、クエーカーもよろこんで利用されたに過ぎない。

 日米クエーカー人脈と薩摩系宮中グループが完全に合体したのは牧野伸顕の存在がある。新渡戸と薩摩系宮中グループの関係は牧野の文部大臣時代にまで遡る ことができる。新渡戸を名門一高の校長に推したのが牧野であった。また国際連盟の初代事務次長就任にも牧野と珍田捨巳、それに後藤新平が関わっている。新 渡戸の人生の転機に必ず牧野の姿が確認できる。

 牧野のキリスト教への理解は三菱本家の岩崎久弥(ペンシルベニア)と同じくフィラデルフィア留学時代のキリスト教徒との出会いがあった。牧野は『回顧 録』に「フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受け た。」と書き残している。

 おそらく牧野や岩崎、松平恒雄、それに幣原喜重郎も米国滞在中にクエーカーの平和主義を象徴するコンシェンシャス・オブジェクターを見聞きしていたに違いない。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(6)

 それでは受け手である当時の日本を見てみよう。日米クエーカー人脈が戦後続々と憲法制定機関に舞い降りてくる。米国からはヒュー・ボートンの他に国務省 東洋課長代理時代に第一次教育使節団の一員として再来日するゴードン・ボールス、それに戦略事務局(OSS)心理作戦計画本部からはマッカーサーの軍事秘 書として来日するボナー・F・フェラーズの3名が登場する。ボールズもボートンと同じく国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の極東小委員会 (SFE)特別委員会に関与していた。しかも二人は兄弟同様の付き合いで占領政策について完全に思いを一つにしていた。

 そして、彼らを米国の地から操っていたのはフーヴァー元大統領である。フーヴァーはフェラーズと極めて親しい関係にあり、マッカーサーにとっても野心を 実現する上で最も頼りになる盟友であった。フーヴァーはアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)への協力を惜しまなかった。なぜなら、このフーヴァーこそ が歴代に二人しかいないクエーカー大統領だったからだ。そして、フェラーズはフーヴァーがマッカーサーに送りこんだお目付役のような存在であった。

 日本からは関屋貞三郎が枢密顧問官として復帰して昭和天皇の無罪証言集めに奔走し、御用掛の寺崎英成やフェラーズと共に弁明書としての「昭和天皇独白 録」を作成する。そして、薩摩系宮中グループからは吉田茂首相、白州次郎終戦連絡中央事務局(CLO)次長が登場、米国からはジョセフ・グルーが見守って いた。

 関屋が就任した枢密顧問官とは明治憲法56条に「枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス」と定められている。枢密院 は「憲法の番人」とも称される天皇の最高諮問機関である。それにもかかわらず現行憲法制定過程での枢密院の役割はこれまでほとんど無視されてきた。

 この枢密院で1946(昭和21)年4月に「帝国憲法改正草案枢密院審査委員会」が設置されているが、この委員には関屋の他に幣原の兄・幣原担がいた。 新憲法案を採決した同年6月8日の枢密院本会議では、三笠宮が「マッカーサー元帥の憲法という印象を受ける」と批判的な意見も述べながらも非武装中立と戦 争放棄を支持する意見を表明したことはよく知られている。三笠宮は採決時棄権したが、結局この本会議で可決され衆議院へ送付された。

 この本会議にクエーカー人脈と薩摩系宮中グループから少なくとも吉田、関屋、鈴木の3名が出席していた。その後衆議院本会議、貴族院本会議、衆議院本会議可決を経て、最後に再度枢密院本会議で10月29日に可決され、11月3日に公布された。

 驚くことに10月29日の枢密院本会議にはクエーカーをよく知る樺山と松平恒雄が枢密顧問官として出席していた可能性が極めて高い。樺山も松平も6月10日より枢密顧問官に就いていた。この事実とこの意味を研究者のほとんどがこれまで見逃してきた。

 堤は昭和天皇もプレーヤーの一人に違いないと書いた。実はこの枢密院人事に昭和天皇の関与を示唆する文献も存在する。『昭和天皇二つの「独白録」』(NHK出版)に収載されている元侍従長・稲田周一備忘録の46年6月2日付日記にはこう書かれている。

「宮城に於ては、ひる、牧野伯をお召。枢密院議長就任に付、御話があったと承る。」

 昭和天皇は牧野に枢密院議長就任を要請した。しかし、牧野は実際には就任していない。牧野の代わりに親英米派の樺山と松平が6月10日に枢密顧問官に就いたのだろう。この人事の背景に現行憲法の制定を誰よりも押し進めたかった昭和天皇の意志が読みとれる。

 当時の枢密院にはクエーカーをよく知る幣原、樺山、松平の重鎮3名がいた。しかも、貴族院で憲法改正審議を行った小委員会には新渡戸の弟子である高木八 尺と高柳賢三がしっかり名を連ねていた。大平駒槌枢密顧問官が残した当時のノートには「戦争を放棄するなんて、幣原の理想主義だ」と書かれている。ボート ンの人脈から考えれば、日本側の調整窓口になっていたのは高木であろう。その意味ではボートンから高木を仲介にした幣原間接発案説もあったのかもしれな い。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(7)

 外務省で吉田の後輩にあたる武者小路公共は、吉田の歴史観について「英米を世界史の中での本流」とする見方に立っていたことを紹介している。厳密に言え ば、英国とのビジネスを手掛けていた養父・吉田健三の影響もあって、吉田は英国こそがまさに本流と見ていたことは間違いない。日本古来の武士道とは異なる 英国式の考え方から、よき敗者としての「負けっぷり」にこだわり、トレベリアンの『英国史』を再読して「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」を信条とし た。この英国本流の見方は相棒の白州"プリンシプル"次郎にも共通する。

 吉田は「昭和天皇免罪工作」が象徴天皇性として結実したことをほくそ笑み、それでもネチネチうるさいソ連やオーストラリアを黙らせるために憲法九条を利 用した。吉田もまたフーヴァー元大統領が喜びそうな憲法九条によって日本が良心的参戦拒否国となったことを世界にアピールして見せたのである。吉田は5月 29日に行われた憲法改正草案枢密院審査委員会ではっきりこう述べている。

「マ(マッカーサー)司令部との交渉の経過を述べれば第一条によつて陛下のpersonが守られる。又畏れ多いことではあるが戦争責任からも陛下をお救ひすることができると云ふ考へである。」

 続いて吉田はユーモアたっぷりにこう語る。

「日本としてはなるべく早く主権を回復して進駐軍に引上げてもらいたい。費用の点も問題であるがそれは別としてもアメリカ軍の軍人やその家族より見てもそ の声は強い。GHQはGo Home quicklyの略語だとする者もある。そのためには先方の望の様に日本再軍備のおそれはなく又民主化は徹底した、と云ふことを世界に早く証明し、占領の 目的完成になるべく早く近づきたい。そのためには憲法改正が一刻も早く実現することが必要である。私はひそかにそう考へてゐる。」

 吉田は昭和天皇の無罪が確定し、日本周辺の脅威が無くなればさっさと改正することも考えていた。同時に戦前からの元祖「反ソ・反共」の吉田は共産主義の 脅威を見抜いていた。米ソが対立し、その対立が長期化することも予測していた。なんせ日本はロシア相手に勝ったことがあるのだ。日本が軍隊を持っていれ ば、米国によって存分に利用されることになる。同じ日の委員会で吉田はこう話している。

「九条は日本の再軍備の疑念から生じた。これを修正することは困難である。(略)軍備をもたざる以上、例へばソ聯に対しては、英米の力を借りるより他ないと思ふ。」

 被占領国が占領国の力を借りちゃうのである。ここにドイツも羨む吉田のトリックがあった。これが後に米国が批判的に用いる「安保ただ乗り論」になってい く。吉田狸は憲法九条が楯としてバック・パッシングの道具になることに気付いていた。本来なら敗戦によってバック・キャッチャーの運命を背負ったはずの日 本が、憲法九条のおかげでバック・パッサーの立場に置かれたのである。

 日本に対して「自由世界への貢献」をも口にして再軍備を執拗に迫ったのがジョン・フォスター・ダレス大統領特使(国務省顧問、後に国務長官)であった。 勝者は手のひらを返したように敗者に剣をとって立つよう求めた。ダレスの再三の要求を吉田がのらりくらりとかわすことができた背景には、ソ連に対する「封 じ込め政策」で知られるジョージ・F・ケナンの存在もあげられる。

 ■ビックリ憲法をめぐる因縁(8)

 ジョージ・F・ケナンは1948(昭和23)年に国務省政策企画室室長として来日する。ケナンは占領軍が引き揚げた後、日本が独力で共産主義の脅威に立 ち向かうためには経済再建を優先させることが第一だと考えていた。吉田同様にソ連が軍事的な侵攻で領土を拡大する野望を持っているとは思っていなかった。 だからこそ、日本が共産主義に対抗できる安定した経済力と共産主義者の内乱を抑えられる程度の警察力を持っていれば、敢えて軍事的な対抗は必要ないと考え ていた。ここで吉田の考えと一致したのである。ところが、来日したケナンに待ち受けていたのはマッカーサーの推進する財閥解体である。ケナンにはこの財閥 解体が将来の共産化につながる兆候に見えた。そして、マッカーサーへの不信感につながる。

 この吉田やケナンの経済重視の考え方は外交問題評議会の(CFR)の設立時からの重鎮であり、戦中には国務省領土委員会議長や国務省戦後諮問委員会副議 長などを歴任したイザヤ・ボウマンの影響が見られる。地政学の大家にして米国の国益に経済圏の概念を持ち込んだボウマン理論が吉田のトリックを後押し、ケ ナンの報告を受けたトルーマン大統領によってマッカーサーは不利な状況に追い込まれた。地球規模の「封じ込め政策」が二人の明暗を分けたのだ。

 この封じ込め政策の概念もケナンが本来主張したソフトな封じ込めから、核戦力と通常戦力の飛躍的な強化による軍事的対決へと変質していく。この背景には米国の軍産複合体による思惑もあった。当然ここに日本の金を組み入れようとする動きも活発になる。

 こうした再軍備要求に応える素振りを見せながら登場してくるのが岸信介である。しかし、結果として見れば、岸も素振りだけで自主憲法制定はおろか憲法改 正までも見送った。誰かさんと違って、少なくとも岸は礼儀をわきまえていた。真意を知ろうと吉田の元に何度も足を運んだ。結局、狐と狸の騙し合いによって 現在まで憲法九条を楯にする戦略が受け継がれてきたのである。

 日本はたとえ発案者が誰であろうが米国押し付け論を連呼し続けることは戦略的に見れば極めて正しい。中国の脅威が消えるまで「言い出しっぺは米国じゃないか」とチクチク言えばいい。そうすれば米国も沈黙するしかない。

 「言い出しっぺは米国じゃないか」論の根拠もリチャード・ニクソン発言を利用させていただこう。53(昭和28)年11月に来日したニクソン(当時副大 統領)が「1946年に日本を非武装化したのは米国であり、米国が誤りを犯したことを認める」と演説した。このニクソンこそが後に歴代に二人しかいないも う一人のクエーカー大統領となる。歴代大統領でクエーカーだったフーヴァーもニクソンもガチガチの共和党員である。日本人が軽々しく連想しそうなクエー カー=平和主義=民主党=左翼の単純な図式などあてはまらない。

 それでも日本人特有の無邪気さは見直した方がいい。憲法九条の幣原発案説を長男・道太郎が『外交五十年』の巻末で強く否定しているが、これを堤が「ビッ クリ条項が生んだビックリ解説」と評した。道太郎は幣原や吉田のトリックが理解できなかった。この路線に乗って米国押し付け論を根拠に憲法改正を声高に叫 ぶ人がいる。これこそまさに「親の心子知らず」と言う。

「私は再軍備などを考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であると言いたい」

 吉田が『回想十年』で力強く語ったこの言葉を引き継ぐ本物の保守がいないことが残念でならない。中国や北朝鮮の脅威が存在する中で、トリックが仕掛けられないような改正は時期尚早と確信する。

 良心的な兵役拒否は米国保守派によって推進され法制化されている。その時が来るまで、日本は役に立つかどうかわからない最新兵器を適当に買わせていただきながら、敢えて「良心的」を強調し、良心的参戦拒否国を名乗っていればいいのだ。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2006年10月12日(木)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■太平洋問題調査会(IPR)をめぐる因縁

 戦前の日本人クリスチャンが多数参加した太平洋問題調査会(IPR)という国際的な組織があった。IPRはハワイのYMCA(キリスト教青年会)の汎太 平洋YMCA会議の発展組織として1925(大正14)年に設立され、この年ホノルルで行われた第一回会議に始まり、58(昭和33)年の第13回ラホー ル(パキスタン)会議を最後に消滅している。

 加盟各国に独立した支部が設けられ、日本IPRは36(昭和11)年の第6回ヨセミテ(米国)会議を最後に解散、戦後再結成された日本IPRの復帰は50年の第11回ラクノウ(インド)会議まで待たなければならなかった。

 初期日本IPRを背負ったのは日本近代資本主義の父・渋沢栄一(評議委員会会長)、井上準之介(初代理事長)、そして新渡戸稲造(二代目理事長)であ る。その発祥にYMCAの存在があったこともあり、活動の中心は新渡戸の一高時代に影響を受けた新渡戸人脈の高木八尺(一時クエーカー)、前田多門(聖公 会からクエーカー)、鶴見祐輔(晩年クエーカー)、高柳賢三、那須皓らに委ねられることになる。

 樺山愛輔も第3回京都会議に参加しており、樺山の弟子とも言える松本重治や牛場友彦、樺山の女婿の白州次郎がIPRに送りこまれた。IPRは新渡戸、渋沢、樺山の弟子達の集会場所のような存在となっていた。
 
 樺山も満州事変直後に険悪となった日米関係の修正を図るべく渡米、訪問先には米国エスタブリッシュメントが一同に集まるボヘミアン・クラブも含まれてい た。また、グルーを通じて米国金融史に輝かしい実績を残したモルガン家とつながる。グルー自身がモルガン家と姻戚関係があり、グルーの妻アリスの大叔父は 黒船を率いて来航したペリー提督にあたる。しかも、井上準之助亡き後、モルガン家が築いたJ・P・モルガンの社史に残る名会長として知られるトマス・ラモ ントとの親交を引き継いだのも樺山であり、戦後樺山の長男である丑二はモルガン銀行東京支店顧問に就任している。
 
 樺山の人脈はロックフェラー家にも及ぶ。樺山は薩摩の松方正義の孫にあたる松本が携わった国際文化会館事業を通じてジョン・D・ロックフェラー三世と親 密な関係になる。松本とロックフェラー三世はIPRで出会う。そもそもIPRはロックフェラー財団がスポンサーとして名を連ねており、その意味ではロック フェラー家が今なお深く関与するトライラテラル・コミッションやウィリアムズバーグ会議の前身とも言える。このロックフェラー三世人脈は後に吉田茂へも引 き継がれることになる。

 この日本IPRのメンバーは近衛文麿のブレーンにもなっていたが、近衛自身も新渡戸の講演を聞いて非常に感激し、一高入学を決心したという裏話も残されている。そして近衛の最期に立ち会ったのも彼らだった。

 白州から「近衛自殺近し」の連絡を受けて松本と牛場は近衛邸に到着、近衛が自殺したその夜に二人は隣室で寝ていた。自殺を止めようと説得するために泊ま り込んでいたと松本は書いている。「天皇さまには木戸幸一がいるから大丈夫」と語る近衛に対して、松本は木戸一人では危ないと答える。そして松本に「最後 のわたしのわがままを聞いてくれ」と言い残した。

 近衛の自殺を松本は『昭和史への一証言』(毎日新聞社)の中で「戦犯として(近衛が)巣鴨に行き、法廷に立つことになれば、天皇さまと自分が近いことがわかり、戦争責任の累が天皇さまに及ぶ危険がある。それを防ぐために自殺したのではないか」と書いている。

 このIPRにはコミンテルン工作員や共産党員も暗喩し、米国IPRの容共・ラディカル・グループが対日非難を繰り広げていた。このグループの存在がマッカーシー旋風に巻き込まれる原因となり、IPRは解散へと追い込まれることになる。

 マッカーシズムのターゲットになったのがIPR機関誌「パシフィック・アフェアーズ」の編集長を務めたオーウェン・ラティモアであり、その余波が近衛を 貶めたとされるE・ハーバート・ノーマンを直撃する。57(昭和32)年3月26、7両日に「赤狩り委員会」と呼ばれた米上院国内治安小委員会でノーマン をよく知る都留重人の喚問が行われ、その一週間後の4月4日にノーマンは47歳の若さで飛び降り自殺する。選ばれし者がいれば選ばれざる者もいる。まさに そういう時代だった。

 ■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(1)

 1933(昭和8)年8月に行われた太平洋問題調査会(IPR)第5回バンフ(カナダ)会議に日本代表として参加することになっていた新渡戸稲造は出発前に昭和天皇から内々に招かれた。

 昭和天皇は新渡戸に「軍部の力が強くなってきたが、アメリカと戦争になっては困る。あなたはアメリカと親しいから、『何とか話し合いで戦争を食い止めることができるよう、ひとつ骨折ってもらいたい』、ただ内密に」と話したとされる(『新渡戸稲造研究』第12号』)。

 新渡戸に託した昭和天皇の願いは新渡戸の命と共に消えていった。新渡戸はバンフ会議が終わった後の静養中に病に倒れ、日本に戻ることなくカナダの地で没した。

 IPRのような民間主導の自由主義者グループの源流を遡れば、ここでもまた新渡戸の姿が確認できる。そして現在のグローバリストの原点も見出せる。この自由主義的民間団体の戦前の流れを簡単に整理するとこのようになる。

 大日本平和協会→在日アメリカ平和協会→日米関係調査委員会→日米関係委員会→太平洋問題調査会(IPR)

 順番に見ていこう。01(明治34)年2月に来日したギルバート・ボールズは、麻布中学設立者にして社会運動にも尽力した江原素六衆議院議員に働きかけ て、06(明治39)年4月に大日本平和協会を設立する。ここに江原の他、大隈重信、阪谷芳郎、渋沢栄一、島田三郎、尾崎行雄、それに新渡戸が名を連ね、 政財界と言論界の有力者が集う日本初の自由主義派民間団体が生まれ落ちた。次いでボールズは在留米国人実業家や教育者や宣教師を集めた在日アメリカ平和協 会を10年(明治43)年に設立する。

 移民問題をめぐって日米間の緊張が高まる中、ボールズは一貫して排日運動反対の姿勢を貫き、日米の相互理解を目的に大日本平和協会と在日アメリカ平和協 会の代表者を集めた日米関係調査委員会を設置、日本側委員会には渋沢、新渡戸、阪谷、添田寿一が選ばれた。この日米関係調査委員会の人脈をベースに、 15(大正4)年に渋沢によって日米関係委員会が組織される。この委員会には日米関係調査委員会メンバーに加え、井上準之介、堀越善重郎、大倉喜八郎、金 子堅太郎、串田万蔵、姉崎正治ら23名が就任する。この日米関係委員会人脈が日本IPRを支えていくのである。

 ではギルバート・ボールズはどういう人物だったのか。

 クエーカーの日本伝道はフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道教会によって1885(明治18)年に始まる。初代宣教師となったジョセフ・コサンド夫 妻は芝普連土教会や普連土女学校の設立に尽力する。「普連土」は、津田塾大学の創立者である津田梅子の父・津田仙によって「普(あまねく)世界の土地に連 なる」ように、即ち「この地上の普遍、有用の事物を学ぶ学校」であるようにとの思いを込めて命名されている。

 普連土教会内部の信仰上の混乱と対立もあって、コサンドの後を継いで主任宣教師となったのがボールズである。保守派クエーカーのボールズは伝道に固執す ることなく、普連土女学校の校長、理事長としての職務を優先にしながら、平和運動に人生を捧げ、新渡戸同様「太平洋の橋」を目指した。

 そもそもフィラデルフィア・フレンド婦人外国伝道教会の日本伝道には米国留学時代の新渡戸や内村鑑三の意見が取り入れられて開始されている。従って、新 渡戸と内村が日本とクエーカーを接木したのである。新渡戸はクエーカーの「内なる光」に導かれた誠実さ、質素倹約の姿勢、一貫した平和主義に日本の古神道 や武士道や禅との共通性を見出し、日本と溶け合うと信じたのだ。

 ■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(2)

 ギルバート・ボールズは日米開戦直前に日本での40年に及ぶ宣教師生活を終え、帰米することを決意する。ボールズはこの時、普連土女学校理事長の後任を要請すべく手紙を書き送った。

「昨夜珍しく夢を見ました。私の住居(女学校のすぐそばにあった)の近所に大洪水があり、学校も住居も押流され、私もあっぷあっぷしていたところ、流れの向う側に澤田さんが現れ、助けにゆくからあわてるなといわれ、大喜びして目がさめました。」

 この手紙を受け取った歴史に埋もれし澤田節蔵はボールズの後任として理事長に就任する。ボールズの夢に出てきた大洪水は終戦年5月25日の東京大空襲と なって女学校を襲いかかった。学校は煙突と運動場隅の掘立小屋を残して全焼する。一時閉鎖の危機に瀕したが、澤田の意志もあって学校継続の方針が決められ た。戦後、澤田はミス・ローズことエスター・B・ローズ、エリザベス・バイニング、そしてボールズの次男であるゴードン・ボールスと共に学校を再建して行 く。

 彼女達は戦後あっぷあっぷしている日本に救援品を届けるために故国へ窮状を訴え続けた。米国から届けられた食料品、衣料などを日本全国に配給したララ(LARA、アジア救援公認団体)代表の一人がミス・ローズである。そしてララ委員会日本側委員に澤田節蔵もいた。

 ララの活動に対して日本側も官・民一体となって誠心誠意こたえた。盗難や横流しや不正配分などの不祥事はまったくといっていいほどなかった。ミス・ロー ズは日本側の厳格適正な姿勢に敬意と感謝を示し、この日本で活動できたことに誇りを持っていた。ミス・ローズは戦争中もアメリカン・フレンズ奉仕団 (AFSC)職員としてカリフォルニア州パサデナ地方の邦人抑留キャンプで待遇改善や学歴子女の東部大学への斡旋に奔走している。

 「武士道」の言葉が持つ表面的な響きだけで新渡戸を論じる軽々しき日本人が左派にも右派にも増殖する今にあって、ミス・ ローズの生涯に新渡戸が思い描いた真なる武士道が重なり合う。

 ■クエーカーと象徴天皇制をめぐる因縁(3)

 そして、彼らは大洪水の中から「象徴」によって昭和天皇を救い出した。これこそ最大の功績である。日本国憲法における象徴天皇制への新渡戸の影響はもは や疑いようがない。確かに諸説あるが、すでに研究者の間では「象徴」が新渡戸の英文著作『武士道』もしくは『日本』に依拠していたとする説が有力になって いる。

 岩波文庫版『武士道』の33ページと34ページを開いてみよう。ここにはっきり「象徴」と書かれている。

「我々にとりて天皇は、法律国家の警察の長ではなく、文化国家の保護者(パトロン)でもなく、地上において肉身をもちたもう天の代表者であり、天の力と仁 愛とを御一身に兼備したもうのである。ブートミー氏がイギリスの王室について「それは権威の像(イメージ)たるのみでなく、国民的統一の創始者であり象徴 (シンボル=原文もsymbol)である」と言いしことが真にあるとすれば、(しかして私はその真なることを信ずるものであるが)、この事は日本の皇室に ついては二倍にも三倍にも強調せらるべき事柄である。」

 『武士道』は1900(明治33)年1月にフィラデルフィアの出版社から英文で発刊され、セオドア・ルーズベルトにエジソンから最近では映画『ラスト・ サムライ』のトム・クルーズにまで読み継がれてきた。日本の憲法に関わるのであればクエーカーでなくとも当然読んでいたに違いない一冊である。

 このクエーカーに対する感謝の気持ちを誰よりも示したのは皇室である。二代にわたってクエーカーが皇太子殿下の英語教師に就いた。初代はエリザベス・バイニング、その後任がミス・ローズである。

 バイニングは50(昭和25)年に勲三等宝冠章、ミス・ローズもララの功績に対し52(昭和27)年には勲四等瑞宝章、60(昭和35)年には勲三等瑞 宝章をそれぞれ受章している。また、ゴードン・ボールスには58(昭和33)年に国際文化の交流と研究に対して勲三等旭日章が贈られた。

 そして、クエーカーが主催するアメリカン・フレンズ奉仕団(AFSC)はロンドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とともに47(昭和22)年にノーベル平和賞を受賞している。

 それにしても因縁とは恐ろしい。国際連盟の設立時の初代事務次長に就任したのがクエーカーの新渡戸稲造、国際連盟最後の事務局長となったのもクエーカーの澤田節蔵である。さらに、戦後、初代国連大使になったのが澤田廉三である。

 澤田廉三の『随感随筆』(牧野出版)には「明治43年7月第一高等学校卒業生」写真が掲載されている。その写真の最後列左から2人目に澤田廉三が、そして、一列目の中央に新渡戸稲造校長が写っている。

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2006年10月09日(月)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■米国資本・満州北支誘導工作

 澤田節蔵は1938(昭和13)年12月19日に帰国した。当時、日本は満州及び北支の経済建設を急いでいたが、国内での資金調達が叶わず、外資獲得に 迫られていた。結局英米に資金を頼らなければならないが、対支政策で両国と対立しているために求めることはできなかった。そこで表面上は政府と無関係にし ながら民間団体主導による英米資金導入計画が立てられた。これが実現すれば日米関係の緊張緩和に貢献すると考えたからだ。

 大蔵省の迫水久常(後の内閣官房長官)、商工省の美濃部洋次、外務省の會祥益、岸偉一、海軍省の柴勝男中佐、陸軍省の景山誠一中佐、日本銀行の新木栄吉 (後の日銀総裁)らが、満州国大使館とも連絡の上で画策し、渋沢栄一没後の財界の大御所として日本経済連盟会の会長であった郷誠之助が任務の委嘱を受ける ことで承諾、その対外工作を澤田が担当した。

 日本経済連盟会内に対外事務局を設け、委員長に郷が、副委員長に澤田が就いた。澤田らは、満州・北支において外資誘導可能とされる産業を絞り込む一方で、英米等でこれらの産業開発に興味を持つ経済団体を調べあげて進出誘導する。このための英文雑誌なども刊行された。

 この結果、満州の鉱山開発と北支産業助成のために米国資金導入に注力することが決まり、米国財界指導者を現地視察させ、必要に応じて澤田が米国に出向き必要資金の仮受け工作に取りかかるものとした。

 澤田はニューヨーク駐在の大蔵省在外財務官・西山勉に有力財界人の選定と招待工作を進めさせ、ファースト・ナショナルバンク、ギャランティー・トラスト 等の四大銀行の頭取含めた11から12名が招待を受けることになる(米国人弁護士、マックス・マックライマン工作)。しかし、米国政府は米国第一級の財界 人が日本の招待によって日本及び満州に訪問することは時宜を得ずとして差し止めにした。

 ここで一人や二人ならなんとかなるだろうと、なんとも渋いことに澤田らはオーエン・D・ヤング夫妻だけに絞り込んだ。ヤングは対独ヤング・プランで知ら れ、澤田はギャランティー・トラストの顧問と書いているが、むしろゼネラル・エレクトリック(GE)の会長として米国財界の代表格だった。あまりに大物の ためこれも失敗に終わる。

 結局、ニューヨークの大銀行の顧問弁護士であり、ルーズベルト大統領やヘンリー・スチムソン陸軍長官につながるジョン・F・オーライアン将軍が帯同者3 名を連れて来日、満州・北支視察も終わり、工作が成功するかに見えた。この時も澤田の前に立ちふさがったのが、外務大臣に就任した松岡洋右であり、松岡の 三国同盟締結に向けた慌ただしい動きがこの工作をまたもや葬り去った。

 澤田は開戦直前の日米諒解案にも関与しているが、これを握りつぶしたのも松岡であり、澤田の努力は松岡によってことごとく水の泡になった。昭和天皇は独 白録でこの松岡を「彼は他人の立てた計画には常に反対し、条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」と指摘しているが、まさに澤田の 気持ちを代弁していたかのようだ。

 澤田は戦前最後の鈴木貫太郎の内閣顧問に任命されているが、ここでも持ち前のリアリストぶりを発揮している。5月中旬に当時国務大臣に就任していた左近 司政三から対ソ仲介交渉に関する見解を聞かれた時、澤田はソ連が力により実利を追う傾向があり、形式的に条約があっても豹変しうる国、信頼して周旋しても 意味がないと言い切った。そして、澤田ならでは提言を行う。

 ■バチカンにおける和平斡旋工作と原爆投下

 対ソ交渉に明確に反対した澤田節蔵はバチカンに頼むがよいと提言する。当時の状況を考えれば間違いなくバチカンがベストな選択だった。むしろバチカンし かなかったのではないだろうか。しかし、鈴木内閣の誰もがバチカンのことを考えていなかった。澤田の主張は左近司から鈴木総理に伝えられたが受け入れられ なかった。

 澤田の同じ観点からバチカンを見ていた人物が二人いた。その一人が中央情報局(CIA)の前身組織である戦略事務局(OSS)長官であったウィリアム・J・ドノヴァンである。

「頃合を見計らって、東京に和平案を持ち込む糸口をつかめ。日本の降伏について協議するのだ。結局、そのような工作が可能な場所は、バチカンなどごく限られた場所しかない」(『バチカン発・和平工作電』マーティン・S・ギグリー、朝日新聞社)

 これはドノヴァン長官がOSSの工作員であるギグリーに与えた密命内容である。ドノヴァンもギグリーも米国では極めて少数派のカトリック教徒であった。 おそらくドノヴァンであればマンハッタン計画の情報もある程度をつかんでいただろう。ドノヴァンの密命には原爆投下阻止の願いも込められていたのかもしれ ない。こうしてバチカンを舞台に「ベッセル工作」(船工作)と呼ばれた和平斡旋工作が始まる。

 ギグリーが直接接触したのはローマ法王庁国務省外務局のモンシニョール・エジッジョ・ヴァニョッツィ司教だけで、ヴァニョッツィ司教→バチカン駐在日本 使節教務顧問のベネディクト富沢(富沢孝彦)神父→原田健公使(プロテスタント、妻はカトリック)・金山政英書記官(カトリック)の流れで伝えられた。

 ギグリーが提示した和平案は「米軍による日本占領。米国への永久的な領土の割譲はない。日本国民の決定による場合以外には、天皇の地位に変更はない。」 とするものである。(原田と金山は「日本を占領しない。天皇制は維持する。千島、樺太、台湾、朝鮮を放棄し、日本軍はインドネシアから撤退する」と受け 取っていた。)

 この和平案の内容は「絶対極秘暗号電」の扱いで1945(昭和20)年6月3日と6月12日の二度にわたって東郷茂徳外務大臣宛に送られている。しか し、これもスイスで行われていた「ダレス工作」同様に完全黙殺される。当時日本の方針はあくまでも徹底抗戦であり、ソ連だけを正式の仲介者と思い込んでい た。このソ連を仲介者とする終戦工作を主導したのは木戸幸一であり、これが最大の誤算につながるのである。

 澤田の同じ観点からバチカンを見ていたもう一人の人物こそが欧州外遊の際にバチカンを訪れていた昭和天皇である。

 もし、澤田の提言や「ベッセル工作」の内容が昭和天皇に直接届いていれば、事態は大きく変わっただろう。ローマ法王庁への原田公使含めた初めての使節派 遣を決めたのは、昭和天皇自身であり、42(昭和17)年2月14日には東条に対して派遣使節の資格や宗教にまで踏み込み、その人選にまでこだわってい た。

 昭和天皇は、戦の終結時期において好都合であること、世界の情報収集の上で便宜であること、全世界に及ぼす精神的支配力の強大であることからローマ法王 庁への公使派遣を要望した(『昭和天皇独白録』)。昭和天皇も開戦直後の時点ですでに和平仲介にはローマ法王庁に頼るしかないと考えていたのである。

 敗戦から7年後、不思議な縁で導かれた金山書記官とヴァニョッツィ司教はフィリピンで出会う。この時ヴァニョッツィ司教は金山にこう語っている。

「あのとき、日本政府がアメリカの和平案に反応を示していたら、広島と長崎に原爆が投下されるという悲惨な事態は避けることが出来たのではないでしょうか?」(『誰も書かなかったバチカン』金山政英・サンケイ出版)

 米国は戦後を睨んで原爆投下を前提に動いていた。いずれにせよ惨禍は避けられなかった。しかし、ヴァニョッツィ司教を介してバチカンとカトリック教徒であるドノヴァンとが直接つながっていたとすれば、悲惨な事態は避けることができたのかもしれない。

 なぜならヴァニョッツィ司教の発言は一般の日本人が考える以上に極めて重いからだ。バチカンが長い年月をかけて培ったカトリックの聖地とも言える長崎浦 上上空で原爆が炸裂し、2人の神父と信徒20数人が浦上教会と運命を共にし、浦上地区に住んでいた14000人の信者のうち8500人が死亡している事実 を無視してはならない。

 すでに始まっている神なき中共との冷戦、次いで起こり得るプロテスタント教国・米国との軋轢を考えればバチカンほど重要な存在はない。「バチカンに頼むがよい」とする澤田の提言は今また蘇らせる時期に来ている。

 ■薩長の運命の日

 最後に薩長の運命の日を振り返ろう。開戦当時の年齢を見ると、昭和天皇は40歳、木戸幸一は52歳、近衛文麿は50歳である。これに対して牧野伸顕は 80歳、樺山愛輔は76歳である。革新勢力の期待を一身に担った木戸や近衛に年齢も近い昭和天皇が接近していくのも無理はない。

 1945(昭和20)年2月14日、木戸を裏切った近衛はその木戸の目前で上奏文を読み上げた。そして昭和天皇は静かに近衛に問いかける。

「我国体について、近衛の考えと異なり、軍部では米国は日本の国体変革までも考えていると観測しているようである。その点はどう思うか。」

 昭和天皇はこの時もまだ軍部からの情報に頼っていたことがわかる。昭和天皇には薩摩系宮中グループの情報が届いていなかった。「宮中の壁」となっていたのは木戸である。

 これに対して近衛はこう答えている。

「軍部は国民の戦意を昂揚させるために、強く表現しているもので、グルー次官らの本心は左に非ずと信じます。グルー氏が駐日大使として離任の際、秩父宮の 御使に対する大使夫妻の態度、言葉よりみても、我皇室に対しては十分な敬意と認識とをもっていると信じます。ただし米国は世論の国ゆえ、今後の戦局の発展 如何によっては、将来変化がないとは断言できませぬ。この点が、戦争終結の策を至急に講ずる要ありと考うる重要な点であります。」

 秩父宮妃勢津子から贈られたメッセージと宝石箱にグルー夫妻が涙したことが触れられている。グルーはもはや「昭和天皇無罪工作」によって薩摩系宮中グループの一員となっていた。近衛の脳裏にグルーの姿だけがあった。

 グルーは確かに43(昭和18)年12月29日のシカゴ演説で米国人に語りかけていた。

「わが国には神道を日本の諸悪の根源と信じている人がいるが、私はそれに同意できない。(略)神道には天皇崇拝も含まれている。日本が軍部によって支配さ れず、平和を求める為政者の保護のもとに置かれれば、『神道のこの面』は再建された国民の負債であるどころか資産となりうるのだ。」(『象徴天皇制への 道』中村政則・岩波新書)

 中村によれば、グルーは演説前日まで『天皇制』となっていたものを政治的な配慮から『神道のこの面』に差し替えた。グルー発言に貞明皇后の御歌が重なり 合う。注目すべきは資産という言葉日本の円滑な民主化(=米国化)に向けて女王蜂(=昭和天皇)と穏健派の薩摩系宮中グループを利用するという狙いが見出 せる。グルーはリアリストとして「昭和天皇免罪工作」に乗っかっていたに過ぎない。

 このグルー演説は米国務省内の日本派を大いに勇気づけた。特に事前に演説草稿を読んでいたヒュー・ボートンは、自分が起案した政策文書がそこに反映され ていることを知り、「前途への希望がわいてきた」と回想している。このボートン文書は『日本?戦後の政治的諸問題(T?381)』(国務省領土小委員会第 381号文書)と呼ばれる。この文書が戦後日本を形作ることになる。

 それでもグルーは袋叩き。メディアは一斉に「グルーは天皇を擁護し、利用しようとしている」と書きたてる。米国世論は「天皇憎し」が圧倒的だった。この 影響からグルーはハル国務長官から演説活動中止を宣告される。それでもグルーはあきらめない。省内で味方を増やしつつ、国務省極東問題局長を経て、 44(昭和19)年12月には国務次官に抜擢される。

 時計を2月14日に戻そう。昭和天皇は最後に語る。

「もう一度、戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う。」

 食い下がる近衛はこう言い残した。

「そういう戦果が挙がれば、誠に結構と思われますが、そういう時期がございましょうか。それも近い将来でなくてはならず、半年、一年先では役に立たぬでございましょう。」

 もしもこの時に昭和天皇と木戸が近衛の上奏文を受け入れていれば・・・。この先を語ることは敢えて控える。いずれにせよ惨禍は避けられなかったことにしておこう。

 この2月14日のやりとりは藤田尚徳の『侍従長の回想』(講談社)に記されている。この日の朝、木戸は侍従長室に姿を見せ、藤田に侍立を遠慮しろと言 う。よって木戸が侍立し、木戸が書き残したメモから再現されている。このメモには「侍従長、病気のため、内大臣侍立す」との嘘が書き添えられていた。

 97年に国立国会図書館で一般公開された「政治談話録音」の中で、木戸は日本全土が壊滅的な状態になる前に降伏できたのは一面で原爆やソ連参戦のためだ との考えを示しながら、「原子爆弾も大変お役に立っているんですよ。ソ連の参戦もお役に立っているんだ」と語っている。もし、広島、長崎ではなく、山口に 投下されていても同じことが言えたのだろうか。

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2006年10月06日(金)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■「使者」の正体

 開戦後の翌年6月、ジョセフ・グルー駐日米国大使は交換船で米国へと帰国することになった。この時、父同様にグルーやロバート・クレーギー駐日英国大使 と親しくしていた松平恒雄の娘は、加瀬俊一を介して、グルーにはメッセージとともに長い交友関係の記念として宝石箱を、抑留生活がしばらく続くクレーギー には御殿場で手に入れた緬羊の肉を届けさせた。加瀬によれば、メッセージと宝石箱を受け取ったグルー夫妻は流れる涙のために顔を上げられなかったという。

 グルーに宛てたメッセージの内容は明らかにされていないが、松平は娘に対して「米英両国とも、国交回復の時が必ず来る。『お互い、その日を待ちましょう』と両大使夫妻に伝えては」との趣旨のアドバイスをしたとされる。

 もし、父のアドバイスがメッセージに反映されていれば、当時とすればこれまた大問題になっていただろう。なぜなら松平の娘は秩父宮妃勢津子であり、昭和天皇の義妹にあたるからだ。

 時は1928(昭和3)年1月18日。会津では「これで朝敵の汚名も消える」と三日三晩ちょうちん行列が繰り出されたという。この日、秩父宮雍仁親王と松平の長女・節子の婚約が正式に発表された。
 
 旧皇室典範に皇族の結婚対象になるのは皇族または華族と決められていたために、恒雄の実弟で子爵の松平保男の姪として入籍が行われた。また、本名の節子 (せつこ)が貞明皇后の節子(さだこ)と同じ字だったため、畏れ多いということで結婚を機に伊勢の「勢」と会津の「津」をとって勢津子に改め、秩父宮妃勢 津子となる。

 会津への想いは、宮家へ上がることが家族の自由を奪うことになるのではと泣いて悩み抜いた末に、養育係の口から出た「(家族)皆様、会津魂をお持ちでございます」の言葉に励まされ、結婚を決意したことからもわかる。

 秩父宮妃は女子学習院在学中に貞明皇后に見込まれ、結婚に至るいきさつには貞明皇后の強い推挙があったといわれるが、そこには明治維新時の旧会津藩に対する誤解を解きたいとの極めて聡明な貞明皇后のお心遣いが感じられる。

 秩父宮妃は自著『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の中で「深い因縁」として樺山家との関係を回想している。学習院初等科時代からの親友であった樺山 正子(後に白州次郎と結婚して白州正子)のこと、秩父宮妃の父・松平恒雄と正子の父・樺山愛輔がお互い信じ合い心を許し合った親友同士であったこと、毎年 夏休みに富士山麓の樺山家の別荘で過ごしていたこと。そして、親友の父であり、父の親友でもある樺山が、貞明皇后の「使者」として事実上のまとめ役となっ たことなど。

 貞明皇后の「使者」と開戦直前の米国への「使者」は同じ人物だった。グルーが深い友情から敢えて名を伏せた日本人情報提供者とは樺山愛輔である。この樺山も実はメソジスト派のクリスチャンであった。

 ■貞明皇后の接木

 皇室とクリスチャンとの関係で見逃せないのが昭和天皇の母君、貞明皇后の存在である。ここで貞明皇后とキリスト教について、片野真佐子の『皇后の時代』(講談社選書メチエ)を参考にしながら紹介しておきたい。

 病状の悪化する大正天皇嘉仁に寄り添う貞明皇后は、1924(昭和13)年に8回にわたって東京帝国大学教授・筧克彦の進講を受け、その時の内容は後に 『神ながらの道』としてまとめられた。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、日本人の精神的救済のために日本におけるルターの役割を務めようとしたが、 帰国後、日本独自の伝統や文化とキリスト教との相克に悩み、古神道に行き着くことになる。寛容性の根源に古神道を据え、日本人こそが世界精神の担い手であ るとして、外教を自在に取り込んで古神道に接木しながら、西洋諸国全般に逆輸出すべきだとも説いた。

 この筧の教えから貞明皇后は独自の宗教観を持ってキリスト教に接することになる。その接点となったのが晩年に内村鑑三の弟子である塚本虎二の影響から無 教会派クリスチャンとなった関屋貞三郎とその妻で日本聖公会聖アンデレ教会信徒の衣子である。関屋は牧野伸顕に強く推され21(大正10)年に宮内次官に 就任、以後12年間宮内次官を務めたことから万年次官と言われた。しかし、先に触れたように皮肉にも児玉源太郎の娘を妻に持つ木戸幸一や近衛文麿ら宮中革 新派らの策略によって33(昭和8)年2月に辞任する。

 実は関屋にとって生涯の恩師となったのが児玉であった。その関係は台湾総督府時代に遡る。栃木県に生まれた関屋は東京帝国大学法学部卒業後内務省に入 省、1900(明治33年)には台湾総督府参事官に就き、7年もの歳月に渡って秘書官としても児玉台湾総督に日夜仕える。この児玉を取り囲むように、関 屋、後藤新平民政局長と思われる人物、そして当時殖産局長を務めていた新渡戸の4人が揃った台湾総督府時代の写真が関屋の二男である関屋友彦の『私の家族 の選んだ道』(紀尾井出版)に残されている。

 友彦も母と同じ日本聖公会聖アンデレ教会信徒、三男・光彦は津田塾大学や国際基督教大学教授などを歴任し、その妻は日本YWCA(キリスト教女子青年 会)会長として反核・平和運動に携わった関屋綾子である。この関屋綾子はスウェーデンボルグ主義の森有礼の孫であった。長男・正彦は日本聖公会司祭として 活躍し、一時クエーカー教徒として普連土学園の校長を務めたこともあった。

 後藤は衛生状態の改善や教育の普及などの社会基盤の整備に尽力し、さらには農業改革の指導者として同郷の新渡戸を抜擢、新渡戸はあくまで「自発的である こと」を尊重しながら精糖工業の振興に努めた。彼らが今日の台湾の基礎を築き、今なお日本と台湾を結ぶ友好の架け橋となっている。

 ここにも深い因縁がある。初代台湾総督を務めたのが樺山愛輔の父、樺山資紀である。すでに台湾時代の樺山周辺に近代教育の基礎を作った伊沢修二や人類学 への情熱を胸に冷静な観察眼と温かい眼差しを持って未踏のアジアを歩き続けたフィールドワーカー・鳥居龍蔵の姿もあった。

 戦中、関屋衣子は貞明皇后を訪れる。衣子が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮 も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の 残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。

 ここで筧が日本人の生命観の真髄に迫ると評価した貞明皇后の御歌を記しておこう。

 八百万の神のたゝへし一笑ひ世のよろこびのもとにてあるらし

 貞明皇后こそが世界に誇る堂々たる平和主義者であった。樺山含めた薩摩系宮中グループも、そしてジョセフ・グルーもまた貞明皇后が英米に差し向けた使者だったのかもしれない。我が子への母君の想いが薩摩系宮中グループを「昭和天皇免罪工作」へと向かわせたのだろう。

 ■秩父宮妃とフレンド・スクールと三菱本家

 実は先に紹介した『銀のボンボニエール』には、戦後の日米関係と日本国憲法をも左右する更なる「深い因縁」も記されている。

 樺山愛輔が貞明皇后の使者として二度渡米したこと。当時秩父宮妃はワシントン市内のアイ・ストリートにある私立のフレンド・スクールに通学していたこ と。フレンド・スクールがクエーカー教徒の学校であること。そして、フレンド・スクールに決めた理由は、父の前任者、幣原喜重郎のご令息がこの学校に通学 されたことがあり、大変よい学校だという評判を両親が聞いていたことなど。

 日本国憲法をつくった幣原喜重郎のご令息とは長男・道太郎か、次男・重雄のことであろうか。これは非常に気になる。道太郎だとすれば、後におよそフレンド・スクール出身者とは思えない言動をするからだ。

 この秩父宮妃のフレンド・スクール入学には歴史に埋もれたままになっているクエーカー教徒の外交官、澤田節蔵の影響もあった。松平が駐米大使に起用され た時に参事官として補佐したのが節蔵であり、『澤田節蔵回想記』(有斐閣)によれば、学校のことで迷っている松平大使に「クエーカーの学校の入学案内を取 り寄せて大使にお勧めし、大使もいろいろお調べのうえ、お二人をこの学校(フレンド・スクール)に送られた。」としている。

 お二人とは当然松平の長女・節子と次女・正子である。次女は後に徳川義親の長男・義和に嫁ぎ、徳川正子となった。おそらく松平は澤田の推薦をもとに幣原と相談して決めたものと思われる。実は幣原と澤田は縁戚関係にあった。ここに三菱本家の存在が見出せる。

 澤田家の長男として鳥取に生まれた節蔵は、叔父に頼って鳥取中学から水戸中学に転学、ここでコチコチのクリスチャンであった母や叔父叔母の影響からク エーカー教徒となった。後に節蔵の妻となるのは薩摩出身で駐伊公使を務めた大山綱介の長女・美代子である。美代子も長らくローマに住み、帰国後は双葉女学 校カトリックで学んでカトリック信者となる。

 節蔵の弟である澤田廉三(澤田家三男)も日本キリスト教団鳥取教会(監督派)のクリスチャン外交官であった。廉三の妻となる岩崎美喜も結婚を機に念願か なって敬虔な聖公会信徒となった。結婚後の澤田(沢田)美喜は後に混血孤児救済で知られるエリザベスサンダースホームを創立する。

 岩崎美喜の父は岩崎久弥、祖父は三菱財閥創業者・岩崎弥太郎。つまり美喜は三菱財閥の本家にして第3代当主・岩崎久弥の長女であった。また、岩崎弥太郎 の四女・雅子の夫が幣原喜重郎であり、澤田廉三との縁談を持ちかけたのは「加藤の叔父(加藤高明、弥太郎の長女・春路の夫)と幣原の叔父」だったと美喜は 回想している。

 この三菱本家のキリスト教受容について、久弥の米ペンシルベニアでのクエーカー家庭での留学生活の影響があったと美喜は書いている。クエーカーが皇室と薩摩系宮中グループと三菱本家をつなぎあわせていた。

 余談になるが、澤田廉三・美喜夫妻の次男は澤田久雄、その妻は安田祥子である。今日もどこかで妹の由紀さおりとともに姉妹揃って美しい童謡を歌っていることだろう。

 ■澤田節蔵と松岡洋右

 1921(大正10)年3月3日、皇太子殿下(後の昭和天皇)をのせた戦艦「香取」が横浜港からイギリスに向け出港した。大正天皇の病状が悪化、宮中某 重大事件も重なり猛烈な阻止行動もあったが、皇太子の識見を広めることを最優先に洋行が実現した。訪問先はイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、イタ リア(バチカン含む)の欧州5カ国、日本の皇太子が外遊するのはむろん初めてのことである。

 艦上には供奉長として随行した外交界の重鎮、珍田捨巳(メソジスト派)、山本信次郎海軍大臣(カトリック)、そして澤田節蔵(クエーカー)の日本のクリスチャン・エリートが勢揃いしていた。バチカン訪問をねじ込んだのは山本信次郎だと言われている。

 それから4年後の25年1月19日、日本のクエーカーの父・新渡戸稲造は昭和天皇に進講している。この時の席次は『新渡戸稲造研究』第12号に記されて おり、摂政の宮(昭和天皇)と摂政宮妃と同じテーブルで新渡戸が対座し、新渡戸の左手に関屋貞三郎宮内次官、右手には珍田捨巳東宮大夫、奈良武次侍従武官 長、入江為守宮太夫(東宮武官長)と並んで澤田の名前がある。この澤田は松平恒雄の参事官として米国出発直前の澤田節蔵だったと思われる。

 実はこの時牧野伸顕は関屋貞三郎に続いて、澤田を宮内省に転出させるべく幣原喜重郎(当時外相)を訪ねている。牧野もまた皇室とクリスチャンの接木役を担っていたのである。

 さて、珍田、奈良、入江、澤田の4名いずれも昭和天皇の欧州外遊に供奉しており、新渡戸を囲んだ同窓会のような和やかな雰囲気に包まれていたことだろ う。新渡戸は当時事務次長を務めていた国際連盟に関する話を中心に進講し、昭和天皇は米国の動向を問いかける。彼らに待ち受ける暗雲が漂い始めた頃でも あった。

 昭和の戦争の出発点となった満州事変の翌32年、当時国際連盟の日本政府代表は松岡洋右(首席全権)、連盟理事長・長岡春一(駐仏大使)、佐藤尚武(駐 白大使)の3名から成り、事務局長を務めていた澤田節蔵は代表代理となる。澤田は松岡の派遣を「わが国官界財界に顔がひろく、ことに当時実質上政権を把握 していた軍部ともよく、政府としては彼を陣頭に立てて奮闘させようという考えがある」と見ていた。

 その日の早朝、松岡の命令で起草した電信案を手にした書記官が、澤田に発電してもいいかと聞いた。その電信案は「代表部の総意として事ここに至って日本は連盟脱退のほかなし、政府は断然脱退の処置をとるべし」というものだった。

 澤田はこの発信を中止させ3代表と澤田の4名で協議を行う。澤田は「日本が連盟を脱退することは自ら進んで世界の政治的孤児になることだ。」と主張し、 この一大事に最後の決断はあらゆる情報を把握している政府が行うべきであり、政府も迷っているこの時に「出先機関がジュネーブの空気から指図がましいこと をいうのは絶対に避けるべき」と言いたてた。

 しかし、松岡は日本のとるべき道は脱退以外にないとして一刻も早く発するべきと主張する。結局澤田の主張は葬り去られる。会議終了後、「澤田さんは温和な人と思いこんでいたが、今の会議では実に熱烈強硬そのもので実に驚きました」と佐藤に言わしめた。

 ブラジル大使を経て帰国した澤田は有田八郎外相の顧問として日独伊三国同盟も「ヒットラーのドイツと結ぶが如きは害多くして益なし」として強硬に抵抗し ている。この時同時に澤田が関与した「米国資本・満州北支誘導工作」が実に興味深い。ハリマン事件の教訓を生かした経済相互依存戦略が見出せる。

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2006年10月01日(日)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■一つ目の御前会議機密漏洩事件とヨハンセン・グループ

 吉田茂が憲兵隊によって逮捕されてすぐにジョセフ・グルー駐日米国大使との関係を問われたが、有害なものは見出せず、45日間の勾留を経て無事釈放され る。実際にはヨハンセン・グループの中に、当時であれば間違いなく死刑に相当する重大な国家反逆罪を犯していた人物がいた。しかも、薩摩系宮中グループの 中心にいたこの人物は吉田逮捕と同時に平塚市の憲兵分隊に出頭し、尋問を受けている。もしこの時この事実が発覚していれば、戦後の日本の歴史は間違いなく 変わっていたであろう。

 1941(昭和16)年9月6日の御前会議の内容をグルーにリークしていたのである。この御前会議で「帝国国策遂行要領」が決議され、その第一項で10 月上旬を目途に戦争準備を完遂することを、第二項で日米交渉の継続を決めているが、この日本人情報提供者は第一項には触れずに第二項のみを伝えている。

 グルーが書き残したこの年10月25日の日記を五百旗頭真の『日米戦争と戦後日本』(講談社学術文庫)より引用したい。

「今日、日本政府の最高指導層と接触のある信頼すべき日本人情報提供者が私に面会を求めてきた。彼によれば、近衛内閣総辞職以前に御前会議があり、その席 で天皇は軍の指導者たちに対し、対米不戦の政策の確認を求めた。陸海軍の指導者はそれに答えなかった。すると天皇は、祖父の明治天皇が追求した進歩的政策 に言及して、自分の意向に従うことを陸海軍に命ずる異例の発言を行った。」

 続けてこの日本人情報提供者のグルーへの依頼内容が記されている。

「近衛はこのたび総辞職し、東条内閣が組閣した。しかし、天皇は東条に対して、これまでのいきさつにとらわれず、対米協調を旨として憲法の条草をよく守 り、行っていくように、という注意を与え、それを条件として東条の組閣を認めた。東条が現役大将のまま首相となったのは、陸軍を効果的に統制しつつ日米交 渉を成功裡にまとめるためである。だから、軍の代表者が首班になったからといって、アメリカとの対決姿勢を意味すると思わないでほしい。どうかアメリカ政 府としては日本との交渉に見切りをつけず、東条内閣とも誠実に交渉をお続けいただきたい。」

 四方の海 みなはらからと思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ

 昭和天皇は御前会議終了間際に懐からこの明治天皇の御製を取り出し、二度朗詠し、さらに「私はこの明治天皇の御製を愛誦し、その平和愛好の精神を自分の心に言い聞かせている」とつけ加えた。

 これが「異例の発言」として「使者」からグルーへ伝えられた。グルーは日本人情報提供者との深い友情から敢えて名を伏せた。グルーにとってこの人物は宮 中グループとの極めて重要な仲介人であった。またグルーは、この人物が属する薩摩系宮中グループこそが対日戦後政策を円滑に実現し、良好な日米関係を再構 築する上で不可欠な存在と堅く信じ、何としても保護すべき対象だった。

 日本側からすれば日本人情報提供者はグルーを介した米国への使者であった。従って、本稿では以後この日本人情報提供者を「使者」と呼ぶ。

 ■二つ目の御前会議機密漏洩事件と松岡洋右

 実はこれとはまったく別の形でこの御前会議の情報は最高指導者スターリンにも伝わっていた。ソ連国家保安委員会(KGB)の前身である内務人民委員部 (NKVD)の極秘文書から、御前会議の3日後の9月9日付「特別報告」によってソ連内務人民委員ベリヤからスターリンとモロトフ外相へ伝えられていたこ とが明らかになった(05年8月13日付共同通信)。

 日本政府内部に暗号名「エコノミスト」と呼ばれるソ連の日本人スパイが存在し、この「エコノミスト」は、左近司政三商工大臣(当時)が9月2日に行った 要人との昼食で、日米交渉決裂なら開戦となり「9月、10月が重大局面」と明かしたとベリヤに報告、また、対米関係悪化のためソ連とは和平を維持し、外交 方針はこれらの原則を基礎に決めるとの商工大臣発言を伝えた。

 この記事の中で、下斗米伸夫法政大教授と袴田茂樹青山学院大教授は、ゾルゲや尾崎秀実の関わったソ連赤軍第四本部の統括下にあったスパイ網とは別系統のNKVD統括下のスパイ網が存在していた可能性を指摘している。

 ここに登場する左近司は海軍条約派に属し、1935(昭和10)年より海軍主導の国策会社・北樺太石油会社の社長を務めた経験がある。当時、戦争に向けて陸・海軍間で石油の奪い合いをしていた。この石油が「エコノミスト」を特定する鍵を握っているのかもしれない。

 現在の石油・天然ガス開発プロジェクト「サハリン1・2」の原点でもある北樺太石油会社は、25(大正14)年の日ソ協定に基づき、オハを中心とする北 樺太油田の採油利権を認められた時に始まり、左近司を含めた3名の歴代社長はすべて海軍中将が務めた。最盛期には年産約17万トン、ソ連開発分の買い入れ を含めると約30万トン、これは当時日本国内の産油量の半分以上に相当し、日本の原油調達全体の約6%を占めていた。

 日独伊三国同盟に続いて、41(昭和16)年4月に締結された日ソ中立条約の交渉過程で、モロトフ外相はこの北樺太油田の利権解消を要求する。実はこの 時も松岡の動きと意図は直前の3月10日付でゾルゲを通じてスターリンにもたらされていた。この情報を手にしたスターリンは終始主導権を握る。この条約締 結によって日、独との二正面作戦を巧みに免れたスターリンは北樺太の石油利権放棄という譲歩まで手に入れる。 

 それにしても米国との関係悪化が日本を石油確保に奔走させる中、北樺太油田は当時風前の灯火状態だったとはいえ貴重な安定供給源である。簡単に譲歩に応 じた松岡の態度、加えて松岡は利権解消について議定書ではなく外相書簡にすることをソ連側に提案、この書簡は秘密扱いにしつつ、中立条約のみが外交成果と して強調したことも極めて不可解と言える。ヒトラーではなく「おそらくはスターリンに買収でもされたのではないかと思われる」などと想像してしまう。

 そもそも国際連盟脱退後、満鉄総裁として返り咲き、大調査部を発足させ、左翼からの転向者を大量に招き入れることで満鉄調査部内に「満鉄マルクス主義」 を浸透させるきっかけをつくったのが松岡である。満鉄調査部にはその嘱託職員であった尾崎と満鉄調査部から企画院へ出向した小泉吉雄らを加えたコミンテル ン人脈、それに中西功や尾崎庄太郎らを中心とする中国共産党人脈が巣くっていた(『満鉄調査部』『満鉄調査部事件の真相』小林英夫他)。

 彼らのほとんどが「エコノミスト」による「特別報告」が行われた9月9日直後から、ゾルゲ事件(41年10月)、合作者事件(41年)、満鉄調査部事件 (42年、43年)や中国共産党諜報団事件(42年)で検挙されていることを考えれば、この検挙者の中に「エコノミスト」が含まれていたのだろうか。

 筆者には中国も事前に日米開戦時期をより正確につかんでいたとの情報が入っていることから、「エコノミスト」は満鉄調査部周辺の中国共産党人脈が怪しい と睨んでいる。中国には英国特殊作戦執行部(SOE)が深く潜入しており、コミンテルンも巻き込みながら英国・ソ連・中国間で日本情報を共有していた可能 性すらある。

 その根拠の一つとして、中国国民党の国際問題研究所(IIS=Institute for International Studies)の下部部門を英国が運営したという中英共同活動があげられる。その下部部門とはその名も資源調査研究所(RII=Resources Investigation Institute)である。どうやらコミンテルンや中国共産党、それに満鉄調査部の工作員もここに出入りしていたようだ。日本という大敵の存在が彼らを 一瞬結びつけた。それぞれの利害が複雑に絡まる中で、一致を見出す戦略目標が現れたからだ。

 その戦略目標とは日本を米国と戦争させること、即ち日本を米国にぶつけることである。当時蘭印の石油はロイヤル・ダッチ・シェル(生産量の74%)とス タンバック(残り26%)の支配下にあった。スタンバックとはスタンダード・バキュームのことでスタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー(後にエク ソンからエクソン・モービル)とスタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク(後にモービルからエクソン・モービル)の極東合弁会社である。彼らはこれに目 を付けた。

 石油で揺さぶり日本を米国と衝突させる。そして、石油欲しさの日本をロスチャイルドとロックフェラーの地へと追い込む。日本を南進させて虎の尾を踏ませ るわけだ。これによって、戦争は激化し、長期化し、日本は破滅へと向かう。ソ連・中国としては日本の脅威を回避できる。英国は日本憎しで国内を結束させつ つ、モンロー主義の米国を世界大戦に引き込む狙いがあった。

 しかし、開戦間近との情報が続々と届く中、まさか日本が石油も無しに開戦するとは誰も思っていなかった。それほど日本は愚かではないと判断していたのである。ところが日本は無邪気にも自らぶつかっていった。こうした周辺各国の読み違いが真珠湾奇襲の成功をもたらした。

 張作霖爆殺はソ連が日本軍の仕業に見せかけて行なったとするユン・チアンの『マオ』(講談社)の発表以来、日本はコミンテルンや中共の謀略によって嵌め られたと声高に主張する右派系識者が続々と出現しているが、ここにも相変わらずの無邪気さが垣間見える。戦争ともなれば謀略などは当たり前で、嵌められる 方が悪いのである。

 それにしても真珠湾攻撃対象にオアフ島にあった大規模石油貯蔵基地が見落とされていたこと、ハワイを占領することなくそのまま帰還したことが不思議でならない。

 ■日米戦争は油で始まり油で終つた様なものだ
  (『昭和天皇独白録』)


 ここでの当時の石油事情を見てみよう。日本の石油生産量は年間40万トン以下、約500万トンの需要に対して自給率は1割にも満たなかった。石油の不足 分は海外からの輸入に依存し、しかも極度に米国に依存していた。1940(昭和15)年の米国からの輸入量は337万トン、これは輸入全体の86%に達し ていた。

 これでは米英と戦えないと判断した日本政府は、36(昭和11)年に総額7億7千万の巨費を投じる「人造石油7か年計画」を策定する。しかし、計画4カ年後(40年)の計画達成率はわずか2.5%という悲惨な結果に終わる。

 御前会議の席上で企画院が説明した「開戦時石油需給見通し」がある。貯油は735万トン、開戦第1年の消費見込みが(陸軍、海軍、民間合計)が年間約 600万トン、これでは早々にお手上げとなるので、収得見込みに頼りにならない人造石油26万トンを上乗せして国産分、南方還送分を含め合計74万トンに した。それでも二年で底が尽きるので、開戦第2年に南方還送分の取得見込みをドドンと175万トンに引き上げる。

 かくして開戦後ただちにロスチャイルドとロックフェラーの待つ南方油田を占領し、石油を確保する戦略を決定、開戦二カ月後の2月14日には陸軍落下傘部隊がアジア随一の産油量を誇るスマトラ島パレンバン油田を奇襲し、120名の石油部隊が上陸する。

 しかし、パレンバンの石油が順調に届いたのは約一年間。本気になった米国ほど怖いものはない。制海権、制空権を米国に奪われ、石油輸送路は寸断される。 しかも石油タンカーが米国の最優先攻撃目標とされた。南方からの石油は45(昭和20)年3月の光島丸と冨士山丸に積まれたそれぞれ1万4千トンが最後と なった。

 まさに「日米戦争は油で始まり油で終つた様なもの」となった。

 ■もう一つの情報工作と薩会同盟

 さて、一つ目の御前会議機密漏洩事件について、五百旗頭真は薩摩出身の東郷茂徳外相の意を受けて日本人情報提供者である「使者」がジョセフ・グルー駐日米国大使にリークしたとしている。

 グルー日記に御前会議情報が記されたのは10月25日、その5日後の10月30日にロバート・クレーギー駐日英国大使から英国外務省あてに送られた公電を工藤美代子が発見している。

 このクレーギー電によると「天皇が東条を首相にする時、米国との交渉を続けることと戦争を避けるあらゆる努力をすることを条件にしたとの情報をさらに確 認した。この話は米国の同僚(グルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており、それによると陸海軍の代表は(近衛)内閣危機の時に開かれた重臣らの会 合で、天皇から戦争につながりそうないかなる動きも慎むよう命じられた。しかし、天皇の介入がどんな形であれ、前例のない勇断であったことは間違いない」 としている(1988年8月1日付朝日新聞朝刊)。

 この内容からは御前会議と特定することはできないが、グルー日記の「異例の発言」を「前例のない勇断」と置き換えることもできる。また「米国の同僚(グ ルー駐日米国大使)には多少違う形で伝わっており」となっていることから、グルーの入手した情報を英米間で共有していた可能性もある。

 リークされた日時とその内容から、薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作であった可能性が高い。この時すでに敗戦後の日本の国体護持と昭和天皇 の戦争責任訴追回避に向けた「昭和天皇免罪工作」が実行に移されていたと考えるべきだろう。裏を返せば、彼らは昭和天皇の戦争責任が問われることも有り得 ると見ていた。昭和天皇が世代の近い木戸に傾斜していたことを認識していた。だからこそ工作が必要であった。

 薩摩系宮中グループが主導した組織的な情報工作には驚くべき協力者がいた。当時クレーギーと頻繁に接触していたのは松平恒雄である。この松平も薩摩系宮中グループと切っても切れない関係にあり、この時まさに薩会同盟が結ばれていた。

 松平恒雄は駐米、駐英大使などを歴任した外交官で、当時宮内大臣を務めていた。戊辰戦争で最後まで官軍と戦った元会津藩主であり京都守護職でもあった松平容保の四男で、母・信子は佐賀の元鍋島藩主、鍋島直大の四女である。

 会津藩の長州藩に対する怨念は消えていない。これをテーマにした書籍も今なお相次いで登場している。ここで必ず話題になるのが靖国神社である。ではなぜ会津は同じ官軍であった薩摩をほとんど取り上げないのか。会津は薩摩と和解したのだろうか。

 これを説く鍵も「使者」と松平恒雄の関係にある。

 園田さんにメール mailto:yoshigarden@mx4.ttcn.ne.jp
2006年09月27日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■近衛上奏文のターゲット

 木戸幸一の実弟・小六の長女正子は1939(昭和14)年に都留重人と結婚する。戦後日本を代表する経済学者として一橋大学学長や朝日新聞論説顧問を歴 任した都留は、戦前のハーバード大学でE・ハーバート・ノーマンと深い親交を結び、二人はマルクス主義者としての時間を共有していた。

 長野県軽井沢でカナダ・メソジスト教会の派遣宣教師の息子として生まれたカナダ人外交官ノーマンは、戦後連合国軍総司令部(GHQ)の対敵諜報部 (CIS)の調査分析課長として政治指導者や政治犯の情報収集を行い、最初の仕事が米国外交官ジョン・エマーソンとともに行った府中刑務所からの志賀義雄 や徳田球一ら16名の共産党幹部の釈放、次に行ったのが近衛文麿と木戸幸一に関する意見書の作成であった。

 この意見書は近衛と比べて木戸には寛大だった。工藤美代子はノーマンと都留が合作した作文が近衛を貶めたと主張する。またノーマンが近衛を憎んだ最大の 理由が「近衛上奏文」とマッカーサーと会見した際の「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実はマルキストである」とする近衛発言 にあったと書いている。

 敗色濃厚の終戦年2月14日の近衛上奏文には、日本の敗戦は必至としながら、「最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命」にあ るとし、「コミンテルン解散以来、赤化の危険を軽視する傾向」を「皮相安易なる見方」と指摘しながら、「軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革 命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的 に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なし」と書かれている。

 ここで工藤美代子は重大な見落としをしているので指摘しておきたい。この近衛上奏文にある「これを取巻く一部官僚」とは、明らかに木戸と「特別の信頼関係」にあった岸信介をも指していた。またその上、木戸本人を指していた可能性すらある。

 ■革新勢力を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり

 岸信介が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移した「満州産業開発5か年計画」を描いたのは宮崎正義である。金沢の下級武士の家系に生ま れた宮崎は、ペテルブルグ大学留学中にロシア革命前夜に遭遇し、満鉄きってのロシア・スペシャリストとなる。宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を 収めたソ連の経済五カ年計画に着目、関東軍参謀の石原莞爾や戦後国鉄総裁として新幹線建設に尽力した十河信二らと経済調査会を発足させ、ソ連の経済五カ年 計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを企画立案した。
 
 岸と星野直樹は鮎川義介の協力を得て満州重工業開発を設立し、鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より重層的なシステムに作り替えたのである。

 満州国から帰国した岸は阿部・米内・近衛内閣のもとで商工次官を勤め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」と連携しながら革新勢力を形成、満州産業開発5か年計画に端を発する戦時統制経済を日本に持ち込もうとした。

 しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義経済人であった小林一三商工大臣と対立、企画院事件も重なり、小林は岸に対して「お前はア カ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。このことは岸本人も『岸信介の回想』(文藝春秋)の中で触れている。この時、岸解任を決めたのが近衛文麿だった。こ れを機に過激な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非難し、岸もアカと見なされるようになった。(『岸信介の回想』の他に『「日本 株式会社」を創った男』小林英夫・小学館、『岸信介』原彬久・岩波新書参照)

 そもそも統制という言葉が法律語として初めて登場するのは、満州産業開発5か年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布された「重要産業統制法」であ る。これを立法起案したのがドイツのナツィオナリジィールンク(国家統制化)運動を学んで帰国した農総務省時代の若き岸だった。その実施にあたったのが岸 とその上司、木戸であったことも『岸信介の回想』で岸本人が語っている。木戸と岸の特別な信頼関係は農総務省時代の上司と部下の関係によって培われた。

 また木戸と近衛は京都帝国大学時代からの学友であり、岸を中心とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、近衛であり、木戸である。近衛と木戸は原田熊雄 (西園寺公望の秘書)とともに「宮中革新派」を形成し、宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を握りながら牧野伸顕を支えた関屋貞三郎宮内次官を辞 任に追いやり、この関屋辞任工作により薩摩系宮中グループから主導権を奪い取ったのである。

 尾崎秀実をもブレーンとして重用していた近衛が、その上奏文で自身の「過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友を有せし不肖」を「反省」しているのもこのためだ。

 従って、工藤美代子が主張するノーマン・都留策略説はいささか公平さに欠いている。先に仕掛けたのは近衛である。近衛上奏文こそが木戸や岸ら長州系宮中 グループへの裏切り行為を意味した。内情をよく知る近衛と原田は長州系宮中グループから薩摩系宮中グループに寝返ったのである。また同時に、近衛上奏文は 木戸や岸をも「アカ」とするレッテル貼りが行われていた可能性すらある。

 ■天皇のインナー・サークルとしての宮中内の対立構図

 それでは、誰がそのレッテルを貼ったのか。
 
 近衛上奏文は近衛文麿と吉田茂率いるヨハンセン・グループ(吉田反戦グループ)の合作である。ヨハンセン・グループこそが薩摩系宮中グループである。そ の中心には牧野伸顕(薩摩藩士大久保利通の二男、吉田の岳父)、樺山愛輔(海軍大将・樺山資紀の長男)に吉田茂を加えた3名がいた。

 この近衛上奏文は悲しいほどに非力ながらもヨハンセン・グループ最大の成果となった。しかもここで行われたレッテル貼りには、戦後を睨んだしたたかな戦略が読みとれる。そして、陸軍とともに長州系宮中グループもこの時点で敗北が確定した。

 そもそも長州の山県有朋の権力が宮中某重大事件で失墜した直後の1921(大正10)年に薩摩の牧野が宮内大臣に就任、1925(大正14)年に内大臣 となった。しかし5・15事件の影響から牧野の身を案じた牧野の女婿・吉田の意見もあって1935(昭和10)年に辞任する。木戸は1940(昭和15) 年に内大臣に就任、牧野に代わって宮中政治を牛耳った。宮中某重大事件については諸説あるが、関屋辞任工作に見られるように宮中側近の座をめぐって長州と 薩摩は熾烈な権力争いを行っていたのである。

 このヨハンセン・グループには二・二六事件で予備役へ追いやられた陸軍皇道派の真崎甚三郎と小畑敏四郎も関与している。皇道派主導の二・二六事件で吉田 の岳父であった牧野も狙われたことを考えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見えるが、吉田らは東条率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつけるために 手を組んでいた。また彼らを結びつけたのは「反ソ・反共」であり、日本が赤化することへの強い危惧を共有していたからだ。

 陸軍省防諜課によって監視されていた吉田は、1945(昭和20)年4月15日、「近衛上奏文」に関連する容疑で憲兵隊によって逮捕される。この逮捕は ヨハンセン・グループの反戦信任状(『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー)となり、戦後において極めて有利な経歴となった。

 この反戦信任状の威力は、木戸(終身禁固刑)や岸(巣鴨拘置所収監)に対してヨハンセン・グループに関与した約20名の内、誰ひとりとしてA級戦犯起訴されていないことからもわかる。唯一の例外になり得た近衛も自ら死を選ぶことによって免れた。

 また、有罪判決を受けた25名のA級戦犯の内訳を見ると、陸軍軍人が15名に対して海軍軍人が2名、さらに極刑となると東郷、板垣、武藤ら陸軍軍人が6名に対し、海軍軍人は一人もいない。長州の陸軍、薩摩の海軍の棲み分けと反戦信任状の威力を思い知ることになる。

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2006年09月23日(土)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■序文

 本稿は戦前の天皇のインナー・サークルとしての宮中グループに焦点をあてながら、昭和平成史を読み解くことを目的としている。宮中グループは宮中側近グ ループなどとも呼ばれ、これまで定義としてあいまいさを残してきた。本稿では宮中グループを宮中側近にいた政・官・軍を含めたエリート集団と位置付け、こ れまで一括りに論じられることが多かったこのグループを牧野伸顕中心の「薩摩系宮中グループ」と木戸幸一中心の「長州系宮中グループ」に切り離し、対比し ている点を特徴としている。

 薩摩系宮中グループは皇室との関係においては貞明皇后、秩父宮夫妻、高松宮との結びつきが強く、昭和天皇の母君である貞明皇后のインナー・サークルとも 言える。また、彼らは英米のエスタブリッシュメントと戦前から深く結び付き、親英米派として国際協調を重視した自由主義者であり、英米から穏健派と呼ばれ た勢力である。このため皇室と英米有力者との仲介者として宮中外交を支えた。英米との接触の中で宗教的感化を受けてクリスチャン人脈を多く抱えていたこと も特徴としてあげられる。その歴史的な背景はザビエル来航450周年を記念して建立された「ザビエルと薩摩人の像」(鹿児島市ザビエル公園)が象徴してい る。

 これに対して長州系宮中グループは昭和天皇のインナー・サークルとして昭和の戦争を主導した勢力である。岸信介や松岡洋右を仲介者に陸軍統制派と手を握 りながら戦時体制を築いた。単独主導主義的な強硬派と見なされることも多いが、アジアの開放を掲げた理想主義者としての側面もある。戦前から靖国神社が彼 らの拠り所となってきたことは、靖国神社にある長州出身の近代日本陸軍の創設者・大村益次郎の銅像が見事に物語っている。

 かつては「薩の海軍、長の陸軍」という言葉もあった。地政学的に見れば前者は海洋勢力、後者は大陸勢力となるだろう、また、明治期に医学を教えたドイツ 人医師・エルヴィン・ベルツは、日本人を薩摩型と長州型に分類し、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、薩摩型はマレーなどの東南アジアか ら、長州型は「満州」や朝鮮半島などの東アジア北部から移住した先住民の血を色濃く残していると考えていたことも興味深い(『DNAから見た日本人 』斉藤成也・筑摩書房)。前者は縄文人、後者は弥生人の特徴を残しているのだろうか。大陸からの渡来人によって縄文人が日本列島の南北周縁に分散したと考 えることもできるだろう。

 本稿では明治維新の内乱の過程で賊軍の汚名を着せられた武士階級の出身者やその子孫が数多く登場する。薩長藩閥によって立身出世が阻まれながらも、佐幕 派は賊軍の汚名を晴らすべく、ある者は語学力を身につける過程でクリスチャンとなって薩摩系宮中グループに接近し、ある者は軍部を率いて長州系宮中グルー プと手を握り、またある者は共産主義に傾斜していった。特に陸軍の悲劇は、勝てば官軍の東京裁判で再び汚名を着せられたことだろう。しかし、勝てば官軍は 世の常であり、その最たる例が靖国神社の原点にあることを再びここで取り上げる。

 日本の敗北は長州系宮中グループの敗北も意味した。薩摩系宮中グループは戦時下において悲しいほどに非力であったが、戦後、英米から選ばれし穏健派エ リート集団として勝ち残ることになる。薩長の明暗を分けたのは情報力の差である。これは未来永劫語り継ぐべき重要な教訓である。

 戦後、薩摩系宮中グループの流れを受け継いだ吉田茂は、元祖「反ソ・反共」として、「経済優先、日米安保重視、軽武装、改憲先延ばし」の吉田ドクトリンを掲げて保守本流を築いていった。この吉田はカトリックとして本流らしい最期を迎えた。

 この吉田一派をポツダム体制派と見なし、反吉田旋風を巻き起こしながら、見事に復活したのが長州系宮中グループを受け継いだ岸信介である。岸も賊軍の汚 名を晴らすかのように国際政治の舞台に復帰する。元祖「反ソ・反共」に対抗して、統一教会などと「勝共」を掲げたが、所詮保守傍流に追いやられた。
 
 平成の時代になって「政治優先、対米自立、再軍備、自主憲法制定」を柱とする岸ドクトリンのたすき掛けリレーが小泉純一郎によって再スタートする。そし て今、第一走者の小泉純一郎から第二走者の安倍晋三へと受け継がれた。安倍の背後にはさらに強力な第三の男も控えている。この3名すべてが岸及び岸の同志 につながる家系である。

 なお、本稿には日本国憲法における象徴天皇制及び戦争放棄に大きな影響を与えた新渡戸稲造とそのクエーカー人脈が再度登場する。さらに、歴史に埋もれた ままになっている敬虔なクエーカー外交官も取り上げる。従って、「ビッグ・リンカー達の宴2」シリーズの続編としても位置付けたい。

 岸の血を引き継ぐ長州8人目の安倍晋三首相からこの物語を始めたい。

 ■長州8人目の首相に向けられた二つの遺言

 長州8人目の首相が誕生する。1885(明治18)年の内閣制度発足以来、長州は初代伊藤博文、山県有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一、岸信介、佐藤栄 作(岸信介の実弟)の7名の歴代首相を生み出してきた。8人目の安倍晋三にとって岸信介は祖父、佐藤栄作は大叔父にあたる。

 この7名に戦前の満州国の実力者として「二キ三スケ」と呼ばれた5人の人物を加えることで、安倍の長州人脈がより一層理解できる。二キは東条英機と星野 直樹、三スケとは岸、松岡洋右、それに日産コンツェルンの創設者である鮎川義介を指す。岸、松岡、鮎川の三スケはともに長州出身の縁戚トライアングルと なっていた。

 この岸の血を引き継ぐ安倍晋三の『美しい国へ』(文春新書)の発売日は7月20日、この日の朝に届けられた日本経済新聞に安倍晋三と縁戚関係にある松岡 洋右の名前が登場、日本中が騒然となった。(『美しい国へ』の発売日から5日後、購入するために誤って「美しい国」で検索したところ、統一教会と国際勝共 連合の会長を務めた久保木修己の遺稿集『美しい国 日本の使命』(世界日報社)が飛び出てくる。ここに「美しい国」の向かう先が暗示されているのだろう か。)

 この日本経済新聞に掲載された昭和天皇が当時の富田朝彦宮内庁長官に語ったとされる富田メモの信憑性をめぐって様々な議論が巻き起こっているが、 1944年7月16日付東条英機名文書で、靖国神社合祀基準を戦役勤務に直接起因して死亡した軍人・軍属に限ると通達していたこと(8月5日付共同通信) を考えれば、昭和天皇の不快感がA級戦犯ではなく、東条の示したルールを無視して勝手に合資を決めた旧厚生省や靖国神社に向けられていたとの見方も浮かび 上がる。

 とはいえ、昭和天皇独白録の中で松岡洋右を「おそらくはヒトラーに買収でもされたのではないかと思われる」と厳しく批判していることから、昭和天皇は松岡と白鳥敏夫元駐イタリア大使が推進した日独伊三国同盟締結を戦略的な失敗だったと見ていたことを否定するのは難しい。
 
 組むべき相手を間違えてはならないとの昭和天皇の思いが遺言同様の重みを持ってずしりと伝わってくる。

 そして8月1日、旧日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)最後の頭取であった西村正雄が急死した。西村は故安倍晋太郎の異父弟で、安倍にとっては叔父にあたる。

 この西村は『論座』7月号に「次の総理に何を望むか-経世済民の政治とアジア外交の再生を」とする論文を書いている。名指しこそ避けているものの明らかに安倍に向けられたものであり、ここでもまた松岡の名前が登場する。

『民主主義が陥りやすい欠点は、ポピュリズム政治である。特にテレビが発達した小選挙区制度の下では、その傾向が強くなりがちである。テレビに頻繁に出 て、若くて格好良い政治家が人気を博する。また、中国の反日デモなどを機に「強い日本」を煽るナシャナリスティックな政治家がもて囃される傾向がある。こ のような偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家に課せられた大きな使命である。戦前、松岡洋右外相の国際連盟脱退、日独伊三国同盟締結を当時のマスコミ が歓迎し国民もこれを支持した結果、無謀な戦争に突入したが、最近似た傾向が出ていることは憂慮される。』

 森田実によれば、死の直前、西村は安倍に宛てた手紙の中で「ここ(『論座』7月号)に書いてある内容は、君に対する直言であり、故安倍晋太郎が生きてい れば恐らく同意見と思うので良く読むように」と伝え、更に次期総理は時期尚早、小泉亜流は絶対不可、竹中等市場原理主義者や偏狭なナショナリストと絶縁 し、もっと経験を積むようにと言い込んだとのことである。

 この西村の手紙は週刊現代の『安倍晋三「空虚なプリンス」の血脈』シリーズでも取り上げられている。靖国神社が運営する戦史博物館「遊就館」の存在が米国との関係悪化につながるとしながら、「国家を誤らせる偏狭なナショナリストと一線を画すべき」と重ねて書いている。

 テレビに頻繁に登場し、演説には大勢の女性が押し寄せ、偏狭なナショナリズムを抑えるどころか先頭に立って「強い日本」を煽り、『美しい国へ』で闘う姿勢を示した。

 おそらく西村は安倍の親代わりとして、その行く末を松岡に重ね合わせていたのかもしれない。この西村もまた安倍に対して組むべき相手を間違えてはならないと警告していたのである。

 まずは今まさに誕生した長州8人目の首相と偏狭なナショナリズムの接点となっていると思われる「長州の護国神社のような存在」としての靖国神社から歴史を振り返ろう。

 ■靖国における官軍と賊軍

 1869(明治2)年、明治維新時の戊辰戦争で亡くなった官軍兵士を祀るために靖国神社の前身である東京招魂社が創建、これに尽力したのが長州の大村益 次郎、1872(明治5)年に社殿(本殿)が完成し、正遷宮祭が執行された時の祭主は長州の山県有朋であった。1879(明治12)年に別格官幣社と列格 されて靖国神社に改称、以後敗戦まで陸軍省と海軍省と内務省が管轄官庁となった。

 山県は「日本陸軍の父」と言われた大村の意志を継ぎ、参謀本部を権力基盤に、長州の陸軍、薩摩の海軍という棲み分けを謀りながら、「陸軍のローマ法王」 として陸軍の前期ほぼ50年を長州閥で実質支配した。またその派閥網を掌握しながら軍のみならず政界にも君臨、内閣製造者にして内閣倒壊者として桂、寺 内、田中政権を生みだしていく。

 この山県の権力も1921(大正10)年の宮中某重大事件で失墜、その翌年に死去し、以後長州閥全盛時代が崩壊していくかのように見えた。しかし、実際 には政・官・軍・財へと人材が配置され、現在まで脈々と引き継がれてきた。その象徴となった地が戦前の満州国であり、ここで革新官僚を代表したのが安倍の 祖父、岸信介である。

 岸は関東軍参謀の秋永月三らの画策により、商工省工務局長から満州国に転出、満州国総務庁次長として「満州産業開発5か年計画」を実行に移し、満州を官僚統制経済システムの壮大な実験場にしながら、東条英機に接近していくことになる。

 一方で官軍兵士を祀るための靖国神社には、朝敵であった会津白虎隊同様、南部藩士も庄内藩士も祀られていない。東条英機の父東条英教は南部藩士、陸大を 最優秀の成績で卒業しながらも長州閥によって昇進が阻まれ、予備役中将として軍人の生涯を終える。東条の長州への恨みにも似た感情の背景には父の受けた仕 打ちがあった。東条は永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次などとともに陸軍に蔓延る長州閥打倒、国家総力戦体制、統帥権の確立を目指して立ち上がる。

 昭和の戦争の出発点は1931(昭和6)年の満州事変。その首謀者は石原莞爾と板垣征四郎とされる。石原の父は庄内藩士、板垣の父は東条と同じ南部藩士 である。彼らは「賊軍」の汚名を晴らすべく軍閥を形成しながら昭和の戦争を主導し、戦後南部藩士の息子二人は絞首刑となった。

 満州の地で長州と反長州が「二キ三スケ」として結合し、親密な関係を築いていく。一時ではあるが確かに「官軍」と「賊軍」の立場が入れ替わっていた。二 人を結びつけたのは岸の関与したアヘン密売によるカネの力であったとする説が今なお語り継がれている。しかし、岸と東条の関係も長くは続かなかった。

 東条の引きもあって東条内閣の商工大臣となった岸も、劣勢への対応策として商工省が廃止、軍需省が新設された際に軍需次官(兼国務相)に降格されたこと から東条との関係が悪化、サイパン島陥落(1944年7月)によって戦争継続を不可能と判断した岸と本土決戦覚悟で戦争継続を目論む東条との対立が決定的 となり、岸の辞任騒動に発展、これをきっかけに東条内閣は総辞職に追い込まれる。

 ■長州系宮中グループの中心人物

 この時、岸信介の背後から「反東条・倒閣」を指示していたとされる黒幕が木戸幸一内大臣である。

 木戸の父・来原孝正は長州閥の巨頭・木戸孝允(桂小五郎)の実妹・治子と吉田松陰の親友としても知られる長州藩士・来原良蔵の長男として生まれ、後に木 戸家を継いで木戸孝正となった。この孝正と長州ファイブの山尾庸三の娘・寿栄子の間に生まれたのが幸一であり、その妻・鶴子は日露戦争の英雄、児玉源太郎 陸軍大将の娘である。長州エスタブリッシュメントの血を受け継いだ木戸こそが長州系宮中グループの中心にいた。

 近衛内閣総辞職後、木戸は天皇の側近中の側近としての立場を利用しながら、皇族内閣に反対し、対米強硬派である東条を強く推した。昭和天皇への忠勤ぶり が目立つ東条を昭和天皇の意思が直接伝えられる首相に起用することで戦争回避に道が開ける。この木戸の甘い判断は、皮肉にも自らが岸を使って東条内閣を崩 壊させるという結末を生んだ。

 戦時中、木戸は「宮中の壁」となって重臣らの声を昭和天皇に届けようとしなかった。戦後木戸の残した日記は戦後連合国軍総司令部(GHQ)が戦犯容疑者の被告選定に活用されたが、この木戸日記は軍人被告らに対して不利に働き、陸軍軍人からは蛇蝎のごとく嫌われた。

 敗戦時の国務長官にして玉音放送の際の内閣情報局総裁を務めた下村宏(下村海南)は、戦後間もない昭和25年5月に出した『終戦秘史』で、当時の宮中グループについて次のように書いている。

「私はまず近衛(文麿)、木戸という一線が牧野(伸顕)、湯浅(倉平)、鈴木(貫太郎)の一線に取って代わったということを指摘したい。近衛、木戸が軍を 迎合せぬまでも軍と手を握った。軍の方から彼等をオトリにつかったという事実は否定できない。そこに近衛、木戸を引き立てた老境に入りし西園寺(公望)公 にも責任の一端がある。」と指摘し、さらにこう続ける。

「木戸内府としての欠点は、この重大危機に当り、衆智をあつめて熟慮断行しなかったことである。歴代の内府にくらべて政府へ口ばしを入れすぎた。ことに人 事の差出口が多く、相当長州閥のにおいも鼻についたことである。しかも牧野内府時代にくらべ、陛下への周囲のみぞを深くしたことである。さらに国家存亡の 渡頭に立ち内府の重責に在り、しかも確乎たる信念を立つるあたわず、信念有るもまたこれを堅持するあたわず、東条内閣の策立を容認したことである。」

 軍の方が木戸らをオトリに使ったのだろうか。むしろ、戦後の境遇を考えれば、木戸と長州閥のにおいがする岸らが軍をオトリに使ったようにも見える。東条らは木戸によって担がれ、踊らされ、ぶつけられ、最後にバッサリ切り捨てられたとの見方もできる。

 その理由として、岸は巣鴨拘置所で行われた国際検察局(IPS)の尋問で、木戸との「特別の信頼関係」に触れつつ、東条内閣総辞職に果たした役割を特に強調しているからだ。「反東条・倒閣」を自己正当化のために最大限にアピールしていたのである。

 この木戸周辺の策略によって近衛文麿が自殺に追い込まれたとする工藤美代子の『われ巣鴨に出頭せず』(日本経済新聞社)が注目されている。

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2006年07月11日(火)
萬晩報通信員 園田 義明
 ■北の打ち上げ花火

「北朝鮮がミサイルを発射した4日(米国東部時間)は、米国の独立記念日だった。7発も撃って祝福してくれたようなもので、結構なユーモア・センスではないか、と思ったくらいだ。発射を軍の強硬派が支配的になった表れと見る人もいるが、やはり金正日総書記の考えだろう。」

 ミサイル発射の翌日とあって緊張に包まれた講演会場はこの発言によって一気に雰囲気が和らいだことだろう。ジョークを飛ばしたのは日本の守護神ことリ チャード・アーミテージ元米国務副長官、7月6日に東京・丸の内の東京会館で行われた特別講演会「日米同盟と対東アジア政策」(読売国際経済懇話会主催) での発言であった。

 日付変わって7月7日の外国特派員協会。ここでジョークを連発し外国人記者の笑いを誘ったのが金正日の「非公式スポークスマン」と言われるキム・ミョン チョル朝米平和研究センター所長である。アーミテージ発言など知らんふりで「アメリカ人にはユーモアのセンスがない」から始まり、「金総書記は米国の独立 記念日とブッシュ大統領の60歳の誕生日のためにお祝いをした」と繰り返した。

 確かに7月4日は米独立記念日、そして7月6日はブッシュ大統領の60歳の誕生日である。アーミテージとミョンチョルのジョークを重ね合わせると、将軍 様のミサイル連発は米国とブッシュ大統領の誕生日を祝うための盛大な打ち上げ花火のように見えてくる。この打ち上げ花火は大失敗のように見えたが、これを きっかけに盛大なお祭り騒ぎが始まり、その儲けが「誕生日プレゼント」となって日本から米国へと流れ込んでいく光景を目の当たりにする。

 小泉首相は5日夕方に行われた会見で、「どういう意図があるにせよ、北朝鮮にとってプラスはない」と批判、続けて「日本に対しても米国に対しても他の国 に対してもプラスはないと思う」と強調したが、その背後でここぞとばかりに北の花火にほくそ笑む人々の姿が露骨に見えてきた。

 ■始まったお祭り騒ぎ

 今回の発射に先立ちイランのミサイル技術者10人が北京経由で北朝鮮入りしており、北朝鮮にとってもプラスはないとは言い切れない。今回の「実演販売」 によるテポドン商材の受注実績は散々たる結果になったかもしれないが、それでも燃料供給用ターボポンプなどのテポドン周辺商材やノドン、スカッド・ミサイ ル商材にはイランはもとよりパキスタンやベネズエラなどからの注文が殺到している可能性すらある。

 しかし、このチャンスを逃すまいと日本側からの納期前倒し依頼や新規注文の問い合わせが殺到しているのはミサイル防衛(MD)システムに関係する米国防省と米防衛企業だろう。今回は日本政府のお墨付き。しかもである。珍しく日本世論の後ろ盾まである。

 7月5日の時点ですでに防衛庁幹部は「一刻も早くMD計画を進め、迎撃能力を取得しなければならない。当然、今回のことでそういう動きが加速する」との 見方を示す。同日沖縄市議会では地対空誘導弾パトリオット・ミサイル(PAC3)の配備に反対する抗議決議をめぐり紛糾、「緊張状態の中で、配備の賛否を 議論するのはおかしい」と保守系議員らが主張し決議は見送られた。

 さらに翌6日に急遽開かれた衆院安全保障委員会では、額賀福志郎防衛庁長官がMDについて「監視レーダー網整備とともに、迎撃面も米国と協調して一刻も 早く形をつくりたい」と強調し、9日には敵基地攻撃能力の必要性にまで踏み込んだ。この額賀福志郎こそが日米にまたがる軍産インナー・サークルが集結する 「日米安全保障戦略会議」の常連さんのひとりである。

 そして早くも7日、政府は2008年3月末をめどとしていたPAC3計3基の配備を前倒しし、06年度末の入間基地(埼玉)配備予定の最初の1基も含め て07年中にも霞ヶ浦(茨城県)、習志野(千葉県)、武山(神奈川県)の4基体制とする方針を固める。読売新聞によれば08年度以降の配備分は国内でのラ イセンス生産する予定とのことで、日本の防衛企業もすでにお見積書を提出していることだろう。また海上自衛隊も米軍の電子偵察機RC135S(通称コブラ ボール)の新規導入を検討し始めている。

 読売新聞社が6、7日の両日に実施した緊急全国世論調査では、米国と協力して「ミサイル防衛(MD)システム」の整備を急ぐべきかについて、63%が 「そう思う」と答え、「そうは思わない」は24%となっており、この調査内容は英文にされて米国への祝電扱いで大量にばらまかれているに違いない。

 ■逃げ切るカナダ
 
 7月7日に産経新聞が真っ先に報じたテポドン2号ハワイ照準説は、ロイターやAPによって英訳され瞬く間に世界中に配信された。これによって真珠湾の記 憶を呼び起こし、米国民を奮い立たせ、米国を北朝鮮にぶつけることができればいいが、裏側を覗けばそんな単純なシナリオで動いているとは思えない。

 おそらくブッシュ大統領とその取り巻きにいる日米軍産インナー・サークルは、せめてハワイ周辺海域まで届かずともその一歩手前までは到達して欲しかったというのが本音であろう。そうなれば距離的にカナダも他人事ではなくなるからだ。

 米国はカナダに対しても公然とミサイル防衛(MD)システムへの参加要請をしていたが、マーティン自由党政権時の05年2月に不参加の意志を表明してい る。今年2月のハーパー保守党政権誕生後、ここぞとばかりに米国は巻き返しを謀ってきた。ミサイル発射直後の6日にはブッシュ大統領とハーパー首相との会 談が行われたが、どうやらここでも再度参加要請が話し合われたらしく、会談後の共同記者会見でハーパー首相は「MD参加に関する議論を再開する準備ができ ていない」と表明、またしても逃げ切りに成功したようだ。

 米国のミサイル防衛の歴史は古く、現在の原形は冷戦下のレーガン政権時代に開始された「戦略防衛構想(SDI)」に端を発している。以来現在まで米国は 累計約10兆円を超える投資を行っており、この回収と将来の利益につなげるべく官民挙げて必死で世界中に押し売りしているのである。

 カナダのように逃げ切れない日本は、共同開発費を含め総額1兆円を上回る負担を強いられることになる。金額に見合った効果が得られればいいが、実戦に耐えうる精度に達するまでには更なる膨大な費用と時間が必要になるだろう。

 決して口には出さないものの、日米軍産インナー・サークルはその時まで凶暴なままの北朝鮮でいてほしいと密かに願っているに違いない。彼らにとって都合 のいい敵の本丸はあくまでも中国、しかし何をしでかすかわからないという意外性ではやはり見劣りする。期待通りの役割を演じることでその存在意義を世界に 見せつけた北朝鮮の狙いもこのあたりにある。

 とはいえ米国の下請け的な日米軍産インナー・サークルとは距離を置いて、日本人としての気概に目覚め、日本独自のミサイル防衛にこだわる日本主体の軍産インナー・サークルの登場を内心待ち望んでいたりもする。

 ■統一教会得意の「誕生日プレゼント」

 アーミテージ元米国務副長官が講演した「日米同盟と対東アジア政策」には安倍晋三官房長官も招かれていた。この時の講演で安倍晋三はテポドンのほかノド ン、スカッド・ミサイルを発射する可能性について事前に把握しており、5日早朝6時半過ぎという極めて異例な早さで実現したシーファー駐日米国大使との官 邸での会談も打ち合わせ通りだったと得意げに披露している。

 この安倍晋三にブッシュ大統領と金正日総書記とくれば、どうしても気になるのが合同結婚式や霊感商法などで知られる宗教団体「世界基督教統一神霊協会」(統一教会)の存在である。

 統一教会創始者の文鮮明とその妻が昨年創設した「天宙平和連合(UPF)」が今年5月に日本国内12カ所で「祖国郷土還元日本大会」を開催、同月13日の福岡市での大会では安倍晋三官房長官や自民党の保岡興治・元法相名の祝電が読み上げられた。 

 この件で安倍晋三は「私人の立場で地元事務所から『官房長官』の肩書で祝電を送ったとの報告を受けている。誤解を招きかねない対応であるので、担当者によく注意した」とのコメントを出しているが、ポスト小泉を狙う大事な時期のことだけに釈然としないものがある。

 この大会では安倍晋三を「岸信介元総理大臣のお孫さんでいらっしゃり・・」として紹介しているがこれには深い意味がある、反共を旗印にした世界反共連盟 (WACL)のもとで統一教会の政治団体である国際勝共連合が設立されたのが1968年、その設立には安倍晋三の祖父である岸信介、そして笹川良一や児玉 誉士夫といった戦後右翼の大物達も関わった。安倍晋三の父、晋太郎も勝共推進議員名簿に名を連ね、統一教会も安倍晋太郎政権の実現のために積極的に動いた 時期もある。

 このWACLの議長を務めたジョン・シングローブ米退役陸軍少将はベトナム戦争当時には暗殺や秘密工作専門の特殊戦争統合司令官、後に在韓国連軍司令官 を務めた。イラン・コントラ事件で重要な役割を果たしたノース中佐は部下の一人である。WACLと米中央情報局(CIA)とのつながりは深く、シングロー ブもCIA出身、そしてCIA長官を務めたブッシュ・パパも統一教会とは切っても切れない関係にある。

 ブッシュ・パパは1995年9月に夫妻で来日、文鮮明の妻が率いる「世界平和女性連合」が東京ドームで開いた大会では祝電どころか講演まで行っている。 翌年にもアルゼンチンを訪問、統一教会系の地元新聞の創刊パーティーでスピーチしている。息子のブッシュ現大統領も、2002年5月にワシントンで開かれ た統一教会系ワシントン・タイムズ紙創刊20周年の集まりにメッセージを寄せているが、このワシントン・タイムズ紙はイラン・コントラ事件でも一貫して レーガンを擁護する記事や社説を掲載、ブッシュ父子の選挙活動においても明確に支持を宣言した。

 統一教会はワシントン・タイムズ紙以外にも世界日報、UPIを傘下に持ちながらメディア戦略を強化してきた。一方で北朝鮮との関係では力による勝共から 今や経済相互依存関係に移行しつつある。経済力によって北朝鮮を内部崩壊させるのが狙いであろう。そのきっかけは1991年末の文鮮明と故金日成主席との 会談であり、その後北朝鮮でのホテル経営、ソウルからの直行ツアー事業などを展開、その中には文鮮明の定州(チョンジュ)にある生家を訪れる「聖地巡礼」 ツアーもある。

 とりわけ象徴的なのは自動車事業で、統一教会系列の平和自動車は北朝鮮の「朝鮮民興総会社」と70対30の資本比率で北朝鮮・南浦工業団地に合弁自動車 工場を設立、イタリア・フィアット社の「シエナ」と「ドブロ」の部品から組み立て生産した「ポックギ(かっこう)」、「フィパラム(口笛)」などを生産し ている。この車名は男女の愛がテーマの歌謡「フィパラムとポックギ」に着眼した金正日総書記本人が直接名付けたと伝えられており、極めて異例なことに平壌 に続く道路にはフィパラムの看板広告が立ち並んでいる。

 当然のことながら統一教会と金正日の間に相当な金が動いていたことは十分予測される。長年にわたって統一教会を追跡しているベテラン調査レポーターのロ バート・パリーは、米情報自由法を申請して入手した米国防情報局(DIA)文書から、文鮮明が関係する団体が北朝鮮指導者に対して何百万ドルもの資金提供 をしており、その中には金正日への300万ドルも含まれていると報告している。なんとこの300万ドルは金正日への「誕生日プレゼント」として贈られたも のだった。

 今回の北朝鮮のミサイル発射で安倍晋三はまた一歩総理の椅子に近づいた。とても気になるこの安倍晋三の誕生日は9月21日。注目の小泉首相の後継を選ぶ 自民党総裁選の投開票は誕生日の前日、9月20日に行われる。この時に備えて、一応追加の「誕生日プレゼント」が準備されているのだろうか。

 □引用・参考

YIES特別講演会「日米同盟と対東アジア政策」
2006.07.07 読売新聞

War threat as North Korea talks tough
Peter Alford, Tokyo correspondent
08jul06
http://www.theaustralian.news.com.au/printpage/
0,5942,19721155,00.html


ミサイル防衛PAC3、配備前倒し...来年中に4基体制
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060708it01.htm?from=top

北朝鮮ミサイル、制裁措置「支持」が92%...読売調査
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20060707it12.htm?from=top

テポドン2号、ハワイ周辺海域に照準
http://www.sankei.co.jp/news/060707/kok011.htm

The Moon-Bush Cash Conduit
By Robert Parry
June 14, 2006
http://www.consortiumnews.com/2006/061406.html

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Wの衝撃

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2005年11月13日(日)
萬晩報通信員 園田義明
 ■北朝鮮の鉱物資源に群がる米中韓

 今年7月、1年1カ月もの間中断していた北朝鮮の核問題をめぐる第4回6カ国協議が再開され、現在は第5回6カ国協議の休会中となっている。

 拉致問題解決に向けた期待も高まるが、悲しくも国際政治の冷酷な現実がある。ヨミウリ・ウィークリーの2005年7月31日号の『「北」の鉱物資源狙う 米・中・韓』と題する記事の中で、2003年から北朝鮮問題の班長(アジア大洋州北東アジア課)を務め、今年3月末に同省を退職したばかり原田武夫が、 「北朝鮮がレアメタル(希少金属)の国というのは米国ウォール・ストリートの常識だ」とした上で、「米国が資源外交を展開しているのは確かであり、この鉱 物資源をめぐる米中韓と北朝鮮当局との"裏取引"が成立したことが7月の協議再開に結び付いたのではないか」との見解を述べている。

 これを裏付けるように今年5月に韓国政府系機関の大韓鉱業振興公社が北朝鮮最大の鉄鉱石鉱山の開発に中国と共同で乗り出すことが明らかとなる。

 さらに7月に第10回南北経済協力推進委員会が発表した12項目からなる合意文には、韓国側のコメ50万トンを借款の形で支援する見返りに、北朝鮮の地下資源の開発・投資を韓国側に保証し、実質的な共同開発を進めることも含まれている。

 米国の狙いを知るためには時間を遡ればいい。1999年2月に行われた北朝鮮の地下核施設疑惑をめぐる米朝高官協議で、米側が提示した制裁緩和措置であ る。この措置には在米資産の凍結解除、経済制裁の一部緩和と並んで、亜鉛、金、タングステンなどの鉱山開発や農業分野で投資を希望する企業へのライセンス の発行などが柱となっていた。

 特にタングステンにはドロドロとした日本をも巻き込む歴史的な因縁がある。実は北朝鮮はこのタングステンの潜在的埋蔵国として知られている。
 
 ■1950年のタングステン危機と「W計画」

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発、そのわずか2,3ヶ月で戦争に要する物資の国内備蓄量が危機的な状況になった。これがタングステン危機の始まりである。トルーマン政権は国家緊急事態を宣言し、タングステンの入手に奔走することになる。

 スウェーデン語で重い石の意味を指すタングステンは、貫通力を高めるための弾芯として1940年代半ばから戦車砲や戦闘機の機関砲などに使われてきた。 1949年までの米国は、時には日本軍の目をかすめながら、蒋介石の友人であるK・C・リー率いるワーチャン貿易を通じてタングステンを入手してきたが、 中国共産党の勝利によって中国の輸出先は米国からソ連へと変わる。米国は新たな供給国として韓国を選び、ソウル南東にある上東鉱山に触手を伸ばすが、朝鮮 戦争勃発直後にこの鉱山が北朝鮮軍の手に落ちたためにタングステン危機が起こったのである。

 このタングステン危機の短期的な解決策として国防総省が目を付けたのが日本であった。

「陸軍のダミー会社であった昭和通商に頼まれて、昭和15年、16年の2回にわたって、当時の金で70ー80万円に相当するヘロインをヤミ価格で買い入れた。このヘロインは後に中国大陸に運ばれて南シナでタングステンと物々交換された。」

 これは、1945年12月、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘束され、48年12月に岸信介、笹川良一らとともに巣鴨拘置所を出所した児玉誉士夫の47年7月21日及び23日の調書内容である。

 児玉は、陸軍主導で1939年に三井物産、三菱商事、大倉商事の3社の出資によって設立された昭和通商や海軍管轄の児玉機関上海事務所を通じて、戦時中 にタングステンやダイヤモンド、プラチナなどを調達し、終戦直後には闇市で売りさばき、その売上の一部が自由党の設立資金にまわされていた。

 この児玉調書からタングステン・ルートの情報をつかんだ国防総省と米中央情報局(CIA)によってタングステンの元素記号Wを取った「W計画」が開始さ れる。このW計画には戦前の米駐日大使ジョゼフ・グルーの部下だったユージーン・ドーマンを中心とするドーマン機関人脈やCIAの前身のOSS(米戦略 局)のケイ・スガハラなどが関与した。そして、児玉と協力しながら中国本土に隠されていた500トンのタングステンを市価の6割で国防総省に売却した。こ の代金と利益について、米ニューヨーク・タイムズ紙は、53年の選挙資金として日本の保守政治家に渡されたと伝えている。

 彼らは、理想主義のニューディール派が取り仕切る日本の民主化路線を激しく非難し、日本の再建には天皇制が精神的支柱として必須であり、財閥解体を即刻やめるべきだとする「逆コース戦略」を押し進めた。

 結果としてこの戦略が成功し、経済大国としての今日の日本につながるが、この背景にあったのは、冷戦時代の到来を象徴する朝鮮戦争勃発そのものであり、ジョージ・ケナンのソ連封じ込め政策によって日本がアジアの反共防波堤として位置付けられたためである。

 なお、このW計画は氷山の一角に過ぎず、CIAによる対日秘密資金工作は、冷戦が激化していく50年代初めから60年代まで広範に行われ、数百万ドルが保守政党へ、55年の保守合同以後は自民党に集中的に供与されていた。

 かつての旧ソ連が主導する各国共産党の国際組織コミンテルンを彷彿させるが、当時ソ連や中国のH2機関も日本共産党や社会党を通じた対日工作を行っており、これに対抗する狙いもあったものと思われる。

 ■タングステンから劣化ウラン弾へ

 タングステンに話を戻そう。現在の米国は弾芯に何を使っているのだろう?

 米国はタングステンから新たな弾芯へと切り替えるために、1950年代から軍事利用を目的とした実験を開始する。そして、その特性から戦車や装甲車に撃 ち込むと、分厚い装甲を突き破り、車中を焼き尽くす威力を見出す。1978年頃にはこの新弾芯の生産・配備に入るが、これは戦車を主力とする北朝鮮の機甲 旅団の韓国侵略のシナリオに対応するのが主な理由だったと言われている。

 この新弾芯が大量に実戦使用されたのは1991年の湾岸戦争である。以後、95年のボスニア紛争、99年のコソボ紛争、2001年のアフガニスタン攻撃、そして03年のイラク戦争でも使われる。

 これが劣化ウラン弾誕生の裏側である。劣化ウランは、タングステンと比べて「核のごみ」という性質上、極めて低コストである。そして、何よりもタングス テンの資源埋蔵量の約4割が中国に偏在していることから、米国の潜在敵国である中国への依存を避けたいとの戦略的理由がある(W鉱石の埋蔵量参照)。

 劣化ウランには放射能、金属的毒性から人体、環境への深刻な影響があることは、「湾岸戦争症候群」のデータから、米国こそが熟知している。従って、米軍 産複合体も劣化ウランから再びタングステンへという世界的な潮流に逆らいながら、使用し続けるリスクも当然計算に入れていることだろう。

 中国は最新のイラクデータなどを活用しながら、世界の左派勢力を巻き込んだ劣化ウラン弾使用禁止の一大キャンペーンを行いつつ、北朝鮮を丸飲みすることでタングステンを手中に収め、米国を牽制しながら石油・天然ガス交渉に乗り出すのであろう。

 これに対して米国は劣化ウラン弾への非難の声を黙殺し、朝鮮半島の再民主化を大義名分にレジーム・チェンジ(体制変更)に向けた対北朝鮮工作を行いながら、新たなW計画を発動するのである。

 ■「新たなW計画」の実行部隊

 先月10月25日から2日間の日程でアメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)主催の「日米同盟の変遷 防衛協力と統合の深化に向けて」と題するシンポジウムがキャピトル東急ホテルで行われた。

 ここに前原誠司やプロテスタントの石破茂らとともに登場したのがニコラス・エバースタットと安倍晋三である。ここに更なる因縁も見出せる。

 以前にも紹介したように、米軍産複合体の権化とも言うべきフェルディナンド・エバースタットという人物がいた。フェルディナンドは終戦直後の1945年 9月にエバースタット・レポートを作成、戦争動員の迅速化と兵器開発の中枢としての国防総省、国家安全保障会議(NSC)、CIAの創設を提案した。つま り、この3機関の生みの親でもある。

 W計画をきっかけにフェルディナンドが生み出したCIAを中心に、ドーマン機関人脈に児玉、岸、笹川などの巣鴨組が加わり、日本の裏と表を陰に陽に支配 していくシステムが完成する。同時にこの人脈はブッシュ家をも巻き込みながら、勝共を合言葉に文鮮明率いる統一教会などとともに世界反共連盟(WACL) に結集、グローバルな反共ネットワークが出来上がる。今やこの反共ネットワークが原理主義的な宗教組織に匹敵する存在になっていることが、日本の保守系オ ピニオン誌の一部から読みとれる。 

 このフェルディナンドの孫こそが、『北朝鮮最期の日』の筆者であり、AEIの客員研究員を勤めるニコラス・エバースタットである。

 そして、官房長官に就任した安倍晋三は、巣鴨組の岸信介の孫である。この二人が、冷戦終結の今も日米のネオコンやキリスト教右派を器用に操りながら、世代を越えて対北・対中強硬派人脈の中核として海洋勢力強硬派を構成する。

 彼らが目指す民主化とは、米中衝突に備えてタングステンを米国に送り届ける北朝鮮の豪腕フィクサーを育て上げることかもしれない。しかし、後にロッキード事件でバッサリ切り捨てられた児玉誉士夫の生涯から、彼らの恐ろしさが見えてくる。
 
 彼らと足並みを揃えるかのように、石原慎太郎・東京都知事は今月3日にワシントンの戦略国際問題研究所(CSIS)で講演し、米中間で紛争が起こった場 合に「中国にとって一番目障りな日米安保をたたくために、もし核を落とすなら沖縄、あるいは東京を狙うだろう」と指摘した上で、「市民社会を持つ米国は戦 争で生命の価値観に無神経な中国には勝てない。中国に対抗する手段は経済による封じ込めだ」と主張し、インドやロシアと連携を強化するよう提言している。

 一方でプロテスタントを中心とする海洋勢力強硬派の反共ネットワークとは距離を置きながらも、その動向を注視する集団が大陸勢力の中心に存在する。反共 の本家本元として、神なき共産主義に宗教の自由を迫るカトリックの総本山、ヴァチカンである。吉田茂の孫として英米の海洋勢力本流人脈を受け継ぎながら も、カトリックとして大陸勢力につながる麻生太郎外務大臣誕生は、海洋勢力と大陸勢力とがぶつかる地の波乱の幕開けを暗示しているかのようだ。

 かつて、この二つの勢力に翻弄され、挫折したのが靖国神社にA級戦犯として祀られている松岡洋右である。日独伊三国同盟にソ連を加えた四国協商で米英に 対抗するという野望から、スターリンに対して「政治的、社会的」ならぬ「道徳的共産主義」にまで踏み込んで、「日本には、道徳的共産主義がある。日ソでア ングロサクソンの影響力をアジアから排除しよう」と懸命に訴えたことがある。この神なき共産主義への接近がヴァチカンをも刺激し、二つの勢力に加えユダヤ 勢力をも結集させ、日本は太平洋戦争へと追い込まれていくのである。

 この歴史の教訓から、「敵」と「敵の敵」を冷静に見極めながら、「敵」への安易な接近や小泉首相や石原都知事のように表立って敵を刺激する行為は当面控 えるべきであろう。むしろ、水面下で「敵の敵」を奮い立たせる工作に知恵を絞ればいい。さもなくば、石原都知事の語る核の惨劇が現実になる。あるいは、中 国全土に劣化ウラン弾の雨が降り注ぐことになるのだろうか。
 
(本稿は、増田俊男氏が編集主幹を務める月刊『力の意志』2005年10月号掲載の「北のタングステンをめぐるWの衝撃」に加筆修正を加えたものである。 なお松岡洋右の物語は、まもなく再開する予定のビッグ・リンカー・シリーズにて取り上げてみたい。)

●参考グラフ
W鉱石の埋蔵量(出典:ITIA、タングステン・モリブデン工業会HPより)
http://www.jtmia.com/J/J_statistic1.htm

●主要参考文献

「ジャパニーズ・コネクション 海運王K・スガハラ外伝」
ハワード・B・ションバーガー/著 (文芸春秋)

「阿片と大砲 陸軍昭和通商の七年」
山本常雄/著(PMC出版)

「インサイド・ザ・リーグ 世界をおおうテロ・ネットワーク」
ジョン・リー・アンダーソン、スコット・アンダーソン/共著(社会思想社)

CIA Spent Millions to Support Japanese Right in 50's and 60's
New York Times, October 9, 1994

Shintaro Ishihara, governor of Tokyo spoke at CSIS on "Japan's Future Potential."
http://www.csis.org/index.php?option=com_csis_press&task
=view&id=1462


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2005年06月19日(日)萬晩報通信員 園田義明
 ■弥生中期の戦士の墓

 今からちょうど20年前の夏、私は東大阪市と八尾市にまたがる久宝寺緑地内の遺跡発掘調査現場にいた。炎天下の中、汗だくになりながら弥生時代中期の方 形周溝墓の木簡の中から出土した人骨と連日向き合っていた。ボンド片手に骨を固めながら丁寧に掘り出していくと、北側に向いた頭骨から密着した状態でサヌ カイト製の石鏃(矢じり)が出てきたのである。また、頭骨周辺には多量の水銀朱と思われる赤色顔料も検出している。この頭部からの石鏃発見は「戦士の墓、 発見」の見出しと共に新聞各紙も取り上げた。

 後にこの人骨は身長1.6m前後の20歳前後の男性と鑑定されている。従って若き戦士を弔うための墓だったのだろう。弥生時代の戦士の墓は、鳥取県の青 谷上寺遺跡、京都市南区の東土川遺跡や松江市・友田遺跡などで続々と発見されているが、この時期広範囲にわたって戦いの爪跡を残している。

 縄文人が一万年以上も平和に暮らしていた日本列島に水田稲作文化をもった渡来人が主に朝鮮半島経由でやってくる。縄文人の多くは、この渡来人から稲作を 学びながら血も混じり合っていく。弥生人とはこの縄文系の混血弥生人と新たな渡来系の弥生人によって構成され、現在の日本人の原型となっている。
 
 狩猟・採集民族であった縄文人は比較的平和であったのに対し、農耕民族である弥生人はテリトリー意識が芽生え、貧富の差も拡大、階層を生みだし、攻撃性 も増していく。しかし、混血は見られるものの、縄文人と弥生人の礎となる渡来人が戦った形跡は残されていない。渡来人は縄文人を「うまく言いくるめたので はないか」と知り合いの考古学者は笑って話していたことを思い出すが、北米大陸のネイティブ・アメリカンの歴史を重ね合わせれば信憑性が帯びてくる。

 しかし、縄文人とて自らのアイデンティティーにこだわり、渡来人との窓口に位置していた西九州地方では伝統的な世界観を象徴するために土偶作りが行われ、小林達雄はこれを幕末末期攘夷運動の縄文版と呼んでいる。

 ■エルヴィン・ベルツの混血説

 この日本人の起源に関する「混血説」を唱えたエルヴィン・ベルツを紹介しておきたい。明治初期に医学を教えたベルツは、アイヌ人が北部日本を中心に分布 した先住民族であるとしながら、アイヌ人と沖縄人の共通性も指摘している。

 ベルツが指摘したアイヌ沖縄同系論は最近のDNA分析でも実証されつつあり、斉藤成也はアイヌ沖縄同系論を支持しつつ、遅くとも縄文時代が始まった1万 年以上前には大陸と縄文人としての日本列島集団との間に遺伝的な分化が始まり、縄文時代が終わる3000年前頃には、北海道集団は本州以南の集団と遺伝的 に少しずつ離れていく。そして、弥生時代の朝鮮半島あるいは中国からの渡来人による遺伝子流入によって、北海道と本州以南の集団の遺伝的近縁性が減少し、 沖縄を中心とする日本列島南方集団が遺伝的に分化する。日本列島本土では弥生時代から奈良時代までは朝鮮半島南部を含む周辺集団と混血しながら、平安時代 以後は大規模な混血を経ず、今日に至っているとの見方を示している。

 おそらく、神宿る森と共生した縄文人は渡来人の圧倒的なパワーに屈しながらもその信仰を鎮守の森にそっと隠したのだろう。また、融合できなかった一部の 民は熊野や四国、九州南部、そして東北の山奥へと逃げ込んでいった。アイヌ人と沖縄人は日本列島の周縁にあたることからその影響を逃れた。渡来人に次い で、後に仏教、さらにはキリスト教をも受け入れた寛容性は縄文の伝統が生きていた証だったのかもしれない。縄文人は負けながらもその信仰を八百万の神々と して弥生的な神道に植え付けていく。どうやら、太古から続く主体的な伝承者としての縄文末裔一族のネットワークも今なお存在しているようだ。

 この負けて勝つ縄文人を支え続けてきた八百万の神々は、自らも国家的な死に直面しながらも、日本人の根っ子に生き続け、敗戦後の日本を救うことになる。

 ■縄文との断絶

 明治期、皇国史観が支配する中で、縄文人は当時日本人の祖先と考えられていた天孫族が日本に来る前に住んでいた先住民と位置付けられ、野蛮で低劣な存在 と見られていた。その結果、鎮守の森や山の奥深くでひっそりと受け継がれてきた縄文信仰も近代化を目指す明治期の天皇を中心とする神道の再編成によって国 家的な死を迎えることになる。これは縄文との断絶を意味した。

 神道を国家的存在と位置づけるべく、神社分離令(廃仏毀釈)(1868年、明治元年)に始まり、神社合祀令(1906年、明治39年)に至る過程で仏教 施設はもとより全国で約7万社の神社とその神々、そして鎮守の森が姿を消した。神々の一元化による淘汰としての神社合祀令に対して、抗議の声をあげたのが 熊野の森を愛した野人・南方熊楠であったことはよく知られている。南方が命をかけて守ろうとしたのは、自然ではなく、熊野の地と自らのDNAに刻まれた縄 文そのものであった。

 先に紹介したエルヴィン・ベルツは日本人を長州型と薩摩型とに分け、それらが異なる二系統の先住民に由来するとしながら、支配階級に見られる長州型は満 州や朝鮮半島などの東アジア北部から、薩摩型はマレーなどの東南アジアから移住した先住民の血を色濃く残していると考えていた。このベルツの分類は現在の 靖国参拝問題を読み解く上で示唆に富んでいる。

 1869年(明治2年)に靖国神社は、明治天皇の思し召しによって戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建された。設立当初は東京招魂社と呼ばれたが、1879年に靖国神社と改称されて今日に至っている。

 一部に敵味方を問わず国のために身命を失った人々を弔う場とする見方もあるようだが、中国・韓国以前に会津出身者に申し訳ない。よく比較に出されるアー リントン墓地には敗北した南軍の兵士も弔われているが、靖国神社の場合、戊辰戦争の敵方であった会津白虎隊や西南の役で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は 祀られていない。

 会津藩士族出身であり本物の右翼を自称した田中清玄は、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」と切り捨てる。確かに、戦前の靖国神社は長州・薩摩出 身者の強い影響下にあった陸軍省、海軍省と内務省が管轄する別格官幣社であり、祭神の選定も陸・海軍省が行っていた。このことは靖国神社にある長州出身の 近代日本陸軍の創設者・大村益次郎のいかつい銅像がなによりも象徴している。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び・・」という言葉を時の首相・鈴木貫太郎に送り、日本を終戦に導いた名僧・山本玄峰の元で修行し、「(陛下は反対であっ たにもかかわらず)どうしてあの戦争をお止めにはなれなかったのですか」と昭和天皇に直接伺い、山口組三代目組長田岡一雄とも親交があった田中清玄が許せ ない存在として名前をあげたのが岸信介・児玉誉士夫一派である。このあたりの『闇』はさすがの田中清弦も語るのをためらっているようだ。

 いずれにせよ岸信介の孫である安倍晋三が「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、 責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」(2005年5月28日)と札幌市内の講演会で発言した背景には、安 倍の偏狭な長州史観が実によく表れている。

 また、小泉首相が薩摩の血を引いていることを考えれば、現在の靖国参拝問題は単なる薩長史観に国民全体が振りまわされているに過ぎず、薩長連合による靖 国参拝が、分裂寸前の中国・韓国を結束させていることを考えれば、意外と裏では『闇』つながりの仲良し勢力が潜んでいるようだ。

 ■縄文・弥生のハイブリッドシステム

「日本の古代も神の場所はやはりここのように、清潔に、なんにもなかったのではないか。おそらくわれわれの祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感 はこれと同質だった。でなければこんな、なんのひっかかりようもない御嶽が、このようにピンと肉体的に迫ってくるはずがない。-こちらの側に、何か触発さ れるものがあるからだ。日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感がいきているのだ。この御嶽に来て、ハッと不意をつかれたよう にそれに気がつく。そしてそれは言いようのない激しさをもったノスタルジアである。 」

「それにしても、今日の神社などと称するものはどうだろう。そのほとんどが、やりきれないほどに不潔で、愚劣だ。いかつい鳥居、イラカがそびえ、コケオド カシ。安手に身構えた姿はどんなに神聖感から遠いか。とかく人々は、そんなもんだと思いこんで見過ごしている。そのものものしさが、どんなに自分の生き方 のきめになじまないか、気づかないでいる。」

 これは岡本太郎が御嶽と呼ばれる沖縄の聖地を訪問したときに書き残したものである。拙著「最新アメリカの政治地図」(講談社現代新書)の推薦文を書いて いただいた坂本龍一教授、宮崎駿なども含めて一流のアーティストと呼ばれる人々は感性で見抜くことができるのだろう。

 しかし、敢えてここで縄文に対するノスタルジアを否定しておきたい。結論から言えば、沖縄やアイヌは周縁であるがゆえにたまたま残ったに過ぎない。周縁 と呼ばれる場所に行けば同じ神々に出会うことが出来る。東アジアにこだわる必要もない。

 その神々を今なお根っ子に残しているという点では特筆に値することは事実であろう。拙著の中で、トヨタの地政学的な戦略から日本人の両生類的なDNAが あると書いたが、縄文人を海洋文化、弥生人を大陸文化と位置付けることで日本人=両生類説を見出していたのである。

 大陸を隔てた反対側の周縁にはケルト民族がいる。妖精が今なお生きるケルト民族と日本人との共通点を見出したのは、「庭の千草」(アイルランド)や「蛍 の光」(スコットランド)などのケルト・ミュージックを日本に持ち込んだ森有礼、そして小泉八雲 (ラフカディオ・ハーン)であった。

 岡本太郎、坂本龍一、宮崎駿に続き、矢野顕子やネーネーズの古謝美佐子がケルト・ミュージックの重鎮であるチーフタンズと共に歌い、THE BOOMの 「島唄」がアルゼンチンに次いで今年ロシアでもヒットした。アイヌではOKIがトンコリの心安らぐ音色を奏でる。

 一方では、今なお進化し続けるトヨタの「ハイブリッドシステム」は世界を席巻している。海外勢はこのシステムをまさに神憑りと見ていることだろう。このシステムの本当の原動力は縄文と弥生のハイブリッドにある。 

 縄文は地球に生きる人類の歴史の原点である。そして今まさに八百万の神々とともに世界を舞台に可憐に踊り始めようとしている。われわれの歴史を今一度丁 寧に復元しつつ、現代風にアレンジしながら蘇らせる努力こそが必要だ。

 言霊を忘れたかのような罵声が東アジアを飛び交い、日本人が再び縄文と断絶し、ハイブリッドを見失う時、戦争はまた起こる。

□参考・引用
佐原真・小林達雄「世界史のなかの縄文 対論 」(新書館)
小林達雄「縄文人の文化力 」(新書館)
斉藤成也「DNAから見た日本人 」(筑摩書房)
岡本太郎「沖縄文化論 忘れられた日本」(中央公論新社)
「田中清玄自伝」(文芸春秋) 他多数

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2005年01月20日(木)萬晩報通信員 園田 義明
 ■スウェーデンボルグとの出会い

「わたくしどもは、薩摩候の長崎駐在代理人あての取立手形を同封します。金額は五千二百五十二ドル五十セントで二千六百二十六ドル二十五セントの手形二枚 と一組になっています。これはそれぞれ、S・オリファント氏から上野良太郎氏に用立てた1000ポンドにあてるものです。しかるべく御送金いただければ幸 です。お話し申し上げてよいと思いますが、上野氏は同じ便船で日本に帰国します。このことと関連してつけ加えておくべきと考えるのは、わたくしどもが日本 人全員に、以後信用状なしには一切金銭の前貸しをおこなわない、と通告したことです。昨日であったか一昨日であったか、私どもの耳に入ったことですが、パ リでこの薩藩士の一人が、モンブラン候あてに三万ポンドというあきれかえるような高額の手形を振り出し、これが割り引きにまわされようとした模様で、これ をきいて一層、先の決定を絶対改めるわけにゆかぬ、と決心を固めた次第です。」
(『カリフォルニアの士魂 薩摩留学生長沢鼎小伝』門田明、本邦書籍P78)

 これは、1867年5月10日付けのマセソン商会発ジャーデン・マセソン商会宛書簡とされ、薩摩藩のベルギーの伯爵モンブランと称する大山師への接近と マセソン商会への背信行為を鋭く指摘しており、マセソンへの負債をそのままにしながら、三万ポンドにのぼる膨大な借金をしようとする薩摩に対する疑念を示 している。

 薩摩留学生には藩校の開成所に学ぶ俊才の中から15歳になる町田清蔵と18歳の町田申四郎の二人の弟が選抜された関係で、学頭の町田民部=上野良太郎も 渡英に参加していたが、5月11日にロンドンを去っている。門田は「この帰国目的の一つに、留学生の金銭問題と、藩の方針に対する抗議があったことを暗示 している」と書いている。

 軍備増強を進める薩摩藩の財政にとって、留学生たちへの出費は軽いものではなく、仕送りは途絶えがちになる。そこに現れたのがスウェーデンボルグ派神秘主義者であるトーマス・レイク・ハリスだった。

 ■コロニーでの薩摩留学生の生活

 1867年7月、藩の帰国命令を無視して森有礼、吉田清成、畠山義政、鮫島尚信、松村淳蔵、長沢鼎の6名がロンドンを出発、トーマス・レイク・ハリスが 主宰する新生同胞教団(The Brotherhood of the New Life)のコロニーのあるニューヨーク州へ向かったのである。

 このコロニーは自給自足のユートピア・コミュニティであった。ここで森ら6名に薩摩第二次留学生の谷元兵右衛門(道之)、野村一介(高文)、仁礼景範、江夏蘇助、湯地定基の5名が合流し、総勢11名の薩摩藩士の閉鎖的な共同生活が始まる。

 しかし、すぐにハリスに対する疑念から、森、鮫島、長沢、野村の4名をのぞく全員がコロニーを去り、森と鮫島は神の宣告に基づき、ハリスより日本国家再生のために1868年に帰国を命ぜられた。

 森は帰国後もハリスとの接点を持ち続け、1871年2月に米国在勤少弁務使としてワシントンに向かう途中、サンフランシスコからハリス宛に手紙を送って いる。この時、森とともに私費で米国に渡った仙台藩士、新井奥邃をハリスの元へ送りこんでいる。ここで新井は印刷係となり、長沢と共に新生同胞教団を担っ ていく。

 新生同胞教団はコロニーにおけるブドウ農園とワイナリーの経営を主な資金源として運営されており、最後まで米国に残った長沢鼎はカリフォルニア州サンタ・ローザに移住し、カリフォルニアの葡萄王と称えられている。

 ハリスに直接影響を受けた日本人は、森有礼、鮫島尚信、長沢鼎、新井奥邃の4名である。

 ■「周縁」としてのローレンス・オリファント

 ここでひとりの重要人物を見てきたい。トーマス・レイク・ハリスと薩摩留学生達を引き合わせたのはローレンス・オリファントである。オリファント家もス コットランドの名門として知られ、オリファントの両親は共に熱心なエヴァンジェリカルであった。オリファント自身は南アフリカのケープタウンで生まれてい るが、幼い頃から世界を転々としながらタイムズ紙特派員などを務め、小説家、紀行家として知られていく。

 特に日本との関係が深く、日英通商条約の締結に功あったエルギン卿の個人秘書として1858年に来日、3年後の1861年には一等書記官として再来日し たが、江戸の英国公使館が水戸浪士の襲撃を受け、わずか10日あまりで帰国する。しかし、命を狙われたにもかかわらず、二度の来日で日本人への愛着を深 め、1865年から67年まで下院議員を務めながら薩長留学生の世話役を務めていた。この間にオリファント自身はスピリチュアリズムに傾斜し、トーマス・ レイク・ハリスの新生同胞教団の信者となる。

 オリファントは留学生達にヨーロッパ文明社会の腐敗と墜落、列強諸国による貪欲な搾取と簒奪の歴史を熱心に説いた。そして、自らの出生からスコットラン ドもウェールズとともに英国の中の異国であり、征服された民族として、今日でも「スコッチ」といって軽蔑され、だからこそ後進国日本にスコットランド人は 親切なのだと語る。

 ここでも「中心」としての英国にあって、「周縁」同士が結び付き、下院議員を辞めて母と妻を連れてハリスの待つ米国へ旅立ったオリファントの後を追うように森らも新生同胞教団へと吸い込まれていったのである。

 しかし、多数の日本人留学生達を新生同胞教団に誘い込んだオリファントも1872年には数千ポンドの借金の返済などをめぐってハリスと裁判で争い、オリファントが勝訴する。これを契機に教団のスキャンダルが噴出し、崩壊の道を辿りはじめる。

 ハリスと決別したオリファントは日本人に代わる新たな周縁パートナーに選んだのが、ユダヤ人であった。

 ■オリファントとロスチャイルド家とシオニズム

 妻アリサに先立たれたオリファントはユートピア社会主義者として知られるロバート・オーウェンの孫娘ロザモンド・デイル・オーウェンと再婚し、二人は信 仰に基づく政治的関心から先駆的シオニストとなり、「神の国」実現のためにパレスチナにユダヤ人国家の建設を目指した運動をはじめる。

 オリファントはパレスチナを訪れ、ほとんど無人の荒れ果てた土地を見て、ここをユダヤ人の手に返すべきだと思いつく。そして1881年に著作『ギリアデの地』を発表、さらにタイムズ紙でキリスト教徒はユダヤ人の努力を助けるだろうと呼びかけた。

 またオリファントは「英国キリスト教徒シオンの友」のひとりとして、「シオンを愛する人々」のワルシャワ支部長だったラビ・サミュエル・モヒリヴァーと ともに開拓地救済のための支援を要請するために訪れた人物こそが、現代イスラエルの父、エドモン・ド・ロスチャイルドだったのである。

 最新日本政財界地図(19)で描いたヒュー・マセソン、そしてローレンス・オリファントによって日本とロスチャイルド家は接近し、後の日露戦争での金融支援につながったのだろう。

 1888年12月23日、オリファントは二度目のパレスチナへの旅行を計画中に英国のミドルセクス、トイケナムで病に倒れ、波乱に満ちた約60年の生涯 を閉じた。その二ヶ月後の1989年2月11日、森有礼は文部大臣官邸玄関にて刺客西野文太郎に刺され、翌12日に42歳で死去した。

 ■スウェーデンボルグと三島由紀夫

 オリファントが日本に惹かれたのは女性神としてのアマテラス信仰にスウェーデンボルグの両性具有唯一神を重ね合わせたからだろう。これは後に新井奥邃の 「父母神」となって受け継がれる。父母という二つの神的実体があるのではなく、「二而一(にじいち)」という新井独自の概念によって、二つは一体であり、 従って唯一の「父母神」が存在する。この父母神は愛であり、宇宙万物の生命の源泉であり、神と人類は親子関係であるとした。

 スウェーデンボルグは新井奥邃を通じて田中正造や高村光太郎らに多大な影響を与え、スウェーデンボルグ研究の高橋和夫によれば、鈴木大拙、内村鑑三、賀川豊彦にも影響を与えたようだ。ここで、誰もが知るもう一人の人物をあげておきたい。

『やっとこの11日に試験がすみました。二ヶ月を無為にすごしたわけで、後味がわるうございます。勉強をしてゐる時は自分が小さな鼠であるかのような気が いたします。全く勉強は生理的に悪でございます。ーー11日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボル グの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。』

 これは昭和21年9月13日に川端康成あてに書かれたはがきの内容である。スウェーデンボルグの本をみつけて有頂天になったのは、三島由紀夫であった。

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2005年01月14日(金)萬晩報通信員 園田 義明
 ■タイタンの直接対決

 中国の台頭、あるいは東アジア共同体をめぐる議論が国内外で加熱してきた。『フォーリン・アフェアーズ』最新号では、フランシス・フクヤマとエリザベス・エコノミーが関連論文を掲載し、国内オピニオン誌も最新号で一斉にこの問題を取り上げた。

 極めつけは『フォーリン・アフェアーズ』と並んで世界的な権威を持つ外交専門誌『フォーリン・ポリシー』(カーネギー国際平和財団発行)の最新号 (2005年1月2月号)である。「クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ(巨人達の衝突)」と題するこの論文は、米国、そして台頭する中国のふたつのタイタ ンが衝突する運命にあるのかどうかをめぐって、米国地政学のタイタンであるズビグニュー・ブレジンスキーとジョン・ミアシャイアーが直接対決するという二 重の衝突が見出せる。

 ひよわな花である日本では、オピニオン誌でもインターネット上でも中国をめぐる感情論が飛び交っている。そのほとんどが冷静さ、冷徹さを欠いたものと言 わざるを得ない。リアリズムに関する議論がアジアで最も遅れている日本で、抵抗があろうあろうことを承知の上で「クラッシュ・オブ・ザ・タイタンズ」の世 界を描いてみたい。

 ■トライラテラリストの主張

 ブレジンスキーは米中の衝突は避けられると説く。その理由として、中国首脳が軍事的に米国に挑戦しようとは思っておらず、中国はあくまでも経済発展と大 国としての仲間入りを目指すものであり、対立的な外交政策をとれば、経済成長を崩壊させ、中国共産党を脅かすことになるため、特に2008年の北京オリン ピックと2010年の上海万博に向けては慎重な外交政策が優勢になるだろうとしている。

 確かに、中国の地域における役割が増し、その勢力範囲が発展すれば必然的に摩擦が生じる。また、米国のパワーが後退する可能性と日本の影響力の免れがた い衰退は、中国の地域における優越性を高めることになるものの、中国は米国に対抗できる軍事力は有しておらず、最小限の戦争抑止力程度でしかない。米国に よる封鎖によって石油の供給が止まれば、中国経済は麻痺することになるために衝突するとは思えないとした。

 明らかに中国はインターナショナル・システムに同化しており、中国の影響力の慎重な拡がりこそがグローバルな優越性実現に向けた最も確かな道のりであると中国首脳は理解しているとブレジンスキーは見ている。

 トライラテラル・コミッションの創設に関与した国際派ブレジンスキーならでは議論が繰り広げられ、日本政官財界のグローバリストも大喜びしそうな内容となっている。中国に対する「政冷経熱」は日本だけの現象ではないらしい。

 ■ミアシャイマーのゴジラ論

 これに対して、その究極のゴールを世界のパワー・シェアを最大化し、システムを支配し、覇権を目指す攻撃的な存在として大国を位置付けるジョン・ミア シャイマーは、自らのオフェンシブ・リアリズムを中国に適応させ、中国は平和的に台頭することができないと断言する。そして、中国が来るべき2~30年の 間に劇的な経済成長を続けるならば、米国と中国は戦争への可能性をともなう程の緊張した安全保障上のライバルになると説く。その時、インド、日本、シンガ ポール、韓国、ロシア、ヴェトナムを含めた大部分の中国の隣国は中国のパワーを封じ込めるために米国と結び付くだろうと予測する。

 そして、ブレジンスキーに対して一撃を加えるのである。インターナショナル・システムにおけるメイン・アクターはアナーキーの中に存在する国家であり、 このシステムで大国が生き残る最良の方法は、潜在的ライバルと比較してできるだけ強力であることだ。国家が強力であればあるほど、他の国家が攻撃を仕掛け る可能性は少なくなるのだと言い切る。

 追い打ちをかけるように、「なぜ、我々は中国が米国と異なる行動をとることを期待する?」「中国人は、西洋人と比べて、より理にかなっていて、より良心 的で、より国家主義的ではなく、彼らの生き残りにも関心がないのか?」と冷徹に疑問を投げかけ、そんなことはありえないとしながら、「中国が米国と同じや り方で、覇権を目指すに決まっているではないか。」と断じるのである。

 そして、中国がアジアを支配しようとすれば、米国の政策担当者がどのように反応するかは、明らかである。米国はライバルを寛大に扱うことはしないのだ。 従って、米国は中国を封じ込め、最終的にはアジアを支配することがもはやできないぐらいにまでにパワーを弱めようとするだろう。米国は冷戦時代にソ連にふ るまった同じ方法で中国に対処する可能性があるとした。

 また、「中国首脳と中国人は過去一世紀に何があったかについて覚えている。日本は強力で中国は弱かった時のことだ」とした上で、名言が飛び出してくる。「国際政治のアナーキーな世界では、バンビちゃんであるより、ゴジラでいるほうがいいのだ」と。

 ■圧倒するミアシャイマー

 誤解無きように付け加えれば、ミアシャイマーはゴジラのように中国が暴れ回り、他のアジアの国を征服する可能性は低いと見ている。

 そして、ブレジンスキーへの攻撃の手は緩めない。経済分野における相互依存関係に対して、戦前のドイツと日本の事例を示しながら、経済に損害を与える時 でさえ、時には経済的な考慮を無視し、かつ戦争を引き起こす要因が存在すると指摘しながら、ゴジラとなった中国はアジアから米国人を追い出し、地域を支配 することになるのだと語る。

 これに対して、ブレジンスキーは特に日本から米国を追い出すことが可能かどうかを指摘しながら、たとえ追い出すことができても、中国が強力かつ国家主義的で、核武装した日本が待ちかまえており、中国はそれを望まないと反論する。

 しかし、ミアシャイマーは汚くて危険なビジネスとしての国際政治の世界で、ミアシャイマー自身が描く情勢はそんなかわいいものではないと締めくくるのである。

 詳しくは原文を見ていただきたいが、ミアシャイマーが理論面でブレジンスキーを圧倒していることがわかる。これはブレジンスキーと違ってビジネスに毒されず、理想やイデオロギーや白人優位主義的な希望的観測を排除し、リアリストに徹する姿勢から生まれ出るものだろう。

 しかし、ライジング・チャイナが将来の米国にとっての地政学的な脅威となることは、ふたりに共通しているのである

 ■二匹のゴジラとキングギドラ、そしてモスラの大乱闘

 ミアシャイマーはゴジラが日本生まれであることを知ってか知らずかはわからないが、ミアシャイマーに敬意を払いながらも、ここでは強引にその姿形から中 国をキングギドラに変身させてみたい。現在はバンビちゃんに見える中国もミアシャイマーが言うようにキングギドラになるのだろうか。ブレジンスキーも指摘 するように、その時日本は核兵器を手にしたゴジラになっているのだろうか。

 かつてゴジラは水爆実験のよって眠りから覚めた。日本ゴジラは2025年、あるいは2030年にはキングギドラの存在によって再び自ら目を覚ますのだろ うか。日本自らの意志でゴジラに変身したように見せかけながら、実際には米国によって叩き起こされてしまうのだろう。従って、獲物を狙う鋭い視線で「キン グギドラ対日本ゴジラ」を見つめるトカゲのような米国ゴジラの存在も確認できる。

 米国ゴジラはその時に備えて日本核武装論を本格的に仕掛けている。米国の刺客が多数送りこまれている日本でも、その議論は北朝鮮問題も絡めて今後嵐のご とく吹き荒れるだろう。一方で、米国に次ぐ世界第二位の石油消費国となったバンビちゃんは、尻尾を振りながら、その巨体を維持するためにサウジアラビア、 イランはおろか、米国の裏庭であるカナダやベネズエラにまで触手を伸ばし始めた。

 キングギドラと二匹のゴジラの衝突を世界中が固唾を飲んで見守っている。しかし、ふと頭上を見上げれば、遙か彼方にモスラがゆっくりと旋回しているのが見える。怪獣のくせに平和の使者を気取りながら、モスラはキングギドラに入れ知恵しているようだ。

 中国の三大石油メジャーであるCNPC(中国石油天然ガス集団公司)、SINOPEC(中国石油化工集団公司)、CNOOC(中国海洋石油総公司)の取締役会を覗くと、キングギドラから招かれたモスラの頭脳集団の存在も見出せる。

 CNPCのフランコ・ベルナベはフランク・ベルナベ・グループの会長やフィアットの取締役などを務め、CNOOCにいるケネス・S・コーティスはゴール ドマン・サックス・アジアの副会長である。そして、この二人は共にビルダーバーグ会議のメンバーであることに誰も気付いていない。

 ブレジンスキーの予測通りに米国のパワーが衰退し、キングギドラとモスラと日本ゴジラが連合を組むことになれば、実は米国ゴジラにとって極めて手強い相 手になる。なぜなら、石油以外に戦争に必要な重要資源が中国周辺に存在しているからだ。この資源をめぐって中国・日本・米国・北朝鮮が血みどろの死闘を演 じてきた裏面史が今なお刻まれ続けている。この存在も米中衝突を回避させる抑止力につながるとするのが、私の見解である。

 とはいえ、モスラが信頼できない平和の使者であることを歴史が物語る。バック・パッシング(責任転嫁)を得意技とするモスラは、いざとなれば米国を自由 自在に操りながら相手にぶつけてくるのである。中国は日本やサダム・フセインの経験からこのことを学ぶべきだ。ここで甘えは許されない。また同時に、米国 が核兵器を実戦使用した唯一の国家であることを忘れてはならない。

 当面の間、世界情勢を冷静に見極めながら、日本は中国に対して現在の「政冷経熱」状態を適度に維持することが賢明である。その時が来るまで、選択肢の一 つとして「バンビちゃん戦略」も位置付け、その骨格としての憲法九条も温存しておくというシナリオも描いておくべきだろう。
(2005年1月12日記)


□引用・参考

Clash of the Titans
By Zbigniew Brzezinski, John J. Mearsheimer
http://www.foreignpolicy.com/story/
cms.php?story_id=2740&print=1


Franco Bernabe
Director at
PetroChina Company Limited
http://www.forbes.com/finance/mktguideapps/personinfo/
FromMktGuideIdPersonTearsheet.jhtml?passedMktGuideId=281257

Kenneth S Courtis
Director at
CNOOC Limited
http://www.forbes.com/finance/mktguideapps/personinfo/
FromMktGuideIdPersonTearsheet.jhtml?passedMktGuideId=337593


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2004年12月15日(水)萬晩報通信員 園田 義明
 ■古森節の攻撃対象

 思想面も含めて毎日から産経へと転向したという意味から、これまで古森義久をネオコンと呼んできたが、その広報係としての古森節はますます絶好調になってきた。もはや古森を通じて米国の戦略が手に取るように理解できるという面で貴重な存在と言える。

 古森は12月4日付け産経新聞朝刊で『「東アジア共同体」への疑問』と題する記事を掲載し、東アジア共同体構想がマルクスの「共産党宣言」を連想させる 妖怪とした上で、米側学者らが指摘する米国排除論の危険性などを紹介しながら、日米同盟との関連、尖閣諸島の領有権問題、靖国問題などに見られる反日感情 などから、明確に疑問を投げかけている。

 続けて古森は12月9日付け朝刊の『東アジア共同体構想、米排除なら安保に有害』にて、フランシス・フクヤマのコメントを引用しながら東アジア共同体 バッシングを強めた。このフクヤマのコメントは「東アジア諸国が東アジアだけで米国を排除し、安保面をも含む地域機構をつくろうとするのなら、アジアの安 保には有害だといえる。とくに中国はこの種の構想で経済だけを強調し、安保面をも含む拡張主義の刃(やいば)を隠している」とするものである。

 古森が攻撃対象としている東アジア共同体は実体として存在している。トヨタ、松下電器、三井物産、三菱商事などによって財政的に支えられた政官財の有力 者が集う「東アジア共同体評議会」(会長、中曽根康弘)である。そして東アジア共同体評議会側もそのことを十分に認識しており、12月10日にはそのホー ムページに古森記事を掲載したのである。

 中国政策をめぐって、古森の反共原理主義とグローバリスト主体の東アジア共同体評議会による市場原理主義とが衝突をしているかのように見えてくる。

 しかし、コンドリーザ・ライス新国務長官誕生によって、すでに古森がつながるネオコンの教条的な攻撃性はダーティー・トリックを含めた実行機関として利用される存在となっている。

 ネオコンの背後にいる本丸としてのリアリスト集団の最重要課題はこれまで再三指摘してきたように対中政策である。従って日本国内におけるふたつの原理主義の論戦も北京オリンピックと米大統領選が同時に行われる2008年に向けた前哨戦に過ぎない。

 ■米国の戦略的ライバルとしての中国

『北京との経済交流を支持する議論が存在するが、一方で、この国はいまもアジア太平洋地域の安定を脅かす潜在的脅威である。現在のところ、中国の軍事力は 米国とは比べものにならないが、このような状態が永遠に続くとは限らない。明らかなのは、中国は台湾と南シナ海地域で、未解決の国益に関わる問題を抱えて いる大国だということだ。中国はアジア太平洋地域における米国の役割を嫌っている。要するに中国は、「現状維持(status quo)」に甘んじることなく、中国に有利になるようにアジアのバランス・オブ・パワー(勢力均衡)を変革しようと狙っているパワーなのだ。この点だけを 見ても、中国はクリントン政権がかつて呼んだような「戦略的パートナー」ではなく、戦略的ライバルだということがわかる。』

『米国の対中政策には繊細さとバランスが必要だろう。経済的交流を通じて中国国内の変化を促進する一方で、中国のパワーと安全保障上の野心を封じ込めるこ とが必要になる。米国は中国と協調を試みるべきだが、国益がぶつかり合ったときには、北京と敢然と立ち向かうことも辞さない態度が必要である。』

 ▼原文
Campaign 2000: Promoting the National Interest
http://www.foreignaffairs.org/20000101faessay5/condoleezza-rice/
campaign-2000-promoting-the-national-interest.html?mode=print

(翻訳は『ネオコンとアメリカ帝国の幻想-フォーリン・アフェアーズ・ジャパン』にある「国益に基づく国際主義を模索せよ」(P241~268)より、一部筆者により修正。)

 「北京と敢然と立ち向かうことも辞さない態度が必要である。」と言いきるこの論文の執筆者はパウエルの後任として国務長官に就任するコンドリーザ・ライ スである。ライスはネオコンではない。ネオコンすらも恐れる米国屈指の戦略家である。典型的なリアリストであり、しかもこの論文からオフェンシブ・リアリ ズム(攻撃的現実主義)の立場をとっていることがわかる。

 国際関係論におけるネオ・リアリズムは、国際社会を無政府状態(アナーキー)であるとの前提を同じくしながら、国家をバランス維持につとめる防御的な存 在とするケネス・N・ウォルツらのディフェンシブ・リアリズムに対して、国家を世界的なパワー・シェアの極大化を目指す攻撃的な存在とするジョン・ミア シャイマーらのオフェンシブ・リアリズムなどがある。そして、このミアシャイマーが「米国と中国は敵同士となる運命である」と明確に言い放っている。

 この点でライス論文はミアシャイマー理論と驚くほど一致している。さらに過去の事例から、ミアシャイマーはライバルがバランス・オブ・パワーを崩そうと した場合の具体的な戦略として「ブラックメール(blackmail=恐喝)」と「戦争(war)」をあげ、危険なライバルに直面した時にバランス・オ ブ・パワーを保つために使う戦略として、「バランシング(balancing」と「バック・パッシング(buck-passing=責任転嫁)」を取り上 げている。

 「バランシング」とは自国単独もしくは他国と協力しながらライバルに対する勢力均衡を維持しつつ、その力を封じ込め、必要とあれば戦争をして相手を負か すことであり、「バック・パッシング」は大国が脅威を与えてくる相手国に対して、他国に対峙させ、時には打ち負かす仕事をやらせることである。そして双方 が消耗しきった時に大国の出番となる。他にライバルに追随、従属するバンドワゴニング(bandwagoning)もあげられる。

 なお、このネオ・リアリズムに属するウォルツやミアシャイマーが中東における軍事バランス崩壊の観点から、イラク戦争に関して明確に反対し、2003年 2月に行われた外交問題評議会(CFR)でネオコンと大激論を繰り広げ、ネオコンが惨敗を喫したことは友人であるコバケン氏論文「リアリストたちの反乱」 に詳しい。理論で負け、実戦でも予想以上の苦境に陥る現状にあって、ブッシュ政権内の主導権がネオコンからライス国務長官のオフェンシブ・リアリストへと 移ったのは当然の結果である。

 ただし、ライスがアカデミック界からビジネス界に転身し、国益に直結するシェブロン(石油)、 J・P・モルガン(金融)、チャールズ・シュワブ(金融)などで実践を積んでおり、その意味ではビジネス・リアリストとアカデミック的なオフェンシブ・リ アリストを併せ持つ。このことから、同類のチェイニー副大統領やラムズフェルド国防長官と強固に結びつく可能性が高いことを認識しておく必要がある。

 ■日本が担う大役とは

 日本は戦後、憲法9条を盾に安全保障を米国に依存する「バック・パッシング」を採ってきたが、米軍の変革・再編(トランスフォーメーション)における陸 軍第一軍団司令部のキャンプ座間(神奈川県)への移転や横田の第五空軍司令部の第十三空軍司令部(グアム)への移転・統合などを見る限り、ブッシュ政権は 対中戦略に際して、日本の「バック・パッシング」を封じつつ、日本を中国にぶつける「カウンター・バック・パッシング」をシナリオに組み入れたと判断すべ きであろう。

 万が一の対中戦争に突入した場合を想定して、キャンプ座間などは戦禍をとどめておくための前線基地として位置付けているのである。従って、その時が来たら真っ先に狙われることになる。また、同時に中国の民主化以後を睨んだ米国のビジネス的な思惑も十分に計算されている。

 フォーリン・アフェアーズ誌編集長であるジェームズ・ホーグの論文『グローバル・パワーシフト』では、「進行中の経済及び人口統計学的な問題を抱える日 本は、アジアにおける新たなパワー再編の中心にはなりえない。その役目を担うのは中国、そして最終的にはインドになる。」と分析している。日本の将来の問 題が、経済はもとより人口問題にあると指摘する識者はピーター・ピーターソンを含めて数多くいる。この問題こそが日本の政治家が最優先に取り組むべきだ が、手つかずのまま放置されていることにすでに日本の限界が見出せる。

 こうした日本の将来性に関する悲観論が米国識者の間で語られ、民主化後の中国を分割弱体化させ、米国の新たなパートナー兼市場として迎え入れたいとする 勢力が存在する以上、米国が直接中国と対立するとは考えにくい。従って、その大役を日本にやらせようとしているのである。

 対中政策において米国の手元にあるのは、日本カード以外に台湾カード、そして北朝鮮カードがある。一つの目安として米国の台湾へのイージス艦売却があげ られるが、現時点の計画ではイージス艦4隻を台湾に実戦配備するのは2011年と見られている。中国経済のバブルがはじける時期と考えれば整合性も高く、 緊張を長期化させたいビジネス上の思惑もある。しかし、台湾の選択できる戦略は日本ほど限定されておらず、場合によっては中国に追随、従属するバンドワゴ ニングを採ることもできる。この点で米国にとっての優先順位は台湾カードより日本カードを上位に位置付けているものと考えられる。

 すでに北朝鮮カードは切られている。フォーリン・アフェアーズの最新号では、朝鮮半島問題専門のセリグ・ハリソンが北朝鮮のウラン濃縮による核開発は 「イラクの大量破壊兵器同様、ブッシュ政権が情報を歪曲し、脅威を誇張したものだ」とする論文を掲載している。この論文で注目すべき点は、ブッシュ政権が ウラン問題を持ち出すことによって北朝鮮に歩み寄る日本と韓国の融和政策を脅えさせ、後退させることを望んだからだと書かれている。この真偽はともかく、 分裂する米国にあってこの告発が外交問題評議会(CFR)とて一枚岩ではないことを示しているようだ。

 このことからわかるように、実行機関としてのネオコンが仕組んだダーティー・トリックが四方八方に仕掛けられている。こうして世論は巧みに操作され、気 が付けば崩壊後の北朝鮮に人道支援を名目にさらなる前線基地としての自衛隊派兵が決まり、同時にオフェンシブ・リアリスト達は原材料や食料、そしてエネル ギー資源の争奪戦を仕掛け、これによって日中の亀裂は決定的なものになる。そして、彼らが望む素晴らしい世界へと日本は引き込まれていくことになるのだろ うか。

 ■東アジア共同体という危険な誘惑

 こうしたシナリオを描く米国の戦略家にとって、最悪のシナリオはジェームズ・ホーグが明言している。「日本と中国が米国との関係よりも、日中が手を組ん で戦略的な同盟関係を築くこと」である。これはリムランド(ユーラシア大陸周縁国)に位置する国同士の結束を認めないとする伝統的な地政学にも合致してい る。
 
 そして、この最悪のシナリオを目論む東アジア共同体評議会が古森義久によって攻撃されている光景がなんとも興味深い。

 確かにライスも指摘しているように、「経済的交流を通じて中国国内の変化を促進する」効果も期待できる。また、経済交流が相互依存を深め、一時的な世界 経済への影響から経済大国間の戦争は回避できるとする米民主党や欧州お抱えのグローバリゼーション賛歌を唱える学者も存在する。しかし、彼らですら現状の 共産中国のままで世界経済に大きな影響を及ぼす大国として共存できると考えてはいない。

 この中国の民主化は財界にとっても歓迎すべき問題であるにもかかわらず、東アジア共同体評議会のホームページを見る限り、この重要な論点を避けている。 民主化による「機会均等、門戸開放」を掲げることなしに中国との共同体設立を目指せば、戦前の悪夢が蘇る。これでは古森が指摘する米国排除との懸念を招い ても仕方がない。従って、水面下で米・欧と協調しながら中国民主化へのシナリオを描く必要がある。

 また、現状の財界主導の東アジア共同体評議会は、オフェンシブ・リアリスト達の甘い誘惑によって、いとも簡単に引き裂かれる運命を抱えている。従ってバランサーの役割にすらならない可能性がある。

 さらに危険な兆候もある。今後日本国内の反米保守勢力や左派勢力の一部が、反戦やアジア回帰を旗印に和風ネオコンとなって東アジア共同体評議会に合流し てくるだろう。目先の利益に惑わされて、これに同調し、世論が束ねられることが最悪の結果をもたらす。なんとも切ないことに、現状の日本は米国か共産中国 かの究極のニ者択一しかないのだ。歴史を振り返りながら、被害を最小限に抑えるために敵にしてはならない相手を考えれば自ずと結論は導き出される。この現 実を見据えながら国益を冷徹に追求する姿勢が求められる。

 また次に待ち受ける最大の試練は中国の民主化以後であり、これを睨んだ日本の生き残り策の構築こそ、東アジア共同体評議会に期待したい。

 中国は米国陣営への対抗する狙いから、欧州やロシアとの間で経済的、軍事的な結びつきを深めようとしている。これはユーロで米国を揺さぶったサダム・フセインと同じ道を辿っていることを意味しており、米国の不信感を増幅させている。

 北東アジアの地に21世紀最大の危機が確実に忍び寄っている。



□引用・参考

東アジア共同体評議会
http://www.ceac.jp/j/index.html

東アジア共同体評議会掲載の古森記事
http://www.ceac.jp/j/column/041210.html

コバケン氏論文「リアリストたちの反乱」
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index-kb.htm

A Global Power Shift in the Making
By James F. Hoge, Jr.
http://www.foreignaffairs.org/20040701facomment83401/james-
f-hoge-jr/a-global-power-shift-in-the-making.html?mode=print


Did North Korea Cheat?
By Selig S. Harrison
http://www.cfr.org/publication_print.php?id=7556&content=

北朝鮮ウラン濃縮は歪曲 米が脅威誇張と専門家
共同通信12月10日配信記事

リー・クアンユー顧問相、米国と中国との間で緊張関係が生じる可能性を指摘
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20041214/
20041214a3170.html


日中関係の展望
ラインハルト・ドリフテ
http://www.rieti.go.jp/jp/events/bbl/04102101.html

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2004年12月01日(水)萬晩報通信員 園田 義明
 ■巻き起こる「北朝鮮・レジーム・チェンジ」論

 情報通信社インター・プレス・サービス(IPS)やアジア・タイムズ・オンラインなどで活躍し、日本メディアの隠れたネタ元として知る人ぞ知る存在と なってきたジム・ローブが11月23日に「タカ派は北朝鮮でのレジーム・チェンジ(体制変更)を押し進める」と題するコラムを掲載し、アジア各国で大きな 話題となっている。

 この中でローブは、ウィークリー・スタンダード誌の編集長としてネオコンの代表格を務めるウィリアム・クリストルが「北朝鮮のレジーム・チェンジに向けて」とする声明をオピニオン・リーダー向けに配布したことを明らかにしている。

 クリストルはニコラス・エバースタット・アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)客員研究員のウィークリー・スタンダード誌掲載の論文を引用しながら、ブッシュ政権二期目の最優先事項の一つは北朝鮮問題であると明言している。

 エバースタット論文は「専制政権を崩壊させよ」とする刺激的なタイトルから始まり、北朝鮮問題に対する米国のアプローチは明らかに欠陥があると指摘した 上で、非外交的手段なオプションの必要性を説いている。これまでのエバースタット発言から、この気になるオプションには経済制裁、そして軍事攻撃までもが 含まれていると考えられる。

 論文に先立って11月9日に行われたAEIの「第二期ブッシュ政権の外交政策」をテーマとするセミナーに出席したエバースタットは、この非外交的手段な オプションが外交的手段による解決の可能性をも高めるとしながらも、「北朝鮮への軍事攻撃での核開発阻止という最終の方法は犠牲やコストの巨大さのために 不可能と断じる向きがあるが、決して考えられないということではない」と述べている。

 ■日米ネオコンの狂宴

 ここで気になる日付について整理しておきたい。

 クリストルの「北朝鮮のレジーム・チェンジに向けて」が「新しいアメリカの世紀のためのプロジェクト(PNAC)」のウェブ・サイトで公表された日付は11月22日である。

 エバースタット論文「専制政権を崩壊させよ」はウィークリー・スタンダード誌の11月29日号に掲載されているが、ウェブ・サイトに掲載された日付は11月19日である。

 そして、PNAC公表に合わせるかのようにフジテレビの「報道2001」に出演し、全く同じ主旨の発言を行った政治家がいる。この発言内容は次の通りである。

「多くの人が命がけで国から逃げようとしている状況で、金正日政権が今後も存続していくことができるのか。この政権と交渉して果たして結果を出すことがで きるのか、最近疑問を感じている。レジーム・チェンジの可能性も選択肢に入れたシミュレーションを今からはじめておく必要がある」(産経新聞朝刊より)

 この発言の主は自民党の安倍晋三幹事長代理である。そして、この「報道2001」は11月21日に放送された。

 このネオコンと安倍晋三をパイプ役となっているのが産経新聞の古森義久であり、古森は11月9日のAEIのセミナーに関する記事を11月11日付け産経新聞で掲載している。

 この日付の関係から、すでに安倍晋三は古森義久を通じて完全に米国のネオコンと一体化していることがわかる。

 安倍晋三が今年4月29日(日本時間30日)、AEIで講演し、ネオコンの首領としてキリスト教右派とユダヤ系米国人を結びつけ、ウィリアム・クリスト ルの父でもあるアーヴィング・クリストルに対して深い尊敬の念を表したことはすでに拙稿『ふたつのアメリカ/ 「ムーア vs ミッキー」とBCCIスキャンダル』で取り上げた。 

 エバースタットは今や韓国が逃亡した同盟国とした上で、韓国国民と直接話し合いながら、窮極的には同盟を回復させるための韓国内の政治集団を建設、育成 しなければならないと力説しており、現在の米国にとって頼もしい存在としての韓国版安倍晋三を待ち望んでいるようである。

 ■エバースタット家と偏狭なラスト・リゾート

 「政界のプリンス」こと安倍晋三は、安倍晋太郎元外相の二男で、自宅をデモ隊に取り巻かれながら日米安保条約改定を強行し、憲法改正に執念を燃やした岸信介元首相の孫に当たる。

 一方のニコラス・エバースタットは作家兼写真家の父フレデリックと母イザベルの間に生まれた。フレデリックの父、つまりニコラスの祖父はフェルディナンド・エバースタットである。

 このフェルディナンド・エバースタットこそが戦中戦後における軍産インナー・サークルの中心人物であった。

 フェルディナンドは名門投資銀行ディロン・リードなどを経て、第二次世界大戦中には戦時生産局副長官(計画担当)として原爆開発に関わり、終戦直後の 1945年9月にはエバースタット・レポートを作成、戦争の規模や頻度の異常な増大と原爆に象徴される科学技術の進歩によって米国は厳しい挑戦にさらされ ており、これを回避するために戦争動員の迅速化と兵器開発の中枢としての国防総省、国家安全保障会議(NSC)、中央情報局(CIA)の創設を提案した。 つまり、フェルディナンドこそがこの三機関の生みの親なのである。

 このフェルディナンドは母校であるプリンストン大学の名門クラブとして知られるコテージ・クラブを中心に名門大学出身者を「グッド・マン・リスト」とし て結集させた。この中には初代国防長官となるジェームズ・フォレスタル、ユダヤ系財界代表バーナード・バルーク、"エレクトリック・チャーリー"こと チャールズ・E・ウィルソン、ルシアス・グレイ、クラレンス・ディロン、ウィリアム・ドノヴァン、ジョン・F・ダレス、アレン・ダレス、W・アヴレル・ハ リマン、ハーバート・フーヴァー、デイヴィッド・リリエンソール、ウォルター・リップマン、ジョン・J・マクロイ、ロバート・パターソン、ロバート・ロ ヴェットなど、当時の政財界を代表する人物が名を連ね、以後国防総省と産業界と一体化させながら冷戦時代を見事に演出していった。

 そして、その孫がネオコンを装いながら南北朝鮮問題の専門家として急浮上してきた今、歴史がその祖父の時代へと逆戻りし始める。ラスト・リゾートにかける彼らの想いが伝わってくるようだ。

 ■バック・パッシング合戦の行方

 彼らにとって既に内部崩壊の兆候が見え始めた北朝鮮は緊張を煽るための道具でしかない。北朝鮮問題を契機に北東アジア一帯の緊張を高めることで巨大な兵器庫を作り上げることが狙いである。

 しかも、ネオコンが何と言おうが背後にいる彼らは北東アジアの地では脅しだけで最後まで自ら手を下すことはない。他国に対峙させ、場合によっては打ち負 かす仕事をやらせる戦略を採る。そして、息の根を止める最後の一撃の瞬間に彼らは現れる。これが戦略としての「バック・パッシング(buck- passing=責任転嫁)」である。

 この「バック・パッシング」は米国のみならずEUも採用するに違いない。北東アジアにおける米国にとっての他国とは日本であり、米国に対抗するEUに とっての他国とは中国である。過去の事例から考えれば、すでに米国とEUは日中を中心とする巨大兵器マーケットの創出に向けて手を組んでいると見ていい。

 米・欧にまたがる軍産インナー・サークルが紳士を気取りながら仲良くラスト・リゾートとしての北東アジアにすでに群がり始めている。米軍の変革・再編 (トランスフォーメーション)に伴い、陸軍第一軍団司令部のキャンプ座間(神奈川県)への移転や横田の第五空軍司令部の第十三空軍司令部(グアム)への移 転・統合などが日本に打診され、まもなくEUの中国に対する武器禁輸措置も解除される。

 ■もうひとつのラスト・リゾート

 北朝鮮拉致問題と並んで小泉首相の靖国参拝問題が急浮上してきた。靖国が教科書問題ともに中韓両国によって「歴史カード」に使われるのは対外政策の未熟さの表れに過ぎない。また中韓両国が恐れるのは小泉首相に国家神道の亡霊を見ているからだろう。

 この靖国参拝問題や「飛んで火に入る夏の虫」としての中国原潜領海侵犯事件を表面化させることで、日本政府は新たな「防衛計画の大綱」案に中国の安全保障上の「脅威」を盛り込ませることに成功し、事実上の日中冷戦時代の幕開けとなった。

 同時にミサイル防衛(MD)システムのおこぼれを回収するための武器輸出三原則の見直しが進められ、憲法改正によって名実共に米国の身代わりとして進み 出ていくことになる。そして、米国は最後の仕上げとして米国か中国かの踏み絵を迫り、この時初めて日本人はことの重大さに気付くのである。

 米国生まれの憲法九条を盾に米国に依存しながらのらりくらりとかわしていく日本流「バック・パッシング」戦略も老朽化で役に立たず、ひ弱な反戦平和運動 はなすすべもなく立ちすくみ、北東アジア構想などは無残にも引き裂かれ、もはや八方塞がりの中で最新兵器に取り囲まれた緊張感溢れる素敵な生活が目前に 迫っている。

 無駄だと思うが、まもなく訪れる中国経済のバブル崩壊後を狙って、米国のネオコンとキリスト教右派から成る「左手に兵器、右手に聖書」連合の反共思想を 刺激し、日本の身代わりとして中国にぶつけるシナリオは今から用意しておくべきだろう。安倍晋三や古森義久、そしてこの二人を支持する方々も、信じるもの に従って米国へと旅立ち、「左手に兵器、右手に聖書」連合の旗の下で共に戦えばいい。

 日本に残る人々にはもうひとつの戦いが待っている。伝道者としての宮崎駿がアニメを通じて世界に広めた神道や縄文の思想が、今再び偏狭な小泉国家神道に よって壊されようとしている。根源としてのラスト・リゾートになりえるこの「太古からの宝物」を救い出し、宗教・民族を越えて存在する内なる神道を呼び起 こしながら、共生への道を切り拓かなければならない。

 12月1日現在の「miyazaki hayao shinto」の検索結果はYahoo!で573件、Googleで1650件ある。


□引用・参考

Hawks push regime change in N Korea
By Jim Lobe
http://www.atimes.com/atimes/Korea/FK24Dg01.html

「米ネオコン、金総書記追放をブッシュ大統領に圧力」
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/
11/23/20041123000075.html


November 22, 2004
MEMORANDUM TO: OPINION LEADERS
FROM: WILLIAM KRISTOL
SUBJECT: Toward Regime Change in North Korea
http://www.newamericancentury.org/northkorea-20041122.htm

Tear Down This Tyranny
From the November 29, 2004 issue: A Korea strategy for Bush's second term.
by Nicholas Eberstadt
11/29/2004, Volume 010, Issue 11
http://www.weeklystandard.com/Utilities/printer_preview.asp
?idArticle=4951&R=A0A32EEE8


「防衛計画の大綱」案概要 新たに中国の脅威追加 政府、与党PTに提示
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041126-00000006-san-pol

▼古森義久記事
第2期ブッシュ政権の北核問題対応 非外交的手段に移行も 朝鮮情勢専門家
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041111-00000010-san-int

中国の人権改善なし 法律武器に宗教弾圧 米政府と議会の年次報告書
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041006-00000009-san-int

▼神道国際学会
http://www.shinto.org/top.htm

神道と自然の聖なる次元
ケンブリッジ大学東洋学部 カーメン・ブラッカー博士
http://www.shinto.org/drcarmen.htm

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2004年11月17日(水)萬晩通信員 園田 義明
 ■森有礼の英国留学

 森有礼がスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であったトーマス・レイク・ハリスに出会たのは英国留学中のことである。森は新渡戸稲造や内村鑑三と並んで日本におけるキリスト教の受容に大きな影響を残し、この人脈が後に新渡戸らの人脈と合流していくのである。

 森の英国留学は薩英戦争(1863年)以後、開国の立場に転じた薩摩藩が密航の形で送り出したもので、1865年4月に森を含めた薩藩留学生15人と五 代友厚や寺島宗則ら4人の外交使節が海を渡った。海外渡航は当時国禁であったため、留学生らは藩からそれぞれ変名を与えられ、羽島浦(串木野郊外)から旅 立つことになる。 
 
 留学生達を乗せた「オースタライエン号(オーストラリアン号)」はグラバー商会所有の船であった。そして、一行をロンドンで出迎えたのもジェイムズ・グ ラバーとグラバー商会のライル・ホームである。この二人は留学生達の教育プランの作成や生活面の支援など、広範囲に渡って世話をすることになる。ジェイム ズ・グラバーはグラバー商会のトーマス・ブレイク・グラバーの兄にあたり、実質薩摩藩による英国派遣を支援したのはスコットランド生まれのトーマス・ブレ イク・グラバー率いるグラバー商会であった。

 1863年9月の生麦事件の報復として英国艦隊が鹿児島湾に侵入、そして薩英戦争が始まった時、五代友厚は寺島宗則とともに指揮していた蒸気船三隻を拿 捕され、船を焼却された上、捕虜になっている。その失態を怒った同藩士から命を狙われるが、その時に五代をかくまったのがトーマス・ブレイク・グラバーで あり、この時から五代とグラバーとの密接な関係が築かれ、この人脈から英国派遣が実現したのである。

 グラバー商会は、資金の大部分をオランダ貿易会社とジャーディン・マセソン商会に依存していたが、薩摩留学生の学資もジャーディン・マセソン商会(香 港)の信用状にもとづいて、マセソン商会(ロンドン)が薩摩藩の手形を割り引く形で前貸ししていた。従って、実質的な薩摩留学生の支援者はジャーディン・ マセソン・グループであった。

 留学生活の準備に追われている時に、ライル・ホームが3人の長州人に出会ったとの情報がもたらされ、1865年7月2日に薩長留学生達が英国の地で出会うことになる。

 ■英国で出会う薩長密航留学生

 この3人とは野村弥吉(井上勝)、遠藤謹助、山尾庸三であり、1863年5月に同じく密航の形で日本を出発していた。当初は志道聞多(井上馨)、伊藤俊 輔(博文)を含めた5名であったが、聞多と俊輔の2名は、実際に海外に出て攘夷の無謀を痛感し、タイムズ記事で長州と英米仏蘭との間で戦争が始まるとの情 報が入ったことから、留学を放棄し1864年4月にロンドンを発ち、戦争を中止させるべく奔走していたのである。

 英国では後に長州藩から密航した5人の若者を「長州ファイブ」と呼び、彼らもまた明治維新の原動力となった。

 この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン商 会所有のチェルスウィック号で上海に渡り、ロンドン行きの貨物船ペガサス号とホワイト・アッダー号に分乗しながらロンドンに到着している。

 そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンであった。

 このヒュー・マセソンの紹介で、長州留学生はロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン博士と出会う。ウィ リアムソン博士は、ユニバーシティー・カレッジの化学教授を務めながら、英国学士院会員、ロンドン化学協会会長などの要職に就いており、偏見にとらわれな い世界主義的見解の持ち主であった。また、思想的には、ジョン・S・ミルの功利主義やオーギュスト・コントの実証哲学の信奉者として知られていた。

 長州留学生5人はウィリアムソン博士がいるユニバーシティー・カレッジに学びながら、揃ってイングランド銀行を見学するなど最先端の知識を吸収していった。

 伊藤博文、井上馨のその後の名声は語るまでもないが、井上勝は初代鉄道局長官として日本の鉄道の発展に寄与し、山尾庸三は工部大臣として活躍、遠藤謹助は洋式の新貨幣を鋳造して現在の造幣局のもとをつくった。

 薩長連合の成立は1866年1月、それより先の1865年7月に遙か彼方英国の地で後の日本を背負う薩長の若き密航留学生達が出会い、留学生サークルも誕生し、親密な交流が始まっていたのである。

 ■留学生を送り込んだ幕末・維新期のビッグ・リンカー

 まず、薩長の留学生を密航させたグラバー商会とジャーディン・マセソン商会に関わる人物のビッグ・リンカーとしての側面を見ていきたい。

 密航留学生などを通じて薩摩・長州両藩との人脈を築いたトーマス・ブレイク・グラバーは、欧米列強に対抗すべく軍備強化に乗り出していく幕末・維新期の 日本にあって武器商人として華々しい活躍を成し遂げる。少し長くなるが、すでに両書とも入手困難になっているため、杉山伸也の『明治維新とイギリス商 人』(岩波新書)や石井寛治の『近代日本とイギリス資本』(東京大学出版会)のグラバー商会とジャーディン・マセソン商会の艦船・武器の取引内容を紹介し ておく。

 幕府は1862年7月に外国艦船の購入を許可すると、幕府や各藩は競って契約に乗り出し、日本は格好の外国艦船マーケットとなった。こうした中でグラ バーはジャーディン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機 に本格的な艦船取引に乗り出していく。

 艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげている。

 グラバーはこの艦船取引に際して下の三つの方法をとっている。
  1. グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすでに運航させている船舶を売却する。
  2. グラバーが、ジャーディン・マセソン商会やデント商会などの販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をうけて適当な購入先や船舶をさがし、仲介・斡旋の手数料をとって販売する。
  3. 幕府や諸藩からの依頼によって艦船の建造の仲介をする。
 この中で特に(2)の場合、利潤はジャーディン・マセソン商会とグラバー商会の間で折半されることになっていたが、仲介者への手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されていた。

 留学生達が英国で学んでいた頃、すなわち1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻、価額にして 168万ドルに及ぶ。これは、同時期に長崎で売却された艦船の約30%、価額にして36%にあたる。そして、この売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊 本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっている。しかし、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎 (近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入した船であり、実際には薩摩藩5隻、長州4隻となる。

 グラバーはこうした艦船の売却以外に、各藩の依頼によって英国での船舶建造も仲介していた。この建艦は、グラバーの長兄であるチャールズ、そして薩摩留 学生達をロンドンで出迎えたジェイムズらがアバディーンで設立した船舶保険会社、グラバー・ブラザーズ社を通じて行われている。

 最初に建造された艦船はサツマ号で1964年に建造されている。薩摩藩が発注したのは『薩摩海軍史』では1865年となっていることから、発注前に建造 されていることになる。このサツマ号は不運にも日本への回航の途中に破船しているが、薩摩留学生が密かに旅立ったのが1865年4月だったことを考えれ ば、この建造費用の処理などをめぐる話し合いが五代友厚立ち会いのもとで密かに英国で行われていた可能性が高い。薩摩藩は留学生とともに英国に渡る五代に 対して小銃、弾薬、紡績機械の買い付けに当たらせていたのである。

 グラバー・ブラザーズ社が手掛けた日本向け建造船舶はサツマ号を含めて7隻あるが、この内の鳳翔丸と雲揚丸の二隻が長州藩発注となっている。

 グラバーはこの艦船取引の他に、小銃や大砲などの武器や弾薬類のビジネスも手掛けており、1866年1月から7月と1867年に長崎で売りわたされた小 銃の合計3万3875挺の38%にあたる1万2825挺を扱っていた。

 中でも有名なのが長州藩との取引である。幕末の長州藩は幕府の敵で、長崎では武器の購入ができない。そこで、1865年、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎ら は薩長和解のために亀山社中を使って薩摩藩の名義でグラバーから武器を購入して長州藩に譲り渡す仲介をし、7月には長州藩は薩摩藩士になりすました英国留 学組の伊藤博文と井上馨を長崎に派遣した。この時の取引でミニェー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を9万2400両で購入した。

 この亀山社中が斡旋した艦船取引もある。土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して薩摩藩名義で購入したユニオン号がこれにあたる。しかし、こ の仲介は表面化し、上杉宗次郎は盟約違反を同志らに問われ切腹する。長州から得た謝礼金をもとに英国留学に旅立つ目前であった。

 また、グラバーは幕府から薩英戦争で鹿児島の街を焼き尽くす最新式のアームストロング砲35門、砲弾700トン、総額18万3847ドルにものぼる大量 の注文を受けていた。一部は1867年に長崎に到着していたものの、幕府は瓦解寸前で、新政府側に同砲は渡った。仮に幕府が入手していたら、戊辰の戦いだ けでなく、その後の国の行方さえ違っていたかも知れない。

 興味深いのは、薩英戦争前に、薩摩藩はこれから戦おうとする英国からアームストロング砲100門をグラバー商会に注文していたことも記録に残っている。 しかし、この話を耳にした外務大臣ラッセルが1863年2月20日に販売を禁じる指示を出していた。従って、グラバーの日本での活動はジャーディン・マセ ソン商会を通じて英国政府に伝えられていたことは間違いない。

 ■マセソン・ボーイズとロスチャイルド家

『多くの冒険の末に、3人(5人の誤り―引用者=駒込武注)はロンドンに着いた。そこで、彼らは、コモン・センスを備えたキリスト教的人物の世話になると いう幸運に恵まれた。その人は、彼らの逃亡を援助した会社のメンバーであった。ヒュー・マセソンである。今日の日本は、ヒュー・マセソンの相談と世話に少 なからぬものを負っている。「はい、私はマセソン・ボーイズの一人でした」。先日、日本の首相は私に語ってくれた。「私は多くのものを彼に負っていま す。」』

 上は京都大学の駒込武の『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』(『地域史の可能性―地域・世界・日 本―』山川出版社)からの引用であり、日清講和条約締結の準備が進められていたさなかの1895年3月4日の『ウエストミンスター・ガゼット』に掲載され た伊藤博文首相へのインタビュー記事である。

 駒込によれば、この記事の中で伊藤は、交渉相手である中国政府の非文明的な性格、たとえば責任の所在の曖昧さについて不平を漏らすとともに、李鴻章は 「私の西洋に対するすべての知識と、私が日本で行ってきたすべての改革について知識を得たがっていた」と誇らしげに語っている。

 また駒込は英国に密航した5人の長州留学生を『いち早く西洋近代文明への「改宗者」になった』と評し、彼らもまた『自分たちの社会の劣等者を今や彼らが 「文明」とみなすものに向けて改宗させるための、もっとも熱心な宣教者となる』と書いている。

 続けて、当時の覇者英国は、キリスト教的な使命感も手伝って、自国を「文明化の使命」と位置付け、『「文明」の担い手にふさわしい人々と、その対極にあ る「非文明的」な人々を序列化しながら、多元的な「中心―周縁」構造を生み出していった。「中心」は「周縁」の人々を魅きつけ、「周縁」から「中心」への 旅を生み出すことになる。』とし、『近代日本は、そこからキリスト教をとり除き、天皇制という疑似宗教を忍び込ませるという作業を密かに行いながら、「文 明化の使命」という点ではブリテンを模倣しようとした。』と結んでいる。

 グラバー家は英国国教会に近いスコットランド聖公会に属し、トーマス・ブレイク・グラバーもフレイザーバラにある聖公会系のセント・ピーターズ・エピスコパル教会で洗礼を受けている。

 そして、英国留学生の世話役になっていたヒュー・マセソンは、イングランド長老教会の海外宣教委員会の委員長を1867年から1898年までの30年以 上の長きにわたって努め、宣教師の人選、現地の活動状況に応じた資金の配分などに大きな権限を持っていた。つまり、ビジネスマンと宗教家のふたつの顔を 持っていたことになる。そして、スコットランドの「ケルト辺境(Celtic fringe)」の出身者としてのケルト民族であったことにも注目しておきたい。

 駒込の「中心―周縁」構造を借りれば、イングランド出身の英国国教会徒が当時の英国の「中心」に位置している中にあって、その「周縁」にいたスコットラ ンド系のヒュー・マセソンとグラバーは、英国の「中心」へと駆け上がる野心から、日本を「自らの周縁」にするために「周縁」としての薩長と手を組みながら 「中心」である幕府を崩壊させたことになる。

 グラバーは、明治維新の成功が長崎貿易の縮小をもたらし経営が悪化、倒産に至る。しかし、高島炭坑の支配人、三菱が高島炭坑を買い取ってからの渉外担当 顧問として、岩崎彌太郎、彌之助、久彌に仕え、キリンビールの基になったジャパン・ブルワリー・カンパニーの経営にも携わりながら、1911年12月16 日、「周縁」の地の歴史に名を刻みながら麻布富士見町の自邸で息を引き取った。

 多数のグラバー関連文書が見落としてきた重要な事実をここで指摘していきたい。グラバーとは対照的にヒュー・マセソンは英国の「中心」を率いるエスタブ リッシュメントとして、1873年3月に鉱山採石最大手と知られるリオ・ティント(リオ・ティント・ジンク、RTZ)を設立し、1898年まで会長を務め た。設立に関わった金融業者、事業家による国際コンソーシアムの中にはロスチャイルド家の名前もあった。さらにロスチャイルド家は1887年から89年に かけてリオ・チィントの大株主となり、経営に大きな発言力を持つようになる。

 左手のアヘンを兵器に持ち替え、「左手に兵器、右手に聖書」となったグラバー商会やジャーディン・マセソン商会は、密航という手段を用いてまで、「周 縁」の若き担い手達を留学生として「中心」に招き入れることで、人的交流を深めながら「周縁」との関係を強化しつつビジネスにつなげていった。

 この手法は、ヒュー・マセソンやロスチャイルド家によって英国の「中心」に取り込まれ、ハード・パワー一辺倒の戦略から「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」へと転換させていくのである。

 ■ソフト・パワーの「永遠の輝き」

 英国の「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」を最も象徴するのが、ローズ奨学生制度である。

 ローズ奨学生制度は、英植民地政治家として知られたセシル・ローズがロスチャイルド家の支援を受けて南アフリカで1888年に興した世界最大のダイヤモ ンド生産・販売会社であるデ・ビアスなどの財産をもとに1903年に創設された。

 大英帝国繁栄のシンボルであったビクトリア女王の死去(1901年)、そしてボーア戦争(1899-1902年)では予想外の苦戦を強いられ、国際的な 正統性を失い孤立を深めていく。エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』を引き合いに大英帝国の衰退と没落が語られ、自信喪失感が漂い始める。彼らの目 には1904年から翌年にかけての日露戦争で勝利した日本人が、愛国心に富み、ロシアに対し一丸となって戦うモラル高き民族に見えた。

 ハード・パワーの限界に直面した英国にあって、ソフト・パワー強化のためにローズ奨学生制度が生まれ、1907年には日本の武士道に影響を受けてボーイ スカウト運動が始められる。ボーイスカウト運動を提起したベーデンーパウエル卿もセシル・ローズの土地を意味するローデシアや南アフリカで前線部隊総司令 官などを務めており、初期段階の次世代の兵士を育てるための青少年への軍事訓練としてのボーイスカウト運動は瞬く間に世界へと拡がっていく。

 およそ100年を経て、新たな「中心」となっているにも関わらず、英国の影響を強く受けたローズ奨学生政権が誕生した。クリントン前大統領を筆頭にウー ルジーCIA長官、タルボット国務副長官、ステファノポロス大統領補佐官、ライシュ労働長官など、いずれもローズ奨学生だったのである。

 このローズ奨学生政権を僅差で破って誕生したブッシュ政権は、再選をかけた戦いを聖戦と位置付け、両政党にまたがる国際派エリートを自負する東部エスタ ブリッシュメントを見事なまでに叩きのめし、名実ともに「周縁」が「中心」へと躍進した。

 軍産インナー・サークルとキリスト教右派・ユダヤ教右派連合に支えられたはブッシュ政権は、「左手に兵器、右手に聖書」の強力な陣営を率いて、現代版十字軍遠征に進軍していくのである。

 ローズ奨学生であったミスター・ソフト・パワーことジョセフ・ナイは、ハード・パワーを過信するブッシュ政権に警告を発し、巷ではボーア戦争とイラク戦 争を重ね合わせながら、今再びギボンの『ローマ帝国衰亡史』が注目を集め始めている。

 若きクリントンにローズ奨学生になることを勧めたのは、自らもローズ奨学生として英オックスフォード大学に学んだJ・ウィリアム・フルブライトである。 このフルブライトが上院議員時代に広島、長崎への原爆投下にショックを受け、「世界の平和を達成するためには人物の交流が最も有効である。」との願いから 1946年に創設したのがフルブライト交流計画である。

 このフルブライトの奨学金でこれまでに米国に留学したフルブライターと呼ばれる日本人同窓生は約5900名にのぼり、官界、法曹界、金融界、財界、学 界、ジャーナリズム、芸術分野で戦後の日本を支え、数多くのビッグ・リンカーを生み出す国際派エリート人脈を作り上げている。しかし、本来リベラルである はずの彼らは、フルブライトの平和への願い虚しく、イラク戦争をも受け入れた。

 100年後のモラル高き民族は、西洋近代文明の改宗者から熱心な宣教者へと見事に変貌を遂げ、ハリウッドから届けられたスクリーンの中だけの「ラスト・サムライ」を呆然と眺めていた。

 そして、米国と並ぶ世界的なダイヤモンドジュエリー市場となり、給料3カ月分神話に支えられて今なお「永遠の輝き」で人々を魅きつけている。

 これが「ソフト・パワーを組み入れたハード・パワー戦略」の威力である。


 ▼参考引用
・駒込武『「文明」の秩序とミッション―イングランド長老教会と19世紀のブリテン・中国・日本―』
 http://www.educ.kyoto-u.ac.jp/~koma/mission.html
・1873 The Rothschilds become shareholders in Rio Tinto
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1873
・1887 The Rothschilds finance the establishment of De Beers
http://www.rothschild.info/history/popup.asp?doc=articles/pophist2_1887

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2004年10月29日(金)萬晩報通信員 園田 義明

 ■ジェイコブ・シフが小国日本を救った理由

 1874年1月、ドイツ系ユダヤ人としてフランクフルトに生まれたジェイコブ・シフは18歳の時にニューヨークに渡り、ブルックリンやマンハッタンで古 着の屋台店を開いて小金を貯え、やがてクーン・ローブの娘と結婚、38歳でクーン・ローブの代表となった。このジェイコブ・シフが日本を支援したのは、エ ドワード・H・ハリマンと共にユーラシア大陸横断鉄道に進出することによる鉄道の世界制覇に向けた野望以外に理由があった。

 日本への金融協力には、クーン・ローブ・グループ以外に英国のロスチャイルド家、ドイツのウォーバーグ家、フランスの銀行家アルベール・カーンなども関 わっているが、これら欧米金融界のエスタブリッシュメント達が、商売上のこととはいえ日本を手助けしたのは、彼らがいずれもユダヤ系であり、ユダヤ人を迫 害していた帝政ロシアに対する強い反発があったからだ。そして、ジェイコブ・シフも当時米ユダヤ人会の会長を務めていた。彼らは、果敢にもユダヤ人を迫害 するロシアに立ち向かった小国日本を助けることで、一矢を報いることができると思ったのである。

 また同時に英国は、英皇室のロシア皇室との縁戚関係や有色人種支持ともとられかねない外交上の問題から、米国のクーン・ローブ・グループを参加させたいとの狙いもあった。

 ■ネオコンとジャクソン・バニク条項とロシア系ユダヤ移民

 実はこのロシアのユダヤ人政策はイラク戦争にも深く関わっている。1974年に米国はユダヤ人などの移民の出国を制限している共産国家への最恵国待遇や 政府信用供与などを制限したジャクソン・バニク条項を制定している。これはソ連がイスラエルへ移住しようとするユダヤ人に対して、事実上出国を禁止したこ とに対する制裁措置として、民主党のヘンリー・スクープ・ジャクソン上院議員とチャールズ・バニク下院議員が提案したものだが、このヘンリー・ジャクソン を支持し、ジャクソン・バニク条項の草案づくりに関わった人物こそが、イラク戦争を主導したネオコンのリチャード・パールである。

 このジャクソン・バニク条項は大きな成果を上げ、ソ連から57万人以上のユダヤ人、エヴァンジェリカル・クリスチャン、カトリック教徒が米国へ移住し、 約100万人のユダヤ人がイスラエルに移住した。その多くがブッシュ共和党政権、そしてイスラエルのアリエル・ブルドーザー・シャロン首相率いるリクード や極右政党の支持者となっている。

 つまり、リチャード・パールらネオコンがソ連からの大量のユダヤ移民票を米国とイスラエルに振り分け、当時にブッシュ政権とシャロン政権をつなげる役割 をも担っている。そして、このネオコンのユダヤ戦略の賛否をめぐってユダヤ系の金融機関や名門一族が大きく割れる結果となっている。

 また、ロシア系ユダヤ人を引き入れることがエゼキエル書に基づくロシアの参戦を意味することから、ハルマゲドンとしての世界最終戦争を演出し、かつ煽りながら、ブッシュ政権とキリスト教右派を一体化させているのである。

 ■高橋是清と森有礼とスウェーデンボルグ主義

 ここで高橋是清とキリスト教との関係も触れておきたい。

 高橋是清を見出し、キリスト教思想の影響を与えたのが日本初の文部大臣となる薩摩出身の森有礼である。森は英国留学中にスウェーデンボルグ主義の教団のカリスマ的指導者であったトーマス・レイク・ハリスに出会いクリスチャンとなっている。

 批判的な意味合いも込めてキリスト教神秘主義と称されてきたスウェーデンボルグは、スピリチュアリティ(霊性)という言葉が頻繁に登場するようになった今、「ニューエイジの父」として再び注目を集めつつある。

 スウェーデンボルグ研究の高橋和夫によれば、『スウェーデンボルグは、最終戦争(ハルマゲドン)も人類の滅亡もないと説く。それどころか、人類の宗教的 自立を意味する「新しい教会(宗教)の時代」が訪れると予測し、新しい時代には、個々の宗教や教会は普遍的な宗教原理--つまり彼の有名な言葉「あらゆる 宗教は生命に関係し、宗教の生命は善を行うことにある」で要約される原理--のもとに、その形式や教義・信条の差異を超えて共生し続ける(1995年4月 30日付産経朝刊)。』としている。

 ハリスは、この「新しい教会(宗教)の時代」の「新しい地上のエルサレム」がアフリカのどこかかアジアの日本に出来ることを確信し、日本の神道に大きな 関心を寄せていた。そして、ハリスの影響から使命感を抱いて帰国した森は、後に文部大臣としてキリスト教の賛美歌をもとにして作られた「蛍の光」「庭の千 草」「隅田川」などの唱歌を日本に導入しながら「新しいキリストの道」を目指したのである。

 ■ふたつのユダヤ人のハルマゲドン

 スウェーデンボルグが目指した宗教間の共生の中にはユダヤ教も含まれていた点が重要である。高橋是清もキリスト教思想に影響され、終生聖書を手元に置い て生きた。高橋はクリスチャンにはなっていないとする見方が定説になっているが、恩師である森有礼の影響からスウェーデンボルグ主義のクリスチャンであっ たことを隠していた可能性すらある。少なくとも、高橋とジェイコブ・シフの信頼関係には、スウェーデンボルグ主義が寄与したと見るべきだろう。

 ハルマゲドンを回避するために、宗教間の共生の必要性を説き、「新しい地上のエルサレム」を目指したスウェーデンボルグのネットワークの中に森有礼や高橋是清がいた。

 一方でハルマゲドンを待ち望むネオコン主導のキリスト教右派とユダヤ教右派との強力なネットワークの中に、現在の日本は完全に組み込まれている。 

 そして、これを象徴するかのように10月16日、ブッシュ大統領は2000年同様に勝敗の鍵を握るフロリダ州を訪れ、「反ユダヤ主義が現代の世界で居場 所を見いだすことがないようにする」と語り、国務省の反対を押し切って、世界の反ユダヤ主義を監視し、各国のユダヤ人に対する扱いの善し悪しを毎年評価す ることを義務づける「全世界反ユダヤ主義監視法(the Global Anti-Semitism Review Act of 2004)」に署名したことを明らかにした。

 ともにユダヤ人が深く関係するものの、その目指す方向がハルマゲドンをめぐって大きく異なるものであることを日本人は深く認識しておくべきだろう。

 しかし、小泉首相が「ブッシュ大統領とは親しいからね。頑張っていただきたいね」と言ったかと思えば、「ブッシュ大統領でないと困る」発言(自民党武部勤幹事長)まで飛び出すこの国は、ハルマゲドン・プレイヤーとして、自ら進み出る覚悟を決めたようだ。

 ただし、ブッシュ再選は米欧の国際派エスタブリッシュメント達も歓迎しているようだ。ブッシュ政権の継続が米国の衰退を決定づけるものになることを過去 4年の実績から認識しているからである。ブッシュ政権が思い描くハルマゲドンが「ブーメラン効果」となって移民国家である米国自らに襲い来るシナリオを見 越しているのだろう。つまり、ハルマゲドン自爆テロによって米国は超大国から普通の大国へと転がり落ちていくのである。

 ブッシュ政権再選支持を打ち出す小泉政権は、心中覚悟で米国を過去の国へといざなう役割を担っている。太平洋戦争での多大の犠牲によって米国の世紀を生みだした日本が、今まさに米国の世紀の終わらせようとしているかのようだ。

▼参考引用

反ユダヤ主義監視法に署名=米大統領
http://news.goo.ne.jp/news/jiji/kokusai/20041017/
041016204846.4ndw73v.html


Bush signs bill to monitor anti-Semitism
http://www.jpost.com/servlet/Satellite?pagename=
JPost/JPArticle/ShowFull&cid=1098018533349


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2004年10月21日(木)萬晩報通信員 園田 義明
 ■南満州鉄道とユーラシア大陸横断鉄道とハリマン事件

 太平洋戦争の最も近い原因は、満鉄線での張作霖爆殺(1928年6月)と満鉄線を爆破した柳条湖事件(1931年9月)に発する満州事変である。満州事 変前の旧満州では、日本、ロシア、米国、中国を中心とする4カ国が、鉄道権益をめぐって覇権争いを展開していた。太平洋戦争勃発の原因を探っていくと、こ の南満州鉄道(満鉄)に行き当たると指摘する声がある。

 ロシアはハルビンから旅順へ南下する支線も敷設したが、日露戦争の結果、この支線の長春以南を日本が獲得、そして南満州鉄道が生まれた。セオドア・ルー ズベルト大統領が日露講和の調停を果たしたのも、J・P・モルガン・グループとクーン・ローブ・グループへの配慮から旧満州の鉄道権益に割り込もうとする 狙いがあったからだ。

 そして、1905年9月、鉄道王として知られたユニオン・パシフィック鉄道のエドワード・H・ハリマン(W・アヴレル・ハリマンの父)がクーン・ロー ブ・グループの代表として日本を訪れる。目的は日本政府との間に南満州鉄道の共同経営に関する合意によって、ユーラシア大陸横断鉄道を実現させるためであ る。しかし、10月13日の離日の際にハリマンが手にしていたのは正式調印ではなく覚書だけである。そして、その覚書も10月27日には日本側からの電報 一通で破棄される。 

 ハリマン率いる米国との共同経営賛成派には元老の井上馨、国際派財界人の渋沢栄一らがいたが、「血を流して手に入れた満州の権益を米国に売り渡すことはできない」という外相小村寿太郎らの反対で実現に至らなかった。

 ■高橋是清とクーン・ローブ・グループの怨念

 このハリマン事件の背景には高橋是清が深く関わっている。この前年、欧米列強と肩を並べることを夢見た日本は戦費のメドも立たずに日露戦争に臨んでい く。そして、元老の松方正義、井上馨の命を受け、ロンドンへ目標額1000万ポンドの資金調達の旅に出たのが、当時日銀副総裁であった高橋である。高橋は 外債発行によってシティーから500万ポンド、シティーで得た知己をもとに米国から500万ポンドを調達することに成功した。

 この米国から500万ポンドを引き受けたのがドイツ系ユダヤ人のジェイコブ・シフに率いられたクーン・ローブ・グループである。そして、この引き受けの 理由にはユーラシア大陸横断鉄道への目論見もすでに存在していた。しかし、シフと親密な交流を結んだ高橋の配慮も虚しく、電報一通で彼らの野望を打ち砕い たのである。

 日露戦争を勝利に導いた恩人であるクーン・ローブ・グループに対する理不尽な事件として、日本では感情論的に解釈されてきた。そして、一部の狂信的な識者達によって、この事件こそが太平洋戦争勃発の原因であると語り継がれてきた。

 そして、このハリマン事件こそがトラウマとなって現在の日本の外交政策を縛り付けている。国益か国際協調かの岐路に立たされた時、必ずこのハリマン事件が教訓として引き合いに出される。

 イラク戦争では賛成と反対とで国際社会が分裂する中で、国益重視の立場から米国・英国協調の道を選択した。ブッシュ大統領やチェイニー副大統領の背後にあるクーン・ローブ・グループの長年の怨念に畏れおののき、太平洋戦争の悪夢が蘇っていたのだろう。

 また、日本が中国に接近し始める時にも必ずハリマン事件が登場し、その教訓は中国を中心とするランド・パワー・アレルギーを生み出した。日本は今なお「中国に手を出せば、また欧米にやられる」との恐怖から解き放されていない。

 ■日本の国家戦略上の重大な失敗

 このハリマン事件に関する著作『満州の誕生 日米摩擦の始まり』を書いた久保尚之は、ハリマン帰国後の1905年11月27日成立の第五回目外債発行に 対して、申し込み倍率の低下はあるものの米国銀行団が応じたことを示しながら、ハリマン事件が米国金融界を激怒させたわけではないと指摘している。

 また、ハリマン事件の背景にはJ・P・モルガン・グループとクーン・ローブ・グループの中国市場をめぐる熾烈ななわばり争いが存在しており、J・P・モ ルガン・グループの工作こそがハリマン事件の真相であった可能性すらある。いずれにせよ、彼らはあくまでもビジネスを主眼としており、日本的な感情論で解 釈すべき問題ではない。

 結果としてみれば、1907年の恐慌を契機としてJ・P・モルガン・グループの産業部門と金融部門における圧倒的な支配力が確立され、国務省に人脈を拡 げながら、対外活動における米国の「ドル外交」の推進役となった。そして、宿敵であるクーン・ローブ・グループを自らの補助役に収める一方で、中国市場の 再分割運動に乗り出すことになる。

 J・P・モルガン・グループが世界を席巻していく中で、日本でも井上準之介とJ・P・モルガンのトマス・ラモントの関係が確立されていくが、日本政府は恩義のあるクーン・ローブ・グループに特別な配慮を示していた。

 確かに、中国という地政学的な重要性から、日本がハリマンの提案を受けていたら、二十世紀、そして二一世紀の「世界の歴史」は変わっていたかもしれな い。しかし、日米英の協調関係ができることはあっても短命で終わっていた可能性が高く、太平洋戦争を踏み台にして米国の世紀が大きく前進した以上、日米破 局は避けられなかったと見る方が的を射ている。

 これは、地政学的な分析から、開戦に先立つ35年前の1906年にはルーズベルトも関わった対日戦争戦略計画としての「オレンジ・プラン」が策定されて いたことや、原爆の開発・製造自体がドイツか日本に投下するためではなく、当初から日本のみを標的としていたこと(岩城博司『現代世界体制と資本蓄積』に 詳しい)からも明らかであろう。

 日本としては、白人以外の国で、かつキリスト教国ではない国、そして新型兵器の開発に結び付くほどの強国を他に見出して、米国にぶつける方法も存在した かもしれない。しかし、当時の中国もしたたかな外交を繰り広げており、中国の方が上手だった。これこそが日米破局の原因のひとつである。

 それにも関わらず、せっかく築いた数少ない国際派人脈としての高橋是清=ジェイコブ・シフ・ライン、そしてそれに続く井上準之介=トマス・ラモント・ラ インを、軍部による暗殺という原理主義的な手段を用いて、自らの手で断ち切った。国家戦略上の失敗をあげるとすれば、まさにこのことを問題にするべきだろ う。

 ■岡崎久彦系人脈のトラウマとしてのハリマン事件

 イラク戦争における米国への支持を再三訴えた岡崎久彦が次のように書いている。

「あの時に日本がハリマンの提案を受けていたらば、二十世紀の歴史はまるで変わっていたでしょう。アメリカの極東外交は、単なる領土保全、機会均等という お経だけでなく、日本をパートナーとして共同で満州経営を行う形をとり、また日本では、伊藤(博文)が健在だった時でもあり、第一次大戦の国際情勢の中 で、対露、対支政策について、日米英の協調路線ができていた可能性は小さくありません。」(2002年5月1日付産経新聞朝刊)

 また、藤岡信勝は教育専門誌に書いた連載講座の一編である「『戦略論』から見た日本近現代史」で、『明治期の東アジアのパワーバランスの側面から日露戦 争をとらえつつ、戦勝後に米国の鉄道王ハリマンが提案した南満州鉄道の共同経営を拒否したことを重視している。日英同盟の選択は、与えられた戦略的環境の もとで日本にとっての「最適解」だった。しかし、満州経営に米国を加えておけば、その後の日米破局を回避できたという意味で、ハリマン提案拒否は日本の国 家戦略上、重大な失敗だった。』と書いている(1995年12月1日付産経新聞朝刊)。

 この岡崎久彦と藤岡信勝の名前から、「新しい歴史教科書をつくる会」、チャンネル桜、産経正論につながる人脈が浮かび上がり、この人脈から宗教的な団体 を見出すことができる。日本におけるユダヤ=イスラエル・ロビー的な役割を演じている「原始福音・キリストの幕屋」の存在である。

 これは、米国キリスト教右派とユダヤ教との同盟ネットワークが世界的な規模で拡大し、日本の保守勢力にまでその影響が及んでいる可能性を示している。そして、イラク戦争はまさしくこの不気味なネットワークの存在を見せつけるものとなった。

 イラク戦争における日本の米国追従姿勢も、ハマコーこと浜田幸一のように「米国の秘めたる凶暴性を原爆という手段によって経験したからこそ、今はまだ追 従するしかないのだ。」とはっきりと言い切ってしまえば説得力もあった。しかし、この岡崎系人脈の中にはこう語る人もいるかもしれない。

「ハリマン事件でユダヤ系を裏切ったために太平洋戦争に巻き込まれた。従って、イラク戦争でもイスラエルと同盟を組むユダヤ系ネオコンを裏切れるわけがない。米国追従あるのみだ。」

 確かに高橋是清はユダヤ人脈を最大限に利用した。この点でこうした岡崎系人脈の主張も一理ある。しかし、今や米国同様にユダヤ人も真っ二つに分裂している。

 ブッシュ政権を強く批判してきたジョージ・ソロスは、ついにチェイニー副大統領を「大統領の背後にいる正真正銘の悪魔だ」と非難している(10月12 日)。このソロスの存在こそがユダヤ人が分裂している証であり、こうした岡崎系人脈の主張があるとすれば、バランスを欠いた原理主義的なものと言わざるを 得ない。

 無関心が原理主義を助長する。そして今再び日本はかつてない危険地帯に足を踏み入れているように思えてならない。

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2004年10月11日(月)萬晩報通信員 園田 義明
 ■鉄道業と欧米エスタブリッシュメント・ファミリー

 クエーカーが英国で切り拓いた鉄道業は、その特徴であるファミリー・ネットワーク(クエーカー家族間の強力な結合関係)に基づく情報交換機能をロスチャ イルド家などの欧州のエスタブリッシュメント・ファミリーに率いられた国際金融資本によって踏襲されつつ、各国政府と一体になって帝国拡大の中核を担って いく。

 米国では、クエーカーが切り開いたペンシルベニア州を中心に巨大な鉄道網が登場し、その莫大な投資額ゆえに金融機関と密接に結びつき、金融資本の形成に 決定的な影響を及ぼした。鉄道網の拡大は国内市場の活性化に寄与しただけでなく、鉄鋼、石炭、そして石油などの諸分野と密接に結びつきながら資本集中の時 代へと向かわせた。

 そして、現在につながるビッグ・リンカーの権化たる米国のエスタブリッシュメント・ファミリーが続々と登場することになる。急速に力を付けた米国勢は、 欧州国際金融資本との間で協調と対立を繰り返しながら、世界へと乗り出していく。その様子をペンシルベニア鉄道から見ていきたい。

 なお、前章で取り上げたスウィージーは米国資本主義に占める鉄道業の特殊な地位を重視することで、総合的な観点にからの銀行と産業の結合、重工業の独占 形成研究を大きく前進させた。しかし、スウィージーの投資銀行業に関する事実認識が誤っていたために近代的な金融機関の登場を見落とす結果を招く。

 このスウィージーの誤りを指摘しつつ、米国の鉄道業と金融機関との関係を膨大な資料をもとに解明し、世界的な評価を得たものに呉天降の『アメリカ金融資 本成立史』(有斐閣)があげられる。この『アメリカ金融資本成立史』と呉天降の日本証券経済研究所論文(『証券研究』他)を中心に、故松井和夫『現代アメ リカ金融資本研究序説』(文真堂)、松井と西川純子の『アメリカ金融史』(有斐閣選書)、 ビクター・パーロの『最高の金融帝国』(合同出版)などを参考にしながら、独自の見解を加えて歴史を紐解いていきたい。

 ■ペンシルベニア鉄道とアンドリュー・カーネギー

 留学中の日本のクエーカー人脈が集う「グランド・セントラル・ステーション」となっていたメアリ・H・モリスの夫、ウィスター・モリスが取締役を務めたペンシルベニア鉄道は、1847年にペンシルベニア州政府によって設立されたが、57年に民間に払い下げられた。

 民間企業となったペンシルベニア鉄道は州内の重工業と協調関係を築きながら、南北戦争後に急速な発展をとげる。1890年までに株式所得や合併等の手段 によって有力系列会社を次々と傘下におさめ、1万マイルを越える広大な鉄道網を有し、1890年における資産総額は10億ドル以上に達した。その資金は 1870年まで社債のほとんどをヨーロッパ市場での直接売り出しで調達し、国内の引受団による社債引受が盛んになった70年以降も特定の金融機関にたよら ず公開入札制度を採用しつづけた。

 1880年代には、ロックフェラー率いるスタンダード石油が東部幹線鉄道間の競争激化を利用し、東部各社に石油輸送に関する巨額なリベートを強要した時には、ペンシルベニア鉄道はスタンダード石油の競争企業を後押しし、スタンダード石油に挑んだ企業としても有名である。

 このペンシルベニア鉄道の社員から代理人に転じてヨーロッパに渡り、社債発行交渉に当たっていたのが鉄鋼王と知られるアンドリュー・カーネギーである。 カーネギーはこの交渉で多額の手数料を手にして、カーネギー・スティールの設立資金の一部となった。当時のペンシルベニア鉄道のエドガー・トンプソン社長 も個人的にカーネギー・スティールに出資しており、ペンシルベニア鉄道とカーネギー・スティールは密接な人的結合を維持しつつ鉄道資材の取引を拡大し、 カーネギー・スティールは1890年初頭にはイリノイ・スティールに次ぐ米国2位の鉄鋼企業に成長する。

 なお、ペンシルベニア鉄道はカーネギー・スティール以外にも当時米国4位のペンシルベニア・スティール(1867年設立)とも深い繋がりがあったほか、 ペンシルベニア州内にはラカワナ・スティール(3位)、キャンブリア・スティール(5位)、フィラデルフィア・スティール、ジョンズ&ラフリン・スティー ルなど当時を代表する鉄鋼企業が集中していたのである。

 ■2大金融グループの台頭

 しかし、1893年恐慌は鉄道業を直撃し、その余波は鉄鋼業などにも拡大する。そして、その再編に絡んで2大金融グループが台頭することになる。J・P・モルガン・グループとクーン・ローブ・グループの登場である。

 J・P・モルガンはファースト・ナショナル・バンク・オブ・ニューヨークとミューチュアル生命と再建シンジケートを組んで、倒産したリッチモンド・ター ミナル鉄道を契機に、エリー鉄道、フィラデルフィア・アンド・レディング鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道などの救済に乗り出し、再建が成立したときに は、経営陣に人を送り込むことで人的結合をはかり、取引銀行として金融面を取り仕切る体制を確立していく。

 そしてモルガンの触手は鉄鋼業全体に拡大し、1898年にフェデラル・スティールを設立、そして徹底抗戦するかに見えたカーネギー・スティールをも飲み込んで、1901年にU・S・スティールを設立させる。

 このモルガン・グループに対抗して結成されたのがドイツ系ユダヤ人のジェイコブ・シフに率いられたクーン・ローブ、ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨーク(現在のシティーグループ)、エクィタブル生命からなるクーン・ローブ・グループである。

 1893年にはポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが主演した「明日に向かって撃て!」に登場したユニオン・パシフィック鉄道が破産状態に 陥った直後に、モルガンが再建を試みて失敗したことから、クーン・ローブにチャンスが回ってきたのである。ユニオン・パシフィックの再建に成功したクー ン・ローブ・グループは15名からなるユニオン・パシフィック取締役会にジェイコブ・シフ本人も含めた5名を送り込み、実質経営権を掌握する。

 この時にユニオン・パシフィックのハリマン家とクーン・ローブとの協力関係が構築される。このクーン・ローブ・グループは当時最強のペンシルベニア鉄道に対しても、バルチモア・オハイオ鉄道統合をきっかけに、関係を深めていくことになる。

 ■鉄道に関わるトラウマと日米今昔物語

 このクーン・ローブ・グループは、モルガン家に敵愾心を抱くエスタブリッシュメント・ファミリーを結束させることになる。ナショナル・シティ・バンク・オブ・ニューヨークを通じて合流したのがスタンダード石油のロックフェラー家である。
 
また、拙著『最新アメリカの政治地図』(講談社新書)で描いたように、イエール大学の名門クラブとして知られるスカル・アンド・ボーンズでハリマン家の W・アヴレル・ハリマンと出会い、その縁でハリマン家の投資銀行W・A・ハリマンと後のブラウン・ブラザーズ・ハリマンのパートナーに迎えられ、基盤を築 いたのがプレスコット・ブッシュ、つまり、現ブッシュ大統領の祖父である。ハリマン家に見出されたのがブッシュ家であった。

 そして、これも『最新アメリカの政治地図』に記したが、チェイニー副大統領はかつてハリマン家とクーン・ローブ・グループが支配したユニオン・パシフィックの社外取締役を務めていた。

 J・P・モルガン・グループの攻勢によって一時は衰退したかに見えたクーン・ローブ・グループが、ブッシュ政権そのものとなって、ハリマン家のユニオン・パシフィック鉄道の延長上に群がるかのように蘇っていたのである。

 一方でクエーカーが移植された日本でも鉄道会社(国鉄、西鉄、阪急、南海、近鉄、そして現存の阪神、西武)が公益的企業としてプロ野球をも支えてきた。しかし、野球自体の人気のかげりが象徴するかのように、過去例を見ない巨額な財政赤字に苦しみ破綻同然となっている。

 鉄道業や読売グループなどのプロ野球に代表される日本のエスタブリッシュメント達は、クーン・ローブ・グループの血を引くブッシュ大統領やチェイニー副 大統領をかつてのジェイコブ・シフと重ね合わせ、クラブを通じて彼らと親交を結びながら人脈の必要性を説いた高橋是清の亡霊に取り憑かれているかのよう に、ブッシュ政権に対して手を合わせ拝み続けている。

 この理由は鉄道に関わる米国に対するトラウマにある。高橋是清が関わったこのトラウマが今なお我々日本人を縛り付けているのである。

 J・P・モルガン・グループとクーン・ローブ・グループの二大勢力の鉄道をめぐるなわばり争いは米国内にとどまらず、欧州列強に対抗すべく世界へと向け られていく。その渦中に日本も巻き込まれ、トラウマの源としての事件が起こる。それがハリマン事件であった。

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2004年10月02日(土)萬晩報通信員 園田 義明
 ■鉄道業と金融資本と鉄道帝国主義

「19世紀後半のほとんど全体をつうじて、鉄道は北部資本主義において支配的であった。(中略)アメリカ経済の発展における鉄道の特殊な重要性と更には南 北戦争との結果、ウォール街は早くから経済上支配的な地位を得、これを放棄したことは決してなかった。」(ポール・M・スウィージー『歴史としての現 代』(岩波書店)より)

「発起人、金融家および債権販売人の役を兼ね備えた投資銀行家は、1880年代および1890年代においてアメリカの厖大な鉄道網をつくりあげ、再編成し 統合するのにもっぱら与って力があった。投資銀行家は、90年代の不況の後に産業界に進出するや、ついには1907年の恐慌となって終わったところの創業 と企業統合の大波の中で際立った存在となった。」(『歴史としての現代』岩波書店より)

「鉄道は資本主義の歴史において独特の地位を占めている。19世紀の後半と20世紀の初期の期間における鉄道網の建設は莫大な額の資本を直接に吸収した。 資産の増大にかんする10年ごとのセンサスの資料は1850年から1900年にかけて、鉄道にたいする投資額は製造工業全体にたいする投資額を上回ってい たことを示している。(中略)独占過程が現実に確立された19世紀の最後の20年間には民間資本形成の40ないし50パーセントは鉄道においておこなわれ たといって差し支えないであろう。ひとつの産業にこのように投資が集中したことはたしかにあとにも先にも比べるものがない。」(バラン&スウィージー『独 占資本』岩波書店より) 

 こうしたスィージー等の帝国主義の立場からの鉄道研究に対して、最近では鉄道の立場からグローバルな視点で帝国主義を論じた「鉄道帝国主義」がオックス フォード大学のロナルド・E・ロビンソン名誉教授などによって発表されている。この日本人も注目すべき「鉄道帝国主義」の定義も紹介しておきたい。

『ヨーロッパ中心の視点からすると鉄道建設は非公式帝国建設の手段であった。その意味では、鉄道建設はヨーロッパ膨張によって決定づけられたといってよ い。本書で試みる「鉄道帝国主義」という概念は、鉄道が非公式帝国に仕えただけでなく、その主要な創出者であったことを示唆する。この意味では、帝国主義 は鉄道によって決定づけられたといえる。民間資本の動向と帝国の戦略とのはざまで、高度な輸送技術の伝達が、鉄道帝国主義に内在する勢いにはずみをつけて いった。イギリスの膨張主義者のなかでもっとも老朽なソールベリーは、1871年にこう予言した。「小さな王国は、世界の運命によって破滅を余儀なくされ ている・・・・。現代の巨大な組織と大規模な交通機関によって、将来はいくつかの帝国のものとなるだろう。」(『鉄路17万マイルの興亡 鉄道からみた帝 国主義』日本経済評論社より)

 この『鉄路17万マイルの興亡 鉄道からみた帝国主義』(原題はRailway Imperialism)の訳者(原田勝正、多田博一監訳)による解説 には"excentric"や"excentrism"を「外縁部」、"sub-imperialism"を「外縁部帝国主義」と訳した理由が書かれてい る。この重要な用語には確かに地政学的な意味合いも含まれていることから、外縁部とした訳者の努力は高く評価するものの、主体がどちらにあるかの意味で混 乱を生みだしているように思われる点が残念である。

 ■日本の鉄道史

 ロナルド・E・ロビンソンは鉄道融資における貸し手と借り手の関係にもこう言及している。

「貸し手と借り手の共通の利害は、建設国の政治経済に二つの大きな影響をもたらした。第一に、機関車は経済成長をヨーロッパの産業の補完的なものにし、政 策を自由貿易の方向に導いた。第二に鉄道が建設される地域は、半植民地経済を通じて貸し手の国との政治的提携を強めた。1914年まで鉄道は帝国、金融、 商業の利害を結ぶ表面に出ない協力関係の主要な要因となり、「非公式」帝国の形成をもたらしたのである。」

 日本の鉄道史もまさに借り手からスタートしている。1872年(明治5年)10月14日、明治天皇をはじめ政府高官や各国公使を乗せた祝賀列車が横浜に 向けて東京新橋駅を発車した。多くの人が見守る中で、日本最初の東京・横浜間鉄道が開業したのである。

 明治維新以前にも、開国を契機に鉄道に関する情報がわが国へ伝達され、幕府(フランスの銀行家であるフリューリー・エラールが関与)、薩摩藩の五代友 厚、在日英仏人などが具体的な鉄道建設計画を作成していたが、いずれも実現するにはいたらなかった。

 明治維新後の1869年11月5日に右大臣三条実美の邸宅で、英国公使サー・ハリー・パークスと政府代表者(大納言岩倉具視、外務卿沢宣嘉、大隈重信、 伊藤博文、井上勝など)の間で、鉄道建設に関する非公式会談が行われ、パークスの日本人による鉄道建設は可能であるとの意見によって、日本初の鉄道実現が 大きく動き出すことになる。

 大隈と伊藤が構想したのは東京を基点とし、東海道を経由して京都、大阪を経て神戸に至る幹線と、京都より分かれて敦賀に至る支線であった。政府は、財政 に余力がないために商人に働きかけて建設しようとしたが、300万ポンドとされた工事費は日本国内だけで調達できる金額ではなかった。

 この時パークスの紹介で英国人資産家ハラチオ・ネルソン・レイが大隈と伊藤に対して鉄道建設資金提供を申し入れ、契約を結ぶことになる。しかし、レイは 政府に対して外債発行の条件を1割2分としながら、実際には9分で募集していたことが発覚したため、大隈と伊藤はオリエンタル銀行の協力のもとにレイとの 契約を破棄し、新たに同銀行を通じて9分利付きで外債100万ポンドを募集することになった。また、東京・横浜間鉄道の建設工事は1870年から開始さ れ、助っ人としての建築師長には英国人青年技師エドモンド・モレルが就任した。

 ここに外資と外国人助っ人導入による鉄道の事業スキームが構築されたのである。あくまでも建設主体は日本であったが、この時すでに長州出身の参議・兵部 大輔の前原一誠のように「是こそ真に国を売る賊臣なり」と激しく非難する者が姿を見せていた。

 ■大久保利通の地政学的警戒心

 当時の英国は、植民地の国々での反乱が多発したことから、戦略を変更していた。そして、東京・横浜間鉄道の成功は、ロビンソンの言葉のように日英間にお ける帝国、金融、商業の利害を結ぶ表面に出ない協力関係の主要な要因となり、日本は「非公式」帝国の一員となった。

 しかし、このことを強い警戒心を持って見ていた人物がいた。薩摩出身のリアリスト、大久保利通である。このあたりの事情は『工部省とその時代』(山川出 版社)に詳しいが、大久保は1871年から岩倉遣欧使節団の副使として欧米各国を巡遊し、英国での運河を行き来する船と高速で移動する鉄道に衝撃を受け、 英仏の植民地化の恐ろしさを説くビスマルクに影響される。帰国後の大久保は自信を喪失し、英仏が日本に投資することによって最終的には植民地化するのでは ないかとの疑念を深めていく。

 そして、大久保は1875年に助っ人外国人を大幅に減員する方針を打ち出すが、この時同時に、横須賀造船所の技師長であるウィルニーをはじめとする助っ 人フランス人全員を解雇する事件が起こる。ナポレオン三世からの密令によってウィルニーが横須賀造船所をフランスの極東におけるブリッジヘッド(橋頭堡) にしようとしているとの情報がもたらされたからだ。

 拙著『最新アメリカの政治地図』でも取り上げたように地政学の重要用語であるブリッジヘッドはシー・パワーがランド・パワーに挑む際の足場となり得る強 靱さと地理的な条件を兼ね備えた重要拠点を意味する。中国を視野に入れる英仏米が日本をブリッジヘッドと位置付けていた可能性は否定できず、むしろこうし た背景から日本に強靱さを根付かせるべく支援を行っていたとする見方も出来る。

 大久保は帰国後、運輸と物流に注目し内務省を設立、英仏への警戒心から水運網重視のオランダ型殖産興業政策を打ち出し、鉄道を柱とする英国に傾斜した工 部省を次第に追いつめていく。しかし、大久保は1878年に暗殺され、同じ薩摩出身の松方正義が後を引き継ぐが、工部省を牛耳る伊藤博文率いる長州閥に主 導権が移ることになる。(長州が出てくると常にその国際感覚無きために混乱が巻き起こる。現在の安倍晋三も然りである。)

 この大久保は岩倉遣欧使節団の経験から新旧世代交代と国際派知識人の必要性を痛感するが、すでに岩倉遣欧使節団には大久保のわずか11歳の次男も同行させ、そのまま津田梅子らとともに米国に留学させていたのである。

 この次男が米国留学中の印象について後の自身の日記の中でこう記している。

「米国に滞在中の印象と言っても、子供のことだから特に観察など出来たわけはないが、ただ感じたのは、一体フィラデルフィアはクエーカー宗徒の平和主義的 な気分が強く、そこにいたのでアメリカは非常に平和的なピューリタン主義な国だという印象を受けた。そしてその後のアメリカの西部が開け、貿易が発達し、 富の蓄積が顕著になるに従って海外への投資も増加して、第一次大戦後にはアメリカが世界において指導的な地位を占めるに至っても、この文化を頭に入れて、 アメリカというものに対する気分を変えるのに大分時間が掛った。」

 これは中公文庫の『回顧録(上)』の33ページからの引用であるが、その筆者は外務省入省後、福井県知事、公使、文相、枢密顧問官、農商務相、外相の要 職を経て、第一次大戦のパリ講和会議には西園寺公と共に全権となり、その後、宮内大臣、内大臣を歴任し元老的役割をはたした牧野伸顕である。一方で、牧野 は三菱財閥と深い繋がりも持っていた。

 すでに紹介した吉田茂から現在の麻生太郎につながる日本の保守本流のカトリック
家系の始祖こそが大久保利通の次男である牧野であった。また、牧野の回顧録から、
すでに牧野自身がカトリックに対して共感を抱いていたことも読みとれる。

 そして、第二世代キリスト教人脈を多数輩出するきっかけをつくったクエーカー=新渡戸稲造の第一高等学校(一高、後に東大に合流)の校長就任も、当時の 文相である牧野の発案であり、新渡戸が国連の前身である国際連盟の初代事務次長就任を後押ししたのも牧野、後藤新平、そしてメソジスト派クリスチャンとし て駐米大使や昭和天皇の侍従長を歴任する珍田捨己であった。この天皇家の側近であった牧野と珍田の宗教観は貞明皇后を通じて天皇家にも入り込んでいった。

 牧野が米国で過ごしたのは1871年からの3年間を米国で過ごしている。つまり、スウィージーが描いた時代と重なっている。次章では牧野が見た米国の変化、すなわち富の蓄積の様子を見ていきたい。

▼参考

外債発行を引き受けたオリエンタル銀行は1842年にバンク・オブ・ウェスタン・インディアとしてインド・ボンベイで設立され、1845年にロンドンに本 社を移転した時にオリエンタル銀行となり、一時は中国、香港、日本、インド、モーリシャス、南アフリカに支店を開設し、この地域で支配的な位置に立ったこ ともある。しかし、セイロンでのコーヒー・プランテーションへの投資失敗から、1892年に静かに幕を閉じている。

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