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DSC_0623700.jpg10月21日、雨天の中を高知から山を越えて旧土佐山村西川を訪ねた。自由民権時代の新聞記者、和田三郎の旧宅がある。市内からたった15キロしかないが まさに山村である。そこに自由民権結社「山嶽社」があった。土佐山村は多くの民権家を輩出したことで知られる。もともとは和田波治、千秋父子が始めた寺子 屋だった。門下生のの高橋簡吉、長野源吉らが「夜学会」を興し、明治15年、海南自由党が成立したころ、民権結社「山嶽社」に発展し。明治22年2月26 日に「山嶽倶楽部」と改めた。

  『土佐自由民権運動日録』や『土佐山村史』などによると、土佐山郷西川の桧山で「巻狩大懇親会」という催しが開かれ、県下の壮士約2000人がこの山 村に集まったというのだから驚きだ。7日後、今度は香美郡赤岡の海浜で、「旧海南自由党魚漁大懇親会」も開かれ、中江兆民らも参加している。海、山で自由 民権の大絵巻を繰り広げたのであるから痛快だ。

 高知の「立志社」は、2隊に分かれて山越えで野宿しながら会場へ到着したという。高張提灯や旗を掲げ、銃や槍、薙刀(なぎなた)、野太刀などを携え、ま た毛布や食料などを背負った集団が山を越える姿は異様に違いない。現在でも15キロの山道を2000人のデモ隊が越えるという光景は想像できない。

DSC_0617700.jpg なるほど植木枝盛が「自由は土佐の山間より発する」と言った意味が少し分かり始めた。 和田三郎(1872-1926)になぜ興味を持ったかというと、『萱野長知研究』に萱野の朋友として度々登場するからである。祖父や父の薫陶を受けたもの の、自由民権運動には遅れて出てきた人物で、アジア大陸で自由民権の流れをつくり、日本に逆輸入しようと考えた点では多くのアジア主義者と共通項を持つ。

 明治治5年6月22日生まれ。明治学院を卒業、,郷里高知県の土陽新聞の記者となる。明治39年、中国同盟会の発足を支援するため宮崎滔天(とうて ん)、平山周らと「革命評論」を創刊、大正4年、中華民国通信社を興して新聞「支那と日本」、「民報」を相次いで発刊、孫文らの中国革命運動を支援した。 宇田友猪(ともい)とともに板垣退助監修の「自由党史」を編修、43年刊行。大正15年11月1日死去。55歳。
 高知工科大学に勤める姉から大豊町の村祭りへの誘いをもらった。「神輿の担ぎ手がいなくなって留学生に助っ人を求めてきている」というのだ。

 そもそも村祭りなどと縁のない生活を送ってきたから、二つ返事で行くことを約束した。会場の星神社をネットで検索すると大豊町の大田口から山に入ったと ころにあった。16日の日曜日、吉野川沿いの約束の場所に向かった。副町長が出迎えてくれて「その車では無理なので町の車に乗りましょう」と誘ってくれ た。

 くねくねと山道を登り、15分ほど走ると山肌に棚田を構えた村落が現れた。庵谷(いおのたに)だ。庵谷の氏神さまが星神社。星神社の由来と村人に聞いた が、よく分からない。大豊町に星神社と名のつく社が11カ所もあるというのだから、この町にとって「星」は特別の意味があるのかもしれない。

 神事は午前10時半からはじまった。留学生は20人以上が集まった。神輿の担ぎ手8人のうち、村人は1人だけ。残る7人は留学生。裃と烏帽子の装束を身 に着けて、それぞれに神々しい。神事ではみなが正座し、神妙に神主の祝詞に聞き入る。拍手(かしわで)も打つ。イスラムのスカーフをかぶった女性もいた。

 日本の神さまは八百万の神だから、宗教も分け隔てしない。山菜を中心とした炊き込みご飯と煮物の昼食は村の奥さんたちの手作り。肉が入っていないから、イスラムも問題ない。
 一行は昼食の後、村人が集まる御旅所(おたびしょ)まで約1キロの山道を往復し、わっしょい、わしょいの掛け声も高らかに滞りなく神事を終えた。留学生たちは「おもしろい」「楽しい」を連発、笑顔の秋の一日となった。

 翌日の高知新聞は夕刊の一面トップでこの行事を報じた。

「田舎の神祭もインターナショナルで―。神祭でみこしや太鼓を担いで練り歩く「おなばれ」が16日、長岡郡大豊町の庵谷(いおのたに)集落で営まれ、7カ 国18人の留学生が担ぎ役などに参加した。過疎・高齢化で人出不足に悩む集落が、今年初めて県内留学生を募集。国際色豊かな一行が山里をにぎわした。」

 この行事は2011年度高知地域留学生交流推進会議地域交流事業の一環として行われた。日本人でもなかなか体験することができないような村祭りを多くの 留学生が体験できた意義は大きい。それにしても担ぎ手がいない神輿は全国に多々ありそう。軽トラックに神輿を乗せて村中を回るなどということは当たり前に なっているというのだから驚く。村人にとって秋祭りは豊作を神さまに感謝する大切な年間行事なのに・・・・・・。

 階段のことを考えながら飛行機に乗った。面白いもので、普段はあまり読むことのないANAの『翼の王国』をぺらぺらめくっていたら「神様への階段」というコラムが目に入った。丹生川上神社下社のことが書いてあった。ほとんど神ががりである。

 気のおけない友人たちとの食事中のことです。
「神社にあるキザハシって知ってる? 階段の階って書くんだけれど。すごいのがあるんだよ」とW大のO教授。最先端の狂言工学を教える方から「神社の階」とは意外なお言葉。

 鳥居の先の拝殿からうっそうとした森の上に本殿があり、拝殿と本殿を結ぶ急な階段が「階」だという。普段この会談は使われないが、6月1日の「雨乞い」 例祭には会談の板戸が外されて神主と氏子たちが急勾配の75段の階段を上がってお供えをするのだそうだ。この神社は訪ねたことはないが、森の中を駆け上が るイメージなのだそうだ。

  そういえば、太古の出雲大社にも本殿にいたる巨大な階段があったとされる。

 大林組が『古代出雲大社の復元』(1989年11月10日学生社刊)で推定復元した平安時代中期から後期頃の「出雲大社」は高さ48メートル、15階建 てのビルに匹敵する木造建築物だが、21世紀になってからの発掘で大社町に巨大な柱の跡があったことが分かり、古代の出雲大社は空中楼閣で巨大な階段が本 殿に向かっていたことが裏付けられた。

 神社や仏閣に階段はつきもの。地上と天上とをつなぐ存在が階段だったのだ。そうか神社のキザハシには祈りの意味が込められているのだ。それにしても、ほとんど信仰を失った都市のサラリーマンたちは毎朝、祈りの行為を余儀なくされているのかと考えるとおかしくなった。

  2週間ほど東京に行っていた。ある晩、息子のアパートの階段を酔って上りながら「何段あるのか」数えてみた。「そういえば今日も階段をたくさん歩いた な」。そんなことを感じながら上ると18段。そう、息子の部屋は3階だからもう一回階段を上らなくてはならない。2階から3階は14段あった。合計で32 段である。忘れないようにしっかりメモをとった。

 翌日、東京の駅の階段を数えてみようと思った。アパートの最寄り駅は西武武蔵野線の是政。通勤のルートは是政-武蔵境-四谷-赤坂見附である。是政は終 点だから改札からそのままホームになっていているから段差はゼロで非常に心地いい。JR中央線での乗り換えの武蔵境駅は現在、工事中でややこしい。高架に ある武蔵野線のホームから階段2つ合計46段下ると乗り換え用の改札が地上にあり、今後は39段上がってようやく中央線のホームに到達する。

 両方のホームは地上ほぼ同じレベルにあるのに段数は7つも違う。一段の高さが違うだけの話だが、「ああ、階段ってどこも高さが違うのだ」と実感させられ た。どうでもいい話だが、JRは段差を16・5センチにするように決められているそうです。それでも中央線の高架の高さは実は普通の家の3階以上の高さに あることが分かった。
 次は四谷駅で降りて営団地下鉄に乗り換えたが、そこは数えるのを忘れた。JR四谷駅は旧お堀の底にある。営団 丸の内線もまたお堀の中。地上からみれば地下にあたるが、赤坂見附方面の乗り換えはJRの改札を出るとすぐにあり、階段の上り下りはない。たぶん30数段 だっただろうと思う。

 丸の内線赤坂駅はホームから改札まで32段。地下鉄としては最も浅いところにホームがあると思っていたが、地上に上がるにはさらに階段を42段上がらなくてはならなかった。

 国際平和協会の事務所は元赤坂にあるので、もより駅から約200段、階段を上り下りした勘定になる。往復すると400段。それでも一般的サラリーマンが毎日上り下りする段数よりも少ないのではないかと考えた。

 ちなみに島根県のJR西日本三江線の宇津井駅は高架橋にあり地上から116段の階段があるとどこかのホームページに書いてある。1駅として一番長い階段 があるそうなのだ。また、1998年にJR京都駅ビル大階段駆け上がり大会というのがあったそうで、選手達は段数・171段を駆け上がるのだが、その高低 差35メートルが11階建てビルに相当するのだ。ただここの大階段は伊勢丹で買い物をするためのもので通勤客が毎日上り下りするところではない。171段 がどれだけの高さに相当するかの目安を示したかっただけのことである。

 そう金比羅さんの地獄の階段が1368段であるのを思い出し、サラリーマンの毎日は大変なことなのだといまさらながら感心させられた。もちろん階段の横には大抵エスカレーターが併設されていて実際に上り下りしているわけではない。(伴 武澄)

 『縮み志向の日本』で有名な李御寧先生の講演「韓日中とジャンケン文化」を聞いた。ジャンケン文化については別途書きたい。面白かったのは「飛鳥」をどうして「アスカ」と読むようになったかという説明だった。

 飛鳥は「明日香」とも書く。この場合、だれでも読めるはずであるが、飛鳥はどうして「あすか」なのかずっと疑問に思っていた。

 李先生の解説は以下の通りだった。

 ハングルで飛ぶは「ナルダ」、 日は「ナル」で同音。
 鳥は「セ」、明けるは「セダ」で同音。
 日が明けるの「ナルセ」と飛ぶ鳥の「ナルセ」が同音なのだ。

 香の発音は「コヒャン」
 実は故郷も発音は「コヒャン」。
 明日の郷つまり明日香は「ナルセコヒャン」
 「ナルセコヒャン」を漢字に変換すると「飛鳥郷」となる。

 それが日本語の明日香→アスカ→飛鳥となるのだ。
 本当かどうか分からないが、なんとなく納得させられた。

 余談である。コープこうべ顧問の西義人さんの案内で神戸市内をドライブしていたとき、西さんがぽつりと言った。

三田の九鬼一族が明治の初期にここらの土地を買い占めたんですよ」

 志摩半島にあった九鬼一族が徳川の時代になって三田と綾部に転封された。九鬼の水軍力を恐れた徳川が海のない土地に海賊たちを押し込めたのだ。三田に移った九鬼一族は大きな池を掘って、海戦の訓練を続けたというから海への思いがずっとあった。

 数年前まで三重県にいて熊野水軍の歴史に興味をもっていたから、「なるほど」と合点がいった。神戸の町の発展に熊野水軍遺伝子が色濃く残っているはずなのだ。たまたまネットをみていて、白洲次郎の墓が三田市にあることを知り、白洲次郎から父親の白州文平、祖父の白州退蔵とたどっていくと、白州家は九鬼藩の儒家であったことも分かってきた。その白州退蔵と小寺泰次郎が、幕末の藩政改革に成功しその余勢を駆って神戸に進出したという歴史も明らかになった。そうか、白州次郎には熊野水軍の血が流れていたのだ。

 九鬼家に仕えた小寺泰次郎と白洲退蔵は明治になって、藩主とともに海への回帰事業を始めた。志摩三商会という商社を神戸に設立して、貿易業を営むとともに神戸の土地買い占めに走った。買い占めといえばあまりいい表現ではないが、神戸の発展を見越した才覚は並大抵でない。「ピュリタン開拓赤心社の百年」のサイトに次のように書かれている。

 http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sekisinsya_2/1_1_4_yosidawanman.html

 明治四年、三田藩知事を免じられた九鬼隆義と共に、神戸へ。

 地方代官だった小寺泰次郎は白洲に負けない利に敏い男。廃藩までの短い期間に藩の負債はゼロにし、溜池の修築や新田開発をやった。九鬼、白洲、小寺の主従トリオが活動の場を求めた神戸は、慶応三年暮れに兵庫開港と共に外国人の居留地が設定され、翌明治元年神戸町と改称したばかり。開港以来、五年間は運上所と呼ばれた税関もあったが、まだひなびた漁村。明治五年になって、ようやく地所永代売買が解禁される。地租改正で地価が決まり、士族が土地を買えることになるや、開港場の兵庫村方面の土地に目をつけたのがこのトリオだった。

 土地の先行投資は三人が中心となった志摩三商会がやった。明治十二年に神戸町兵庫村と阪本村を合併して神戸区になる。神戸の海岸から三宮町にかけての外人租界には、外国商人の洋館が立ち並びNHKのドラマ、「風見鶏」の舞台になる。

 そういえば賀川豊彦の父親、賀川純一は神戸で回船業を営んでいた。阿波水軍の血を引いていたのかもしれない。

 伊賀は甲賀とともに忍者の里である。伊賀は律令制度下の伊賀国であるが、甲賀は近江国の一角である。行ってみるまでは実感はないが、ふたつの忍者の里は緩やかな山並みをはさんで南北に隣り合わせている。

 伊賀や甲賀がなぜ忍者の里になったのか、不思議である。忍びというからには、ともに山がちな地形を想像したくなるが、これがそうでもない。伊賀も甲賀も 盆地であり、豊かな田園が広がる。古代からの日本の幹線道である東海道は甲賀のど真ん中を貫き、伊賀の東北部を通る。だから決して人里離れた里ではなかっ た。そうと分かるとなおさら「なぜ」という疑問が強まる。
 忍びのくせにといっては差別的な表現になるが、忍者の親玉と考えられている服部半蔵は元は伊賀の服部一族だ が、三河で徳川家康に仕え、1590年の家康の関東入国後は与力30騎、同心200人を配下に置く8000石の堂々たる地位に上り詰め、江戸城西側の門外 に屋敷を与えられた。江戸城で人名が付いた門は半蔵門しかない。服部半蔵には忍びのイメージはかけらもない。

 伊賀国が歴史上特異なのは戦国大名を持たなかったという点である。伊賀盆地の中央には名張川が流れ、木津川と合流して大阪湾に注ぐ。イメージとして水は 伊勢湾に流れるように思われるが、実は水系を通じて大和朝廷と強い絆を持っていた。しかも盆地の扇状地は大河の氾濫からまぬがれるなど古代においては理想 的な耕作地帯だった。

 古くは東大寺の荘園としてその地盤を築いた。荘園は穀倉だけではなかった。僧兵の供給地でもあった。僧兵がいたからだろうが、武士が育たなかった。その結果、鎌倉以降も地頭や守護による支配がなかったから戦国大名もいなかった。その点で日本では特異な歴史をたどった。

 封建領主がいなかったのはたぶん、僧兵が存在したおかげなのだろうと思っている。僧兵の親分は東大寺で、しかもその東大寺は山を越えたところに厳然としていた。それでも戦国時代には藤林、百地、服部の上忍三家が地侍を配下におき、合議制で伊賀地域を支配した。

 伊賀で面白いのは忍者だけでない。観阿弥、世阿弥という能樂師集団の長を生み、俳句を完成させた松尾芭蕉を育んだ歴史を持つことである。芸能と文学をレ ベルの高い生業に生まれ変わらせたのだからこれは革命である。それも忍びの者が担い手だったという説もあるのだからなおさら興味深い。

 昭和37年、伊賀上野の旧家から「上嶋家文書」の江戸末期の写本が見つかり、観阿弥の父親が服部一族の上嶋元成で、母親は楠木正成の妹だったということ が書かれていた。上嶋文書については偽書であるという説もあるが、観阿弥の子どもの世阿弥は「花伝書」で自らの先祖について「服部一族である」と書いてい るそうだ。楠木正成の甥であるかどうかは別として忍びの一族が旅芸人の猿楽師だったことは間違いない。

 情報の集積が商人集団を生んだことは確実である。近江商人や松阪商人はその典型であろう。古来、街道沿いを往来する人々が情報の運び役となった。政治や 経済だけでなく、各地で起きたこもごもの悲喜劇もその情報に含まれるだろうことを省みると、街道沿いに芸能や文学が生まれたとしても不思議ではない。

 芸能の原点は、村祭りの出し物であろう。踊りや歌に併せて演劇も行われた。その中で秀でたグループが領主に招かれ、さらに選ばれて都にまで足を運んで演 じた集団もあった。時代の為政者のめがねにかなったとなれば、その評判は全国に広がり、それこそ"興行集団"として成り立ったのだろう。

 そんな集団の一つが観阿弥能楽座だったはずである。
 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒 屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じ ていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。
 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまは 九木神社、鬼の字はなくなっている。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織 田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になっ て兵庫の三田と京都の綾部の藩主に転封され、海との縁を切られた。

 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九鬼に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。

 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」 の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。

 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一か ら九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあっ て、順番に一から九まで名を付けられたということだった。

 戸の代表的地名は神戸である。「こうべ」「かんべ」などと読む。神の戸だから神社が所有していた"領地"だった。ちなみに関東から東北にかけて戸のつく 地名は数多くある。まず江戸だ。水戸、松戸、登戸など上げればきりがないが、いずれも「と」と発音し、青森と岩手の「へ」と区別する必要があるのかもしれ ない。

 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであって その水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしても おかしくない。素人考えの続きである。

 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。

 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白川上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白 河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時 代が一定期間続いたのである。

 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶 は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。

 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木 本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。

 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼 という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話 をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうな のである。

 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)

 津市に住んでいたころ、時々行っていた居酒屋に「海賊」という店があった。店の造りはどうみても居酒 屋なのだが、大将は自分のことをシェフと呼ばせていた。店の看板には西洋料理などと書いてあって大将はフランス料理が得意だというのだが、多くの客は信じ ていないからそんな料理は注文しない。

 刺身の後になんとかブイヤベースとかいわれたら一気に酔いが回りそうになる。一度だけ大将が勝手にビーフシチューをつくってくれたことがある。その時はまだビールしか飲んでいなかったから確かにうまかったのだが・・・。
 話したいのは食べ物の話ではない。この大将は尾鷲市の九鬼(くき)という漁村の近くの出身である。氏神さまは 九木神社、鬼の字はなくなっている。九鬼は戦国時代に海将として名を馳せた九鬼義隆の出身地である。九鬼一族は源平の戦いで活躍した熊野水軍の末裔で、織 田信長、豊臣秀吉につかえた。朝鮮戦役では表面に鉄板を張り巡らせた日本丸という名の戦艦をつくり、李舜臣の亀甲船に唯一負けなかった。徳川の時代になっ て兵庫の三田と京都の綾部の藩主に転封され、海との縁を切られた。

 この店を二度目に訪れたのは南アフリカのヨハネスブルグで出会った九鬼さんと飲んだ時である。この九鬼さんは商社マンで、おじいさんの代まで九鬼に住んでいた。九鬼一族の傍系の人であることを聞いていたのでご接待するなら海賊がぴったりだと考えたのである。

 任地に半年も住んでいると地名についてかなり知識を得ることになる。尾鷲から熊野にかけて面白い地名がたくさんあるのだが、僕が関心を持ったのは「鬼」 の名のつく地名だった。三重県だけでも、鬼の名のつく地名は二木浦(二鬼)、三木里(三鬼)、八鬼山(やきやま)、九鬼がある。

 以前、陸前の友だちが岩手県の九戸という村の出身だった。その友だちから、青森から岩手にかけて一戸、二戸、三戸、五戸、六戸、七戸、八戸、九戸と一か ら九まで「戸」の名のつく地名があることを知らされていた。「戸」ってなんだろう。分かったことは平安時代からここらには馬を飼育する牧場がたくさんあっ て、順番に一から九まで名を付けられたということだった。

 戸の代表的地名は神戸である。「こうべ」「かんべ」などと読む。神の戸だから神社が所有していた"領地"だった。ちなみに関東から東北にかけて戸のつく 地名は数多くある。まず江戸だ。水戸、松戸、登戸など上げればきりがないが、いずれも「と」と発音し、青森と岩手の「へ」と区別する必要があるのかもしれ ない。

 熊野は水軍が育った土地柄である。連想で思い付いたのは「戸」(へ)が馬なら「鬼」(き)は船かもしれないということである。水軍が一から九まであって その水軍を熊野別当が統帥していた。つまり戸は陸軍で鬼は海軍ということである。そう考えると鬼の名のつく地名が一から九まで組み合わされていたとしても おかしくない。素人考えの続きである。

 平安時代末期の陸奥は安倍、藤原の天下で、陸奥をなんとか朝廷の支配下に置こうと源義家らが戦った地である。戸と一から九までを組み合わせて地名としたのは源氏方であろうと考えた。先住民が地名に順番をつけるはずがないからである。

 そうなると話は俄然おもしろくなる。熊野水軍はもともとが平家方だった。宮廷で熊野信仰が盛んになるのは白川上皇からで、平清盛と時代を同じくする後白 河法王は熊野に34回も詣でている。朝廷と熊野信仰との蜜月時代である。宮廷の女官らにも熊野に連なる人々が多く輩出し、宮廷-平家-熊野の三位一体の時 代が一定期間続いたのである。

 その熊野水軍が源平の雌雄を決する壇ノ浦の戦いで平家から源氏にくら替えした。これが平家にとって最大の読み違えだった。これは歴史的事実である。弁慶 は熊野別当の湛増の子どもだったという説があって、紀州の田辺市では歴史的事実のように語られている。弁慶が熊野で寝返り工作したはずである。

 繰り返すが鬼の地名にはなんの根拠もない。素人の連想である。熊野市の中心地の木本で当地出身の演歌歌手である紀の川良子さんにその話をしたら、「木 本」(きのもと)はむかし「鬼本」(きのもと)と書いたのだそうだ。さも当たり前のように「だから木本は一鬼よ」というのだ。

 おー、やっぱりそうだったのか。一鬼が見つかってなんとも嬉しかった。木本、二木、三木と続いて、八鬼、九鬼がある。じゃあ四、五、六、七、はどこにあるのだ。住宅地図をなめるようにして調べたがみつからない。

 五鬼だけは見つけた。奈良県十津川村の北山川沿いに前鬼という在所がある。神代の時代、葛城山に住んでいた役小角(えんのおずぬ)が調伏した前鬼と後鬼 という夫婦の末裔が住む集落で、鬼の夫婦には五人の子どもがいて、それぞれ五鬼熊、五鬼童、五鬼上、五鬼助、五鬼継を名乗り、代々修験道の山伏たちの世話 をしてきたが、明治以降になって、五家は五鬼助だけになったという。名字だけではあるが五鬼は存在した。だがこの五鬼はどうやら水軍とは関係がなさそうな のである。

 だれか四、五、六、七の鬼の地名を知っていたら教えてほしい。(伴 武澄)
 2005年02月16日の日記である。まだ公開していない文章を紹介したい。
 日曜日に神島に行こうと決めて、土曜日の午後、近くの書店で三島由紀夫の『潮騒』(新潮文庫)を買った。夜、その本を読みながらインターネットで鳥羽から神島への船便を検索した。

 一周しても一時間足らずの小さな島であるが、午前の便で着いたら、午後3時半にしか帰りの便がないことを知った。どうやって時間も過ごすのだろうと考え たが、行ってみると時間はそう余らなかった。『潮騒』は一夜では読み切れなかったから、鳥羽からの船で続きを読み始めた。連絡船はポンポン蒸気に毛の生え た51トンの小さな船だった。224人乗りの船に客は十数人だった。途中菅島に寄ったら、乗船客は名古屋からのアベックと僕だけになった。
 荷物はけっこうあって、クロネコヤマトの宅急便と郵便マークの入ったずた袋が一緒に運ばれている光景を目にし て、ほほえましかった。連絡船は鳥羽市が経営しているものの、小さな島への荷物では官も民もないのは当然のことと理解しなければならない。郵便局の民営化 でサービスの低下が議論されているが、民営化されたらされたでなんとかなるものなのだ。

 日曜日なのに鳥羽沖には多くの漁船が出ていた。冬の太陽に海がきらきら輝いて漁船の影を映し出していた。太古からこの海域は海の幸に恵まれていた。天照大神が伊勢の地を選んだのも「美味し国」(うましくに)であったと日本書紀に書いてある。

 『潮騒』を読みながら「営み」ということを考えた。人は生きるために精一杯働く時代がつい最近まであった。海の民だって魚を取るのは生業ではなく、その 日の糧を得るのが本来の目的だった。生きる目的などというものを考えるいとまもなく人間は働き続けてきた。生きる術さえ知っていれば家族を養い次の世代を 育むことができた。その繰り返しが「営み」なのである。営みこそが人間にとって一番崇高な行為なのだ。そう書くと話がややこしくなる。「営み」だけがある とだけ言えば簡単でいい。

 船の中で、ただぼんやりとそんなことを考えていた。

 神島の桟橋に着いて、朝飯を食べていないことを思い出した。桟橋に近くに「コンビニでも」と考えたのは多少浅はかだった。神島は漁港の回りにわずかな平 地があって、そこから急な斜面に家がへばりついている。桟橋から見渡しても漁協と郵便局、それと民宿以外に商売らしきものはない。

 通り掛かりの主婦に「パンでも売っている店はないか」問うた。「あそこの岬っていう看板の右手にある」という。行ってみると、半間ほどのガラス戸の中で 雑貨、小間物を売る店があった。賞味期限が翌日に迫っている「クリームスティック」を買って、ついでに「お食事」と書かれた岬ののれんをくぐった。この様 子だと昼飯を食いそびれると心配になったからである。

 中年のおかみが出てきて「1時過ぎなら用意できます」という。 「ちょうどいい、島を一周して戻ってくるから」と答えて島歩きに出発した。船で一緒だったアベックはすでにどこかに消えていた。

 神島の人口は600人。その昔でも1500人程度だったらしい。だから家といっても数百もあるわけでない。家と家はほとんどがひっついていて、わずか1 メートルほどの通路のような坂道が家と家を隔てている。人がすれ違う時はどちらかが立ち止まって避ける。だから島には自家用車はおろか自転車さえも見かけ ない。走る道がないのだ。

 何人かとすれ違って、3人目だったと思う。手にサカキを下げたおばさんが「正月が来るから」と独り言をいったので、「神さまにそなえるのですか」と聞いた。

 おしゃべりはいきなり始まった。

「神島の人たちはみな、平家の落人だから高貴な生まれだ」という話から、「ここの神さまは伊勢神宮よりも古い」だの「江戸時代に漁に出た男たちがしけで全滅して女ばかりになって養子をとった」だの、昔々の話をさも最近の出来事のように話すのが面白かった。

 話が神島で有名な正月のゲータ祭におよんだので「島外からも大勢くるんでしょうな」と聞くと「なーに。民宿の人たちもみんな祭に出るからお客をとれない のよ」と返ってきた。ゲータ祭は正月の未明に行う。見に行くとなれば、そんな時間に船はないから前日から泊まらなければならない。島の人は宿泊客の世話よ り自分たちのお祭りの方が大事らしい。おばさんによれば、商売っ気などはなからないのだそうさ。

 神島の正月は祭が続く。ゲータ祭は元旦の夜明けに、グミの枝を束ねて2メートルほどの輪にした「アワ」を島の男衆が長い竹の棒で持ち上げて落とす珍しい 祭だそうだ。おばさんによれば、過ぎた年の厄を払う行事なのだ。2日になれば漁船が大漁旗を上げて船からお金をばらまく祭があるという。4日は米寿とか喜 寿になったお年寄りが神社の境内でまたお金をまく。だれでも拾っていいのだそうだ。その後、獅子舞もある。さらに6日には弓祭もあるから見に来なさいとい う。山積みされたすす竹・しめ縄・門松などを火にかけ、火の向こう側においた的に矢を射るのだ。

 おばさんとの会話が長くなりそうになったので、失敬して八代神社に向かった。『潮騒』にも出てくる「女坂」を登った。坂といっても家と家の間を縫う狭い 通路のような階段である。神社に向かう境内の200段の階段を登る時は時々、後ろを振り返ると伊勢湾がきれいだと聞いていた。そんなことを思い出し、横の 路地にそれてから正面の男坂にたどり着いた。息を切らして振り返るとなるほど美しい。松の枝越しになんども振り返った。

 伊勢から神島はほとんど見えないが、ここから見る伊勢は存在感がある。というより伊勢湾全体が生活圏だということがよく分かる。
(2005年02月16日)

千日回峰行

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  1978年11月だったと記憶している。酒井雄栽師が千日回峰行を満願するという話を聞いて、深夜に比叡山に上った。しんしんと冷え込む中、多くの信徒が 真言を唱える。不動堂に籠もり9日間、不眠・不臥・断食・断水の荒行を終えて閼伽井の水をくむため堂から出る酒井師の無事な姿をとらえた。目がつぶれるか らとフラッシュが厳禁され、ASA1600の増感現像でようやく酒井師の姿が闇に浮かび上がった。(撮影は伴 武澄)




聖フランシスコの祈り

主よ、
私をあなたの平安の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑あるところに信仰を、
偽りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを求めますように。
私たちは与えるから受け、
ゆるすからゆるされ、
自分を捨て去ることによって、
永遠の命をいただくのですから。


 国宝 仏頭(旧山田寺講堂本尊) 飛鳥時代・7世紀 奈良・興福寺蔵

 山田寺の仏頭にはことさら思い入れがある。大学入試に失敗して浪人していた時、初めて一人で飛鳥周辺を旅したときに出会った。旅の道しるべは岩波新書 『奈良』((直木孝次郎)と高校の日本史教科書の2冊だった。とりあえず教科書に載っている仏像を手掛かりに仏教の旅を始めようと思った。順番で行くと飛 鳥寺の大仏の次に拝観したことになる。

 高校日本史の教師は渡辺忠胤先生だった。まことに達筆な方で、黒板に書く文字も流れるようだった。それだけで授業を受ける価値があった。また先生は歴史 を旅の中の出来事のように解説した。授業を聞いていて、あそこも行きたい、あそこも訪ねたいと思うようになった。筆者の旅好きは多分に渡辺先生の薫陶のお かげと思っている。

 当時、凝っていたのは寺院の「伽藍配置」の意味だった。飛鳥寺方式が一番古く、順に四天王寺、法隆寺、薬師寺 などを覚えた。山田寺跡には巨大な寺院であった証拠の礎石が残っている。ただその石の並びが見たいために山田寺跡を訪れた。その礎石の並びから伽藍配置を 容易に想像できるからである。

 そもそも仏陀は偶像の崇拝を禁止した。キリストもマホメットも同じことを弟子たちに言ったが、守られたのは回教においてだけだった。偶像崇拝を禁止され たインドの初期の仏教徒たちは舎利や仏足跡をおがむようになった。舎利はブッダの骨である。インドでは仏舎利を納めるスツーパが仏教寺院の中核的存在と なった。初期的なスツーパは盛り土や石積みの上に五輪を飾ったものだった。

 やがて盛り土の下に立派な基壇が誕生した。基壇は3段、5段と高くなり、日本では三重塔、五重塔となった。だから日本に伝わった初期の伽藍は「塔」が中 心となった。仏教が哲学的進化を遂げるなかで仏教の信仰は舎利から仏像へと変遷し、仏像を安置する本堂や金堂が伽藍配置の中心となっていく。

 飛鳥、白鳳、天平と日本の仏教建築は発展するが、たかだか100年の変遷史の中で舎利信仰の「塔」中心から塔そのものが「飾り」となる重要な変遷をみることができる。奈良の寺院を訪ねながら、伽藍配置の変遷史に身を置くことができるのが楽しかった。

 この仏頭を本尊とした山田寺は蘇我倉山田石川麻呂の氏寺だった。大化の改新で中大兄皇子、中臣鎌足側についたが、後に謀反の疑いをかけられ自害する。やがて疑いは晴れ、 天武14年(685)に天皇は亡き蘇我倉山田石川麻呂のために山田寺を建立した。

 時代は移り、山田寺の本尊は鎌倉再興期の文治3年(1187)に東金堂本尊薬師如来像として迎えられたが、応永18年(1411)に堂とともに被災。そ の後、行方が分からなくなっていたが、昭和12年に現在の東金堂本尊の台座の中から頭部だけが発見された。応永22年(1415)に再興された現東金堂本 尊台座の中に納められた記録が残っていたため、白鳳仏としての造立年代も明らかにされた。

 少年のような若々しさがいまも伝わり、早熟な大和朝廷の時代背景と重なる造形は筆者自身の青春期の思いとさらに重なる。(伴 武澄)
 日本のお寺で一番古い飛鳥寺の本尊、飛鳥大仏(金銅丈六釈迦如来像)の開眼1400年を記念した供養が8日行われた。

 飛鳥大仏 歴史見つめ1400年-飛鳥寺で慶讃法要 【奈良新聞】
 
 興福寺博物館にある旧山田寺講堂本尊の「興福寺仏頭」と ともに、日本最古の仏像に属する。筆者が初めて一人旅して拝んだ仏像としてその後も折りに触れて何度も尊顔を拝してきた。

 1400年前ということは、飛鳥寺が創建されたのは西暦609年ということになる。4月8日に開眼供養があったとされる。推古天皇の時代、604 年。まだ朝廷に年号はなかったから、推古17年。前年に聖徳太子が摂政となり、十七カ条の憲法が制定され、607年には小野妹子が遣隋使として派遣され た。日本国家の黎明期である。新しい国家づくりに仏教の教えが積極的に導入された時代でもある。
 飛鳥。白鳳の仏像は威厳のある奈良時代の仏像と違って、どれも童顔である。技術的に荒削りだった時代でもあり、なんとも親しみがある。ヘレニズムの流れを受けた穏やかな笑みを浮かべたアルカイックスマイルがなんとも言えない。

 この時代、仏像といえば青銅や金銅などで鋳造された。木造が主流となるのはずっと後のことである。日本で銅はまだ採掘されていなかったから、銅そのものも舶来品で、はるばる朝鮮半島から運ばれたはずである。貴重な素材でつくられた仏像はそれこそ大事にされたに違いない。

 飛鳥大仏は大仏とはいっても、東大寺や鎌倉の大仏のように巨大ではない。小さな堂内にすっぽりおさまる丈六(2・75m)。渡来人の仏師、鞍作鳥(くら つくりのとり)の作と伝えられる。明治の言葉で言えば「お雇い外国人」となるのだろうが、国の枠組み意識が希薄だった時代でもあるからが、百済や新羅は現 在でいう"外国"ではなかったもかもしれない。

 それにしても1400年は長い。源氏物語も古いがそれよりさらに400年前。いまから400年前といえば、徳川家康が幕府を開いた直後のことである。そんなことを考えると、簡単に1400年などとは言えない。

 筆者が最初に訪れたのはたった36年前のことだが、日本はまだまだのんびりしていた。飛鳥寺からたんぼの中の入鹿首塚に出ると、れんげの花じゅうたんが一面に広がっていた。

 ずっと同じ場所に、同じ飛鳥の大仏が座している。それだけで偉大なことではないか。
 吉岡幸雄著『日本人の愛した色』(新潮選書)を読んで、日本の色を一つひとつ自分のものとして覚える楽しみが増えた。

 江戸時代、贅沢を禁止され、灰色や茶色といった地味な色合いの服地の着用を余儀なくされた町民たちが目指した粋の先に微妙な変化の色彩文化が育まれた。

 百もの鼠色の違いが分かるのかと問われても答えようがない。しかし、「桜鼠」(さくらねず)と書かれるとなるほどイメージがわくではないか。

 茶色では「利休色」、「藍墨茶」。利休の着用していた帽子の色なのか。茶色に一滴、藍を落とした色ではないか。想像をたくましくすることができる。

桜 鼠 利休色 藍墨茶
 たくさんの色を並べて見るのは楽しいことだ。子ども時代に色鉛筆のセットは12色あった。ぜいたくなセットは24色だった。たくさんの色鉛筆を持つことが楽しかった。本物の色の違いを見比べるのも楽しいが、言葉の上で色を思い浮かべるのも実は悪くない。

PN2008030301000405.-.-.CI0002.jpg ここからは蛇足。コンピューターは何百万もの色を表現することができる。ウエブで日本の色を表現できたらと考えた。1000足らずの日本の色を表現するのは難しいことではないはずだ。瞬時にそう思った。が、おっとどっこいそう簡単に問屋はおろしてくれなかった。

 日本の色の見本を見せるウエブページはいくつも見つかった。それらのページをたんねんに見ていって、ウエブにはすでに限界があることを知らされた。

 東雲色(しののめいろ)と曙色(あけぼのいろ)の色表示コードはともに「#f19072」。紅掛空色(べにかけそらいろ)と紅碧(べにみどり)もともに 「#8491c3」であることが分かった。色表示コードは6桁、アルファベットのa-fと数字の1-10で表示するから数十万の組み合わせがあるはずだ が、日本の色の微妙な違いを表現できないのである。

東雲色 曙色 紅掛空色 紅碧
 数年前、伊勢に赴任が決まった時、友人の平岩優さんが一冊の本をくれた。明治期、日本語の礎を築いた碩学、大槻文彦の生涯を描いた『言葉の海へ』(高田宏著、新潮文庫)だった。言葉の意50音順に並べた初の国語辞書『言海』を編集した人物との紹介があった。

 藩に分かれ統一的言語を持たなかった当時の日本で、近代国家として言語の統一の必要性を訴え続けた。『言海』の出版会には、元老の伊藤博文以下、明治政 府の歴々が参集したというから、その出版の意義はほとんど国家的大事業に値したのだろう。

 50音順の辞書が生まれたことに対して、福沢諭吉は「いろは」があるのにと不快感を示し、出版会に出席しなかったというから、これはこれでおもしろい。

 後世の政治家や学識者たちは、この国のかたちについて易々と「単一民族、単一言語」などと語っているが、日本語辞書『言海』編集を通じて日本語、国語と いう概念、スタンダードを構築してくれた明治の碩学に、われわれは相当な感謝の念を持たなければならない。そんな思いに浸ったことを思い出している。

『言海』を思い出したのにはわけがある。江戸中期に藤堂津藩にも一人の碩学がいた。谷川士清という。松阪には本居宣長がいて、後世、国学者として有名になったが、谷川士清は日本史の中でほとんど言及されたことがない。

 津に住んで、50音順の国語辞書を"発案"したのは大槻文彦ではなく、谷川士清だったことを知った。津城下の医師の家を継いだ士清は京都で国学に目覚 め、『日本書紀通証』という日本書紀の解説書を書いた。日本書紀に出てくる言葉の語源や意味をカードに書き連ねていくうちに「あいうえお」順に並べた辞書 を編纂したのだった。

 市内に残る、谷川士清の旧宅は現在、津市が管理して一般公開しているが、そこに保存されている『日本書紀通証』付録の和語通音図表を眺めているうちに 「これは大変な発見」だと気付いた。われわれが小学校で最初に学んだ「あいうえお」の図表がそのままあった。違うのは「オ」と「ヲ」の位置が逆になってい ることだけだ。

 士清のすごさは、この「あいうえを」の図表を「動詞の活用表」と位置付けたことだった。いまでいう「五段活用動詞」(未然形、運用形、終止形、連体形、已然形、命令形)なのだ。

 『和訓栞』という93巻にわたる辞書は士清の生存中に出版が始まったが、第一巻が世に出たのは亡くなった翌年の安永6年(1777年)のことだった。出 版は遺族たちに委ねられ連綿と続いた。なんと最後の出版が行われたのが、明治20年だったから、110年以上にわたる大辞書編纂事業が谷川一族4代にわ たって行われたことになる。

 そうなると『言海』を編纂した大槻文彦は当然、『和訓栞』のことを知っていたはずであるが、残念なことに高田宏著『言葉の海』に谷川士清のことは一切言及がない。
 4月17日、半休を取って静岡市に向かった。京都の知人から連絡があり、上賀茂神社から140年ぶりの葵使が久能山東照宮にフタバアオイを献上するから参加しないかと誘われた。17日は徳川家康の命日で、毎年全国の徳川ゆかりの人々が集まる御例祭の日だった。

 東照宮は日光が本家だと思っていたが、実は久能山が本家なのだ。久能山には家康の墓があり、日光の東照宮は久能山から分霊されたものであることを初めて知った。葵使は「家康の命で1610(慶長15)年、上賀茂神社に自生していたフタバアオイを駿府城へ献上したのが始まり」。その後は江戸城にも献上していた。

 明治維新で幕府が崩壊し、葵使もなくなった。上賀茂神社などがフタバアオイを平和や環境のシンボルとして復活させようと話し合う中で、江戸城への行程を記した古文書が見つかったことが分かり、神社と「京都紫野ローターアクトクラブ」などが復活を企画した。

 来年の日本でのサミット開催地は北海道の洞爺湖に決まったが、京都は最も有力な候補地だった。たぶん警備を最優先して洞爺湖のホテルに決まったのだろうと思う。もし京都での開催となっていれば、主要国の首脳に子どもたちが育てたフタバアオイを"献上"しようという構想も一部であった。

 賀茂川上流一帯に群生していたフタバアオイがほとんどなくなってしまったのは、開発が原因とされている。もともと清流を好む植物なので川の汚れに耐え切れなくなったのだろう。京都は1997年に世界環境サミットが開かれ二酸化炭素の削減を求めた「京都議定書」を締結した地。地球的環境問題の"メッカ"的存在となっている。フタバアオイに込められたメッセージは「環境」なのだ。

 その京都のフタバアオイが持つメッセージを世界に広めたいとするのが「葵プロジェクト」の一面でもある。洞爺湖でのサミット開催で各国首脳へのメッセージ伝達は不可能となったが、プロジェクトは終わったわけではない。始まったばかりである。息の長い運動を全国に広げてもらいたいと思う。
1999年01月21日(木)萬晩報主宰 伴 武澄

 京都の西部に松尾神社にいたとき、後ろの方でお父さんが子どもに誇らしげに語りかけていた韓国人の会話が聞こえてきた。

 「この神社は京都でも由緒ある神社で、大昔このあたりに住んでいた秦氏が祀っていたんだよ。秦氏というのは韓国からやってきた渡来人たちだから、松尾神社は韓国の神様でもあるんだ」

 そのむかし、西日本から朝鮮半島の南部にかけて同じような風俗を持ち同じような言葉を話していた人々が住んでいた。当時の歴史を知る上でそう考えると分かりやすいことになる。故司馬遼太郎氏はそんなことを「街道をゆく」の中で書いていた。

 中世以降の日本で影響力を誇った重要な神社が関西に6つあり、そのうちの5つが京都にある。賀茂、松尾、八坂、稲荷、石清水八幡宮。あとひとつは奈良の春日大社である。

 桓武天皇が京都に新しい都を建設したとき、いまの京都盆地である山城国葛野(かどの)に勢力を張っていた のが、賀茂氏と秦氏だった。三方を山に囲まれた葛野の地には二つの水系が支配していた。賀茂川と桂川だ。二つの川は京都の南で合流、さらに南方で琵琶湖か らの宇治川(上流は瀬田川)と奈良から来る木津川と一緒になり、淀の大流となって瀬戸内海に注ぐ。

 ちなみに賀茂川と桂川の合流地点には巨大な水がめがあり、葛野の西半分は湿地地帯でもあったのだ。賀茂川 は当時、現在の堀川を流れていて、この流域の北東部を支配していたのが賀茂氏で、西部を抑えていたのが秦氏であった。賀茂神社は字のごとく賀茂氏が祀って いた神様で、松尾神社の方は秦氏の祭神。秦氏はのちに豊穣を祈って伏見に稲荷大社を祀った。伏見稲荷である。

 だから5つの重要な神社のうち、2つが渡来系の神さまということになる。西日本には朝鮮半島からの渡来人に由来をたどる多くの地名が残っているから、いまさらどうしたということになる。

 神社のルーツや皇室の起源を朝鮮関東に求める歴史家も多くいるぐらいだから、それこそ古代史の素人がいまさらなんだ、とのそしりを免れないが、韓国人が「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」と語っていた会話に言いも言われぬ思いがこみ上げてきた。

 太古に同じような信仰をしていた人々が同じ中国の影響を受けながら片や儒教一辺倒の国家になり、もう片方 は神仏混合へと向かい、まったく異なった国民性を育んでいった。その神仏混合の国が明治維新で神社信仰に里帰りし、満州民族が支配していた清国と朝鮮半島 の領有を競った。

 神仏混合の国はやがて儒教の国を併合し、神道でひとつの国にまとめようとした。古来、民族の興亡に宗教が複雑に関わっていた。支配された民族は必ずと言っていいほど被支配民族の宗教を強要された。だから神道の国も同じようにしようとした。

 だが、儒教の国の人々を神道で染める作業は失敗した。失敗どころか逆に「恨」の念を植え付けてしまった。1500年の歴史はそれぞれに異なる風俗と言葉をもたらし、食生活にいたるまでまったく違う民族を生み出していたのだった。

 「松尾神社が韓国の神さまでもあるんだ」という会話はそんな長い歴史を飛び越えて、故司馬遼太郎氏が表現した太古の日本と朝鮮半島の世界に私をタイムスリップさせてくれたような気がした。

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