書評: 2008年12月アーカイブ

 有馬頼寧(ありま よりやす=1884(明治17)-1957(昭和32)=政治家、農林大臣)

 山本一生『恋と伯爵大正デモクラシー』(日本経済出版社、2007年9月17日)を読んだ。有馬頼寧の物語である。頼寧は旧筑後久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京で生まれた。母親は岩倉具視の娘、妻は貞子は皇室の血を受けている。なんともハイソな家柄だった。

 有馬頼寧に興味を持ったのは理由は二つある。第一は賀川豊彦が戦後すぐにつくった財団法人国際平和協会の理事だったこと。第二は何げなく「聖蹟桜ケ丘」の地名を調べていたら、三条実美公が浅草の橋場というところに住んでいたことがわかり、その橋場に有馬家の本家もあって、労働者のための夜学校をつくって社会貢献したことを知ったからでもあった。

 何でハイソな方々が下町浅草などに住んでいたのだろう。いやいや江戸時代から隅田川は桜の名所として知られ、風光明媚なところとして大名や商家の別荘が多くあった。明治になると元勲たちも競って橋場に居を構えた。実美公は病気がちだったため、明治天皇が度々、見舞いに行った。後に隅田川にかかる橋の工事のため、実美公の邸宅は現在の京王線沿線に移築され、ことから「桜ヶ丘」に「聖蹟」の名が付いたという。

 冒頭から話がそれた。話を頼寧に戻そう。学習院中等科を経て東京帝国大学農科を卒業した。伝記などによれば、華族の子弟は学習院に通うものとされ、帝大にも華族のための枠があったから東大卒といっても秀才だったわけではない。その後、農商務省に入るが、これも高等文官試験に受かったのではなかったが、大学、農商務省の人脈は生涯を通じて続く。その後は帝大で教鞭をとった。

 有馬の名前が残っているのは競馬有馬記念である。父頼万の死後、貴族院議員となり、昭和12年、第一次近衛内閣の農相に就任、その後も近衛文麿と政治生命を共にし、大政翼賛会事務総長となった。そうした政治家と別の一面も持っていた。

 頼寧は大正8年、橋場の邸宅の敷地内に労働者のための夜間学校「信愛学院」を開校した。博愛主義者としての側面もみえてきた。信愛学院の入学条件はただ一つ、「昼間働いていること」で、15、6歳の若者から40歳代のさまざまな年齢層の生徒が通ったという。信愛学院は共産主義のレッテルをはられ、昭和16年に廃校の追い込まれた。

 華族でありながら、華族制度を批判するなど正義と博愛精神を生涯持ち続けた。気さくな性格で「伯爵でしたけれど、まったく偉ぶらない人でね、貧乏人でも何でも気軽に口をきいてくれる人でしたよ。だから関東大震災でみんな焼け出された時なんかでも、すぐに炊き出しをしておにぎりなんかを出してくれたり、罹災者に配ってくれたりして本当に人情の温かい人でしたよ」というような逸話も残っている。

 東京帝国大学夜間学校のほか、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐など右から左まで幅広い人脈を築いた。戦前はプロ野球球団、東京セネターズ日本ハムの前身)のオーナーでもあった。農業研究家として農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。地元の久留米市には久留米昭和高等女学校を設立し、女子の教育にも力を尽くした。

 賀川豊彦との強い結びつきはいつからなのか、分からない。賀川が農民組合を結成したときには、頼寧も参画しているから、1921年の前であるはずだ。

 神谷秀樹『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春文庫、2008年10月)

 タイトルの通り、ウォール街は自爆した。元々、投資銀行はお金持ちの投資の相談を請けおって手数料で生きてきた。アメリカのビッグバンで90年代に銀行と証券の垣根をつくっていたグラス・スティーガル法がなくなり、自由な参入競争が起きた。
 自由な競争は大歓迎だが、投資銀行の企業行動に大きな変化が起きた。まず、自らの勘定で投資に打って出るよう になったことが第一。人さまのお金を集めて運用し、巨額の運用手数料を得ることを学んだ。もうかるのは手数料だけではなかった。トレーダーたちは「成功報 酬」として運用実績の2割だとか3割を手にすることを覚えた。

 投資金額が大きくなれば、手数料だけでもばくだいな金額になる。手数料だから、たとえ「損失」が出てもこれはいただける。おいしい商売である。これは基 本的に投資銀行自体に入る。これに自らの勘定による投資が加わった。銀行もトレーダーも運用実績が上がれば、「成功報酬が上がり、ともに潤う。

 問題はこれから先だ。「損失」が出た場合、トレーダーは首になるだけで、金銭的損失は被らない。しかし、銀行にとっては大変なことになる。

第二の変化も重要だ。ゴールドマン・サックスなど多くの投資銀行は経営者(株主)が「無限責任」を負うパートナーだったが、90年代に入り、有限責任の株 式会社に転向した。小規模経営だった80年代までは多くの資本を必要としなかったが、自ら投資を行う場合、取り扱い資産が巨額化し、それに伴って自己資本 の増強が不可欠だったことは確かだが、経営の根幹は「無限責任」から「有限責任」へと180度も変わっていた。

投資銀行が巨額の損失をこうむっても、経営者は過去の収入にまで手を入れられることはなくなっていた。これは大きな変化というか、モラル・ハザードを起こしやすい経営になっていたということである。

「きょうの利益は僕のもの、明日の損失は君のもの」という著者の"格言"はまさにそんな投資銀行の変貌から起こり得るべくして起こった。(伴 武澄)

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