書評の最近のブログ記事

shisenwokoete.JPG 内田樹『日本辺境論』(新潮新書)の中で学んだのは、エンゲルスが『空想から科学』で三人のユートピアン(空想的社会主義者)を描き、その中でロバート・オーエンはその一人としていることである。

 「ヨーロッパ思想史が教えてくれるのは、社会の根源的変革が必要なとき、最初に登場するのはまだ誰も実現したことのないようなタイプの理想社会を今ここで実現しようとする強靭な意志をもった人々です」「その人たちの身銭を切った実験の後、累々たる思想的死骸の上にはじめて風雲に耐えそうなタフな社会理論が登場してくる」「日本の世界に向けて教化的メッセージを発信した例を私は知りません」

 読んでいて思い出したのは賀川豊彦である。賀川に対してこういう分析を与えればぴったりくる。世界に向けて教化的メッセージを発信した唯一無二の日本人ということができよう。

 賀川の業績の一つはスラムにおける救貧活動である。キリスト教による救霊からはじまり、幼児教育、医療活動に進み、労働運動にまで発展。その後の社会事業のコングロマリットの発想の原点となった十数年をそのスラムで過ごした。「いま、最もキリストに近い人」と言わしめ、キリスト教の世界では誰もが納得した。

 もう一つは彼の社会事業の中核となった協同組合運動の著書『Brotherhood Economics』を1936年にニューヨークのHarper社から出版したこと。協同組合を社会論として構築しただけでなく、それを国家論、世界論にまで高めた。21世紀になっても世界連邦は夢物語としてしかとらえられていない。その世界連邦を協同組合で構築しようという壮大なロマンが1930年代に賀川によって語られていたことは伝えられ続けなければならない。

 そういう意味でスラムでの苦悩を描いた私小説『死線を越えて』(Before the Dawn)は世界的な文学であり、『Brotherhood Economics』は世界的な経済書になるのだと考えたい。


  共同通信時代に47NEWSで一緒に仕事をした鳥井良二があるとき、「相談があるんですが」といってお茶に誘われた。お酒だったかもしれない。そこらはよ く覚えていないが「小説を書いたんですが、読んでくれますか」というので驚いた。鳥井はシステム屋さんなのだ。そちらの方面では会社で評価されていたのだ ろう、ボストンのMITに留学を許されていたぐらいだったから。その方面では一目は置いていたが、その鳥井がまさか小説までかくとは思わなかった。

 家に帰ってもらったワードの文章を一気に読んだ。翌日だったか「面白かった」と返事した。鳥井の文章を読んでいた思い出したのが井上ひさしの学園小説 『モッキンポット氏の後始末』だった。井上ひさしが自らの生い立ちに重ね合わせた小説で、上智大学で世話になっていた神父さまをいたずらで困らせながらも 慕っていく青春を描いていた。
 万城目学の『鴨川ホルモー』もまた学園物だが、こちらは「オニ」を主題にしている。いたずらというか京都に住む「オニ」たちに翻弄される学生たちの物語でとても新鮮な面白さがあったが、鳥井の場合は韓国人の神父が運営するある町のミッション学校での出来事が語られる。

 ここらがけっこうポイントだと感じた。日本人の生徒と韓国人神父との間に違和感がない。それから日系ブラジル人チームとサッカーの試合をする場面もあって、時代を映す鏡ともなっている。

 小説としてはほかに意外な展開は少ないが、随所で笑え、泣かせる。さわやか系でもある。数学の面白さ、とくに素数のなどがでてきたり、学園でミニFM局を始めたりするところなどにシステム屋さんの発想もある。

 4年前に読んだ原稿より数段洗練されているのは、何年もかかって推敲を重ねた結果だろうか。当時、小生も「小説は素人だけど、話の展開をこうしたらどう か」などへたなアドバイスをしたこともあって、本屋さんから出版されたことはとてもうれしく感じている。1470円は高いか安いか・・・、少なくとも小生 は高くはないと思う。(伴 武澄)

 セルジュ・ミッシェル、ミッシェル・ブーレ共著の「アフリカを食い荒らす中国」という刺激的なタイトルの本を読んだ。フランス語では「シノフリーク」、「中華アフリカ」とでもいうらしい。一時いわれたジャパメリカみたいな表現だ。

 中国勢のアフリカ進出については、断片的な知識はあったが、この本を読んで、その規模の大きさ、ダイナミズムに圧倒された。

 アフリカでの中国は豊かさと貧しさをともに持つがゆえの強さが、遺憾なく発揮されている。豊かさが持つ資金力、そして食うためには地球の果てまでも出稼ぎにゆくという貧しさである。
 現在、中国はアフリカの資源開発の見返りとして、多くの巨大プロジェクトへの協力を実行している。すざましい のは、労働力さえも中国から輸出する様である。アフリカの労働者と変わらない賃金で何万人もの中国人労働者が海を渡っている。1世紀以上も前に、アフリカ 人奴隷に変わって中国人クーリーがアメリカの鉄道工事に、オーストラリアの金鉱にと世界中に売られていった。世界中の華僑社会はその子孫たちによって築か れている。

 クーリー時代に次ぐ第二世代目の大量移動が始まったとみていいのかもしれない。アフリカにはすでに80万人の中国人がいるのだというからすごい。むかし からある南アフリカの華僑社会が20ー30万人というから、差し引いて50万人もの中国人が産業もなにもなかったアフリカに渡っているのだ。在日中国人は 50万人といわれるが、日本は巨大な産業立国なのである。

 その50万人の中国人たちがまさに今もアフリカで生業を創造しているのだと考えるとそれだけで大きなインパクトであるはずだ。欧米人もアフリカに権益を 求めてきたが、少数の欧米人がアフリカ人の上に君臨するかたちで「統治」してきた。中国人の場合は売春婦までもが数百人単位で各都市に進出しているのだか ら、その存在感は目を見張るものがある。

 中国人たちはすでにアフリカの環境を破壊しつつあることも事実である。コンゴーの国立公園内で樹齢100年以上の熱帯雨林が伐採され続けている。しかし数十年前に日本人がボルネオの熱帯樹林を裸にしてきたという歴史がある。

 アフリカに進出した中国企業が現地労働者を人間扱いしないことから、さまざまな問題を起こし、反中国感情の高まりも相当でてきているという。しかし数十年前、東南アジアで反日暴動が起きた事実も思い起こしてほしい。

 日本は環境破壊も現地の反発も乗り越えた。アジアの経済的発展は結局、製造業の進出による技術伝播、労働者の生活向上、多くの要素がスパイラル状に影響しあってもたらされたことは間違いない。

 日本の経済進出がアジアに豊かさをもたらしたのだが、それはあくまで結果論でしかない。日本企業はアジアを豊かにしようとして進出したのではない。安い労働力を求めたにすぎない。だから恩を売るような言い方をしてはいけない。

 しかし、受け入れ国側もまた、中国に反発するあまり中国資本の撤退を招いたのでは元も子もない。成長の波に乗るまでは我慢が不可欠であろう。(伴 武澄)

 神戸プロジェクトのシンポジウムが近づき、遅まきながらムハマド・ユヌス氏の著書2冊を読んだ。10年ほどまえの『ムハマド・ユヌス』と昨年出版されたその続編ともいえる『貧困のない世界を創る』。ともに猪熊弘子が翻訳し、早川書房が出版した。

 読み終えてまさに90年前の賀川豊彦が眼前に復活した。バングラデシュが独立して、留学先のアメリカから帰国したユヌス氏は母校のチッタゴン大学経済学部長に迎えられたが、近隣の貧しい農村の実態を放置できずに象牙の塔を抜け出した。神戸神学校から新川スラムに移り住んだ青年、賀川豊彦は肺病を悩みながら残り少ない人生をならば貧しい人々とともに暮らそうと決断した。動機は違うが、「救貧」があり「防貧」が続く。

 グラミン銀行が行うマイクロクレジットは賀川が関東大震災後に本所に設立した中ノ郷質庫信用組合の 発想と生き写しなのだ。貧しい人に金を貸すことが無謀だと考えられていた時代に、鍋釜を質にとれば、夕方必ず必要になるから借金は必ず返済されるとの信念 通り、中ノ郷は貧しい人々のかけがえのないよりどころとなった。グラミンもまた同じ発想で返済率97%を誇る銀行として発展したいるのだ。(伴 武澄)

 有馬頼寧(ありま よりやす=1884(明治17)-1957(昭和32)=政治家、農林大臣)

 山本一生『恋と伯爵大正デモクラシー』(日本経済出版社、2007年9月17日)を読んだ。有馬頼寧の物語である。頼寧は旧筑後久留米藩主有馬家当主で伯爵有馬頼万の長男として東京で生まれた。母親は岩倉具視の娘、妻は貞子は皇室の血を受けている。なんともハイソな家柄だった。

 有馬頼寧に興味を持ったのは理由は二つある。第一は賀川豊彦が戦後すぐにつくった財団法人国際平和協会の理事だったこと。第二は何げなく「聖蹟桜ケ丘」の地名を調べていたら、三条実美公が浅草の橋場というところに住んでいたことがわかり、その橋場に有馬家の本家もあって、労働者のための夜学校をつくって社会貢献したことを知ったからでもあった。

 何でハイソな方々が下町浅草などに住んでいたのだろう。いやいや江戸時代から隅田川は桜の名所として知られ、風光明媚なところとして大名や商家の別荘が多くあった。明治になると元勲たちも競って橋場に居を構えた。実美公は病気がちだったため、明治天皇が度々、見舞いに行った。後に隅田川にかかる橋の工事のため、実美公の邸宅は現在の京王線沿線に移築され、ことから「桜ヶ丘」に「聖蹟」の名が付いたという。

 冒頭から話がそれた。話を頼寧に戻そう。学習院中等科を経て東京帝国大学農科を卒業した。伝記などによれば、華族の子弟は学習院に通うものとされ、帝大にも華族のための枠があったから東大卒といっても秀才だったわけではない。その後、農商務省に入るが、これも高等文官試験に受かったのではなかったが、大学、農商務省の人脈は生涯を通じて続く。その後は帝大で教鞭をとった。

 有馬の名前が残っているのは競馬有馬記念である。父頼万の死後、貴族院議員となり、昭和12年、第一次近衛内閣の農相に就任、その後も近衛文麿と政治生命を共にし、大政翼賛会事務総長となった。そうした政治家と別の一面も持っていた。

 頼寧は大正8年、橋場の邸宅の敷地内に労働者のための夜間学校「信愛学院」を開校した。博愛主義者としての側面もみえてきた。信愛学院の入学条件はただ一つ、「昼間働いていること」で、15、6歳の若者から40歳代のさまざまな年齢層の生徒が通ったという。信愛学院は共産主義のレッテルをはられ、昭和16年に廃校の追い込まれた。

 華族でありながら、華族制度を批判するなど正義と博愛精神を生涯持ち続けた。気さくな性格で「伯爵でしたけれど、まったく偉ぶらない人でね、貧乏人でも何でも気軽に口をきいてくれる人でしたよ。だから関東大震災でみんな焼け出された時なんかでも、すぐに炊き出しをしておにぎりなんかを出してくれたり、罹災者に配ってくれたりして本当に人情の温かい人でしたよ」というような逸話も残っている。

 東京帝国大学夜間学校のほか、女子教育、農民の救済や部落解放運動、震災義捐など右から左まで幅広い人脈を築いた。戦前はプロ野球球団、東京セネターズ日本ハムの前身)のオーナーでもあった。農業研究家として農山漁村文化協会の初代会長や日本農民組合の創立にも関わった。地元の久留米市には久留米昭和高等女学校を設立し、女子の教育にも力を尽くした。

 賀川豊彦との強い結びつきはいつからなのか、分からない。賀川が農民組合を結成したときには、頼寧も参画しているから、1921年の前であるはずだ。

 神谷秀樹『強欲資本主義 ウォール街の自爆』(文春文庫、2008年10月)

 タイトルの通り、ウォール街は自爆した。元々、投資銀行はお金持ちの投資の相談を請けおって手数料で生きてきた。アメリカのビッグバンで90年代に銀行と証券の垣根をつくっていたグラス・スティーガル法がなくなり、自由な参入競争が起きた。
 自由な競争は大歓迎だが、投資銀行の企業行動に大きな変化が起きた。まず、自らの勘定で投資に打って出るよう になったことが第一。人さまのお金を集めて運用し、巨額の運用手数料を得ることを学んだ。もうかるのは手数料だけではなかった。トレーダーたちは「成功報 酬」として運用実績の2割だとか3割を手にすることを覚えた。

 投資金額が大きくなれば、手数料だけでもばくだいな金額になる。手数料だから、たとえ「損失」が出てもこれはいただける。おいしい商売である。これは基 本的に投資銀行自体に入る。これに自らの勘定による投資が加わった。銀行もトレーダーも運用実績が上がれば、「成功報酬が上がり、ともに潤う。

 問題はこれから先だ。「損失」が出た場合、トレーダーは首になるだけで、金銭的損失は被らない。しかし、銀行にとっては大変なことになる。

第二の変化も重要だ。ゴールドマン・サックスなど多くの投資銀行は経営者(株主)が「無限責任」を負うパートナーだったが、90年代に入り、有限責任の株 式会社に転向した。小規模経営だった80年代までは多くの資本を必要としなかったが、自ら投資を行う場合、取り扱い資産が巨額化し、それに伴って自己資本 の増強が不可欠だったことは確かだが、経営の根幹は「無限責任」から「有限責任」へと180度も変わっていた。

投資銀行が巨額の損失をこうむっても、経営者は過去の収入にまで手を入れられることはなくなっていた。これは大きな変化というか、モラル・ハザードを起こしやすい経営になっていたということである。

「きょうの利益は僕のもの、明日の損失は君のもの」という著者の"格言"はまさにそんな投資銀行の変貌から起こり得るべくして起こった。(伴 武澄)
『ソーセージ物語 ハム・ソーセージをひろめた大木市蔵伝』
(増田和彦著  2002年03月 ブレーン出版 四六判 1575円)

 日本のハム・ソーセージの歴史にはどうやら2つのルーツがあるようだ。一つは横浜、もう一つは徳島の坂東である。後者は第一次大戦でドイツ人捕虜を収容 した地。日本で最初にベートーベンの第九が演奏されたことでも知られ、捕虜たちがハム・ソーセージづくりを始め、その技術が徳島ハム(現日本ハム)に継承 された。

 横浜の方もドイツ人が関わる。横浜に居住する西洋人たちのためにハム・ソーセージ製造が始まった。ドイツ人技術者からハム・ソーセージの製造技術を伝授されたのは千葉の農家からやってきた大木市蔵という青年だった。
 『ソーセージ物語』はこの大木市蔵の生涯を描いた。外国人にハム製品を売るかたわら、東大生・農大生はじめ日本中に技術を教え歩いた。消費者に加工品の歴史と技術者・業界の努力を伝える書。

 日本特有の魚肉ソーセージがある。戦後の食料難の時代に登場した。大木は「ソーセージ」として認められないと反対したが、これが多くの国民に受け入れら れてしまった。日本各地で魚肉をペースト状にして揚げる「テンプラ」があった。これを腸詰めにしたのが魚肉ソーセージなのだが、肉のソーセージを食べたこ とのない子どもたちはその「まがい物」をソーセージとして受け入れてしまったのかもしれない。
  アフガニスタン東部で日本の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」(本部・福岡市)の伊藤和也さん(31)=静岡県掛川市出身=が武装グループに拉致さ れ8月27日に遺体で発見された事件をきっかけにペシャワール会の中村哲著『アフガニスタンの診療所から』(ちくま文庫)を読み直した。

 ソ連のアフガン支配の時代から、ソ連軍撤退そして部族対立の時代にペシャワールで診療所を営み、アフガンにまで医療事業を広げていた中村さんの物語はわ れわれに国際協力の難しさを訴える。米ソ、そして先進国が自らの理念を押しつけて途上国の経済社会をズタズタに切り裂いてきた歴史を悲壮なまでの想いで 綴っている。(伴 武澄)
 なんともやるせない想いにさせられる。その前に読んだ小板橋二郎著『ふるさとは貧民窟(スラム)なりき』の後書きで小板橋氏は「テロ」という表現が安易に使われすぎていると批判していた。そもそもマスコミが書く「テロ」は「レジスタンス」と呼ぶべきものだと主張する。

 その通りである。いまイラクやアフガンで起きていることはレジスタンスなのだ。そんな基本的なことをあらためて思い知らされた。

 2003年、圧倒的軍事力を持つアメリカが9・11事件の首謀者ビンラディンを支援したとしてアフガンを徹底的に攻撃する。戦争には宣戦布告が必要だ が、テロ撲滅にはそんなものはいらないとばかりにこれでもかと空爆を続ける。アフガン空爆の当時、アメリカに対して「プロレスラーが悪ガキに本気になって 殴りつけている」という印象を持ったことも思い出した。

 アフガンは空軍も海軍も持っていない。初めから制海権と制空権を確保する戦争は簡単だ。世界の世論を味方につけて「正義は我にあり」とばかりに痛めつけるさまは」とても正気とは思えなかった。

 確かラムズフェルド国防長官が「アフガンを石器時代に戻してやる」と息巻いたことに対して、アフガン側から「アフガンはすでにソ連によって石器時代に戻っている」と語ったことがニュースで伝えられた。

 そのアフガンは1978年から戦争が続いているのだ。そのとばっちりで、隣国のパキスタンは30年来ほぼ一貫して軍政を余儀なくされている。1960年 代、パキスタンを訪れた。アフガンには王様がいた、イランも王制だった。アジア・ハイウエイと呼ばれたインドとヨーロッパをつなぐ回廊には大型トラックが 西へ東へと人や物を運んでいた。平和だった。パキスタンとアフガンの国境地帯にはそのときもパシュトン族がライフルを肩にかけていたが、すべて護身用で敵 を倒す「武器」ではなかった。
加藤徹『貝と羊の中国人』(新潮新書、2006年6月20日)

国家は民族の衝突から生まれる。殷と周の衝突から黄河流域に文明が生まれたという。農耕民族の殷は「貝」を通貨にし、西方の遊牧系の周は「羊」を大切にした。だからそれぞれ、貝と羊に関する漢字が多く生まれた。
財、貨、賭、買・・・
義、美、善、養・・・

うーん。

殷人は自らの王朝を「商」呼んだ。周に滅ぼされて、殷人は土地を奪われて亡国の民となり、いわば古代中国版ユダヤ人となった。各地に散っても連絡を取り合い、物財のやりとりを生業とした。「商人」の始まりなのだそうだ。
筆者は中国通を自認していたが、知らなかった。

 紫竹庵日記

 兵庫県関係のすぐれた歴史書を推薦せよとの依頼を受けてとまどった。神戸には学生時代からしばしば訪れ、最近惜しまれつつ閉店した後藤書店をよくのぞいた。楠公さん近くには父の従兄の俳人岩木躑躅が接骨院を営んでいた。虚子門下の最長老である。川西氏には娘が住んでいる。なじみの深い地域ではあるが、関連する史書となると思い浮かばぬ。ふと思いついたのが表記の本である。賀川豊彦兵庫県人ではないが、青壮年期の11年間を神戸葺合のスラムで送り、日本の社会運動史上不滅の足跡を残した人物だから、依頼者の意にそむくことにはなるまい。

 実のところ私は食わずぎらいで賀川の文章を余り読んでいない。郷里鳥取の生家には大正期の大ベストセラー『死線を越えて』はあったが、読んでいない。私の本来の専攻分野であった社会運動史研究の必要上、彼の文章は読んだことは読んだが、深く心にとどまることはなかった。

 その私が賀川への関心を失わなかったのは、賀川と直接深い関係にあった学生時代からの一友人のゆえである。その名は横関武。同志社大学時代に生活協同組合運動に入り、最終的には京都生活協同組合理事長と日本生活協同組合連合会副会長を勤めあげた。私が内弟子同然であった北山茂夫の戦時下田辺中学教師時代の生徒であり、葬儀委員長をつとめた。

 横関は中学時代すでにほとんど視力を失い、戦時下役立たずとして配属将校にいじめられ、戦争と飢えの無い世界を希求するようになった。視力のため上級学校への進学の途を絶たれた横関は、中学卒業の翌年の1948年家出して大阪飯場に入り土方になった。1年後衆議院議員総選挙があり、賀川は社会党応援のため飯場に演説に来た。「働きびとに主は在せり」の題で、社会事業による福祉国家の建設を説く賀川に、横関は社会事業では労働者は救われない、賀川は山師ではないかと喰ってかかった。賀川はかえって横関を見込んで西下するごとに飯場を訪れ、1951年、眼が悪くても学べる学校として同志社大学神学部に連れて行き入学手続きをとった。

 賀川は横関を労働者伝道の牧師にするつもりであったが、砂川反対運動などに参加した横関は神学部にあきたらず、社会科学を学ぶべく転部を賀川に報告した。賀川は労働組合の書記になりたいという横関に「静かな革命」運動としての生協運動の意義を説き、その道に入ることをすすめた。このとき横関は戦時下における賀川の生き方を問い、「自分は徹底的に戦争と戦うことができなかったことを心から恥じている」との言を聞いて、はじめて賀川を信頼する気持ちになったという。

 横関は今でも賀川を「人の痛みがわかる、寛容の精神の人である」として尊敬している。いわく、賀川の唱えたのはこの社会のおだやかな変革-日本国憲法を実質化することだ。その手段として労働運動生協運動における統一戦線を希求した。その賀川を改良主義者として片付けることはできない。(2007年12月12日談)

 経済学者の隅谷三喜男の賀川豊彦評 価の方法は横関のそれに類似している。眼の不自由な横関の場合、賀川の文章によらずその言動によって賀川を評価した。隅谷はいう「ひとりの人物を評価する 場合に、単にその思想の表皮のみによって、判断するのは正しくない。人物はその人格の独自性によって、苦しみ、悩み、戦い、十字架を負った。その全人格の 在り方そのものによって、評価されなければならない。思想の体系はその不完全な表現にすぎない」(199~200ページ)。文章に表現される思想だけで人 を評価すべきでない。行動に示される全人格の在り方によって評価すべし、という点で横関と一致する。隅谷は「賀川の生きた時代の具体的状況をふまえて、そ のなかでかれの活動と思想がどのような意味を持ったか、を明らかにすることに努めた」(226ページ)。

 隅谷は1909年に賀川が結核を病む身で新川のスラムに入って伝道を始め、貧民問題の解決を志すところから、労働運動、農民運動、無産政党運動、さらには協同組合運動と社会運動の全分野にわたってその基礎をつくることに貢献し、満州事変前、キリスト教界振興のための「神の国運動」を展開するまでの生涯を簡潔に描出する。

 隅谷は賀川のキリスト教の弱点として、当時の自由神学の影響を受けて、信仰自然科学進化論)を連続的にとらえ、人間の力で社会悪を克服できるとする原罪の契機の弱さを指摘する一方、賀川が全ての社会運動において、その目標として「人間の全人的解放」を掲げたことを重視する。

 こういう隅谷の賀川理解は、隅谷自信の学問と経験に基礎づけられている。隅谷は戦前来の社会政策学を労働経済学に転化させた開拓者であるが、近代日本史にも造詣が深く、ベストセラーとなった中央公論社版の『日本の歴史』でも22巻『大日本帝国の試練』(1966年)を担当しているくらいである。父の仕事の関係で東京のスラムの中で育ち、受洗し、東大生のとき結核で1年休学した上、治安維持法違反で3カ月留置された。1941年卒業後は満州鞍山の昭和製鋼所に労務担当として就職し、その仕事ぶりにより戦後鞍山名誉市民に推された。敗戦後はじめて東大研究室に入り、退官後は東京女子大学学長、日本学士院第一部長と学会の頂点にまで達したが、常に社会的関心を失わず、あの成田空港問題もいわゆる隅谷委員長によって初めて解決された。自伝として『激動の時代を生きて-社会学者の回想』(岩波書店、2000年)がある。こういう単なる学者にとどまらない生き方が、賀川への共鳴を育てたのである。

 本書は1966年に日本基督教団出版部によって刊行されたが、1980年以降再販されず、1995年にようやく岩波書店「同時代ライブラリー」に加えられて入手可能となった。一度絶版となったのは、隅谷が「日本の貧民研究史上不朽のもの」(25ぺーじ)と高く評価する賀川の『貧民心理の研究』(1915年)が差別文書として糾弾されたからである。

 賀川の全集が1962年から2年がかりで全24巻発行され(発行者武藤富男、発行所きりスト新聞社)、『貧民心理の研究』が第8巻に収録されたとき、すでに第7巻のうち「穢多村の研究」の節全文削除の要求がキリスト者部落対策協議会から提出された。このとき話し合いがついて削除せず、武藤富男の、賀川の部落民異人説や差別表現は「若気のあやまち」とする解説をつけて刊行した。ところが1981年全集第3版刊行に際し、キリスト教界内に部落差別問題がクローズアップされ、武藤は第7章全部と同巻収録の『精神運動と社会運動』(1919年)の中の一部を削除した。

 ところがさらに日本基督教団部落解放センターなどから、第8巻そのものが差別文書であるとの非難が加えられ、1990年まで11回の話し合いの末、キリスト新聞社はその創立者たる賀川を「差別者」と断定し、全集第8巻の「補遺」として『資料集『賀川豊彦全集』と部落差別』を刊行するにいたった(1991年)。

 たしかに今日の高みからみれば賀川の叙述は差別文書といえよう。しかし20世紀初頭の知的水準からみると如何。当時賀川の叙述を批判しうる水準に達していた文献が他にあったか。存在しないからこそ部落出身の京大社会学担当講師(前記資料集は「教授」としている。キリスト新 聞社は、米田がその出身ゆえに教授昇任(1920年)がおくれたという有名な風評を知らなかったとしか思えぬ)米田庄太郎は賀川の「見解や、論結」につい て「反省を促したい」といいつつも「本書の如き良著作を公にされた著者の労を謝」し「我邦の読者社会に推薦する」という「貧民心理之研究序文」を賀川の求 めに応じて与えたのである「差別文書」を推薦する米田もまた「差別者」として糾弾を受ける資格がありそうだ。

 『全集』第8巻は原著に一切手を加えず、歴史の一資料として適切な解説をつけるべきではなかったか。隅谷は『賀川豊彦』の「あとがき 追記」で「その諸説によって被害を受ける人々に対しては充分考慮しなければならないが、それをもって論者の人格を否定することは私は採る所ではない」と書き、『貧民心理の研究』への「高い評価」を変えていない。

 その後鈴木良により賀川と創立期水平社との関係が具体的に明らかにされ、鳥飼慶陽・倉橋克人・浜田直也らによって賀川の諸側面が検討されつつある。隅谷本以降の研究をふまえた新しい賀川評伝の刊行が待望される。(松尾尊允=まつお・たかよし、京都大学名誉教授)

(『歴史と神戸』(神戸学会)第47巻2号 No.267 2008.4特集 私のこの1冊(4~7頁)より)

2008年01月19日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
  キャロル・オフ『チョコレートの真実』(英治出版)を読んだ。チョコレートの原料のカカオ豆の主産地はガーナだとずっと思ってきた。日本に輸入されるカカ オの場合は正解なのだが、70年代からコートジボワールが最大の生産国に変わり、いまでは世界生産の35%を占める。かつてガーナがトップだったころはア フリカが価格支配力を持っていたが、悲しいことに今ではカーギルなど世界の食糧メジャーが支配する。

 カカオだけでない。綿花や砂糖など多くの商品作物の生産は暗い過去を引きずって来た。奴隷制である。アフリカの奴隷が長くその生産を支えてきた。19世 紀に欧米諸国が奴隷制廃止を決めてからも、中国人クーリーなど奴隷制に近い労働実態が続いた。

 戦後、アジア、アフリカ諸国が相次いで独立を達成し、人身売買を含めて奴隷制は地球上から姿を消したものだと思っていた。この本は1990年代にコート ジボワールに復活した奴隷労働を告発する。しかも相手は少年や子どもだった。

 西アフリカの優等生といわれたコートジボワールの1980年代後半からの経済破たんはカカオ豆の暴落から始まった。この国では長くカカオ生産農民に対し て価格変動に合わせて所得補てんをしてきたが、経済破たんで乗り込んできた世銀・IMFは資金協力と引き換えに「構造調整計画」を強要した。補てん制度は 真っ先に廃止の対象となった。

 途上国といえども経済破たんは当該国の責任である。立て直しに必要なのはまず緊縮財政である。無駄は省かなければならない。国民もその節約に堪えなけれ ばならない。それでなくとも十分でない教育や健康の分野はさらに後退を余儀なくされた。

 併せて求められたのが"自由貿易"の名のもとの市場開放である。カカオに依存してきた同国の貿易は輸出金額の大幅の減少が続く一方で、今度は安いアメリ カ産穀物がどっと輸入され、貿易収支はスパイラル状に悪化した。西アフリカの戦乱という要素がこれに加わり、同国は構造調整ところではなくなっている。

 コートジボワールのカカオ生産はもともとマリなど近隣諸国からの移民労働に支えられてきたが、価格低迷で賃金すら支払えなくなり、農場の放棄も始まった。そんな中で復活したのが子どもの人身売買だったというのだ。

 本の中で告発されている監禁や折檻などを伴う奴隷労働の実態が正確なのかは分からない。これまで実態報道を試みた何人ものジャーナリストがコートジボワールで消えていることだけは確かなようだ。

 筆者のキャロル・オフは、アステカ帝国の「神々の食べ物」(学名テオプロマ・カカオ)がスペインによってヨーロッパにもたらされ、チョコレートとして嗜 好品となった歴史を説きおこす。その背景にはスペインによる征服と奴隷労働があったことをあらためて指摘。100年後にその労働形態が復活していることを 告発する。

 奴隷状態で働くマリの少年や子どもたちはチョコレートを見たことも食べたこともない。世界の子どもたちが大好きなチョコレートの原料となるカカオ豆はそ んな子どもたちによって生産されていることをもっと知るべきだと強調している。どこかの新聞の書評で成毛誠氏が書いていた。「カカオの学名を変えるべきか もしれない。『悪魔の食べ物』こどがチョコレートにふさわしい」と。

 この本を読み終えた夜、テレビで「ホテル・ルワンダ」を放映していた。民族対立の悲劇をテーマにした映画であるが、政情不安定は何から始まるか分からな い。ケニヤでも昨年末から民族対立による暴動が頻発している。今アフリカで何が起きているのか。日本人はもっと関心を持たなくてはならない。
2006年09月09日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 結婚して大阪に移り住んだ小学校時代の同級生の息子が書いた小説『鴨川ホルモー』(産業編集センター)が4月に、ボイルドエッグズ新人賞を受賞したことを偶然知って、その『鴨川ホルモー』を読んだ。津市在住だったころのことである。

 ホルモーは20センチほどの背丈の鬼たちのことである。普通の人には見えない存在だが、鬼語を解するようになると見えてくる。京都の東西南北の大学、京 都大、京産大、立命館大、龍谷大のサークルの学生が秘密の儀式の後に鬼語を習得し、鬼たちを自在に操って戦わせる。『鴨川ホルモー』はそんな物語である。

 あまりに荒唐無稽ではあるが、物語の展開につい引き込まれてしまう面白さがある。

 伊勢の地に長くいると、とはいっても2年半足らずだが、神々のことを考えざるを得ない。そんな気が僕の回りにまとわり付いている。伊勢がというより、僕が生まれ育った環境やその後に身に着いた資質がそうさせるといった方が正しいのかもしれない。

 最近『鬼』(高平鳴海ら共著、新紀元社)という本を読んだ。日本にはたくさんの鬼がいる。だから「鬼々」という表現があってもいいが、不思議なことに神 々はあっても「鬼々」という表現は使わない。そこらが鬼に対して多少差別的である。もっとも母音で始まる音節は重ねて発音しにくい。鬼々と言わないのはそ んな発音上の事情があるのかもしれない。

 とまれ日本の鬼を解説した『鬼』という本には酒呑童子や大嶽丸などの鬼はあっても「ホルモー」などという鬼は登場しない。万城目の創造物なのだろうと思 うが、日本の歴史はまだ十分に解明されているとはいえないので、カタカナでしか表記しえない鬼たちがまだ多くいたとしても不思議でない。

 西洋のサタンは神の対極にいる。仏教では地獄の閻魔さまがいる。日本の鬼たちはどうもそんな邪悪な雰囲気にはない。『鬼』とな何か。神々に寄り添う存在 とでもいえばよいのだろうか。だから日本には神さまが八百万存在するように鬼たちも大勢存在する。ホルモーには出て来ないが、この鬼たちは戦いでエネル ギーを発散する。そうしないと人間社会に悪さをするかもしれないのだ。

 葵祭の夜、ホルモーは自分たちを理解してくれる人物を捜し出して、"仲間"に引き入れる。物語のホルモーたちは主人がいないとこの世に現れることができ ないからである。しかし、主人公の安倍君を含めて鬼語のサークルに入ってしまった学生たちはホルモーのご主人さまであるのに、秘密を共有することで結果的 にホルモーたちに奉仕する役割を担わされるに違いないのだ。

 平安時代、陰陽道はれっきとした朝廷の仕事だった。陰陽師、安倍晴明はその役人だった。物の本によると、多くの陰陽師たちはそれぞれに式神と呼ばれる鬼 たちを「手下」として使っていたらしい。主人の命令に従って相手を呪ったり、主人を守ったり変幻自在の働きをしたという。

 万城目は、普段は見えない存在として「隠」がなまって鬼となったという。神もまた見えない特別のものなのだとしたら鬼がいたっておかしくない。伊勢神宮 には天照大神の和魂(にぎたま)を祀る正宮と荒魂(あらみたま)を祀る社の二つの社が存在する。ホルモーが本当に存在するのだとしたら恐いけれど楽しい。

 物語のオチは主人公の安倍君が安倍晴明の遠い子孫であることをほのめかしているところであるが、自民党総裁選では同じ姓の安倍晋三氏が時期総裁つまり、 日本の首相になることが決まっている。阿部ではなく、安倍なのである。

 安倍晋三氏は、平安時代に東北に勢力を張った安倍一族の末裔である。前九年の役で戦死した安倍貞任の弟、宗任は捕らわれて、伊予国に流罪となった。宗任 の三男、季任が肥前の松浦党の配下に入り、さらに子孫が長門に移ったという。朝廷に仕えた安倍一族とは血縁にない。

 京都の朝廷にとって東北の雄の安倍一族は一時、「まつらわぬ者」の一族としてやはり「鬼」ととらえられていたはずである。日本はこれから"鬼"の子孫を首相として戴くことになる。
2005年04月16日(土)メディアケーション 平岩 優
 本屋で平積みされていた佐藤優著『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社刊)を手に取った。奥付をみると、発行されてからわずか10日しか経っていないのにすでに2刷である。

 著者はマスコミから「鈴木宗男の意向を受けて外務省を陰で操るラスプーチン」として疑惑報道の集中砲火を浴びせられ、その後逮捕された元外務省国際情報 局主任分析官といえば思い出す人も多いだろう。小渕政権下で2000年までに日ロ平和条約を締結するために発足した「ロシア情報収集・分析チーム」のリー ダーを務め、「鈴木氏と行動を共にする機会が少なからずあった」という。
 著者はこの2月17日、東京地裁で背任・偽計業務妨害罪により懲役2年6ヶ月執行猶予4年の判決が言いわたされ、即日控訴している。

 当時のことを思い出して欲しい。「自民党をぶっ壊す」と息巻いた小泉政権が誕生して田中眞紀子氏が外務大臣に就任。2人の人気はマスコミに煽られて最高 潮に達していた。一方、鈴木宗男議員は橋本・エリツィンの平和条約締結に向けた流れを引き継いだ小渕、森政権下で、対ロシア外交の先兵を務め、外務省に強 い影響力をもつていた。

 その外交族の鈴木宗男氏と田中外相に軋轢が生じると、当然のごとく鈴木宗男議員は悪役を割り振られる格好となる。しかし結局、外務省は田中眞紀子氏を放 逐するために鈴木宗男の政治的影響力を最大限に活用し、「用済み」となった鈴木氏を整理。この過程で鈴木宗男と親しかった著者も整理された。

 権力を巡る争いとしては、なるほどさもありなんという話である。しかし、重要なのは著者が指摘する、この争いの結果として生じた外務省の大きな変化である。

 著者によれば、冷戦構造の崩壊後、反共イデオロギーに基づく親米路線は存在基盤を失い、外務省内部では異なった3つの潮流が形成された。第1の潮流は今 後、長期間にわたってアメリカの一人勝ちの時代が続くので、これまで以上にアメリカとの同盟関係を強化しようという考え方。第2の潮流は日本がアジア国家 であることをもう一度見直し、中国との安定した関係を構築し、その上でアジアにおいて安定した地位を得ようという考え方。第3は日本がアジア・太平洋地域 に位置するという地政学を重視し、日・米・中・ロ のパワーゲーム時代の中で、もっとも距離のある日ロ関係を接近させることで、両国および地域全体にとってプラス効果を狙うという考え方である。

 そして、これらの外交潮流は田中眞紀子氏が外相をつとめた9ヶ月の間に、「田中女史の、鈴木宗男氏、東郷氏(外務省欧亜局長)、私に対する敵愾心から、 まず「地政学論」が葬り去られた。それにより「ロシアスクール」が幹部から排除された。次に田中女史の失脚により、「アジア主義」が後退した。「チャイナ スクール」の影響力も限定的になった。そして、「親米主義」が唯一の路線として残った」という事実に帰着する。

 一方、「ロシア情報収集・分析チーム」をめぐる捜査の方は著者を含めた2名の外務官僚、斡旋収賄容疑の鈴木宗男議員、偽計業務妨害容疑で3名の三井物産 社員が逮捕されたことで、唐突に終了する。いわば、トカゲのしっぽ切りである。鈴木宗男議員と「ロシア情報収集・分析チーム」のロシア工作は森前首相の官 邸主導で行われていたからだ。

 著者は当時の検察庁の捜査を「国策捜査」と呼んでいる。国策捜査とは何か。著者と検事のやりとりをちょっと長いが引用する(じゃっかん省略させていただきました)。
 
 「あなたが捕まった理由は簡単。あなたと鈴木宗男をつなげる事件を作るため。国策捜  査は『時代のけじめ』をつけるために必要なんです。時代を転換す るために、何か象  徴的な事件を作りだして、それを断罪するのです」

 「今まで、普通に行われてきた、否、それよりも評価、奨励されてきた価値が、ある時  点から逆転するわけか」

 「評価の基準が変わるんだ。何かハードルが下がるんだ。............
一昔前ならば、鈴木さんが貰った数百万円程度なんか誰も問題にしなかった。しかし、特捜の僕たちも驚くほどのスピードで、ハードルが下がって行くんだ」

 「あなたたち(検索)が恣意的に適用基準を下げて事件を作り出しているのではないだ  ろうか」

 「僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくては  ならない。............ 外務省の人たちと話して感じるのは、外務省の人たちの基準が  一般国民から乖離しすぎているということだ。鈴木さんとあなたの関係についても、  一般 国民の感覚からは大きくズレている。それを断罪するのが僕たちの仕事だ」

 「一般国民の目線で判断するならば、それは結局、ワイドショーと週刊誌の論調で事件  ができていくことになるよ」

 「それが今の日本の現実なんだよ」

 「それじゃ外交はできない。ましてや日本のために特殊情報を活用することなどできや  しない」

 「そいうことはできない国なんだよ。日本は。あなたはやりすぎたんだ。仕事のために  いつのまにか線を越えていた。仕事は与えられた条件の範囲でやればいいんだよ。成  果がでなくても。............ 」

 現在、日本は中国、ロシア、韓国に対して、近年まれにみるほどにぎくしゃくした外交に始終している。もちろん、その要因には相手国の国内事情なども反映 しているに違いない。しかし、もし本書で書かれているように、小泉政権が発足してから外務省の外交潮流が「親米主義」に一本化されたのが事実とすれば、こ れらの諸国との外交上の軋轢もそのことが影を投げかけているとはいえないだろうか。

 冷戦構造の崩壊後、極東地域でも各国のパワーゲームが繰り広げられている。そうした中で、日本にも当然、アメリカには中国カードをきり、中国には米ロと 結んだルールで臨むなど、多角的な外交戦略が求められているのではないか。かって貿易によって多額の富を蓄えたベネチアが、その後没落することになるスペ インに肩入れして、どうなったか。歴史の知るところである。

 日本はユーラシア大陸の果て南北に長く横たわっている。日本人は戦後、平和憲法の下で隣国と友好的関係を建設してきたと信じ、他国から内政問題に対し、 あーだこーだいわれる筋合いはないと感じている。しかし、大陸側の諸国からみれば、太平洋の出入り口に長くシーレーンを延ばす日本は、やっかい存在でもあ る。まして、米軍の第一軍団司令部が移転する計画があるときけば、余計に警戒感がつのるだろう。

 本書は田中外相と鈴木議員の闘い、著者と検察庁のやりとり、また拘置所の暮らしぶり(食事やゴミの分別収集等)などもリアルに再現され、そうした行間から外務省の変質が浮かび出てくる、興味をもった方には一読を勧める。

2003年09月12日(金)萬晩報主宰 伴 武澄
 昨夜は9・11から2年の夜。東洋では十五夜をまつる夜でもあった。イタリア在住の飯田亮介さんが独学で翻訳したイタリア人ジャーナリストのティツィアーノ・テルツァーニ著『反戦の手紙』を一気に読んだ。

 テルツァーニ氏はドイツのシュピーゲルなどの特派員として30年あまりアジアに在住し、ベトナム戦争からカンボジア紛争、ソ連崩壊など主要な戦争や事件 を報道した著名なジャーナリストである。60を過ぎてからヒマラヤを望む地に居を構えて自然と対峙する生活に入っていたが、9・11以降、再び「山を下 り」、戦乱のアフガニスタンに入った。

 『反戦の手紙』は8通の異なる場所から書かれた手紙で成り立っている。最初の3通は9・11直後にイタリアで書かれ、後の5通はアメリカによるアフガニスタン空爆後に訪れたパキスタン、アフガニスタン、インドで記された。

 9・11後に国際社会が一斉にアメリカの報復を支持したことに強い危機感を覚え、「暴力は暴力を生むことしか出来ない」という信念の下にテロリストをテロに走らせた遠因を独自の現地取材の中から導き出していた。

 飯田さんの翻訳の中からいくつか印象的な部分を紹介したい。

「ヨーロッパのジャーナリストたちも今や、ニューヨークの自分のデスクのコンピューターにべったりと張り付いて動かなくなってしまった。そこで彼らが読み、目にすることは、彼らの口から語らせるためにアメリカ政府が選んだ情報だけだ」

 ことの善悪は別として、われわれ日本のジャーナリストの日常もまた似たり寄ったりである。情報の渦の中で情報を取捨選択するのが、本来われわれに課せら れた仕事であるのだが、記者クラブという政府や企業の一方的な発表の場からの発信が多すぎる。また、そうした場では政府や企業から洪水のような発表が行わ れている。確かにニュースの取捨選択はしているのだが、たとえて言えば「観音様の手の平の上で暴れていた孫悟空」のような存在でしかないのである。

テルツァーニの至言は、はアフガン駐在のアメリカ人記者に「今や私たちは『プラウダ』になってしまった」「敵は悪魔以外の何者でもなく、抹殺すべき、許し難い怪物として描写されなくてはならない」と語らせていることである。

 「4ページにわたる彼女の返事を読んでとても悲しくなった。私はまたも勘違いをしていたのだ。9・11は素晴らしい機会などではなかった。それは私たち 一人ひとりの中に眠っていた獣を叩き起こし、けしかける機会だったのだ。オリアーナの返事の要点は、彼女は敵の道理を否定するのみならず、さらにはその人 間性までも否定するということだった」そのような考え方こそがあらゆる戦争を非人道的にする根本な理由だというのに」

 オリアーナというのはニューヨーク在住の著名なイタリア女性ジャーナリスト、オリアーナ・ファッラチである。彼女はテルツァーニの古くからの友人であ り、新聞紙面で彼女との対話を試みている。ニューヨークのデスクから大上段に世界を語るその彼女に対して「相手を非難する表現方法としてある恨み、敵意、 怒りなど数ある情念の中で最も下等なもの、暴力的な情念を選んでしまった」と批判しているのだ。

 またカンダハール郊外におかれたアメリカ軍基地が「キャンプ・ジャスティス」と呼ばれ、ジャスティス(正義)が「復讐」であることを明らかにするため、 基地に掲げられた星条旗にはツイン・タワーの犠牲者の遺族たちのサインがあったことを明らかにしている。

戦争報道に関しては「この戦争は何百人ものジャーナリストによって追われ、過去のどの戦争よりも確実に多くのページが割かれ、関連テレビ番組の放送時間も 過去最長になっている。にもかかわらず、アメリカは断固としてそれを目にみえない戦争とすることに成功している」とアメリカのみごとまでに巧妙な報道管制 に言及した。

アメリカの空爆については「あるタリバーンは仲間と一緒にアメリカ人をやっつけにいったが、敵は影も形もなかった。聞こえるのは高い空を飛ぶ飛行機の轟 音、目に入るのはその爆弾がもたらす惨禍だけだった。人間が文字通り粉々に・・・」「歴史上の数ある戦争の中で、双方の犠牲者の均衡がこれほど取れていな い戦いもなかったに違いない。厖大な数の敵を殺しておきながら、米軍の犠牲者はほとんどゼロに等しいのだから」とその非合理な姿を描き出している。

戦場の医療現場では「カブールにある国際赤十字連盟の整形外科センターではイタリア人医師が中心になって働いているが、このセンターで両手両足があるのは 彼だけである。患者だけでなく職員、医師、技術者を含めた人々の全員、身体のどこかを欠いている」とその驚きを記している。

 書き出すと切りがない。いずれ、この翻訳はどこかの出版社によって日本でもベストセラーになるのだと思う。

 最後の章である「ヒマラヤからの手紙」にはさらに考えさせられる対話が載せられている。

 19世紀の終わり、インドの著名な哲学者ヴィヴェカナンダがアメリカの講演会であるご婦人と交わした会話だ。

「全人類がたった一つの宗教を信じていたら、素敵じゃありません」
「いいえ、もしも人間の数と同じだけ宗教があったならば、もっと素敵でしょう」

 『反戦の手紙』の一部は下記で読めます。
 http://web.tiscali.it/no-redirect-tiscali/ryosukal/

 
【追記】10月16日
 飯田さんの翻訳による『反戦の手紙』の出版が決まりました。
 2004年1月ごろ、WAVE出版(東京)から上梓される予定です。
 お楽しみに!!!

2003年06月30日(月)萬晩報主宰 伴 武澄

 萬晩報の常任ライターの一人、ブルッキンズ研究所の中野有さんの著書『国際フリーター世界を翔る』(太陽企画出版)がきょう発売となった。今年1月、日 本経済経論社から出版された『北東アジアのグランドデザイン』のまとめ役は中野さんだったから、実質的に2冊目の著書といっていい。

 萬晩報に縁のある著書の第一号は『マレーシア凛凛』(伴美喜子、2002年5月)。中野さんの本は第二号となった。常任ライターのもう一人のSさんから 「大手出版社から秋にも出版します。鋭意、執筆中です」と報告もある。萬晩報界隈で出版ラッシュが起きていることは嬉しいことである。

 『北東アジアのグランドデザイン-発展と共生へのシナリオ』は中野さんが、10年間暖めてきた構想を総合研究開発機構(NIRA、塩谷隆英理事長)に持 ち込んで実現したプロジェクトである。単なる北東アジア開発構想ではない。9・11以降のブッシュ大統領による「悪の枢軸」(Axes of Evil)に対抗、「平和の枢軸」(Axes of Peace)を旗頭にした極東の安全保障への提言でもある。

 国際政治に軍事力のプレゼンスを再び持ち出したブッシュ大統領に対して、国際社会が手をこまねいているこの時期に、本来ならば、英語で出版されるべき日 本からの提言であった。小生はそう信じている。イラク戦争や緊張を増す朝鮮半島情勢に無批判に加担したり、声高に反戦を叫ぶだけでは平和はもたらされな い。

 軍事力によるアメリカの国際平和維持政策に対して、説得力のある、しかも具体的なオルターナティブがなければ、アメリカの独走を許すことになる。中野さ んがワシントンを中心に昨年から注目されているのはこの『北東アジアのグランドデザイン』という構想がバックボーンにあるからでもあろう。

 『国際フリーター世界を翔る』は日本という狭いキャンパスを抜け出し、5大陸をまたにかけて、学び、働き、そして再び学ぶ、という繰り返しの中から人的 ネットワークを作り上げてきた中野さんの半生をつづった作品である。ゲラ刷りを読んで、そのむかし、日本の若者を熱狂させた一冊の本を思い出した。小田実 氏の『何でも見てやろう』(1961年、河出書房新社)である。まだ外国に行こうにも外貨がなかった時代にリュックひとつで世界を渡り歩いた体験記だっ た。1960年代には多くの日本青年が日本を飛び立ち、小田実氏の後を追った。

 筆者はこの本が売れていたころ、南アフリカのプレトリアにいた。1966年、高校一年生にして、ローデシア、ザンビア、ウガンダ、ケニヤ、エチオピア、 エジプトと東アフリカを南から縦断し、イラク、イラン、インドとアジアを東に旅行して帰国するという経験をした。小田実氏のこの本は帰国してから読んだ。 思想的には相容れない部分も相当あったが、世界を駆け巡った小田実氏を羨み、「俺も続くぞ」と希望を膨らませた。

 国際フリーターとしての中野さんの起点は鉄工メーカーに入社してすぐ訪れたバグダッド駐在での経験である。会社生活に飽き足らず、数年でこのメーカーを 辞めて、オーストラリアに語学留学、南アフリカのケープタウン大学大学院に学んだ。地球の反対側を選んだ理由は「日本人がいないところ」ということであっ た。「アパルトヘイト(人種隔離政策)に挑み、民間外交に努めた」のだそうだ。筆者と中野さんが出会う運命の接点はその時すでにあったのだ。

 その後、リベリアに移り「ターザンのような生活をしながら開発援助に携わり」、オーストリアのウィーンでは「芸術の街を肌身で楽しみながら国連工業開発 機関(UNIDO)でアジア太平洋開発の仕事」をした。その中に北朝鮮も含まれていた。ハワイのシンクタンク、東西センターでは北東アジア経済の世界的権 威である趙利済氏と出会う幸運に恵まれ、新潟の環日本会経済研究所、とっとり総研などを経て、いまやワシントンに在る。

 中野さんの半生の軌跡の特徴は、生まれも大学もそうだが、ワシントン、ロンドン、東京といった世界政治の中心にないということである。外周から世界の政 治や経済を眺めてきた。逆にそのことが強みとなっている。ワシントンやロンドン、東京にいる政治家や研究者たちのほとんど知り得ない世界を経験してきたが ゆえに、そうした人々とのディベートで優位に立てるという逆説が成り立っているのである。

 中野さんの文章はひどく直裁的である。起承転結の「承」や「転」が抜けていたりする。分かりやすいのだが、学会では「乱暴だ」との批判を受けることが少 なくない。あるいはほとんど無視されるケースが多いに違いない。そのくせ日本の学会では起承転結の「結」がない論文があまりにも多い。断定的にものを言う のは研究者の沽券に関わるとでも思っているのだろうか。日本の学者の書いた論文が面白くないのは多分、「説明」や「分析」が多くて、最後まで読んでも結局 何がいいたいのか分からないということではないかと思う。

 日本では景気の長期低迷で学生の就職さえ難しいといわれる時代に入っている。だが世界に目を転じれば、いくらでも働く場所はある。勇気を持って国境を越 えよ。国境を越えれば世界に貢献する道はそこらに転がっている。中野さんが日本の若者にいいたいことがこの本にはたくさん詰まっている。

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 中野有著『国際フリーター世界を翔る』(太陽企画出版)は30日きょう発売
http://www.taiyoo.com/book/freeter.html

 【取り扱い書店】紀伊国屋書店丸善、学生生協、三省堂
           八重洲ブックセンター
アマゾンなど

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 中野有氏の『国際フリーター世界を翔る』出版記念会開催のお知らせ
 日時:7月28日(月)午後6時半から(受付は6時から)
 場所:アルカディア市ヶ谷私学会館 http://www.arcadia-jp.org/
 (千代田区九段北4-2-25、JR中央線市ヶ谷駅から徒歩2分、03-3261-9921)
 会費:8000円
 定員:100人(先着順)
 共催:萬晩報、財団法人国際平和協会(責任者:伴 武澄)
    http://www.yorozubp.com/ http://www.jaip.org/
 申込:お名前と所属、メールアドレスを添えて
    先着順に受け付けますのでお早めに!
     mailto:nakano@yorozubp.com まで


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