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  明治の政治家や軍人、経済人、文化人は多く歴史教科書にその名を残しているが、近代日本は文系の人材のみでなしえたものではない。築港やダム建設、河川改 修などの礎を築いた理系の工学技術者たちの生き様にもう少し光を当てたい。明治期の土木工学界の先駆者を一人挙げよと問われれば、だれもが高知県出身のクリスチャン、 広井勇(ひろい・いさみ)の名を挙げるだろう。

 公共事業といえば、技術官僚の天下りを通じた談合の元凶としていまや無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアた ちは日本を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランドデザインを描いた。現在の豊かな日本はそうした先人たちの労苦に負うところが少な くない。

 歴史に残る小樽港工事

 広井の名を全国に知らしめたのは明治30年(1897年)から始まった北海道の玄関としての小樽港の工事だった。アメリカ、ドイツでの実務、研究から帰国した広井は札幌農学校の教授として迎えられた。

 それまでの日本の土木工事はお雇い外国人に多くを依存していた。小樽築港は北海道開発の物流の拠点として不可欠な土木工事だった。しかも日本人による初めての計画、設計の仕事だった。
 広井は教授のまま小樽築港事務所長となり、工事にとりかかった。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。中でもコンクリートの強度につい ては100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新たな工法も多く生み出した。

 25年にわたる難工事は大正11年(1922)に完成したが、広井はこれらの経験を『築港』という5巻の本にまとめ、日本で初めての築港工学に関する専門書となった。函館、室蘭、門司など多くの日本の港は広井の手によって構築され改良されたことを忘れては成らない。

 広井はその後、東京帝国大学に招かれ教授となり、各地の橋梁や鉄道の設計に足跡を残した。晩年は土木学会会長にまで登り詰め土木工学界の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかったといわれる。清廉さを失わなかった明治人の一人だった。

 札幌農学校二期生の三羽がらす

 広井は文久2年(1862)、土佐藩の筆頭家老深尾家に仕える藩士に生まれた。早くして父を亡くし、伯父を頼って11歳で上京。13歳で東京外国語学校に入学、工部大学校予科(現在の東大工学部)を経て、16歳で札幌農学校の第二期の官費生に合格した。

 札幌農学校は初代北海道開拓使長官となった黒田清隆がグラント・アメリカ大統領に協力を求めて来日したケプロン農務長官の建議のよって設立された。北海道開発のための人材育成が目的で、初代教頭は「少年よ大志を抱け」で有名なクラーク博士である。

 授業は3年間、学生は一学年10人内外の少数精鋭教育だった。農業と工学が中心で、もちろんすべて英語で行われた。札幌農学校で興味深いのは、官営の学 校であったにもかかわらず、プロテスタンティズムの精神が貫かれていたことである。キリスト教はその数年前まで明治政府によって禁止されていた。黒田長官 が「学生に最高の道徳を伝えてほしい」と要請したことに対して、クラーク博士が「最高の道徳、それはキリスト教以外にない」と答えたそうだ。黒田長官はク ラークの教育方針を黙認した。北海道という新天地にはそういう自由な気風があったのだ。

 その結果、同期11人中、7人が在学中に洗礼を受けることになった。その中の三羽がらすが広井と新渡戸稲造と内村鑑三だった。新渡戸は太平洋の架け橋た らんと大志を抱き、英語で『武士道』を書いた。後に台湾総督府民政部で台湾経済の振興に心を砕き、第一次大戦後は国際連盟の事務局次長を務めた。内村は萬 朝報主筆の一人として日露戦争で反戦の論陣を張り、自ら発行した「東京独立雑誌」を通じて明治後期の多くの進歩的若者の思想的支柱となった。

 札幌農学校という精神風土はいわば「サムライ・クリスチャン」だったのだ。内村は無教会派の伝道師となった。広井もまた一時期、伝道師を目指したが、そ の思いを断念、エンジニアとして事業を通じて博愛を広めた。札幌農学校での3年間は広井の生涯を通じての思考や行動の規範となったことは間違いない。

 ■育まれた国際的エンジニア

 広井は日本の土木工学界の先駆者として名を残しただけではなかった。東京帝大の教授時代には青山士、八田與一、久保田豊という三人の国際的な土木エンジニアが彼の研究室から相次いで巣立っていった。

静岡県出身の青山士は大学卒業後、アメリカに渡りパナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名を轟かした。しかしアメリカで起きた日本人排斥 運動の煽りを食らって完成を前にして帰国を余儀なくされた。帰国後は荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造の指揮をとった。

 八田與一は石川県生まれで、台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し不毛の地とされた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。命日の5月8日にはいまも故人を偲 んで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも偉人として紹介されている。

 久保田豊は戦前、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時としては世界最大規模の水豊ダムを建設。70万キロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝 両国に送電され、産業インフラとして不可欠な設備となっている。戦後はアジア・アフリカで多くのダム建設開発のリーダー的役割を果たした。

 土木は本来、経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものだった。広井とその弟子たちに共通 しているのは国際的広い視野と開発の中心にヒューマニズムを据えた事業の経営哲学である。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は国境や民族を 越えて人々の生活を支えているのである。

 朋友、内村鑑三は広井の葬儀で「広井君ありて明治・大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだ。

 友愛公共フォーラムの第2回会合で、面白い話を聞いた。報告者の一人、参院議員の梅村聡氏の五代前の祖先、関寛斎(文政13年2月18日(1830年3月12日) - 大正元年(1912年)10月15日))の話だった。

 関寛斎は、佐倉の順天堂で学んだ医者だった。銚子で開業していたところ醤油商、浜口梧陵の支援で長崎に留学しオランダ人医師ヨハネス・ポンペ・ファン・ メーデルフォールトから最新の西洋医学を習得して徳島藩の御典医となった。戊辰の役では官軍に従軍し、維新後は徳島に病院を開院した。金持ちからは俥の迎 えが来なければ往診しなかったが、貧乏人からは一銭も取らなかったことから人々に親しまれる医者となった。
 晩年になって、徳島の広大な病院敷地を売却して、北海道陸別の開拓に力を注いだ。網走監獄の元受刑者や貧しい 農民を農場で働かせ、後に彼らに農場を分け与えようとした。家族の反対で裁判となり、関寛斎はその裁判に敗れてしまった。農場を小作たちに分け与えられな かったことを悔やんで服毒自殺したというのだ。

 医療とは何か、農業とは何か、自ら理想を実現しようとしたその姿に打たれたのが徳冨蘆花だった。蘆花は陸別に寛斎を訪ね、その著『みみずのたはこ と』(岩波文庫版)に関寛斎のことを書いた。司馬遼太郎もまた『胡蝶の夢』(新潮社)で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と評している。いまも寛斎が開 拓した陸別町には関神社を祀り、関寛斎資料館では寛斎の尊い生き様を顕彰しているのだという。

 梅村氏が医者を目指したのは、小学校時代、夏の暑い時期に中学受験の勉強をしていた最中、母親から祖先の話を聞かされてからだという。人が人で、医者も 医者だった時代の話ではあるが、銚子の醤油屋さんが一医学徒を支援して長崎留学させた眼力もすごい。官軍に従軍したときは、江戸上野の決選で敵味方分け隔 てなく面倒をみた寛斎の精神はまさに赤十字をつくったスイスのアンリ・デュナンに通じるものである。

 ちなみに浜口梧陵は、和歌山で安政の大津波から人々を救った物語「稲わらの火」の主人公として世界的に有名である。(伴 武澄)

  久しぶりにセカンドハンドの新田恭子さんに先週21日会った。セカンドハンドはカンボジアに小学校をつくり初めてから15年になるが、今度はザンビアでも 学校建設が始まっている。僕が新田さんに最初に会ったのは12年前だと思う。萬晩報の配信を始めたころ、高松の友人を通じて知った。なんともさわやかな印 象だった。1998年4月27日、萬晩報に新田さんのことを書いた書き出しはこんな風だ。

  「だいだい色の屋根とクリーム色の壁って緑の木々にマッチするんです」。ボランティアを始めて、三つ目の学校がカンボジアにできた。2月末、カンボジ ア政府から復興功労メダルをもらった。新田恭子さんは、フリーのアナウンサー。高松市に住み、香川県からアジアや日本を語る。カンボジアにかかわり始め て、日本や日本人の在り方が気になりだした。

 http://www.yorozubp.com/9804/980427.htm
 セカンドハンドは今年4月にNPOから公益社団法人に昇格した。当然のことでこれまでの功績から考えて遅いく らいである。21日は東京地区の支援者の集まりだった。十数人が仕事後に集まったが、当然面白い人が多かった。「人を育てる」というセカンドハンドはカン ボジアの子どもたちだけでなく、日本のも若者にも多大な影響を与えている。

 実は12年前に新田さんは朝日新聞の「ひと」の欄に取り上げられ全国的に知られる存在となった。その記事を書いた福間大介記者も当日、会合に参加してい た。福間さんによれば「当時、四国新聞だったと思うが新田さんの活動が紹介されていて、なんとかこういう人物を全国に紹介したいと思った。僕はまだ1年生 記者だったので地方版に記事ばかり書いていたが、デスクが『ひと』に書いたらいいといってくれた。僕にとっても全国的に掲載された初めての記事が新田さん の『ひと』で、記念すべき記事なんです」と話してくれた。初任地で出会った人たちは記者にとって一生忘れられない存在となるが、福田さんはとても恵まれた スタートだったはずだ。

 以前、高松の友人に「新田さんは香川の宝だ」といったら「いや四国の宝だ」と言い返されたことがある。いまや「日本の宝」といってもいい。日本ユネスコ 連盟主催の青年ワーキングキャンプに参加して、現地の大学生と一週間寝食を共にして、図書室の修復を手伝った。図書館は出来上がったが、今度は本がないこ とを知った。ないないづくしのカンボジアに学校を建てようと古着ショップを始めた。セカンドハンドの始まりである。

 話の中でイギリスのオックスファムという慈善団体があることを教わった。初めて聞いた名前だった。不要になった家庭用品を販売して慈善活動に使うシステムで、オックスファムはイギリス国内に何十店舗も持っていてデパートみたいな店舗もあるというから驚きだった。

 新田さんはオックスファムのシステムをまねて高松から世界に向けてその存在を示すようになった。高松に2店、丸亀、広島のほか福岡や大阪、北海道にも ネットワークを広げている。まさに一粒の種が蒔かれて事業が拡大している。このネットワークのほかに面白いのは最近「セカンドハンド・ユース」が誕生し、 新田さんらに育てられ高松から全国に巣立った学生たちを中心にそれぞれの場で活動の輪が広がっていることである。官に頼らず自分たちで何でもやってしまお うという精神はこれから不可欠な行動となっていくだろう。(伴 武澄)

  高知県伊野町にある紙博物館を訪れ、故司馬遼太郎氏が龍馬銅像還暦に寄せていたいい文章を見つけた。このメッセージは昭和63年7月、桂浜の龍馬像の前で 銅像建設発起人物故者追悼会が行なわれた際に司馬氏が寄せたものを、故入交太二郎氏が晩年に大きな屏風に墨書した。入交氏は、早稲田大学在学中の大正15 年夏、土居、朝田、信清氏の3人と坂本龍馬の銅像建立を考え、野村組新聞部の大野氏、高知県青年団を巻き込んで賛同を集めて建立にこぎつけた。桂浜に立つ 龍馬像の除幕式が行なわれたのは昭和3年5月27日であるから、かれこれ3年の年月が経っていた。司馬遼太郎のメッセージをメモしてきたので披露したい。

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 銅像の龍馬さん、おめでとう。

 あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。私はここが大好きです。世界中で、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、私はここに来るたびに思うのです。
 あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、ヨーロッパで興って完成しました。銅像の出来具合以上に銅像がおかれる空間が大切なのです。その点、日本の銅像はほとんどが、所を得ていないのです。

 昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、この桂浜の巌頭に案内して来ました。

 この地が、空間として美しいだけでなく、風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

 大きく弓なりに白線を描く桂浜の砂は、あなたの清らかさをあらわしています。この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、あなたの動かざる志をあら わしています。さらに絶えまなく岸うつ波の音は、すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを物語るかのようです。

 そしてよく言われるように、大きく開かれた水平線は、あなたの限りない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

 「遠くを見よ」

 あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。いまもそのことを諭すように、あなたは渺茫たる水のかなたと、雲の色をながめているのです。

 あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。

 あなたがここではじめて立ったとき、あなたの生前を知っていた老婦人が、高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまで来て、

 「これは龍馬さんぢゃ」

 とつぶやいたといいます。彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。

 私は三十年前、ここへ来て、はじめてあなたに会ったとき、名状しがたい悲しみに襲われました。そのときすでに、私はあなたの文章を通じて、精神の肉声を知っていましただけに、そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。

 「全霊をあげて、あなたの心を書く」

 と、つぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。

 それよりすこし前、まだ中国との国交がひらかれていなかった時期、中国の代表団がここにきたそうですね。

 十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、各国から食いあらされて、死体のようになっていました。その中国をみずから救うには、風 圧のつよい思想が必要だったのです。自国の文明について自信のつよい中国人が、そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、ともかくもその思想で もって、中国人は、みずからの国を滅亡から救いだそうとしました。ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、そういう歴史の水と火をくぐってきた人 だったのでせう。

 その中の一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。あなたの風貌と容姿を見て、あなたのすべてと、あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

 殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、旅人の死を悼む風習があったといわれています。旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。死せる旅人は、そこへゆくことなく、地上に心を残した人であります。

 殷のひとびとは、そういう旅人の魂を厚く祀りました。この古代信仰は、日本も古くから共有していて、たとえば「残念様信仰」というかたちで、むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。

 ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

 あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、さらにいえば、人類のたれもに、共通する志というものでした。

 あなたは、そういう私どものために、志をもちました。そして、途半ばにして天に昇ったのです。その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、かつ慄させ、そしてここに立たせるのです。

 さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、あなたを悼むとともに、あなたが、世界中の青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、よろこびをおぼえるからでもあります。

 「志を持て」

 たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいことかを、あなたは、世界中の若者に、ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

 今日ここに集った人々は百年後には、もう地上にいないでせう。あなただけはここにいます。百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、今日ここに集っているひとびとの願いなのです。私の願いでもあります。

 最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松藾(しょうらい)の音も、あるいは岸うつ波の音も、人類とともに永遠でありますことを。

 「土木技術資料」という雑誌の3月号に巻頭言を書かせてもらった。広井勇の名前はあまり知られていない。新渡戸稲造内村鑑三とともに札幌農学校二期生の三羽がらすといわれ、日本の土木工学の礎を築いた人物である。弟子の青山士は内村鑑三に影響を受け、信濃川大河津分水路の改修工事を指揮した時、新潟県北蒲原郡木崎村で小作争議を指導していた賀川豊彦と親交があったといわれている。(伴 武澄)

 http://www.pwrc.or.jp/wnew1003.html#mokuji

 明治日本の土木技術の先駆者を一人挙げよと問われれば、誰もがクリスチャンの広井勇の名を挙げるだろう。

 公共事業といえば、八ツ場ダムにみるように談合や無駄の代名詞となりはてているが、明治・大正期の日本の多くのシビル・エンジニアたちは日本という国家を背負いながら、西洋から最先端の技術を吸収して発展のグランド・デザインを描いた。現在の豊かさはそうした先人たちの労苦に負うところが少なくないのだと思っている。

 広井は札幌農学校の二期生として新渡戸稲造内村鑑三とともに三羽がらすといわれた。アメリカドイツで学び、小樽港の工事によって広井の名を全国に知らしめた。難関は北国の荒波と暴風雨に耐えうる防波堤工事だった。中でもコンクリートの強度について100年以上使用できるよう耐久試験を繰り返した。またコンクリートブロックを斜めに積み重ねるという新工法も多く編み出した。

当時の土木工事の多くはお雇い外国人に依存していた。小樽港の工事は北海道開発の拠点として不可欠な事業だった。日本人による初めての計画、設計の仕事だったことは特筆されてよい。

 その後東京帝国大学に招かれ、土木工学の第一人者となったが、宴席を嫌い贈答には手を触れなかった。官学の農学校にプロテスタントの精神が流れていたことは今から考えると不思議なことだが、おかげで戦前の日本は「清きエンジニア」を持つことができた。

 広井は多くの土木工事を指揮しただけでない。門下に多くの有能な弟子たちを輩出した。青山士、八田與一、久保田豊という三人の国際的な土木エンジニアが相次いで巣立っていた。

 青山士はアメリカに渡り、パナマ運河の設計メンバーに加わったことで若くしてその名をとどろかせた。アメリカで起きた日本人排斥運動の煽りで運河の完成を前に帰国を余儀なくされた。帰国後は、荒川放水路や信濃川大河津分水可動堰という国土大改造に携わった。

 八田與一は、台南の嘉南に烏山頭ダムを建設し、不毛の地とされていた嘉南平野を広大な穀倉地帯に変えた人物。戦前の日本人として唯一、銅像が保存され、命日の5月8日にはいまも故人をしのんで地元民による墓前祭が行われている。李登輝前総統は日本精神の代表的人物として言及しており、台湾の教科書にも恩人として紹介されている。

 久保田豊は、朝鮮と旧満州の境を流れる鴨緑江に当時として世界最大規模の水豊ダムを建設した。70万キロワットという巨大な水力発電はいまもなお中朝両国送電され、産業のインフラとして不可欠な存在となっている。戦後はアジアアフリカで多くのダム建設に携わるなど途上国での開発事業のリーダーとなった。大連育ちの中国人の友人は「学校の電灯を照らす電気は鴨緑江の水豊ダムから届けられると習った」となつかしむ。

 土木は本来、経世済民の一環として国土を災害から守ったり、灌漑や発電によって農業や産業の振興をもたらすはずのものであった。広井とその弟子たちに共通しているのは、国際的広い視野と開発の中心にヒューマニズムを据えた事業哲学が流れていることである。半世紀を優に超えたいまも彼らの作品である構築物は国境や民族を越えて人々の生活を支えている。

 司馬遼太郎の『坂上の雲』がドラマ化されて、国民の共感を得ている。明治を創りあげたのは政治家や軍人たちばかりではない。小中学校の教科書にもっと多くの理工系の人たちが紹介されるべきだと最近考え始めている。

INVICTUS 9000days

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 2月13日、近くの映画館で映画「インビクタス」を見ました。筆者自身が南アフリカで少年時代をすごした思いがあるだけに、なんともいえない気持ちになりました。マンデラは9000日、27年間もの間、監獄で過ごし、アパルトヘイト廃止後の南ア大統領に就任します。憎しみを乗り越えることを同胞に訴えるのです。白人社会の象徴だったラグビーチーム「スプリングボックス」の存続を決め、1995年に開催されたラグビーワールドカップラグビーを国家統合の証にしようと努力します。

 賀川豊彦を超える人格をネルソン・マンデラに見ました。みなさま、ぜひご覧下さい。

 インビクタスイギリス詩人ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩の名前に由来します。マンデラが獄中で愛読したのです。

 I am the master of my fate(私は我が運命の主であり)
 I am the captain of my soul(我が魂の指揮官なのだ)と語るところではいいようのない魂の昂ぶりを感じるのです。

 筆者が観た映画館では、終了後、明かりが着くまで誰一人として席を立たなかった。(伴 武澄)

INVICTUS by William Arnest Henry

Out of the night that covers me,
Black as the pit from pole to pole,
I thank whatever gods may be
For my unconquerable soul.

In the fell clutch of circumstance
I have not winced nor cried aloud.
Under the bludgeonings of chance
My head is bloody, but unbowed.

Beyond this place of wrath and tears
Looms but the Horror of the shade,
And yet the menace of the years
Finds and shall find me unafraid.

It matters not how strait the gate,
How charged with punishments the scroll,
I am the master of my fate:
I am the captain of my soul.

 CEOのスティーブ・ジョブス氏のスタンフォード大学卒業祝賀スピーチ

 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。
 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒で なくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがい ざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載ってい た今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤
ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわ けです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さ すがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選 んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せな くなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分 はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。

 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修 科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもら えるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシ にありつける、これが無茶苦茶旨くてね。

 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多く
は、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。
 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひ とつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。 そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。

 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必 要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったん ですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コン ピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したの は、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。

 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単 なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、こ れほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにで きるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。 自分の根性、運命、人生、カルマ...何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じるこ とで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違い なく変わるんです。

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でし た。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出し うる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。

 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として 会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終 わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐さ れたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。

 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自 分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪の かたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで 一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。

 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気 持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者である ことの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた 一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。

 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。

 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必 要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずに やってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。 それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ 一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ一つ、好きなことを仕事にすることなん ですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴 らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。

「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈 な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人 生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが"NO"の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要 があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かり となってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て...外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て...こういっ たものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死 ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。

 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。
              
 PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。

 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治 医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。

 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった 数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、 ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんです ね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からな かったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれ は、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を 持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。 にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだら、そういうこ とになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きも のを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くな い将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。

 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の 人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の 内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でい い。

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。

 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げ ていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っ ていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと 偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。

 スチュアートと彼のチームはこの"The Whole Earth Catalogue"の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。

 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真で す。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stayfoolish.(ハングリーであれ。馬鹿であれ)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」

 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

  Stay hungry, stay foolish.
 ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by Steve Jobs CEO, Apple Computer CEO, Pixar Animation Studios
翻訳 市村佐登美

 ダイヤモンド社の友だちの大木由美子さんが社内ベンチャーで「メンターダイヤモンド」を立ち上げた。主に学生向けのサイトで、20代のリーダーマインドを養成するのが目的。

 元商船三井会長で郵政公社初代総裁の生田正治氏をインタビュアラーに経営者の言葉を引き出す「グレートメンター」と、経営者と学生の生の出会いの場をつくる「学生記者クラブ」がサイトの両輪である。 発想が実にユニークで興味もあったので夏から暇を見つけて「メンター」に出入りしている。

 グレートメンターでは 奥田碩前トヨタ自動車会長、孫正義ソフトバンク社長、瀬戸雄三元アサヒビール会長、井上礼之ダイキン会長とそうそうたる経営者のインタビューをすでに終えている。

 学生記者クラブは、東京在住の大学生約10名が参加し、春から月1回の例会を続け、自ら人生の滋養となる「言葉」を求めて活動を開始し、9月からはそれぞれの体験にもとづくブログも始めた。これがけっこうおもしろい。

 たまたまなのかもしれない。メンターダイヤモンドに参加する学生と接して思うことは、みなしっかり自分の考えを持っているということである。人生を前向 きに模索しようと生きる若者と過ごす時間は筆者にとってもえ難い経験なのである。(伴 武澄)

 以下、最近のメンターダイヤモンドの井上礼之ダイキン会長の「異質を是とする」というインタビュー記事です。



生田正治 - 井上さんは、多種多様な社員に各々チャンスを与えながら適材適所を考えて才能を引き出していくという、いわばダイバーシティマネジメントを実践されてこられたのではないかと思います。井上流ダイバーシティマネジメントについての考えをお聞かせ願えませんでしょうか。

井上礼之 - ダイバーシティマネジメントというのは、2種類あると思っています。
 1つは、年齢や性別、国籍、身体に障害があるかなど異質な人たちをどうマネジメントしていくかということ.
 もう1つは、昔と違って同じ日本人でも働く価値観が多様化している。その人たちをいかにマネジメントしていくかという問題です。

生田 - 大事な指摘ですね。国籍や性別など、一見して違う人たちに対しては、関心がいきやすいですが、そうではなく「同質」のはずだった日本人そのものも多様化している。それらを踏まえたうえで、マネジメントしていくことが企業力につながる。

井上 - はい。私は日頃から、同じ色の絵具は混ぜても同じ色にしかならない。いろんな色の絵具を混ぜることにより、飛んでもない色が出てくる可能性があるということを言っております。

生田 - そうそう、企業としては、その飛んでもない色こそがイノベーションの起爆剤になる。同質なものと同質なものがぶつかり合っても、同質なものしか出てこない のだけども、異質なもの同士がぶつかり合うことによって、第三の新しいものが創出されると思います。ダイバーシティマネジメントが重視され始めた背景に は、急速な経営環境の変化がありますね。

井上 - は い。国内市場だけ見ても、消費者ニーズは多様化していますし、ましてや海外進出した先では、その国の多様なニーズに合わせていかないといけない。そうい う経営環境にあっては、ダイバーシティマネジメントをいかにうまくやるかということは、非常に重要な経営の要素だと思います。
 そのためには、たとえば買収した国の社員の多様性を大事にすることから始めないといけないと思っています。いいかえれば価値観も、人種、国籍、年齢、性 別も違う人たちの多様性を「是」とするマネジメントをやるということです。
 出る杭を打たないで出る杭を是とする。個性を生かしていくことが大事です。

生田 - 社員の個性を大事にし、動機づけて奮い立たせていくということ。それはタレントマネジメントといういい方もできると思いますが、井上さんのお話を聞いていますと、ダイバーシティマネジメントはタレントマネジメントの前段として必要なことがわかります。

井上 - おっしゃるとおりです。タレントマネジメントと申しますと、特別な才能を持った人材を活用することだと思われがちですが、どんな人であろうが他の人のまね のできない才能を少なくとも1つは持っています。それを生かして、どれだけその人の意欲を向上させて企業の戦力をしていくかということが、真のタレントマ ネジメントの重要なところだと思います。

生田 - 次回(Power Word 08)ではそれをどうやって実践されているのか、お話を聞きたいと思います。

 生田正治商船三井元会長による「グレートメンターインタビュー」
 ダイキン工業会長井上礼之氏
 続きを読む http://www.mentor-diamond.jp/ms/inoue/index.html
2006年01月22日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄
  そのむかし、かぼちゃに前田龍男という人がいた。みんな「まえだっち」と呼んでいた。かぼちゃというのは大阪の東高麗橋の居酒屋である。昼飯もやっていて 最初は共同通信の大阪支社の遠藤誠子さんという女性に連れて行ってもらった。女将というか女性経営者は東佳子という。奈良県天理市の人である。当然ながら 今もその店はある。

 なぜかそのかぼちゃに僕は通うことになった。佳子さんとはどういうわけかうまがあった。ちょうど京都の五条坂で陶器市があってその話をしたら、「私もきのう行っていたの」と返事があったのがきっかけである。

 前田さんはカウンターの一番の奥にいつもいて細面の笑顔を見せていた。といえばかっこいいが、関西弁のべらんめえ調で物言う男だった。この前田さんは不 思議な人だった。不思議というより、口から生まれたような人だった。口より行動の方が速かったのかもしれない。議論は始まると5分と黙っていられない人 だった。

 よく覚えていないことが多いので、前田さんとどうやって知り合ったかは定かでない。いずれにしても8年前のことである。多分、佳子さんが紹介してくれたのだと思う。

 僕は当時、デスクとなって共同通信社の大阪支社経済部に転勤していた。デスクになるというのは記者にとって死を宣告されるようなものだった。書くことを 辞めなければならなかった。普通の会社人生は昇進すれば、それなりに大きな仕事ができるようになるのだが、記者という職業は違って、仕事の内容がまるで変 わってしまうのである。

 この空しさに僕はホームページを開設して、いつのまにか共同通信社とは別の個人のメディアをつくってしまっていた。

 前田さんは僕がつくった独自のメディアである「萬晩報」をいたく評価してくれた。ネット上も少なからず反響があったのだが、生身の読者として当時の「萬 晩報」を評価してくれたのは、前田さんとカネボウの岩間孝夫さんだけだった。独自のメディアといっても読者は数百人しかいなかった。

 大阪市の外郭団体が主宰するシンポジウムで僕と岩間さんが話をすることになった時にはいつのまにか「萬晩報」をプリントしたTシャツを着て応援に着てく れた。萬晩報の縮刷版をつくってくれたのも前田さんである。つくっただけではない。800部が完売できたのは前田さんがかぼちゃの客に販売を強要してくれ たからなのだ。

 僕がかぼちゃに通うようになったのは佳子さんのためなのか、前田さんのためなのか分からない。多分、両方だと思う。前田さんの前世というか前職は知らな かった。霞を食って生きているような人だった。カウンターの奥で酒を飲んでカンバンとなれば帰っていたのだろう。とにかく僕の方は京都に住んでいたので午 後11時40分の最終特急に乗らなければならなかったから、前田さんがいつどうやって帰ったのかは知らない。でもいつもカウンターの奥に座っていて、お客 さんの会話のかなめのような役割をしていた。こういえばかっこいいが、だれの会話にも入っていって"おせっかい"をしていたのだ。

 ある時、前田さんに聞いたことがある。「あんたはなんでここの主人みたいな顔をしているんだ」と。佳子さんが口をはさんで「前田さんは私の前の会社の上司で人事部長だったのよ」と言った。

 スイス系の繊維関連の会社だったらしいが、その会社がバブル崩壊の後、リストラをするということになった。人事部長の前田さんはその矢面に立たされた。 「僕は人を切れない。人を切るのだったら僕がまず辞める」といってその会社を辞めた。前田さんが辞めたからといってその会社はリストラを辞めたわけではな かった。佳子さんもその流れの中で職を失った。よく分からない。男気と女気がその店にいたのである。

 職を失った佳子さんは、かぼちゃを開いたが、前田さんは職があったのではない。ほとんどかぼちゃの用心棒的に毎晩、店にいた。大阪のことだから店を開け ば、その筋の人がやって来るに違いない。「俺が佳子を守るのだ」。そんな気分でカウンターの奥に鎮座ましましていたのだ。かぼちゃの後見人の気分だった。

 前田さんは、用心棒といったって本当にその筋の人が来たならば、ひとたまりもないぐらいきゃしゃな体つきだった。口先だけは達者だったから、その剣幕に その筋の人もまかれたかもしれない。でも本当に暴力沙汰になれば耐えられる体格ではなかった。そうはいうのだが、かぼちゃの客はみんな前田さんにだけは一 目を置いていた。体つきがきゃしゃであってもその存在感は別格だった。人格というか生まれ持っていた人としての愛嬌が力を上回るものを持っていた。

 かぼちゃに一度行けば分かることだが、ここのカウンターに座れば、みんな友だちになる。そんな雰囲気がある。そこのところの気配りは佳子さんの生まれ 持った気配りとでも言えばいいのかもしれない。だから何事にも盛り上がり、週末は山歩きだ、陶器づくりだ、落語だと、知らぬ同士が集まって楽しむ。前田さ んはそのどれにも参加していたから、かぼちゃの用心棒どころかほとんど"経営者"のような気分だったのかもしれない。

 その前田さんが昨年9月、突然亡くなった。赤いちゃんちゃんこを着たのはつい先日のことだった。だからかぼちゃの仲間はみんな寂しい思いをしている。僕 も寂しい。鎮魂のコラムをいつか書きたいと思って4カ月が過ぎた。前田さんごめんなさい。
2005年12月29日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
  永塚利一『久保田豊』(電気情報社、1966年)と日本経済新聞社『私の履歴書』の久保田豊を読んでいる。戦前、北部朝鮮を舞台にとてつもないスケールの 電源開発を行った人物である。戦後は日本工営という建設コンサルタント会社を設立し、日本の海外ODAのプロジェクトファインディング分野を切り開いた。

 当時の新興財閥である日本窒素の野口遵の資力をバックにしたとはいえ、昭和3年から同15年にかけて赴戦江など鴨緑江の3本の支流にダムを築き、流れと は逆の方向の日本海岸に水を落として73万キロワットという巨大な発電所を建設した。

 並行して鴨緑江の本流にも6個のダムを建設して400万キロワットの発電規模の電源開発計画を実施に移した。計画は完成の日を迎えることなく終戦となる が、鴨緑江の水豊ダムの70万キロワット発電所は完成し、いまも北朝鮮と中国東北地方に送電している。

 この計画の壮大さは昭和15年の日本国内の水力発電規模が280万キロワットであったことと比較しても理解できる。アメリカのルーズベルトがテネシー川 流域を開発した有名なTVA計画の発電規模はケンタッキーダムを含め9つのダムで110万キロワットであるから、水豊ダムは当時としては世界最大であっ た。70年を経た現在でも度肝を抜かれるような土木工事だった。発電機ひとつとってもすごかった。1機10万キロワットを7機並べた。10万キロワットは もちろん最大だった。東芝はこの発電機のために製造工場を新設するほど大掛かりなプロジェクトだったのだ。

 水力発電の建設には建設現場への鉄道や道路の敷設も必要だったし、山中であるからトンネルの掘削も必要となった。なによりも発電した電力を消費する産業 が不可欠だった。日本窒素の野口遵は興南の地に朝鮮窒素肥料会社を設立し、硫安のほかグリセリンやカセイソーダの製造を始め、その後、アルミニウム、マグ ネシウム、カーバイド、火薬その他あらゆる化学製品をつくる一大総合化学工場に発展した。

 TVAはアメリカという国家が威信をかけた事業だったのに対して、久保田の展開した事業は一個人の発想からスタート、民間の資金と技術で成し遂げたとい う点でも特筆すべきである。にもかかわらず、われわれは久保田の名前はおろか水豊ダムのことすら知らされていない。

 せっかく2冊の本を読んだので個人の備忘録として久保田が北部朝鮮でつくった水豊ダムの概要を記しておきたい。

 水豊ダム 鴨緑江の河口の新義州から80キロ地点。川幅900メートルに106.4 メートルの重力式コンクリートダム。湛水面積は琵琶湖のほぼ半分の345平方キロメートル。昭和12年着工、同18年すべての工事を完成。総工費5億円。 続いて義州と雲峰にそれぞれ20万、50万キロワット級の水力発電所建設に着手したが、完成を待たずに終戦となり、巨大なプロジェクトは半ばで中断され た。
2005年09月22日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
 ダイエーの中内功さんが19日亡くなった。遅ればせながら評伝を書きたいと思う。

 筆者が知っている中内さんは90年代の価格破壊の中にあった。1985年のプラザ合意以降、日本の円がどんどん高くなり日本から世界への輸出が難しく なっていった。一方で、輸入品の価格は一向に下がらなかった。円高がもたらすはずの消費者への恩恵がない。政策的な円高が求めていたはずの構造改革が進ん でいなかったということだ。

 中内さんはこのことに怒った。ダイエーは価格を50%下げるといった。スーパーの売り上げは毎月落ち込んだ。量は増えてもその先から末端価格が下がるか ら売り上げが増えるはずがない。売上高が落ち込むことは企業にとって利益を生み出しにくくすることだ。当時すでにダイエーは困っていたのだろうが、意に介 していないようにみえた。中内さんは毎月、流通クラブにやってきてわれわれと昼食をともにしながら語った。

「消費者物価が下がれば、国民の生活レベルは上がるのだ」。そう繰り返した。右肩上がりの経済しか念頭になかった当時の新聞記者たちにどれほど思いが伝わったかどうか、分からないが「ダイエーが率先して日本の価格体系を破壊する」という意気込みが伝わっていた。

 価格破壊の思いは流通業界に共通していたから、マスコミは流通業界のリーダーたちを新しい時代の担い手として持ち上げた。ビールや化粧品の格安店が区々 に出現してメーカーの価格拘束と闘っていた。1989年の消費税の導入では流通業界が反対勢力の先鋒を担っていたから彼らはそのままマスコミでの登壇が続 いた。

 その中で生まれたのは「西友消費者物価」だった。流通業界が政府の消費者物価にかみついたのだ。「政府の調査では毎月同じ店で同じ商品の価格を調査して いるが、消費者はもはや百貨店でスーツは買わない。アオキとか青山で買うでしょ。消費者が購入している物価は半分に落ちているのに政府統計にはそのことが 反映されていない」。

 われわれは中内さんたちの主張が正しいと思った。「だったらどこかで物価指数を計算してよ。みんな掲載するから」というわれわれの要求を当時西友の専務だった坂本春生さんが受けた。東京商工会議所ビルのエレベーター前で決まった。流通業界のスピード感が心地よかった。

 なにしろ1993年の夏には自民党支配が崩壊し細川内閣が成立していたから、世の中は何かが変わるという期待感に充ち満ちていた。

 コンビニで弁当を売り始めたのはセブン―イレブンなのかローソンなのか忘れたが、中内さんとの月一回の会食はいつもローソン弁当だった。コンビニ弁当の存在を宣伝したかったのかもしれない。

 それまで弁当は家でつくるもので「買う」ものではなかった。その結果、外食ではない「中昼」という概念が生まれた。外食産業が低価格メニューを相次いで 導入するのはこの「コンビニ弁当」への対抗策だったことを忘れてはならない。付け加えればダイエー系のフォルクスというステーキハウスでは1000円を切 るステーキランチも売り出した。

 ダイエーの価格破壊の究極は、ベルギー企業と提携して128円という缶ビール「ベルゲンブロイ」を輸入販売したことだった。1993年のことである。 350ミリリットル入り缶ビールが225円だった。ビール各社は「80数円のビール税を払うと赤字のはずだ」と開き直ったが、低価格ビールを生み出す契機 はダイエーの128円ビールにあったのだと今でも思っている。この「ベルゲンブロイ」はその後ビール各社が売り出した発泡酒に押されて存在感をなくした が、価格破壊の象徴として一時代を画した。

 日本ではいまだに構造改革が選挙の争点となっている。プラザ合意から数えると20年になろうとしている。いかに抵抗勢力が強いかが分かる。価格体系から 給与体系にいたるまで日本は1ドル=100円時代に生きるための体質改善を余儀なくされていたのだが、いまだにその重要性が十二分に認識されていない。そ れはきっと日本経済における「官」の領域が大きすぎることに由来するのだとずっと思っている。

 なにしろ20年前といえば、筆者が共同通信本社の経済部記者としてデビューした年である。プラザ合意の意味も分からぬままに始まった経済記者が現場取材 の年齢を終えて、デスクとなり、さらに整理マン、管理職としての支局長になる長ーい年月を経ていることを思えば、なんとも情けない気分にさせられる。

 その昔、中内さんはかの松下幸之助時代の松下電器産業と全面戦争をしたことがある。ダイエーの安値販売に松下が「出荷停止」で報復、中内さんは逆に松下 製品を店頭から排除した。そのころの中内さんは「たかがスーパーの店主」だったが、大松下と渡り合うその姿勢には「任?道」に通ずるものがあった。

 常に消費者側にいようとする姿勢は阪神大地震でも現れた。村山首相が「自衛隊の派遣には知事の要請が必要」とまごまごしている最中に、中内さんはその日 のうちにヘリコプターで多くの食料品と救援物資を運んでいた。また東京-高知を運航していたフェリー「サンフラワー」は真っ先にダイエーにチャーターされ て、救難物資を運ぶとともに神戸沖の船上救援拠点として活躍した。

 当時、農水省を担当していた筆者らは、大震災の午後、農水省が発表した炊き出しに怒り心頭に達していた。地震発生から12時間ほど経っていた時点で「お にぎり500個」というなんとも現実離れした"支援策"を打ち出したのだった。「中内さんが首相だったら」。当時の記者クラブの誰もが思ったことだった。

 その後、ダイエーは2兆6000億円という巨大な借入金が経営の重荷となり、中内さんはダイエーのすべてを失うことになる。成功者の人生の必ず功罪が問われるが、中内さんが日本の消費者に残したものはまだまだ大きく輝いている。合掌。
2005年02月02日(水)萬晩報主宰 伴 武澄
  1897年、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「A living God」と題して世界に紹介した日本の物語を紹介したい。安政の大津波(1854年)が紀州を襲った時、優れた村おさが村人を救った話である。その前年の 1896年には三陸地震とそれに伴う地震で2万人以上が死ぬ災害があった。

 寺田寅彦がいみじくも述べたように「天災は忘れたころにやって来る」。地震など天災に見舞われるたびに防災の必要性が語られるが、人間は忘れやすいもの である。のど元過ぎれば・・・ということわざがある通り、防災無線を各戸に配布しても、「うるさい」からといって電源を切る家庭もある。避難勧告を連発す れば、そのうち誰も避難しなくなる。

 災害が起きた後に防災を語るのは意味のないことではないが、災害がやってきた時にどう対処するかは結局、住民一人ひとりの意思でしかない。そんな思いがある。

 紹介する「稲むらの火」は昭和12年から22年まで尋常小学校の小学国語読本・巻十に掲載された。和歌山県の教師だった中井常蔵が小泉八雲の作品を読みやすくして、教材の公募に応じて採用された。

 「稲むらの火」

「これはただごとでない」。
とつぶやきながら五兵衛は家から出て来た。今の地震は烈しいといふ程のことではなかつた。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは。老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであつた。

 五兵衛は、自分の家の庭から心配げに下の村を見下した。村では豊年を祝ふよひ祭の支度に心を取られて、さつきの地震には一向に気がつかないもののやうである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、忽ちそこに吸付けられてしまつた。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には廣い砂原や黒い岩底が現れて来た。

「大変だ。津波がやつて来るに違ひない」と五兵衛は思った。此のままにしておいたら、四百の命が村もろ共一のみにやられてしまふ。もう一刻も猶予は出来ない。

「よし」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛出して来た。そこには取入れるばかりになつてゐるたくさんの稲束が積んである。
「もつたいないが、これで村中の命が救へるのだ」
と五平衛はいきなり其の稲むらの一つに火を移した。風にあふられて火の手がぱつと上った。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走つた。かうして、自分の田のすべて の稲むらに火をつけてしまふと、松明を捨てた。まるで失神したやうに、彼はそこに突立ったまま沖の方を眺めてゐた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなつて来た。稲むらの火は天をこがした。山寺では此の火を見て早鐘をつき出した。
「火事だ。荘屋さんの家だ」
と村の若い者は急いで山手へかけ出した。続いて老人も、女も、子供も若者の後を追ふようにかけ出した。

 高台から見下してゐる五兵衛の目には、それが蟻の歩みのようにもどかしく思はれた。やつと二十人程の若者がかけ上つて来た。彼等はすぐ火を消しにかからうとする。五兵衛は大声に言った。
「うつちやつておけ。――大変だ。村中の人に来てもらうふんだ」

 村中の人は追々集つて来た。五平衛は後から上つて来る老幼男女を一人一人数へた。集つて来た人々は、もえてゐる稲むらと五平衛の顔を代る代る見くらべた。

 其の時、五兵衛は力一ぱいの声で叫んだ。
「見ろ、やつて来たぞ」
 たそがれの薄明かりをすかして、五平衛の指さす方を一同は見た。遠く海の端に細い暗い一筋の線が見えた。其の線は見る見る太くなった。廣くなった。非常な速さで押寄せて来た。

「津波だ」
と誰かが叫んだ。海水が絶壁のやうに目の前に迫つたと思ふと、山がのしかかつて来たやうな重さと百雷の一時に落ちたやうなとどろきを以て陸にぶつかつた。 人々は我を忘れて後へ飛びのいた。雲のやうに山手へ突進して来た。水煙の外は、一時何物も見えなかつた。

 人々は自分等の村の上を荒狂つて通る白い恐しい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。
 高台でしばらく何の話し声もなかつた。一同は、波にゑぐり取られてあとかたもなくなつた村をただあきれて見下ろしてゐた。

 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明かるくした。始めて我にかへつた村人は、此の火によつて救はれたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまつた。

 ■稲むらの火 http://www.inamuranohi.jp/index.html
 ■A living God http://www.inamuranohi.jp/english.html
2001年03月11日(日)   萬晩報主宰 伴 武澄

 コリン・パウエル国務長官が国務省の職員に向けて行った就任スピーチが話題を呼び、「上司のスピーチとして最高の出来映え」との評価も出ている。ひとつには日本の中学生でも分かる語彙を使った簡潔な訓辞だったということである。

 ブッシュ・ジュニアの大統領就任演説は相当に語彙をちりばめていたそうだが、ケネディやレーガンの就任演説は200とか300の単語で語られたため覚えやすく分かりやすかったとの定評がある。

 アメリカでも大統領演説ともなれば陰のライターがいるのだろうが、パウエル国務長官のこのスピーチは本人の肉声のようだ。スピーチはきらびやかなキー ワードがちりばめられていたとしても中身が伴わなければ空虚である。国務長官は「仕事を楽しめ」「いくら役所に遅くまでいても俺は評価しない」「仕事が終 わったら家へ帰れ」と語りかけた。

 また「チーズバーガーで十分で、宿泊はホリデーインが好きだ」と出張の際はの華美な接待を戒めた。規定の宿泊料を上回る高級ホテルが好みの多くの日本の 閣僚とは大分違うようだ。見栄ばかりを張るから外務省の役人による公金横領を許す素地が生まれるのだ。日本にもこんな上司がいたら仕事ははかどるのだろ う。以下、入手した英文の抜粋を掲載する。

 I am going to fight for you. I am going to do everything I can to make your job easier.

 I want you all to have fun under my leadership. I like to have fun. I am going to go home as soon as no one's looking on the Seventh Floor.(Laughter and applause)

 I am 63 going on 64. I don't have to prove to anyone that I can work 16 hours a day if I can get it done in eight. (applause)

 If I am looking for you at 7:30 at night, 8:00 at night, and you are not in your office, I will consider you to be very very wise person. (laughter) If I need you, i will find you at home. Anybody who is logging hours to impress me, you are waisting your time. (Laughter and Applause)

 Do your work, get the work done, and then go home to your families, go to your soccer game. I have no intension -- unless the mission demands it -- I have no intension fo being here on Saturday and Sunday. Do what you have to do to get the job done, but don't think that I am clocking anybody to see where you are on any particular hour of the day or day of the week. We are all professionals here and can take care of that. Have fun. Enjoy the work.(Applause)

 I will start traveling in due course. For the first few weeks, since I am the only confirmed official in the State Department from the new Administration. I'm afraid to leave town. Al Larson might take over or do something--(inaudible). (Laughter)

 So I am going to stick close to home until we get our sea legs, but then I will start traveling. And so for everybody watching around the world. I will be around to see you in due course. I am an easy visitor. We are going to try to make it very easy for me to visit. Just to save a lot of cable traffic.

 I have no food preferance, no drink preferance--(laughter)--a cheeseburger will be fine. I like Holiday Inns, I have no illusions. I don't want to be a burden when I come to visit. Don't do a lot of dumb things just because the Secretary is coming. Keep it easy, keep it light keep it low. And if I find something I don't like, I'll let you know.(Laughter)

 So I just want to let you know that I am proud to be your Secretary. I am proud to have been given this oppotunity to serve the American people again. But, above all to serve with you. Thank you very much.


2001年01月17日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄


 1月1日から日本経済新聞の「私の履歴書」にアサヒビールの元社長の樋口廣太郎さんが登場した。1986年、住友銀行副頭取からどん底だったアサヒビールに単身乗り込んで経営を立ち直らせた人だけに、なかなか読ませる。

 当時の磯田一郎頭取とそりが合わずに住友銀行を飛び出したのだが、仮に銀行に残って頭取にでもなっていたなら「スーパードライ」は生まれなかっただろう し、アサヒビールという会社だって存在していたかどうか分からない。それよりも樋口さん自身がバブルの後始末で銀行の経営責任を取らされていたかもしれな い。

「人間万事塞翁が馬」という中国の格言をこれほど地で行った人生に出会ったことはない。

 ●缶コーヒーつくりの代わりに命じた草取り

「履歴書」は連載中だからこれからいくつもヤマ場があるかもしれないが、前半の圧巻は7日付(6)「筋違いの要求は拒否-専用食堂など特権認めず」と題した労働組合との対決場面だ。

 当時のアサヒビール本社には社員食堂の隣に組合幹部専用の食堂があって、社員が行列をして食事をするそのすぐ横で組合幹部だけはゆったりと食事をしてい た。これに頭に来た樋口さんは秘書に入り口のドアを蹴破らせ「みんな行列しているのに、のうのうと食事をしているとは何事か」と一喝。ただちに社員にその 場を開放した。なんともスカッとする逸話である。

 また缶コーヒーをつくっていた柏工場では、コーヒーが売れて品不足になっているにもかかわらず、社員は終業時間の30分前から帰り支度を始めていた。 「職場に戻るように」と言ったら「帰れ」の怒号が返ってきた。樋口さんはここではウィットで切り返した。「工場は動かさなくていい。解雇はしないから」と 言い放ち、缶コーヒー製造のかわりの仕事として「草取り」を命じた。「草はあとからあとからはえてくるので仕事は永久にある」といったら一週間で音を上げ たという話である。

 かつての国鉄をみての通り、傾きかけた企業には必ずといっていいほど労働組合が君臨していて、経営側が組合幹部にペコペコしている状況がある。緊張を 失った労使関係は組織をだめにするという好例がかつてのアサヒビールにあった。現在の日本社会全体に当てはまるのではないかと思う。

 ●さわやかな印象を与えたキリン佐藤社長の退任

 同じビール業界でこの15日さわやかなトップ交代があった。キリンビールの佐藤安弘社長が会長に退いて後継に荒蒔康一郎専務を昇格させる人事だ。佐藤さんは任期たった4年で社長の座を下り、後任には医薬事業というまったく違う畑の人材を登用した。

 佐藤氏の在任中、キリンの「ラガー」はアサヒビールの「スーパードライ」にビールのトップシェアの地位を奪われた。ラガーの長期低迷に歯止めが掛けられ なかったことに悔しさは残るだろう。しかし発泡酒「淡麗」を世に出して、会社が元気を取り戻した。この功績は小さくない。業界最大手のキリンが「ビールも どき」と揶揄された発泡酒の販売に踏み切るには相当の覚悟があったはずだ。佐藤氏はキリンの本流の営業畑ではなく、総務畑だった。保守本流を歩まなかたか らこそできた決断だったに違いない。

 佐藤さんが常務だったころにあるパーティーで一度お会いした。むろん佐藤さんが覚えているはずもない。そのころ輸入ビールの攻勢でビールの価格破壊が話 題になっており、内外価格差も大きな社会問題だった。筆者は日本の缶ビールの出荷価格の3分の1がアルミ缶代だという問題を取材していた。

 アメリカの缶が3-5円で日本製が20円弱。アルミ缶を輸入すれば利益は何倍にもなることは誰もが確信していたが、ビール会社はどこもそのことになると 口をつぐんだ。佐藤さんだけは違っていた。日本のビール会社が抱える問題点をあっけらかんと語った。そんな佐藤さんが4年前社長に抜擢されたから、キリン ビールは変わるだろうと考えた。案の定、殿様企業から商売人に一変した。

 社長というのは社外でどんなにぼんくらといわれようが、いったん上り詰めれば絶対権力者となる。そして長期間その座にあれば、どんなに評判の良かった人 でもぼろが出てくる。苦言を呈する人は自然と退けられ、社長室はやがてイエスマンに囲まれた楽園になる。佐藤さんは社長室が楽園になる前に住み心地の良 かっただろうその部屋を退室し、取り巻きから後継者を選ばなかったからさわやかなのだ。

 ちなみに樋口さんはアサヒビールの経営を軌道に乗せて4年で社長を辞めることを決めていた。事情があって6年半の任期となったが、当初方針通り、生え抜 きの瀬戸雄三氏を後継者に選んだ。会長になってからは後継者がやりにくいからと言って本社に部屋を求めず、東京支社に会長室を置いた。


2000年05月09日(火)萬晩報通信員 岩間 孝夫


 きのうは5月8日は八田與一の58年目の命日だった。

 八田與一がどういう人物かは萬晩報1999年7月18日号「台湾で最も愛される日本人-八田與一」(http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/9907/990718.htm)で主宰者の伴武澄さんが書いた。未読の方は是非この文章を読む前にお読み頂きたい。今回はその続編である。

 八田與一は明治19年(1886年)に生まれた石川県金沢の人である。東京帝大で土木工学を学び明治43年(1910年)大学卒業間もなく台湾総督府土木部の技師となった。時に台湾が明治28年(1895年)日清戦争後日本の領土となってから16年目の年である。

 日本の領土となった頃の台湾は約300万人の人口であったが、清朝も悩まされた土匪の抵抗、誰の支配も認 めない原住民の存在、阿片の風習、マラリアやコレラなどの伝染病、等の原因により、極めて近代化の遅れた土地であり、樺山資紀(初代)、桂太郎(二代)乃 木希典(三代)の総督時代(約三年間)は土匪(抗日ゲリラ)討伐に明け暮れた時代であった。

 そのような台湾の日本による開発が大いに進むのは第四代総督児玉源太郎が内務省衛生技官であった後藤新平を民政長官として伴って赴任した明治31年(1898年)春以降のことである。

 日本国内や満州での政務や軍務に忙しくほとんど留守であった児玉に代わり約9年間具体的行政を指揮した後 藤の辣腕により台湾の近代化は大いに進むことになる。しかしこのプラス面のみならず、後藤の始めた「警察政治」により後藤の就任から当初の5年間だけでも 処刑された土匪は当時の台湾人口の1%を超える三万二千人にも達したことは、歴史の一面として理解しておく必要があるだろう。

 ともかく、八田與一が台湾に赴任するのはその後藤時代が終了(1906年)した後のことであるが、後藤時 代に近代化が大いに進んだとはいえ、それは以前があまりにも遅れていたことでもあり、八田が精力を傾けることとなる土地開拓はまだまだ極めて遅れていた。 赴任後の八田の業績や夫妻の物語は伴さんの文章に譲る。

 毎年5月8日、八田與一夫妻の追悼式が台南県烏頭山にある八田夫妻の墓の前で現地の人々の手で行われると いうので一度訪れてみたいと思っていた。今年やっとその墓を訪問する機会を得たが、休みの関係で訪れたのは命日の日より三日早い去る5月5日であった。八 田の銅像と夫妻の墓は、烏頭山ダムを見下ろす小高い土地の一角にあった。

 八田與一の銅像と夫妻の墓の前に立ち、八田が先頭に立って作った広大で美しい烏頭山ダムを目の当たりにすると、あらためて八田の遺徳の素晴らしさと、その銅像と墓を50年以上守り続ける現地の人々の感謝を忘れぬ暖かい心に感動する。

 夫妻の墓は昭和21年(1946年)12月、嘉南大シュウ(土へんに川)農田水利協会により建てられた。 日本はこの前年戦争に敗れ、この年の四月には最終の引き揚げ船が出港している。すなわち夫妻のこの墓は、日本人が台湾を去り、日本統治時代の神社や記念碑 や銅像が次々に破壊されるなかで地元の人々の手で建設されたのである。しかも墓石は台湾にならいくらでもある大理石ではなく、日本人の風習通り御影石だ。 わざわざ高雄まで行き探してきたという。

 夫妻の墓の前に建つ八田與一の銅像が作られたのは烏頭山ダムの建設完了から一年後の昭和6年(1931 年)7月である。像は一般的によくあるような、正装し威厳に満ちた顔付きのものではなく、作業着で土手に腰を下ろし考え事をしている座象である。費用は八 田と共に働いた人々の寄付でまかなわれ、八田を慕う台湾人の工夫からも多くの寄付が寄せられた。

 銅像は最初昭和6年に建てられたが、戦争末期の昭和19年(1944年)、軍の命令で銅の供出が叫ばれる なかその姿を消し、誰もがその存在を諦めていた。ところが、戦後その銅像がたまたま嘉南農田水利協会により発見されたのである。しかし時代は日本色を一掃 し強権で台湾を支配化に置こうとした国民党白色テロの時代。そのような時に日本人の銅像を隠し持つことは命がけであった。そこで銅像は八田家族がかつて住 み当時空き家となっていた家のベランダに置かれたが、やがて嘉南の農民がこの家の前を通る時、人々は手を合わせて拝むようになった。

 この銅像が再び日の目を見たのは、蒋介石も既に亡くなり、台湾経済が豊かになり始め政治的にも民主化の芽 が芽生え始めた蒋経国時代の昭和56年(1981年)1月である。戦時下に持ち去られて以来37年ぶりに銅像は元の位置に復活した。台湾に残る唯一の日本 人の銅像である。

 烏頭山ダムを見下ろしながら建つその銅像と墓の前で、八田與一の命日から今日まで追悼式はただの一度も欠けることなく、誰からの命令や指示を受けることなく、地元の人々の手で続けられている。

 昭和54年(1979年)八田與一の長男晃夫氏が両親の墓参りのため訪れた時には、81歳になるという老 人が老妻に手を引かれ杖をついてわざわざ会いに来て「私は電気技師として烏頭山で仕事をしました。今でも八田所長の下で仕事をした事を生涯の誇りとしてい ます。一言、私の気持ちを息子さんにお伝えしたかった」と語ったという。

 私は五日に訪れたが、その前日の四日には石川県から八田與一に縁のある人や地域関係者が約100人訪れ、 現地の人々と共に追悼式を行ったとのことであった。そのため銅像や墓の周りは菊、百合、カーネーション、ガーベラ、グラジオラスなどをあしらった両国関係 者からの花輪が18個きれいに並べられており、銅像や墓は菊の花で包まれていた。嘉南農田水利協会が建設中の八田與一記念館は八割ほど出来上がり、間もな く完成する予定である。

 50年間の日本時代、その後55年間の国民党時代。そして今月20日には台湾で初めて国民党以外の政権が生まれようとしている。このたびの政権交代は台湾の歴史上極めて大きな意味を持つ変化の節目である。

 そのような台湾にあって、いかに政権が変わろうとも、事業完成後70年を経ても地元の人々から感謝を捧げ られ、死後約60年を経ても人々から神のように慕われる八田與一。我々は日本にそのような先人を持つことを誇りに思うと同時に、社会がますますグローバル 化する現代、他民族や他国との付き合い方を八田から学ぶべきであろう。


 参考文献 「台湾を愛した日本人」(古川勝三著 青葉書房)

 岩間さんにメールはkoyoyj@mail.nbptt.zj.cn


2000年05月03日(水)萬晩報主宰 伴 武澄


 きょうは憲法記念日。明治生まれのこんな役人がいたという話をしたい。祖父の話である。

 第二次大戦前のある年、岡山県津山市で大きな水害があった。津山税務署長だった祖父・伴乙衛は大胆にも被災地の農家に対して税金を減免した。農民から歓迎されたが、驚いたのは上級監督局だった。

 当時の税制では農地への地租が主たる財源だった。農家の収入に課税するのではなく農地の広さ(地価)によって納税額が決まったから、不作のときや災害時の農村は困窮した。

 そんな農村の困窮を予想したとはいえ、伴乙衛の取った措置は法律に反する行為だった。上級監督局はそれを「独断専行」と問題にした。伴署長の処分は大蔵省にまで上がった。

 ところが時の石渡主税局長(後の大蔵大臣)は「実情踏まえた適切な処置だった」と伴署長の取った行為を是認し、「むしろ法の不備を正すべきだ」として緊急勅令発動に動いた。クビを覚悟でやったことが誉められたのだから、驚いたのは伴乙衛本人だったに違いない。

 戦前は勅令という便利な法整備の手法があり、おかげでお咎めはなくなった。

 伴乙衛は民業を大切にする信念の人だった。開戦の前年の昭和15年、高知税務署長を最後に円満定年を迎え、高知商工会議所理事長に転じた。津山での税の減免はいまでも関係者の間で語り継がれる。

 ●50年続く最高裁の職責放棄状態

 国会の議論を聞いていてよく登場するのが「法制局長官」という人物である。法制局長官が「ノー」と言えば、憲法違反になったり法律違反になったりする。政府としての憲法や法律の見解を述べる「機関」となっていて、おかしなことに法制局長官はいまや「神の声」でさえある。

 だが法制局というのは、政府が新しく法律をつくるにあたって憲法や過去の判例から逸脱していないかをチェックするのが本来の仕事で、出来上がった法律が違憲であるかどうかを決めるのは最高裁の役割である。

 違憲訴訟でよくあるのが、選挙における「1票の重さ」である。だが過去の判決からみれば、東京と島根県の 「1票の重み」があまりにもかけ離れているのは「違憲だ」とされるが、選挙そのものが無効になったためしはない。最高裁は行政に対して再選挙を命じる権限 があるにもかかわらずこれを行使してこなかった。これは職務怠慢である。

 また自衛隊の違憲訴訟に関して最高裁はほとんどの場合、「高度政治的判断」を理由に「憲法判断」を避けて きた。とまれ、最高裁こそが憲法に対して政治を超えた判断を下せる唯一の存在であるはずだ。自衛隊というだれが読んでも憲法違反の組織が50年近くも生き 延びてきたのは最高裁が本来の職責を放棄してきたからにほかならない。

 そういう重要な判断を示す機関だからこそ、最高裁長官には公務員として首相を上回る最高の給与が支払われているのではないか。

 三権分立の原理は、憲法を最高規範として立法府と最高裁と行政が独立していることであるが、立法府が法律 をつくり、行政がそれを執行するという役割については理解されているが、最高裁による立法府や行政へのチェック機能についてはほとんど理解が進んでいない といわざるを得ない。

 ●法廷で違憲を立証すればいい

 さて本論である。果たして国民は法律は破ってはいけないのだろうか。憲法に違反したことを行政はやってはいけないのだろうか。答は「否」である。法律も憲法もどんどん破っていい。もちろん、法律が時代に合わなくなったと気付いたときに限ってである。

 法律を犯して、法廷で法律が憲法違反であることを立証すればいいのである。最高裁がその法律を違憲と認めれば、政府として法律を改正する必要が生まれる。問題はそんな判例が戦後、ほとんどなかっただけのことである。

 1952年、東京のレストラン主が従業員の給与から源泉徴収をしなかったことから所得税法違反に問われた 事件で、レストラン主は「企業経営者が強制される源泉徴収の経済的負担や苦役が憲法の財産権の侵害や法の下の平等などに抵触する」と違憲を主張した。レス トラン主は10年後の最高裁判決で有罪となった。その後一部で源泉徴収の違法性を問う問題提起が続けられたが所詮、独り相撲だった。

 サラリーマンの源泉徴収の違憲性を今日、最高裁に問うたらひょっとして違憲の判断が出るかもしれない。こ こらを続けてこなかった有識者や有権者の怠慢でもあるのかもしれない。古代ギリシャの哲人は「悪法といえども法は法である」と言ったが、今の時代はそんな に固苦しく考えなくともいい。法律は臨機応変変えていけばいい。

 ●首相が法を破れば救えた数千の命

 「村山首相はなぜもっと早く自衛隊を出動させなかったのか」-5000人の命を失った阪神大震災のとき、 国民のすべてがそう思ったに違いない。当時の村山首相は自衛隊の出動が遅れたことに対して「震災救助でも知事の要請がないかぎり、自衛隊は出動できない」 と法律の不備をついた。

 そのとき、われわれはその法律の壁に無力感を感じ「仕方なかった」という気分にさせられなかっただろうか。

 筆者は凡庸な政治家を首相に持ってしまった不幸を嘆きたかった。そして不遜にも「自分が内閣総理大臣だったら、最高司令官としてただちに自衛隊に出動を命じ、事後自ら法律に違反した責任を取って辞職するだろう」と考えた。

 憲法や法律はその時々の国家と国民との関係や、市民の権利や義務を定めたものでしかない。だから時代に即 応して改正されるべきものだと思っている。法律がそうした権利や義務を阻むものだったら、その法律が間違っているのである。まして何千人もの人命救助が法 律を楯に遅れるようなことがあっては何のための法律か分からない。

 法律にのっとり事務をこなすのは行政官(官僚)である。しかし、ときとして法律や憲法を乗り越えた判断を求められることがあるからこそ政治家という職業があるのだと思っている。

 あの時、村山首相が自衛隊を出動させたとして誰が法律違反を問うただろうか。仮にそうした議論が起きれば、自ら法の裁きを受ければいい。国難を救おうとする首相を罪に問える裁判官がいるはずもない。


1999年09月21日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 1995年の年賀状で「去年読んでおもしろかった本」として3冊を上げたことがある。その1冊にジャン・ジオノの「木を植えた人」と書いた。南フランスのプロヴァンスの荒れ地に毎日100個ずつ木の種を植え、森をよみがえらせた老羊飼いの話である。

 こぐま社の「木を植えた人」の初版は1989年だから古い本である。いくつのも出版社から翻訳され、ビデオもできたというからすでに読んでおられる読者も少なくないだろう。

 森がしげると雨が地中にたまり、やがて川となり、人々が住み着くようになる。たった一人の地道な努力でも何十年続けることで、自然が変わり、町までができてしまう。そんなおとぎ話のような話だが、きっとどんな人のこころにも慈雨のようにしみ込むことだろうと思う。

 先日、資生堂の広報の人と話をしていて、この「木を植えた人」が話題になった。福原義春会長が、社長だったときにこの本にいたく感動して、自費で社員全員に配ったというのだ。

 福原さんは資生堂の創始者の孫に当たる方だが、父親は経営を引き継がなかった。だからどこかの会社のよう な二世、三世社長ではない。実力で社長になった人だと信じている。アメリカ資生堂の立ち上げで食うや食わずの苦労をし、社長に就任した直後に、販売子会社 につけ回していた大規模な在庫を買い戻した英断で80年代後半、マスコミでも取り上げられた。

 その時の言葉は忘れたが「子会社に在庫を押しつけて親会社の決算をきれいに見せかけても仕方がない」とい うようなことだったと思う。今年から日本でもようやく導入された連結決算という考え方を10年まえからすでに持っていた。おかげで資生堂は大規模な減益決 算を余儀なくされ、当然ながら連続増益記録も途絶えた。バブルの真っ最中の出来事である。

 90年代には化粧品の値引き販売が始まり、河内屋の樋口社長らにより価格拘束という独禁法違反で告発された。カネボウやコーセーなども同時に告発されたが、トップ企業と言うことで矢面に立たされた。当初、資生堂は裁判で徹底抗戦する構えだった。

 福原さんは筆者が取材を通じて知った経営者の中で数少ない信頼できるトップの一人だった。それまで正義の 福原が一転マスコミでたたかれる対象となるのだから、構造改革というのはむごい部分もある。そんな感慨を持って、福原さんの真意を問うためにインタビュー を申し入れたこともある。

 会社経営がすべて善行によって行われるとは思っていない。社会的規範も時代のすう勢によってどんどん変わ るから、前の時代に当たり前のことであっても、当たり前でなくなることも多くある。1990年代は日本という国の中で企業経営に対する価値観が恐ろしいほ どに変わっていった。そんな時代だったのだと思う。

 企業の経営とは、そんな価値観の変化をどう先取りしていくかが問われる役割であるはずだ。日本がバブルに酔っていた直後に、この「木を植えた人」を社員に読ませていた社長がいたということは嬉しいことだった。

 萬晩報は福原さんに断りもなく、「木を植えた人」を贈るに際して社員にに添えた一文を転載したい。

私たちの資生堂は間もなく120年の誕生日を迎えます。人生と同じように、会社も好調のとき、苦しいときを何回も何回も経験しながら、大きく育ってきました。

1987年には経営改革のスタートを切り、1年前の1991年2月5日には21世紀の発展を見据えたグランドデザインを策定し、いまその軌道を走るスピードを上げつつあります。

このときに、皆さんとともに1冊の本をあらためて読んでみたいと思いました。

ことばは心を運びます。私はこの「木を植えた人(ジャン・ジオノ著)」という本をかりて皆さんに私の心を贈ろうと思います。そして私自身がこの本を大切に「木を植えた人」の心を考えつづけます。

この本を私とともにはたらく全社員のみなさんに贈ろうと考え、そのことを出版社であるこぐま社の佐藤英和社 長さんに相談しました。佐藤さんも私の気持ちに感動してくれたのです。私から言えば、この本を見つけ、苦労して版権を得て日本語の出版をした佐藤さんも 「木を植えた人」の1人です。

私たちもいっしょに、まず会社に中に木を植え、そして会社のはたらきを通じて社会に木を植えていきたいと思うのです。お元気で。  福原義春


 【読者の声】日本の経営者に 資生堂の福原義春会長のような心を持つ人がいることに感動しました。自分の思いを「木を植えた人」という本をかりて社員全員に自費で配るとは、なんて素敵 な人でしょう。私もあの本がとても好きです。私は、福原会長の事を、目先の利益だけを考えるのではなく、もっと先の事も考えることの出来る素晴らしい人だ と思いました。

 世の中のトップには、目先の利益にとらわれている人や、不正をしている人、などが多いのに、福原会長のよ うな間違った事をただす勇気を持つ人がいてくれることに安心しました。私は、あと数年で社会人になるのですが、こんな人の下で働けたらいいなと思いま す。(京都橘女子大学 岡田清美)

 【読者の声】今日は、ジャ ン・ジオノの「木を植 えた人」懐かしいです。秋篠宮殿下ご成婚の時、妃殿下の愛読書として有名になった本ですね。出来れば、桜を植え続けてた車掌さんの本でも読んでそちらを有 名にして欲しかったと思った思い出があります。おかげさまで 多くの学校で図書館に蔵書されました。『一生懸命な姿って素敵ですね』(岩室)

 【読者の声】いつも面白く拝読しております。21日の「木を植えた人」、実は私も読んでみたいと思いながらまだ読んでいない本です。というのは、ちょっと手元に資料がないのですが、出久根達郎さんがこの本について書いていた一文を目にしたからです。

 もとはといえば逢坂剛さんご夫妻(最初は奥さんがこの本を見つけてきてご主人もすっかりはまってしまい、 しまいには南仏まで著者と作品背景の土地を訊ねたということでした)が本書について熱烈な一文をものされ、その逢坂さんの本書についての思い入れを見て出 久根さんもこの本に惹かれた、ということでした。

 こうして考えてみると、本自体の読み次がれ方も、まるで作品のテーマと同じように人の心と様々な機会をつ ないでいることが興味深く思われます。少なくとも読み手に行動を起こさせる良書のようですね。ただ、出久根さんが一読しての感想は以外に肩すかしだったと のこと。逢坂さんの文章を読んで期待を膨らませ過ぎたことが原因だったかと自己分析されていました。(酒井 泰介)


1999年07月18日(日)萬晩報主宰 伴 武澄

 八田與一といっても日本ではだれもピンとこないだろうが、台湾ではいまも農業用水建設の恩人として人々の 心の中に生き続けている。台南県烏山頭にはいまもこの明治生まれの日本人の銅像が残り、台湾農業に尽くした逸話は中学校の歴史教科書『認識台湾』に登場 し、学校教育の場でも語られ始めている。

 6月21日の北國新聞に小さな記事があった。6月20日、台湾の嘉南農田水利会(徐金錫会長)の一行11 名が金沢市を訪れ、八田與一記念資料室をつくるため、八田與一の故郷である金沢市に資料収集など協力を求めてきたという。資料室が入る建物は同水利会が約 1億6000万円をかけて購入した円形三層の建物である。日本側は石川県の「八田技師を偲び嘉南と友好の会」(代表・長井賢誓県議)が協力することになっ たと書かれたあった。

 ほとんど感情移入のないおもしろくもない記事である。八田與一という故郷の偉人を県民に再認識させる格好 の機会を逸したのではないかと思い、北國新聞に代わって八田與一について書くことにした。八田與一については萬晩報事務局長の岩間孝夫さんが、以前から 「いつか俺が書く」といっていたが、続編をまつことにしたい。

 ●アジア最大のダム・用水路建設
 八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。

 初めは台北の上水道建設や桃園県の水利事業などに参加したようだが、彼の名前が後世に残るのは、当時アジ ア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。1920年に着 工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地であ る。

 烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。

 嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。

 このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。

 中華民国新聞局が発行する「中華週報」の最新号によると、烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水 は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神の恵みだ、天の与え賜うた水 だ」と歓喜の声を上げたそうだ。

 ●夫と一緒に妻もまた台湾の土に帰った
 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。

 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外 代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。嘉南の農民たち によって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行 われている。

 5年前、八田與一の名前を司馬遼太郎の「台湾紀行」(朝日新聞社)で知った。明治の日本人のスケールの大きさについてはもはや語りつくされているのかもしれないが、司馬遼太郎が書く明治の土木技師たちの姿には圧倒される。

 八田與一の東大の恩師の広井勇教授がいった言葉である。「技術者は、技術を通じての文明の基礎づくりだけ を考えよ」。札幌農学校で同窓生だった内村鑑三は66歳で亡くなった広井に対して「明治大正の日本は清きエンジニアを持ちました」と弔辞を読んだそうであ る。八田與一もまたそんな明治人だったはずである。

 嘉南農田水利会の徐金錫会長は金沢市で、八田與一の遺した嘉南大用水路について「約70年の歳月を経たいまも、平野に飲料水や農・工業用水を供給し続けている」と感謝の念を表明した。

 斎藤充功著「百年ダムを造った男-土木技師八田與一の生涯」(時事通信社)によれば、台湾の李登輝総統もまた「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造り上げた八田技師がいの一番に挙げられるでしょう」と語っている。

1998年12月01日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 

 大分、昔の話である。1992年7月13-16日、軽井沢で日本生産性本部トップマネージメント・セミナーが開かれ、その時以来、野村証券の相田雪雄元会長のファンである。

 ●証券市場の正常化はダウがいくらになることではない

 6年前である参加者みんなが、日本が転換期にあることを主張していた。相田氏もまた「大変な発想の転換が求められる」と発言した。しかし「日本」とはいわずに「日本人」といった。当時の取材ノートに線が引いてあるから筆者にとって印象的だったのだろう。

 「戦後日本は、いいモノを安く大量にという命題を追及してきたが、これは競争ルールの半分でしかない。最適な資源配分をしてきたかどうか。実は競争ルー ルの残りの半分は資本市場にあったはずだ。資本提供者への最低条件として期末の満足できるリターンをしてきたが実は問題なのである」

 「1958年にメリルリンチにトレイニーとして派遣されたときのショックは、株価分析で Buy の他に Sell と Hold の三つの分類があったことだ。日本では最近まで口にできなかった。日本は30年遅れていたということだ」

 「メリルリンチでは、各支店で investment forum を盛んに開催していた、教育的といいますか広報的といいますか。株価とは何か。投資とは何か。企業とは何か。それに自己責任とは何か。投資家に熱心に説明していたのを思い出します」

 日本の証券会社トップが相次いで損失補てんの責任を取って辞任した直後だったから刺激的だった。

 「証券市場の正常化は何をもって正常化とするのか。ダウがいくらになることではない。営業の正常化しかありえない。証券会社は今後整理されることもあるだろうが、ピ-クから10年、あと3、5年はかかる」。この展望は間違った。6年たっても何も変わっていない。

 相田氏は、野村証券に入社以来、一貫として国際畑を歩んだ。だから人望があっても社長にはなれなかった。野村証券の不幸はラインがバリバリの国内営業閥 で占められていたことだった。経営トップに求められる資質は、業界のボスとして監督官庁である大蔵省や自民党との太いパイプを持つことだった。欧米での金 融界の常識や変化を知っていたところで昇進には何の足しにもならなかった。

 ところがバブル崩壊で風向きが変わった。副社長から子会社の社長に天下っていたとき、証券会社による損失補てん事件が発生して、相田氏は請われて本体の 会長に就任した。国内営業のどろどろした部分に手を染めていないトップ人材が求められ、相田氏に白羽の矢が当たっただけで、証券会社の本質は一向に改めら れなかった。

 退任した田淵節雄会長は、子飼いの酒巻氏を社長に据えて、実権を相田氏に渡すことはしなかった。野村証券には当時、役員の定年制があり、相田氏は1期2年しか会長職をまっとうできないことは最初から分かっていた。

 ●市場再生には投資に対するリターンを回復するしかない
 このセミナーの少し後、日本経済再生のため企画取材で相田会長にアポイントメントを入れた。1982年から大阪支店の支店長をしていたとき、一度インタビューをしたことがあるが、当然ながら相田氏は覚えていなかった。

 インタビューは30分の約束だったが、2時間に及んだ。企業トップとのインタビューで面白いのは、約束の時間になる秘書がメモを入れに来るのだ。これは 「もうお時間です」という意味なのだ。そこでコーヒーが出てくるともう30分居座れるという暗黙の合意がある。どこの企業でも同じだった。

 相田会長は、メモをくちゃくちゃにして何回もコーヒーのお代わりをした。ちょっと余談に振れた。このときの議論も、証券業界の旧態依然とした体質がいか に自らの改革の手を縛っているかということと、企業の配当率が悪すぎるということだった。アメリカの普通の企業の配当は1株利益の50ー60%である。内 部留保はその後の話である。

 多くの日本企業はバブルの時まで、あまりにも株主への還元を怠ってきた。バブル崩壊後は利益が激減して配当原資がなくなり、アメリカ並みの還元をしているが分母が極端に小さくなっただけで、努力して分子を大きくした結果ではない。

 1998年03月02日付け萬晩報で「株価押し上げにトヨタは大増配すべきだ」 というコラムを書いて日本企業に配当重視を促した。いま日本の証券市場を救い、個人株主を市場に取り戻すには投資に対するリターンを回復するしかない。ま だまだ多くの日本企業は配当余力を残している。配当に回さず内部留保した資金がバブルですっかり底をついた教訓にいままさに学ぶべきである。


1998年11月03日(火)萬晩報主宰 伴 武澄


 萬晩報はたまには芸術を語りたい。今日は奈良に出かけ、東大寺の二月堂から荘厳な夕日をみてきた。

 二月堂は以前から奈良で一番好きな場所である。特に生駒山系に沈む夕日がいい。東大寺の森に霞がたなびき、その向こうに陽が沈む様はなんともいえない。

 欄干に寄り添って隣りで同じく夕日を見つめていたご婦人が「見ていてごらんなさい。陽が沈むとカラスが巣に帰り始めるんですよ」とつぶやいた。本当にそ うなった。どこにいたのだろうか、たくさんのカラスが空に舞い上がり、群をつくって次々と若草山の方に向かい始めた。しばらくして西の空から満月が昇り、 東大寺境内は静寂の世界に戻った。

 ●桐生の名を世界に広めた新井淳一氏
 奈良を久しぶりに訪れたのは、世界的な布のデザイナーである新井淳一氏を訪ねるのが目的だった。奈良市の元興寺極楽坊で「想像の布」という布の展覧会 (10月27日-11月8日)が開催中だ。新井淳一は自らをテキスタイルプランナーと称し、そして仲間たちは「産業主義を超えた職人」または「日本織物界 の奇才」と呼ぶ。

 といっても新井氏の生み出す布を見ない限り、その感覚は分からない。筆者が新井氏の工房を桐生市に訪れたのは12年前。パリコレクションのデザイナーたちが桐生詣でをしているという情報を耳にして新井淳一の名前を知った。

 当時、新井氏は「布は切って縫うものではない。まとうものです。布そのものに価値があるのです」と語っていた。世界中を歩き回り、多くの民族がつくり出 す布の発掘に精を出していた。三宅一生もまた「まとう」ということを言い出していた。きっと新井氏に影響を受けたのだと思った。

 いまではコンピューターで織物をつくり出す作業は当たり前だが、1986年当時、コンピューターで生地の図柄を設計するなどということは日本広しといえ ども桐生だけだった。織物の世界にコンピューターを導入したのも新井氏が先駆だった。彼の誇りは桐生から世界に発信するということだった。桐生がすごいの ではなく、新井淳一氏が桐生を世界に広めたのだからすごい。取材していて、悲しかったのは地元の人たちが新井淳一の世界的価値を十分に理解していなかった ことだった。

 ●布の市から想像の布へ
 新井氏は、12年前から「布の市」と称して地方都市で布の展覧会を開いていた。「ファッションは素材にある」ことを訴えるために、あえて旅芸人よろしく 地方巡業を重ねた。東京ではなく、中小の地方都市こそが情報伝達のジャストサイズだったのだ。その姿勢はいまも変わっていない。新しい「想像の布」展を奈 良からスタートさせた発想もそこにある。

 今日、新井氏から2時間ほど、最近の活動を聞いた。その最中に、富山県からきていた和紙の博物館の館長がやってきて、ドイツからも客人が訪れた。「想像の布」展の目玉はいくつもある。新井淳一のコンピューターによる織物はより進化していた。

 「インターネットではないが、これからの織物はいくつもの流通を経て消費者の手に渡る時代ではない。消費者がテキスタイルデザイナーになれる時代たやってきた」
 「いまわれわれが桐生で始めたことは、布のデザインを織物屋に持ち込めば24時間でどんなものでも織り上げるという手法です。質のいい素材で自分だけのデザインの生地をより安くで供給する。そんなことをやってみたいのです」

 筆者が、インターネットの登場で感じてきた同じ発想を桐生の世界的布デザイナーも感じていたことに正直驚いた。インターネットの登場でいま、いろいろな 業界で新しい模索が始まっている。ただ、新井氏にとって、コンピューターもインターネットも創作のツールでしかない点にも注目しておく必要がある。「手わ ざの魂を知らずして、なんのハイテクノロジーか」というのが持論である。

 新井氏の最近の作風の特徴は、世界各地から集めた民族衣装のデザインを基にした素材だ。オーストラリアの先住民族アボリジーニやアフリカのピグミーの衣 装のデザインをスキャナーで読みとり、コンピューター加工してデザイン化した作品がいくつか展示されていた。その哲学は「自然と人工が共存している。言い 換えれば手仕事とハイテクノロジーの共存。さらに言い換えれば古いものと新しいものの融合である」。

 もう一つの目玉は、新素材だ。新井氏は3年前から、金属繊維を考案。ブリヂストン・メタルファが、ステンレス繊維を現実のものにした。1-2ミリほどの ステンレス繊維は3400本もの極細のステンレス繊維を撚ったものだが、風合いはとても金属とはいえない。ステンレス繊維で織った衣装はこの夏、イギリス でシェークスピアの戯曲「マクベス」ですでに使われた。

 新井氏いわく「黒人に肌に実によく映えるんです」

 このステンレス繊維はしなやかさと不燃性が特徴だが、用途はまだ開発途上だ。しかし欧米ではすでに認知されているらしく、10日からニューヨークでティファニーとの商談があるそうだ。

 織物を芸術に昇華させ、こんどはその芸術をふつうの消費者にまとわせようというのが、最近の新井氏の魂胆なのだ。今週、奈良を訪れる予定の読者はぜひ元興寺と近くの奈良町物語館を訪ねて欲しい。寺院と布がマッチしている姿を目にできると思う。

 新井さんのホームページは http://www.kiryu.co.jp/arai/


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