アジア経済の最近のブログ記事

 尖閣諸島をめぐる日中の領土問題や、普天間基地へのオスプレイ配備をめぐる動きなど、昨今、マスコミで沖縄のことが報じられない日はない。そういえば、沖縄振興策として鳴り物入りで導入された日本で唯一の経済特区(一国二制度)、沖縄特別自由貿易地帯(フリートレイドゾーン)はどうなっているのか。そう思っていたら朝のNHKラジオのビジネス展望というコラムで、フットワークの良さで定評のある経営学者の関満博氏が、その近況を報告していた。

 東日本大震災後、あらためて沖縄経済特区の立地とその仕組みが注目されているというのだ。

 1999年3月、経済特区は沖縄本島中部東岸の中城(ナカグスク)湾の埋め立て地400haのうち122haの区域が経済特区として指定された。特区内では保税制度が活用でき、輸入原材料にかかる関税を保留のまま、加工した製品を輸出できる。さらに進出した企業は、日本の法人税の実効税率が約40%なのに比較し、設立5年までが19.5%、6~10年までが23%と中国の特区に近い優遇税制が受けられる。関氏によれば、特区は分譲区画と賃貸工場の区画に分かれていて、分譲区画は大半が空いているが、賃貸区画は本土から約20社が進出し、ほぼ一杯とのことだ。

 沖縄の2次産業は建設業が中心で、機械、電気などモノづくり系産業を誘致・育成することが沖縄県の悲願となっているが、進出企業の多くがモノづくりの基礎となる金型等の素形材産業が占めるという。

 たとえば半導体製造装置に組み込む流量計などのトップメーカーである東京計測は東日本大震災後、10日もたたないうちに特区への進出を決定したという。同社の生産拠点が東日本に集中していたため、リスク分散を図ることが狙いだ。しかも、沖縄は今後世界経済の中心となる東アジアの真ん中に位置している。
 http://www.pref.okinawa.lg.jp/tokku/point/05/index.html

 さらに関氏によれば、沖縄では琉球大学工学部、沖縄工業高等専門学校や工業高校8校から、毎年約2500人の理系の新卒が輩出されている。高いといわれる電気代も冬場暖房が要らないため通年では本土並み。欠点としては部品・材料関連の周辺産業が乏しいため運賃負担が大きいことくらいだという。ちなみに沖縄本島は近代的な地震観測を開始以来、震度5以上の地震は1回しかないそうだ。

 沖縄というと国防や領土問題ばかりがクローズアップする昨今、沖縄のポテンシャルをもう一度見直す必要がある。

 もう随分前になるが沖縄大学の緒方修氏(現在、地域研究所所長)に那覇市内の綺麗に管理・整備された孔子廟に案内されたことがある。聞けば、台湾政府も管理費を負担しているそうだ。この孔子廟が立地する久米は琉球王朝のブレーン集団・久米三十六姓に由来するが、緒方氏によれば久米氏はリー・クワン・ユーや鄧小平などと同じく客家を出身母体とするという。また、現在も大勢の沖縄の若者が対岸の福建省アモイ大学に留学しているとも聞いた。

 8月22日の毎日新聞(夕刊)で、沖縄近現代史の新崎盛暉氏は「尖閣諸島をめぐる日中の一部の人たちの挑発合戦にもっとも迷惑しているのは沖縄だ。......最も近く、漁業で利用してきたのは沖縄だ。日本が台湾を植民地にした時代、漁業技術の進んでいた沖縄から台湾へ指導に行き、台湾から尖閣周辺に出漁するようになった。一方、台湾の農民が石垣島でパイナップル栽培を教えた。尖閣諸島が共栄圏になっていたのだ。この歴史を参考に、沖縄や台湾の漁民、歴史研究者が時間をかけて話し合えば良い方向に進む。こういう平和的解決を探るべきだ。......米国は沖縄を施政権下に置いていたのに尖閣の位置づけをあいまいにした。日本に紛争の種を残しておく方が、日本を日米同盟に縛り付けるのに有利と考えたのではないか」と述べている。

 ところで、地震の話に戻るが、先日、南海トラフ地震の政府による被害想定が出され、あらためて被害の甚大さに衝撃を受けた。しかし、東日本大震災から、すでに1年半が経過するのに首都機能移転の議論がなされないのは、どういうことだろう。もちろん、震災後の復興支援策や除染を優先させなければいけないが、今回の大震災でも地震予知が不可能なことをあらためて知らされた。早めに準備を始めた方がよい。

 経済面で日米を機軸に据えることはすでに過去のことになりつつある。とすれば太平洋側から、アジアに近い福岡県や富山・新潟県あたりに遷都することも考えられる。

 世界史が大きな転換点を迎える今、明治以来続いてきた日本という近代国家が制度疲労を起こしている。そろそろ新しい設計図が必要だ。

 途絶えたファテマちゃんの消息

 日本人ひとりひとりの支援が、アフガンの一人の少女に " 新たな生命 " を吹き込みました!去年8月、皆さんの応援のおかげで、頭部へ貫入した銃弾の摘出手術が成功し、無事に故国アフガニスタンへ帰国を果たしたファテマちゃ ん。あれから1年が経ちました。近況のご報告をさせていただきます。

 2004年9月帰国。故国アフガンでも盛大に迎えられてから、もう1年が過ぎました。
 あのときは、日本中の皆さんから応援をいただき本当にありがとうございました。

 この1年間、私達(NPO アジア戦災孤児救済センター、現地AWOA戦災孤児のためのストレス・クリニック)は「良かった。良かった」と顔で笑いながら、心の中では「本当に大丈夫?もしも、突然に悪くなってしまったら・・・?」と不安で一杯でした。
 その不安も、1カ月、2カ月、3カ月とファテマちゃんが元気でストレスクリニックへ来院して、笑顔で学校の話や、友達と楽しく遊んだ話、さらには家族と生活する数々のエピソードを聞くうちに、だんだんと薄らいでいき、6カ月を過ぎた頃にはすっかりなくなりました。

「もう大丈夫!本当に良かった。やっぱり日本の医療技術はすごい。近藤先生、原先生ありがとうございます!」「応援して下さった日本の皆さん本当にありがとうございました!」

 来日から帰国までNHKをはじめ各TVが、日本人の善意がいかにして一人のアフガン少女に"新たな生命"を吹き込み、無事に祖国へ送り届けたかを報道し ました。また、新聞各紙もこれを取り上げ、小泉総理大臣が花束を抱えてお見舞いにこられたときは、ファテマちゃんの母親はもとより、支援の人たちの喜びも ピークに達しました。
小泉首相、心から感謝申し上げます!

"退学"になった小学校へ7年ぶりの再入学でファテマちゃんの"生命"が蘇りました。小学校は、今から7年前に"退学"になった悲しい、悔しい思い出の場 所です。"絶望"を初めて味わったいまわしい場所です。左頭部に残された銃弾のために、学校生活を激しい痛みが断念させ、絶望と激痛と死への不安と向き合 う毎日でした。その苦痛から逃れるために、わめき、あばれ・・・・・。まるで「悪夢」のようでした。でも今は再入学をはたし、心から笑い、友達と遊び、学 ぶ日々を謳歌できるように生まれ変わり、今は喜びと希望で一杯です。
「アリガトウ ジャパン!」


それからのファテマちゃん

 2008年10月、AWOAストレス/クリニック事務長だったサヒーさんの所在が不明になりました。唯一の頼りのモバイルも不通になりました。不安が襲 います。アフガニスタン情報の窓口がなくなってしまったのです。それまで、サヒーさんからの定期的なアフガン通信で理解できていた孤児たちの消息も一瞬に して消えてしまったのです。

国内難民になったファテマファミリー?!

 ファテマちゃんが「元気で生活している」「この頃少し頭痛を訴えている」「お母さんと静かに暮らしている」これらの貴重な情報も、2008年5月までは得られていました。

 しかし、2008年アフガニスタン現地NGO、AWOAの閉鎖・解散、サヒーさん(ストレスクリニック事務長)の行方不明と同時に、ファテマちゃんファミリーの消息も消えてしまいました。

セーブザチルドレン・アフガニスタン事務所から、
ファテマちゃんニュースが!

 2010年9月、日本のNGOセーブザチルドレンアフガン事務所の園田さんから救済センター宛に情報が入ります。ファテマちゃんファミリーの一員が事務所スタッフをしていて、彼女の消息を知っているとのことです。「頭痛で苦しんでいる」「治療方法を教えてほしい」

 驚きと嬉しさ!に心を躍らせながら、ニュースレターの事実確認を済ませ、丁重にお礼を書いた上で、対処の仕方をメールに書き込んだ。だが・・・。

 その返事はまだ来ていません。
 ファテマちゃんが現在どうしているのか?消息をストレートに尋ねるメールを今、書いているところです。「ファテマちゃんファミリーの一員」情報が本当であってほしい・・・祈るような気持ちです。

 作家というかジャーナリストの莫邦富がDiamond onlineに「『蛇頭』の絶版に見る中国労働力市場の変化~内陸部にまで広がる「三非」問題 」と題した面白い論考を書いている。
 http://diamond.jp/articles/-/9106

 『蛇頭』という言葉は莫さんが「発明」したことなのかは知らないが、1980年代、改革開放を標榜する中国からおびただしい数の中国人が日欧米に流れ、 不法入国と不法就労を繰り返し問題となった。蛇頭はそうした密航者たちを海外に運ぶネットワークを牛耳っていた人たちのことである。

 中国経済が巨大化し、蛇頭という言葉は聞かれなくなったが、今度はその中国に周辺国だけでなくアフリカなどから多くの不法入国者や不法就労者たちがやっ てきて社会問題化しているというのである。莫さんによれば、「三非」は、外国人の非合法入国(不法入国)、非合法滞在(不法滞在)、非合法就職(不法就 労)のことを言うのだそうだ。
 莫さんは、論考の中で、湖南省衡陽市でこのほど行われた一斉手入れについて紹介している。

 「日本では無名と言ってもいい内陸部の地方都市で、この7月に外国人の不法滞在、不法就労の摘発が行われた。ここ10年で同省最大規模の摘発と表現され るこの摘発作戦で、衡陽市のある照明器具会社で働く23名のベトナム人(うち女性が4名)が検挙され、強制送還された。例の照明器具会社は罰金の処分を受 けた」というのだ。

 なるほどベトナムから「賃金のより高い中国」に不法入国する人が絶えないのか。経済の急拡大、急成長によって中国が労働力輸出の国から輸入の国に転換し たと判断するのはまだ早いだろう。しかし、少なくとも流出だけの国ではなくなったということは大きな変化と見なければならない。

 振り返ってみれば、中国の改革開放政策が始まって今年で32年にもなる。当時、政治や経済を担っていた人たちはほとんどがリタイヤしているだけの年月が 経っている。筆者自身が1977年に大学を卒業して共同通信に入り、来年定年を迎えようとしているのだから、それこそ自分の会社人生は中国の市場経済の歩 みとほぼ重なるといっていい。

 中国経済が労働力という面で転機を迎えたとしても不思議でない。(伴 武澄)

 セルジュ・ミッシェル、ミッシェル・ブーレ共著の「アフリカを食い荒らす中国」という刺激的なタイトルの本を読んだ。フランス語では「シノフリーク」、「中華アフリカ」とでもいうらしい。一時いわれたジャパメリカみたいな表現だ。

 中国勢のアフリカ進出については、断片的な知識はあったが、この本を読んで、その規模の大きさ、ダイナミズムに圧倒された。

 アフリカでの中国は豊かさと貧しさをともに持つがゆえの強さが、遺憾なく発揮されている。豊かさが持つ資金力、そして食うためには地球の果てまでも出稼ぎにゆくという貧しさである。
 現在、中国はアフリカの資源開発の見返りとして、多くの巨大プロジェクトへの協力を実行している。すざましい のは、労働力さえも中国から輸出する様である。アフリカの労働者と変わらない賃金で何万人もの中国人労働者が海を渡っている。1世紀以上も前に、アフリカ 人奴隷に変わって中国人クーリーがアメリカの鉄道工事に、オーストラリアの金鉱にと世界中に売られていった。世界中の華僑社会はその子孫たちによって築か れている。

 クーリー時代に次ぐ第二世代目の大量移動が始まったとみていいのかもしれない。アフリカにはすでに80万人の中国人がいるのだというからすごい。むかし からある南アフリカの華僑社会が20ー30万人というから、差し引いて50万人もの中国人が産業もなにもなかったアフリカに渡っているのだ。在日中国人は 50万人といわれるが、日本は巨大な産業立国なのである。

 その50万人の中国人たちがまさに今もアフリカで生業を創造しているのだと考えるとそれだけで大きなインパクトであるはずだ。欧米人もアフリカに権益を 求めてきたが、少数の欧米人がアフリカ人の上に君臨するかたちで「統治」してきた。中国人の場合は売春婦までもが数百人単位で各都市に進出しているのだか ら、その存在感は目を見張るものがある。

 中国人たちはすでにアフリカの環境を破壊しつつあることも事実である。コンゴーの国立公園内で樹齢100年以上の熱帯雨林が伐採され続けている。しかし数十年前に日本人がボルネオの熱帯樹林を裸にしてきたという歴史がある。

 アフリカに進出した中国企業が現地労働者を人間扱いしないことから、さまざまな問題を起こし、反中国感情の高まりも相当でてきているという。しかし数十年前、東南アジアで反日暴動が起きた事実も思い起こしてほしい。

 日本は環境破壊も現地の反発も乗り越えた。アジアの経済的発展は結局、製造業の進出による技術伝播、労働者の生活向上、多くの要素がスパイラル状に影響しあってもたらされたことは間違いない。

 日本の経済進出がアジアに豊かさをもたらしたのだが、それはあくまで結果論でしかない。日本企業はアジアを豊かにしようとして進出したのではない。安い労働力を求めたにすぎない。だから恩を売るような言い方をしてはいけない。

 しかし、受け入れ国側もまた、中国に反発するあまり中国資本の撤退を招いたのでは元も子もない。成長の波に乗るまでは我慢が不可欠であろう。(伴 武澄)
10 年以上も前の話だが、『日本がアジアに敗れる日』(文藝春秋社)を書いた。その中で「技術の馬跳び現象」というキーワードをつくった。携帯電話やインター ネットなどの新分野はまさに先進国・途上国の違いがないことを証明した。この10年、既存の産業分野を持つ先進国が途上国に追い抜かれる現象も多く見てき た。ここ数年、世界の自動車産業の動きを見ていて再び「馬跳び」を思い出している。
きっかけは約1年前、中国のBYD(比亜迪)がハイブリッド車を発売し、併せて電気自動車も発表したことだっ た。ハイブリッド車ではトヨタやホンダなど日本メーカーが最先端を走っていたはずだったが、日本でほどんど知られていない中国の電池メーカーがすぐ後ろを 追走していたのだった。気が付くと世界的な投資家であるウォーレン・バフェット氏もBYDの技術に注目して同社の10%の株式を取得していた。

BYDの強みは電池メーカーであること。また製造基準があまり厳しくない中国に本拠を置いていることである。

中国ではモータリゼーションが始まったばかり。初めて自動車を購入する層が大きく、ガソリン車に対する思い入れが日欧米ほど大きくない。へき地へいけば逆 にガソリンスタンドも少ないはず。自宅のコンセントから充電できるなら電気自動車でもいいじゃないか。そんな思いで電気自動車に飛び付く人々が多いはず だ。中国の自動車市場の強みは製造者側も消費者側も固定観念を持っていないことだろう。

電気自動車が普及するのはたぶん途上国からだろうとは薄々感じていた。慶応大学の駒形哲哉准教授が『東亜』8月号に「電動車両で先行する中国」という興味 深い論考を書いていた。電動車両とは日本で言うモーター付自転車のことである。中国大陸ですでに7500万台以上の電動車両が走っている事実には正直驚い た。日本との違いは十分なパワーがあるため、電動機は「補助」ではなく、モーターそのもので、ペダルをこぐ必要がないから、ほとんどがバイクとして使われ ている。省によって道交法が違うが、多くの地域で免許証なしで乗れるところがみそなのだ。

日本の業者が着目して輸入もされているが、大阪あたりでは府警が中国製の電動自転車の摘発に乗り出したとのニュースも散見される。

日本のバイクを生み出したのは本田宗一郎だった。自転車に小さなエンジンを付けた代物だったが、爆発的に売れた。中国で登場した電動車両はまさに50年前の日本を連想させる出来事だった。

消費者が望む価格帯で売れば、消費に火が付き、さらにコストダウンに弾みがつく。そうして市場に定着した新製品は少なくない。日本では液晶電卓がそうだっ た。BYDの電気自動車はまだテスト段階だが、三菱自動車が発売したi-MiEV(アイ・ミーブ)が459万円もするのに対して、日本のガソリンエンジン 車並みの価格設定で売り出されることは間違いない。新しい分野では価格設定は製品普及の一番大きな引き金となる。

電気自動車で「技術の馬跳び現象」が起きるとすれば、それは中国しかない。自家用車はともかく、長距離走行を必要としない営業車両は次々と「電動化」する だろう。高価なリチウム電池でなく鉛電池の「電動車両」がすでに7500万台も走っている国である。だから21世紀の自動車産業をリードする可能性が強い のは中国ということになる。20世紀は自動車と石油が世界経済のけん引車だった。それは地球規模の環境問題にとっても朗報である。
 「豆満江開発」が再び動き始めた感がある。昨年来、北朝鮮の先鋒・羅津(羅先市)の名前が頻繁にニュースに登場するようになったからである。今日のニュースは日経新聞国際面「琿春-羅先間の橋・道路 中朝、整備へ協力」という見出しの記事だった。

 中国吉林省の琿春市が、羅先市との間の橋梁の補修や道路建設で合意したという内容である。これまで輸出入を大連に依存していた吉林省にとって日本海へのアクセスは長年の夢。日本や韓国との時間距離を一気に短縮できることになる。
 豆満江開発は約20年前、国連開発計画(UNDP)が北朝鮮・中国・ソ連の国境にまたがる流域を多国間で開発 しようと呼びかけた計画。資金、技術、労働力など各国が得意とする分野で貢献するユニークな構想だった。北朝鮮はこの計画に呼応する形で1991年11 月、豆満江流域の羅津、先鋒地区を開発区に指定し、外資導入のための法整備を行った。金日成の時代である。 

 当時、まだ金満だった日本は開発資金3兆円の提供に前向きの姿勢を見せていた。特に日本海側の自治体が日本海の対岸を新たなフロンティアとして見据え、「環日本海経済圏」という言葉も生まれた。
しかし、この壮大な開発計画は北朝鮮の"核開発疑惑"によってあっという間にしぼんでしまった。その後、政権を継承した金正日は、外資導入による社会的影響を考慮してか、豆満江開発はうたかたの夢として忘れ去られた。

 羅津・先鋒(現在は羅先市)が再び注目されたのは、12月に金正日総書記が「初めて羅先市を視察してからだ。新年の4日には羅先市が特別市に指定された ことが発表され、その直後に金総書記の訪中に関するニュースも流れた。特別市の意味合いについては不明だが、北朝鮮が経済開発にあたって、父・金日成が手 掛けた羅津・先鋒開発に再び力を入れるのではないかと憶測されることとなった。

 1992年から、北朝鮮が改革開放に舵を切っていれば、北東アジア情勢は様変わりしていただろうことは難くない。時を同じくして開発が始まった上海の浦 東地区を見れば歴然である。上海バンドの対岸の芦原が20年間で近代都市に変貌し、リニアモーターが新空港と都心をつなぐまでになっている。

 筆者は浦東計画の10年前から始まっていた深圳など中国の4つの経済特区の発展ぶりを見てきただけに、浦東開発に対しても楽観的未来を想像してきた。

 北朝鮮にとって、今回が最後のチャンスかもしれない。この20年間、北朝鮮もまた「うべかりし20年」を失ってきたのだと思っている。日本の数分の一 だった中国のGDPが世界第2位になり、インドを含めてBRICS諸国が台頭したたけでない。湾岸には世界一のビルとなったブルジュ・ハリファが完成し、 南アフリカではダッカー・ワールドカップが開催されるに到っているのである。このチャンスを逃せば、北朝鮮はアフリカにも抜かれる埋没国家に転落する可能 性だってある。

 豆満江開発の再来は北東アジア全体のレベルアップにつながるだけでない。日本海岸の自治体が活性化することで、日本も新たなエンジンを持つことになる。(伴 武澄)

 ■(12/4)朝鮮新報、北朝鮮のデノミ実施を確認 「外貨も使用停止に」 【日本経済新聞】

 在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の機関紙、朝鮮新報(電子版)は12月4日付で、北朝鮮ウォンの旧通貨と新通貨を100対1の割合で交換するデノミ (通貨呼称単位の変更)を11月30日に実施したと報じた。朝鮮中央銀行(中央銀行)はデノミの目的をインフレ抑制と国家の経済管理強化にあると強調した という。「今後は商店や食堂で外貨を使用できなくなる」とも説明している。
 北朝鮮系メディアがデノミを確認したのは初めて。同銀は「既に食堂などが新価格で正常営業し、絶対多数の勤労者が貨幣交換を支持、歓迎している」と自賛した。
 だが、新旧の貨幣交換には「旧10万ウォン」という上限が設けられており、それ以上の旧貨幣を持っていた場合はすべてが無効になる。そのうえに外貨使用 も制限するとなれば、交換限度以上の資産を持っていた新興富裕層の不満を招くのは必至で、混乱も予想される。(ソウル=山口真典)

 ■金総書記、北東の経済特区を初視察 「貿易の拡大重要」 【日本経済新聞】

 【ソウル=山口真典】北朝鮮の朝鮮中央放送は12月17日、金正日総書記がロシア・中国との境界周辺の羅先(ラソン、北東部)市を訪れ、水産物加工品などを扱う羅先大興貿易会社を現地指導したと報じた。具体的な日時は不明。ラヂオプレスが伝えた。
 朝鮮通信(東京)によると1991年に同地域を経済自由貿易地帯に定めて以降、金総書記の訪問は初めて。金総書記は同地域を「重要な対外貿易基地」と位 置付け「対外貿易は絶えず拡大させるべき重要な事業だ」と強調。「対外貿易は信用第一主義の原則順守が極めて重要だ。輸出規律を守り商品の質を高める闘争 を強化すべきだ」と指示したという。
 北朝鮮は国連開発計画(UNDP)が推進する羅先を含む豆満江(中国名・図們江)開発計画から脱退したと明らかになった。総書記の視察には、独自の開発継続と外資誘致をアピールする狙いがあるとみられる。(01:53)

 ■羅先市を「特別市」に 北朝鮮、中央指導部が直轄 【日本経済新聞】

 【ソウル=島谷英明】北朝鮮の朝鮮中央放送は1月5日、北東部の咸鏡北道でロシアとの境界に近い経済特区、羅先(ラソン)市を「特別市」に指定するとする最高人民会議常任委員会の4日付の政令を報じた。
 ラヂオプレスによると、特別市は中央指導部の直轄市を意味し、北朝鮮では平壌市と羅先市の2つとなる。羅先市は1990年代前半に前身の羅津市が自由経済貿易地帯となり、特別市に指定された。その後2000年代に入って中央指導部の直轄から外れたとされていた。
 北朝鮮メディアは昨年12月中旬、金正日総書記が羅先市を現地指導し、対外貿易発展のための指針を提示したと報じていた。(13:04)
  今日は天安門事件から20年目の6月4日。1989年はベルリンの壁が崩壊し、サミットで初めて環境と経済の調和の必要性が議論された。日本では天皇が崩 御し、リクルート問題で竹下首相が辞任した。東京証券取引所の平均株価はピークの3万9000円を付けるなどバブルの絶頂だった。にとっても大きな節目の 年であった。筆者は4月から外務省を担当し、いくつかの節目の取材に携わった。

 担当して最初のテーマはOECD閣僚会議とサミット(当時は先進七カ国首脳会議=アルシュ・サミット)。主要議題が何になるのかに関心が集まった。度肝 を抜いたのは日経新聞が「環境がサミットの議題に」という記事を一面トップに掲載したことだった。まだ「環境」などという言葉が見出しに躍る時代ではな く、「公害」が一般的だった。冷蔵庫やクーラーに冷却媒体として使うフロンは問題になっていたが、「地球温暖化」は初めて聞く言葉だった。抜かれたという よりも「環境ってなんだ」「世界経済を語る場で何が環境なのか」といった疑問の方が大きかった。
 5月末からOECD閣僚会議などに出席する外相、通産相などの同行取材でパリとデンハーグを訪れた。デンハー グのホテルで朝、テレビをつけると天安門広場が映っていた。広場に居座る学生たちに対して、党中央は軍隊を出動させたのだった。本社に電話すると「経済の 原稿はいらん。ホメイニも死んだ」。編集局は中国一色となっていた。そもそも日本ではリクルート事件で竹下登首相が退陣し、3日に宇野宗佑外相が後継首相 に就任したばかりだった。世界が大きく動いた時期に自民党はとんでもない人物を首相にすえてしまっていたのだった。

 学生たちは胡耀邦元総書記の追悼のため、4月から天安門広場に入り、民主化を求めてそのまま抗議行動を続けていた。5月に入るとゴルバチョフ書記長の北 京訪問があり、世界中のメディアが北京にやってきて、天安門広場で起きている学生たちの行動を衛星放送で中継し始めた。衛星放送の黎明期でもあり、天安門 広場での出来事はそのままCNNの衛星放送を通じて、世界各地の茶の間で放映されたのだ。天安門事件は、その後の湾岸戦争に先立って、CNNがワールドワ イドなネットワークを確立するきっかけとなったメディアにとっても大きな事件だった。

 天安門広場での学生たちの動きはどう発展するのか、外務省中国課でも議論が続いていた。筆者の取材では6・4の直前まで「大したことにならない」と楽観 的だった。西側メディアは「虐殺」と見出しを打ったところもあった。筆者の頭に浮かんだのは「奪権闘争」という文字だった。文化大革命を経て、鄧小平が3 回目の復活を果たし、1978年から改革開放が始まったが、中国政治は安定からほど遠かった。巨額の日本の資金供与(円借款)を得て経済の安定を図り、か ろうじて政権を維持していたのが、鄧小平派だった。

 天安門事件の伏線は前の年からあった。1988年夏、北京ではインフレ論争で熱くなっていた。経済の過熱でインフレ率は2割を超え3割に達しようとして いた。1987年に胡耀邦はすでに失脚し、趙紫陽が総書記に就任していた。改革派の趙紫陽はそのまま中央突破を図ろうとしていたが、李鵬ら保守派は経済調 整が必要だと巻き返し、指導層では水面下で保守派が主導権を握りつつあった。筆者も同行した9月のた日中経協の訪中ミッションでトップ会談の相手が突如、 趙紫陽から李鵬に変更した。会談相手が変わるということは中国の路線変更の証しでもあった。

 表面上は経済成長をめぐる路線対立のようにみえたが、実は革命以来、中国共産党内で続く奪権闘争の延長だったのだ。文革は劉少奇を筆頭とする実権派に対 して毛沢東らが起こした奪権闘争だった。文革後は鄧小平ら改革派と李鵬ら保守派の微妙なバランスの下で中国は経済改革を進めていたが、天安門事件を引き金 に党内抗争が爆発寸前となったと解釈すべきなのだ。

 筆者は天安門事件について「自由化抑圧」などという安易な批判を避けてきた。危機的状況を背景に、鄧小平としても、泣いて馬謖を斬らざるを得なかったの だと解釈している。あのまま趙紫陽路線を続けていれば、文革に伍した動乱に突入した可能性は非常に高かったはずで、現在の経済的繁栄もなかったことだけは 確かだ。

 中国が動乱に陥れば、アジアどころか国際政治が大きな混乱に陥る。ここ10年、日本の知識人や報道の中でも反中国の論調が強まっているが、昔も今も中国は日本を必要としているはずである。(伴武澄)
 最近、「人民日報ヘッドライン」をメルマガで購読している、昨日の「中国には3度目の「日本に学べ」 ブームが必要」という長文のコラムには腰が抜けんばかりに驚いた。中国共産党の機関紙にこんなことが掲載されるのは何十年ぶりかもしれない。中国がこのと ころの経済成長にうつつを抜かし、日本などなんともないと考えているのだろうと思ったら、そうでもないようだ。

 言論統制の国だから、このコラムがいつ何時なくならないとも限らない。以下にコピーをさせてもらおうと思う。http://j.people.com.cn/94475/6575806.html
 
 学習上手は自信の表れ

 中国の30年間の改革開放が巨大な成果を得られたのは、外国の経験を謙虚に学んだことと密接な関係がある。だが金融危機によって私たちは、欧米の発展理 念や制度のいくつかが、中国のニーズには決して適さないことを目の当たりにした。もし中国が将来の発展において、より選択的に外国から学ぶ必要があるとす れば、主たる目標は依然として日本であるはずだ。私たちには3度目の「日本に学べ」ブームが必要だ。(文:庚欣・日本JCC新日本研究所副所長)

 中国人は過去2回、日本に学んだ経験がある。最初は100年前、甲午戦争(日清戦争)に失敗した後だ。中国人は恥じ入って果敢に敵を師と仰ぎ、その後、 日本語の「外来」新概念が四書五経の言葉を圧倒した。辛亥革命、五四運動、国共両党を主導した先駆者の大部分は、これら新概念の実践者だった。次は30年 前だ。鄧小平氏が日本を訪問して、オートメーションを体験し、新幹線に乗車して高速を体感したことで、「日本に学べ」ブームが国内に沸き起こり、日本の技 術は「現代化」の別名とすらなった。

 だが、これら 2度の学習には、遺憾な点もあった。最初の学習では、多くの人が日本は「小西洋」で、「西洋の学問の東漸」の「道具」にしか過ぎぬと見なした。2回目の学 習では、多くの人が日本は「経済の巨人」で、「技術と管理」の「育成訓練班」にしか過ぎぬとみなした。「道具論」と「技術論」は、あたかも2枚の葉が目を 遮るように、私たちの日本社会全体、特に人と文化の面への関心に影を落とした。

 日本は後発の東洋の島国で、20世紀初頭に30年で「列強」の列に加わった。第2次世界大戦で失敗した後も、わずか20年余りで欧州諸国を抜き、世界第 2の経済大国に上り詰めた。一方私たちは、日本より優れた「ハードウェア」を持ち、30年間の高度成長を経たが、日本などの先進国との間になお相当大きな 開きがある。この点だけでも、謙虚に学ぶ必要がある。過去 2回の日本学習は情勢に迫られてのものだったが、今日も依然としてそのままだ。世界の大変動、欧米モデルのボトルネック、私たち自身の発展上の困難、その いずれもが、さらに高く、さらに全面的な視野で再び日本に学ぶことを、私たちに迫っている。中国には現在、真剣に経験を総括することが求められている。そ してそれにも増して、日本との開きを探り当て、追い越すことが求められている。結局のところ、学習上手は自信の表れでもあるのだ。

 中国は日本から何を最も学ぶべきか

 中国が日本に学ぶにあたり、基本となる2つの点がある。第1は最大の共通点、第2は最大の相違点だ。中日の国情の最大の共通点は人の多さだ。そして最大 の相違点は「人」の作用が異なることだ。中国において「人」は負担であり、困ったものであり、社会の財産を分割する「分母」であると見なされることが多 い。一方日本において「人」は、日本の最大の財産であり、長所であり、資源を創造し、あらゆるものを創造する「分子」であると見なされることが多い。分母 を分子に変えられるか否かの鍵は教育にある。

 中国の3度目の日本学習の要諦は「人の教育」に概括される。日本の本来の条件は中国より劣っている。日本の底力は一流の、組織された人材にあるのだ。近 代の日本の台頭を「片手に銃、片手にペン」と形容した人がいる。だが過去半世紀余り、日本人自身はより後者を重視し、教育立国を発展の柱と見なしてきた。 100年前、日本の田中不二磨・枢密顧問官は訪日した中国の実業家・張謇に「国の強さは兵ではなく教育にある」と語った。中曽根康弘元首相は「日本が世界 2位の経済大国になれたのは、教育の普及と発展の賜物だ」と総括した。

 日本の教育の最も重要な特徴は、「普及」を重視し、「向上」に長けることだ。日本は明治維新以来一貫して、全国民への教育の普及を国策としてきた。1億 3000万人の日本人は、高い入学率、終身教育、資質教育から深い恩恵を被っている。08年には、教育のバックグラウンドを日本に持つ4人の研究者がノー ベル賞を受賞し、再び世界の人々が日本の教育に注目した。このうち物理学賞を受賞した益川敏英教授は英語が堪能でなく、パスポートすら持っておらず、日本 国内で教育を受けた人々の代表と見なされている。受賞を知った益川教授の第一声「大して嬉しくない」は直ちに流行語となった。だが、尊敬する先輩である南 部教授との共同受賞であると知らされると、益川教授は感極まって涙ぐみ、「ずっと南部先生を仰ぎ見てきた。その先生とご一緒に受賞できるなんて、本当に感 激です」と語った。自分の名利は全く気にかけないが、尊敬する師のことになると感極まって涙ぐむ、教育学の視点から見ると、このような心がけはノーベル賞 の受賞よりも尊いものだろう。この大学者は、反戦運動の活動家でもある。このような人物は日本では決して珍しくないのだ。益川教授の後に、再び私たち中国 の現在の教育におけるいくつかの悪弊に目を向けると、「点数第一」ではなく「名利追求」あるいは「学びて優なれば則ち仕う」であり、大学さえもが行政上の 等級を賜っている。このような教育理念・制度・基準・内容の下では、中国というこの人口大国は、いったいいつになったら、上に優れた大家、下に合格水準の 労働力を擁する人材大国になることができるのか。

 教育の発展なくして人材の輩出なし

 将来の世界で鍵となるのは人材競争であり、これは教育競争と言い換えてもいい。今日日本は省エネや環境保護などの新興分野でいずれも強い競争力を備えているが、世界の人々が最も注目しているのは、やはり日本の教育の成果だ。中日間の最大の開きはここにある。

 改革10年記念の際、鄧小平氏は「改革10年の最大の失策は教育にある」と述べた。今日中国では、教育の改革と発展が、あらゆる分野の中で最も難しく なっている。大学入試の再開から08年で30年になるが、これは文革前の17年の体制を復活しただけだ。中国全体が「17年体制」を乗り越え、世界と軌道 を合わせている時に、教育は何をじたばたしているのか。日本ではどんな功労も教育の記録に書き加えられる。日本では何か悪弊が生じると、教育もその責を逃 れられない。小泉氏が靖国神社を参拝した際は、日本国内の多くの人が教育に問題があると非難した。中国には今日失敗があり、教育も当然それを免れ得ない。 日本は戦後の廃墟の中から立ち上がり、30年後には世界一流の企業を多く擁し、自主開発した大量の先端技術によって世界をリードするまでに発展した。日本 は長期間にわたった「平成不況」の際も、教育や科学技術をおろそかにしなかったばかりか、勢いに乗じてGDPからHDI(人間開発指数)への発展モデルの 転換を実現し、今日もなお世界の先頭を歩んでいる。

 人類の発展は子どもの成長と同じで、表面的な実力の重視から総合的な実力の重視へ、資源やGDPの重視から人材や人の自由な成長の重視へと移っていく。 今後の競争における鍵は人材だ。人口大国である中国は、最大で、最も貴重な人的資源を、決してないがしろにすべきでない。教育の発展がなければ、人材を輩 出できず、人口を人材に転換できない。中国はたとえさらに20%成長したとしても、資源、環境、労働力に懸命であらねばならない。米国が借り越しているの は金だが、中国が借り越しているのは資源、環境、労働力なのだ。新発展観は「教育、健康、立派な生活」を基本要素としているが、これは中国にとってなおさ らに深い意義を持つ。今回の金融危機によって、再びすべての国々が危険と機会の二重の挑戦を前にしているが、中国はどこへ向かうべきなのか。中国の教育は どこへ向かうべきなのか。日本を見れば、必ずその啓示を得られるだろう。(編集NA)

 「人民網日本語版」2009年1月16日
2008年05月28日(水)
高知工科大国際交流センター長 伴 美喜子
「マハティール前首相、UNMO離党」のニュースを知った時、2つの思いが頭をよぎった。

 ―マハティールは年をとって、気でも狂ったのか!?
 ―政治とは不可解なもの。何でもありなのだろうか。

 実はこのニュースは余震であった。大地震は2008年3月8日の第12回総選挙で起きている。UMNO(統一マレー国民組織)を中核とするBN(与党・ 国民戦線)は、解散時の198席を140席にまで後退させ、連邦を構成する13州のうち5つの州議会で野党に破れたのである。前回2004年の総選挙で9 割という史上最高の支持率を得ていながら、今回は「3分の2割れ」という大敗ぶりである。

 マレーシアの政党は単なる政党ではない。好むと好まざると、BNはこの多民族国家の屋台骨で、この体制は百年ぐらいは続くだろうと見ていた私は、「これ は大変なことになるぞ!」と思った。マハティール時代に定着したと思われる「国のかたち」が揺らぎ始めたのであろうか。

 5月の連休に「民族の政治は終わったのか-2008年のマレーシア総選挙の現地報告と分析―」と題する緊急?公開フォーラムが関西マレー世界研究会の主 催で開かれた。中堅・新進気鋭の研究者の分析を聞きながら、私はリーダーシップ(個人の影響力)ということを考えていた。今回マレーシアで起きていること は、マハティールという強いリーダーシップを失ったことによる現象ではないか。アブドゥラ首相はこの4年間何をしてきたのだろう。そして、MCA(マレー シア華人協会)やMIC(マレーシアインド人会議)の党首たちは?もう一つの鍵はアンワル元副首相の事実上の政治復帰。彼はこの国をどこへ導こうとしてい るのか。マレーシアは果たして民族横断的な社会に移行できるほど成熟しているのだろうか。

 マハティール前首相のUMNO離党は、ショック療法ではないか。「この国が危ない!マレー人、目覚めよ!」 1990年代後半の経済危機、政治危機の折 の前首相の、英断、実行力を思い出した。しかし、同氏が首相の座を引いてもう5年も経っている。人々の心が離れていっていることも事実だろう。

 KLの友人たちに聞いてみた。マハティールの強い支持者だった一人は言う。

「マハティールはもう出てくるべきではない。これから大変だ。マレー人社会は四つに分裂してしまったよ。マハティール、アブドゥラ、アンワル、そしてPAS(汎マレーシア・イスラーム党)。」

 遅かれ早かれ、ナジブ副首相が、首相となるだろう。ナジブの動きとリーダーシップが問われることとなる。

 私は拙著『マレーシア凛凛』で描いた「Sejahtera(平和な)Malaysia」が永遠であること、そして20世紀を代表するアジアの指導者マハティール前首相が晩節を汚さないことを祈らずにはいられない。

 2008年05月26日
 マレーシア世界の窓(日本マレーシア研究会=JAMS)より転載
 http://jams92.org/

 伴さんにメール mailto:ban.mikiko@kochi-tech.ac.jp
2008年03月13日(木)
韓国ウオッチャー 引地達也
  2年前の秋。ソウル市長の任期を終え、大統領選への出馬を事実上表明していた李氏について、複数の韓国捜査関係者や政府筋は「李明博は必ずつぶれる」と何 度も明言していた。ソウル中心を流れる小川を復元工事した「清渓川事業」に絡む汚職、そして株価操作。捜査機関が動き、大手マスコミも独自の調査を続けて いた。やがて株価操作に検察の捜査が入ったが、結局、大統領選挙直前に「李明博氏に関与はない」との検察の異例ともいえる発表を行い、検察も李明博という 勝ち馬に乗った政治的な判断を下すこととなった。

 そして、この瞬間、李氏が大統領の実権を握ったのである。検察権力が韓国社会の病巣だとして、検察改革を断行しようとしてぶつかり合った盧政権は就任早 々から対検察にエネルギーを消耗し、結局は挫折したことを考えると、李氏は早々と検察を味方につけたことになる。そして、古今東西、疑惑に打ち勝った政治 家は強くなるのが定説。事件をくぐり抜けて、李氏がますます意気軒昂と感じるのは私だけではないだろう。

 その各政策に目を向ければ実権を持つ李大統領なりの「強さ」がふんだんに織り込まれているのだが、紙幅の関係上、外交だけに焦点をあてる。まずは北朝鮮 政策を外交の一環とたらえる「外交政策の一体化」を目指した人事。盧政権は「アマチュア政権」と揶揄される原因となった市民運動出身のスタッフなどを徴用 した大統領府(青瓦台)と、南北統一を目標とする「理念」先行型の統一省、そして実際に外交現場を担わされている外交通商省が、それぞれの目線で政策を考 え、実行し、それぞれの立場は乖離したまま、国家の外交としてのダイナミズムが失われた反省がある。李大統領はまずはトップダウンの実行に対応する組織作 りと人員の配置を考えたようだ。外交通商相と統一相の人事はその顕著な結果であろう。

 外交通商相の柳明桓氏は日米に強い職業外交官であり、統一相は在中国大使をつとめた金夏中氏。韓国外交通商相だった現在の国連事務総長である幡基文氏の 後任人事でも実力派の外交官としてこの2人の名前は取り上げられていたが、結局は当時、青瓦台の首席補佐官だった宋ミンスン氏がおさまった。

 外交政策の一体化は外交スタッフにも大きな影響を与え、筆者が盧政権時に外交スタッフからよく聞いた「トップが変人だから」との諦めにも近い説明はもう 通用しないだろう。「失われた5年」を取り返すように、外交が動きだし、北朝鮮政策も対日、対米も有機的に動き出すはずである。スポーツを例に出すまでも なく、韓国社会は人と人、組織と組織が「有機的」に結びつくときの異様な力を発揮するのである。

 李大統領が4月中旬に訪米しブッシュ大統領とキャンプ・デービッドで会談する予定だというニュースは印象的だ。盧大統領は在任中、3度訪米しているが、 後半ではキャンプ・デービッドで蜜月をアピールするブッシュ大統領と小泉純一郎首相への焦りもあり、韓国外交当局は米側にキャンプ・デービッドでの会談を 申し入れ、米側から一笑に付されるという経験がある。任期終了が近いというブッシュ政権の事情もあるにせよ、韓国にとって願ってもない対米外交の再スター トであり、この場で米韓同盟の「未来ビジョン」を発表するには格好の演出である。

 そして対日外交は、就任前の朝日新聞などとのインタビューで「歴史認識を問題化しない」と明言した。竹島(韓国名・独島)の領有権問題や教科書、小泉純 一郎首相の靖国神社参拝でシャトル外交が途絶えた時に比べれば、安倍晋三政権以降、回復基調にある日韓関係をさらに正常化、そして友好関係へと導く発言で ある。しかし、実権を握った大統領がそう言っても、日本のリーダーが靖国神社に参拝すれば、竹島について不用意な発言をすれば、韓国民の反対の声を抑えき れはしない。そう考えれば、これらの発言は「歴史認識が問題となるようなことをしないでくれ」というメッセージであり、先制パンチであると見た方がよい。 李大統領の対日融和と言うべきこの発言を受けた上で、日本側がそれを無視する行動をした場合、李大統領が大規模な反日の声を背景に厳しい姿勢に転じるのは 間違いない。

 そして、北朝鮮政策。金大中元大統領から続く融和政策は基本的に続けるが、金剛山の観光事業や開城工業団地など南北融和という強い信念を持った「現代グ ループ」に支えられながら続けられている事業は「民間主導」という形で維持するが、そのほかは前述した通り国際外交の一環として位置づけ、是々非々で対応 することになる。一方の北朝鮮側は常套手段である「韓国の沸点を見極め」ようとするはずで、まずは3月初めの米韓合同軍事演習の非難を始める。さて、李大 統領はどこで怒り、どこで笑うのか。注目したい。
2006年10月07日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 今夜は台風一過の東の空に十六夜の月が上がった。昨夜の東京は風と雨の夜となり、仲秋の名月を拝むことができなかった。十六夜とはいえ、名月を拝むことが出来ることはありがたいことである。

 京都に住むガールフレンドに思わず携帯電話して「東の空をみてごらん。十六夜の月がきれいだよ。どこで月見しているのさ」と聞いた。返事は「いま雨が降 り出したの。昨日の夜、10時ごろ空が晴れて仲秋を見れたのよ」ということだった。そうか、西日本では台風の影響がなかったのだと羨ましかった。

 関西に何回か住んで仕事をしたことがあるが、仲秋が近づくと関西のマスコミは一斉にその日の天気を気にし出すのである。人々は新聞やテレビ・ラジオを通 じて、今年もまた仲秋がやって来るのだということを実感して、今年はどこで"だれと"中秋の名月を愛でようかと考えるのだ。これは関東にはない日本の風雅 であろうと思った。ビジネス一辺倒の東京では味わえない会話が今も関西にはあるのだということを忘れてはならない。

 明日は安倍首相が中国の胡錦濤総書記と会談する。名月を愛でる風習は東洋の美徳であろう。日本はアマテラスという太陽神を崇める国家ではあるが、実は心 は名月にあるのだ。この心は中国も韓国も一緒であろうと思う。ちなみに月読尊(ツクヨミノミコト)はアアテラスの妹なのだ。

 中国で仲秋を祭る時、忘れられないのが月餅である。私事であるが、昨年、高知工科大学に勤める姉が昨年、中国に出張して中国の月餅をたくさん買ってきて中国人留学生にお土産にしたそうだ。中国人留学生の喜んだこと、ひとかどではなかったそうだ。

 かつて名月をはさんで日中が同じ感傷にふけった史実がある。奈良時代、遣唐使として唐に渡った阿倍仲麻呂が故国の名月をしのんでうたった和歌「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」を思い出す。

 昨夜の北京の天気は知らない。でも明日の夜、安倍首相が「一昨日の名月は愛でましたか。いや東京は大雨でして残念しましたが、十六夜は美しい月でした」なんて話し掛けたら一気に盛り上がるのだろうと思う。

 さらに新宿・中村屋の月餅の由来について「孫文と関わりが深いのです」とでも語れば、日中は再び新しい友好関係を築けるはずだ。

 東京の新しい家の庭には植えたばかりのホトトギスと紫式部のむらさきの花が咲き誇っている。
2005年04月11日(月)萬晩報主宰 伴 武澄
 中国で反日デモが拡大している。9日の土曜日の北京で始まり、翌10日は南部の広州や深センに広がった。デモの規模は初日の1万人から2万人に増えた。多くのプラカードや横断幕を掲げているが「日本製品ボイコット」への呼び掛けが中心だ。

 この動きが大陸全土に広がるのかどうか、予断は許さないが、共産党独裁が続くこの国で大規模なデモが許される背景にも気を配らなくてはならない。鬱積し た人民の不満が「反日」という形である種のはけ口になっていることは間違いないが、政権内部で政治路線を巡って奪権闘争が起きている可能性も否定できな い。

 天安門事件を見るまでもなく、共産党中枢部にとってデモの暴走ほど恐いものはない。常に政治的抑圧状態にある中国では、大衆行動が起きる背景には必ずといっていいほど「体制批判」のマグマが存在しているからだ。

 日本人にとっては「寝耳に水」であるこのデモの扇動者は見えない。発信源は分からないが大量のチェーンメールが人々を街に繰り出させる引き金となっている。

 そのチェーンメールの日本語訳が萬晩報にも届いたので、読者のみなさまに紹介したい。ご意見お待ちしています。



皆様。インターネットで流される「反日メール」をそのまま翻訳してお見せします。今まで 中国側の6人からこのメールを送られてきました。この6人は、僕と同じ世代で中国のマスコミ関係者です。地位は、テレビ局のPと新聞社の編集長、そして会 社の重役です。彼ら(女性もいる)はデモに参加しないが、メールに賛成しているようです。これは、中国の現状です。

 ■全国人民への提案書

5月1日から6月1日までの間、日本商品を買わないよう、すべての中国人に願いたい。なぜ、時期を一ヵ月後に定めるかというと、この通告を気骨あるもっと 多くの中国人に知らせたいから。国産商品に興味なく、日本商品に愛着強い人々に対しても、5月の間にだけ、そのような愛着を抑えて、「抵日連盟」(※ 日 本商品抵抗連盟)の日本商品抵抗運動に協力するよう強烈にお願いしたい。

今現在の現実状況からみれば、すべての人々に徹底的に日本商品をボイコットしてもらうことは無理だろう。しかし、ある程度の期間中に、すべての中国人が完 全に、かつ徹底的に日本商品を拒絶することが実現可能だと思われる。だからこそ、今に行動をして、まわりの更に多くの親戚、友人、同学、同僚にこの知らせ をしよう。全世界の中国人のパワーを集合させて、醜い日本に対する厳しい一撃を与えよう。

日本商品ボイコットが一つの戦争だと思えば、5月は一つの戦役となるだろう。行動に移せば勝利は収められる。

日本の松下という会社のある重役が、「我々が靖国神社へ行かなくても、韓国人は我々の商品を買ってくれない。しかし、我々が如何に靖国神社を参拝しても、 中国人は我々の商品を買ってくれる」と言っていた。これはまさに、中国人たちを淋しくさせる一言である。

100元の日本商品を買ったら、日本政府に5元の利益を提供することになり、日本の自衛隊に10個の銃弾を多く製造させ、反中の教科書を8ページ、より多く印刷させることになる。
・・・(数行、文字化け 削除)

この通告を20人に送って頂こう。中国を支持し、日本商品をボイコットしよう。利益が戻らなくても、これは貴方の義務でもあるじゃないか!

中国人であれば、この通告を次ぎの人に知らせておくれ!感謝している。
2004年12月05日(日)萬晩報主宰 伴 武澄
 ■満面笑みの会談

 チリのサンチアゴで開かれたアジア太平洋首脳会議で小泉純一郎首相と胡錦濤国家主席が会談した。中日新聞に掲載された共同通信の写真は、「胡主席、靖国 参拝を直接批判」という記事の見出しとは裏腹にともに満面笑み。これ以上の笑顔はないという顔をしていた。小泉首相がブッシュ大統領との会談で見せるへつ らいの笑顔とは別物だった。互いに「ようやくお会いできました」という喜びを表現していた。

 二人が何を話したか本当は知られていない。靖国問題や原潜の領海侵犯といった問題に終始していたはずがない。ひょっとしたら、アメリカ抜きのアジア経営をどうするか話していたかもしれない。

 多くの首脳会談は双方の政府が発表する内容とは別の話をしている。その昔、外務省を取材していた時、聞かされたことがある。本来、国と国とが仲良くする ための会談が、相手を挑発するテーマばかりの応酬であるはずがない。敵対するためならばそもそも首脳同士が会う必要もない。だから双方の政府から発表され る内容はあらかじめ政府間で話し合って作成されたテキストに沿ったものでしかないと理解しておくべきだ。

 ■対中ODAは必要なのか

 小泉・胡錦濤会談の翌週、こんどはラオスで小泉・温家宝会談が行われた。会談内容についての日本側のレクチャーでは、靖国問題は直接的には言及されな かったことになっていた。しかし中国側のレクチャーでは「具体的に指摘があった」と発表された。お互いに都合にいいように発表することはこれまでの日米首 脳会談でもたびたびあったことだからことさら荒立てる必要もない。

 ところが、3日の産経新聞とNHKで、対中ODAに関する真っ逆さまのニュースが報道された。ラオスでの日中首脳会談の内容をめぐり、産経新聞は温家宝 首相が「ODAは必ずしも必要としていない」と述べたと報道した。ニュースソースについては複数の日中関係筋とした。

 外資による10億ドル級の対中投資が相次ぎ、まがりなりにも中国経済は成長軌道に乗り、中国元の切り上げが国際的に求められるのが中国経済の現状であ る。大局的にみて中国経済が日本のODAに大きく依存していた時代はとうに過ぎている。

 しかし、この時点で温首相が公式にODA不要論を打ち出すと政府内での立場は悪くのになぜそんな踏み込んだ発言をしたのかと思った。そんな感慨で産経新 聞の一面トップ記事を読んだら、こんどはNHKが夜7時のニュースで「温首相が、日本政府の責任者からODA打ち切りに関する議論が出るのは理解しがた く、中止すれば両国関係ははじける状況になると日本側をけん制した」と報道したから驚いた。

 ■日中関係の溝を深める結果

 先に述べたように、首脳会談の会談内容について双方の政府発表にニュアンスの違いがあったり、会談内容に差異があったりすることは珍しいことではない が、こうも正反対の報道がなされることは稀である。産経は「温家宝首相がODA不要を通告」と書いたのに対して、NHKは「ODA中止で日中関係がはじけ る」と報道したのだが、真っ逆さまな記事の内容であるにもかかわらず、どちらも日中関係の溝を深めるに十分な報道だったことは指摘しておかなければならな い。

 不思議なことに、他のメディアはこの問題についてその後、一切言及していない。対中ODAは、すでに一部の識者から不要論も出ている。「軍拡を進める国 にODAはいかがなものか」という論調にうなずく国民も少なくないはずだ。

 三重県にいて、日中首脳会議の内容を取材することはほとんど不可能であるが、このところの一連の中国報道、北東アジア報道を見て強く感じるのは、どうや ら日中間にくさびを打ち込みたい人間たちがいて、世論に揺さぶりをかけているのではないかということである。

 1980年代に、日中蜜月時代があった。鄧小平、胡耀邦、趙紫陽というリーダーたちがこぞって日本と良好な関係を築き、日本側もそれに応えた。その良好 な関係は天安門事件を境に一変した。江沢民総書記の登場がそのきっかけだった。不思議なことに日本経済の失われた10年か江沢民総書記の時代とそっくり重 なる。

 その江沢民時代が終わり、鄧小平の直系といわれる胡錦濤総書記に代わり日中関係が好転する兆しが現れていた。そこに東シナ海の海洋権益問題や中国潜水艦 の領海侵犯問題などが相次いだ。資源の問題はともかく、今の時点で日中双方にとって関係をことさら悪くしなければならない環境にはない。

 マスコミはニュースソースがどういう意図で情報をリークしているのかもっと慎重に検証する必要がある。残念ながら、報道に関わる人々はそんなことまで考えなければならない時代になったと言わざるを得ない。
2004年03月23日(火)台湾在住 曽根 正和

2日前の3月20日、台湾は次期総統および副総統選挙の投票が行なわれた。候補者は現職の陳水扁総統と呂秀蓮副総統に対し、国民党党首連戦総統候補と親民 党党首宋楚瑜副総統候補である。午後4時の投票締切り後、直ちに開票が行われ3時間後の7時ごろには結果が出た。投票率80%、投票数合計1300万近く である。マスコミをはじめ大方の予想に反し、陳水扁総統と呂秀蓮副総統が僅差の勝利で終わった。

しかし、選挙管理委員会が集計結果を正式発表する前後に、負けた連戦候補は選挙の無効を主張し、選挙本部に集つまった支持者に対し抗議行動を話した。その 結果、国民党本部の前(ちょうど総統府のまん前)は抗議参加者で道がふさがれ、今も混乱が続いている。総統府を守る警察官との小競合も生じている。こうし た状況をテレビをはじめ報道機関は全世界に向けて報導しており、台北は選挙のため混乱があちらこちらで起きているような錯覚を与えかねない。事実、株価は 敏感に反し、全面安となった。しかし、少し離れた市井の庶民はいたって平穏、いつもと変わらない生活をしている。

日本のすぐ隣で起きている、不思議な政治フィーバー劇を解説し、読者が少しでも台湾の事情をご理解できれば幸いである。

4年前の前回総統選挙から話を始めよう。このときは、やはりみんなの予想に反して当時の野党、民進(民主進歩)党の陳候補と呂候補が当選した。得票率は 39%、残りは二人の候補者連戦(当時副総統)と宋楚瑜(元台湾省長)がお互いに保守票を食い合い、結局「漁夫の利」の如く、陳・呂コンビが当選した。半 世紀に及ぶ国民党の政権が野党の民進党に移った。

選挙後、国民党党首李登輝前総統は、総統選挙失敗の責任を取らされる形で離党し、これに追随した台湾土着派国民党議員は、離党後台湾団結聯合を設立した。 また、前回総統選挙で国民党の承認を得られず無所属で立候補した宋楚瑜が、その支持者層を母体に選挙後政党として親民黨を設立した。

今回の選挙は、非台湾土着派が政権奪回のため、前回総統選挙では敵同士であった国民党と親民党の党首二人がコンビを組んだ。李登輝路線を嫌い1993年に 国民党から独立した新党(今ではあまり勢力がないようだが)を加え、この一派を国民党のカラー青を代表して藍軍と呼び、もう一方は民進党のカラー緑をとっ て緑軍と呼んでいる。藍軍は前回選挙で二人の候補者を合せると6割近の得票率があったので、今回の選挙では当選確実と踏んでいた。民間調査は投票が近づく につれ、去年夏では藍軍に十数パーセントの差をつけられていた緑軍の支持率が、次第に上りつつあることを示していたが、藍軍は選挙直前には十萬から百萬票 の大差をつけて当選すると豪語していた。しかし連宋コンビでも1+1は2にならなかった。李登輝前総統は緑軍の支持になったので、前回の国民党支持者の一 部が緑軍支持に回まわったこともある。選挙の結果に、藍軍は言葉を失った。

連戦候補は前回に続き今回も落選した。総統になれなければ68歳の彼の政治生命は終りとなる。国民党も先が見えなくなる。こうしたことから、選挙本部に 集った支持者の前で、選挙無効を訴え、情緒的に反応した支持者が激しく街頭抗議行動に出た。一方、政治的にフィーバーすることで知られる民進党支持者は、 当選者の余裕からかこうした動きに対して自制している。このため連戦候補のこの動きは煽動的な印象が否めない。しかも過去に国政をあずかる行政院院長(総 理)や副総統を務め、法治について十分認識があるはずだが。

藍軍の選挙無効の訴えに対し、高等裁判所は具體的に選挙人名簿や投票用紙を差し押さえ、今後の裁判の証拠として確保した。今後は基本的に司法的に対応決着 となる。これが広く暴動に発展することは、庶民の動きを見る限り考えられない。藍軍の中にもこうした街頭抗議行動に対し批判的な支持者もいる。

20日の投票直前19日には、最後の選挙戦追い込みで台湾南部の都市台南市で街頭運動をしていた陳・呂候補の暗殺未遂事件が起きた。台湾の選挙には当たり 前の爆竹の音にまぎれてピストルが発砲され、選挙カーのフロントガラスを突き破って陳候補の腹部、呂候補の足に当たった。陳候補は皮膚表面だけの傷程度、 呂候補は杖を使えば歩行行できるぐらいであったため、藍軍はこの暗殺未遂事件は自分で仕組んだ狂言である、これにより同情票を集めた主張している。国家元 首及び副元首の暗殺未遂事件であるにもかかわらず、マスコミは肝心の犯人逮捕や真相解明に関する関心は薄く、もっぱら選挙に絡んで別の面ばかり強調される のは、少し異様である。

台湾の民主主義はまだ若い。私が25年前始めて台湾を訪れたときは、現在の呂副総統は美麗島事件で逮捕投獄され、この事件の被告側弁護士として陳水扁総統 が法廷で弁論を振るったときである。圧倒的な国民党の力の前で、自由に言論が発表できる社会ではなかった。それが公けに国家元首を如何に批判しても何も起 こらないのは、民主化の成果である。相手の悪いところばかり宣伝して票を稼ぐ、後ろ向きな選挙宣伝が減り、政見を表明し候補者同士でディベートするテレビ 演説会が数回行われ、全国民が熱心に見た。台北の選挙活動は以前に比べるととても静かであった。しかし今回のように自制できず街頭抗議行動にで、「民主主 義」を曲解して要求をすることは、残念ながら未熟であるといわざるを得ない。

婚約者同士の政治的志向が異なるため、結婚直前に婚約解消したり、藍軍候補者が落選したことを聞き自殺があったことの報導があった。選挙がどのようであれ、冷静に対応できるようになったとき、台湾の民主主義は成熟したといえるだろう。

藍軍、緑軍ともに50%、50%の支持率となったことは、台湾の政治構造が確に変わりつつあることを示している。最後に司法裁定がいかなる結果になるにせ よ、国民が真っ二つに割れ、国政ひいては民生に対し悪影響を与えるようでは、民主主義を擁護しよりよい明日を望むみんなの願いから大きくかけ離れることに なる。海外投資家やバイヤーは、不安定な国から逃げていく。米国でもその昔ケネディとニクソン、また最近ではブッシュとゴアとの間で大領選挙当落差僅少の ために混乱があったが、最後には国益という政治家の最高使命のため、賢い決断をしている。

最後になるが、私は特定の一方を支持するものではなく、台湾を第二の故郷として長く暮らす外国人として、これ以上混乱が拡大することなく、一日も早く収束しすべて平穏な暮らしに戻ることを期待するものである。

曽根さんにメールは mailto:sonehome@netown.org.tw

2003年07月12日(土)日中ビジネス推進フォーラム 文 彬

 地位が脅かされる「4強」とローカル企業

 米調査大手ガートナー社が発表した今年第一クォーター(2002年1月~3月)の世界携帯電話販売統計によると、ノキアが35%でトップを独走し、群雄 のモトローラ(2位、14.7%)、サムスン電子(3位、10.5%)、シーモンス(4位、7.6%)、エリクソン(5位、4.8%)を大きくリードして いる。(パナソニックモバイルが7位、NECが8位。)

 しかし、こと中国国内市場に限ってみれば、ノキア(諾基亜 注)はモトローラ(摩托羅拉)に対して逆に従属的な地位に甘んじているようである。昨年の年間販売シェア率を見ると、モトローラが25.76%で1位、ノ キアは18.17%で2位である。(2002年、中国国内の携帯電話機生産台数は1億2700万台、前年比42%増)

 これは、モトローラが今も中国市場に対する先制戦略の恩恵を受けていることを意味している。世界2位の大手携帯電話メーカーであるモトローラは、 1992年、天津に会社を設立し、本腰を入れて携帯電話の大量生産に乗り出した。以降モトローラは中国市場では業界ナンバーワンの地位を不動のものにして 今日に至っている。中国ではモトローラは携帯電話の代名詞のようにユーザーに親しまれてきた。そのため2002年、モトローラ中国の携帯電話の生産台数は 3,750万台と2年連続ノキアに遜色を取られたものの、中国国内販売台数は1,872万台と依然王座を独占している。



 しかし、中国国内における各社の販売台数推移のグラフを見ると、モトローラを含む海外メーカーが軒並み下降傾向を示していることが分かる。これと対照的 に中国産の販売シェア率は毎年ほぼ倍増のペースで急進している。そして、昨年度では中国ブランドはついにモトローラとノキアを抑えて約4割の市場を掌握す るようになった。中国市場の「4強」と言われている海外4大メーカーの地位がついに崩れたのである。

 ローカル企業の中にバード社(波導、所在地:寧波市)のような巨大メーカーも出現した。中国国内での販売台数ペースでは、1位のモトローラ (1,972.4万台)、2位のノキア(1,134.74万台)に続いて、シーモンスとエリクソンを追い越して3位に上り詰めた(678.55万台)。今 年、国産携帯電話の市場シェアは60%に、2004年には80%になるとも予測されているが、その中でバード社は年間販売台数を1,500万台に引き上げ ると豪語している。

 しかし製造台数から見れば、中国ブランドの合計もモトローラあるいはノキアを下回っている。海外輸出にすれば僅か1%しかなく、「4強」と同日に語るこ とはできない。つまり、中国ブランドの市場は中国国内に限られてしまうということになる。その理由は主にブランド認知度にあると指摘されている。例えば、 ノキアが70%の市場シェアを占める東南アジアでは、中国ブランドは中国国内を下回るような価格設定にもかかわらず、消費者を惹きつける魅力がない。白物 家電のように中国ブランドの携帯電話が海外市場を席捲する日はまだまだ遠いように思える。だが、ここで指摘すべきことは東南アジア市場で好調なノキアブラ ンドの携帯電話の大半が中国で製造されているものだということである。

 国産ブランドが売れた理由

 1999年、僅か5.46%だった国産ブランドの市場シェアが、3年後一気に40%近くも拡大した原因は何であろうか。市場アナリストの見方はおおよそ以下のようになっている。
  1. 何 よりも価格の競争力。数年前中国で「贅沢品」だった携帯電話が今では生活必需品となっている。モトローラなどのブランドものは依然人々の高級嗜好をそそる ものだが、一般市民は「花より団子」と、実用性がある程度満足出来るものならば低価格のものを選ぶ。今、市場を出回っている3桁(1,000元以下)端末 はほぼ全て国産ブランドである。
  2. 「ブ ランド嗜好」(「品牌導向」)から「デザイン嗜好」(「機型導向」)への消費者心理の変化。家電やPCよりもモデルチェンジが速い携帯電話、一般消費者は 品質よりもその外見と軽便さでものを選んでいることを一足早く察知したのは国産メーカーであった。技術や性能では負けるが、外見やデザインならば海外ブラ ンドと戦う余地が大きい。例えば、バード社は昨年の一年間で「軽薄小」の折畳式携帯電話を20種類も市場に出した。「低価格、新デザイン」(「低価位、新 款式」)戦略で消費者、中でも若者や農村部の消費者の流行をタイムリーに捕捉する国産メーカーはここでも海外ブランドに差をつけたのだ。
  3. 地 利を活用した流通とアフターサービスへの注力。販売後の国産ブランドの欠陥品回収率は海外ブランドの2倍だと言われている。品質ではまだまだ海外ブランド の比ではない。しかし、国産メーカーが長年築いてきた、農村部まで深入りした販売網と気の利いたアフターサービスはこれを補完することが出来た。市場シェ アではベスト10に入るTCL社は、県クラスの既存販売網を利用し、販促とアフターサービスを展開している。また、多くのメーカーは大型小売チェーンスト アと直接販売契約を結ぶことによって、市場との距離を最大限に短縮した。また、国産メーカーが時には利益をぎりぎりまで下げて相手の信じられないほどの大 幅値下げ要求に応じたことも珍しくない。「今は利益よりも市場だ」と国産メーカーのトップ達は口々に言う。
  4. 広 告戦。韓国の人気歌手金喜善(キム・ヒソン)さんはそのチャーミングな笑顔で消費者を魅了させている。テレビコマーシャル、駅や高層ビルの屋外看板、彼女 の姿はどこにも現れる。莫大な契約金を支払っているが、TCL社はこのため儲かったという。パンダ社はCCTV2003年のゴールデンタイムのコマーシャ ル権を競り落とし、自社製端末を大々的に宣伝している。しかし、膨大な広告費による企業への圧迫も無視できない。純利益が3%以下になったメーカーもあ る。すでに広告費は研究開発費を上回っている国産メーカーが多いが、携帯電話を巡る広告戦はまだ始まったばかりだと市場アナリストが見ている。
 出遅れの日本と日本のチャンス

 80年代中ごろから、NEC、松下、富士通、沖電気、京セラなど日本を代表するメーカーがすでに中国での事業展開を模索していた。しかしその後、中国が 採用したシステムはアナログではTDMA、デジタルではGSM、CDMAだったため、惜しくも商機を欧米勢に奪われ、家電のように大挙して中国全土に広が る場面はついに見ることができなかった。しかし、日本の通信業の長い歴史、特に通信をサポートする基礎技術(マイクロエレクトロニクス、新材料、音声処 理、精密機器製造など)では今も世界をリードしているし、これをもって日本企業が後発でも参入できると中国の同業者も見ている。

 そもそも、昔も今も中国ブランドのコア技術のほとんどが海外のものであることにはなんら変わりない。それも近年は韓国と日本に頼るものが多い。2000 年6月、中国はニンニクの輸入制限の報復措置として韓国の携帯電話部品の輸入を禁止した。いわゆる「ニンニク・携帯電話戦争」である。しかし、これによっ て国産機大手の中科健ら数社は生産ラインストップの危機に瀕していた。主要部品のほとんどは韓国からの輸入に依存していたからである。昨年日本が発動した 中国農産物に対するセーフガードに中国政府がまともに対抗しなかった時も同様の理由が背後にあるのである。近年中国政府の指導もあり、携帯電話部品の国産 率は年々高まっているものの、その多くはコア技術と関係のない部品である。

 実際に、下表を見て分かるように、2000年に入ってから日本勢の進出が目立ってきた。最初は新技術や新製品の実用化試験などの技術提携が多かったが、 その後製造と販売に重心を移した企業も多くなってきた。例えば、三洋電機は1995年に中国の情報通信大手である中国普天と共同出資で会社を設立し、コー ドレス電話機の製造を行ってきたが、2001年12月からCDMA方式の携帯電話サービスの開始を宣言し、翌月から一部の地域で実施し始めた高速の CDMA2000 1xに対応した端末も生産するようになった。三洋電機は年間150万台を目安とし、cdmaOne方式の端末生産で中国でのシェア上位3社入りを目指す計 画である。

 また、WTO加盟時の約束(コミット)により、2003年に入ってから携帯電話の輸入は課税対象から外れることになった。今年1月、深センとアモイで通 関した輸入携帯電話はそれぞれ97.5万台(昨年同期の8.8倍)、11.8万台(昨年同期の24倍)となっている。具体的な統計数字は見当たらないが、 日本製のカメラ付き携帯など、高性能端末も大量に上陸してきたと言われている。

表1:日本メーカーの中国市場参入例

年月

日本メーカー・提携先

業務内容

2000.06

NTTドコモ

北京事務所を設立し、IMT-2000の標準化に関する技術交流など

2001.08

富士通・華南理工大学

TD-SCDMAの実用化

2001.

松下通信工業・米UTStarcom

3G向け基地局事業

2001.11

松下通信工業

大連松下通信ソフトウェアエンジニアリング設立、通信系ソフトウェア開発

2001.12

NEC・松下通信工業

共同出資会社を設立し、中国の大手通信事業者と端末を共同開発

2001.12

京セラ

京セラ振華通信設備を設立し、CDMA生産

2002.01

東芝

CdmaOneを製造し、中国国内で販売

2002.01

三洋電機

天津三洋通信設備を設立し、CdmaOneの生産・販売を開始

2002.01

松下通信工業

中国で2.5G端末を投入

2002.06

ソニー・エリクソン

「ソニー・エリクソン」ブランドを販売

2002.06

三洋電機

上海にPHS基地局のサービスセンターを設立

2003.04

シャープ・大唐電信

カメラ付きGSM携帯電話を中国側に納入



 そして今、話題となっている「小霊通」によって、日本企業の独占的なノウハウと技術がさらに活躍する舞台を得るようになってきた。「小霊通」とは「無線 市内電話」であり、利用者は電話開設を行った都市内でしか受発信ができないという意味で日本のPHSと異なるが、基本的には日本のPHS関連技術が応用さ れている。広東省から全国に広がった「小霊通」は、携帯電話の基本機能を持ちながら、約6分の1の通話料で利用できることによって爆発的な人気を博してお り、つい先月北京市内でも解禁されたのである。

 日本企業にとっては、ほとんどライバル不在の商機である。すでに三菱電機、京セラ、三洋電機など、過去に日本のPHSで大活躍していたメーカーは動き始 めた。「小霊通」はそのまま中国の携帯電話市場の勢力図を塗り替えかねないほどの衝撃力を持っていると見られている。そうなれば、後発の日本勢が中国で奇 跡を起こすことも不可能ではない。

【参考-1】携帯電話の3大製造基地
 中国大陸における携帯電話メーカーは1997年の5社から2002年には37社に増加した。その大半は北京、天津を中心とする「北方基地」(9社)、揚 子江デルタ地域の「華東基地」(6社)、そして広東省を本拠地とする「南方基地」(9社)に集中している。

【参考-2】電話加入者数と普及率(2002年)


※本文の作成に当たり、主に下記の資料を参考しました。なお、グラフは、中国情報産業部の発表資料に基づいて作成した。

・「郵電月度統計資料」 中国情報産業部
・「2002年、中国携帯電話の製造と販売に関する分析」 万暁東 中国情報産業部
・「2002年、中国携帯電話機・部品産業の展望」 株式会社富士経済
・「中国の携帯電話市場分析」 経済参考報
・「中国の携帯電話市場がすごいコトになっている」 大門太郎 Mobile News Letter

 文さんにメールはmailto:fwavez@yahoo.co.jp

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WJCF 第一回国際シンポジウム
2010年の中国経済と日本企業のビジネスチャンス

   開催 2003年7月17日(木)13:30~17:30
   場所  早稲田大学国際会議場(井深大記念ホール)

中国政府は2010年までに国内総生産が2000年の倍になる見通しと発表しています。(約2兆米ドル)
急速に成長する中国市場で確実にビジネスチャンスを掴むために日本企業は今何をすべきでしょうか?
講演者 早稲田大学アジア太平洋研究センター  柳孝一教授

株式会社三井物産 戦略研究所 寺島実郎所長
 (財団法人日本総合研究所理事長)

経済産業研究所 関 志雄上席研究員

株式会社富士通総研 金堅敏主任研究員

株式会社みずほコーポレート銀行 菅野真一郎顧問

ソフトブレーン株式会社 代表取締役会長 宋文洲

早稲田大学アジア太平洋研究センター特別研究員 朱偉徳


主催者 早稲田大学アジア太平洋研究センター
 「日中ビジネス推進フォーラム」

詳しくは下記のサイトをご参考ください。
http://www.j-fep.co.jp/waseda/wjcf_symposium.htm
2003年05月30日(金)早稲田大学・日中ビジネス推進フォーラム 文 彬

 大地を疾走する高速鉄道の夢を見る指導者達

 1978年10月26日、訪日中の鄧小平は古都・京都を訪れるために初めて新幹線に乗った。田園地帯を疾走する快適な車内でいささか興奮気味の鄧小平 は、随行の記者団に「新幹線に乗ってみると、前進を急かされている感じがする。我々は今こそ前進しなければならない」と感想を述べた。ちょうど文化大革命 が終わり、鄧小平が三度目の政界復帰を果たし対外開放と経済発展をさせようと夢が膨らむ時期だった。この時、彼はおそらく胸中に中国の大地で高速鉄道が走 る様子を描いていたであろう。鉄道網は国の大動脈だ。その大動脈の近代化、即ち高速鉄道化は中国の経済復興のシンポルにもなるのである。

 それから24年経った2002年の最後の日、鄧小平の肝いりで経済再建の立役者を務めてきた朱鎔基首相(当時)が中国初の本格的な高速鉄道・上海市内と 浦東国際空港を結ぶリニアモーターカーの運行式に立ち会った。しかし、工事受注国であるドイツのシュレーダー首相がそばにいるにもかかわらず朱鎔基の表情 は始終厳しかった。彼の決断で総事業費92億元(約1200億円)の巨資を投入したこの上海リニアは中国の高速鉄道の試験線と位置付けられ、その成否は重 大な結果をもたらすからである。

 2010年にも北京と上海を結ぶ京滬(きょうこ・北京と上海の略称)高速鉄道が完成すると計画しているが、時間が差し迫った今になっても、リニア式と レール式のどちらを採用するかさえ決まっていない。リニア派とレール派が激しく対立するなかで、カリスマ性と指導力に定評のある朱鎔基も躊躇せざるを得な くなった。2001年10月、来日した朱鎔基は京滬高速鉄道について「私の任期の2003年までに詳細を決めて、2005年に着工したい」と語ったが、結 局約束は果たせず、その決定は次期の温家宝内閣に委ねなければならなくなった。

 今尚続くリニア式・レール式論争

 京滬高速鉄道にリニア式か、それとも新幹線のようにレール式を採用するかという議論はもともと中国にはなかった。レール式を採用すれば、日本の新幹線の 40年にわたる商用経験が生かされ、コストを最小限に押えることが出来る。そして、在来線への乗り換えも可能になるなど実用性が高い。従って、中国鉄道省 は最初からレール式を念頭に置いて10年掛けて調査した結果を纏めた建議書を1997年に国家計画委員会に提出し、高速鉄道の早期着工を促した。

 北京-上海間は1300キロ、航空機なら2時間の距離だが、現在の鉄道では特急でも12時間かかる。時速300キロの高速鉄道を走らせ、それを一気に4 時間半に短縮させる計画である。完成は2010年、総工費は1000億元(約1兆5000万円)と見込まれる。中国では三峡ダムに次ぐ巨大プロジェクトと なる。北京から上海までの地域は中国でももっとも経済活動の活発な場所だ。日本でいえば東京-名古屋-大阪の太平洋ベルト地帯に相当し、いわゆるドル箱路 線である。

 全国GDPに対するシェアも約40%だと言われている。だが、京滬鉄道の在来線の輸送力はすでに飽和状態になっており、高速鉄道建設の遅延が直接当地域 の経済の足を引っ張る格好となっている。高速鉄道建設の遅延により年間損失が200億元(約3000億円)になると経済学者で中国科学院メンバーの李京文 が指摘する。京滬高速鉄道の建設を一日も早く進めなければならないことは官民の共通の認識である。誰もが間もなく鉄道省の建議書が批准され、工事もすぐに 始まるだろうと思っていた。

 しかし、鉄道省の建議書が提出されたすぐ後にレール式に反対する意見が出た。この意見は京滬高速鉄道を遅らせたばかりでなく、未だ収まらぬ「リニアか、レールか」の論争を引き起こすきっかけとなった。

 反対意見を申し出たのは中国科学院の有力メンバー、徐冠華、厳陸光、何祚キュウ(广+休)の3氏だった。徐は科学技術省大臣(部長)を兼務し、厳は中国 科学院電工研究所所長の肩書きを持つ。そして何も中国でもっとも知られている物理学者の1人である。3人はいわば、中国科学の権威を代表する人物だ。厳が 首相の朱鎔基に「京滬高速鉄道はリニアが最適」と手紙で進言したところ、「大いに検討する価値がある」との返事を受けた。

 リニア推進派はリニア技術の先鋭化と保守のローコストを強調すると同時に、伝統的なレール式と比べて飛ぶように走るリニアの機能性を絶賛した。中国の高 速鉄道に世界的に見ても商用運行された例のないリニアを導入することで、先進国との距離を一気に縮めることも狙っている。テレホンカードで先進国が数年間 使用していた磁気式を飛ばし、いきなりID化した時のように。

 これが政府をしてリニア式に傾斜させた最大の理由である。経済的にも技術的にも先進国から立ち遅れている中国としては、国民の士気高揚のためにも「世界 初」、「世界最速」、「世界最新」という言葉が必要なのである。こうして、中国高速鉄道の試験線である上海リニアの建設がスタートしたのだ。


 鎬を削る市場争奪戦

 京滬高速鉄道の長さは1300キロ。今後20年の間に建設予定の北京香港線(2500キロ)、ハルビン大連線(940キロ)、徐州宝鶏線(1030キ ロ)をあわせると、日本新幹線の約3倍の走行距離となる。そして、2050年までに中国全土を約1万キロの高速鉄道網で結ぶ壮大な構想もある。

 京滬高速鉄道の入札に勝てばばく大な利益につながる可能性も大きいだけに、海外の関心度も高い。中でも40年近くの歴史をたどってきた新幹線を有する日 本と、官民挙げてリニアを推進してきたドイツの熱意は一段と高い。世界同時不況に長年苦しまれてきた日本やドイツにとっても、京滬高速鉄道は是が非でもや らせて欲しいビッグプロジェクトである。

 2009年の竣工を目指す三峡ダムは、中国最大の国策プロジェクトだ。数年前、このダムに設置される発電機の国際入札の際、日本の企業連合は欧州勢に完 敗した。その最大の原因として、官民一体の欧州勢と違い、日本政府は工事の受注は企業行為として積極的に協力しなかったことが指摘されている。

 一度大魚を逃した日本は、今度こそはと中国鉄道省が京滬高速鉄道の可能性調査を始めたとの情報を入手したとほぼ同時に入札への準備を着手した。1994年のことだった。

 その最初の動きはJR東日本、日立製作所、川崎重工業、三菱商事など14の企業と団体が設立発起人として作った日中鉄道友好推進協議会である。3年間の 準備期間を経て1997年、同協議会が正式に発足したとき、参加したメンバーは鉄建公団やJR各社、商社、メーカーなど60以上に上った。

 その狙いは言うまでもなく、まず京滬高速鉄道の受注にあった。協議会は参加企業と団体の協力を得て、中国の鉄道関係技術者を年間100人規模で受入れ、 新幹線の先端技術を含む技術の交流も中国側に約束した。そして、協議会は日本の政界にも中国の高層部にも深い人脈を持つ竹下登元総理を初代名誉会長に迎え て政治攻勢を展開する体制を整えた。

 深い経験と多彩な人脈、精緻な情報に支えられてきたと言われる竹下の影響力も助勢したのだろうか、京滬高速鉄道の建設を「中日友好の象徴的な事業に」と 訴えた村山内閣以来、日本の政府首脳は一貫して新幹線のトップセールスマンの役割を努めてきた。

 一方、ドイツは台湾高速鉄道を巡る入札競争時から相手を攻撃することによって自分を優位に見せるネガティブキャンペーンをも辞さず、強烈なPRキャン ペーンを一貫して展開してきた。「台湾戦」では、その戦略が効を奏して今にも落札できそうだったが、不運にも台湾大地震とドイツの列車事故が重なり、最終 的には日本の企業連合の攻勢に勝てなかった。

 しかしその一年後、本願の大陸で雪辱を誓ったドイツは官民挙げての商戦で、ついに中国をして上海市内と浦東国際空港を結ぶ高速鉄道にトランスラピット (ドイツのリニアモーターカー)を導入する契約を結ばせた。そして、ドイツ政府は約54億円もの補助金を無償で建設費に充てた。上海リニアの成功が京滬高 速鉄道ないし将来の高速鉄道網の受注に確実に繋がることを、ドイツは堅く信じていたからである。

 このようにして日本の努力も一時下火になり、新幹線を大陸で走らせる夢は空しく砕かれたかのように思われていた。

 決戦の時が間もなく来る

 だが、リニアを支持するのは少数派である。中国鉄道省が推し進めてきたレール式高速鉄道構想は、依然広く支持されているのだ。たとえば、中国科学院及び 中国工程院メンバーである沈志雲西南交通大学教授は、世界的に見てもリニアの商用化はまだ行なわれていないとその反対理由を述べている。周宏業鉄道部科学 研究院副院長もリニアのコスト、開通後の採算、安全性、他の列車との乗り換えの可能性から分析して、リニアには統一性がなく、京滬高速鉄道のリニア化は抜 け出ることの出来ない泥沼になると強く警告している。上海リニアの工事が開始されてから海外にいる多くの中国人科学者も巻き込み、論争はいっそうレール派 に有利な方向へと傾いてきた。

 すかさず、日本もこの機運に乗じて再び新幹線の売り込みに躍起になった。2001年9月、日中鉄道友好推進協議会や日本鉄道車両輸出組合などの鉄道関係 団体が中国鉄道省主催の「チャイナ・レール2001」に出展し、大画面モニターで日本の鉄道風景を流しながら、新幹線のスピード、安全性、大量輸送と経済 性を大々的にアピールした。

 ライバルのドイツ、フランス、イギリス、カナダなど各国が最新の高速列車と運行システムを披露しているなか、新幹線はひときわ中国の鉄道関係者の注目を 浴びた。また、日本の政治家と企業のトップが密に協力し、水面下でレール派の鉄道省高官と頻繁に接触した。こうして人脈をいっそう拡大することによって中 央指導部に影響を浸透させようとしているのである。

 ここに来て、中国指導部も揺れた。昨年9月の北京では、李鵬全人代委員長(当時)が扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式 がよいと思う」と異例の発言をし、指導部の中でも意見の対立があることを匂わせながらも、レール式への支持を明らかにした。

 今年1月下旬、日中鉄道友好推進協議会の岡田宏副会長が北京で中国鉄道省と京滬高速鉄道について協議した際、中国側が新幹線方式を採用した場合の日中合 弁事業について、新幹線の車両生産と運行の合弁事業化や技術移転の可能性など、約10項目の検討を要請したことが報道された。レール式、それも新幹線方式 へ大きく傾いてきたことを示す動きである。岡田は5月までに回答すると約束したが、中国側の最終決定も今年のうちだとの見方が強まってきた。

 韓国高速鉄道ではフランスに負け(1993年6月)、台湾高速鉄道では欧州企業連合に大逆転し勝利した(1999年12月)日本だが、果たして第三ラウ ンドとなる中国ではどのような結末が待っているのだろうか。まもなく、京滬高速鉄道の受注を巡る最終戦が始まろうとしている。

【参考1】「北京―上海高速鉄道」計画概要



【参考2】これまでの経緯
  • 1978年10月26日 鄧小平副総理が京都を訪問した際に東海新幹線に乗車。
  • 1993年6月 韓国高速鉄道でフランスが日本とドイツを破って受注。落札価格は2800億円。日本より200億円も安かった。
  • 1995年5月 訪中していた村山首相が李鵬総理に対し日本政府は中国の高速鉄道建設を全面的に支持すると表明。
  • 1997年3月 中国鉄道省が国家計画委員会(現在の国家発展計画委員会)に鉄道プロジェクトの建議書を提出し、京滬高速鉄道の構想を固める。
  • 1997年9月 JR各社や車両メーカー、商社など60に上る企業・団体で、中国高速鉄道の受注を目指した連合組織「日中鉄道友好推進協議会」を発足。初代名誉会長は竹下元総理。
  • 1998年4月16日 「日中鉄道交流に関する協定書」の調印式が人民大会堂で行なわれる。
  • 1998年11月 江沢民主席が東北新幹線に乗車。小淵首相は江沢民に対し、日本は官民挙げて協力し、技術面のノウハウ提供や資金援助も惜しまないと約束した。
  • 1999年12月28日  台湾が台湾高速鉄道の車体と信号システムに日本の新幹線技術を採用すると発表。契約金額は3300億円。日本企業連合が逆転して仏独の欧州連合との受注競 争に勝った。日本企業の連合7社は、それぞれ三菱重工、川崎重工、東芝、三井物産、三菱商事、丸紅、住友商事。完成予定は2005年10月、距離は台北- 高雄間340㌔。土地代を含む総工費は1兆6千億円。
  • 2000年1月 中国が、上海市内と浦東国際空港間(33㌔)の高速鉄道についてドイツとドイツ製リニア「トランスラピット」の導入に合意。総事業費は約1200億円、ドイツ政府は54億円の補助金を提供。
  • 2001年3月8日 第9期全国人民代表大会(全人代)第4回会議の記者会見の席上、国家発展計画委員会の曽培炎主任が北京-上海間の高速鉄道建設について、第10期5ヵ年計画期間中の着工を目指すことを発表。
  • 2002年3月 朱鎔基がドイツ側の技術移転に不満を感じ、公の場で「日本の新幹線方式採用の可能性がある」と語った。
  • 2002年4月 鉄道省部長(大臣)が訪日し、扇国土大臣と新幹線の建設、資金などの問題について会談。
  • 2002年9月 ドイツが技術移転の可能性を示唆。
  • 2002年9月24日 李鵬全人代委員長が訪中の扇千景国土交通大臣に対し京滬高速鉄道について「個人的にはレール式がよいと思う」と発言。
  • 2002年12月31 日上海リニアの商用運行が開始。朱鎔基首相とドイツのシュレーダー首相が開通式典に参加。
  • 2003年1月 中国側が、新幹線方式を採用した場合の新幹線の車両生産と運行の合弁事業化や技術移転の可能性など、約10項目の検討を日中鉄道友好推進協議会の岡田宏副会長に要請。岡田副会長は5月までに回答すると約束。(肩書きは全て当時のもの)

    文さんにメールは mailto:hin.bun@ikic.co.jp
2003年05月21日(水)台湾在住 曽根正和

 台湾の国際社会での地位は中国の「一つの中国」政策のため、多くの国や組織に認知を受けていない。今回5月19日のWHO(世界保健機関)へオブザー バー(正式成員ではなく)としての参加申請も、中国の政治力の前に実現しなかった。中国政府の同種の動きは特に新しいことではないが、今回のSARS病の 蔓延を眼前に体験するにつけ、疫病予防と政治は切り離すべきではないかと思い、萬晩報の読者に問題を提起したい。

 初めにお断り申し上げるが、私はここで台湾独立を支持したり、中国政府の「一つの中国」政策についてコメントを述べるものではない。

 SARS病はつい最近まで日本にとってはどちらかというと対岸の火事であり、中国、香港、台湾などとのビジネス関係者を除いては、関心が薄かったとおも う。そこに先日、台湾の医師が西日本を観光し帰国後SARSを発病したニュースが入り、一気にマスコミの注目もあつまり、一般の関心度も高まったようだ。

 中国広東省仏山で発生したとされるSARSは昨年秋の発生後、中国政府当局が故意にその情報をコントロールし発表することも無く、そのために適切な防疫 対策もされず蔓延した。北京でも同様な隠蔽がなされ、結果衛生部張文康部長や新任孟学農北京市長が更迭されたことも記憶に新しい。世界からのこうした隠蔽 工作に対する批判も相次いだ。一方、正しい情報が流されなかったため、広東省では消毒作用があるとされる酢などの民需品が無くなり、パニック状態になっ た。

 台湾でのSARS蔓延は、4月半ばの台北市立和平病院での院内感染がきっかけで、現在も毎日二桁台の新ケースが報告されている。台北地区から南部へも広 がりを見せており、先に流行したシンガポール、香港などが落ち着き始めているのとは対象的である。

 台湾の防疫対策にも問題点がある。上記和平病院などでは、業績への心配から来院患者がSARSの疑いがあるにもかかわらず、適切な報告や対応をしなかったことが指摘されている。一般民衆も感情的な対応をしたり、理想とは程遠い。

 現状説明が長くなったが、SARSはまだ治療方法が確立していない伝染病であり、これを防ぐ方法は情報の公開や伝達、それに基づく迅速かつ確固とした隔 離などの防疫対応である。ウィルスや細菌には国境や人種の隔てなどない。中国でも台湾でも、また世界のどこでも同じように伝染する。要するに国や政治を超 えた存在である。WHOのオブザーバーとして正式に組織内での情報のやりとりは、台湾の人民にプラスになるだけでなく、周辺諸国も正しい情報が伝えられる というメリットもある。中国や台湾に近い日本は、伝染病の蔓延については、正式経路で台湾の疫病最新情報が常にインプットされることは重要なはずである。

 同様な認知は国際医療関係者にもある。たとえばWMA(World Medical Association)は5月16日にも台湾のオブザーバー参加について提言している。要点は今回のSARS蔓延の状況を見るに付け、国際社会の協力が 必要な状況であるにもかかわらず、2000万の人口を有する台湾がWHOから除外されていることは終わりにすべきであると。但し、WMAの立場は台湾の国 際地位についてサポートするもではないと注記をつけている。
http://www.wma.net/e/press/2003_4.htm

 中国政府のオブザーバー参加の拒否理由は、国家という資格がないからという技術問題を前面に出しているが、それでは実際に起こっている病気をどうするの かに対する明確な回答がない。簡単に中国は台湾同朋の健康福祉には関心があり、台湾での情報が十分であるといっている。http://fpj.peopledaily.com.cn/2002/04/09/jp20020409_16052.html

 しかし、このようなコメントは自己矛盾である。もともと中国はWHO人員が台湾に行くことすら渋っていた。http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2003may/03/K20030503MKH1Z100000012.html

 WHO正式成員でありながら、SARSの隠蔽をして世界的な批判を浴びていることを忘れたのか。次に台湾での現実為政ができない状態で、どうして十分な 情報があるかを判断するのか。一歩進んで防疫対策ができるのか。その昔、20数年前台湾で見た地図には、外蒙古(モンゴル)からチベットまで含んだ、大中 国の版図が中華民国とされていた。中国政府のコメントはこれと大同小異の発想である。

 中国政府の参加拒否行動は、目の前にSARSの脅威を感じている台湾人民の反感を買うだけで、「一つの中国」政策にもマイナスのはずだ。それともハリー ポッターに習い、魔法の棒を一振りして台湾のSARSを消滅すれば、それこそ台湾では大歓迎だろう。

 人道的な観点、またWHOを通じた国際協力を通じて自己を疫病から守るという観点から、日本が台湾のオブザーバー参加を支持するとの表明は正しいと思う し、更なる支持を期待する。また、数は少ないが日本国民をはじめ、諸外国の国民も台湾に暮らしているのであるから、これらの国家は自国民の健康のために も、台湾のWHOオブザーバー参加は支持すべきではないか。ますます狭くなる国際社会ではさらに多くの未知の病気が発生する可能性は非常に大きい。中国の 政治問題でこの狭い世界に疫病のブラックホールを存在させることは、全国際社会にとってもマイナスである。中国も国際社会の一員であることを認識するべき だ。

 曽根さんにメールは mailto:sone.home@msa.hinet.net
2002年02月16日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 ●歴史を回顧すれば「万感の思い」

 4日前に「中国のGDPが日本のそれを追い越す日」を書いた意味はふたつある。

 一つはわれわれが現実として中国経済の成長を受け入れる必要があるということである。中国経済の成長をあたかも敵対するような「脅威」という概念でとら えるのではなく、アジアの経済的台頭を自らのものとして歓迎し共存共栄の道を探る。そんな発想があっていいのだろうと思うからである。

 振り返れば日本の先人たちは明治この方、アジアの繁栄を願ってきたのではないか。130年前、横井小楠や西郷隆盛はじめアジア主義者たちは押し寄せる西 洋の脅威に対して日中韓が提携する必要性を説き、多くの共感を得た。ともに強くなければ独立すら守り得なかった時代である。

 中国革命の父、孫文は1926年に死去する直前まで、日本との提携に期待していた。25年に神戸市で行った有名な「アジア主義」と題する演説で「日本は 西洋の覇道を目指すのかあるいは王道を目指すのか」と観衆に訴えた。第一時大戦後に主要国の仲間入りを果たした日本があり、中国大陸は軍閥割拠が続き、経 済どころの段階ではなかった。

 その中国が21世紀の初頭、経済力で世界の主要国に並ぶところまできたのだから並大抵のことではない。シンガポール、香港、台湾、韓国のかつての NIES(新興工業国・地域)もまた先進国グループであるOECD(経済協力開発機構)の仲間入りをするレベルに達し、韓国はすでにOECD入りを果たし た。ASEAN諸国もまた一部を除いて経済的自立を達成したといっていいいだろう。

 孫文が生きていたら万感胸に迫る思いだっただだろう。1840年のアヘン戦争以来160年余の中国の歴史的困難を回顧すればこういうことになる。

 ●中国モデルで世界に貢献する順番

 片や中国が経済強国となったということは、今度は中国が途上国の支援に回る順番がきたということでもある。

 日本は1979年、対中経済協力を開始。1999年までに2兆4535億円の円借款を供与、無償援助と技術協力は計2347億円。総額2兆6882億円 である。このところ円借款規模は年間2000億円前後となっており、現時点で確実に総額3兆円を超えている。もちろん日本が過去実施したODAで対中協力 は群を抜いている。

 道路、港湾、電力、通信などインフラ整備が中心であるが、80年代までの慢性的な貿易赤字の時代には国際収支の面でも相当な貢献を果たしたはずである。

 中国経済はまだまだ沿海部と内陸部とで経済格差が大きい上、一人当たりGDPでは1000ドル足らずと先進国からはるかに遠いところにあるのは確かだ。しかし上海市ではすでに4000ドル超。北京や広州市など多くの都市部は豊かさを享受する段階に入っている。

 しかも生産面では粗鋼やテレビはすでに日本を抜いて世界トップ。アパレルから家電に到るまで世界の工場と化している。携帯電話の契約台数では昨年、アメリカをはるかに追い越し、沿海部ではモータリゼーションの波も押し寄せている。

 成功モデルとしての中国はODA依存の経済成長ではなく、改革開放による外資導入を潤滑油として民間経済を立ち上げたところに特徴がある。貧しかった中 国のイメージはすでにない。それどころか中国の生産力は世界の脅威に映っている。そんな中国がいつまでも援助される側にいていいはずはない。

 日本は1960年代初頭、高速道路すらない時に途上国援助を開始した。もちろん過去の戦争に対する償いの意味もあったが、それでも途上国との経済格差を少しでも埋めるべく、経済協力を外交の柱として据えることが国民の総意となった。

 中国でも同じような議論が起きてもいい時期にきている。かつて中国は抑圧される側の「第三世界の雄」として国威を発揚したが、いまや工業化の成功モデル として世界に冠たるものがある。14億人の中国経済がODAを供与するレベルに達したかどうかはなお議論の余地があろう。しかし被害者意識を拭い去り、ア ジアだけでなく世界の貧困や経済格差問題の解決に乗り出す覚悟を期待したい。

2002年02月12日(火)萬晩報主宰 伴 武澄

 鄧小平が1978年11月に改革開放政策を宣言して以来、中国経済は世界のすべての予想を裏切って成功を続けてきた。外資導入を狙いとした経済特区政策 はものの見事に香港、台湾資本を魅了し、大連から珠海までつらなる中国大陸の沿岸地域はほぼ10年でベルト状の巨大な工業地帯と化した。

 78年当時に掲げた「20世紀中に経済規模を4倍にする」という経済目標は当時、単なる政治的スローガンにしかないと考えられていたが、16年後の94 年には軽くクリアしてしまった。そしてだれもが信じなかった上海の浦東地区開発もまた工業団地と高層ビルが林立する約束された地となった。

 ●為替ベースでもすでにG7の実力

 1999年のGDPで比較すると、中国はほぼ1兆ドル、日本が4兆ドル、EUが6兆ドル、アメリカが8兆ドル。だから中国の経済規模は日本の四分の一と いうふうに単純にいくかというと、そうではない。この数字は1ドル=8・7元=120円という当時の為替レートで単純計算あいたもので、この為替レートが 必ずしも実力を表しているとはいえないからだ。

 日本の円はどう転んでも120円の実力はない。自動車など一部の産業に輸出競争力が残っているとはいうものの、今後とも円安傾向が続くものと見られ、仮に本来の実力である1ドル=160円程度にまで戻るとドルベースのGDPは3兆ドルにまで縮小してしまうことになる。

 一方、中国元はいまだに国家管理通貨であり、97年のアジア金融危機で韓国やASEAN諸国の通貨が暴落した時も1ドル=8・7元を維持し続けたが、購 買力平均では93年までのレートである1ドル=5元程度はゆうにある。だから実質的なGDPはもはや2兆ドルに近いといっても間違いない。いやもっと大き いかもしれない。

 そしてこのことは、90年代の10%近い成長率ペースが今後5年程度続くだけで中国の実質的なGDPはたちまち日本の水準に肩を並べ、やがて追い抜くことになることを意味する。

 日本にとって失われた10年が中国にとっては大躍進の10年だった。為替ベースで中国はすでにカナダのGDPを超え、世界第7位の経済大国に変貌してい るのだ。1960年代の日本がそうであったように数年以内にイタリアを、そしてイギリスとフランスを抜くことは間違いない。言い代えると、参加こそしてい ないが現時点でもG7メンバーの資格があるというわけだ。

 中国は昨年12月、世界貿易機関(WTO)に加盟したばかりだが、国家単位で見た中国の経済的実力はそういうレベルに達しているということなのだ。

 ●100年後に目覚めた眠れる獅子

 中国はすでに対アメリカ貿易黒字額は日本を抜いて世界一となっている。日本の貿易黒字が縮小する中で、中国は確実に世界最大の貿易黒字国になる。中国が G7のメンバーになろうがなるまいが、世界経済に対して責任を持つ立場に立たされ、現在の1ドル=8・7元というレートは必ず見直しの対象となる。そして 元高ドル安に誘導し、中国の内需を拡大、輸出を抑制しろという声が必ず上がる。

 そうなれば80年代の日本と同じで、いずれ中国に対する新〈プラザ合意〉がもたれる可能性がある。プラザ合意のときの円は1ドル=240円、95年には 最大瞬間風速、79円まで高騰した。もし、同じ割合で中国も元高に振れるとしたら、1ドル=3元という時代がやってきたとしても不思議でない。

 名実ともに日本のGDPが中国に抜かれる日は10年後、20年後のことではない。日清戦争まで「眠れる獅子」と恐れられていた中国は100年後にようや くその眠りから覚めたのだということを世界はわきまえておかなければならない。これは絵空事でもなんでもない。現実なのだ。

2002年01月20日(日)中国情報局 文 彬

 年明け早々、中国と韓国の間で外交摩擦に発展しそうな事件が起きた。韓国国会の「人権フォーラム」所属の野党・ハンナラ党議員ら4人が中国へ渡航しよう とし、在韓中国大使館に入国ビザを申請したが、1月4日中国側からその発給を拒否された。そして1月7日、4人は中国側の事前協議もない一方的な入国拒否 を不服として抗議する声明文を中国側とマスコミに送りつけた。中国外交部や在韓大使館はすでに中国側の見解は韓国側に伝えたとして決定を撤回する意志はな いと表明したが、このままことが収まりそうにもないだろう。

 4人の渡航目的は在外同胞法の改正にあたり、在中コリアンに対する実態調査を行なうためだ。在外同胞法は在外韓国人の韓国への出入国と大韓民国内におけ る法的地位を保障することを目的とするものだったが、大韓民国が建国される以前に(1948年までに)海外に移住した海外在住韓国人が対象外となっている ため、昨年憲法裁判所でこれを違憲とする判定が下された。これを受けて、韓国政府は在外同胞特例法を制定しようとしたが、コリアンの多く居住するロシアや 中国からの猛烈な反発に遭い、更に外交通商省も外交問題に発展することを恐れて反対の立場を取ったため、特例法は宙に浮いたままになっている。こういった 背景の中で起きた出来事であるため、韓国のマスコミが大きく取上げたのと対照的に、韓国政府の反応は慎重そのものだった。外交通商商長官も「注意深く見 守っている」という外交辞令的なコメントにとどめている。

 ●満州に新天地を求めるコリアン

 特例法に反対する中国の理由ははっきりしている。特例法が実施されれば、中国国内にいる朝鮮族(中国では在中コリアンのことを「朝鮮族」「朝族」「鮮 族」等と呼んでいる)にも適用され、事実上の二重国籍になるため、中国の法律に抵触することになるのだ。もちろん、ただでさえ少数民族問題に悩まされるこ との多い中国政府が密かに恐れているのは特例法によって朝鮮族にも混乱が波及することである。

 朝鮮半島と陸続きの中国には古代からコリアンが居住してきた。満州でいち早く稲作を始めたのはまさにこのコリアンの人々だと言われているが、19世紀後 半、衰退した清朝が封禁政策(清国は、民族の発祥地である満洲を「封禁の地」とし、漢民族だけでなくモンゴル人やコリアンの進入も許さなかった)を解いて からコリアンは豊沃な土地を求めて大挙して朝鮮半島から鴨緑江や図們江を渡ってきたのである。20世紀初頭、コリアンは国境に近い満州に数多くの集落を作 り稲作を中心に生計を営み、その人口は7万人を超えていた。

 さらに朝鮮総督府時代、「土地調査事業」という名目の植民地政策が強行され、近代的土地所有の概念を持たなかった多くの朝鮮農民が天皇、皇族が株主と なっていた東洋拓殖株式会社に土地を取上げられた。このように土地喪失によって貧困化した農民達が故郷を背に満州の地に生計を求めてきたため、在中コリア ンは増加する一方だった。終戦時、その数は165万人にも上っていた。

 終戦後、在中コリアンには故郷へ引き上げるチャンスがあったが、それでも100万人以上の人々が祖国に帰る道を捨てて満州に住み続けた。そしてこの 100万人が現在の朝鮮族の母体となり、今では約200万人に膨脹したが、内地に流出する者はほとんどいなく、全体の97%以上が満州、それも主に鴨緑江 や図們江流域に集中して暮らしている。ちなみに、現在海外で生活する、いわゆる在外コリアンは120数カ国に分散し、コリアン民族全体の一割弱に相当する 約530万人と言われているので、その40%近くを中国の朝鮮族が占めていることになる。

 大連にも関東州時代から生活している朝鮮族の人がいるが、ここに暮らしている満州族やその他の少数民族と同じように彼らも漢民族に限りなく同化している ため、町で朝鮮の空気を感じることはほとんどない。ところが、瀋陽や撫順の町を歩いてみると、色鮮やかなキムチを売る露店やいたる所に点在する朝鮮冷麺の 店舗に目を奪われ、時には頭に大きな荷物を載せた朝鮮族のお婆さんを見かけることもある。瀋陽と撫順は大連よりも比較的朝鮮半島に近く、朝鮮族も多く生活 しているからである。

 さらに瀋陽から汽車で北上すること約20時間、辺境の町・吉林省の延吉に出ると、一瞬ここが中国かと目を疑うほどの圧倒的な朝鮮の雰囲気が感じられる。 駅の待合室に集まる乗客の間では韓国語が飛び交っており、商店街の看板にも中国語と並んでハングルが記されている。チマチョゴリを身に纏う女子中学生は列 をなして町を歩き、スーパーの開店セレモニーでは必ず朝鮮舞踏が披露される。ここ延吉は在中コリアンがもっとも密集している都市だ。

 延吉は82万人が住む延辺朝鮮民族自治州の州都であり、コリアン文化がもっとも花開いているところでもある。学校教育も韓国語によって行なわれるところ が多く、高校を卒業して内地の大学に進学した少年少女が自由に中国語を操ることができず、ちょっとした社会問題として取り沙汰されたほどである。国立の延 辺大学は1949年に設立された全国初の少数民族大学であるが、この町の朝鮮族の学生を中心とする大学は現在6校もある。

 ●故郷喪失を再び経験する朝鮮族

 長白山(白頭山)は、延吉から350キロ離れた西南の国境を跨るようにそびえ立ち、風光明媚の自然に恵まれる数少ない北国の名観光地の一つとして毎年多 くの観光客が来ている。特に標高2000メートル以上の山頂にある「天池」という火山湖は密境の絶景として世界的にも有名だが、これも半分は中国、半分は 北朝鮮のものとなっている。韓国の観光客は北朝鮮ルートを利用することが出来ないので、通化や延吉を経由して中国側から登山している。そのため、長白山の 旅を商品とする旅行社がたくさん現れ、韓国から来る観光客を接待する施設も相次いで作られている。

 また、長白山はただの観光地ではない。ここは満州人にとってもコリアンにとっても神聖なところだ。満州人とコリアンの起源に纏わる神話は、どれも長白山 が舞台となっているのだ。満州族が中国を統治していた数世紀の間ここは入山禁止令が敷かれ、コリアンも同地域から締め出されていたが、韓国と北朝鮮の国歌 にも出ているほど、憧れの心の故郷として朝鮮半島にいるコリアンなら誰でも一度は行ってみたいと思っているようだ。

 だが、故郷を離れ北上してきた朝鮮族の人々にとって長白山にまつわる神話はあくまでも虚構の世界で、彼らが生きる現実からはあまりにもかけ離れすぎてい る。彼らの大半はまず朝鮮半島を自分の故郷だと思っている。そこには自分の祖先が生まれた村があり、血の繋がった親戚も大勢暮らしているからだ。昔は国交 のあった北朝鮮しか訪問することができなかったが、今は韓国も門戸を開いている。しかし、それよりも朝鮮半島から来た人々の方が圧倒的に増えている。但 し、韓国から来るのは観光客やビジネスマンだが、北朝鮮から来るのは飢えと貧困に耐えられぬ人々だ。

 北朝鮮からの難民は今日になって起きた問題ではない。50年代初頭の朝鮮戦争の時にも戦火を逃れて鴨緑江を渡ってきた人が大勢いた。戦争が終わってからも故郷へ戻らず中国で暮らし続けてきた人も多くおり、今もその中の8000人余りは国籍が北朝鮮のままでいる。

 金正日体制後、厳しい国境警備にも関わらず難民が中国側に大挙して押し寄せてきた。しかし、中国当局は北朝鮮との関係が何よりも重要だと判断しているた め、流入してきた北朝鮮人を難民とは見なさず強制的に帰還させている。捕まった難民は北朝鮮の国境警備隊の手に渡るとすぐ奴隷のように胸縄から後ろ手に縛 り上げられ、時には針金で繋げられ鴨緑江の向こう側へ消え去る。逃げてきた北朝鮮人の中で、朝鮮族の親戚に助けられ息を忍ばせながら生き延びてきた幸運の 人、あるいはチャン・ギルス君一家7人のように様々な危険を冒して韓国にたどり着いた幸運の人もいるが、大半は惨い強制送還の運命にあわざるを得ない。

 このような悲惨な光景を目のあたりにしている朝鮮族の人々が北朝鮮に対して抱いているイメージは否定的なものばかりだ(彼らが北朝鮮を訪問して得たイ メージにも良いものはない)。これと同時に北朝鮮への帰属心も完全に失っている。かといって韓国に対してどうかと言えば、やはり親近感は薄い。いや、対北 朝鮮以上に冷えているものがあると言えるかも知れない。

 1992年8月24日、中国と韓国は国交を樹立し、朝鮮戦争以来続いた敵対関係に終止符を打った。それ以降、韓国人と朝鮮族の相互訪問は年々多くなり、 ビジネスや文化的な交流も日増しに盛んになってきた。しかし、同文同種であるはずの韓国人に対してアイデンティティを夢見たのもつかの間、韓国人は明らか に違う世界に属していることに気づいた。そしてお互いに相容れない場面も日増しに増えてきた。近代化に憧れてソウルに来ても所詮貧しい出稼ぎ労働者と見ら れ、自分が生活している朝鮮族の環境とあまりにもかけ離れており溶け込むことができない。まったく問題ないはずのハングルでさえ、外来語が氾濫しているた め、朝鮮族の人には通じないことが多い。

 そして、最も韓国に憧れていた朝鮮族の人々の心を傷めたのは、韓国から来た一部のビジネスマンの行動だ。彼らは朝鮮族のはやり遅れの服装や習慣をあざ 笑ったり、企業に来る朝鮮族の人々をこき使ったり、カラオケバーに勤める同胞の女性を「キーセン」(妓生)同様に扱ったりし、同胞の感情のかけらも感じら れない。朝鮮族の人々は信じがたい現実を前に故郷喪失を再び経験したのだ。しかも、今度は過去に思いを馳せていた心の故郷を失ったと言えるのかも知れな い。

 今の朝鮮族の人々は北朝鮮とも韓国ともアイデンティティを共有できないことをはっきり分かっている。彼らは自分が「朝鮮系中国人」や「韓国系中国人」だ ということよりもまず「中国人朝鮮族」だと自認することに躊躇することはない。彼らは自分が手にしているのは中国政府の発行しているパスポートだと十分認 識しているし、またこれに対してさほど不満はなさそうだ。この点において、在日コリアンよりも今の「中国人朝鮮族」の独自性の方が強いかも知れない。

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 北朝鮮、韓国、そして中国人朝鮮族、このトライアングルはいつか崩れて一心同体になるという高校時代の親友金君の父親から聞いた話を思い出される。親友 の父親も長白山で活躍していた東北抗日連軍の幹部で、終戦後多くの戦友と同様に朝鮮に戻らず中国の農民に稲作を普及する「中国人朝鮮族」になった人だ。金 君は北朝鮮と韓国の両方に親戚がいるので、誰よりも朝鮮半島の平和を祈っていたが、今は多分南にも北にも行っているだろうと思う。もう一度お会いして彼の 父親に聞きたい。在外同胞法に対しても直に意見を聞いてみたい。

 文さんにメールは bun@searchina.ne.jp

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