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 先週末、親友と飲んでいて一つのアイデアを思いついた。GOEN貯金箱である。今どき子どもだって落ちている1円玉を拾おうとしない。財布の中にある1円玉や5円玉は増えると始末に困るものである。その1円玉と5円玉を入れる貯金箱を配って、困っているNGONPOに寄付すればいいというものである。

 考えてみればドトールコーヒーなど飲食店で小銭を入れる寄付箱がある。取り立てて目新しい発想ではない。しかし、始末の困る小銭を家で毎日貯めればけっこうな金額になるはずである。

 筆者自身、この2年間ガラス瓶に小銭を貯めてきた。貯めたというより、帰宅して背広のポケットの中の小銭をすべて毎晩入れて、出がけにその日のタバコ銭として300円を取り出してきた。恥ずかしい話、100円玉以上はほとんどない。ガラス瓶がいっぱいになったので銀行で数えてもらうと2万円を超えていたので驚いた。

 世界的大災害貧困に接して募金を躊躇したことはありませんか。なけなしの千円札や一万円札を投じてどこでどう使われるか分かったものではないなどと考えていませんか。始末に困る小銭ならそんな気持ちにもならず、いつでも気持ち良く社会貢献できるのです。

 だが、始末に困る小銭を貯めてみて、こんなに溜まるものだと驚いた。それはそうだ、ポケットや財布の1円玉や5円玉は1日に10円ほどある。365日続ければ、すぐに3000円以上になる。これなら何の躊躇いもなく「寄付」できそうだ。子どもだって1日1円貯めれば365円になる。家族4人が1円、5円貯金すれば1万円を超える。

 そんな貯金箱が各家庭や職場にあれば、計画的にNPONGO支援ができるし、緊急の大災害が発生した時でもためらいなく「寄付」ができるのではないか。

 そこでわれわれはその貯金箱に「GOEN」(仮称)という名前をつけることにし、その日から貯金がスタートしている。どうでしょうか、みな さん賛同していただけますでしょうか。ぜひ始めてみてください。そのうち「GOEN貯金箱」をデザインしてみなさまに配れるようにしたいとも考えいま す。(伴 武澄)

 10年以上も前から「セカンドハンド」というリサイクルショップを経営してその収益でカンボジアに学校を建設しているNPO法人が高松市にある。代表は新田恭子さん。本業はフリーのアナウンサー。国連教育科学文化機関(ユネスコ)主宰のカンボジアでワークショップに参加してから直ちに行動を起こし、ほとんど一人でカンボジア支援のスキームをつくった。そのNPOから年に4回「セカンドハンド通信」が届く。その度に「偉いもんだ、かなわないな」とただただ頭が下がる。

 人間は弱くて忘れやすいから、読んだ翌日から日々の仕事や生活に埋没してしまう。また3カ月すると「あー、そうだった」と何も出来ない自分を振り返る。それでも新田さんのおかげで年に最低4回は自分の行いを振り返る時間をつくってもらっていると感謝している。

 このニューズレターには毎回、胸きゅん物語が書かれている。昨日届いた「48号」には、カンボジア南東部のスヴァイリエン州のコープリン村での15校目の学校建設の経緯が紹介されている。3月25日、村で建設決定を発表する席で新田さんは村民に向かってスピーチをした。

「日本は豊かだから学校建設なんて簡単な支援だと思う人もいるかもしれないけれども、決して簡単ではなく、この資金の陰には多くのボランティアの方々の協力、支援者たちの思いがあるんです」

 学校から国道まで10キロの道のりがあり、自動車も満足に走れない。学校建設のためにはまずは資材を運ぶために道路建設から始めなければならなかった。地区の村民には農地提供と道路建設の協力を仰いだが、なかなかよい返事をできない村民もいた。村長の一言が村全体を動かした。「私たちにはいくら努力しても建てることが出来なかった学校が今現実になろうとしている。村の子どもたちが読み書き、計算できることで将来が大きく変わる。知識は何よりの財産だから、今私たちが農地を提供することで子どもたちの未来を開こう」と呼び掛け、全員の合意を得ることができたという。

 セカンドハンドが、この地区に学校がないことを知ったのは同NPOが支援している職業支援センターの職員が遠くてセンターに通えない人たちのために実施している出張指導がきっかけだった。以前に村民がお金を出し合ってお金ができた分だけ少しずつ、2教室から校舎建設から始まったが、その後が続かなかった。事情を知ったセカンドハンドは別の土地に5教室の学校を建設することになった。

 その記事の下に小さい字で「※」の解説があり、「この学校建設事業の一部に匿名希望の方から、生前、教育に熱心であったご両親の遺産を充ててほしいとご寄付いただきました」と書かれてある。なかなかできることではない。日本も捨てたものではない。

 寄付で成り立っている途上国支援のための慈善団体は数多くある。問題は人件費や経費でせっかくの寄付金が生きないことである。しかし、セカンドハンドだけは違う。新田さんの強力な指導力で売り上げや寄付のほぼ全額がカンボジアにわたる。ぜひ、あなたも胸きゅん一族に仲間入りしてほしい。
1998年04月27日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


 「だいだい色の屋根とクリーム色の壁って緑の木々にマッチするんです」。ボランティアを始めて、三つ目の学校がカンボジアにできた。2月末、カン ボジア政府から復興功労メダルをもらった。新田恭子さんは、フリーのアナウンサー。高松市に住み、香川県からアジアや日本を語る。カンボジアにかかわり始 めて、日本や日本人の在り方が気になりだした。

  教員養成大学の図書館に本がなかった

 アナウンサーになってから年4回ぐらい海外に行く。日本にない話題を探すのが目的だった。カンボジアは1994年に初めて訪問した。日本ユネスコ連盟主 催の青年ワーキングキャンプに参加した。アンコールワット教員養成大学の学生と一週間寝食を共にして、図書室の修復を手伝った。 

 なんてことはない。土木作業員なんですよ。でもね。図書館がきれいになったのはいいのだけれど, 本がないのよ。それで本はどこにあるのって聞いたんです。「校長室にあります」っていうんで、校長室に行きました。本棚にあったのにはオックスフォードの英英辞典と衛生に関する本が数冊だけ。愕然としました。

 ポルポト時代に本という本はみんな焼かれたっていうんです。帰国の前日に「あなたの本を送って欲しい」って言われました。その人は英語の先生で「I is fine」なんて平気で教えているんですよ。それでも日本人より会話はうまんですけれどね。でもなんとかしなければならない。そう思ったんです。

 新田さんは、かつて訪れた英国でOXFAMというチャリティーショップがあったのを思い出した。リサイクルショップの収益でカンボジアのこどもたちに本を送る資金を稼げるかもしれない。帰国して新田さんはすぐ動き出した。

 OXFAMは51年の歴史を持つ英国最大のチャリティーショップだ。全英に800店舗を持つ。時間が余っている主婦とか高齢者がボランティアでリサイクルショップを経営するシステムで、収益は福祉に使う。

 本当はそんな店とは知らずに買い物をしたんです。1993年末に再度、英国に行ったときにマネージャーに取材しました。頭の中でなにかがガラガラ崩れていくようなショックを受けました。日本にない発想だと思ってラジオの番組で紹介した。

 3カ月のボランティアにつもりが5年目に

 2カ月後の1994年5月、高松市内の繁華街に「セカンドハンド」という日本で初めてのチャリティーショップが開店した。バブルが崩壊して空き店舗がた くさんあり、飛び込みで家主に「ただで貸して欲しい」と申し入れたところ、主旨を理解してくれた。本当にただで貸してくれた。市民が家で使わない不要品を もってきてくれた。それが信じられないように売れた。店員はボランティアたちが集まってくれたから、店舗運営にお金は一切かからなかった。

 ただ家主との契約は3カ月だったし、新田さんもそんなに長くやるつもりはなかった。その年の8月、約束通りカンボジアの教員養成大学に百科事典など50冊の本を届けた。千葉県柏市にある「カンボジアに学校を贈る会」にも40万円を寄付できた。

 ところが3カ月もたつと「セカンドハンド」はマスコミや口コミで高松市民のほとんどが知るところとなり、新田さん一人の考えでやめるにや められない状況になった。「カンボジアに学校を贈る会」からも協力の要請が来た。日本にNGOはたくさんあるが、自前で資金調達までできる団体は数えるほ どしかない。「セカンドハンド」はたった3カ月でその代表選手になってしまったのだ。

 えいままよと続けて早5年目を迎える。店舗も丸亀市、岡山店と3つに増え、手伝うボランティアも100人を超えた。昨年の売上高は2500万円にもなった。商品はただだから、ほとんどが収益である。

 「セカンドハンド」の驚嘆すべきところは、この種の団体にありがちな会計の不明朗さがまったくないという点である。年4回発行する「セカ ンドハンド通信」には収支だけでなく、カンボジアへの寄付や学校建設の状況を詳細に報告、しかも2500人の協力者に対して送付している。

 まもなく、4つ目の小学校の建設に着手する。この人と出会って人間にできることに限界はないということを知らされた。最後に新田さんのボ ランティアが長続きするわけも分かった。生活にも会話にも「気負い」というものがない。親友の新聞記者に「新田さんは香川の宝だ」といったら、「いや、日 本の宝かもしれない」と返事が返ってきた。

 セカンドハンド 高松市田町12の4 087-861-9928



1998年02月19日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 フィランソロピーはアフリカの水場のようなもの

 「私はフィランソロピーについて『アフリカの水場の動物みたいなもの』と社内に説明している。野ネズミは水場のどこでどれくらい水を飲もうと自由だが、ゾウはそうはいかない。どこに立って飲むかさえ気を付けなければいけない。他の動物に迷惑をかけてはいけないからだ。ゾウは責任ある態度で示すだけでな く、他者から見て責任ある立場で行動していることを理解させる必要がある。それが社会貢献の原点だ」

 フィリップモリスの文化スポンサーシップ担当役員に企業の文化社会貢献について聞いた事がある。この会社はいまでこそタバコと食品の世界的コングロマ リットだが、1960年代、バージニア州の小さなタバコ会社にすぎなかった。そんな時代からモダンアートのなかのポッブアートという分野を育ててきた。ア メリカでの企業フィランソロピーの草分け的存在だった。売上高が10兆円に近づいているいまも文化創造の"旦那衆"的存在である。 ニューズウィークはフィレンツェのメジチ家にあやかって同社を「コーポレート・メジチ」と称したことがある。

 アメリカでは,1960年代後半、多国籍企業に対する批判への高まりから「社会的責任論」として企業によるフィランソロピー活動が台頭した。アメリカで はもともと民間が経済や文化の発展の担い手として発展してきた経緯がある。強者として、あるいは富む者としての義務が問われ続けた社会でもある。権利だけ を追い求めた戦後の日本社会との成り立ちの違いがある。

 バブルの絶頂期の1990年3月、日本でも財界を中心に「企業メセナ協議会」が設立された。アメリカにはそのような企業団体はないが、英国に ABSA(芸術助成企業協議会)が生まれたのが1976年。フランスのADAMACAL(商工メセナ推進協議会)の設立は79年だった。戦後、どこの国で も産業が高度化し、富が企業に集中するようになった。フィランソロピーの担い手は個人から企業に変わりつつあった。

 日本の企業メセナ協議会は参加企業に対して売上高の1%相当の社会貢献事業を提言した。大蔵省は金融機関の接待攻勢には積極的に応じていたが、文化や社 会貢献には関心を持たなかった。経団連が求めた法人税の軽減には一切耳を貸さなかった。アメリカでは企業所得の10%まで非課税で社会貢献できるし、フラ ンスでも売上高の0.1-0.3%の非課税枠がある。日本は資本金や利益額で換算するややこしい仕組みだが、アメリカやフランスに比べて3分に1から8分 の1規模の資金しか非課税で社会貢献に使えない。

 日本にも欲しい「コーポレート・メジチ」

 どう考えても日本の方が欧米より企業中心の社会である。アメリカなどでは法人税の最高税率と個人所得税のそれはほとんど同じである。日本の企業役員の給 与が欧米と比べて格段に低いのはこの税制によるところが大きい。役員専用車を使う場合でも、外部との接待費の支出でも会社経費にすれば税制上有利になるか ら、会社経費で落とし役員報酬は低いほうがその役員にとっても有利なのだ。余談だが、税制こそが社会を変える根元となる証左がここにある。日本が企業中心 ならば、社会貢献もより多く企業に依存するのが道理でなないだろうか。

 日本の企業による「交際費」は年間3兆円を優に超えている。誤解があるかもしれない。大企業の交際費は税制上、非課税でない。非課税なのは中小企業だけ である。対して政府の文教予算は年間4兆円である。これは教職員の給与も含めた額である。企業社会は課税ベースの「交際費」のほかに企業は会議費や販売促 進費など非課税の項目でさらに多くの接待費を浪費している。これはほとんど把握が不可能である。筆者の勘では10兆円や20兆円はあるのではないかと見て いる。

  日本の企業税制がフィランソロピーに不利に働いていることは確かである。税制は政府の問題であるが、企業の巨額の接待費支出を考えれば、その10分の1でも、20分の1でも社会貢献活動に支出できないはずがない。01月21日(水)に書いた 「震災地で子供たちの心をいやす元プリマドンナ」の浮島智子さんも言っていた。「プリマドンナ自らが公演の度に切符売りまでしなければならない状況で日本ではバレエが育たない。人材はみんな海外に流出している」と。日本にも「コーポレート・メジチ」が欲しい。


1998年1月26日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 1992年11月、クラレの臼倉嘉男さん( 現クラレインテリア社長) と北陸から東京へ向かう列車で同席、企業のフィランソロピーについて話し込んだ。またまた古い話だが、取材ノートに赤丸が付いている。当時は株価や地価の 下落は始まっていたが、多くの企業はまだまだ余裕があり、経団連などでも社会貢献委員会が設立されるなど「企業フィランソロピー論」が華やかだった。何か の企画記事で使えると思っていたが、日本経済は1ドル=100円を超える円高で尻に火がつき、やがて金融不安で屋台骨が揺らぎ始めた。結局、この話は出番 を失った。

 クラレは他の企業のやらないことを愚直にまでやってきてようやくここまで来た企業だ。1980年代に抗ガン剤を世に出して株価が4桁になった。フローの実 力でなかったのは、その後の株価が示している。もはや競争力を失ったとされる繊維業界のなかで唯一、経常利益が営業利益を上回っている。増益基調は何年続 いていつか知らない。一株利益は1997年3月期で33.7円。東レや旭化成をはるかに凌ぐ。業界でもダントツである。

 臼倉さんは行田市の足袋屋のせがれだった。京都大学を出て、本当は家業を継ぐつもりだったが、クラレに入社して総務本部長まで出世し、ついぞ行田に帰るチャンスを逃した。クラレという会社が相に合っていたのだろう。

 列車での会話は大原一族の偉業に及んだ。「倉敷に大原美術館を建てただけではない。大原孫三郎は病院も建設した」。いまでは公立の倉敷中央病院になってい るらしい。この病院は規模として当時、東洋一だった。孫三郎は私財も多く投じた。「女工さんたちが病気になったときの面倒も見る必要がある。患者もたまに は音楽でも聞くぐらいの余裕が必要だ」と考えた。病院の真ん中に「音楽ホール」を作ることを命じた。これは究極のフィランソロピーだ。いまでこそ企業が病 院を持つことは珍しくない。大正時代のことである。

 病院経営のきっかけは明治末期に岡山で孤児院を経営していた宮崎出身の石井十次との出会いだった。熱心なキリスト教徒だった石井は医学の道を目指して岡山 医学校を卒業したが、道すがら預かった子供を引き受けたのがきっかけで医学の道を断念、孤児のために一生を捧げることになる。

孫三郎は石井の生き様に心服して自身の歩むべき道を定めたという。岡山孤児院は最盛期には1200人の孤児を抱えた。孫三郎の「無条件、無制限の援助」があったとされる。いま大阪市にある愛染橋病院は石井の業績を引き継いでいる。

 法政大の大原社会問題研究所、日本学術振興会の労働科学研究所、白桃やマスカットを生んだ大原農業研究所、柳宗悦ら民芸運動家の夢を実現した日本民芸館。「皆、孫三郎が世に送り出したんですよ。あまり知られていないけれど」。

 そんな話を聞きながら東京駅についた。石井十次を紹介したテレビ番組を見た直後だっただけに、臼倉さんとの出会いもひとつの一期一会だと思った。

 クラレという会社はナンバーワンを目指しているわけではない。そういえば「人のやらないことをやってきた会社」(中村尚夫会長)だけに社員もあまり人間がすれていない。

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