2016年12月アーカイブ

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12月9日(金)夜学会のテーマは
「依岡省三とサラワク国」
場所は、はりまや橋商店街、魚の棚前の空き店舗です。

霞山会の雑誌「Think Asia」の原稿を書いている最中、現在のマレーシア・サラワク州に100年前、白人のラジャーがいたことが分かった。そこで唯一、外国人として投資を許された日本人がいたことも分かった。その日本人こそが高知県出身の依岡省三だった。南洋開発が日本の生きる道と信じ、鈴木商店の金子直吉を通じて日沙商会を設立、ゴム園と石炭採掘を生業とした。高知県は自由民権家の森小弁がトラック島に渡り、東京芸大出身の土方久功がパラオに住み、パラオ神話を初めて文字に残した。土佐が生んだ南洋三人衆ともいえよう。土佐人に残る南洋の血がなせる業なのかもしれないと考えればロマンチックは気持ちにさせられる。今夜は土佐がかけた南洋への夢を見たいと思う。

Emilio_Aguinaldo_(ca._1898).jpgエミリオ・アギナルド(1869 - 1964)フィリピンのスペイン統治時代に革命軍を組織し、米西戦争後は日本の協力を受けて反米闘争を続け、1898年、フィリピン共和国を宣言し、初代大統領に就任した。しかし、独立の英雄の一人ながら、その後にアメリカに降伏するなど毀誉褒貶の生涯を過ごした。
マニラ南西のカビテ州のカウイト町長の子として生まれ、豊かな幼少期を送り、25歳にして町長を引き継いだ。1890年代に誕生した秘密組織カティプナンに参加し、カティプナン党を中心とした独立のための武力闘争が始まり、その中で頭角を現わした。一時はカビテ州を武力解放するなどスペイン側に攻勢をかけた時期もあったが、スペインの増軍によって山岳地に入ってのゲリラ活動が続いた。
Ho_Chi_Minh.jpgホー・チ・ミン(胡志明1890-1969)ホーおじさんと慕われたベトナム独立運動の指導者。主にコミンテルンの元で海外から民族解放運動を指導していたが、1941年、ハノイに戻り、日本が第二次大戦で敗戦した政治空白を利用、民主勢力を糾合して1945年9月2日、独立を宣言した。しかし、フランスの植民地支配の復活とアメリカの関与によって30年の独立戦争を余儀なくされた。1975年のアメリカ軍の撤退のよる南北統一を待たずに亡くなった。

 ベトナム中部のゲアン省で貧しい儒学者の子として生まれた。本名はグエン・シン・クン(阮生恭)。父親の影響で漢籍を学び、日本に学べの「東遊運動」(トンズー)を起こしたファン・ボイ・チャウが父親の所によく遊びにきていたという。21歳の時、フランス船のコック見習いとして国外に脱出。船員やコックとして生きたが、1917年のロシア革命に影響を得てパリに渡り、グエン・アイ・クォック(阮愛国)の名で独立運動家として頭角を現した。第一次大戦後のパリ講和会議では植民地ベトナム人のフランス人と同様の基本的人権を要求する嘆願書を提出し、1921年、フランス共産党が成立するとともに共産党員となった。
uchimurakanzo.png内山完造(1885-1959)戦前、上海の租界に内山書店を開いて、大繁盛し、魯迅など中国の知識人との交流を深めただけでなく、日本の言論人と中国人を結びつけた歴史的功績は小さくない。たぶん、中国で最も尊敬される数少ない日本人の一人といっていい。

 現在の岡山県井原市に生まれ、12歳の時に大阪に丁稚として働き、後に京都の商家で働いていた時、牧野虎次(後の同志社総長)という牧師と出会い、28歳で大学目薬参天堂の上海販売員として中国に渡る。大陸への関心が高かったようで「血湧き肉躍る」思いだったそうだ。当時の目薬販売員は商品を担いで廻る必要があった。内山は上海から揚子江を遡り流域に販売網を築くだけでなく、当時としては珍しく庶民の目線から中国社会を見つめた。
zhouzuoren.jpg周作人(1885-1967)文豪、魯迅の弟。日本に留学、日本文学に傾倒し、陳独秀らが創設した雑誌「新青年」の中核メンバーとして自ら創作する一方、日本始め海外文学の翻訳、文芸評論家として名をなすが、日中戦争後も北京にとどまり、日本側に協力したことから、解放後は対日協力者「漢奸」として逮捕された。その後、出獄したものの、名誉を回復することなく不遇の中で死去する。

 浙江省紹興の旧家に生まれ、南京の江南水師学堂を経て、1906年から日本留学。立教大学では英文学とギリシャ古典文学を学び、西洋の文芸思想から個人主義と人道主義の影響を強く受けた。1905年、東京で孫文らによる中国革命同盟会が発足し、魯迅とともに大いに刺激を受ける。

 1911年に帰国するが、辛亥革命が起きて、清朝は崩壊。周作人は浙江軍政府の教育司や省立中学の英語教師などで生活を支えながら創作活動を開始する。文壇で頭角を現わすのは五・四新文化運動の最中。
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12月2日(金)夜学会のテーマは
「ビール課税の不穏当な動き」
場所は、はりまや橋商店街、魚の棚前の空き店舗です。

表はビール課税の国際比較だ。歴然としているのは高いこと。
政府は現在あるビール、発泡酒、第三のビールの税率を一本化しようとしている。ビール消費の減少に加えて、発泡酒や第三のビールへの移行によってビール類からの税収減をなんとか食い止めようと一本化を図ろうとしているのだが、そもそも発泡酒や第三のビールが登場したのは単にビールの税金が高すぎた結果なのである。ビール類の課税を国際水準に引き下げるならともかく、一本化したところで何の解決策にもならない。前々回話した通り、日本では長年「減税」というものがない。高齢化社会に向かって国民負担が増えていくのは仕方ないにしても、どこかで国民が喜ぶような政策が必要なのに、一向に国民の気持ちが分からないのだ。

Yi_Un.jpg李垠(1897-1970)大韓帝国最後の皇太子。称号は英親王。李王朝の高宗の第7子として生まれ、純宗の時、皇太子となるが、10歳の時に日本留学。日韓併合で李王朝がなくなり、終戦で独立後も王制は復活せず、失意のうちに死去した。赤坂プリンスホテル旧館は李垠殿下の住まいだったものを、実業家の堤康次郎が戦後に買収し、殿下にあやかってホテル名にプリンスをつけた。

日本留学は1907年。伊藤博文の建議によるもので、すでに日本は朝鮮を併合する考えであったため、皇太子を日本の皇族として育てることとなった。学習院、陸軍幼年学校、陸軍士官学校で教育を受け、1920年には梨本宮方子様と結婚、二人の男児をもうけた。政略結婚であったとはいえ、方子様は李垠につかえ夫妻円満だったようだ。長男李晋が誕生した時、日本のマスコミはこぞって「日朝融和のシンボル」として大きく取り上げた。
日本は日韓併合後も、李朝王室を廃止することはなく、引き続き昌徳宮は王室の住まいとしてあり続けた。しかし、韓国側からみれば、李王朝の皇太子が日本化することは耐えられない屈辱だったはずだ。

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