大原孫三郎とフィランソロピー

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oharamagosaburo.jpg1998年1月26日(月)
共同通信社経済部 伴武澄
  1992年11月、クラレの臼倉嘉男さん( 現クラレインテリア社長) と北陸から東京へ向かう列車で同席、企業のフィランソロピーについて話し込んだ。またまた古い話だが、取材ノートに赤丸が付いている。当時は株価や地価の下落は始まっていたが、多くの企業はまだまだ余裕があり、経団連などでも社会貢献委員会が設立されるなど「企業フィランソロピー論」が華やかだった。何かの企画記事で使えると思っていたが、日本経済は1ドル=100円を超える円高で尻に火がつき、やがて金融不安で屋台骨が揺らぎ始めた。結局、この話は出番を失った。

 クラレは他の企業のやらないことを愚直にまでやってきてようやくここまで来た企業だ。1980年代に抗ガン剤を世に出して株価が4桁になった。フローの実力でなかったのは、その後の株価が示している。もはや競争力を失ったとされる繊維業界のなかで唯一、経常利益が営業利益を上回っている。増益基調は何年続いていつか知らない。一株利益は1997年3月期で33.7円。東レや旭化成をはるかに凌ぐ。業界でもダントツである。
 臼倉さんは行田市の足袋屋のせがれだった。京都大学を出て、本当は家業を継ぐつもりだったが、クラレに入社して総務本部長まで出世し、ついぞ行田に帰るチャンスを逃した。クラレという会社が相に合っていたのだろう。

列 車での会話は大原一族の偉業に及んだ。「倉敷に大原美術館を建てただけではない。大原孫三郎は病院も建設した」。いまでは公立の倉敷中央病院になっている らしい。この病院は規模として当時、東洋一だった。孫三郎は私財も多く投じた。「女工さんたちが病気になったときの面倒も見る必要がある。患者もたまには 音楽でも聞くぐらいの余裕が必要だ」と考えた。病院の真ん中に「音楽ホール」を作ることを命じた。これは究極のフィランソロピーだ。いまでこそ企業が病院 を持つことは珍しくない。大正時代のことである。

病院経営のきっかけは明治末期に岡山で孤児院を経営していた宮崎出身の石井十次との出会 いだった。熱心なキリスト教徒だった石井は医学の道を目指して岡山医学校を卒業したが、道すがら預かった子供を引き受けたのがきっかけで医学の道を断念、 孤児のために一生を捧げることになる。

孫三郎は石井の生き様に心服して自身の歩むべき道を定めたという。岡山孤児院は最盛期には1200人の孤児を抱えた。孫三郎の「無条件、無制限の援助」があったとされる。いま大阪市にある愛染橋病院は石井の業績を引き継いでいる。

法政大の大原社会問題研究所、日本学術振興会の労働科学研究所、白桃やマスカットを生んだ大原農業研究所、柳宗悦ら民芸運動家の夢を実現した日本民芸館。「皆、孫三郎が世に送り出したんですよ。あまり知られていないけれど」。

そんな話を聞きながら東京駅についた。石井十次を紹介したテレビ番組を見た直後だっただけに、臼倉さんとの出会いもひとつの一期一会だと思った。

クラレという会社はナンバーワンを目指しているわけではない。そういえば「人のやらないことをやってきた会社」(中村尚夫会長)だけに社員もあまり人間がすれていない。

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このページは、伴 武澄が2016年3月 3日 22:00に書いたブログ記事です。

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