タイ近代化の基礎をつくったモンクット国王

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200px-Thomson,_King_Mongkut_of_Siam_(crop).jpg モンクット王(ラーマ4世、1804―1868)ミュージカル「王様と私」のタイ王のモデル。王位につくまで27年間、僧院で修行した世界的にも希有な王。王位につくと鎖国政策から脱却し、英仏米と相次いで外交関係を結び、西欧諸国から先進技術を導入し、タイ国近代化の基礎をつくった。

 タイのバンコクにあった当時のチャクリー王朝は400年、タイを統治したアユタヤ王朝を倒したトンブリー王朝を継承した。中国の冊封体制下にあったが、19世紀中葉、イギリスによるビルマ制圧、フランスの仏印進出という国家的危機を迎える。

 そんな折り、1824年、モンクット20歳の時、父親であるラーマ2世が急逝する。モンクットは王位継承第一位だったが、僧門に入っていたこととまだ年が若いことから、側室の子ながら16歳年上の兄が即位する。
 即位の期待は裏切られたが、僧門にあったお蔭で激動する政治から離れて、自由に外国の知識人との交流し、世界情勢と先進科学の知識を得ることを可能にし た。仏教僧としてサンスクリット、パーリ語を習得する一方、宣教師からラテン、英語を学ぶなど当時のアジアの王室では稀な才人として頭角を現わしていた。

 中でもタイに32年間滞在し、タイ文化をヨーロッパに伝えたフランス人のカトリック宣教師、パルゴア神父との交友によって、モンクットは新たな世界が切り開かれ、ヨーロッパ情勢に精通するようになった。

  モンクットは西欧に傾倒しただけではなかった、仏教を広げるためにパーリ語経典の印刷にも取り組んだ。興味深いのは当時のパーリ語はクメール文字で表記さ れていたが、印刷が困難なため新たにローマ字風のタイ文字「アリヤカ文字」まで考案したことである。古今東西、王様自ら文字を発明したのは李朝朝鮮の世宗 とモンクットしかいない。アリヤカはアーリアを意味し、タイも文明国家の一員であることを示そうとしたモンクットの矜持だったのかもしれない。

  1851年、兄ラーマ3世の死によって、モンクットは即位する。直ちに直面したのはイギリスとの国交交渉だった。進んで門戸開放することを決意し、 1855年、ボーリング条約によって開国する。タイは自由貿易体制に組み込まれ、アジアへの米輸出が始まり、フランス、アメリカとも相次いで国交を開始す る。

アメリカの代表は初代駐日領事だったタウンゼント・ハリスだった。日米通商条約の締結は1858年だから、日本とタイは、ハリスを相手に、ほぼ同時期に通商条約交渉を行っていたという奇なる縁にあったのだ。

  即位後に子弟に英語教育を施すためにバンコクに赴任したのが、アンナ・レオノーウェンズ夫人だった。映画やミュージカルではアンナが頑迷な王様に反発しな がらも理解を深めていく姿が描かれるが、モンクット王は頑迷どころか、王様自らが西欧文明を理解し、開国を進めたのが本当のところ。

  「王様と私」はアンナがタイ宮廷での生活を描いた2冊の本をもとに創作された、マーガレット・ランドンの小説『アンナとシャム王』が原作となっており、誇 張が多く、タイ王室への不敬罪に当たるとして、タイでは映画もミュージカルも上映が今も認められていない。(伴 武澄)

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このページは、伴 武澄が2015年7月 3日 09:57に書いたブログ記事です。

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