2015年6月アーカイブ

安倍首相の安保法制に大義がないのは、自衛隊の派兵を「日本の防衛」に徹しているからだ。もっと世界のために、アジアのために自衛隊が働くというの であれば、憲法違反であっても心情的に現在の政権になじむことができるのだが、安倍首相の場合、「日本の防衛」を強調するばかり。これではいくらなんでも 手前勝手に聞こえる。

海外から見ても、そうだと思う。今回の安保法制騒動は、日本って国は結局、自分のことしか考えていない国なのだということを改めて知らしめてしまったのだ。どこに国だって自国の安全が第一であるが、やはり政治には大義が不可欠だ。

そもそもこれまでの戦争に大義があったとは思わないが、ウソでも一応「民主主義のため」とか「アジア解放」とか大義を掲げていた。

日本の自衛隊が世界か少なくともアジアの安全保障のために働くと主張したのであれば、もっともっと賛同を得られたのにと思うが、やっぱり安倍首相の安保法制案は動機が不純。というより安倍首相は少なくとも宰相の器ではないのだ。

こんな人を掲げて自民党が総選挙に圧勝できた日本ってやはり人材が払底している。何度、日本人をやめたいと思ったことか。

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 土佐山七厘社として、はりまや橋金曜市に出店して7カ月が経過した。昨年12月は正月を控えていた上、お祝儀の意味でも結構な売り上げがあったが、その後は、いろいろな炭の売り方を工夫するものの鳴かず飛ばず。

 流れが変わったのは4月からだ。店を訪ねてくれた茶道関係者からの注文が入り始めた。これまで4件の人に継続的に特注の木炭をお届けしている。4月からは風呂釜向けの注文も入り始めている。

 同時に旧鏡村の植田さんの好意で山菜を売り始め、土佐山のサカキも店頭に並べたところ、店頭はがぜん賑わいを増した。なんでも1束100円が、いつの間にか「つかみ取り100円」となってしまったこともあり、昼飯時を忘れるぐらいお客さんが来てくれた日もあった。
11143367_1013608265317075_3292549774078294992_n.jpg今夜、「選挙制度を考える」と題して金曜日の恒例の夜学会を開いた。常連メンバー約10人が集まっていい議論をしたのだが、昨日からニュースを見ていな かったため、自民党青年局の勉強会で「沖縄の二つの新聞をつぶしてしまえ」という暴論が出ていたことを知らなかった。とんでもないことを議論していること には開いた口がふさがらない。

家に帰って一昔前の日記をひもといていると、なかなか面白いことが書いてあった。

「品格だとか美しいとか日本の形容詞として人を酔わせているが、本来、品格とか美しいとかいう褒め言葉は他人が評して使う言葉で、自分で言ってはそれこそ品性が問われる。それなのにそんな形容詞を使う人が総理大臣になってしまった」
そんな品性のない人を二度までも内閣総理大臣にしてしまったのは、われわれなんだと、今度は自己反省することしきりであった。
1998年06月25日(木)
萬晩報主宰 伴 武澄
    
 6月25日は参院選の公示日。どうも盛り上がりに欠ける。共同通信大阪支社のあちこちでそんな会話が聞こえている。政治に新しい風が吹いている実感がないからではないか。そんな感想も聞かれた。

 1996年10月の総選挙は、小選挙区制の導入があり多少の新味があった。新進党が躍進するかもしれないという淡い期待感もあった。今回は菅直人が率いる民主党があるではないかという反論もあろうが、民主党に大同団結のイメージはなく、労組臭を色濃くする烏合(うごう)の衆ではないかというマイナスイメージが強すぎる。

 白票は無効という現行制度の矛盾

 毎日新聞は24日付朝刊から政治面で「投票に行こう」というキャンペーン記事の連載を始めた。作家の石川好氏が呼びかけ人となって「投票に行こう勢」運動を開始した。

 初回の呼びかけは「政治に不信なら白票を」だ。「有権者の2割が不信任の白票を投じれば1900万票で第2党どころか第1党に肉薄する『巨大なノー党』になる」というのが趣旨だ。

 筆者も前回の総選挙で3枚の投票用紙を白紙で投票した経験がある。その前の選挙で投票した人物が当選直後に党籍を変更した。筆者は人物に投票したのではなく政党に投票したつもりだったから「こんな不合理があっていいものか」と怒りが収まらなかった。それなら「白票」で不信任の意思表示をしようと考えた。

 ところが、日本の選挙法では用紙にいたずら書きをしようと白票のまま投票しょうと候補者名が書かれた用紙以外はすべて「無効票」としてカウントされる。現行の制度下では、だれにも投票したくないという選挙民の選択肢はないに等しい。集計方法の欠陥のひとつではないかと思っている。
2005年06月25日(土)
萬晩報主宰 伴 武澄
 長野県南相木村の色平さんから「長野県木曽郡で直接民主主義実現へ」という刺激的なメールをもらった。23日の王滝村の村議会で「議員定数削減」と「村民総会設置」の二つの条例案が提出されたという。

 市町村合併で100人を超える議員を抱えるようになった自治体がいくつも出現した。そんな矛盾に真っ向から問題提起した王滝村の人々の勇気に拍手を送りたい。

 以前の萬晩報に書いたこともあると思うが、日本のマスコミの限界はこうした小さくもきらりと光るニュースが県境を越えないところにある。

 総会設置条例案は、町村議会を置かずに、有権者の『総会』を設けることができるとした地方自治法94条の規定に基づく。信濃毎日新聞によると「条例案は、村民総会は18歳以上の全村民を構成員とし、定例会を年1回開催、半数以上を定足数とし、報酬は支給しない」。

 まず日本の地方自治法にそんな規定があったことに新鮮な驚きがあった。六法全書を取り出して地方自治法を読んでみるとあるある。「町村は議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる」のだ。

 過去に住民総会を設けた村はあるそうだが、もちろん現在はない。そもそも小さく貧しい村で「生業としての議員」が必要なのか疑問だ。人件費だけの問題ではない。選挙にだってお金がかかる。小さな共同体で行政と議会という二つの機能が不可欠とは思えない。

 王滝村は平成の市町村合併で近隣町村と合併できず、村営スキー場関連の多額債務を抱えて財政再建団体への転落も予想される状況なのだそうだ。村議会の今回の提案は、「定数を削減せず、チェック機能も果たしていない」として、住民グループが村議会解散を請求していることに対する危機感の表れでもある。

 民主主義における議会はもともと、イングランド王へのチェック機能からスタートした。その後、法律や条令を提案する機能を付加された。議会が本来の機能を果たしていないという住民の不満はなにも日本だけのものではないと思う。
2002年11月20日(水)
萬晩報主宰 伴 武澄

 若者が政治改革を目指すNPO「Rights」が主催するシンポジウムに出席して、分かったのは世界のほとんどの国で参政権が18歳になっているということである。日本など20歳以上は「例外的存在」であることに初めて気付いた。

 オーストラリアから参加した青年によれば「参政権が21歳から18歳に引き下げられたのはベトナム戦争の時だ」というから四半世紀以上も前のことである。理由は「ベトナム派兵のため、徴兵制度が始まり、参政権もないのに徴兵するのはおかしいという意見が多数を占めたからだ」という。アメリカでも同じ事が起きていたそうだ。

 明治当初、日本の参政権は一定の納税額以上の男子に限られていたが、大正デモクラシーで「25歳以上の男子」となり、戦後は女性にも参政権が拡大して年齢も20歳に引き下げられた。その後、参政権年齢の引き下げ議論がなかったわけではない。民主党は昨年「引き下げ法案」を国会に提出した。しかし、本音ベースでいえば、だれも制度変更を現実のものとはとらえてこなかった。

 この間、高校進学率はほぼ100%となり、誰も彼もが大学に入れるようになった。日本人の高学歴は急速に進み、経済は世界のトップレベルに達したのだが、政治意識は進歩したとはいえない。参政権年齢を引き下げれば、政治意識が高まるというわけでは毛頭ないが、世界中が参政権年齢を相次いで引き下げていた時、日本は完全にフリーズ状態だったことだけは確かである。
koubodaishi.jpg 江戸時代の伊勢参り一番の土産は白粉だったらしい。今では考えられないことだが、原料は水銀だった。近代になるまで、水銀の害毒はほとんど知られていなかったが、うちのおばあさんは「妊婦は白粉を塗ってはいけない」といっていたそうだから、うすうすとは知っていたのだろう。しかし、古代から毒をもって毒を制するということで、毒を薬にしていた。
 日本に「丹」の字のつく地名は数知れない。伊勢にも丹生というところがある。戦後まで水銀を採鉱していた鉱山まであった。東大寺の大仏建立の際、大量の水銀を必要とした。歴史によると、丹生の水銀採鉱は奈良時代に遡るというから相当に古い。
 仏像を金メッキする際、菌に水銀を溶かしたアマルガムを銅の表面に塗り、加熱すると水銀が蒸発して金メッキが完成する。当時、大仏建立の際、相当量の水銀が奈良の都に充満し、少なからず人々の健康被害も出たはずだ。
子供のころ、心をときめかせたテレビドラマ「怪傑ハリマオ」は実在していた。戦争中、日本軍がマレー南下作戦で重要視したのは、英印軍のインド兵の投降 と、ハリマオ作戦。マレーのジャングルを縦横に駆け巡っていたハリマオの仲間3000人に作戦への協力を求めた。ペラク川では英軍が仕掛けた爆破装置を除 去するなどハリマオは果敢に戦った。当時、戦果高揚のため、ハリマオは映画にもなっていた。「怪傑ハリマオ」の復活は昭和30年代後半。中国人と英国人が 悪者になっていたのは戦前戦後も変わっていなかった。
1998年8月15日
Subhas Chandra Bose Academy事務長 林 正夫


  以下は4年前、Subhas Chandra Bose Academy事務長の林 正夫氏から4年前に預かった貴重な手記である。ボースの遺骨を50年以上にわたり守ってきた老人のインドに対する思いを込めた手記である。なぜインド人は インド独立の獅子の遺骨を引き取らないのか。悲痛な手記である。できればインド人にこの手記を読んでほしい。
 印度独立運動の志士、スバス・チャンドラ・ボースが昭和20年8月18日、台北松山飛行場に於て不慮の事故死を遂げてから、今年は仏事で50回忌を迎えることになる。

 印度独立の待望のためには世界の大勢と印度の立場からガンヂー、ネルーとも離れ、断食によって仮出獄をして遂に印度からベルリンへの決死的脱出を決行 し、日本軍のシンガポール占領にともない、印度洋上独逸潜水艦より日本の潜水艦へ劇的な移乗を決行してまで、日本を信じて日本と共に戦い、しかも悲運な戦 局に至るも、最後まで信念を変えることなく逝ったボースの遺骨が、今もなお母国に還ることもならず異国に在ることは、ボースを知る者の一人としてもどかし さを感じてならない。

 「ネタージ」(インド語で指導者)の遺骨は遭難後荼毘に付され9月東京に送られた。遺骨を渡された印度独立連盟のラマ・ムルティとアイヤー両氏はお寺に 預かって貰うことにしてお寺を探したが,終戦直後の不安な世相ではどのお寺からも拒絶された。途方に暮れている時、蓮光寺の先代住職の快諾を得て安堵の胸 をなで下し、預けたまま今日に至っている。以来、蓮光寺では8月18日の命日には毎年慰霊祭が継続されて来た。
1998年08月14日(金) 萬晩報主宰 伴 武澄

  8月15日。この日が近づくと毎年、日本人は総懺悔する。3年9カ月のわたった戦争は日本人だけでなくアジア人にも忘れさせることのできない悲痛な思い を想起させる。筆者は毎年8月18日には、東京都杉並区にある蓮光寺に参拝してきた。インド独立の父の一人であるスバス・チャンドラ・ボースの遺骨が54 年間、異境で眠り続けているからだ。

 チャンドラ・ボースはガンディー、ネルーに次ぐ巨頭だった。インド国民会議派の議長を務めていた1938年、ガンディーの方針に背いたことから議長職を 解任され、独自にフォワード・ブロックをつくった。急進的なインド即時独立論者として英国から最も危険視された。41年、英国による軟禁状態から脱出、ド イツに逃れ、やがてシンガポールに現れる。そしてインドの武力解放を目指して"同盟軍"としてインパール作戦に参戦する。終戦直後、ボースはソ連への亡命 の途上、台北市上空で航空機事故のため死去。遺骨は蓮光寺に仮埋葬されたままなのである。

 インド人将兵の勝利だったシンガポール陥落

 第二次大戦中、杉原千畝領事代理がビザを大量発行してユダヤ人救出したことが後世、評価された。同じようにインドのカルカッタやパキスタンのパンジャブ 地方に行ってインド国民軍(Indian National Army=INA)やチャンドラ・ボースのことを話題にすれば、日本人はどこでも歓迎されるはずだ。日本ではほとんど知られていない故藤原岩一氏は、イン ド独立の父として「メジャー・フジワラ」(藤原少佐)の名でいまでも語り継がれている。いまやだれも語らなくなった太平洋戦争の秘史の部分といってもい い。
benkei.JPG人にとってどうでもいいことかもしれないが、僕には気になることが少なくない。北陸に越前、越中、越後とあるが、越前と越中の間にどうして加賀という国があったのかずっと気になっていた。

5月末に小松市で集まりがあり、前日から小松市に入っていた。小松空港は度々利用していたが、小松市を訪れたのは初めてだった。初めての土地ではまず博物館を訪問することにしている。今回も城址にある小松市博物館でその疑問が氷解した。

なんてことはない。平安時代に越前国司が越前は広すぎて統治できないと報告したため、その東部が加賀国として分離した歴史があったのだ。そして小松に加賀国の国府が置かれたというわけだ。大化の改新まで、加賀は賀我、加宜、香我、賀加とも書かれていたそうで、加賀国は律令制度で最後に設置された国だったのだ。


DSCF3620.JPG6月5日、露天商の悩みは山に売れる山菜がなくなってきたことだった。栽培したものを売るつもりはあまりないし、請け負って売るのはもっとやりたくない。

ひらめいたのは青竹。今年のタケノコはすでに人間の背丈の何倍にも育っている。竹林でひときわ鮮やかな青色をみせている。こんなものが商品になるか、とも考えたが、季節感を感じさせるのは青竹しかない。そもそも竹は、花瓶や竹器、おちょこや銚子に使われている。

鏡村から切り出した青竹を電ノコでカットしたらできあがり。切り口から水がどんどんしみ出たため、2日間陰干しにし、1個100円で売ることにした。ほと んどは形を崩すことはなかったが、2個ほどは割れが入った。問題はいつまでこの青さを保つかだが、何の保証もない。季節の器として1カ月持てば上等なので はないかと思っている。

明日5月5日(金)のテーマは「四国の宝、賀川豊彦」です。
午後7時からです。

KAGAWA_Toyohiko_young.JPG

戦前・戦後、世界で一番名前の知られた日本人といえば、賀川豊彦である。神戸のスラム救済から始まり、労働運動、農民運動、協同組合運動、平和運動、およ そ運動と名の付くもののほとんどが賀川豊彦から始まっている。同時に小説家、詩人でもあり、クリスチャンとしてはアメリカで「20世紀に最も神に近い人 物」いわれ、戦後、占領下に首相になるとも言われた。そんな人物が教科書にも書かれず、忘れ去られている。神戸で生まれ、鳴門で育った、この人物を四国の 宝と呼びたい。
http://k100.yorozubp.com/

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