2015年5月アーカイブ

明日5月29日(金)のテーマは「萱野長知と孫文」
午後7時からです。

040-3.jpg孫文の革命を支援した日本人といえば、真っ先に宮崎滔天、次いで津軽の山田良正兄弟、長崎の梅屋庄吉などが有名である。土佐からは萱野長知があり、和田三 郎がいた。実はほとんどが自由民権の流れを受けた人々で、国会開設後に目標を失い、理想の国づくりを大陸に託したのであった。そう考えると中国革命の思想 的源流の一つに土佐があったということにもなる。
0011111.jpg 先週5月20日、僕は金沢市にいた。22日にある会議に出席するためだが、スケジュールの関係で2日前に金沢入りした。武家屋敷の観光を終えてさて、どこに行こうか迷った。数年前に訪ねたふるさと偉人館に行ったところ、たまたま桐生悠々展を開催していた。まさに時宜を得た展覧会だった。

 桐生悠々は反骨のジャーナリストとして名を馳せているが、彼の名前を後世に残すきっかけとなったのは、信濃毎日新聞の主筆だった1934年の社説「関東防空大演習を嗤う」だった。時代は満州事変を経て日本が国際連盟を脱退するまで追い込まれていた。「関東に敵機を迎え撃つということは敗北そのものである」と当たり前のことを書いた。そのことだけで陸軍の憲兵ににらまれ、信濃毎日を追われることになった。

 桐生悠々が晩年、生活の糧としていた雑誌「他山の石」で次のように書いていた。


旧約聖書にモーゼがエジプトの奴隷となっていたユダヤの民を乳と密の流れる郷、つまり今のイスラエルに導く話がある。神は雲の柱と火の柱を導きとしたという。賀川豊彦は大正年間に「雲の柱」という機関誌を発行して、日本に100万人のキリスト教信者をつくろうと励んだ。

毎号、賀川は「身辺雑記」を書き、身辺で起きた出来事を書き続けた。その「身辺雑記」を現在、自炊中である。全文は著作としては存在しないが、賀川豊彦全集に編集して収められている。これがなかなか面白い。

キリスト教伝道を中心に、疲弊した農村の再興のため、全国を行脚しながら農民福音学校を各地に設立した経緯、生活協同組合の話から、仲間の武内勝が神戸で 始めた失業保険が政府に取り入れられ、さらに組合病院が全国に広がる有り様や健康保険が始まる当時の社会情勢が次々と描かれている。

「身辺雑記」が興味深いのは、賀川の起こした社会運動の幅広さ、そしてその活動の多くが彼自身の著作の印税によって支えられていたこともよく解るからである。

自炊をしながら、これだけで一本の研究論文が書けるのではないかと考えている。
戦後世代のわれわれが、安心して暮らせるのは、大正から昭和にかけて賀川豊彦という人物が蒔いた多くの種のお蔭であることをもっと多くの人に知って貰いたいと思っている。

自炊はまだ半分した到達していない。何分、炭売りと山菜取りなど山仕事をしながらであるから仕事がなかなか進まない。そもそも「身辺雑記」はページ数がむ ちゃくちゃ多い。400字で1000枚はあるのではないかと想像している。校閲に協力していただける方、ご連絡ください。

そもそも「身辺雑記」という長編の自炊を僕に勧めたのは亡き賀川督明さんだった。盟友の命日までになんとかまとめておきたい。
きょうも金曜市に出掛ける。昨日は高知大学農学部の学生さんが山菜採りをしたいというので一緒した。一日、いろいろな話をした。「何で伴さんは炭を焼いた り売ったり、山菜まで手を広げているのか」というのが疑問らしかった。理由は何もない。すべて出会い頭に面白そうなことをやっているだけで、結果的にこれ が頭の体操になり、体力維持にも役立っている。そう、多少の小遣いも稼いでいる。都会にいた時は山仕事に関心を持つ環境になかったのが、土佐山アカデミー との出会いで芋づる式にいまやっている仕事に出会うこととなった。
ただ疑問に思うことは、僕ができるようなことを他の誰もしようとしないことである。僕は週1回だけ、山菜採りをして金曜市で売っているが、少々工夫すれば、多少の生業になりそうなのだ。夜学会の方はなかなか真似はできないだろうが、露天商はだれだって出来ることなのだ。

明日、5月15日の夜学会のテーマは「広井勇と公共事業」です。
いつものように午後7時からです。

Hiroi_Isami.jpgのサムネール画像

佐川町出身の広井勇は札幌農学校の第二期生で、新渡戸稲造、内村鑑三とともにクリスチャン三羽がらすといわれた逸材。日本の土木事業の祖といわれ、パナマ運河の一部を設計した青山士、台湾の烏山頭ダムと建設した八田與一、鴨緑江にかかる東洋一の水豊ダムを建設した久保田豊という国際的シビルエンジニアを育てた。日本はおろか高知県でさえ、ほとんど知られることなく年月が経っている。日本の公共事業の草分け時代、海路なき事業の航路を切り開いた事業家に光を当てたい。

5月8日(金)の夜学会のテーマは「アワビと熨斗」。
いつものように午後7時開始です。

熨斗を漢字で書ける人は大変な日本人だ。熨斗はそもそも干したアワビの帯である。古来、日本人は熨斗アワビをつくって朝廷に献上していた。伊勢神宮設立の 神話も遡ればアワビに始まる。うそではない。伊勢神宮の場所を探していた女官が志摩半島にたどり着き、アマテラスが「伊勢は美し国」と褒め称えたため、そ の地にアマテラスを祀る事になったと日本書紀に書いてある。そのアワビを採っていたのは海女たちだった。海女たちはいまも素潜りでアワビを採っている。日 本と耽羅の人々の物語は今も続いている。
2004年09月04日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 驚いたのは韓国・済州島の海女が三重県で漁をしていると聞いた時である。三重タイムズの社長さんと話をしていた時である。熊野の沿岸でダイビングをしていた時、横で潜っていた海女たちが韓国語をしゃべっていたというのだから間違いないというのだ。

 後継者不足でついに海女の世界にも外国人労働の時代がやってきたのかと思い、「それって外国人労働になるんですか」と聞いた。浅はかにも「そうか、潜水漁労は特殊技能だからビザが出るんだ」などと考えた。

 社長の話は続く。

「分からないけど、そんなにきのう今日の話ではないようなのですよ」
「耽羅(たんら)って知っていますか」
「伊勢神宮に奉納するアワビのことを耽羅鮑というんです」
「その耽羅とは済州島の古い地名なのです」
「どうも済州島と志摩とはそんな時代から行き来があったのです」


高知に帰ってまる4年。今日で5年目が始まります。
今までの延長でない人生の後半を送りたいと思いながら過ごしてきました。
試行錯誤のうちに友だちの輪が広がり、今更ながら知らないことばかりであることを日々実感しています。自分で作った友だちは一人もいません。いろいろ助けてくれたり教えてくれる友だちはみんな友だちの友だちです。
一番嫌いな言葉が「プロ」です。何事に於いても始めた時はみな素人です。始めることで経験が生まれ、続けることで新たな発想が育まれます。このところ、実感していることです。
記者時代から、不思議なことに仕事でお金を貰っているという実感はありませんでした。自分のやりたいことをさせてもらって生活が成り立っていたのですから 幸せなことでした。今もその続きで生きているような気がします。炭を焼いたり売ったり、山菜を採って売ったり、さらに夜学校で自分の話を聞いて貰っていま す。そんな延長上に、多少の「いただき」を得ることになってきました。その多少の「いただき」は決して仕事の対価でないのが面白いです。
ここ数日感じていることは手の指が少しずつ太くなってきたことです。
まだ成長しているんですな。

昨日、子供のアメリカでころ口ずさんでいたBimboという歌を思い出しました。たぶん60年近く経っていますが、急に思い起こされました。ネットで検索したらその歌がutubeにありました。
https://www.youtube.com/watch?v=8acGK5lPhzA

2004年09月11日(土)萬晩報主宰 伴 武澄

 志摩半島のとったんに国崎という漁村がある。紀伊半島のでっぱりのいちばん東にあたる地で「くざき」と呼ぶ。この地名を目にしたとき、大分県の国東半島と思い出した。国東半島もまた九州のいちばん東のでっぱりだった。こちらは「くにさき」と読む。古来こうやって地名の名付けが行われたのか思うと、少々感慨をもよおさざるを得ない。

 その国崎にはぐうぜんたどり着いた。週末を鳥羽のホテルで過ごそうと大阪の飲み屋「かぼちゃ」の仲間が言い出し、7人で一晩温泉を楽しみ、さて翌日何をして過ごそうかと迷ったとき、国崎というところでアワビの神宮奉納祭があると聞いた。海女たちが見られると思い、みなに提案した。

 奉納祭は「御潜(みかづき)神事」といい、年に一度、伊勢神宮に熨斗アワビを奉納する祭事である。国崎には海士潜女神社があり、その宮司がこの祭事を司る。近くには、神宮司庁所管の「御料鰒調整所」もあり、地元の人の手により熨斗アワビがつくられ続けている。

 その昔、天照大神(あまてらすおおみかみ)の安住の地を伊勢に求めたという倭姫(やまとひめ)が国崎に来た際に、「おべん」という海女が差し上げたアワビをとても喜び、伊勢神宮に神饌(しんせん)として奉納するよう求めたという伝承に基づくものだから、歴史は古い。

5月1日(金)午後7-8時
はりまや橋商店街・魚の棚南詰の空き店舗
講師:伴 武澄

 高知では神社の境内に繁るクスノキは江戸末期から大正年間にかけて日本の主力産品だった。絹は女性のストッキングが最大の用途だったが、クスノキの場合、精製して生まれる樟脳が防虫剤として重宝された。そこへ一つの発明が起きた。樟脳からプラスチックが生み出されたのだった。セルロイドである。
 セルロイドに着目したのはコダックだった。ガラス板の代わりにセルロイドの樹脂に銀の粒子を塗れば、写真機が小型化できる。35mmフィルムの誕生である。フィルムの応用を考えたのがエジソン。映画の始まりである。

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