パラオ恋しや-戦陣に在った私の青春(その3)

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1999年04月02日(金)
 元中国公使 伴 正一
   
 第九  戦い敗る
 焦燥


 それから1時間、2時間「どうも様子がおかしいぞ」ということになります。第一次攻撃隊の戦果が判明していい時刻なのに、入電なし。
 敵空母は沈めなくていい、甲板を使えなくすればいい。知りたいのはそこなのにウンともスンとも言ってこない。

 そうこうしている中にこちらの方に被害が出て参ります。視認距離にある空母祥鶴から黒煙が上がる。旗艦大鳳の沈没したことがわかる......というわけであります。

 第一次攻撃隊の報告がないということは、攻撃失敗と断ずべきなのですが、そう考えたくないからでしょう。「どうもおかしい」で頭の働きが止まっている。
 ついさっきまで、この1年半の頽勢挽回に気負い立っていた我々にしてみれば、戦場心理として無理からぬことで、このときのいたたまれぬ気持ちは生涯を通じ比べるものがありません。

 万事休す

 そうこうしている中に、一次も二次も攻撃は失敗に終ったことが判明、翌20日夕刻近くの邀撃戦が終る頃には艦隊空母機のほとんどはマリアナ海域の空に散っていたのであります。

 やがて水上部隊を挙げて敵機動部隊に突入、夜戦を決行することが全軍に布告されます。

 「勝負はついた。あとは帝国海軍の死に花を咲かすのみ」というあたりが、ひょっとしたら小沢第一機動艦隊司令長官の秘められた胸の中だったのではないでしょうか。

 満天の星の下、旗甲板で涼みがてらについうとうとしていた私......。

 それがどれくらい経ったでしょうか、ふと目が覚めると南十字星が逆さになっているではありませんか。

 ちょうど横にいた後宮水雷長にききました。

  「どうしたんですか」
  「柱島から、再起を期して沖縄中城湾に帰投すべし
  と言ってきてなあ。夜戦決行は取りやめだよ」

 気が抜けたというのでしょうか、「もう少し生きるのか」という気持ちもあるにはありましたが、考えることなど何もできないで美しい夜空を見ていただけだったように思います。

 退き潮

 一夜が明けます。

 航空戦力をなくして機動部隊の実を失ったとはいえ、水上部隊としての大艦隊はなお無傷のまま、針路を北へ、静かな航海を続けて行きます。

 要衝サイパンの運命は決まった。サイパンと共に、広ぼう果てしない西太平洋の制空、制海権が一挙に敵の手に落ちる。

 次はもう真っ直ぐに朝鮮海峡ではないか。すっかり明治に戻ってしまうではないか。

 しかもその退き潮の、何と無残に急なことよ......

 20になったばかりの私が、祖国の命運を体で感じる初の、しかも生涯で最も衝撃的な体験でありました。

 万事休すであります。降伏が考えられない当時の私に思い浮かぶことは、栄光の滅亡でしかありません。最後まで勇敢に戦って、桜の散るように美しく。努力目標はもうそれしかありませんでした。

 東条幕府を倒せ

 沖縄中城湾で仮泊の後、瀬戸内海の柱島へ。霜月はそれから、戦況奏上に参内する豊田連合艦隊司令長官坐乗の大淀を護衛して横須賀に向かいます。

 横須賀で上陸を許された私はその足で、経理学校時代に商法を教わった石井照久先生を訪ねます。いったい日本はどうなるのかお話を聴きたかったからです。

 すると生徒時代に受けた温厚な印象とは打って変わった興奮の面持ち。そして「東条を倒さなければいけません」と語気を強められるのです。

 「太平洋の制海権が危なくなっているのに、飛行機の資材配分は陸海軍半々です。こんなとき陸軍に我慢させるくらいの決断ができなくて内閣総理大臣が勤まりますか」

 最近の内閣の公共事業費配分そっくりですね。政治家に決断力がなくなったのは平成の今に始まったことではない。昭和のかなり前から、あの国家存亡の時にさへこの体たらくだったのです。維新直後のあの決断力はどこへ行ったのでしょうか。

 その時、もう一人海軍技術大尉の方を訪ねましたが、ここでもえらいことになっていました。「実は、島田海軍大臣の暗殺計画を練っているんです。東条の言うなりでは国が滅びる。東条の言いなりになっている島田をまず殺さなくては......」という話を聞かされるのです。

 艦への帰艦時間がなかったら、私も血の気の多い方でしたから「仲間に入れて下さい」と言い出していたかもしれません。

 幕府さながらで倒す手立てがないとまで言われた、さしもの東条内閣もその後間もなく総辞職、島田海軍大臣の暗殺計画はどうなりましたか。

 第十  戦争収拾
 打つ手なし


 マリアナ沖海戦の後、まだ日本に勝算があると思っている者は、恐らく全艦隊中に一人もいなかったと思います。それくらいのことは当然、大本営特に海軍上層部には分かっていたに違いありません。

 内閣の更迭もあり、戦争収拾に動く重要な節目ではなかったでしょうか。
 陸軍はインパールで作戦部隊が壊滅していました。
 だが、当時そのような動きがあったのかどうか。

 チャーチルが連合国側の主導権を握ってでもいたら話は別だったでしょうが、無条件降伏一点張りのルーズベルトが主役では、たとえ仲介役にふさわしい国があったとしても、こちらから和平工作の手が打てるような状況ではなかったように思われます。

 日露戦争の時のように事が運ぶ客観情勢は全くありませんでした。

 更にもっと日本にとって不幸だったのは、政治の中枢に明治時代の外交感覚が全く欠如していたことです。

 天晴れ日清戦争の幕引き

 戦争の収拾について、最近読んで感心させられたのは日清戦争の収拾です。
 旅順を落した山県有朋は一気に北京を突こうとするのですが、大本営の中に強引に割り込んできていた内閣総理大臣伊藤博文は「絶対にまかりならん」と強硬な反対論を展開します。

   「いま北京を攻略して清朝が滅びでもしたらどう
   するんだ。誰を相手にこの戦争を収拾するんだ」

というのが伊藤の論拠です。

 列強が鵜の目鷹の目で見ており、どんな干渉が入るか分からない。そんなときに、あくまで清朝を戦争収拾の相手と見定め、勝ち戦さで鼻息の荒い軍を制止したシビリアン伊藤の指導力は、絶妙というほかはありません。そのお蔭で、日清戦争では泥沼に入らすに済んだわけです。

 日露戦争の収拾も見事

 次の日露戦争では、もっと複雑な状況がありました。その中で何とも感動的なのは、満州派遣軍で参謀長の要職にあった児玉源太郎が、奉天(現在の瀋陽)大会戦の後、素早く東京に戻ってきて「もう続かん。万難を排して戦争を収拾してくれ」と政府に訴えたことです。

 奉天の戦いでは、こちらが勝っていながら、敗走する何万というロシア兵に向かって撃つ弾丸がなくなっていたと言われます。日本の戦力がぎりぎりの限界点に来ているのが児玉源太郎の目の前にさらけ出されている。

 その緊迫した一瞬を押さえる機敏さ、聡明さが日本政府にも軍人側にもあったということが素晴らしいではありませんか。

 見劣りのする昭和の国家運営

 それでは昭和日本はどうだったかといいますと、日支事変の場合、始まって一年も経たないうちに近衛内閣は「蒋介石を相手にせず」という声明を出してしまいます。

 ここが日清戦争とは大違いのところです。

 あの広い中国大陸で蒋介石を相手にしなかったら誰を相手にするのですか。汪精衛を担ぎ出して南京政府を作らせるのですが、これは小細工の域を出ません。

 こうして日支事変はすっかり泥沼に足を突っ込んでしまうのです。

 南仏印進駐だって迂闊な話でした。それが日本の命取り、アメリカの対日石油禁輸につながろうなどとは夢にも思わず、近衛首相も後になって事の重大さに驚いたというのですから話になりません。

 戦後の極東軍事法廷でインドのパル判事は

   「あんな締め付け(対日禁輸やハル・ノート)に遭えば、
   ミラノのような小国だって立ち上がったであろう」

と日本の開戦行動を弁護してくれましたが、そのきっかけが南仏印進駐にあったとすれば、その軽率さは、国家、国民に対して罪万死に値すると言わなくてはなりません。

 第十一  嗚呼、分水嶺
 戦争を避け難いものにした運命の分岐点


 アメリカとの戦争は、ある段階からは何をやっても阻止できなかったのかもしれません。

 もう少し早く手を打つべきだったと言っても、どの時点でどういう手を、というところまで踏み込まないとまともな論議にはなりません。

 そこで、それに該当しそうな時点は何時かを突き詰めて考えておりますと、どうも第一次大戦中の対中国21カ条要求にまでは遡らなくてはならないように思えるのであります。あるいはもっと前に運命の岐路、東アジア史の一大分水嶺があったとも考えられなくはありません。

 太平洋を挟む二大勢力の登場

 アメリカ、ドイツ、イタリアの三国は、日本の明治維新とほぼ時を同じくして、世界の主要国に列する体制固めを成し遂げます。アメリカは南北戦争の収拾で難局を克服、ドイツはビスマルクの登場でドイツ帝国を形成、イタリアが統一国家になるのもこの時期で、いずれも19世紀後半の出来事です。ヨーロッパに二つ、太平洋に二つの強国が誕生したわけであります。

 その中で、ドイツとイタリアが帝国主義の戦列に加わるのは、何となく分かるような気がするのですが、日本とアメリカの場合は分かりにくい。

 アメリカは19世紀末ハワイ王国を併合、米西戦争ではスペインからフィリピンを割譲させています。

 日露戦争の講和で仲介の労を取ってくれてはいますが、それはそれ、アメリカはフィリピンまで出てきておいて、その上になんでアジアの大陸部分(満州)にまで手を伸ばそうとするのだ。欲張り過ぎではないか、と小村寿太郎あたりが考えたとしても不思議ではありません。

 ポーツマス条約締結に関連してアメリカが南満州鉄道の共同経営を申し入れてきたとき、日本はもう少しのところでそれを受け入れるところだったのですが小村の反対でご破算になります。

 実はここらあたりから、極東における日米の利害が対立し始めるのです。日本の帝国主義化と目されるようになった、アジアでの権益拡大がアメリカの不快感を増幅させるという構図が定着していくのです。

 両雄並び立たず

 日露戦争直後の時点でもし日本が、朝鮮半島を確保できたのだから満州は独占しなくてもいいという発想に立っていれば、それ以降の日米関係はすっかり違ったものになっていたかも知れません。

 いまいましい話ではありましょうが、満州の経営についてアメリカに片棒を担がせてさえいれば、同じアングロサクソンの手前、英国も満州のことにそれほど口を挟むのを控えたでしょうし、ロシアもそう易々とは手を出せなかったに違いありません。そのような安定した国際関係を築くことができていたら、アジア太平洋地域であんな大きな戦争が起こる可能性はずっと少ないものになっていたのではないでしょうか。

 しかし、日本はアメリカを満州経営から完全に閉め出してしまった。それ以降日米両国は海軍力の増強を競い、太平洋の覇権をめぐって、両雄並び立たずとも言うべき、誠に不幸な対立基調にはまり込んで行くのでありまして、こういう枠組みが出来上ってしまった以上、日米関係は、いづれいつの日か雌雄を決しなくてはならない宿命の下にあったということができるのかも知れません。

 分水嶺の課題はこんな雑駁な話ではとても済まされないアジア史の大課題でありまして、只今申し述べましたところは序の口にもならない内容のものでありますが、私のひとつの思い付きとして、頭の隅においていただければ幸いに存ずる次第であります。(完)

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このページは、伴 武澄が2015年4月 7日 07:13に書いたブログ記事です。

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